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No.10769の一覧
[0] 龍と紅の少女たち[PTA](2010/01/27 01:16)
[1] 一章・01[PTA](2009/10/06 17:55)
[2] 一章・02[PTA](2009/11/12 00:08)
[3] 二章・01[PTA](2009/09/15 17:16)
[4] 二章・02[PTA](2009/09/15 17:17)
[5] 二章・03[PTA](2009/09/15 17:17)
[6] 三章・01[PTA](2010/01/27 01:14)
[7] 三章・02[PTA](2009/08/22 23:00)
[8] 三章・03[PTA](2010/01/27 01:15)
[9] 三章・04[PTA](2009/09/15 17:17)
[10] 三章・05[PTA](2009/10/08 00:44)
[11] 間章Ⅰ[PTA](2009/10/08 00:45)
[12] 間章Ⅱ・前[PTA](2010/01/28 01:07)
[13] 間章Ⅱ・後[PTA](2010/01/28 01:05)
[14] 間章Ⅲ・前[PTA](2010/02/26 00:16)
[15] 間章Ⅲ・後[PTA](2010/02/26 00:15)
[16] 年表・人物表[PTA](2010/02/26 00:35)
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[10769] 間章Ⅲ・前
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/02/26 00:16
間章Ⅲ  龍と剣の巫女




王国歴904年




空が見たい――。


私がそう思うようになったのは、いつからでしょうか。


もしも一つだけでも願いが叶うのであれば、私はこの目で空を眺めてみたかった。



私の目は、産まれた時から光を失っていました。


私の人生は、暗闇から始まったのです。

けれど、持たざる者として生を受けた時、人はそれを苦痛とは感じないものです。


持っていたものを無くすときには、あんなにも苦痛を伴うのに。


ともかく、光なき者として産まれ、闇の中で生きる術を身につけていた私にとって、目が見えないことは、何ら不便なものではありませんでした。


五感、などと言いますが、目が見えなくとも、人には耳が、鼻が、口が、肌があるのです。

それだけでも、十分なほど、人は世界の輪郭を掴むことができるのです。


物心付いた頃には、私は目で物を見る代わりに、耳で、鼻で、口で、肌で物を見る術を身につけていました。

誰に習った訳でもなく。


そうして成長していくにつれ、私はただただ不思議に思うようになりました。


みんなが言う、“色”とは一体何なのでしょうか?


私にとって、世界とは闇に包まれているものです。

もっとも、闇、という概念自体目が見える者にとってのものなのでしょうが。


ともかく、人の形、空気、気配、感情、あらゆるものを目以外の感覚によって見ることを覚えた私にとっても、色だけは見ることは叶いませんでした。


赤い、青い、黄色い、黒い、白い――。


世界は様々な色に満ちあふれ、目まぐるしいばかりの華やかさを有していると言います。

ただそれだけが、目の見えない私にとっては不思議でしょうがなかったのです。


けれど、それでも私は目が見えるようになりたい、色を感じるようになりたい、とは思わなかったのです。


当然でしょう。愛を知らぬ者にとって、愛を望むことができないのと同じように、色を知らない私にとって、好奇心の対象とはなっても、さりとて希求の対象とはなりえなかったのです。


けれど。


いつからでしょうか。


私が空を見たいと思うようになったのは。


世界を覆い尽くすような、透き通るような蒼穹の青を見たいと思うようになったのは。


それは、きっと――。





「何を見ているですか、お祖母様?」


跳ねがあって飛ぶような軽やかな声が後ろから聞こえる。


この暖かな声は、私の可愛い孫の――。


「空が見えないかしら、そう思って天を眺めていたのよ、フラウ」


フラウディア。

数多くいる私の孫の中で、一番元気で一番やんちゃで、一番優しい女の子。


「お祖母様の目には、いつも何が見えているんだろうって、私気になって気になって、仕方がないですよ」


フラウはそう言って、私が腰掛けていたチェアーの横に立って、大きく伸びをする。


「貴女も目を瞑ってごらんなさい?そうして静かに耳を傾けるの。そうすれば、世界はもっとクリアになるはずですよ」


「うーん。真っ暗で何も見えないです、お祖母様」


困ったように笑うフラウの気配を感じる。


盲いた私の目では彼女がどんな顔をしているのかは分かりません。


けれど、目で見なくとも、人の形というものは知ることができるのです。


例えば、聞こえてくる声の位置で身長が分かりますし、身体の発する音でその輪郭を知ることができます。


彼女の声の響きで、フラウが笑っているであろうことは私には分かりました。


そして、彼女の笑顔がとびっきりキュートであろうことも。


「ここでは風が当たって身体が冷えるですよ?中に入ってお休みになられた方が良いと思います」


フラウは気遣うように私の細く衰えてしまった腕を優しく掴んでくれます。


街から少し離れた湖の傍にあるこの屋敷では、テラスに出るととても気持ちのいい風が山の背から吹いてきて、私のお気に入りの場所でもあるのですけれど。


でも、フラウにとっては私の身体が心配なようです。


「大丈夫ですよ、フラウ。風が冷たくて丁度いい案配ですし。それに、私の命がそう長くは持たないことは、私自身がよく分かっています」


「そんな――っ!」


「仕方がないのです。それが我が一族の宿業なのですから。私の母も、お祖母様も、そのお祖母様も、みな同じように死んでいきました。それに比べれば、私はまだ長生きをした方です」


「お祖母様……」


フラウが悲しそうに呟くが、我が呪われしきソードレス家は、みな短命の一族なのです。


特に、“託宣の姫巫女”と“剣の巫女”に選ばれた忌まわしき双子にとっては、それは宿業と言えるのでしょう。


だから、貴女が気にすることはないのですよ、フラウ。


私は、貴女の笑い声がとても好きなのですから。


フラウが少し沈んだ様子で私の傍で佇んでいるのを痛ましく感じましたので、私は話題を変えることにしました。


「それで?本当は何をしに来たのですか、フラウ」


私が優しく問いかけると、フラウはちょっと困った様子で笑って、テラスの柵にもたれかかりました。


「………やっぱり、お祖母様には隠し事ができないです」


「いつも言っているでしょう?私は目が見えない代わりに、人よりも多くのものを見ることができるのですよ」


その一方で、私には他の人が当然に見えるものが見えないのですけれど。


「お祖母様はすごいです。――――その、またルー先生と喧嘩しちゃって…」


「あら。貴女達も飽きませんね。この間仲直りをしたばっかりでしょう?」


この子ったら、いつになったらルールールーさんと仲良くやれるようになるのでしょうか?


いえ、これはこれで仲が良いのかも知れません。


「それで、今度は一体何が原因なのですか?」


「ルー先生は分からんちんなのです。私はもう一人前です。だから、戦場に出て、実戦を経験したいのです。でも、先生は私にはまだ早いって反対するですよ」


拗ねた声で呟くフラウの声が聞こえます。


いくらフラウが我が一族の中でも卓抜した才能を持っているとは言っても、まだ13歳の幼い少女です。


いずれ戦場に赴く運命にあるとは言っても、やはり心配になりますし、それに…。


「ルールールーさんは長いこと戦場に出て実際に戦ってきた経験の持ち主ですから、その彼女が言うからには、本当にまだ早いのだと思いますよ。それに、私も、そう思います」


「ですが、ルー先生は私の歳の頃にはもう戦場に立っていたって。お祖母様だって、初陣を飾ったのは15歳の頃だと聞いたです。だったら――」


納得のいかない様子で私に言い募るフラウでしたが、でもそれは――。


「ねえ、フラウ。それは私がその年に“剣の巫女”に選ばれたからなのですよ。本音を言えば、私は戦場になど立ちたくなかったのです。これはみんなには内緒ですけれど」


私は彼女に微笑みかけながら、内緒話を打ち明けるように語りかけます。


「お祖母様がですか?」


「ええ。もっとも、そのことに気付いたのはずっと後になってからでしたけれど、ね」


あの頃の私は、一族の使命感と義務感のみで行動していましたから、そのようなことを考える余裕すら、ありませんでした。


「だから、貴女もそんなに焦る必要はありませんよ。もっとゆっくりと確実に実力を付けてからでも遅くはありません」


「ですが――」


「それに、ルールールーさんだって研究でお忙しい中、無理を言って毎年この時期だけでも貴女の修行に付き合ってもらっているのですから、先生の言うことはきちんと聞かないとダメですよ」


ただでさえ、あの人は気難しい性格をしていることですし。


「………分かりました。お祖母様がそうまで言うのなら、諦めるです」


渋々、といった感じでフラウは私の言うことを了承してくれました。


本当は、彼女には戦場に立つことさえなければいいと私は思うのです。

けれど、それは彼女の立場上許されないことなのかもしれませんし、彼女自身がそれを望まないのかもしれませんね。


「ええ。そうしなさい。人と争わずにすむのなら、それに越したことはありませんよ」


「うー。近頃、各地の戦場で“首狩鬼”っていう異名を持つ凄腕の傭兵が活躍しているって噂を聞いたので、それが見たかったのですけど、仕方ないです」


残念そうに呟く。


この子は私の子供達の中で一番剣の腕が立つのですけれど、また一番血の気が多いのが困りものですね。


「貴女は将来神殿騎士団を率いる立場に立つのかもしれないのですから、軽挙妄動は慎むようにくれぐれも気をつけなさい」


「お祖母様はわくわくしないですか?剣を振るう者として、私は、やっぱり強い相手と戦いたいです。そういう、胸を焦がすような激情を感じたりしないですか?」


熱っぽく言い募ってくる彼女の声色には若干の不安も覚えますけれど、それでも、自慢の孫ですからね、彼女は。


ちゃんと道を誤ることなく歩いていけるとは思いますが…。


「ふふっ。私だって、若かった頃には、持て余すような情熱を胸に抱いたこともありますよ」


私はフラウに微笑みかけながら、肌身離さず常に持ち歩くことにしている細剣に手を添えました。


冷たく硬質な肌触りから、しかしあの方(、、、)の温もりが感じられるように思うのです。


「お祖母様が、ですか?」


「ええ」


不思議そうなフラウの問いかけに肯定の意を示しますが、確かに、神殿騎士団を率いる理想的な“剣の巫女”として今まで生きてきた私が、激情に胸を焦がすなどということはいささか信じがたいものがあるのかもしれませんね。


「それも、貴女のように剣戟の美しさに魅入られた訳ではありませんよ。私は――恋をしたのです。それも、狂おしい程に情熱的に」


私は、あの日の感情が胸の内から蘇ったかのように、胸を振るわせながらフラウに告げました。


今思えば、このことを誰か他の人に告白したのは、初めてかもしれません。


それが自分の孫にともなると、少し気恥ずかしく感じますけれど。


「それはすごいですっ!いつどこで誰に恋をしたですかっ!是非聞きたいですっ!」


興奮した様子でフラウが私に詰め寄ってきますが、いつの時代でも、恋の話は乙女の心を揺さぶるものなのかもしれません。


「では、誰にも内緒ですよ?」


「はいっ!」


あの日生きながらえた私の命の炎は、きっともうすぐ消えてしまうことでしょう。


だからかもしれませんね。


今まで誰にも話す気にならなかった、あの方との甘く切ない日々の思い出をフラウに語ってあげたくなったのは。


それはきっと、私がいなくなってしまっても、それでも誰かに私とあの方との短い物語を覚えていてもらいたいと思ったからなのでしょう。


座っているロッキングチェアの傍に立てかけてあった細剣を手に取ると、慈しむように私の膝の上に置きました。


龍の鱗と緑玉とを錬成して造ったとされる、龍鱗の細剣、“クライングエメラルド”。


「これは、私があの方と出会い、そしてこの剣を授かるまでの、短くも儚い恋の物語なのです」


そうして、私は静かに語り始めました。


私の物語を。


「あれはまだ、私が二十歳になる前の、ほんの小娘だった頃の話です。あの頃の私は――」




====




王国歴866年




その年の秋の始まりと共に、ゴドランド帝国とタルメニア王国との戦争が勃発した。


タルメニア王国は、その国土の大半が肥沃な大地に覆われており、大量の上質な穀物を生産しては周辺国へと輸出してきたことから、古くから大陸中原の食料庫と呼ばれてきた。


その食料庫を我が物とすべく歴史上多くの国々がタルメニア王国に進軍しようとしたが、王国は周囲をノーザリン山脈に囲まれた盆地に存在していたことから、一度守りに入ってしまうと攻め崩すには非常にやっかいであり、また、穀物の輸入をタルメニアに頼っている国であれば、その輸出を止められてしまうことによって戦争を長期的に維持することが困難となり、結果的に失敗に終わってしまうことが常であった。


今回の、ゴドランド帝国による進軍も同じ歴史を繰り返すだけであろうと思われていた。


しかし、大方の予想に反し、足の速い騎兵を大量に投入し、横に長いタルメニアの防衛線を一カ所から崩していく帝国の戦略によって、戦線の雲行きは怪しくなってきていた。


広大な国土を有する帝国が、その食糧事情をタルメニアの穀物に多く頼っていなかったことも原因の一つに考えられるだろう。


守りに入れば強いタルメニアであっても、短期決戦を狙う帝国の執拗な攻撃に次第に防衛線が崩れはじめ、首都が陥落するのも間近と考えられはじめた今になって、大陸の調停役を自称する法王府が重い腰を上げたのだった――……。




「アナスタシア様。だめです。これ以上この雪の中で進軍するのは不可能かと思われます」


山頂から途切れることなく聞こえてくる風の音に耳をすませていた私は、ユリアンの言葉に我に返った。


目が見えず、聴力に特化している私と言えども、風の音を聞いて山の天気を読むのは無理らしい。


こんなことなら、風水士でも連れてくるべきだったかもしれない。


目が見えなくとも、鎧越しに感じる吹雪の感触と、足で踏みしめる地面に降り積もった深雪の感触とで、雪が止むどころが、一刻前よりも激しくなりつつあることを私は感じていた。


「ここらでいったん進軍を止めて、雪が止むのを待つべきかと」


何も言わずに佇む私に、ユリアンはさらに言葉を続ける。


副官たるユリアンの言葉の通り、この雪では軍の足も止まり、強行軍するには危険を伴うかもしれなかった。


しかし、我々にはそう簡単に進軍を諦められない理由があることも、また事実であり、副官たるユリアンもそれを重々承知している筈であった。


法王府神殿騎士団。


この大陸で唯一にして無比に天上神の代弁者たりうることを許されている法王府。その法王府が有する三本の剣の内の一本。


それが神殿騎士団であった。


主な任務は法王府の象徴たる預言を司る姫巫女が住まう“水晶宮”の警護にある。


そして、その団長は代々年若い乙女が務めてきていた。

それも、呪われしきソードレス家の双子の片割れが。


アナスタシア・ソードレス。


それが私の名前であり、役割であり、人生であり、運命であり、私を縛り止める鎖そのものだった。



神殿騎士団の主な役目は“水晶宮”の警護の他に、もう一つある。

それは、大陸の調停役を自称する法王府の剣となるべく、他国の戦争に和平のため軍事介入をすることであった。


天上神は争いを肯定する。


それが正しいものであれば、両者の魂の高潔さを高めるからだ。

しかし一方で、無意味な殺戮と暴虐は否定する。


それが正しいものであれ、両者の魂を堕落せしめるからだ。


だからこそ、対等な立場による戦争であれば、法王府は基本的には介入することはない。


しかしそれはあくまで建前であり、法王府がこの大陸において神聖不可侵で有り続けることも、大陸に存在する多くの国々の信仰と政治的な助力に依るところが大きい。


だから、法王府と密な関係を持つ国が戦争に巻き込まれた場合、あるいは政治的、軍事的配慮から介入を頼まれた時、法王府がそれを神のご意志のみを理由として拒むことは困難である。


今回の帝国とタルメニア王国の戦争についても、タルメニアと同盟を結んでいるトレンディア王国との密談が重ねられ、そうした泥臭い政治的配慮から神殿騎士団による軍事的介入が決定された。


年端のいかない少女であろうとも、私はそうした神殿騎士団の団長である以上、高官達の決定に逆らうことは許されず、こうして冬期のノーザリン山脈の中腹を雪が降り積もる中、帝国に攻め込まれて籠城しているであろうタルメニアの首都を目指し、大勢の騎士達を引き連れて行軍しているのだった。



「アルバート卿。貴方はどう思われますか?」


ここまで吹雪いた状態での雪山の行軍を経験していない私にとって、ユリアンの提言に賛成すべきかどうかの判断が付かず、助言を求めて私の隣で私と同じく雪山を睨んでいるであろう年若いトレンディアの騎士に尋ねた。


「そう、ですね。このまま雪が止まないのであるならば、貴女の副官殿の言う通りここでいったん行軍を停止すべきだと思いますが…」


男性が発したとは思えないような、とても澄んで落ち着いた声が隣から聞こえる。


盟友たるタルメニアを助けるべく、トレンディア王国は神殿騎士団の軍事介入に対し、援軍として騎士団を一軍同行させていた。


トレンディア王国百竜騎士団。その団長のアルバート・コーンフィールド卿はまだ三十歳にも届かない年若い騎士なのだという。


しかし、王国においては“龍騎士”の二つ名で呼ばれる有能な騎士なのだそうで、その容姿も美丈夫であり、市井の人気も高いと聞く。


私の部下の女性騎士が、アルバート卿の姿を見て黄色い声を上げていたのを聞いたことがある。


しかし、目の見えぬ私にとって、人の容姿の美醜などどうでもいいことであった。


「ルールールー。お前はどう思う?」


そのアルバート卿が、彼の隣に佇んでいる一人の少女に声をかける。


「だめ。少なくとも後二日は雪は止まないと考えるべき」


鈴を転がしたような、とても美しい声色で少女は答える。


しかし、その声には抑揚がなく、とても平坦で、まるで人間ではなく人形が発したように私には聞こえた。


ルールールー・ムーンリバーという名のその少女は、アルバート卿の副官なのだそうだ。


その年齢は、驚くべきことに私よりもさらに若いのだそうだが、そんな彼女が祖国で出世が確約されているエリート騎士の副官を務めているのも、彼女が比類なき優秀な魔術師だからだと聞く。


しかも、その容姿は目を見張るほど可憐であり、見目麗しいアルバート卿と並んで佇む二人の様子には、男ならず女性までも目を奪われてしまうと部下が話していた。


しかし、私は彼女がどうにも苦手であった。


目が見えず、彼女のその美貌を目にすることがないことも原因の一つかもしれないが、それ以上、彼女のその抑揚のない平坦な声を聞いていると、どこか不気味に不吉な予感を感じさせるのだ。


そして、その声から感じられるのは、どんなことがあろうと心の水を揺らすことがないかのような、まるで植物のような静謐な精神性。


彼女はあるいは、人間の形をした植物の精なのかもしれない。

そんな印象を私に抱かせるのだった。



「そうか。――ルールールーは風水士ではありませんが、しかし彼女の言葉は信用できます。私が保証しましょう。やはり、ユリアン殿の言う通り、ここで暫くキャンプを張った方がよろしいかと」


少女の言葉を聞き、それを吟味した後、アルバート卿はそう私に提案してきた。


「―――分かりました。雪が止むまでは、ここで暫くは様子を見ることにしましょう」


元より判断の材料を持たない私にとって、自慢の副官たるユリアンと、王国の新進気鋭の騎士二人にそう提案されるのであれば、断る理由もなかった。


「ユリアン。そうと決まれば、風よけができる岩肌に天幕を張る準備をするよう、すぐに騎士達に指示を。あと、何日ここで足止めをされるかも分かりませんから、今後の行軍のスケジュールも調整しておくように」


「はっ。仰せのままに」


ユリアンの小気味の良い返事を聞きながら、アルバート卿にも同じ意味を込めて振り返る。


「我々も同じようにするよう、指示しておきましょう。それでは、聖女様。後ほど夜半の会議にて」


アルバート卿はやはり男性にしては若干高めの澄んだ声でそう答えると、傍に佇んでいた魔術師の少女を引き連れてそのまま騎士団のもとへと去っていた。


聖女。


私はそう呼ばれるのが好きではなかった。


そう呼ばれてしかるべきは、“託宣の姫巫女”たる私の双子の妹であるべきだった。


“剣の巫女”たる私は、聖女などではない。


法王府によって操られている、ただの着せ替え人形の内の一人だ。





「ムーンリバー殿の言葉が正しいことを前提としても、このままではタルメニアに辿り着くのはどうしても三日ほど遅れることになりそうです」


火を灯す魔道具にて暖を取っている天幕の中で、私とユリアンは顔を付け合わせて今後のスケジュールを確認していた。


天幕の外からは、今なお止むことなく吹雪いている音が聞こえてくる。


「しかし、それでは間に合わない可能性があります。山中では吹雪であっても、タルメニアの首都では雪が既に止んでいるかもしれないのでしょう?」


「おそらくは。それに、足の速い騎兵を多く連れた帝国にとって、短期決戦こそが狙い。ここで進軍を止める理由がありません」


ユリアンの言葉を聞き、思案するように私は口元を手で押さえる。

考え事をするときの、私の癖だった。


「十十字軍の手を借りることはできませんか?確か、タルメニアに第三軍と第七軍が潜り込んでいたはずです」


吸血鬼狩りの専門家。しかし、その戦闘力は一個騎士団にも勝るとも劣らない人間兵器の集団。


私は彼らのことを余り好いてはいなかったが、しかし、状況はそのような私事にかまけていることを許してくれそうにもなかった。


「いえ、おそらく駄目でしょう。今タルメニアには、彼らが追っている“銀喰い”が潜伏しているとの情報が入ってきていますので、審問特例で騎士団の配下に就けることはできません」


私の提案に対し、ユリアンは即断する。私の倍以上生きてきて、私よりも遙かに多くの経験を積んできたであろうこの壮年の男性騎士が、私のような小娘の副官に甘んじていることの理由について、私は多くは知らない。


「“銀喰い”………。ここ十年近くで急に名を上げ始めたダンピールの暗殺者、ですか」


「ええ。既に多くの教会関係者が犠牲になっています。異端審問部は、特級神敵犯罪者に指定することも検討しているそうですが」


「ともかく、分かりました。彼らの手を借りることもできない状況、ということですね」


嘆息し、もう一度頭の中でタルメニアが持ちこたえるであろう日数で、帝国が戦線を維持し続けることができるであろう日数とを計算する。


このまま、ここで雪が止むのを待っていてもいいのだろうか?


そんな疑問が心の内から沸いて出る。


任務に失敗した時、私の処遇はどうなるであろうか。


神殿騎士団を束ねる、年若き少女騎士。ソードレス家の呪われしき双子の片割れ。剣の巫女。


そのどれも、おそらく変わることはないだろう。そして私への評価も。


所詮、私はお飾りで団長に収まっているだけの、一人の小娘なのだ。


法王府の意向に逆らうこともできず、彼らに飼われているだけの。


「―――ユリアン。貴方は自身の出自に誇りを持っていますか?」


そんな益体もないことを考えていたせいだろうか。

私はつい、そう目の前の壮年の騎士に尋ねてしまっていた。


騎士団の長である私が、かかる有事にそんなことを聞いている場合でもないのに…。


「貴方は貴方の叔父上様を尊敬しているのでしょう。その血筋を、重たく感じたことはないのでしょうか?」


私は目を伏せ、そのまま恥じ入るような声で彼に尋ね続ける。


私が十五歳の時に“剣の巫女”に選ばれ、神殿騎士団団長に就任してから常に感じていたことは、それは凍えるような孤独であった。


私は、誰かに慰めて欲しかったのかもしれなかった。


「アナスタシア様。私は叔父上のことを深く尊敬しておりますし、そんな叔父上と同じ一族であることについても、煩わしいと感じたことはありませぬ。いえ、重さを感じることはありますが、それはおそらくアナスタシア様がお尋ねになった重さとは違う種類の物でしょう」


ユリアンは迷うことなく、朗々と私の疑問に応えた。


しかし、それは逆に私にさらなる孤独を感じさせた。


ユリアン・ローゼンクランツ。彼の叔父である、ギルベルト・ローゼンクランツは勇者の旅に随行し、魔王を倒した英雄の一人だ。


“薔薇十字”の異名を持つ英雄ギルベルト・ローゼンクランツが戦死してから十年以上の年月が経つが、今でも彼のことをモールデン公国を代表する騎士の中の騎士だと讃える者は法王府の中でも多い。


ユリアンは、そんな叔父に憧れ、彼のような騎士になるために神殿騎士団に入団したのだと昔聞いたことがあった。


そんな彼だからこそ、私の悩みも分かってくれるのではないか、そんな風に私は思ったのだろうか。


「そう、ですか。いえ、詰まらぬことを聞きました。忘れてください」


私は迷いを振り切るように、話を打ち切る。


血筋。家名。宿業。


そのどれも、私を冷たい鳥籠へと閉じこめる厭うべき要素に過ぎない。





ソードレス家の始まりは、法王府の誕生にまで遡られる。


約千年前に法王府の前身たる教会の土台を作り上げた、始まりの聖人に付き従った九人の使徒の内の一人がソードレス家の始祖であると言われている。


しかし、ソードレス家の始まりは、かかる祝福だけに留まらず、呪いをも包含するものであった。


裏切りの使徒が始まりの聖人が神託を受けた聖地において、魔王の軍勢を呼び込んだ際に、剣を持たず、己の身体のみで聖人を守ったと言われる使徒。


後にソードレスの聖女と讃えられるその使徒は聖人を守りきった代償として、魔王に呪いをかけられたと伝えられている。


すなわち、一族の血がすぐに絶えるようにと聖女の一族として産まれた者はみな全て短命となり、人が生きる今この時を見ることができないようにと必ず一族の中から未来視の能力を持つ双子の女児が産まれてくるようになった。


聖人と、九人の使徒の内最後まで聖人に付き従った三人の使徒が神託の教えを広めるべく作り上げた教会の中において、未来視の能力を持つ聖女の一族は重宝され、秘匿され、守られ続けている内に、その双子はいつしか教会の、引いては法王府の象徴とまでなるようになっていた。


双子の内、未来視の能力を持って産まれた一方の少女を“託宣の姫巫女”として法王府のトップに擁立し、未来視の能力を持たずに産まれた一方の少女を姫巫女を守るための象徴として神殿騎士団の団長“剣の巫女”に据える。


そうして繰り返し呪われしきソードレス家の双子は法王府の中で飼い殺され、代替わりをし、変わることなく延々と預言とその守護を行ってきたのだった。


私も、その一人。


アナスタシア・ソードレス。


ソードレス家の呪われしき双子の一人。未来視を持たず、剣によって姫巫女を守る神殿騎士団の団長として、法王府という巨大な鳥籠に飼われている、血の通わぬ人形の一人。


今でも、あの一切の火が灯らない冷たい水晶でのみ造られた“水晶宮”にて、私の妹は教会の高官達のために預言を行っているのだろうか。


自身の能力で垣間見た未来の出来事を、神に託された預言だと偽って。


私は――。




――――その時。




「「っ!?」」


私が深く心の内に沈みかけた瞬間、山の奥から雪崩が起きたかのような轟音と地響きが鳴り響いた。


「ユリアンっ!」


「分かっております!」


私は傍らに置いてあった剣を手に取ると、すぐさま立ち上がりユリアンに声をかけた。


今は、くだらないことを考えている場合では、ない。


鳴り響いた轟音の正体を確かめるべく、私とユリアンは連れだって天幕から出て、雪が降り積もる外に出ると――。



ウゥゥゥオオオオオオオォォォォォンンンッ!



耳が潰れるような獣の咆吼が聞こえてきた。


「っ!」


目が見えぬ代わりに、人よりも聴覚が優れている私にとって、その咆吼は身体の芯を凍らせるような迫力を帯びていた。


冷たい空気が暖められた身体の体温を瞬く間に奪っていく中、私は咆吼が聞こえた方角へと顔を向けると。


「なん…だとっ!あれは―――“三本角”ベルギエール!」


驚きから戦くユリアンの震える声が隣から聞こえてくる。


冷静沈着な彼がそんな恐怖に滲ませた声を上げるなんて。


咆吼が聞こえた先から感じるのは、とても大きな、灼けるような魔力を伴った何かの巨大な生き物の存在。


目の見えぬ私に感じ取れたのはそれだけだった。

しかし――。


“不愉快な匂いを辿ってきてみれば、下らぬ人間共の群れがいるだけとは。実に詰まらぬ”


膝から崩れ落ちそうになるような重みを感じる声が、前方に感じる巨大な生き物から発せられた。


しかし、これは肉声ではなく、魔力を利用した通話術。


それはつまり、目の前にいる生き物は。


「魔物だーッ!みんな、はやく迎撃態勢を取れ!」


遠くから、トレンディアの騎士が叫ぶのが聞こえてくる。


だけど。


「駄目です、アナスタシア様。このまま戦っても全滅するだけです。王国騎士団と協力して、彼奴から逃げる準備を!」


ユリアンは焦った様子で、そのように告げてきた。


“三本角”ベルギエール。

その名前であれば、私も聞いたことがあった。

魔王の軍勢の中でも、最も多く名前が挙がる最強かつ最凶の魔物。


山に棲む熊が人を食べたことによって突然変異を起こし、強靱な肉体と、獰猛な爪や牙で人を襲って食する魔物、オーガー族の長。


全身は闇を身に纏ったかのように鋼鉄をも通さぬ固い黒色の毛皮に包まれ、二階建ての建物よりも優に大きいとされるその強大な体躯に、人間の何倍もの量を有していると言われる魔力のシンボルたる螺旋状の角を額に三本生やし。


神話の時代から、魔王に仕える配下として何百年も生きてきたと伝えられる、伝説の魔物。


それが――。


「ベルギエール!魔王が勇者達に倒された後、“死の森”のどこかに消えたと伝えられているのに、どうしてこんなところに――っ!」


「ユリアン!貴方はすぐに退路の確保を!それから重騎士を数名選んで私の護衛に付けなさい。私があいつの気を引きつけます!」


目の前に感じるその圧倒的な存在感によって、ともすれば意識を持って行かれそうになるが、私は自身に活を入れるべく、丹田に力を込めて隣のユリアンに怒鳴りつけた。


お伽噺に聞く“三本角”の強さが本物であれば、私達が敵う相手ではない。

それに、こんなところで貴重な戦力を魔物相手に使い潰す訳にもいかない!


「だ、駄目です、アナスタシア様!貴女様に何かあっては師父連に申し訳が――!」


「黙りなさいっ!私を誰だと思っているのです!私こそがこの神殿騎士団の団長です。貴方ははやく私の命令を実行しなさい!」


「っ、分かりました。アナスタシア様。どうか無茶だけはなさいませんように」


一瞬戸惑う様子を見せながらも、けれどもユリアンはそのまま私の傍を離れて混乱の極みにある騎士達のもとへと駆けていった。


それを確認しつつ、腰の剣を抜き放ち、目の前で圧倒的な存在感を発しているオーガー族の長、“三本角”ベルギエールへと身体を向けると。


「微力ながら、私もお手伝い致しましょう。アナスタシア様」


隣から、あの男性にしては澄み切っている落ち着いた声が聞こえてきた。


「アルバート卿!よろしいのですか?」


「ええ。私の部下は皆優秀な者達なので、私がこうして魔物相手に遊んでいても、統率は乱れないのですよ」


まるで恐れを感じさせない静かな声色でそう告げた後、そのまま背中の長剣を抜き放つ音が聞こえてくる。


鋼の剣とも違う、不思議な音色を響かせていた。


「私の剣は特殊製でしてね。鋼鉄をも弾き返すと言われる“三本角”の毛皮と言えども、貫くことができるでしょう」


そうして、彼が上段で剣を構える気配が感じられる。


「それに、貴女のような美しい女性にだけ魔物と戦わせるというのは、男の沽券に関わりますからね」


恐ろしい死闘を前にしても、アルバート卿はそんな歯の浮くような台詞を口にした。


「浮気だめ。アップルに告げ口するぞ」


そんな彼の後ろから、伝説の魔物を前にしても変わることのない平坦な呟き声が聞こえてきた。


「ルールールー。勘違いするな、別に浮気じゃない。女性を褒めるのは男の甲斐性ってやつだ」


ばつが悪そうに、彼は後ろの少女に弁明するが。


「甲斐性だと?アルバートは昔はそんなんじゃなかったって、アップルが言ってた。所詮、色を知れば男なんてそんなもんだ」


少女は冷たい声で一蹴した。


「お前な――。あぁ、いや、失礼、アナスタシア様。ルールールーはこんな奴ですが、それでも戦いとなれば頼りになります。ご安心を」


「安心しろ、女。わたしが居れば龍にだって勝てるぞ」


そんな二人のやり取りを聞いていると、不思議と私の恐れまでぬぐい去ってくれるような気がするから、不思議だった。


“ハ ハ ハ ハ。脆弱な人間共が儂と戦うつもりか?哀れを通り越して滑稽ですらあるな”


前方から、重く冷たい声が聞こえてくる。


目の見えない私には、闇色の毛皮を纏うと言われるベルギエールの威容を見ることはできず、熱く強大な物体が雪の中に鎮座しているようにしか感じ取れないが、しかし、それでも、目が見えない代わりに、私には私にしかできない戦い方がある!


「あまり人間を甘く見るなよ、化け物。人間にだって、その気になれば龍の鱗を砕くことだって、出来る!」


「蜂蜜大好きな熊の分際で、わたしを睥睨するとは良い度胸だ。剥製にして家に飾ってやる」


アルバート卿に、ルールールーの二人が怯えるどころか、大胆不敵にも伝説の魔物を挑発する声が聞こえてくる。


“面白い。そこまで言うのであれば、儂を楽しませてみるがいい、人間共。そうでなければ、お前達は数瞬後に細切れの肉片になるだけだ!”


叫び声と共に、ベルギエールは爆発したかのような速度でその場から駆け抜けた。


そのまま恐ろしいスピードで雪を掻き分けながらこちらへ猛追しているのを感じ取れる。


隣のアルバート卿と少女が急いで回避行動を取ろうとしているのも。


しかし私には――。


「ハァァァッ!」


そのまま数歩身体を横にずらして、ベルギエールによって弾きとばされた雪が身体に当たるのを感じながら、手に持つ剣を横薙ぎに斬り抜いた。


確かな手応え――!


自分の周りに流れる時間がコマ送りになっているように感じられる。


そして数瞬後。


私が元いた場所に、まるで特大の破壊魔法が炸裂したかのような衝撃が巻き起こり、その勢いに巻き込まれないように私は即座にその場を離れるべく後ろに飛んで逃げた。


おそらく、私達がいた地点をベルギエールがその豪腕で穿いたのであろうが、それにしても、何て威力!


衝撃を殺しつつ後ろに下がると、二人が傍に駆け寄ってくる気配を感じ取れた。


「アナスタシア様!何て無茶を――。お怪我はありませんか?」


「大丈夫です。私は目が見えませんから、相手の先手を取ることは非常に困難です。けれど、その代わりに、相手の後の先を取ってからの反撃にならば、誰よりも早く速く対応できる自信があります」


そう言って、私はアルバート卿に微笑みかける。


それが、目の見えぬ私の基本戦術だった。


幼い頃から神殿騎士団を継ぐ身として強くなることを義務づけられていた私にとって、目が見えぬことがハンデとならぬよう、血反吐を吐くような修練の末に、身につけた戦法だった。


“ほう。人間にしてはなかなか素早い動きをするようだが、所詮ちょろちょろと動き回るだけの小虫よ。よもや、その程度の攻撃で儂の身体に傷を付けられるつもりではあるまいな?”


ベルギエールが愉快そうに嗤いながら、こちらへ向けて語りかける。


「アルバート卿、先程の一撃で奴の身体に傷は付いているでしょうか?」


目が見えず、確認することのできない私は代わりにアルバート卿に尋ねる。


「………いえ、残念ながら、傷一つ付いていません」


「そう、ですか」


確かな手応えと共に、奴の右脚を確かに斬りつけた筈だった。


けれど、傷一つ付けられない。


それもそのはず。私は神殿騎士団の団長として、人間相手であれば誰が相手であろうとそうそう負ける気はしなかった。


しかし、私の戦い方はあくまで人間相手のものであり、人智を凌駕する強靱な肉体を持つ魔物相手のものではなかった。


「ならば、攻撃はお二人にお任せします。私が、奴の後の先を取って相手の動きを撹乱しますので、隙を衝いて奴に一撃を。お伽噺が本当であれば、奴の弱点は額の三本の角の筈です」


「よろしいのですか?その役割分担では、貴女が一番危険なのですよ」


アルバート卿は気遣うように私に話しかけるが。


「気遣いは無用です。避けることに関しては、例え誰が相手であろうと、遅れを取るつもりはありませんから」


「そう、ですか。分かりました。私の龍鱗の剣であれば、彼奴の身体とて、傷付けられましょう。攻撃役は確かに、任されました」


隣で力強く頷く気配を感じる。


「案ずるな、女。アルバートは人外相手に慣れているからな。森の熊さん程度にやられはせん」


少女の声は、こんな時であっても抑揚がなく、平坦であった。まるで深い森のように。


「あいつが本当に森の熊さん程度なら、困りはしないがな」


ぼやくようにアルバート卿が呟く声と同時に。


“どうした?かかっては来ぬのか、脆弱な人間共よ!もっと儂を楽しませろ!”


辺り一面を燃やし尽くすかのような熱を帯びた咆吼がベルギエールから響き渡った。


「言われなくとも!」


アルバート卿の叫び声と共に私達は同時に駆けだした。


それに合わせてベルギエールが鋭い爪を滾らせながらその豪腕をこちらへと振り抜く気配を感じるが――。


遅い――っ!


私はそれを紙一重で避けつつ、風圧で吹き飛ばされそうになるのを足を踏みしめて堪えながら、剣を奴の右腕に突き立てる!


「くっ!」


しかし、剣は奴の鋼鉄より固いと言われる毛皮を貫くことなく、何かとてつもなく堅い巨岩に斬りつけたかのような鈍い感触が手の平を中心として全身に広がった。


一瞬後、ベルギエールがその豪腕で地面を穿いた衝撃が私を襲い、吹き飛ばされることのないよう、雪が降り積もる地面を蹴ってその場を離れる。


その私の後ろから――。


「ハアァァァァ――ッ!」


アルバート卿が風を置いていくかのような速度で駆け抜け、奴の右腕を踏み台にして空高く舞い上がる気配を感じる。


そしてそのまま――。


「アアアァッ!!」


長剣を振り抜き、獣の肉が爆ぜる音が聞こえる。


“ぬうぅッ!?”


そのままアルバート卿は渾身の力で斬りつけた奴の右肩を蹴って、中空へと身を躍らせる。


「ルールールーっ!」


「任せろ」


私の後ろから少女の声が聞こえるのと同時に、周囲の雪が全て蒸発するかのような巨大な熱量を感じた。


振り向くと、少女の姿を中心として膨大な魔力が高温を発しながら渦巻いているのが分かる。

まるで、彼女自身が太陽になったかのような。


炎術――!?


それにしても、何てでたらめな熱量!


“儂の身体を傷付けるとは、人間の癖にやりおるわ。しかし、貴様の剣からは嫌な匂いがするぞ。あぁ、とても嫌な匂いだ!”


忌々しげに声を荒げるベルギエール。


私の人より優れた耳が、奴の右肩から幾ばくかの出血をする音を聞き取り、それでアルバート卿の剣が奴の毛皮を破ったらしいことが私にも分かった。


“人間、その剣は一体誰に――”


「射てェッ!」


ベルギエールが言い募ろうとした瞬間、私の後方からユリアンの叫び声が聞こえてきた。

それと同時に、まるで雨のように凄まじい数の矢が闇色の毛皮を纏う魔物へと向けて放たれたのも感じる。


ようやく、退路を確保しつつトレンディアの騎士達と陣形を組むことができたのか、ユリアン。


しかし。


“小賢しいわァッ!”


雨の如く降り注ぐ無数の矢全てが奴の毛皮によって弾かれる音が聞こえてくる。


だけど、一瞬。奴の注意は私達ではなく後方のユリアン達に向けられた。


そして、それで十分だった。


「燃え尽きろ、熊」


私の後ろから、少女が冷たく呟く声が聞こえる。

それと同時に、彼女がその上空に作り上げた小型の太陽が奴に向けて放たれた。


ベルギエールはそれを避けることもできず、奴の身体に触れた瞬間。


“グヌォォーッ!!”


ベルギエールが苦悶の声を上げながら、奴の周囲全てが炎に包まれたかのように、獣を中心として火柱が上がったのを私は感じた。


すごい――!


私達に止むことなく降り続けている吹雪全てがその膨大な熱量によってこの場で溶けていく。


「よし、今ここで奴を無理に倒す必要はない。ルールールー、すぐに騎士団を連れて後退するよう――」


離れた場所から隙を窺っていたアルバート卿が、こちらへと駆けながらルールールーに話しかけようとした、が。


“グ、グ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ !温い!温すぎるわッ!この儂を燃やし尽くしたいのであれば、地獄の業火を持ってくるがいいッ!”


鼓膜が破れそうな程の咆吼を上げ、身を炎に包まれながらベルギエールがその場で地面にその強大な両の爪を突き立てる。


「な――っ!」


「っ」


アルバート卿が驚愕の声を上げるのが聞こえる。あの深い森のような少女でさえも。


そんな。人間なら触れるだけで灰になりそうな炎を身に纏っても、それでも、まだ動く――!?


“ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ!”


爪を突き立て、哄笑を上げながら、闇の獣は身に纏う炎を魔力に変換し、その全てを荒れ狂う嵐のように自身の額に生えた三本の角へと集め始めた。


奴の額から帯電した凄まじい圧力の魔力を感じる――!


それに伴って周囲の空気が乾き、弾かれていくのが分かる。


「いけないっ!みんな、すぐにこの場を離れなさいっ!!」


異変を感じ取り、私はすぐさまその場で騎士達に向けて大声を上げて退避を促した。


古から伝わるお伽噺が本当であるならば、“三本角”ベルギエールが得意とするのは雷の魔術。常に周囲に帯電した魔力を纏わせ、自身の名を顕す額の三本の角から放たれる巨大な落雷は、全てを吹き飛ばすという。


まさか、奴はこのまま――!


「くっ!ならば――っ!」


このままだとみんな、やられてしまう!


「っ!駄目です、アナスタシア様ッ!」


すぐ傍から聞こえるアルバート卿の忠告を無視して、私はその場を駆ける。

せめて奴の魔術行使を妨害しようと、額の三本の角目がけて剣を投げつけるべく、剣を握り締めたまま両手を振りかぶり。


“ハ ― ッ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ッ !”


獣の額を中心として、周囲の空間全てが砕け散った。


「きゃあぁっ!」


凄まじい轟音。感覚全てを溶かすかのような熱。それら全てが私に向けて放たれて。


全身の神経全てが焼き切られたような痺れが私の身体を覆い、そのまま凄まじい衝撃に飲み込まれて私の身体が後方遙か遠くへと吹き飛ばされているのが感じられる。


「アナスタ――」


「―――逃げ」


「早く―――防ぐ――」


ミキサー状に撹拌された私の脳がどこか遠くから響く断片的な叫び声をキャッチした。


けれど、その意味までは分からなかった。


目の見えない私にとって、耳を潰されてしまえば世界は完全な無に包まれる。


まるで暖かい泥の中をたゆたうような気怠い感覚と共に、私の意識は深く深く泥の底へと沈み込んでいった。


その時私が感じたことは、死への恐怖でも、人生の終着に対する諦観でもない。


どこかホッとした、不思議な安堵感だった。


これで、やっと、私は――。


―――………。


………。


…。







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