雪が降り注ぐ中、その大きな両翼を力強く羽ばたかせながら浮いている龍の姿は、どこか幻想的で、まるで物語の中の一コマのようだった。
そのまま、翼を一度はためかせた後、私達の眼前に白い龍は優雅に降り立った。
黄金色の瞳を、何とか立っている傷だらけの私達に向けた後、力強く頷いてくれる。
そして、コボルト達の方に顔を向けて、その瞳を細めた。
“人の庭先で、よくもまぁ、好き勝手にやってくれたものだな”
そう呟いた瞬間、辺りの気温が急激に上がったかのように感じた。
龍を包むその白い鱗がギラつくように輝いたのが見える。
それだけで、周囲にまだ数十匹と残っていたコボルト達が、怯えたように数歩後ずさった。
ああ、それは本能的な恐怖だ。生物としての。圧倒的な存在感。
しかし、私にとっては、彼の姿を見ていると、畏怖を覚えるのと同時に、身体の芯から温まるような、不思議な安らぎを覚えるのだった。
「――っ」
アインハート殿の姿を見て安心したのか、急に足に力が入らなくなって、その場によろけそうになる。
そんな私に気付き、姫様が駆け寄り、腕を取って支えてくれる。
涙目になりながら、それでも気丈に私を睨み付けている姫様は、やっぱり、とても可愛い小さな女の子だった。
………そうか。
ここはまだ帝国側の国境を越えてはいないとは言え、ノーザリン山脈の中腹までは来ていたのか。
人間の足なら王国まで何日もかかる山道でも、龍の身にとっては山脈全体が自身の庭同然、と言う訳か…。
私は姫様の腕を血に濡れた手で握り締めながら、安堵の息を吐き、そして目の前で勇壮な姿を見せている龍を見つめた。
「ハッ!こいつは、ちと予想外だったな。まさか武龍の大将が直々におでまし、とは」
ソニアさんと相対していた赤毛のヴァンパイアは、龍を警戒するように、大きく距離を取って後方へと跳んだ。
「………お前が。お前さえいなければ、姉様は」
人狼の少女も、ルビーさんから距離を取って、憎々しげに目を細めて、龍に向けて唸り声を上げていた。
“さて、君達が何者なのか私には皆目見当が付かないが、それはそれとして、友人達を傷付けられて黙っていられるほど、私は温厚ではないつもりだがね”
そう言って、その鋭い爪を研ぐように地面に突き立てる。
それだけで、周囲のコボルト達はさらに怯えた様子を見せながら後方へと下がった。
その様子を見て、人狼の少女が怒りに目を染めて、獣耳をぴんと立て牙を剥きながら怒鳴りつけた。
「何している!怯えていないで、あの龍の喉元に食らい付け!」
叫び声に呼応するように、数匹のコボルト達が恐れを振り切るようにその場を駆けた。
しかし。
ガアアアアアアァァァァァッ!
アインハート殿はその場で大きく口を開けて、耳が潰れるほどの大音量で咆吼を上げた。
傍にいた私達の身体にびりびりと衝撃が伝わってくるほどの声!
大きく開けた龍の口の中は、全てを塗り潰すほどに真っ赤で、その鋭い牙は全てを切り裂くように獲物を求めて輝いていた。
咆吼を目の前で受けたコボルト達は、完全に恐慌状態に陥って、武器をその場に捨てながら叫び声を上げ、一目散に崖の上へと駆け上がっていった。
それが合図だったかのように、残りのコボルト達にも恐怖が伝染したのか、数十匹が集団で怯えた唸り声を上げながら山の奥へと逃げ出し始めた。
「に、逃げるな!何をしている!お前達、あたしの言うことを聞け!」
山へと走り去っていくコボルト達を引き留めようと、人狼の少女が必死に叫び声を上げているが、コボルト達は彼女に見向きもせずに駆けていく。
“ふむ。獣とは言え、獣だからこそ、引き際だけは知っていたようだな”
逃げていくコボルト達を見ながら、感心したようにアインハート殿が呟く。
“それで、君達は引き際くらい知っているのだろうな?”
「――――ウウゥッ!」
龍の言葉に、人狼の少女は唸り声を上げて睨み付ける。
「よくも、よくもよくもよくもよくもよくもよくも!あたしの子供達を!」
そのまま飛び掛かるように姿勢を低く、牙を剥いて、爪を突き立て、憎しみの声を上げる人狼の少女。
そんな彼女の視線を遮るように、ルビーさんがアインハート殿の前に出て、槍を両手に構える。
「姉様!そこをどいて!そいつさえいなければッ!」
「お父様を傷付けることは、何人たりとも許しません」
ルビーさんの声を聞いて、人狼の少女は怒りを爆発させた。
「姉様ァッ!!」
地面に倒れ込む程前傾姿勢になり、その両足に少女が力を入れた、瞬間。
隣に立っていた赤毛の男が人狼の少女の肩を掴んで、彼女が駆けるのを止めた。
「離せぇッ!」
「馬鹿野郎が、止めておけ。コボルト共がいなくなった今、さすがにこの戦力差じゃ勝ち目はないぜ」
「―――~~ッ!」
悔しそうに唸る。
そんな少女の肩を掴んだまま、男はマリーと彼女の傍で構えたまま立っているソニアさんを静かに見つめた。
「あら。せっかく久しぶりに会えたというのに、このままおめおめと逃げ帰るのかしら、坊や」
「ちっ。うるせえ、ババア。いつまでもオレを子供扱いしてるんじゃねぇ」
忌々しげにマリーに向かって吐き捨てる。
「んふっ。昔は女の子みたいに可愛い坊やだったのに、どこでどう間違ってこんな不良になってしまったのかしら。教育を間違ったかしらね?」
楽しげに笑って、マリーは隣のソニアさんに話しかける。
「あんたに育てられた覚えなんざねえよ!」
「ガートルード。一族の忌み子である貴様を、拾って育てられたマリー様のご恩を忘れたと言うのか」
厳しい目つきで長身の男を睨み付けるソニアさんに対し、赤毛の男は一瞬遠くを見つめて、それから口元歪めて、笑った。
「ハッ!くっだらねぇぜ。そんな大昔のことは忘れちまったよ。今のオレはあの人のためだけに行動してるんでな」
「所詮、下賎な半端者か。動物の如く恩を忘れたばかりか、“伯爵”に毒されるとは」
蔑むようにソニアさんは呟いたが、さりとて、マリーの傍からは離れようとはしなかった。
マリーは、いつもの軽口を叩こうとはせずに、何故か悲しそうに赤毛の男を見つめるだけだった。
赤毛の男は、マリーのその視線を敢えて無視するように彼女から目線を外して、威風堂々と佇む龍へと目を向けた。
「古城に籠もりきりで、俗世の出来事になんか興味がないって専らの噂だったんだがな、大将」
“人の庭先で大暴れをしておいて、よく言う”
男の言葉に、アインハート殿は牙を剥いて笑った。
「ちっ。この場は退くがね。一つ忠告しておいてやらぁ」
“ほう、何かね?”
「あんた、うちのボスに大層恨まれてるぜ。何をしたのか知らないけどよ」
“ふむ。身に覚えがありすぎて、残念ながら分からないな”
右腕を器用に顎に当て、思案するように呟く。
「うちのボスは陰険でしつこいからよ。まぁ、精々寝首をかかれないように気を付けるこったな」
“ご忠告、痛み入る。覚えておこう”
まるで歯牙にも掛けていないかのように、言う。
そんなアインハート殿に対し、終始唸り声を上げながら人狼の少女が睨み付けていた。
「おい、逃げられるとでも思ってんのかよっ!」
赤毛の男に向かって、ギィが叫び声を上げる。
あれだけ戦った後だと言うのに、彼女の身体からはまだ魔力の波動が迸っていた。
魔術院始まって以来の天才と言われるだけあって、ギィの魔力の総量だけは院長にも匹敵すると言われているのだが、しかし。
「威勢の良い嬢ちゃんだな、おい。しかし、まぁ――」
言い、身を屈めて。
「思ってるけどなァ!」
そのまま男は風のように山へと駆けていった。
「あ、おい、待てっ!」
傍にいた人狼の少女も、もう一度唸り声を上げて龍を睨み、次いでルビーさんを数秒見つめた後、やはり疾風の如く崖を駆け上がっていった。
「待てーっ!こんの野郎ーっ!」
ギィが二人を追いかけるように走り出す。
が。
「お止めなさい。今はそれより、この子の治療の方が先決ですわ」
フィーの横腹に手を当てて、魔力を流し込みながら手当をしていたマリーが呟く。
「うっ、うん、……分かったよ」
若干不服そうな顔を見せたが、苦しそうな顔をして気絶しているフィーの顔を見て、ギィは走り出すのを止めた。
辺りを見る。
あんなに、まるで無限に沸いて出るように思えたくらいの、大量のコボルト達は今では影も形もなく、この場に残っているのは血の海に沈む数え切れない獣達の死骸のみ。
お、終わったのか?
そう思った瞬間、今度こそ全身から力が抜ける。
「ロ、ロゼっ!」
身体を支えてくれていた姫様が、急に倒れ込みそうになった私を両手で押さえる。
「だ、大丈夫です、姫様。ちょっと疲れただけで…」
「し、しかし、そなたも早く手当をしなければ」
自分の身体を見ると、あちこち獣の血で濡れて、真っ黒になっていた。
そして、素肌の部分には多くの切り傷が。
あーあ。これじゃあ、もうお嫁には行けなくなっちゃったかな…。
ふふっ。
そんなこと、考えたこともなかったのに。
瞼が重くなる。
目を開けているのが億劫だ。
身体が泥のように、重い。
「お父様」
“ああ、分かっている。みんな私の背に乗せなさい。私が麓の町まで運んでやろう。あそこになら、腕の良い医者の知り合いがいる”
遠くで、ルビーさんとアインハート殿が話している声が聞こえる。
「なあ、あんたが町まで飛んでいって大丈夫なの?」
ギィが無邪気に尋ねる声。
「お父様は空中散歩と称して山脈中を飛び回っていますから、今更町に降り立ったところで、さほどパニックにはならないでしょう」
「貴方、普段から何をしてらっしゃいますの?」
“はっはっは。まぁ、いいではないか。そんなことより、そこのお嬢さんは危険な状態だろう?早く私の背に乗せたまえ”
朧気に、マリーがフィーを抱えて、屈んだ龍の背に丁寧に運び乗せている姿が見える。
「ロゼ、ロゼ?しっかりするのじゃ。今から、おじ様に町まで連れて行ってもらうからな」
姫様の声が遠くから聞こえる。
ああ、心地よい。
とても良い気分だ。
私は、やり遂げたのだろうか。
今度は、ちゃんと守り切れたのだろうか。
私の身体が今、どうなっているのか、もうよく分からない。
姫様の傍に立っているような気もするし、どこかに寝かされているような気もする。
「ソニア、貴女は土砂の向こうにいる人間達に姫様のことを伝えておきなさい。心配して捜索されても困りますし」
「はい、仰せのままに」
「まぁ、コボルト共はみんな逃げ去ったようですし、危険はないと思いますけれど、ね」
そうだ。隊長達…。
みんな、無事だといいな。
馬を連れて逃げるように言った御者も。後方にいた馬車のみんなも。
みんな、無事だといい。そうなら、最高だ。
「ロゼ?ロゼっ!」
姫様の叫び声。
また、泣いているのですか、姫様?
大丈夫です、姫様。
これからは、私が、あなたを守りますから。
だから、泣かないで、姫様。
“早く彼女も乗せなさい。急いで飛び立とう”
「おおー。すっげー。これが龍の背中かぁ」
「あら、ルビー。何を不服そうな顔をしているのかしら?」
「別に。何でもありません」
「んふふっ。今までは、貴女だけの特等席だったものねぇ。拗ねているのかしらぁ?」
「ロゼ、今から飛び立つからのう。しっかりするのじゃぞ!」
「それでは、マリー様。お気をつけて」
みんなの声が聞こえる。
ああ、良かった。
私はきっと、やり遂げたんだ。
そうでなければ、こんなに心安らかになったりするものか。
ずっと、ずっと、母上が死んでからずっと。
私の心が本当の意味で安らかになったことなんてなかったのに。
父。
家。
だけど、今はこんなにいい気持ちだ。
ああ。
曾御祖父様。
お母様。
ロゼッタは、ちゃんとやり遂げました。
だから、今度は、私を――。
………。
………。
………。
声が聞こえる。
風の音に混じって、人の声が。
「やれやれ、一時はどうなるかと思いましたわ」
“すまないな、マリー。無理を言って”
「いーえー。愛しの貴方の頼み事ですもの。これくらい何ともありませんわ。ですけれど、これでまた、貴方への貸しが一つ増えましたわね?」
“………まだ、あの時のことを根に持っているのか”
「当然。一生忘れませんわよ。だから、貴方が借りを返してくれるまで、一生付きまとってあげますから、覚悟しておくことですわ」
「マリー様。しつこい女は男性に嫌われるらしいですから、少し自重なさっては」
「うるさいですわよ、ルビー」
“お前達はいつまで経っても姦しいままだな。そんなに騒いでは、彼女達が起きるぞ”
「あら、四人揃って可愛い寝顔ですわね。お腹に矢を受けたこの子はともかく、他の子達は疲れて寝てしまったのかしら」
“寄り添うように固まって寝ている姿を見ると、まるで四姉妹のようだな”
「お父様、ちゃんと前を向いて飛んでください」
“なに、ここら辺の上空は私の庭のようなものだ。心配することはない”
「っと。今頃になって晴れてきたようですわね。雲の合間から陽の光が」
「晴れるのがもう少し早ければ、少し危なかったかもしれません」
「まぁ、そうかもしれませんわね。私とソニアはともかく、あの子は陽の光を浴びても平気な身体ですし」
“ふむ、ごらん。血と泥に濡れて汚れた姿でも、陽の光を浴びながら安らかに眠っている彼女達の姿は、なかなか神々しいものだと思わないかね?”
「確かに。まるで一枚の絵画のようです」
「………貴女に芸術が分かるとは思えませんけれど、ルビー。大体貴女は彼の言葉なら何でも肯定するだけじゃないですの」
「そんなことはありません。最近の私は反抗期なのです」
「………どこでそんな言葉を覚えたのかしら、この子」
“陽の光の中、龍の背に眠る、紅の少女達、か”
「あら、詩人ですわね?」
「素晴らしい詩才です、お父様。ルビーは感服致しました」
「………どこが反抗期なのよ、貴女」
“はっはっは。さて、町もすぐそこだ。飛ばすぞ!”
風を切る音が強くなる。
それに伴って、私の意識も深く沈んでいく。
ああ。
おやすみなさい。
====
上空の青空は雲一つなく晴れており、蒼穹の空がどこまでも広がっていた。
春の淡い陽射しが空中庭園に注ぎ込み、木々や花々が陽に照り返って輝く。
むせ返るような甘い匂いが漂い、中央に流れる小川からは水のせせらぎが聞こえる。
空中庭園の中央には、二人の少女がいた。
白い純白のドレスを着て、頭に黄金のティアラを乗せて、尊大そうに佇んでいる少女。
そんな彼女の眼前で、白銀の鎧を身に着込み、片膝を立てて跪き、騎士剣を差し出している黒髪の少女。
ルージュ姫に、ロゼッタ嬢だ。
私は、そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺めていた。
龍として巨躯の私が近くに居れば、二人の神聖なる晴れ舞台が台無しだろうと思っての、配慮である。
私の傍には、いつものように、娘のルビーが執事服を着て控えていた。
姫と騎士の後ろには、フィーメラルダ嬢とシャギィ嬢が、王国式の敬礼をしながら同じく控えている。
みな、礼装をしていた。
あれから。
あの山道でコボルト達に襲われてから、もう数ヶ月経っていた。
幸い、フィーメラルダ嬢の怪我も初期治療が適切だったのか、致命傷になることはなく、長いリハビリを経て今も元気な姿を見せている。
他のみんなも同様で、全身に大小様々の怪我を負っていたが、今では全快していた。
山道の向こうに置き去りにされたディエナ達も、王国兵とコボルト達に襲われはしたが、彼女の卓抜した指揮のお陰か、死人を出すこともなく、みな無事だったと聞く。
一度だけ、彼女がエルターザ姫を連れてお礼を言いに来たことがあった。
ディエナからは彼女の部下を守ってくれたことを。
エルターザ姫からは彼女の妹を守ってくれたことを。
それぞれお礼を言われたが、実際、私にとっても乗りかかった船のようなもので、そこまで大したことをした訳でもなかったので、恐縮ではあった。
まぁ、私などは、最後に美味しいところだけを奪っていったようなものだしなぁ。
頑張ったルビーやマリーに申し訳ないことである。
ルージュ姫は、結局、どうしようもなく、父王と和解することはなかった。
彼女の父が命を狙っていることが確固たる事実として判明した後でも、それでも、彼女は逃げずに王宮に留まることに決めたそうだ。
彼女はまだ、自分の父を信じているのだろうか。
いや、そうではない。
彼女は、自分の大切な友人達を信じることに決めたのだ。
きっと、自分を守ってくれる、と。
「たとえ我が剣砕け、心折れようとも。たとえ我が盾砕け、心挫けようとも。たとえ我が槍砕け、心蝕まれようとも。我、汝がために戦わん。汝がために血を流さん。汝がために立ち上がらん。我、常に汝と共に在り、汝の意志に従い、汝の剣となることを、ここに誓わん」
ロゼッタが騎士の誓いの成句を唱え、刃を逆に、ルージュ姫に剣を捧げる。
姫は剣を受け取り、力強く頷いた後、剣の刃をロゼッタの肩にそっと当てる。
そして、誓いの言葉を唱える。
「天上神の名にかけて、汝の剣を、ここに受け取ろう」
守護騎士の、誓い。
ルージュ姫が王宮に残ることを決めた際に、護衛騎士であるロゼッタは一つの条件を出した。
それは、自身を守護騎士に任命してもらうことだった。
彼女もまた、姫と同じく覚悟を決めたのだろう。
未来永劫、二人の鼓動が止まるまで、姫の命を守り続ける、と。
守護騎士となれば、彼女は騎士団の指揮下から離れ、姫を守るためだけに行動することが許される。
もっとも、ディエナがエルターザ姫の守護騎士を務めながら、ロイヤルガードの隊長をしているように、守護騎士となったからと言って騎士団から籍を外さなければいけない訳ではないらしいが。
神聖なる誓いの儀式の立ち会いを頼まれた私は、二つ返事でここ空中庭園を使うことを快諾した。
王国内で、最も天に近い場所。
ここであれば、彼女達の誓いが真実であることが、天上にいると言われる神にも伝わっただろうから。
「これで、そなたはわらわの物じゃっ!もう、今後勝手な行動は許さんから、その旨覚悟するが良いぞっ!」
ルージュ姫が自慢げに叫ぶ声が聞こえる。
それに対し。
「姫様こそ、私が守護騎士となったからには、今までのように悪戯ばっかりすることが許されると思わないでくださいね」
ロゼッタが不敵そうに返していた。
後ろで、フィーメラルダとギィが笑う声が聞こえる。
ああ。
彼女達ならば、大丈夫かもしれない。
彼女達ならば、これからの王国を任せてもいいのかもしれないな。
この国をこのように変えてしまったのは、私だった。
姫が真実憎む相手がいるとするならば、それは戦争に明け暮れる父王ではなく、私であるべきだったのだ。
私の知る限り、トレンディア王国は戦争とは縁遠く、大陸の中央に位置する立地を活かして、外交と交易とで周辺諸国との併存を図ってきた国であった。
少なくとも、私がまだ武龍と呼ばれるより前の時代では、そのような国であった。
それが、鉄と剣の国に変わってしまったのは、あの哀れな王が私の元を訪れたことが切っ掛けだったのだろう。
武龍王。オルフィオ・フォウ・トレンディア。
ノッドラートとの戦に巻き込まれ、妻を亡くし、悲嘆にくれた孤独の王。
戦火が激化する中、彼は私の居城を訪れて、虚ろな瞳で援軍を要請してきた。
たとえ龍の身であったとしても、同じトレンディアの国土に住む者同士、ノッドラートと共に戦ってくれないか、と。
初めて彼に会った時、あの王は、今では伝説に唄われるような武勇誇る勇壮な王ではなかった。
最愛の者を失い、終わることのない戦いに疲弊し、この世の全てに絶望した一人の疲れた人間の男だった。
最初、私は彼の頼みを聞くつもりは一切なかった。
彼に手を貸す義理もなければ、人の歴史に関与するつもりもまた、全くなかったから。
しかし、それは。
彼が私のことをある名前で呼ぶまでは、の話である。
彼は、私のことを名前で呼んだのだ。
クロール・ロックハート、と。
その名前を、王は彼の祖父から教わったと言っていた。
オルフィオ王の祖父。彼はきっと、彼女から私のことを聞いたのだろう。
彼女は一時、王族と懇意にしており、王の祖父がまだ若く少年であった頃、後に妻となる女性にプロポーズする場面に居合わせたこともあったという。
それほど、彼女は王族と、特にオルフィオ王の祖父と懇意にしていた。
その頃に、王の祖父は、暗い鉱山の迷宮奥深くに棲む、一匹の龍のことを話に聞いたに違いなかった。
そして、祖父から孫へと、龍の話を受け継いでいったのだろう。
クロール・ロックハート。
その名を聞いて、私は一気に遠く遠く昔へと意識を舞い戻された。
その名を軽やかに呟きながら、私に向かって楽しそうに笑いかける彼女。
ああ。人間の寿命はどうしてこうも、短いのだろうか。
龍の寿命はどうしてこうも、気が遠くなるほど長いのだろうか。
私は、王の頼みを受け入れることにした。
ルビーは大層反対していたが、私は私の名を知る人間の男をどうしても助けてやりたくなったのだ。
それを人は、感傷と呼ぶのだろう。
だけど、感傷に浸って思い出に拘泥し、在りし日の幻を追い続けても、過ぎ去った日々は二度と戻ることはない。
そんなことくらい、私は知っていた筈だったのだ。
けれど、私は、人生に疲れた孤独な王に手を貸してやりたくなったのだった。
その結果、私の感傷は王を巻き込み、この国を妄執に取り込んで腐り落としてしまった。
王は私という心強い味方を得た結果、自身の心の穴を埋める欠片を戦争に見い出したようだった。
そこにはもう、心優しく、気の弱い小心の男の姿はなかった。
ノッドラートとの戦争に勝利した後も、妄執に取り憑かれた王の心は正気に戻ることはなく、恐らく死ぬまで王は永遠に戻ることのない失った日々を追い求め続けたことだろう。
戦争を起こし、戦争に明け暮れ、戦争に勝利し、また戦争を起こす。
そうして、過ぎ去ってしまった甘く切ない日々を取り戻そうとするかのように、オルフィオ王は戦い続けた。
その姿を見て育った彼の子らは、どういった影響を受けただろうか。
どのように歪んだ心を育んだだろうか。
戦争に取り憑かれ、自分を省みない父。
そんな父を見て育ち、無くした日々を取り戻すかのように父と同じく戦争に明け暮れる子。
その子はいつしか子供を産み、子供は同じく父に恋い焦がれ、憎み、妄執に取り憑かれ、在りもしなかった幸せな日々を追い求め続けるのだ。
血と憎しみの連鎖。
その連鎖を生み出したのは、私だった。
私の感傷が、王を妄執に取り憑かせ、王の妄執は彼の一族全てを取り込んで呪いとなってしまった。
私は王に手を貸すべきではなかったのだ。
私がするべきことは、私のかつての名を知る唯一の人間の男と、共に悲しんでやることだったのだ。
政事に追われ、妻を亡くしたことを悲しむ暇さえなく、彼を追いつめるかのように日々荒れ狂う戦乱の嵐。
そんな中で、悲しむことを、人の心を忘れてしまった孤独な王。
私は彼と共に悲しんでやれば良かったのだ。
あの王が人の心を無くしてしまう前に。
私は、それに気付かなかった。
私の罪。
私がかの王を変え、王族を呪い、この国を歪めてしまった。
償おうにも償い切れない、大きな罪であり、私の長い龍生の中において、今なお後悔していることの一つである。
しかし。
私の眼前で楽しそうに笑い合う彼女達なら。
彼女達ならば、この歪んでしまった国を元に戻せるのかもしれない。
王家にかけられた呪いを、血と憎しみの連鎖を断ち切ることが、出来るのかもしれない。
私はそれを期待している。
“では、祝いの品として、君にこれを授けよう”
ルージュ姫の前で恭しく佇んでいたロゼッタに対し、私は青く輝く短剣を爪に乗せて差し出した。
「これは――」
それを見て、ロゼッタは目を見開く。
私の身体の鱗とマリーに仕入れてもらった極上の青玉とを錬成して精製した、龍鱗の武具。
“龍鱗の短剣。銘は、イノセントサファイア”
ロゼッタは震える手で私の大きな爪から、その短剣を手に取った。
そして、鞘から抜き放ち、陽の光にかざす。
刀身が青色に鈍く輝き、辺りを照らした。
「きれい…」
ロゼッタが見とれるように呟く。
それに合わせて、他の三人も騒ぎ出した。
「すげーじゃん、ロゼ!」
「ロゼ、すごいよっ!」
「これでそなたも龍騎士ということじゃのう!」
周囲の声を聞き、呆然とロゼッタは言葉を出す。
目を青い刀身に向けたまま。
「私が………龍、騎士?」
“ああ、その短剣を持っている限り、君が龍騎士を名乗っても誰も咎めはしないだろう。どうするね?”
私の言葉に、彼女はハッとした様子を見せて、短剣から私の瞳へと目を向けた。
そのまま数瞬、私と彼女は見つめ合った。
その僅かの間に、惚けていた彼女の瞳が、燃えるように輝きだしたのが感じ取れた。
「―――いえ、私は龍騎士の称号を名乗るつもりはありません」
「どうしてさ、ロゼっ?」
「そうだよ!」
隣に立っていたシャギィとフィーメラルダがロゼッタに詰め寄る。
しかし、ロゼッタは何かを決意した顔のまま、私の瞳から目線を外さず彼女達の顔を見ようとはしなかった。
ルージュ姫だけは、騒がずに静かにロゼッタの横顔を見つめている。
「私は、私が龍騎士の称号を追い求めたのも、ただ父を、あの家を見返すために、復讐するために、追い求めただけでした。だけど、そんなちっぽけなことのためだけにこの短剣を振るうには、この剣の刀身は美しすぎます」
ロゼッタは、まるで宣言するかのように短剣を頭上に持ち上げて、そのまま鞘へと収めた。
「私は先刻、この場で天上神に誓いました。今後、私は姫様のためだけに剣を振るう、と。だから、私は、私には、それ以外のために振るう剣はもう、必要ないのです」
そう語る彼女の表情は、とても穏やかなものだった。
それでいて、強い決意を感じさせる声色だった。
「だから、この剣が、今後この蒼穹のように美しい青い輝きを失わないように、いつまでも無垢な刃でいられるように、私は二度とこの短剣を抜くことはないでしょう」
「………ロゼ」
「だから、私には、龍騎士の称号は、もう、必要ないのです」
そう言って、彼女は鮮やかな笑顔を見せた。
“そうか。それが君の決断であれば、私からは言うことはあるまい。ただ、せっかく君のために作った短剣だ。お守り代わりにそれは持って行くと良い”
「………よろしいのですか?」
こちらを伺うかのように話しかけてくる。
“ああ、構わないさ。その短剣とて、倉庫に仕舞われるよりかは、君に持っていてもらった方が嬉しいだろう”
「あ、ありがとうございますっ!」
そのまま、ロゼッタは短剣を握り締めて深く頭を下げた。
「ちぇっ。せっかくのチャンスだったのに。もったいないなー」
「ふふっ。でも、ロゼらしいよね?」
「うむっ。それでこそ、わらわの守護騎士じゃ!」
シャギィが、フィーメラルダが、ルージュ姫が、ロゼッタの決意を祝福するかのように笑い出す。
彼女達の笑い声を聞いていると、自然と私も笑い出したくなるのだった。
隣を見ると、ルビーも口の端を少し持ち上げ、優しく微笑んでいた。
だから、私は人間が好きなのだ。
人間を好きでい続けてきたのだ。
たとえ、大きな過ちを犯そうとも、深い後悔に押しつぶされそうになっても、それでも、私は人と共に生き、人と共に生き続けようと思うのだ。
彼女がそうだったように。
我が愛すべき愚かな人間達。
どうか。
彼女達が生きる“生”に、とびっきりの、幸せがありますように。
三章・おしまい
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読む必要のないあとがき
三章は三話くらいで終わる予定だったのが、何をどう間違ったのか、五話にまで伸びてしまった。
反省。
あと、掲示板でいくつか指摘があったので、補足。
ガートルードに関しては、彼が何故女性名なのかは一応理由がありますので、その内語られることがあるかもしれません。覚えていれば。
別に、女性名であることに気付かず適当に付けたら間違っていた、なんて理由じゃありませんよ、ええ。
本当ですよ。そんな単純ミスをする訳がないじゃないですか。たぶん。
それと、土竜に関してなんですが、やっぱりモグラと読んでしまう人が多そうなので、アドバイス通りに地竜に直すことにしました。
そっちの方が響きも良さそうなので。
ついでに、それに伴って全編に渡って誤字脱字を修正しておきました。
指摘については、多謝。
四章については、一応構想はあるにはあるのですが、まだ何も手を付けていないので、少し遅れるかもしれません。
もっとも、空白の百年を埋める形での外伝的な話も書こうかなーとも思っていますので、次の更新はそっちになるのかもしれません。
それでは。
読了、多謝。