王国歴790年
マリーとの修行の成果か、私の研究はほぼ完成の域に達しかけている、と言っても過言ではなかった。
魔力による錬成であの頃の親方に勝るとも劣らない武具を作り出すことにも成功していた。
全てはマリーのおかげである。
彼女には感謝してもし切れない。
まぁ、その分彼女はやってくる度にトラブルをまき散らしてはいたが。
――いいですこと?人間たちなどは、魔力を生成できるのは神の子らである自分たちの魂だけだ、などど嘯いていますけれど、あたくしたちからすればちゃんちゃらおかしいですわね。
彼女はよくそう言っていた。
――魔力、というのが魂の力であることは間違ってはいないのですけれど、それが自分たちにしか使いこなせないだなんて思い上がるのはとんだ僧上慢なのだわ。
彼女いわく、この世に存在する全て物には魂があり、魂の力たる魔力を宿している。
しかし、その魔力を練り込んで“術”としてまで昇華させるためには、少なくとも人間程度の知能が必要なのだという。
そして、その存在密度が高ければ高いほど魂が生成する魔力の量も多くなるのだそうだ。
どうりで、龍となったこの身体には溢れんばかりの魔力が宿っているはずだ。
私のミス。
それは、私が魔力を与えて錬成しようとした物にも、魂が宿っており、魔力がある、ということを計算に入れていなかったことにある。
遠く海の向こうにある国では、全ての物には神が宿っているなどと信仰している国もあるらしいが、その思想性に近く、あらゆる物にも歴史があり、歴史に見合うだけの魂があるのである。
その魂を無視してこちらから一方的に魔力を流すだけでは、いずれ反発が起き、存在そのものたる魂が崩壊してしまい、腐り、崩れてしまう。
そのことに、私は気付いていなかったのだ。
――だから、貴方の試みはとても興味深いものではあるのだけれど、もしこれ以上の領域に進みたいのであれば、相手側の魔力にも考慮することですわ。相手を気遣わない一方的な愛撫ではとてもじゃないけれど愛を感じませんもの。
私は彼女の忠告を忠実に守り、繊細な魔力のコントロールを要求される新しい錬成に着手した。
そして10年。
私は魔力操作のコツを掴み、とうとう当初の目標たる自らの剣を錬成することに成功したのだった。
マリーなんかは、身体が大きい割に細かい作業が得意ですのね、などと笑っていたが。
しかし。
しかし私は、この研究が完成してしまったのであれば、何を糧にして生きていけばいいのだろうか?
この、いつ終わるとも知れない、魂の牢獄で。
※※※※
ここ1年近く、カトレアの姿を見ていない。
数ヶ月連絡がなかったことなら過去何度もあったのだが、1年近くも音沙汰がないのは初めてかも知れない。
心配である。
彼女の身に何か起きたのでなければいいのだが。
“…む?”
飽きもせず、剣の錬成に取りかかっていた私の耳は、今正に思いを巡らしていたカトレアの足音を捉えた。
迷宮をまっすぐにこちらへ向かって来ているようだ。
“無事だったのか…。しかし、これは?”
よく聞いてみると、彼女の足音ともう一つ、聞き慣れない足音が彼女と共にこちらへと向かって来ているのが分かる。
誰であろうか。
この場所を訪れる客など、彼女を除いては力試しに来る武芸者か、他にはマリーくらいのものだったが、マリーであるならば私に接近を感じさせるようなヘマをしないであろうし、カトレアが武芸者と共に来るとも考えにくい。
と、いうことは。
“やれやれ。今度のお土産は今までにも増して珍品中の珍品らしいな”
などという私の予測はしかし、全くもって甘いものだったのである。
「やっほー、クロール!久しぶりー!」
そんな快活な挨拶と共に現れたのは、いつもと変わらず、しかし以前と比べて年を感じさせる程度には老いてしまったカトレアであった。
もっとも、彼女の美しさはそれによってくすむことはなかったが。
相変わらず、ぱっと見は年齢不詳に見えるのだから恐ろしい。
“久しぶり、ではないよ、カトレア。私がこの1年間どれだけ心配したと思っているんだ?”
「ごめんごめん。ちょっと大きなヤマに巻き込まれちゃっててね。連絡を取ろうとも思っていたんだけど、ほら、あなたのところって手紙も届かないじゃない」
“む、まぁ、それはそうだが…”
カトレアの言葉に、ばつが悪そうに応える。
「ふふっ。なあに、クロールったら。そんなに私がいなくて寂しかったの?」
嬉しそうに笑い出すカトレアに誤魔化すべく、私は話題を変えた。
“んんっ、まぁそれはともかく。先ほどから気になっていたのだが、君の後ろにいるその子供は誰だ?”
「ああ、これ?」
そう言って、カトレアは彼女の後ろに隠れていた子供を前に出す。
黒いローブを顔が見えない程すっぽりと被り、俯いているその子供は、恐らく先ほど私が感知したもう一つの足音の持ち主なのだろうが。
「ほら、何をしているの。きちんと挨拶なさい」
促すように子供の頭に手を乗せた。
カトレアに促されてか、その子供は私の方へとチラリと目線を向けて。
「……これが、お母様が仰っていた龍なのですか?」
微かに聞こえる程度に、ポツリと呟いた。
その声は澄んだ綺麗なソプラノであったが、いや、しかし、そんなことはともかく。
“………………お母様、だって?”
私は子供の方に向けていた目線をゆっくりとカトレアの方に向ける。
“………カトレアさん?”
「ふっふっふ。さすがのクロールも驚いたでしょう?この子はね、私の娘よ!」
カトレアは何故か自慢げに胸を張ってそう宣言した。
“………な、え、ああ?”
いや、確かに、彼女は美しい女性なのであるから外の男どもが放っておかないだろうし、それにもう妙齢なのだから、結婚もして、子供がいてもおかしくない訳で、事実私は何度かこんなところでブラブラ遊んでいないで結婚相手でも見つけたらどうだと苦言を呈したこともあるが、それにしたって、子供だって?
“……えっと、いや、この場合、おめでとう?でいいのか?…いや、しかし、だって、ええ?”
と言うか私は何故こんなにもショックを受けているのだ?
“その、ち、父親は誰なんだ?私が人となりを見極めてやるから、ここに連れて来なさい!”
とうとうどこぞの頑固親父のようなことまで口走ってしまう始末である。
我ながら何を言っているのやら。
「んふっ、さーて、誰でしょう?少なくともあなたじゃあないわよねぇ」
“ぐ、いや、それはそうだろうが…”
「んふふふっ、ねえ、クロール。妬ける?妬けるわよね?と言うか妬いているんでしょう!」
わーい、と何故か喜び出すカトレア。
確かに、私は妬いているのかもしれないし、何だか非常に面白くもなかったが、このままカトレアに言い負かされっ放しなのも癪である。
“………あー、カトレアさん。その笑い方は直した方がいいと思うぞ。何だか最近マリーに感化されたのか、似てきているから”
ピキッ。
そんな音が聞こえそうなくらい、カトレアの笑顔が止まる。
効果は抜群だ。
「なんですってぇっ!私の方が遙かに気品溢れる淑女臭が出まくりで、あんのエセ貴婦人気取りのエロ娘と似ている訳ないじゃないっ!」
さっきまでの上機嫌はどこへやら、あっという間に噴火して怒鳴り始めるカトレアであった。
最近年を取って少し落ち着きが見えてきたかな、などと思っていたのだが、そんなことはなく、相も変わらず沸点が低い奴だ。
まあ、そこが可愛いところなのだが。
と言うか淑女臭って何だ?
「まったくもうっ。…まぁ、いいわよ。確かに私も冗談が過ぎたようだし」
嘆息して息を落ち着ける。
その間くだんの子供は私たちの様子を興味深そうに眺めていた。
「そんなに心配しなくても、この子は私の娘だけど、別に私が産んだ訳じゃないわよ。と言うかぶっちゃけ、私は……その、まだ、……しょ………だし」
後半は顔を真っ赤にして小さくモゴモゴ言っていたのでよく聞き取れなかったが、しかし、そうか、本当の娘という訳ではないのか。
よくよく考えれば当たり前の話で、カトレアは去年までは変わらずここに脳天気な顔をしながら入り浸っていた訳だし、隠し子、ということでもない限りこんな大きな子供が急に出来る訳がないのであった。
“だがしかし、だとするとその子は君の養子にでもしたのか?”
「んー、まぁ、そのようなものなのだけれど、最初に事情を説明するよりは、まずは見てもらったほうが早いわね」
そう言って、カトレアは子供にフードを取るように促した。
「…お母様?」
子供は心配そうにカトレアを見つめ返すが、彼女が力強く頷いたのを見て、決心したのか、小さな手を握りしめた後、おもむろにそのフードを取り払った。
フードの下から出てきた顔は、10歳くらいの小さな女の子の顔だったが、その顔立ちは恐ろしいまでに整ったものであり、深い青色の瞳と、短く切り揃えられた空色の髪が印象的だった。
しかし、彼女の顔で、最も目を引いたのは、その肌の所々にまるで爬虫類のような鱗が生えていた点にあった。
“……これは……”
私の不躾な視線を受けて、子供は嫌がるようにカトレアの後ろに隠れる。
「大丈夫よ。怖がることなんてないわ。クロールはあそこの連中とは違って優しいもの」
子供の頭を優しく撫でた後、私に向かって言う。
「この子はね、“ドラゴンハーフ”って、呼ばれていたの」
“ドラゴンハーフ?”
そんな単語は全く聞いたことがないが、しかし。
「トレンディアとノッドラートの国境線沿いにある、深い森の中の湖に住む水龍の話は知ってる?」
“ああ、知っている。10年以上も前に、殺されたと聞いたが…”
「この子はね、その水龍の子供なのよ」
“!?”
そう言って子供の頭を撫でるカトレアは、何故か悲しそうな表情をした。
※※※※
――ここ最近、ノッドラートの魔法兵が各地の村に現れては、誘拐や略奪を繰り返しているって話をギルドで聞いてね。その調査に参加していたのよ、私。
――トレンディアの政府は、ノッドラートとの外交に軋轢が生じるのが嫌なのか、それとも辺境の村で起きた小さな事件には興味がなかったのか、調査自体に乗り気じゃなくてね。私だとか古参の冒険者達で作ったチームで村を巡っては話を聞いて回ったの。
――それでね、どうもノッドラートの連中はここトレンディアだけでなく、大陸各地の古い伝承を収集しているらしいってことが判明した訳。その目的までは分からなかったけれど。
――どうもきな臭い匂いを感じたから、私たちはノッドラートの首都にまで行って、そこで情報収集をしていたんだけれど、そんな中ノッドラートの王立魔導院なんて胡散臭い機関の存在を突き止めてね。どうやらそこが主導となって各地での伝承集めを行っているらしいってことが分かったのよ。
――その後は、まあ、色々と何やかんやとあって、私の輝かしき武勇伝は後でたっぷりと聞かせるとしても、その魔導院とやらに潜入した私たちは、そこで彼らが非道な人体実験を行っている様子を見たの。各地で攫ってきた人たちはこのために使われていたのね。
――その中でも、最も吐き気を催す実験をされていたのが、この子なのよ。死んだ水龍の組織から採取した体細胞を、まだ母親の胎内から産まれていない胎児と魔力を通じて錬成する。つまり、人と龍のハーフを人工的に作ったらしいのよ、彼らは。
――そうして産まれたこの子は、以後10年間近く、その魔導院で監禁されたまま色んな人体実験に使われていたらしいわ。それでね、私頭に来ちゃって。そこで色々暴れ回ったあげく、彼女を連れて逃げて来たって訳なの。
※※※※
などと、カトレアは冒険活劇調にこの子供の事情を語ってくれた訳だが、その口調に似合わないなかなかにヘビーな事情であった。
と言うか色々暴れたって、何をしてきたんだ、カトレア。
「いやー、あははは。そのせいか、私、ノッドラートでは懸賞金付きの指名手配犯になっちゃってさー」
“なんですと!?”
笑い話ではない。
「向こうも向こうでこの子を取り返そうとしつこく追っ手を出してくるし、私も私でお尋ね者だしね、このままじゃ危ないと思って、ここに連れて来たの」
“連れて来たの、ってそんな明るい顔で言われてもだな、カトレア”
「だって、ここなら実質王国一安全な場所でしょう?それに、あなたがいるもの」
そう言って笑いながら話す彼女に、私は今まで逆らえたことがない。
“……ふぅっ、仕方ないな。その子をここで匿えと言うんだろう?”
「その通りよ、クロール」
私が断るとは微塵も疑っていない笑顔で頷く。
「それに私、これから色々後始末で忙しくなりそうなのよね。さすがにその子を連れたままドンパチやる訳にもいかないじゃない」
カトレアはその場でしゃがみ込み、その子の目線に合わせて話しかける。
「ねえ、お母様はちょっとこれから行くところがあるから、ここで大人しく留守番しているのよ」
お母様、って、絶対そう呼ばせたのはカトレア本人に違いない。
「はい。分かりました、お母様」
子供は彼女の言葉に素直に頷いた。
「それに、ここにいればお父様があなたのことを守ってくれるから安心よ」
“……誰がお父様だ、誰が”
「あら、あなたに決まっているじゃない、クロール!」
何がどう決まっているのやら。
「さて、と。私はそろそろ行かなくっちゃ」
そう言って立ち上がり、カトレアは名残惜しそうに子供を一瞬抱きしめた。
それから、私の顔に近づき、同じように私の鼻先を抱きしめて、固い鱗にキスをする。
“なんだ、もう行くのか?せわしないことだな”
「私だって、1年ぶりにあなたに会ったんだもの。もっとイチャついていたかったわよ、そりゃ。でも、色々と忙しいのは、悲しいことに本当なのよねぇ」
私の顔からそっと離れて、イヤだイヤだと頭を振る。
“そうか。何か私に手伝えることがあればいいのだが”
「あははっ、大丈夫。私がいない間にその子の面倒を見てくれれば、それで充分よ」
まあ、確かに私はこの地龍の巣から一歩も出られない身だからな…。
「あ、そうそう。その子にはまだ名前を付けてないのよ。向こうじゃ嫌な実験番号でしか呼ばれていなかったし」
今、思い出した、とこちらを向く。
“そうなのか?君のことだから、さっさと付けているものだが思っていたが”
「だって、やっぱり父親の意見も聞きたいじゃない?」
いや、その理屈はおかしい。
“……私は別にその子の父親ではないが、しかし、私が付けてもいいのか?”
「ええ、あなたとの最初の子供の名前はあなたに付けてもらおうって決めていたから」
幸せそうに笑って言っているが、だから私の子供ではないからな、カトレア。
と言うか勝手にそんなことを決めていたのか。
“……まぁ、付けろというのなら、考えてみるが”
何かヒントでもないものかと子供に目を向けたところ、露骨に目を反らされた。
微妙にショックである。
しかし、特徴的なのはやはり彼女の青色の瞳だろうか。
だったら、青にちなんでサファイアとか…。いや、しかし、ありきたりすぎて面白味に欠けるか?
“うーむ”
いこごち悪そうに立っている彼女の横で、何が嬉しいのかカトレアはニコニコ笑っている。
しかし。
そうか、この子は彼女の娘だったな。
だったら…。
“…よし、ならば、ルビー、というのはどうだろうか?”
「ルビー?」
“ああ、私が最も好きな宝石の一つで、君に最も似合う宝石の一つだ”
赤が似合う麗しの才女、カトレア。
「そうねー。…青い瞳のルビーちゃんか。うん、悪くないわね」
うん決まり、と一つ頷いて再び子供の頭に手を乗せる。
「それじゃあ、ルビー。いい子でお留守番しているのよ。お母様は少しでかけてくるから」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ、お母様」
無表情のまま、ペコリとお辞儀をするルビーを、優しく見つめるカトレア。
こうして見ると、なるほど確かに、二人は母娘に見えるから不思議であった。
※※※※
“やれやれ、いくつになっても嵐のようにやって来ては嵐のように去っていくやつだ”
カトレアが去った後、地龍の巣に残されたのは私と目の前で無表情に佇むルビーだけである。
その深い海のように澄んだ瞳からは彼女が何を考えているのか全く読み取れない。
が、ここで一緒に生活していく以上、このまま放置しておく訳にもいくまい。
“……さて、と。とりあえず、ルビー、こちらにおいで。ここの案内をしてやろう”
カトレアのために作った居住スペースは日々進化を遂げており、なかなかの快適空間へとなっていたのであった。
と言うかむしろ、彼女はもうここに住んでいる、と言っても過言ではなかった。
住所:ストント山の廃鉱山内にある地龍の巣。
なかなかにシュールである。
などと益体もないことを考えていた私に対し、ルビーはちらりと目線を向けた後、無表情のままで言い放った。
「………気安く私に話しかけないでください。あなたのことが大嫌いです」
“…ぐっ”
私は別に人付き合いに頓着する方ではないのだが、それにしても可憐な少女に冷たい声でこうも言われるとそれなりに傷付くのであった。
“…なぜだ、私が何かしたかね?”
「………私は龍が嫌いです。大嫌いです。人間も同じく嫌いです。大嫌いです。だからあなたも嫌いです。大嫌いです」
こうも嫌い嫌いと言われ続けると、嫌いという言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ…。
「だけど、お母様は好きです。お母様だけは大好きです」
“………ふむ”
彼女のこの極端な考え方はその生い立ちが関係していそうではあるが、まあ、現時点でズカズカと私が立ち入るような事情でもあるまい。
「お母様がここにいなさいと仰ったから、ここにいます。だけどあなたは私に話しかけないでください。不愉快です。嫌いです」
しかし、まあ。
“好きにするといい。ここは既にお前の家だ。ここにいる限りお前の身の安全は保証しよう”
時間はいくらでもある。
私は、人の問題を時間が解決してくれることもある、ということを知っている。
それに、彼女がカトレアの娘であるというのなら。
私にとって彼女は――。
こうして私とルビーの奇妙な共同生活が始まった。
最初に宣言した通り、彼女は私がいくら話しかけてもほとんど反応することなく黙殺し、しつこく話しかけるとたまに、あの「嫌いです」を無表情に言い放つのみであった。
そんな彼女が日がな何をしているかというと、一日中地龍の巣の中央にある地下水でできた泉をぼーっと眺めているのみであった。
時折、カトレアが恋しいのか地龍の巣の入り口付近をフラフラしていることもあったが。
そういう私は、研究もほとんど完成してしまい、さらなる練達を目指して魔術錬成の腕を磨く、という気分にもなれなかったので、戯れに実用性皆無な変梃な武具を錬成したり、不思議な香りを漂わせる奇妙な果実を錬成したりしていた。
そんな私を、ルビーはたまに興味深そうな瞳で観察していることもあったが、私がそちらに目を向けると急いで目を反らし、またあの無表情に戻るのであった。
そうして1週間が過ぎ、数週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎても、カトレアは戻ることはなく、数ヶ月が過ぎた頃にはルビーはますます口数が減り、中央の泉を眺めている時間が増えていった。
そんな様子を見ていると。
彼女は、やはり――。
“そうやって一日中泉を眺めて、何か面白いものでも見えるのか?”
ある日、変わらず泉のほとりでしゃがみ込んで水面を眺めているルビーに、私は話しかけていた。
「………」
“そうやって水面をずっと眺めていると、しまいには水の中に吸い込まれてしまうぞ。などと、私の小さい頃は大人に脅されたりしたもんだがね”
彼女の瞳の青色は、泉の青より深く、逆に吸い込んでしまいそうだった。
“しかし、まあ、ここの水は綺麗だからな。綺麗過ぎて生き物が住めないくらいだから、そうして眺め続けていたくなる気持ちも分かるがね”
「………話しかけないでください。あなたが嫌いです」
無表情のまま、ポツリ、と呟く。
“ふむ。いつもより声に鋭さがないじゃないか。元気がないようにも見えるが、何か心配事でもあるのか?”
私は一歩彼女に近づく。それだけで、大きな私の巨体が泉の澄んだ水面いっぱいに映り込み、それまで水面に映っていた彼女の消沈した顔はかき消えてしまった。
「あなたには関係ありません。あなたが嫌いです」
その嫌いです、というのは実は新しい語尾が何かなのか、ひょっとして。
“ふむ。まぁ、お前が何を考えているのか、私には大体分かるがね。こう見えても私は龍だ。龍は古来より賢者として伝えられてきたのだ”
「………」
うむ、反応なし。しかし、まあ、ルビーはきっと。
“大方、ひょっとしてカトレアに捨てられてしまったのでは、などとつまらんことを気にしているんだろう?”
「っ」
そこで初めて、彼女はこちらを見て、あの無表情以外の表情を見せた。
存外、ルビーと名付けたのは正しかったのかもしれない。
その深い青色の瞳から感じるのは、静謐、ではなく、燃えるような怒りだ。
怒った時のカトレアと同じように。
「………お母様は私を見捨てたりはしない。私はお母様が大好き。でもあなたは嫌い。龍も嫌い。人間も嫌い」
挑むように言うルビー。
“そうだとも。分かっているじゃないか、ルビー。カトレアは君を見捨てたりはしないさ。する筈がない。あれは、ああ見えて情が深い女なんだ。執念深い、と言ってもいいかもしれないがね”
「お母様は、私を置いて行ったりはしない」
“しないだろうさ。しかし、それなのに何故お前はそんなに不安そうなのだ?”
「っ!」
怯えるように、私から目を反らす。
それは恐怖からではなく――。
“私は、カトレアがお前を見捨てることなどないと確信している。だから、彼女が数ヶ月音沙汰なかったとしても、それで心配することはない。身体の心配ならするかもしれないが、不安になることはないな”
「私だって…っ」
俯いたまま再び水面へと目線を移す。
そんなルビーに対し、私は顔を近づける。
それこそ、息がかかる程に。
“いや、お前は心のどこかでカトレアのことを信用し切れていないのではないかね?”
「そんなことはないっ。私はお母様が好き。あなたは嫌い。嫌い。嫌い」
そのまま、嫌い、嫌いと水面に向かって呟き続ける。
“それだ。お前はことあるごとにお母様が好き、私が嫌いと口に出しているが、そうやって言葉に出して確認していないと、信じ切れないからじゃないのかね?”
「違うっ。嫌い。嫌い。嫌い嫌い嫌い」
“悪夢のような実験所から救い出してくれたカトレアのことを好きになりたい。だけど、彼女もいつかあの連中と同じようにひどいことをしてくるかもしれない。裏切るかもしれない。信じ切れない。心の奥底では、そう思っているんだろう?”
何も読み取ることができなかった彼女の深い瞳からは、様々な感情が読み取れるようになっていた。
まるで凪いでいた海が嵐になったかのように。
“私や人間をことあるごとに嫌いだと言うのも、好きになると、いつまたその相手に傷つけられるか怖くてしょうがないからじゃないのか?初めから嫌いになっていれば、少なくとも裏切られることはない。だが――”
「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!お前なんか大っ嫌いだ!」
彼女は最後に泣き叫ぶと、そのまま走り去っていってしまった。
“………やれやれ”
少し、大人気なかったかもしれないな。
しかし、まあ、荒療治が必要だったことは確かだし、これで、私にたとえそれがマイナスの感情でも無関心以外の感情を向けてくれるようになったのであれば、そこからならいくらでも仲良くなりようはある。
よく言われる話だが、好きの反対は嫌いではなく無関心だからな。
ルビーはそのまま地龍の巣から出て行ってしまったようだが、外の迷宮全てに私は魔力の網を巡らせてある。
彼女が迷子になることもないだろう。
“さて、彼女がお腹を空かせて帰ってきた時に備えて、とっておきのフルーツデザートでも作っておいてやるか”
などと、私の予測は全く持ってそのデザートよりも甘いものだったことをこの後すぐに知ることになる。
※※※※
「おい、お前さんがこの廃鉱山の主だな?」
あー、えーと。
私が人間であった頃ならば、きっと大量の汗を流していることだろう。
この展開は全く予想していなかった。
確かに、最近ここにやって来る者が激減して油断していたとは言え。
私は今、地龍の巣にて、5人の武装した荒くれ者達に囲まれていた。
見る限り、なかなか歴戦の戦士のようであり、少なくとも人間の世界で彼らに勝てる者を探すのは苦労することだろう。
だが、所詮は人間である。龍である私にとっては、たとえ歴戦の戦士が5人集まろうと苦戦することなどはない。
むしろそれよりも何よりも問題は、彼らの1人がルビーを後ろ手に縛って捕まえていることであった。
ルビーはぴくりとも動くことなく、彼らに従っている。
「この気味悪ぃガキは、お前さんの関係者なんだろう?迷宮を1人うろついていたのを見たとき、初めは魔物と間違えて斬り殺してしまうところだったぜ」
命拾いしたな。斬り殺していればその場でお前の命はなかったことだろう。
もっとも、どの道生きてここから帰す気はないが。
“いかにも私がここの主だが、お前たちの目的はなんだ?”
「ふん、当然お前さんをぶっ殺すことよ」
5人の内リーダー格らしき禿頭の男が答える。
“仮に私を殺したとしても、お前たちにそれに見合うだけの見返りがあるとは思えないが”
「そうでもないぜ。廃鉱山に巣くう人喰い龍を殺したとなれば、俺たちの名声も上がるってもんだし、あんたの身体に生えているその鱗。それを全部売り捌けばあっという間に俺たちは億万長者さ」
リーダーの声に同調して、周りの男達もニヤニヤと笑い始める。
“やれやれ。そんなことのために命を落とすのは存外つまらないとは思わないか?”
「んなこたぁねぇよ。たとえここで死ぬとしても、俺たちは戦場を戦場から渡り歩く傭兵団だ。いつだって命の保証なんざねぇんだよ。それでも、金と名声のためなら何だってやるのさ」
まぁ、確かに、私を前にして全く怯えの色を見せないのは大したものだが。
5人が5人ともそうなのだから、さぞかし屈強の傭兵団なのだろう。
「しかし、まぁ、何も俺たちは死にたい訳じゃあねぇんだ。命の保証ができればそれにこしたことはねぇ。そうだろう?」
そう言って、彼は脇に捕まえていたルビーを押し出すように前に出す。
そして彼女の首筋に剣を突きつける。
“………貴様”
「おっと、何かに使えれば儲けもんだと思っていたが、こいつぁビンゴかな?」
ニヤニヤと笑いながら首に当てた剣をゆらゆらと揺らす。
ルビーはそれに全く意に介さず、ここに初めて来た頃のように完全な無表情を浮かべている。
彼女の瞳の海は、嵐が去り凪いでいるらしい。
しかし、あれは――。
全てに諦めた顔だ。
私はあの顔をここで前にも見たことがある。
ルビーがここに来るよりずっと昔に。
“……それで、私にどうしろと言うんだ?”
「何もするな。何もせずに、俺たちになぶり殺されろ」
先程までの、人を小馬鹿にしたようにヘラヘラ笑いを止めて、静かな、それでいて良く通る声で男は言った。
“そんな要求に従うと思うか?”
「そうすりゃあ、このガキは生きてここから帰れる。俺たちも富と名誉の全てを得てここから帰れる。クロムフルの町を脅かしていた人喰い龍は死んで、町の人々も喜ぶ。万々歳だろ?」
“なるほど。なかなか素敵なハッピーエンドだな”
そして向こうに都合が良すぎて涙が出そうだ。
「…で?」
どうする、と言わんばかりに剣をさらに首へと近づける。
“分かった。好きにしろ”
「っ!」
そこで、初めて、ルビーが顔を上げてこちらを見た。
無表情ではなく、驚きの表情を見せて。
「話が分かるぜ、大将」
“だが、約束は守ってもらうぞ”
「ああ、俺たちは別に殺しがしたい訳じゃねぇ。こちらもプロだからな。目的が達成できれば、それでいい。このガキには手を出さねぇよ」
なるほど。その男の顔を見れば、確かに嘘を言っているようには見えない。
善人では決してないだろうが、別に悪人という訳でもないらしい。悪党ではあるようだが。
“いいだろう。だが私の鱗は固いぞ。抵抗しないとは言ったが、私を殺しきれずに無様に敗退などという結末は滑稽だぞ?”
「分かっているさ。おい、野郎ども」
リーダーの声を聞いて、男たちが各々の武器を構え始める。
なるほど。
確かに見事な武器だが、しかし、これは…。
“むう”
魔力付与武器、か。
通常の武具の精製時に、腕の良い魔術師に魔力を流し込めてもらいながら作ることによって、魔力を封じ込めた武具を作ることができるそうだ。
その調整には熟練どころの騒ぎではない腕とコンビネーションが必要だと聞く。
そうして作れた武具は、通常よりも優れた強度を発揮し、その威力は通常の武具をも遙かに上回ると聞いたことがある、が。
親方なんかは、邪道の武具だ、男なら自分の腕一本でいい武具を作れ、などと言っていたな、そう言えば。
しかし。
鉄よりも堅い強度を誇る私の鱗と言えども、同等かそれ以上の強度を誇る武具によって攻撃を加え続けられれば、耐えられるかどうかは不明である。
なるほど、確かに、向こうもプロだ。別に死にに来た訳ではないというのは本当らしいな。
「……どうして…?」
不思議でしょうがない、といった顔でルビーはこちらを見つめている。
だが、まぁ、理由なんて言わなくても分かってくれるものだと思っていたが、やはりまだコミュニケーションが足りなかったか。
ここ数ヶ月、頑張って話しかけたのになぁ。
“心配するな、ルビー。お前だけは必ず助けるとも”
「……私……は」
まあ、最後に彼女の笑顔を見ることが叶わなかったのは、心残りではあるが。
実は、密かな野望としていたのである。
きっと花が咲いたように可憐な笑顔であろう。
「おい、神に召される準備は済んだか?そろそろ行くぜ」
男は、捕らえていたルビーを隣の男に預けると、私に死刑を宣告するかの如くその剣をこちらに向けた。
“私に神などいないが、まぁ、好きにしろ”
「オオラアァッ!」
私の言葉を合図に、ルビーに剣を向けている男を除き彼らは各々の武器を奔らせながら私に襲いかかってきた。
“むぅっ!”
鈍い金属音が断続的に鳴り響くが、それと同時に、私はこの姿になってから久しく感じていなかった“痛み”を覚えた。
「おい、血だ!やれるぞ、俺たちっ!」
リーダーとは別の、髭を顎一杯に生やした戦士が喜びの声を上げる。
見ると、私の首の付け根にあった鱗の数枚に傷が入っており、そこからうっすらと血がにじみ出ていた。
やはり、相応の強度を持った武具を練達の戦士が扱えば、私の鱗を破ることも可能なのか。
一つ勉強になった。
出来ることなら、今後の課題にしたいところではあるが。
だが、まあ、それも。
「一気に押せぇっ!」
そのまま彼らは各自の武器を私の身体へ向けて振り下ろし始める。
“ぐ…む…っ”
痛みを堪えるべく、私は身体を縮め、翼で身体を覆うようにしてそのまましゃがみ込んだ。
彼らを殺すだけならば、私は瞬く間にそれをすることができた。
しかし、私の大きな牙は、鋭い爪は、ルビーだけを傷付けずにそれをやってのける程繊細ではなかったのである。
耐える他、ない。
まるである種の不気味な楽団の如く、鈍い金属音に男たちの怒声、そして血が飛び出る音のハーモニーが鳴り響く中、ルビーはただひたすらにこちらを見つめていた。
まるで不可解な出来事を目にしたかのように。
あの諦めの表情を見せながら。
いつだったか、ここに来て、私に殺して欲しいと頼んだカトレアを思い出す。
あの時の彼女と同じ、自分が救われるなんて、自分を救ってくれる人がいるなんて、まるで信じていない諦めた表情でこちらを見つめていた。
だけど――。
「……ど、どうして、ですか?あなたなら、こんな連中を倒すことぐらい…」
本当は、理由なんてお前にも分かっているんだろう、ルビー?
「どうして、私を助けたのですか…?私なんか放っておけば…」
分かっているはずだ。
「だって、私は…。私は、龍が嫌いです。人間も嫌いです。だから、あなただって…、あなただって…」
顔を俯け、力ない声で呟き始める。
“だって、なあ、ルビー。仕方ないだろう?私は、お前のことが好きだからな”
「っ!?」
信じられない、といった表情で顔をこちらに向ける。
ああ、そうしていれば、年相応に見えるぞ、ルビー。可愛いじゃないか。
“だって、お前はカトレアの娘な訳だし…”
それに。
“それに、私の娘だからな、ルビー”
「あぁっ…」
だから。なあ?
「ああああぁっ」
泣き止んで、笑っておくれ。
「あああああアアアアアアァァァッ!」
ルビーの叫びに呼応するかのように、瞬間、泉の水がまるで噴水のように沸き上がり水柱を作り上げた。
「な、なんだっ!?」
休まず私に攻撃をしてきていた男たちは、一瞬その手を止める。
そして、ルビーに剣を向けていた男も。
“おいおい、気を抜くなよ、戦士たち。その子は最後の水龍の血を引いて、この世で最も苛烈な冒険者の魂を受け継ぎ、そして、この私の娘なのだ。目を離すと、死ぬぞ”
「なぁっ!」
男が気付いた時にはもう遅かった。
再びルビーの首に剣を向けるより早く、沸き上がった水柱がまるで鋭い槍の如く細く連なり男に向かって幾重にも伸び始める!
「ぐはぁっ!」
水流は男を飲み込んで、そのまま土壁に叩き付けた。
流れ出た水しぶきがルビーに付き従う妖精のように、彼女の周りを浮遊している。
その様子は、さながらお伽噺に出てくる水の精霊ウィンディネである。
ルビー、お前は水龍の子だものな。
水の扱いはお手のものという訳か。
「な…ん、だとぉ?」
武器を私に向けるのを止め、ルビーの方を向く戦士たち。
しかし。
“私は、気を抜くなと言ったはずだが?”
「しまっ」
遅い。彼らが振り向くより先に、岩をも砕く私の尻尾を横殴りに彼らに叩き付ける。
そのまま4人それぞれを弾き飛ばし、私は咆吼をあげた。
“欲深き人間どもよ。神に召される準備はいいか?”
地面に倒れ伏して、絶望的な顔をしながらも、それでもまだ誰1人戦意を失っている様子がないのは、大したものだ。
しかし、残念ながら、滅殺である。
私の牙が、爪が、どれだけ容易く人間の身体を砕くことができるのか、思い知らせてくれよう!
「くそったれ…め。化け物が2匹もいやがったとは…、ついてねぇぜ」
よろめきながら立ち上がり、悪態を吐くリーダー。だが。
“化け物ではないさ、私の自慢の娘だ”
※※※※
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
あの後、戦士たちを皆殺しにしてから、ルビーを気遣おうと近づいた途端、大泣きされてしまった。
私は彼女の笑顔が見たくて頑張った訳だが、いやはや、全く。
“分かったから、そう泣いてくれるな。私は女の泣き顔にどうも弱いのだ”
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、嫌いだなんて言ってごめんなさいっ」
泣きじゃくりながら謝罪を続けるルビー。
彼女の綺麗な青色の瞳が、涙で充血して赤くなっているじゃないか。
“分かっている、分かっているとも。私は何も気にしていないから、泣き止んでくれ。どうしたら泣き止んでくれるのだ”
まさか龍になってまで、小さい女の子をあやすことになろうとは思いもしなかった。
「うぅっ…、ひっく…、ぐずぐずっ。ごめんなさい…っ」
“大丈夫、大丈夫だから。怖いおじちゃんたちはみんなもう二度と帰ってこれない程遠くに行ってもういないから、な?”
「ひっくっ…、ぐずっ…」
“どうしたらいい?何かしてほしいことはあるかね?何でも言ってくれ、ルビー”
ほーらほら、と私は彼女の顔の近くまで顔を近づける。
私としては笑ったつもりなのだが、客観的に見ると牙を剥き出しにして少々恐ろしい面相だったかもしれない。
しかし、彼女は私の瞳を真っ直ぐに見つめ、もう反らしたりはしなかった。
「ぐずっ…、ひっく…、じゃあ、ひっく、あの、お願いがあるのですけど…」
“なんだい、なんでも言ってごらん”
「…………あの、お父様、って呼んでもよろしいでしょうか?」
私は一瞬目を丸くし、それから大きく口を開けて答えた。
“もちろんだとも!”
それを聞き、ぱあっと顔を輝かせるルビー。
「嬉しいです!私、私、お父様のことが大好きですっ!」
そう言って笑う彼女の笑顔は、思った通りの素敵なものだった。
※※※※
後日談。
「グッドイブニーング。お元気かしら?久しぶりに遊びに…来た……わ…よ」
“ん?マリーじゃないか。久しぶりだな。しかし、そんなところで固まってどうしたんだ?”
いつものゴスロリ衣装に身を固めて音もなく現れたマリーはしかし、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてフリーズしていた。
「…………………………………そ」
“そ?”
「そのガキは、な、何なのかしら?」
そう言ってマリーは、震える指を私の尻尾へと向けた。
そこには、すっかり私に懐いてくれたルビーが甘えるように尻尾をベッドにして寝転がっていたのだが、自分が指差されていると知ると、ルビーはぴょこんと尻尾から飛び降りて、あの冷たい無表情をマリーに対して向けた。
「あなたこそ誰ですか?気安く私のお父様に話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」
「おっ、お父様、ですってぇ…!?」
ルビーの言葉を聞き、なぜかおののいた様子のマリーは、そのまま驚愕の表情を作る。
“ああ、紹介しようか。この子はルビーと言って――“
「誰との子なのかしらっ!あたくしがずーっとアプローチをしてものらくりくらりと誤魔化してばっかりでしたのに!あたくしよりも他の女を選んだということですのっ!?」
“いや、そうじゃなくて、この子は――”
「はっ!まさか、カトレア、カトレアですのね!あの小娘、抜け駆けは禁止するよう協定を結んでおいたはずなのに、所詮は誓約も守れない下賤な犬畜生なのですわ!」
人の話を聞かず自己完結的に怒り出し、しまいには地団駄まで踏み始めて怒りを表現するマリーの姿は、とても長い年月を生きてきた麗しきヴァンパイア・レディには到底見えない。
「お母様に対する侮辱は許しません。排除してもよろしいでしょうか、お父様?」
“いや、ダメだって”
「お母様ぁ!?やっぱり、やっぱりでしたのね!あの小娘、月夜のない晩には必ず××して○○して△△△してやりますわど畜生!」
ルビーも無表情なまま火に油を注ぐのはやめてくれ。
それに、マリー。もう完全に口調がおかしくなってるからな。
「お母様に対して危害を加えることはこの私が許しません。私、あなたのことが大嫌いです!」
「上等ですわ!あなたを亡き者にしたあと、全てをなかったことにして今度こそは私の両手に可愛いスイートベイビーを抱きしめてあげますのよ!」
“いや、だから二人とも私の話を――”
結局誰も私の話を聞いてくれない運命にあるのか?
「あなたを排除します!」
「やってごらんなさいな、まだおしめも取れていない小便臭い小娘の分際で!」
ルビーが操る水流のナイフがあちこちを飛び回り、それを避けつつマリーが魔力によって発生させた念動波を四方八方に飛ばして土龍の巣に破壊の渦を巻き起こしている訳だが、ひょっとして、ひょっとしなくても、やっぱりこれは私が止めるのか?
あーあーあーあー。私が丹誠込めて完璧に作り上げた果樹園が…。林檎の木が…。桃の木が…。梨の木が…。葡萄の木が…。
おお、かわいいさくらんぼたちよ!
“……やれやれ”
まあ、何はともあれ。
こうして、私には少し、ではなく大分変わった娘ができたらしい。
しかし、それでも、賑やかになることは、悪くない。
追伸
頼むから早く帰ってきてくれ、カトレア。
私たちの娘はやんちゃ過ぎて私一人の手には余るかもしれない。