王国歴776年
「やっと見つけた…」
「あいつの仇……っ!」
※※※※
私の忠告は聞いてもらえなかったのか(当然と言えば当然だが)、あれから何度か王国兵達が地龍の巣に辿り着いたことがあった。
その頃には私は魔力の使い方も心得たものだったので、岩壁に直接魔力を流し込んで迷宮を改造したりしてなるべく人が近寄れないようにしていたのだが、運の良い王国兵が迷い込んでくるのである。
しかし、結果的には彼らは運が悪かったのだろう。
私の説得むなしくどいつもこいつも問答無用で襲いかかってくるので、こちらとしても反撃せざるを得ず、結局は皆殺しである。
良心の呵責も覚えることなく、手慣れてきた自分に嫌悪を覚えないでもないが、今目下私が夢中になっているのは、そんな安い自己憐憫と自己嫌悪をすることではなく、新しい魔力の使い方にあった。
果樹園作りは大分行き詰まった感があり、林檎(のようなもの)から桃(だと思う)を品種改良したまでは良かったのだが、理由はさっぱり分からないが、そこから葡萄を作ろうとしたところ、全くうまくいかなかった。
魔力を込めて改造し過ぎたのが悪かったのか、全て1週間と経たず腐り落ちてしまう始末である。
にっちもさっちもいかなくなり、ふて腐れていたところ、ふと思い立った。
私はやはり、土いじりよりかは石いじりが性に合っている。
龍になってしまった時はもう石いじりをすることも生涯ないであろうと悲観していたが、この姿でも農業が出来るのであれば、鍛冶ができない理由などないのではないか?
幸いここは閉鎖されたとはいえ、往年には王国一と唄われた程の採掘量を誇る鉱山の内部である。
岩壁を掘ればいくらでも鉱物は出てくるだろう。
その鉱物に、果物と同じ要領で魔力を込めて錬成していけば、鍛冶の真似事くらいできるようになるのでは?
この思いつきは私の龍生の見通しを明るいものにしてくれた。
魂の牢獄と評したが、たとえ牢獄であろうと、石さえいじれればそれで満足な私である。
むしろ望むところだった。
こうして私は、ここ最近ずっと鉱石に魔力を込めて、錬成する研究にかかりっきりなのであった。
それは果樹園作りよりも遙かに難しく、しかし遙かにやり甲斐のある仕事だったので、こうなると、最初は喜ばしいものであった人間達の訪問が、今度は煩わしいものになり、ついつい問答無用でこちらから襲いかかり秒殺してしまうようにもなってしまったのは反省すべきかもしれない。
そんな日々のある日のことだった。彼女がここにやってきたのは。
※※※※
「やっと…やっと見つけた…っ!」
その日、私は錬成の研究に夢中となっていて、こちらに近づく足音を聞き逃していたのだが、彼女の声を聞いただけで、目を向けるまでもなくそれが誰なのかはすぐに了解できた。
少しカールがかかった美しいブロンドの髪。
女性にしては割と長身で、背筋良く胸を張って立つその姿勢の良い立ち居振る舞い。
数年前よりもさらに磨きがかかった、その整った美しい顔立ち。
燃えるような赤みがかった瞳に、勝ち気そうな目元。
そして、そんな美しい顔を憎悪に歪めて、私を睨み付けている彼女は、それでもなお昔と何も変わっていないように見えた。
“……カトレア……”
我が麗しの幼なじみ、赤が似合う才女、カトレア・コーンフィールド。
しかし彼女は。
「お前が……。お前のせいで……」
ゆっくりと震える手を腰の剣に伸ばし。
「ああああああああああぁぁぁぁっっ!」
ホールに響き渡るような怒号と共に剣を抜き放ち、私に斬りかかってきた。
“……待てっ!”
さすがに、彼女を切り裂いて殺す訳にもいかない。
「はあぁぁっ!」
裂帛の気合いと共に振り下ろされた剣は、しかし、私の鱗を砕くことはなかった。
だが、その剣勢の鋭さは今まで私に幾度となく襲いかかってきた歴戦の王国兵のものと勝るとも劣らないものであり、それだけでも、これまで彼女が並々ならぬ努力をしてきたことが感じ取れた。
私の知る限り、剣を握ったなど一度もないお嬢様だったのに…。
「ああああぁぁっ!」
叫びながら彼女は剣を振り続けているが、彼女の剣が私に届くことはないだろう。
むしろ彼女の身体のほうが心配である。
グガアアアァァァッ!
彼女を止めるため、口を大きく広げ威嚇するように耳が潰れるほどの咆吼をあげてみる。
幸い、さすがの彼女も本能的な危険を感じ取ったのか、すぐさま距離を取って後ろに下がってくれた。
本当は先ほどの咆吼で落盤が起きないか心配でもあったのだが。
とにかく、これで彼女と落ち着いて話ができる。
“カトレア、驚くだろうが私の話を聞いてくれないか”
「っ!?」
念話を受け、警戒する様子を見せる彼女に、説得すべくさらに話しかける。
“お前とは戦いたくない。聞いてくれ。私はクロールだ”
「なん…ですって?」
“何から話したものか。そうだな。私がこの鉱山に来た日のことから話そうか…”
彼女は信じてくれるだろうか?
※※※※
長い話の間、彼女は殺気を緩めることなく私を睨みつけていた。
「それじゃあ、あんたがクロールだって、そう言うの…?」
“ああ、そうだ。こんな姿になったが、私がクロールだ”
「……」
“分かってもらえたようで良かったよ、カトレア”
む?
カトレアの様子が変だ。
さっきより殺気が増しているような…。
「お前が…」
血がにじむ程剣の柄を握りしめ。
「お前がその名を呼ぶなぁっ!!」
大上段からの一閃。
鋭く、乾いた音がホール内に鳴り響いた。
彼女の剣が私の鱗によって砕けた音である。
しかし、今まで様々な戦士達が私の身体に剣を突け立てようと何度となく攻撃を繰り出してきたが、剣が砕ける程の速さで攻撃をしてきた者はいなかった。
それだけ、彼女の怒りが大きい、ということだろうか?
「お前が、お前なんかがクロールであってたまるかっ!」
折れた剣で何度となく私の身体に切りつけようとする。
「あいつは、あいつは…。変な奴で、みんなから変人だって馬鹿にされて、それでも気にせず石ばっかりいじってるような馬鹿だったけど、私にだけは優しくて、それで…。それで…っ!」
泣いているのか、カトレア?
町のガキ大将とタイマン勝負をして顔にアザを作った時にも泣かなかったのに。
乗馬をしていて、調子に乗って馬から落ちて腕の骨を折った時にも泣かなかったのに。
大好きだった祖母が病気で死んだ時にも見栄を張って泣かなかったのに。
泣いているのか、カトレア。
「たまに笑うと笑顔が素敵な奴だったんだっ!お前のような化け物なんかじゃないっ!」
“……。すまない、カトレア”
見るに堪えかねて、私は尻尾で彼女をそっと叩いた。
そっと、といっても脆弱な人間にとってはそれだけでもかなり衝撃であろうが。
彼女の身体は横向きにはじき飛ばされた後、俯せになったまま動かなくなった。
まさか死んだ訳ではないだろうから、私の目論見通り失神してくれたようだ。
“やれやれ…”
あのまま彼女の好きに攻撃をさせていたら、彼女の身体と精神がどうなっていたことか。
まさかあそこまで、彼女が私を殺した私(というのも変な話だが)を憎んでいたとは。
私が人間だった頃、彼女はよく私を叱ってくれたものだった。
時には罵倒しながら強烈なローキックをもらったりもしたが。
しかし、それは彼女なりの愛情表現だったのだろうか。
私にとって、彼女は得難き友人だった。
変わり者扱いされていた私に、嫌な距離の立ち位置に立たずに自然に接してくれたのは彼女くらいのものだったから。
そんなカトレアが――。
「……おねがい……」
私は倒れ伏したまま動かないカトレアを慈しむように前足で抱きかかえる。
先ほどは昔と変わっていないと思ったが、こうして近くで見てみると、白磁のように美しかった彼女の肌のあちこちに傷跡が見て取れる。
「……クロ………行かないで…」
私の仇を討つために、それだけの努力をしてきたのだろうか。
私は、彼女にそこまでのことをさせるだけの人間だったであろうか。
私は――。
彼女の涙を拭くことさえ叶わない。
この鋭いかぎ爪がついた両の手では。
※※※※
いつの間にか、彼女は地龍の巣からいなくなっていた。
草の葉でベッドを作り、そこに寝かしておいたのだが。
私が錬成の研究をしている間、気付かないうちに出て行ったらしい。
私との力の差を実感して、もう彼女が来ないことを祈る。
彼女が、私のことを忘れて幸せに生きてくれることも。
====
王国歴777年
私はあれからさらに研究に没頭するようになった。
やり残した、しかしやらなければならない仕事があったことを思い出したからである。
その間、カトレアは何度も私のもとへやって来ては、私を殺そうと挑み続けていた。
彼女がしつこく執拗で頑固で諦めが悪いことは私自身、実感として知ってはいた。
いつだったか、彼女が小さい頃、町のガキ大将を気にくわない、という理由で叩きのめした時だって、彼女は相手が根を上げるまで1時間近く殴りかかっていたものだった。
私に挑んでは、傷一つ付けられずに負けて、気がつけばいなくなっているカトレア。
折れた彼女の剣が両の手で数えることができなくなった頃、私は彼女と僅かばかりのコミュニケーションを取ることに成功し始めていた。
私に対して背筋が凍る程の殺気を向けていることは依然変わっていない。
しかし、何度も戦っている内に、彼女の目的が私を殺すことだけではない気がしてきたのである。
絶対に勝てないと分かっているのに、それにも関わらず命の危険を冒してまで私に挑み続けているのは何故だろうか?
彼女は本当は――。
剣が折れ、カトレアが精根尽き果てて倒れ伏している間が、私にとっての会話チャンスである。
彼女は戦闘中は一切私の話に耳を傾けようとはしてくれないが、体力と気力が尽き、気絶するように倒れてしまってからは、無抵抗なまま私の話を聞いてくれるからだ。
彼女が倒れた後、体力が回復するまで仰向けで寝ている間、私は様々な話を彼女に念話で語り続けた。
龍になってから、どうやって生きてきたか。
植物を育てることの素晴らしさ。
今やっている研究の話。
そして、今となっては懐かしい人間だった頃の話。
カトレアとの昔話も忘れずに。
彼女はそれに口を挟まず、無表情のまま聞いていた。
体力が回復した後は、彼女は何も言わずにそのまま地龍の巣を去っていく。
そして、また新しい剣を携えて私のもとにやって来ては、戦いを挑んでくるのだった。
カトレアとの歪つな対話をする傍ら、私の研究も少しずつではあるが進捗を見せていた。
鉱石に魔力を込め、練り上げ、形を変える。
人間だった頃は、高温の炎で叩き、あるいはハンマーで削ることによってやっていた細工を、魔力を込めることで形の本質から変えていく。
急がなければならない。
早くこの仕事を終えなければ、彼女はきっと――。
※※※※
「今日こそ……お前に勝つわ」
もう何度目かはとうに忘れてしまったが、彼女が地龍の巣に現れたのは丁度満月の日であった。
そして、記念すべき日でもあった。
“カトレア、聞いてくれ。今日は――”
「問答無用!」
剣を抜き放ち、低く構えて、下段から斬り上げる。
固い、金属音がホール内に鳴り響く。
「はあぁっ!」
そのまま返す刀で、上段、横薙ぎ、突き、と連撃を加えてくる。
その鋭さ、速さは最初の頃と比べものにならない。
ここ1年間、私と数え切れない程の戦いをしてきた彼女は、驚異的なまでのスピードで、また剣の腕を上げていた。
私にとって、望ましくないことに。
“聞くんだカトレア!お前に話すことが――”
「だまれぇっ!」
両手で剣を持ち、私の身体に突き立てようと何度も突きを繰り返す。
鈍い金属音が不協和音の如く断続して鳴り続き、それは彼女の剣の寿命を少しずつ縮めていることを意味している。
何がお前をそこまで駆り立てているんだ。
「……なぜ…っ!」
彼女はきっと。
「…なぜいつも反撃しないのっ!」
私を殺すことだけでなく。
「…なぜ私をその両の爪で殺してくれないのっ!!」
私に殺されることをも望んでいる――。
※※※※
――今年の誕生日プレゼントは何が欲しい?
……。
――剣だって?何だってそんなものが欲しいんだ。
……。
――そんなことを私に言われてもな。親方に聞いてみないことには何とも言えんぞ。
……。
――ははっ。分かった。分かったよ。鞘だけは私に作らせてくれるよう、親方に頼んでみるさ。こう見えて、最近は少し仕事を任せてもらえるようになったんだ。
……。
――ああ、分かっているよ。とびっきりの奴を作ってやるから、そんな顔をするなよ。
……。
――約束だ。
※※※※
「……うぅっ…」
“気が付いたか?”
「っ!!」
私の声を聞き、カトレアは即座に起き上がろうとするが、身体の自由が効かないのか、そのまま膝から崩れて倒れ込む。
“あまり無茶をするな。私に対して1時間以上も全力で斬り続けていたんだ。いつものように体力が回復するまで大人しくしていた方がいい”
カトレアは憮然とした顔をしながら言い返す。
「……なぜ、なぜいつも私を殺さないの?」
決まっている。
“君は、私の大切な友人だからな”
「……っ!」
一瞬の内に、彼女の瞳が怒りで染まる。
「私はお前の友人なんかじゃないっ!」
“……私が化け物だからか?”
「違う!違う違うっ!私にも、本当は分かっているのよ!」
彼女はそのまま力任せに叫び続ける。
「少なくとも、あなたがクロールの記憶を持っているってことは!」
まるで泣き叫ぶように。
「生きていた頃と変わらず優しいお人好しだってことは!」
いや、実際に彼女は泣いていた。気丈なあのカトレアが。
「でも、でもっ!私はもうあなたとは友人にはなれないわ!」
泣くな、カトレア。私はお前が泣くと悲しい。
「だって…、だってあなたは私が殺したんだものっ!」
“……だから、私に殺して欲しいのか?”
「そうよ!あの日、私があなたに飾り剣が欲しいだなんてわがままを言わなければ、あなたは鉱山に行くことはなかった!そこで竜に喰い殺されることもなかったはずだもの!」
確かにあの時、私はカトレアから誕生日プレゼントに友達に自慢できるような煌びやかな飾り剣が欲しいと頼まれて、剣の本身を作ることは親方に許されていなかったので、その鞘作りに勤しんでいたのだった。
そして、鞘作りに行き詰まって、気分転換にストント山に向かったのも、また事実だった。そこで竜に殺されたのも。
しかし、私は――。
「全部私のせいだわっ!だからお願い、私を殺してよ…っ!そうでなければ私は…。私は…っ!」
まるで挑むように私を睨み続ける彼女に、私は前足を伸ばす。
そのまま彼女の細い首にかぎ爪を突きつける。
“君の首なら、簡単に落とせるぞ”
泣き笑いのような顔をして、カトレアは答える。
「それでいいのよ。あなたは知らないわよね。あなたがいなくなってから、あなたの両親がどれだけ悲しんだか。あなたのお兄さんがどれだけ怒ったか。あなたの弟がどれだけ泣いていたか。全部、私のせいだわ…」
“おまえが死んでも、誰も喜んだりはしない”
かぎ爪をさらに首に近づける。息がかかるほどに。
「そうかもしれない。でも、悲しむ人もいないわ…。知ってる?私、家を勘当されたのよ」
彼女の家はいわゆる没落貴族の一族だった。
王都を追われ、クロムフルの町にやってきた、元上級貴族。
そのためか、商売に成功して成り上がった中流の町商人達が見栄を張って立てた多くの豪邸が建ち並ぶ住宅街の一角に、彼女の住み家もあった。
彼女の家の近くに住んでいた私は、小さい頃から彼女とよく遊んだものだった。
いや、彼女のわがままによく振り回された、といった方がより正確かもしれないが。
「しょうがないじゃない…。あの頃の私は友達の作り方を知らなかったのよ。誰かに命令することでしか、コミュニケーションの取り方を知らなかったの」
彼女の両親は没落して下級貴族になったが故に、いつの日にかその地位を取り戻そうと躍起になっており、カトレアが平民たる私と遊ぶのにいい顔をしなかった。
また、王族と繋がりのある大きな貴族の子息を見つけてきて、まだ幼かった彼女の婚約者にして、彼女の怒りを買ったりもしていた。
「婚約なんて、とっくの昔に破談になったわ…」
しかし、それでも、彼女の両親は彼らなりのやり方で彼女を愛しているように私には見えた。
それが――。
「あなたが魔物に喰い殺されたと聞いた時、私の中には二つの感情が生まれたのよ。あなたの仇である魔物に対する怒りと、あなたを死地へと赴かせた自分自身への怒りよ」
表面上は落ち着いたように見えるが、焦燥した感じでカトレアは語る。
「まず、私が始めたことは、仇を討つだけの実力を備えることだった。何もせずに死ぬのはイヤだったから。町の武道場に行って、一から剣の振り方を習ったの。親は当然に反対したけどね」
“それが理由で?”
「ええ。いずれ大貴族のお坊ちゃんに嫁ぐ予定の私に剣術なんて必要なかったから。父さん達は必死に私を説得したけれど、私の決心が揺らぐことはなかったわ。だから、父さんがとうとう激怒して、家族の縁を切られたの」
“……なぜ、そこまでして”
「……知ってる?私、あなたのことが好きだったのよ。ずっと、ずっと好きだったの。だから、親不孝者だと罵られようと、私にはやるべきことがあったの」
“……それが、私を殺すことと、自分を殺すこと、か”
「ええ、あなたがいない世界を生きても、もう仕方がないもの…。でも、あなたがそんな姿になっても生きていると分かった時、あなたを殺した魔物に対する殺意は全て自分に対する殺意となって変わったわ」
カトレアは全てを諦めたかのような表情をしていた。
「だから、お願い。私を殺して。他ならぬ、あなたに、殺して欲しいの。あなたの声を聞きながら、このまま死なせて」
そのまま目を瞑り、私の爪にそっと手を乗せる。
彼女は、やるべきことがあると言った。
だからここに来たのだと。
だけど。
私にも、まだやるべきことがある。
“……だめだ”
「どうしてっ!」
“私は、まだ約束を果たしていない”
工房として改造し使っていた岩の麓から、私はそれを取り出した。
今朝、丁度完成したところだった。
ギリギリセーフだった、ということになる。
それを爪に乗せて、彼女に差し出す。
“まだまだ未熟だが、これを、君に”
「……これは…」
“少し遅れてしまったが、ハッピーバースデー、カトレア”
「……あぁ、あぁぁぁっ」
彼女の瞳が大きく開き、その縁に涙の滴が溜まり出す。
今にもこぼれ落ちてしまいそうだ。
その瞳に映っているものは、数々の煌びやかな宝石が散りばめられた、剣の鞘。
私があの日、彼女からせがまれて、親方に頼み込み、気持ちを込めて作ろうとした、飾り剣の鞘である。
「ああああぁぁぁぁぁーっ!!」
カトレアはそのまま鞘を胸に抱きかかえて、赤子のように泣き始めた。
人ならぬ身の私には、彼女を抱くことも叶わず、静かに見守ることしかできない。
その日、いつも静かな地龍の巣には、彼女の泣き声だけがいつまでも響いていた。
※※※※
「見て、クロール!」
後日、彼女は一降りの抜き身の剣を携えて私のもとにやって来ていた。
“見事な剣だが、それは?”
「あなたの訃報を聞いてからすぐに、工房の親方さんに作ってもらっていたの」
“親方が?”
「親方さんも、責任を感じていたみたい。あなたに頼んだ鞘と対になっている剣の本身を三日三晩寝ずに作って、私にくれたの。あなたの形見だからって」
“……”
「今までの私にとって、この剣は重みだった。この剣と向き合うことさえ避けてきたわ。こんな剣さえなければあなたは、って」
そう呟く彼女の表情はしかし、晴れやかなものだった。
「だけど今は違う。本当にいい剣だと思うわ。なんてたって、クロムフル一の鍛冶屋が作ってくれた剣で、あなたの気持ちが込められたものなんですもの」
そう言って彼女は、抜き身の剣を、私が先日プレゼントした鞘に納める。
「これからは、私はこの剣と共に生きる。生きて、きちんと年を取って、そして死ぬわ。もう死にたがったりはしない。この剣があることが、あなたが人間として生きていたことの確かな証だから」
“……そうか。それならば安心だ”
はっとした顔で、口元を押さえるカトレア。
「……あなたの笑顔。変わらず優しい」
“……ん、何か言ったか?”
「うん、あなたはそんな姿になっても変わらず素敵だって言ったのよ、クロール!」
“……まだ、私をクロールと呼んでくれるのか?”
「当たり前よ!たとえどんな姿になったって、あなたは私が大好きだったクロール・ロックハートだわ。私が保証してあげる!」
そう言って、彼女は私が好きだったとびっきりの笑顔を見せる。
“……そうか、ならばその名は君にだけにあげよう。私のことをクロールと呼ぶ人間は、君以外にもういない。君が生きることが、私がクロールだったことの証明だ!”
そうして、私は再び咆吼をあげる。
====
職業:地龍
年齢:5歳(今そう決めた)
名前は、もうない――。
1章・おしまい