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No.10769の一覧
[0] 龍と紅の少女たち[PTA](2010/01/27 01:16)
[1] 一章・01[PTA](2009/10/06 17:55)
[2] 一章・02[PTA](2009/11/12 00:08)
[3] 二章・01[PTA](2009/09/15 17:16)
[4] 二章・02[PTA](2009/09/15 17:17)
[5] 二章・03[PTA](2009/09/15 17:17)
[6] 三章・01[PTA](2010/01/27 01:14)
[7] 三章・02[PTA](2009/08/22 23:00)
[8] 三章・03[PTA](2010/01/27 01:15)
[9] 三章・04[PTA](2009/09/15 17:17)
[10] 三章・05[PTA](2009/10/08 00:44)
[11] 間章Ⅰ[PTA](2009/10/08 00:45)
[12] 間章Ⅱ・前[PTA](2010/01/28 01:07)
[13] 間章Ⅱ・後[PTA](2010/01/28 01:05)
[14] 間章Ⅲ・前[PTA](2010/02/26 00:16)
[15] 間章Ⅲ・後[PTA](2010/02/26 00:15)
[16] 年表・人物表[PTA](2010/02/26 00:35)
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[10769] 間章Ⅱ・前
Name: PTA◆8ee8c2cb ID:3b1076ac 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/01/28 01:07
間章Ⅱ 龍と名も無き狩人




王国歴885年




俺は暗殺者である。名前はまだない。


産まれてこの方、固有名詞で呼ばれたことはないし、実の産みの親でさえそうだってんだから、名前はないと言い切ったっていいだろう。


もっとも、俺のことを不吉な二つ名で呼ぶ奴も多いが、それはまぁ、職業柄しょうがないといったところかもしれない。

と言うのも、一応自慢ではないが、俺は今まで仕事をミスったことはない。

狙った獲物は外さない、ではないが、俺に狙われて命があった奴は今まで一人もいなかった。


そんな訳で、俺のことをやれ死神だとか黄泉路への水先案内人だとか呼ぶ奴もいるが、しかし、そんな名前はこっちから御免被りたいところだ。



だが、俺の依頼達成率100パーセントの輝かしい記録も、今日限りで終わってしまったのだろう。


今現在、俺ってば、絶体絶命のピンチなのであった。



思い返せば、今回の仕事は初めから気が進まなかった。

いわゆる、嫌な予感がする、って奴だ。


相手こそ俺の標的条件をクリアしてはいたが、いかんせん大物過ぎた上に、俺のお得意先である依頼主からの説明にも、どこか違和感を感じたのだ。


嘘は言っていないが、しかし真実を話している訳でもない、と。


しかしまぁ、暗殺者ってのは悲しいかな潰しがきかない職業で、一度依頼者との信頼って奴を失ってしまうと、裏家業であるが故の宿命か、あっという間に身の置き所がなくなってしまい、気が付けば首をくくってることになりかねないのである。


そんな因果な職業に身をやつした自身の不明を嘆くべきかもしれないが。



そんな訳で、俺は調子に乗ってホイホイと依頼を受けた末、ノコノコと相手に住む場所に出かけていき、まんまと反撃を喰らって、半死半生命からがら負け犬よろしく逃げ出したのであった。


腹部に槍による貫通傷に、脇腹と右肩に矢が突き刺さり、おまけに左足の骨を粉砕されるという笑うしか他ない重傷を負った俺は、街を離れて付近の森へと逃げ込み、そこで狼共の餌にでもなって新たな魔物の誕生にでも貢献する運命だったことは間違いない。



しかしまぁ、どこのどいつがその運命をねじ曲げやがったのか。



俺は気が付けば、見知らぬ部屋の古ぼけたベッドの上に寝かされていたのであった。


しかも、ご丁寧に傷の手当てまでされてある。


「かははっ。俺にまだ生きろってか」


全く、笑う他ない。

一命は取り留めたようだが、しかし、一体どこのどいつが瀕死の俺を助けたのやら。

これが俺の背後事情を探りたい官憲の手によるものであれば、俺の人生はここでジ・エンドである。

絶対絶命のピンチだ。


まぁ、大して惜しくもない人生だが。


生まれてからこれまで、他人を殺すことで生計を立ててきたろくでなしである。

気がかりがあるとすれば、遠い昔に別れた義理の弟の安否くらいのものだが…。


などと、俺が辞世の句でも考えようかしらんと頭を悩ませていると、部屋の扉が開いて、一人の人物が中へと入ってきた。


「よいしょっ」


小さな掛け声と共に、手に持っていたお盆を落とさないようにしながら何とかもう片方の手で開けた扉を閉めようとしている。


それは、小さな女の子であった。


くすんだ灰色の髪をボサボサのまま肩口辺りまで伸ばし、ボロ切れのような布の服を身に纏った、幼い少女。


しかし何より目を引いたのは、そんな薄汚れた格好をしているにもかかわらず、何が楽しいのか、その顔には見る者を皆和ませるかのような輝かしい笑顔が浮かんでいることだった。


………俺がもっとも苦手とする人種である。

あの手の笑顔を浮かべる人間は、決まって楽天的で無駄に前向きなのだ。

現実的で無駄に後ろ向きな俺とは合う筈もない。


「あっ、気が付いたの?」


そんな少女は、どうにか扉を閉め終わると、うんざりした様子で眺めていた俺の様子に気付き、やはり何が楽しいのか嬉しそうな声を上げて俺に話しかけてきた。


「ああ、今気が付かずに天に召された方がマシだったかもしれないと思っていたところさ」


「えっ?」


「何でもねえよ。そんで、おちびちゃん。ここは一体どこで俺はどうしてここにいるのか、ちゃんと説明してくれるんだろうな?」


俺の軽口に、口をポカンと開けて不思議そうにこちらを見ている少女に、俺はそのままの口調で話しかけた。


「えっとね、お兄ちゃんは二日前に森の中で倒れていたの。それを私が見つけて、ひどい傷を負っていたから家の中に運んだんだよ」


「お前がか?」


目の前の少女は発育不良なのか、同世代の子供よりも明らかに小さな身体をしていたし、とてもじゃないが俺の身体を運べるだけの力があるとは思えなかったのだが。


「うんっ。とっても重かったんだから。でも、ルーイにも手伝ってもらったから、何とか大丈夫だった」


「ふうん。ルーイってのは、お友達かい?」


「うん。私の一番の友達で、たったの一人の家族なの」


そう言って笑う少女の笑顔には、一点の曇りもない。


しかし二日前、か。俺としたことが、随分と長い間気を失っていたらしい。

まぁ、それだけ傷が深かった、ということなんだろうが。


「たった一人ってことは、おちびちゃん。そいつとお前だけでこの家に住んでんのかい?」


「そうだよ。あっ、だめだよっ。まだ動いちゃだめっ!」


話を聞いて、何とかベッドから上半身だけでも起き上がろうとした俺に対し、少女が慌てた様子で近寄ってくる。


「いつつつっ。やれやれ。久しぶりに手ひどくやられたが、しかし、まぁ、心配すんな、おちびちゃん。俺の身体は少々特別でね。傷の治りも早いのさ」


そう嘯くが、少女は信じていないのか、やはり心配そうな様子で俺をベッドの上に寝かそうと手を伸ばしてきた。


「大丈夫だっての。それより、そのお盆の上に乗っている美味そうな物は俺にくれないのか?」


「えっ?ああ、これ。お兄ちゃんが起きてたらあげようと思って作ったシチュー。いる?」


少女は今のいままで手に持っていたお盆の存在を忘れていたらしく、俺の声でようやくその手のお盆を俺に見えるよう差し出してきた。


「金はないが、くれるってんならもらうぜ。身体を治すには、飯を食うのが一番だからな」


そう言って、お盆の上から木で作られた質素なお椀を手に取る。

そして、そのままその中身を口に入れるが。


「なんだい、こりゃ。シチューってより、芋の煮出し汁かなんかか?」


単に芋を煮詰めて、そのままお椀に移しただけのような料理だった。


「お、おいしくなかった?」


俺の言葉を聞いて、急に不安そうな顔になって少女が尋ねてくる。


「いんや、結構イケるぜ。なかなか大したもんさ」


「本当っ!?」


嬉しそうな様子で、俺に詰め寄ってくるが、お前の手が乗っている俺の腹は、まだ傷が治ってないんだがな…。


「いてて、ああ、嘘はつかねぇから安心しろよ。それより、お礼がまだだったな。どうもお前さんとそのお友達に命を助けられたみたいだし、ありがとうよ」


くそったれみたいな人生だったが、しかしさりとて、俺は別段今すぐに死にたい訳でもない。


それに、どうせ死ぬならあの連中を一人でも多く道連れにしなけりゃ俺の気が済まないしな。


「えへへへっ」


礼を言われて照れているのか、少女は薄汚れた顔をだらしなく崩して喜んでいた。


「そういや、お前さんの名前もまだ聞いていなかったな、おちびちゃん。何て名前なんだ?」


名前。名を持たぬ俺にとって、相手の名前を覚えることは、中々に嬉しい出来事である。

しかし少女は、俺の質問に対し恥ずかしそうにモジモジしながら答えるのだった。


「私?私はその…、名前がないの」


「名前が、ない?」


「うん、私親に捨てられた子なの。私を拾ってくれた爺ちゃんも、私に名前を付けてくれなかった。いつも、おい、とか、お前、とか呼ぶんだもん」


名を持たぬ子供。

薄汚れた衣服。

親に捨てられた。


嫌な記憶がフラッシュバックする。


「その爺ちゃんとやらが、さっき言ってたお友達か?」


「ううん。爺ちゃんは一年前に死んじゃった。ルーイは、また別の友達だよ」


首を横に振りつつ、しかし悲しそうな素振りも見せずに語る少女。


「はぁん。しかし、名前がない、とは…」


「やっぱり、変、かな?」


表情を曇らせて少女が尋ねてくるが、しかし。


「かははっ」


お笑い草である。


「気にすんな、おちびちゃん。名前なんて俺にもねえよ。しかし、これまでちゃんと生きて来れたぜ。立派じゃないにしても、な」


「えっ、お兄ちゃんにも名前がないのっ!?」


「ああ、お互いろくでもない親の元に産まれてきたらしいな。名前がないっつーのは、なんつかーか、こう、自分の存在理由ってのを疑いたくなるよなぁ」


「え、えっと…」


俺の言葉に少女は賛同するでもなく、曖昧に笑うだけだった。


「俺はよ、自分に名前がない代わりに、相手の名前を覚えるのが好きな訳よ。相手の名前を覚えるってことは、相手の存在をいつまでも覚えていられるってことだ。相手の存在を覚えていれば、いつだって、自分はこの世界でたった一人じゃないって思えるだろ?どうだい、素敵でロマンチックな考えだろう」


「うんっ。私もそう思う!」


今度は賛同してくれるらしく、満面の笑みを浮かべて笑いかけてくる。


しかし、俺の本心は今言ったことと全くの真逆であった。


他人の名前を覚えること。それは、俺にとって、殺す相手の名前を覚えることだ。

相手の名前を覚えることで、また一人、俺の周囲から人が消えることを意味した。


なのに、その時の俺は一度死にかけて九死に一生を得たせいか、それとも少女の笑顔に昔垣間見たあの人の顔を思い出したのか、どうしてか、らしくもないことを次の瞬間には口に出していたのだ。


「よし、じゃあ俺がお前に名前を付けてやろう。命の恩人に、俺からなけなしのプレゼントだ」


「えっ、本当っ!?」


身を乗り出して、驚きの声を上げる。


その瞳は無邪気に輝いている。


「ああ、お前さんを拾ったっていう爺様じゃあないが、命の恩人に対して、おい、だの、お前、だのいつまでも呼ぶ訳にもいかんしな」


「じゃあ、どんな名前をくれるの?」


キラキラした瞳で俺に尋ねてくる。

そんな期待された顔をされると、逆に変な名前を付けてやろうかという気になるのが俺のひねくれたところではあるが…。


「そうさな、名前がないから“ナナシ”ってのは、いくらなんでも安直過ぎるか?お前さん、一応女の子だしな。もっと可愛いのがいいかい?」


「ううんっ。それでいい。それがいいっ!」


え、マジか。洒落のつもりで提案したんだが、了承されるとは思わなかったぜ。


もっと可愛い名前を先に挙げるべきだったか、こりゃ。


しかし、少女は俺の煩悶に気付くこともなく、何度も言葉に出しては嬉しそうに確認していた。


「ナナシ…ナナシ…。これが私の名前なんだ。私は今日からナナシだよ!わーいっ」


嬉しそうに笑いながら、その場でくるくると踊り出す。


まぁ、本人が嬉しそうなら、それでいいか。


「やれやれ…」


まぁ、たまにはこういうのもいいものだ。


いつまでも殺し殺されってのも、うんざりするものだからな。



こうして、俺とナナシとの夏の間だけの奇妙な共同生活が始まったのである。まる。




※※※※




その日の夜。


俺は小屋の外に人の気配を感じて自然と目を覚ました。


いくら重傷を負って寝込んでいるとはいえ、そこはそれ、腐っても依頼達成率100パーセント(だった)自称凄腕の暗殺者こと、俺である。


剣の鍔鳴りの音や鎧の軋む音には敏感なのだ。


いつでも対応できるように、ベッドから身体を起こし、部屋の扉へと近づく。


ナナシは今この部屋にはいない。

居間でルーイとやらと一緒に寝ているのだという。


暫くすると、小屋の玄関をノックする音が響きだした。


外には、少なくとも帯刀した男達、3名は存在している。

しかし、警戒心は感じ取れるが、殺気までは感じない。

そういった気配は、足音、身動ぎの音、呼吸の間などから感じ取れるものだ。


少なくとも、物盗りの類ではなさそうだが…。


「はぁ…い…」


ノックで目を覚ましたのか、ナナシが声を掛けて扉を開ける音が聞こえる。


「夜分済みません。我々は、怪しい者ではありません。ウィーグランの街の自警団の者です」


耳を当てている扉の向こうから、男が何かを見せる動作の気配が感じ取れる。


ウィーグランの街。

いよいよもって、嫌な予感がしてきたな、これは。

あの街から来たってことは…。


「はぁ。それで何の用でしょうか?」


「その前に、この家には君以外誰も居ないのか?」


「うん。居るのは私とルーイだけです」


「わうわうっ」


ナナシの言葉に応えるように、犬の鳴き声が聞こえる。


つーか、ルーイって犬だったのかよ。


犬をたった一人の家族とか言ってたのか、あのおちびちゃん。何とまぁ、悲しい奴よ。


「ふむ、そうか。まぁ、いいだろう。実は、三日前の晩に、バレンシア公爵様の館に、賊が忍び込んだのだ」


「えっ!?」


ナナシが驚く声が聞こえる。


レジナルド・バレンシア。

王国の元老院の重鎮で、引退した後も、政財界に強い影響力を持つ貴族の中の貴族。

また、熱心な教団信徒としても知られ、数々の功績から枢機卿の称号までも法王府から与えられた、大物である。


引退した後は、王都を離れて、北半分を森に囲まれた緑豊かな街、ウィーグランに館を構えて隠棲しているとの話だったが…。


「公爵様はご無事だったんでしょうか?」


「ああ、幸い公爵様はご無事だ。恐らく賊の狙いは公爵様のお命だったのだろうが、あの方の屋敷には屈強な警備兵が揃っているからな。賊は公爵様の元に辿り着くこともできず、手傷を負って街外れの森へと逃げ込んだらしい」


ふん。別に屈強な警備兵とやらにやられた訳じゃねーけどな。

まさかあの連中が公爵の館に居たとは思わなかっただけだ。

あの忌々しい十字狂い(、、、、)、め。


「森へ…」


「うむ。目撃情報によれば、その者は横腹と肩に矢傷を負っている筈だ。相当の深手を負ったらしいのでな。逃げ去ることもできずに、まだこの森のどこかに潜んでいると我々は踏んでいるのだが、君はそれらしい者を見なかったかね?」


「………」


やれやれ。

どうやらここまで、かね。

この傷じゃ、まだそう暴れることもできそうにないしなぁ。


俺みたいな悪党に、そうそう奇跡って奴がある訳ねーか、やっぱ。


教会の連中もたくさん殺したしなぁ。神様に嫌われて当然っちゃ、当然だけどな。


「いえ、見ませんでした。それに私、森は危ないのであまり奥までは入らないんです」


って、おいおい神様。

この展開は予想してなかったぜ。

今際の台詞まで考えていた俺の立場ってもんがねーじゃねーか。


「……そうですか。では、見かけたらすぐに街の自警団の者にお知らせください。間違っても、話しかけたりすることのないように。賊は、随分と凶暴な者のようなので」


「分かりました。そうします」


「では、ご協力感謝します」


自警団の男達は、そう言って小屋から去っていった。


男達の足音が聞こえなくなってから、暫く経った後に。


「はぁ~~っ」


ナナシの大きな溜息が聞こえてきた。


「くぅーん」


ついでにルーイとやらの心配そうな鳴き声も。


「あぁ~、怖かったよー、ルーイっ」


言葉の通り、ナナシの声には若干震えと涙が混じっているように聞こえた。


そんなに怖かったのなら、俺のことなんてさっさと売ってしまえば良かったのに。


変な奴だ。


ナナシがこちらに向かってくる足音が聞こえてきたので、俺は気配を消してさっさとベッドの中へと潜り込んだ。


寝たふりをしていると、耳に届いたのは扉が開く微かな音と、こちらへ近づいてくる小さな足音。


静寂、後、誰かが俺の顔を覗き込んでいる気配がする。


ここで、いきなりナイフでぶすり、なんて展開なら面白かったのに、当然、そんなことはなく、そのままの状態が暫く続いた。


「ナナシ…、か。えへへへっ」


そして、小さな呟き声で、嬉しそうな笑い声が聞こえてくるのだった。




※※※




結局、負った傷が完全に回復するまで一週間近くかかってしまった。

俺の身体の特殊性から鑑みると、むしろ治るのが遅かったと言うべきかもしれないが。


その間、俺はナナシと会話することで日がな一日過ごしていた。


話をしていて分かったことは、この小屋はウィーグランの街外れにある森の中にあり、ナナシは森に生えている薬草や食べられる茸などを採って街へ売りに行き、それによって生計を立てていること。

森の中に捨てられていた幼いナナシを拾ったのがこの小屋の元々の持ち主だった猟師の爺様で、爺様が一年前に老衰で死んでからは、この小屋でルーイと共に暮らしていること。

ルーイは、爺様が飼っていた猟犬だったこと。

等々…、である。


ノッドラートとの戦争も始まったこのご時世、小さな女の子一人で生きていくことの過酷さは論を待たないところではあるが、自らの境遇を語るナナシの口調はその過酷さに反し、存外無駄に明るく楽しげなものであった。


いや、ナナシは、いつだって楽しそうに笑っており、その表情を曇らすことは滅多になかった。


まるで、笑っていないと、生きていけないかのように。


それが何とも、俺を苛つかせるのだった。


「あっ、お兄ちゃんもう起きても大丈夫なの?」


ようやく傷も塞がり、体力も回復しただろうと踏んで、ベッドから起き上がり、固まってしまった関節をほぐすように柔軟体操をしていた俺に、ナナシが朝の挨拶もそっちのけで話しかけてきた。


「おう。この一週間、色々と世話をかけたな」


「ううんっ。新しい家族ができたみたいで、楽しかったもん。ねぇ、ルーイ?」


「バウっ」


やっぱり楽しげな表情で笑うナナシ。


新しい家族、ねぇ。


それはさておき。


「何とか身体を動かすこともできるようになったし、リハビリも兼ねて身体を少し動かしときたいんでね。何か手伝えることがあるんなら何でもするぜ?」


「えっ、本当?」


「おう。何なら王様を殺して来いってのでもいいぜ。だけど、神様だけは勘弁な」


「もうっ。そんなこと頼まないよっ」


「かははっ」


頬を丸めて膨れっ面をしていたナナシも、俺の笑い声に合わせてすぐにだらしのない笑顔に戻る。


「それじゃあ、今日朝ご飯を食べたら街に行こうと思っていたんだけど、手伝ってくれる?」


「街へ?ああ、行商にでも行くのか」


森で採った薬草とかを売りに行くって言ってたな、そういえば。


「うん。二週間に一回、街の薬屋さんと酒場の人が、薬草と食べられる山菜とかを引き取ってくれるんだ」


「へぇ。そりゃ結構なことだが、付き合えってんなら、付き合うぜ。荷物持ちでも何でも言ってくださいよ、お姫さん」


「ありがとう、お兄ちゃん。いつもはルーイに手伝ってもらってるんだけど、二週間分の食料とかもついでに買って帰るから、家に帰るまで色々と大変なの」


まぁ、その小さな身体じゃ大変だろうよ、そりゃ。


「嬉しいなぁ。お兄ちゃんと初めてのお出かけだっ」


「かっ。そんなに喜ぶようなことかねぇ」


嫌がられるよりは、いいかもしれんがね。




森の中の小屋から街までは、片道一時間かかる道のりだった。

大人の足であれば、もう少し早く着くこともできるだろうが、いかんせん、ちっこい背丈のナナシの足では、どうしてもそれくらいかかるのである。


ウィーグランの街。

王都から南東に馬車で三日程走ったところに位置する、中規模の街である。

この街の特徴と言えばなんと言っても、街の北半分が森に囲まれていることであり、この森をずっとずっと東へと辿っていくと、ノッドラートの国境沿いにある大森林が見えてくる。

二年前にノッドラートとの戦争が始まった今では、国境沿いの道は騎士団によって閉鎖されているらしいが、森に囲まれたこの街には、未だ戦火の炎は届いてはいなかった。

平和そのものである。


「やれやれ。そんで、その薬屋と酒場とやらはどこにあるんだ?」


「えっとねー、もっと街の中心部にあるんだよ」


平和ボケしてそうな街の住人達が行き交う路地で、ナナシに尋ねると、ナナシはニコニコしながら道の先を指差した。


「そうかい。んじゃとっとと行きますかね」


「うんっ」


薬草や山菜が詰まった籠を背負い直すと、ナナシとルーイを先に歩かせながら、俺は再びその後ろを付いて歩く。


未だに俺を追っているのか、街の端々に自警団の連中が目に付いた。

が、俺の面は一応割れてはいない筈である。いきなり道端でとっ捕まるようなことはないだろう。



事実、俺の予測の通り店に着くまで何事もなかった訳だが…。



――あら、また来たのかい。あんたの爺さんには世話になったから一応は相手をしてあげるけど、本当ならそんなことする必要もないってことちゃんと分かっているんだろうね?いつも脳天気な顔をしてるけどさ。




――チッ。名無しのガキが。ほら、これで買ってやるからさっさと商品をよこしな。あぁ?少なすぎるだぁ?何様のつもりなんだ、お前は。買ってやるだけでも、有り難いと思えよ、図々しい。ったく。




「えへへっ。今日も何とか買ってもらえました。良かったです」


薬屋の店主や、酒場のマスターから明らかに歓迎されているとは思えない扱いを受けてもなお、ナナシは楽しそうな笑顔を見せていた。


毎日危険な森に行ってコツコツ集めてきた薬草や山菜を二束三文で買い叩かれても、まるで気にもしていないような顔をしながら。


俺はその様子を、ただじっと後ろから眺めていた。


よくある話だ。


森に捨てられていたような小さなガキを真面目に相手にするような大人は、まぁそういないだろう。

だから、彼らの対応は別段責められるようなものではない。

むしろ、ちゃんとした対応をするような奴が変人ってだけだ。


「………そんで、これから食材とか日用品を買いに行くんだろう?帰りもちゃんと荷物持ちをやってやるから、さっさと行くぞ、ほら」


「うんっ」


ナナシの元気のいい返事を聞きながら、酒場の裏口がある路地から表通りに出ようとすると――。


急にルーイが唸り声を上げて前を睨み始めた。


「ど、どうしたのルーイ?」


「どうやらお前にお客さんらしい」


路地の奥から、ニヤついた笑みを浮かべた小汚い風体の男が二人、こちらを見ていた。


「よう。今日もちゃんと売りに来たのか、偉い偉い」


「偉い嬢ちゃんのことだから分かっているとは思うが、俺たちに渡すべきものも忘れていないだろうなぁ?」


そう言いながら、二人はこちらへ近づいてくる。


「あん?」


事情を問いただすべく、ナナシに目を向けると。


ナナシは、笑顔を浮かべながら、それでも眉をひそめて恐怖を顔に滲ませていた。


そしてその笑顔は何とも歪んで―――醜かった。


「あっ、あの、今日は、お兄ちゃんと、夜にたくさんご飯を食べる予定なんです…っ。だから…きゃあっ」


ナナシが言い終わるのを待たず、男はナナシのくすんだ灰色の髪を無造作に掴んで乱暴に投げ捨てる。


「そんな話は聞いてねぇよ、ガキが。俺たちが酒場のマスターを紹介してやったんだろ?だったら、きちんと仲介料ってものを支払ってもらわねぇとな。それが大人の仁義ってもんだぜ」


倒れ伏したナナシを見つめながら、酷薄に笑う。


傍にいたルーイがそれに反応して男たちに噛み付こうとするが、もう一人の男に蹴り返されて跳ね飛ばされた。


それでも気丈に唸り声を上げながら、再び立ち上がろうとするが…。


「だ、だめっ、ルーイ…、大人しくして」


ナナシが倒れたまま、首を振ってルーイに否定の意を示していた。


「初めっから、そうしとけばいいんだよ、ったく」


いらただしげに、舌打ちをする男たち。


弱き者が、さらに弱き者を叩く、か。なんともはや、くだらないことだ。


笑う男たちに、倒れたままのナナシ。

その口元には、まだ、歪んだ笑みが見て取れる。


それがどうにも、俺を苛つかせるのだった。


「おい」


だから、傍観するつもりだったのに、ついつい声をかけてしまった。


「あぁ?誰だ、お前」


頭の悪そうなチンピラがこちらを睨み付けてくるが、そんなものは無視だ。


「ナナシ、助けて欲しいか?」


「………えっ?」


驚いた様子でこちらを見つめ返す。


「いや、この期に及んでまだ笑ってやがるからよ。真性ドMなのかと思ったんだが、助けて欲しいのなら声に出して言えよ。じゃなきゃ、誰にも届かねぇ」


「お前、何訳わかんねぇこと言ってんだ、おい!」


チンピラ達がこちらに近づいて、恫喝してくる。

が、俺の目線は倒れているナナシに向けられたままだ。


「声に…出す…」


自分を助けてくれる人なんているはずないとでも思っているのか?

まるで考えもしなかったような提案を聞かされたみたいに、ポカンとした表情を見せていた。


「で、どうなんだ?」


頭を掻きながら、心底どうでもいいような口調で問い返す俺に、ナナシは数瞬迷った様子を見せ、それから――。


「た、助けて…、助けてお兄ちゃんっ!」


目を瞑り、あの笑みを止めて、声高らかに助けを求めた。


「あいよ」


「おい、お前、何勝手なこと――ぶげぇっ」


後ろを振り返り、ナナシに再び暴行を加えようとした男の側頭部を、力任せに蹴り飛ばした。


ただそれだけで、まるで壊れた人形のように跳ね飛んで路地の壁に激突し、沈黙。


「てめぇっ!」


隣の男が、すぐに反撃に移ろうとするが――。


殴りかかってきたのをヒョイと横に避けて、そのまま足を払う。


「だぁっ!?」


無様にその場で転んだのを見届けた後、俺は足下に転がっている男の顔面を無造作に踏みつぶした。


「ぐえぁっ!」


何かが潰れる音と、蛙の鳴くような男の悲鳴が聞こえた後、この場に動いている者は誰もいなくなった。


「やれやれ。リハビリにもならなかったな」


嘆息し、倒れたままこちらを見ているナナシの方に目を向ける。

傍には、申し訳なさそうな顔をしながら、頭を垂れてナナシの顔を舐めているルーイ。


「大丈夫だったか、おい」


ナナシの目の前に近づき、しゃがんで目線を合わせてやると。


「………ふえぇっ…」


ナナシは半泣き半笑いみたいな変な表情を見せながら、やっぱり変な呻き声をあげるのだった。





「すごいっ。すごく強いんだねぇ、お兄ちゃんっ。かっこよかったよっ!」


帰り道。

ナナシは俺に助けてもらったのが嬉しかったのか、いつもの倍のテンションでずっと俺を褒めそやしていた。


「だろう?今度からは、何かあったら俺に言えよ。お前は命の恩人だからな。困ったことがあったら助けてやる」


空になった籠を担ぎながら、調子の良いことを言う俺。

しかし、依頼に失敗してしまった今、俺は暫くはそうしてナナシの面倒を見てやってもいい気分にはなっていたのだった。


「ほんとう?嬉しいなぁ。嬉しいなぁ」


ピョンピョンとステップしながら山道を歩く。

今にもこけそうで、危なっかしくて見てられないのだが。


「でも、お兄ちゃん。本当に強かったねぇ。何か武術とかやっていたの?」


「あん?まぁ、そうだなぁ。暗殺術を、ひとつ嗜んでいまして」


「あんさつじゅつ?」


何やら間延びした言い方で聞き返してくる。


「いんや。何でもねぇよ。お兄ちゃんは産まれた時から超強かったのさ。いわゆる一つの天才ってやつだな。すげえだろ」


「うんっ。すごいっ。じゃあ、勇者様より強いの?」


無邪気な顔して尋ねてくる。子供のような稚気にまみれた質問だな。

勇者ウィル・レッドライト。約七十年前に魔王を討伐した英雄。


「そうだなぁ。もう生きちゃいねぇだろうが…、戦ったら俺が勝つね」


目をキラキラさせて話を聞いてくるナナシの様子が面白くなって、適当なことをとりあえず言ってみる。


「すごい!じゃあ、龍騎士様となら?」


「龍騎士、ねぇ」


“武龍の試練”を制覇した英雄達。

王国最強の騎士アルバート・コーンフィールド。

聖騎士アナスタシア・ソードレス。

深緑の魔女ルールールー・ムーンリバー。


どいつもこいつも化け物じみて強いって噂だが…。


「まぁ、六対四で俺が勝つだろうな」


根拠は一切ない。

会ったことすらねぇしな。


「わぁー。それじゃあ、武龍様とだったら?」


「そいつぁ、やってみなくちゃ分からないなぁ」


武龍。

王都の北にある、ノーザリン山脈の山中にある古城に棲むと言われる、伝説の龍。

武の神様とまで讃えられ、幾人もの武芸者達が戦いを挑んでは、誰も勝つことができなかったと言われている。


まぁ、コソコソと暗殺するしか能のない俺に勝てるような相手じゃないだろうが…。


「きっと、お兄ちゃんなら勝てるよっ!」


それでも、ナナシは俺の勝利を疑っていないようだった。


「かははっ。そんときゃ、俺も龍騎士様だな」


「お兄ちゃんならきっとなれるよっ!そうなったら、私毎日ご飯作ってあげるね」


「そりゃ嬉しいね。そんじゃ、いつかお前のために武龍に挑んでちょっくら英雄様になってきてやるよ」


「わーいっ。約束だよっ!」


「バウっ」


ナナシの笑い声に合わせて、隣のルーイも鳴き声をあげる。


「かははっ」


苛つかせるだけだったナナシの脳天気な笑顔を見て、けれども何故だが俺も嬉しくなって、一緒に笑い声をあげるのだった。




※※※※




それから。

それから俺は、自分でも意外なことだが、数ヶ月の間ナナシと普通の家族のような生活をした。


朝起きておはようを言い、笑いながら朝食を食べ、昼には森へ薬草や山菜を採りに出かける。

日の光を浴びながら、静謐な空気が漂う森の中で昼食を食べ、そのまま木陰で仲良く昼寝をする。

夕方にはちょっとしたことで喧嘩をして、けれども夕飯時にはお互い相手の好物を譲り合いながら仲直りをする。

寝る前には星の光を浴びながら王国各地のお伽噺を話してやって、虫の鳴き声を子守歌に古ぼけたベッドで闇を避けるように一緒になって眠る。


そんな一日を繰り返し、繰り返すことに疑問を持たず、己の出自さえ忘れて、身を焦がす信念さえも置き去りに、共に笑い、共に怒り、まるで人間のように暮らす。


そんなことが出来るような人間だっただろうか、俺は。


俺の手は血に塗れ、俺の耳は断末魔の悲鳴が断続的に鳴り響き、俺の目には死しか映っていなかったはずだ。


産まれてからずっと、そうだったはずだ。


けれども俺は、確かにその数ヶ月間、夏が終わるまでは、あの森の中で、ナナシとルーイと共に、まるで人間のように、まるで人間らしく、まるで人間そのものの暮らしをすることができた。


それだけは、確かだったのだ。


そして俺はそのことを、それからの気が狂う程長い長い間、忘れることなく覚えていることになった。




終わりは唐突にやって来た。

一通の手紙という形をとって、夏の終わりと共にやって来たのだった。



「今日もいっぱい採れたねぇ、茸」


「ああ。だけど、こんなに採ってどうすんだ?誰が食べるんだよ、これ」


その日、森に茸取りに出かけていた俺たちは、籠一杯の茸を採って、家への帰り道を歩いていた。


「もちろんお兄ちゃんだよっ。私、たくさん茸料理作ってあげるね」


「そりゃ嬉しいが…、って、何だこりゃ」


小屋へと辿り着くと、入り口の扉に一通の手紙が挟まっていた。


「わっ、お手紙だっ。誰がこんなところまで持ってきたんだろう?」


はしゃぐナナシを尻目に、とりあえずその手紙を取ってみる。


豪奢な羊皮紙に包まれており、立派な封蝋が押されてある。


そして、この紋章は―――。


「二つ首の蛇に、獅子の紋章……っ」


「どうしたの、お兄ちゃん?」


ノッドラート王家の紋章!

何だってそんなものが押された手紙が、ここに――。


「………ナナシ、お前確か字が読めないんだよな」


「えっ、う、うん…」


「じゃあ、俺が先に読むぞ」


ナナシの返事も聞かずに、俺は封印を破り中の手紙を取り出して、読む。


そこに書かれていることは――。


「………………かはははっ」


「ねぇ、お兄ちゃん。何が書かれてあるの?」


こいつぁ、何と言うか、予想外の展開だが…。



「この手紙、どうやらお前の母親からのものらしいぜ」


「………えっ?」


キョトンとした顔をして、こちらを眺めてくる。


「おかあ、さん?」


「ああ。この手紙によるとだな、お前の母親はノッドラート王家のさる高貴な血筋の持ち主らしいが、訳あってお前を育てることが出来ず、断腸の思いでお前を捨てたらしい。が、それは不本意な出来事であって、今までずっとお前の消息を探していたところ、今になってようやくこの森で暮らしていることが判明したので、もし良ければ三日後の夜にこの小屋で会いたいそうだ」


「えっ。えっと……、ふぇ?」


急に捲し立てられて、混乱した様子で間抜けな声を出しているが、無理もねぇか。


「よーするにだ。お前の母親がお前に会いたいんだとさ。どうするよ?」


「………おかあさん。私の、おかあさん」


確認するように、何度も呟く。


「ああ。お前は会いたいか?会いたいんなら、俺も付き合ってやるよ。だけど、もし、会いたくないんなら、俺が追い払ってやる」


俺の話を理解したらしく、弛緩していた顔が赤く染まり出し、瞳には生気が。


「私、私…、会いたいっ。おかあさんに会いたいっ!」


「そうかい。んじゃ、三日後にこの小屋にいりゃ会えるさ。お前の母親にな」


「三日後っ!わわわっ、大変だっ。急いで掃除しないとっ。あっ、あとご馳走も用意しないと!」


急に慌ただしい様子でルーイと共に家に入り、中でドタバタに動き回る気配が聞こえてくる。


「………おかあさん、ねぇ」


しかし俺は、手放しには喜べないでいた。

ノッドラート王家の紋章。

それがどうにも俺に不吉な予感を感じさせた。

俺が今まで暗殺者として生きて来られたのも、ここぞという時に直感が冴え渡っていたことにある。


今回失敗した依頼も、話を聞いた時から嫌な予感がしていたのだ。

そして俺は死にかける程の傷を負い、無様に仕事に失敗した。

その時と、同じ嫌な予感がするのだった。



喜びから有頂天になって家を動き回るナナシに付き合っている内に、瞬く間にその三日後がやって来た。


その日ナナシは朝から落ち着かない様子で家の中をウロウロ歩き回り、ことある事に俺におかあさんはどんな人なのかと聞いたりしていたが、夕方になり、夜が近づくにつれて、段々口数も減り、何かを考え込むように静かに椅子の上に座っているようになった。


俺はそんなナナシの様子を、ただじっと静かに眺めていた。


その日の夜は、秋の始まりを感じさせる、見事な満月の夜だった。


「………夜分、失礼する」


ナナシが気合いを入れて作った料理が冷めてきた頃、ノックの音と共に手紙の主はやって来た。


「っ!は、はいっ!開いてますっ」


ナナシが慌てた様子で外に声をかける。


扉を開けて、入ってきたのは――。


「っ!」


これは…、嫌な予感が当たったようだな、おい。何の冗談なんだ?


入ってきたのは、三人の人物。

一人は、ノッドラートの騎士鎧を身に纏った、屈強な様子の男性騎士。

一人は、頭からフードを被って顔を隠している、小柄な人物。

そして、最後の一人は、十の十字架が彩られた純白の鎧を着た、精悍な顔立ちの女性騎士。


あの鎧は―――法王府の“十十字軍”!

何だってこんなところに十字狂いの連中が!?


「あ、あなたが私のおかあさん、ですか?」


俺の狼狽に気付くことなく、ナナシは純白の女性騎士に話しかけている。


「いえ、違います。…さあ、王妃殿下」


毅然とした様子で返答した女性騎士は、そのまま後ろに控えていたローブの人物に目を向ける。


「はい」


そのままローブを後ろに取ると――。

絹のような美しい白銀の髪を腰まで伸ばし、褐色の肌に栗色の瞳。

美しい顔立ちをそのままに、ナナシに向かって微笑みかけている妙齢の女性。


「―――まさか」


俺があげた小さな驚きの声は、しかしその場にいた他の誰も気にすることなく、事態はまさにナナシと生き別れの母親との感動のご対面へと移っていた。


「この方は、ネフェリアル王妃殿下。トレンディア国王のお后様です」


第15代トレンディア国王、オルフィオ・フォウ・トレンディアの正妻!

トレンディアとノッドラート、両国の和平のためにトレンディア王に嫁いだノッドラート王の王弟の娘。

そして―――敬虔な教会の信徒。


そんな、そんな馬鹿な…っ!


何でこんなことに…?


これは一体誰が描いたシナリオなんだ…?


なぜ、なぜ今になってここに王妃が現れるんだ…っ!


「あぁっ…っ。一目で、一目見て分かりました。貴女は、間違いなく私の娘です」


俺の目の前では、ナナシの姿を見て感極まった様子で涙を流す王妃の姿が。


しかし、俺にはそれがどこか現実離れした寸劇のように見える。


「私と同じ白銀の髪に、あの人と同じ藍色の瞳。それに何より、顔立ちがあの人そっくりだわ…っ」


いつもはくすんだ灰色の髪をしているが、今日は母親に会えるかもしれないということで、ナナシはその髪を隅々まで洗い、俺が丁寧に櫛を通して整えてやっていた。

だから、今ではナナシの髪は美しい銀色に見える。


「あ、あのっ…」


ナナシはおずおずとした様子で王妃に手を伸ばそうとするが、途中で何かに迷うにように手を止めて元に戻した。


「………そうですね、私は貴女に許してくれと言える身分ではありません。許して欲しいとも。だけど、貴女には聞いてもらいたいのです。なぜ、私が貴女を育てることができなかったのかを」


それから王妃が語った物語は、実にありふれていて、陳腐で、一山いくらの、くだらない三文話だった。


しかし、だからこそ、その物語には虚偽はなく、全てが真実だったのかもしれなかった。




――今更言うまでもないことかもしれませんが、私の名前はネフェリアルと言います。

今でこそこの国の王、オルフィオの正妻ですが、それ以前はノッドラート現国王の王弟の娘でした。

そして、私の産まれてきた意味は、私が産まれるより遙か前に私の知らないところで決定されていました。

すなわち、幾度となく戦火の火花を散らしてきた、トレンディアとノッドラートとの和睦のため。

ただそのための道具として産まれたのが、私です。

当然、産まれた時から今後トレンディアを継ぐであろう若き王、オルフィオの妻になることが決まっていました。

それ以外の人生は一切用意されていませんでした。

しかし…、しかし私は恋をしたのです。

15歳の時に。

私は今の夫のことを深く愛していますが、けれど、恋をしたのはあの時が最初で最後だったのかもしれません。

その相手こそ、貴女のお父様です。

彼は、私の住む後宮の警護に当たっていた中級騎士の一人でした。

後宮の中に入ることを許される身分ではありませんでしたが、それでも、私と彼は人目を盗んで逢瀬を重ねるようになり、深く、愛情を育んでいくようになったのです。

あの頃の私にとって、話したことすらない隣国の王に嫁ぐよりも、彼と添い遂げることだけが自らの生きる意味だと信じ切っていたのです。

そして、彼もそう思ってくれているはずだと信じていました。

けれど、蜜月の時はそう長くは続きませんでした。

私達の仲を知っていたのは、私の専属の侍女であった女性と、彼女の父である騎士だけでした。

そこに無口で無骨そうな騎士が立っているでしょう?

そう、その人です。彼が侍女の父親だった騎士です。

私がオルフィオに嫁いだ後も、ずっと影ながら私を守ってくれているのです。

こんな所にまで付いてきてくれて、感謝しようにもしきれないくらい、恩があるのですけれど…。

あら、珍しく照れていますわね。うふふっ。

………話が少しそれました。

私の知る限り、その二人だけが私達の仲を知っているはずでした。

しかし、それは子供らしい浅はかな思いこみだったのでしょう。

半年も経たない内に、私達の仲は城の高官達に発覚してしまい、私達は引き離されてしまいました。

彼は………、彼は私の知らないところで、秘密裏に殺されてしまったのだと、後で聞かされました。

私は何度も彼の後を追うことを考えましたが、けれど、それをすることは私にはできなかったのです。

その時にはもう、貴女が私のお腹の中にいたからですよ。

彼らが気付いた時には、お腹の中の赤ちゃんは殺して取り上げることが不可能な程に大きくなっていました。

だから、彼らは貴女を産むことを見逃してくれたのです。

産まれたその場で赤ちゃんを殺すこともできたのでしょうが、彼らは何故だがそれをしませんでした。

風の噂で、私の父が、赤ん坊を殺すことだけは止めたのだと聞きました。

父にとって、貴女は初めて孫にあたるから、と。

けれど、真相は分かりません。

その父ももう亡くなってしまいましたから…。

ともかく、どこの馬の骨とも知れない男の子供を産んだ私の商品価値は、売り物にならないほど落ちたことは確かです。

本来であれば、私は生まれたての赤ん坊と共に、用済みになる筈でした。

けれど、事が公にならないように、と貴女は私の手の届かない所に連れ去られてしまったのです。

ノッドラートから国境を越え、遠くトレンディアの地に捨てられたと聞いた時の絶望を、私は今でも覚えています。

私の、私達の、大切な赤ちゃんを…。

侍女や、彼女の父親は秘密裏に何度も貴女を捜して各地を回ったそうですが、貴女の消息は全く掴めませんでした。

そして、驚くべきことに、私もまた、そのままトレンディアの若き獅子、オルフィオ王のもとに嫁ぐことになったのです。

しかも、王は事情を全て知っていたのです!

なのに、優しい王は、全てを承知の上で、私を受け入れると言ってくれました。

例え君がその男のことを忘れられないのだとしても、私はずっと君の傍で待っていよう、と。

私は…、私は貴女の父以外の人を愛することになるなんて、夢にも思っていませんでした。

けれど、王はその言葉の通り、私が彼に心を開くまでの何年もの間、本当にただひたすら待っていてくれたのです。

この国で最も力を持っている男が、その力を使わず、ただじっと…。

私は次第に王に心を寄せるようになっていきました。

それは、貴女の父親に感じた激しく流れるような愛情とは別の、穏やかで静かな愛情でした。

王を愛せるようになり、幸せな日々をトレンディアの王宮で過ごせるようなっても、それでも私はずっと一つのことを忘れることはありませんでした。

それは、貴女のことです。

貴女のことだけは、ただそれだけは忘れることなく、私にとって唯一の気がかりだったのです。

私は貴女の父親が死んでからは、天上の神に救いを求めて教会の信徒になっていましたから、教会のネットワークを頼って貴女の行方をずっと捜していたのです。

それこそ、何年も、何年も、何年も。

そして、遂に貴女のことを見つけることができたのです!

それも、バレンシア枢機卿猊下のご協力があったからなのですが、ノッドラートとの国境付近の森に貴女が捨てられたという情報を得た私達は、王には内緒で、この近辺の捨て子を調べていたのです。

バレンシア枢機卿猊下が丁度孤児院を経営していて、ウィーグラン周辺の捨て子の事情に詳しかったのも行幸でした。

猊下のご協力のもと、私達は何度もこの地を訪れては、探してきたのです。

私と、彼の血を引く子供を。彼が生きて、確かに私と愛し合ったことの唯一の証。

それが、それこそが――。




「貴女なのですよ」


王妃は、目尻に涙を浮かべながら、感極まった様子でナナシに話しかけていた。

ナナシは王妃の話を信じ切れないのか、それとも信じて良いのか悩んでいるのか、嬉しいような、悲しいような、色んな感情が混ざり合った不思議な泣き笑いの表情を浮かべながら王妃をただ黙って見つめていた。


王妃の隣に佇んでいる、侍女の父親だとかいう壮年の騎士も、長年の宿願がようやく叶ったといった様子で、深く頷いていた。

十字狂いの女騎士だけは、無表情で王妃の隣に立っているだけだったが。


この女が王妃に協力しているのも、バレンシア枢機卿繋がりで、法王府から何らかの打診があったせいなのだろうか?


ともかく、これでようやく疑問の一つが解消された訳だ。


なぜ。


なぜあの時、あの晩に、あの館に、バレンシア公爵の居城に、十字狂いの連中が居たのか、ずっと疑問だったのだが、あれは俺を張っていた訳ではなく――。


この、頭の中まで蜂蜜で出来てそうな幸せな王妃様を守るためだった訳、か。


「今すぐ、とは言いません。私は何年も何年も待ったのですから。けれど、いつか、そう遠くない未来に、私と一緒に暮らしませんか?」


王妃は一歩ナナシに近づいて、手を伸ばしながら話しかける。

ナナシは後ろに一歩後ずさろうとし、けれど踏みとどまって、オドオドした様子で問い返した。


「だ、だけど………、私なんかが、一緒じゃ、迷惑なんじゃ……」


「そんなことはありませんよ。私がこの日をどれだけ待ち望んでいたか。夫も、貴女を王宮に連れ帰ることに了承してくれています」


「………王宮…」


「ええ。貴女の弟もいるのですよ。父親は違いますが、可愛い男の子です」


この間産まれた、第一王子のオラフのことか。


「ねぇ、私と一緒に帰りましょう?」


そう言って、ナナシに微笑みかける。


帰る。王妃はそう言った。帰る場所。ナナシの。


しかし、それは――。


「わ、私、私は………」


「きっとみんな歓迎してくれるはずです。そうなれば、貴女も王女様です。もう、こんな暮らしをしなくても良くなるのですよ!」


古ぼけた小屋を見渡しながら、まるで謡うように言葉を紡ぐ王妃。

確かに、ナナシにとってここでの暮らしは決して楽なものではなかったろう。


ナナシの隣で大人しく座っていたルーイは、王妃の言葉に少し反応してナナシの顔を見上げるように上を向く。


それでも、ナナシは何かを迷うに、何かを捨てきれないかのように、顔を小さく横に振りながら、答えを出そうとしていた。


ナナシは、王妃の話が始まってから、ずっと俺の顔を見ようとはしていなかった。


それはきっと――。


「そうだ!街の者に聞きました。貴女は名前すら付けられずに暮らしてきたのだと。かわいそうなことに」


「お、おかあさん。わ、わたし。私は…」


ナナシはその時確かに、王妃の伸ばした手を掴もうとしていた。

王妃の手を掴み、そして答えを出そうとしていたのだ。



けれど、彼女があの時王妃の提案にどう答えるつもりだったのかは、永久に分からずじまいとなってしまった。



「でも、もう大丈夫ですよ。貴女の名前なら、ちゃんとあるのです。あの人と、私とで決めた名前が」


王妃もナナシの答えに応えるように、彼女の小さな手を掴もうと手を伸ばし――。


「貴女の、本当の名前は――」


だけど、もう限界だった。



「かはっ。かははははっ。かははははは は は は  は  は   は   は   は  !」



「えっ?」


「お、お兄…ちゃん?」


突然爆笑を始めた俺に向けて、その場にいた全ての人間が目を向けた。


「そう言えば、貴方は…」


まだ笑い続ける俺に対し、不審そうに見つめながら王妃がナナシに尋ねている。


後ろの二人の騎士は、何かを感じ取ったのか、剣の柄に手を当ててこちらを見つめている。


「あ、あのねっ。この人は私のお兄ちゃんで――」


「かははははっ。これは何の茶番なんだ?誰が描いた喜劇だ!デウスエクスマキナはいつ現れるんだ!?」


笑い声を止めて、俺は天に向けて大声で叫ぶ。


「人は運命を変えられないのか?罪を償うことは?業を克服することはできないのか?」


「お、お兄ちゃん、どう…したの?」


ナナシは俺に声をかけようとし、けれども初めて表情に怯えの色を見せた。


その時の俺は、きっと牙を剥いて酷薄そうに笑っていたに違いなかった。


「あんたはどう思う、王妃様。あんたの運命は変わったのか?あんたが犯した罪は償われたか?あんたが負うべき業は克服されたと思うか?」


ああ。血の匂いがする。

数ヶ月ぶりに嗅ぐ芳しい香りだ。

俺にだけに香る、俺のためだけの原罪だ。


「な、何を――、貴方は一体?」


「今!ここで!俺が教えてやろう、王妃様。あんたの運命は変わることはなく、あんたが犯した罪も償われず、あんたが負うべき業さえも克服されることはない。永遠にな」


なぜなら。


「なぜなら――」


この部屋の中で一番早く異変に気付いたのは、ナナシの隣に寝そべっていたルーイだった。


俺の瞳の変化に気付き、敵意も露わに俺に向けて唸り声を上げ始めた。


「ル、ルーイっ?」


「き、貴様――っ!」


ルーイに続いて、後ろの十字狂いが気付くが、遅すぎる。

何て怠慢だ。許し難い程に。


今、俺の瞳は爛々と輝いている筈だ。



血よりも鈍く、錆色より鮮烈に、赤く!



「――あんたはここで死ぬからさ」



言葉よりも早く、花を摘むよりも軽く、俺は王妃様の細い細い頸に手を掛けて、そのまま力任せにねじ折った。


「―――え?」


骨が砕ける音が、鈍く辺りに響く。言葉もなく。


一瞬。静寂。後に――。


「貴様アアァァッ!」


十字狂いの女騎士が即座に腰の剣を抜き放ち俺に斬りかかろうとするが。


遅い遅い遅い!


一瞬で間を詰めて、抱擁するように彼女の身体に肉迫する。

愛を身体で語らうのだ。


「かはははっ!」


「――………そ、そん、な…?」


純白の銀の鎧を貫いて、自身の腹部を貫通している俺の腕を奇妙なもののように見つめている。


ああ。暖かい。

彼女の鼓動を感じるね。

血の滴る音さえ心地よい。


そのまま無造作に腕を引き抜いて、行動不能に陥っている女性騎士をそのまま後ろで惚けた様子でこちらを見ている壮年の騎士に投げつける。


「姫…様…?」


俺の後ろで倒れ伏して身動き一つしなくなった王妃様の姿がよほどショックだったらしい。


まぁ、どうでもいい。


女性騎士を受け止めつつも、こちらを向こうとはしない騎士にお別れの挨拶をすることにした。


「さようなら」


拳を握り、顔面に向けて右ストレート。

それだけで、瑞々しい何かが砕けたような嫌な音が辺りに鳴り響いた。


身体を痙攣させながら、そのまま騎士は物も言わずにその場に倒れ伏す。


そして、ようやく、静かになった。


後は、後ろで俺に向けて未だに唸り声を上げ続けているルーイだけが、この小屋の中で音を発し続けていた。


「なぁ、ルーイ。俺はお前を殺したくはないんだよ。だから、分かるよな、お前なら」


優しく微笑み掛けて、全てを迎え入れるように両手を広げる。


両手共に、真っ赤に血に塗れていた。


そして、俺の瞳を見たのか。

ルーイは、それっきり、唸り声を上げるのを止めて、ただただナナシを守ろうとするかのように、彼女の前に出た。


ナナシは。


ナナシはただじっと、目を見開いて動かなくなった王妃を見つめていた。

そこには、もうあの脳天気な笑みは見られなかった。


「ナナシ」


「っ!」


俺が声をかけると、まるで夢から覚めたかのようにびくっと身体を震わせて、そのままこちらへとゆっくり振り向いた。


「……あ、……あぁ…」


唇を振るわせ、焦点の合っていない瞳で。


「実はずっとお前に言ってなかったことがあったんだけどよ。俺ってば実は、“ダンピール”なんだよなぁ。知ってた?」


「……あぁぁ………」


意味をなさない呻き声を上げるナナシを無視して、俺は話を一人で進める。


「ダンピールって、知ってるか?女しかいないヴァンパイアと、運の悪い人間の男との間に極めつきに運が悪く産まれてくる子供のことを、そう言うんだけどな」


「………」


今、俺の瞳は自身が永遠の不死者共の血を引いていることを示すかのように、血の色に赤く輝いている筈だ。


「両方の特性を中途半端に受け継いでいるから、ヴァンパイア共みたいに不老不死って訳でもない。ちゃんと歳は取るのさ。人間の何分の一以下の速度だけどよ」


「………」


俺ももう、自分が今何歳なのか忘れてしまった。

まだ百年も生きてはいないはずだけど。


「けれど、人間って訳でもない。普段は陽の光の下を歩いても平気だし、力を出さなければ普通の人間と同じだが、一度力を覚醒させれば、ほら、この通り」


「………」


首が反対方向に折れ曲がった王妃。腹の真ん中に穴を開けて血を流し続ける女騎士。顔面を陥没させて痙攣している壮年の騎士。

どれもこれも、もう何かを喋ることもないだろう。


ヴァンパイアハンターを生業にしている十字狂い共、“十十字軍”の女騎士が俺のことに気付かなかったのも、俺が普段は人間と全く変わらない中途半端なヴァンパイアのなり損ない、ダンピールだったからだろう。


「そんでもって、こんな力を持って産まれてきたからさ、まぁ、真っ当な人生を送ることは難しくってなぁ。気が付けば暗殺業なんかを生業にしているって訳だ。笑えるだろ?かははっ!」


「………」


俺のことをゴミを見るような目で見ていた母親。俺のことを怪物を見るような目で見ていた父親。

そのどちらももういないけれど。

全く持って、お笑い草だった。

ヴァンパイアと人間とのラブロマンスの果てが、地獄のようなバッドエンドだなんて、俺の人生の始まりに似つかわしくって最高じゃないか!


「まぁ、それでよ、何ともくだらないことに、今回も俺は暗殺を頼まれていたって訳だ。いや、まぁ、嫌な予感はしてたんだよなぁ。無様に失敗して死にかけるしさ。まぁ、でも、そんなこんなで、今回の俺のターゲットってさ、そこに転がっている王妃様だった訳よ」


「………」


数ヶ月前、バレンシア公爵の館に王妃がお忍びで滞在しているという情報を裏からゲットした俺は、意気揚々と館に忍び込んで、そんでもって見事に返り討ちに遭ったのであった。


しかしまぁ、お忍びで滞在している理由については疑問だったが、まさかそれが生き別れの子供捜しだったとは、ね。


「んー、まぁ、ほら、この間トレンディアとノッドラートとの間で戦が始まっただろ?まぁ、戦自体、小さいのを両国共に過去に何度もやって来ているからな。お隣さんだし。今回もそんな小さな戦争で終わる筈だったんだよ。オルフィオ王は和睦推進派だし、王妃様はノッドラート出身だしよ。でも、戦争が簡単に終わってもらっちゃ困る人がいたんだよな、これが、困ったことに」


「………」


オルフィオ王はこの秋に向けて、ノッドラートとの間で和睦案を打診する腹づもりだったらしい。

当然、王妃もそれを知っていたはずだ。

だからこそ、戦争中にもかかわらず、国境沿いのこの街までわざわざお忍びで来られる余裕があった訳だ。


「戦争、戦争、大戦争!ってのが、今回の依頼主のご希望らしくてさ。まぁ、両国の架け橋とも言うべき王妃様がこんな国境沿いの街で死んでしまえば、王の和睦案なんてパーだろうしな。俺は戦争なんざどうでもいいが、しかし、残念なことに王妃は教会信者だしなぁ」


「………」


教会信者だけは絶対に殺す。

それが俺が暗殺者になると決めた際に、ただ一つ自身に課したルールだった。


「っとゆー訳で。一度は諦めた王妃暗殺が、まさかこんな形で実現するなんて夢にも思っていなかったぜ。いやはや、人生万事が塞翁が馬だな、こりゃ。かははははははっ!」


「………」


無反応。ただ、呆然と俺の顔を見ているだけ。

ナナシは。

ナナシは――。


「ははははは、はは、は、はぁーあ」


乾いた笑いを止めて、うんざりするような溜息を吐く。

事実、俺はうんざりしていた。

運命のくだらなさに。

何だって、俺はナナシに拾われたりしたんだ?

俺はあそこでくたばってしまってもいいと思っていたのに。

何だって、ナナシは俺なんかを助けたりしたんだ?

そして、何だってナナシの母親を名乗り出たのがよりにもよって王妃様で、それがわざわざ俺の目の前に現れたりしたんだ?

俺は本当に、もう、王妃暗殺なんてどうでもいいと思っていたのに。

どうでもいいと思えるようになっていたのに。

何でなんだ?

誰か俺の問いに答えてくれる奴はいないのか?


本当に、くだらない。


本当は、本当は――。


「本当は、よ。俺も実は――、いや、まぁ、いいか」


あまりにうんざりして、俺は言わなくても良いことを言いそうになってしまった。


依頼内容をベラベラ喋ったのも、本当に、言わなくても良いことを言いそうになっていたからだ。


本当は俺だって、ずっとこの生活を続けていたかった、なんて。


くだらねぇ。


「んじゃ、まぁ、そういう訳で――」



「………あぁ、………ああぁあぁああぁ」



俺が片手を上げて、颯爽とこの場を去ろうとすると、ナナシはそこで初めて反応を示した。


顔をくしゃくしゃに歪めて。

その大きな目一杯に涙を浮かべて。

両手を握り締めて。

小さな身体を震わせながら。



「ああああああぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



そのまま、大声を上げながら泣き叫んだ。


ああ。

俺はずっと。ずっとナナシの泣き顔が見たかったのだ。

笑い顔ではなく。

こんな風に顔をくしゃくしゃにして泣き叫ぶナナシの顔が見たかったのだ。



「いやだああああぁぁっ!行かないでぇぇっ!お兄ちゃあぁん!!」



まるで、まるで俺がたった今目の前で三人の人間を殺したことなんてもう忘れてしまったかのように。

俺がナナシの母親かもしれない女性を目の前で殺したことなんてもう忘れてしまったかのように。

追いすがるように、大声で泣き叫びながら、俺の足にしがみつこうとナナシは一歩足を前に出したので。


その泣き顔がとっても、かわいく思えてしまって。

それだけで俺は何だかとても満足したので。



「お兄ちゃ――」



「じゃあな」



別れの言葉も簡潔に、玄関の扉を開けて外に出て――。

そのまま無造作に扉を閉めた。



もう、ナナシの声は聞こえない。



大丈夫。きっとまた前へ向けて歩き出せるさ。


俺はもうお前を守ってやれないが。



「かはははっ!」



さーて、依頼達成までに数ヶ月も経ってしまったからな。

一応、依頼達成の報告でもしに王都にでも行きますかねぇ。

つっても、“伯爵”も俺のことなんざ忘れちまっているんじゃねぇかな。


だけど、まぁ。





俺は暗殺者である。名前は――、きっと今後もないだろう。




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