天井から差し込む星明りの中で、目の前に立つ、蒼き外套を纏った金糸の髪を持つ女性が口を開き、語る。「サーヴァント“Soldier(ソルジャー)”、召喚に応じ参上しました。では問いましょう。貴女が私のマスターですか?」「……!? ソルジャー……兵士?」 ――私は一瞬硬直し見定めるように彼女を凝視する。 だってそうだろう。私が呼び出したサーヴァントはこの“聖杯戦争”における、七つのカテゴリーの中から当てはまる存在が呼び出されなければならない筈である。 その中に“ソルジャー(兵士)”なんてカテゴリーは無い。聞いた事も無い。 否、そもそも英霊化するほどの『英雄』でなければ『英霊』にはなりえない。 だというのに、その英霊がただ一端の『兵士』だなんて、一体何処の冗談だ? 私は彼女から発せられたその一言に、元から召喚には失敗したと思っていた私は焦って混乱していた頭を、もう一掻き混ぜされたような気分だった。 ――落ち着け遠坂凛。魔術師たるもの、常に冷静であれ。 私は魔術師としての心構えの初歩を思い出し、愚直だろうと繰り返し反芻し、その思考を落ち着かせた。 ……OK。もう大丈夫。「ええ、そうよ。確かに、サーヴァントのマスターで間違いないわ。此れを見て。此れが貴女を召喚したという証、“令呪”よ」 そう言ってついっと彼女の目の前に自分の右手の甲を翻した。 右手の甲から手首、そして腕のほうまで伸びた三画から成る血の色をした刻印。 それは間違いなく彼女との契約の証だ。 ソレを見て彼女は――。「確かに貴女からの魔力供給も感じとれる。霊脈(レイライン)は問題無いようです」 淡々と、何も問題無いと答えてくれたので契約は無事に――。「しかしまた、何故このような召喚になったのですか?」 済ませてはくれなかった。「大体、何故召喚したはずの貴女が目の前に居なかったのです?」 むう、とまるで擬態語でも聞こえそうなほど人間臭い表情で、しかも心なし目が潤んでいるように見える顔で急に詰め寄られる。 あ、ああ……そんな顔で訴えないで。その涙目で間近から見つめないでって!! お願い、誰か彼女を止めて。悪かった、私が悪かったから。そんな顔で見つめられたら恥ずかしくて顔から火が出そうになるじゃないっ! ああもう、なんで彼女はこんなに可愛らしい顔をするっていうのよ……。――その涙目顔は凶悪すぎるわよ…… そんな相貌を崩さぬままで彼女は――。「とっさに魔力で身を固めたから助かったものの、結構痛かったんですよ!」 と感情豊かに瞳を涙で潤ませながら私を非難する。 うう、ちょっとまってアナタ。その、モデルも女優も裸足で逃げ出しそうな程の美貌の持ち主なのに……女の私でさえ、ちょっと魅入ってしまう程可愛いのに。 その上涙目なんて……そんなの反則過ぎるって思わない、ねえ!? 女として、何か凄い敗北感を味わわされた。……ああどうしよう、どうしよう。 それなのに、なんか凄く納得してしまってる自分がいるんだけど何故?「……!…り…?……いて…ま…か?……聞…えてますか…凛!?」 ハッとして我に返る。 どうやら私は考え込む余り、目の前が見えていなかったらしい。 心配するように直ぐ傍まで近寄っていた彼女の瞳に、私の顔が映るのが観える……。 ぅわ、近い近いっ。思わず顔が赤くなって内心取り乱す。 だってそれほどの美貌なのよ。「……あっと、そうだったわね。何で貴女が私の前にではなくこんな、屋根から落っこちて「遥か上空からですよ」来たのかって、え?」 私が喋ってる間に割って入り、そう突っ込んでくる。「軽く五十メートル以上はありましたかねぇ?」 若干半眼で明後日の方に視線をやりながら腕組みした片手を頬にやって、なにやら人差し指で頬を掻く様な仕草を取り、しれっと薄ら寒い事を言ってくる。 五十メートル……? うそ、そんなに高いところから落っこちてきて、それで無傷!? どんなデタラメよそれ……。「そ、そう。それは災難だったわね。御免なさい。それにしても、何故召喚がこんな事態になったのかしらね。魔力もタイミングもバッチリのはずなんだけど……ん?」 私は廃墟と化したその居間の中を見渡し、『ソレ』に目が止まった。それは居間に置かれていた古い柱時計。短針の位置が綺麗に一時間ずれている。ナンテコト……「ゴメン、多分私のせいだわ。なんて間抜け……。まさか時計が一時間もズレていたなんて……。はあ、またやっちゃったか。まあ、すぎたことは仕方が無い。反省」 私がそう謝罪を口にすると、彼女は何やら呆れたように目を丸くして――。「はあ、やっぱり相変わらずですね」 なんて天を仰ぎながら抜かしやがりました。ん、ちょっと待て? どういうことだ、初対面の私相手で何故に『相変わらず』なのか?「え、ちょっと貴女?」 貴女どこかで……? まさか。出会った事なんて在る筈が無いじゃないの。「あ、いえ、済みません。あまりにも貴女が知り合いに良く似ていたもので」 どうして私を知っているのかと、――聞こうとした出鼻をくじかれた。 何故か、何処か気持ち焦ったように身振り手振を交えながら、彼女は妙に笑って必死にそう弁明した。「そういえば、さっき私、名前呼ばれてたような……うん、間違いない。なんで貴女が私の名前を知っているのよ?」 彼女の説明を受けるも、釈然としない私は尚、彼女に詰め寄り、問い質す。「それも同じ理由です。貴女に良く似た友人の名前を、うっかり口にしてしまいました。ああ、これでは私もマスターの事を言えませんね」 クスリなどと口元に軽く手を当てて笑みを見せながら、しれっと軽く言ってくる。 さっきまでのあの慌てようは何処へ行ってしまったのか、毛の先ほども残っていない。 ちぃ、機を逃したか。もう彼女は怯んでいない。会話の主導権を握り損なった。「それで、他には?」 渋面で睨む此方に対し、柔和な微笑みを浮かべて目の前の英霊はそう伺ってくる。 むう。何か凄く、こう、なんていうか……凄く人間臭いわね、この人。 でも、それが返って親近感を持ちやすい感じにさせているが、なんというか……彼女は本当に英霊だろうか? 顔の筋が引きつったように、口元に苦笑を張り付かせ、私は胸中で一人、疑問を誰とも無く投げかけていた。無論、答えが返って来ること等無いのは百も承知だ――。第二話「召喚者は悩み、考える」 瓦礫だらけの居間だった場所には今、なにか妙に間の抜けた空気が広がっていた。「それで、他に私に聞きたい事はございませんか、マスター?」 淡々と、私より先に自分のペースを取り戻していた彼女に聞き返される。「ん、そうね。まず貴女は何者? 何処の英霊で、どんな宝具を持っているの?」「む。これはまた随分と難しい質問をされますね」 何故か喉に詰まるように口篭る。「何よ。戦力である貴女の事を知らなきゃ、何が得意で、何が不得手かも判らないんじゃ、私も戦略の立てようが無いじゃない」 急に言葉を濁すとは何か問題でもあるのか。在るなら在るで、問題となるモノを教えてくれれば、此方で対処のしようもあるだろうに。「もしかして、貴女ってものすごく有名過ぎるくらい有名な英霊?」 それこそ、かの騎士王とか英雄王とか、神話クラスの英霊だろうか? ……否。それにしては、格好があまりにも現代的すぎる。やっぱり違うのかしら。「いえ、私の真名は然程重要でもありません。重要ではないと言うと、些か語弊が有りますが。万一、敵にバレたところでこの時代では、特に弱みに成ることは無いでしょう」 突然にさらっと問題発言をする彼女。曲りなりにも英霊の一人だろうに、一体何を根拠にもって自分の真名が重要ではないと言うのだろう。 私がそんな疑問を脳裏に浮かべるも、直後の言葉で思考を中断される。「そして宝具ですが、申し訳ありません。今は伏せさせて頂きたいのです。これはなんと言ったら良いか、私の宝具は少し……特殊でして」「どういうこと?まさか使えないなんて謂うんじゃ……?」 その言葉に対して、間髪入れずに彼女が説明してくる。「いえ、使えます。但しその場合は、今とは比べ物にならないくらい大量の魔力を一気に消費します」 ……それは、燃費が悪いと言うことでしょうか。日本車に対するアメ車並の? 私の心のつぶやきを感じ取ったか彼女が補足してくる。「私自身の通常戦闘のみならば、今現在の供給量で十分過ぎるくらいです。元よりこの身は生前からあまり神秘性は高くありませんので。ですが、私の持つ宝具は力を開放する際、非常に膨大な魔力を必要とする」 つまり、無駄撃ちは出来ない短期決戦用ということか? まあそうポンポン使わされるような事態になるのは、ただでさえ拙い。「じゃあ、あまり攻撃には打って出られないって事かしら?」「いえ、その危惧は不要です。言った筈です、私は“ソルジャー”だと。この身はありとあらゆる戦闘、戦術、兵術に長けている。それに、私の武器は主に、かつて私が扱った事の在る様々な“歩兵武器”です」 そう言って両手を私の前に差し出すと魔力がその手に集中し、一対の武器を形取る。 その手に顕われた、鈍い鋼の艶めく光沢を放つ“ソレ”は一挺の半自動拳銃と、研ぎ澄まされた無骨な大型ナイフだった。「これは私が生前に自分の武器として常に使用していた武装の一つ。これは主に、近距離戦闘に用います。他にも兵士として使用していた様々な武器が使えます」 目の前で、彼女は手にした物騒な鋼鉄の塊を、まるで棒切れでも握るかのように軽々と翻し、明後日の方向に構えて見せながら説明を続ける。 その動きは素早く静かで無駄が無く、一見すると酷く地味にもみえた。 だが、『流れるように自然』な動作で、すぅっと構えられた銃口と銃把。そこに添えられた手に、逆手で握り直されたナイフの放つ白銀の光沢は、一点の曇りも陰りも無い。 その煌きは襲いかかろうとする者に、息をする暇も与えず死を与えられるのだと、物言わぬ鋼からの冷ややかな光は威圧感を含み、じりじりと脊髄を登り脳髄を焼いてゆく。 私の背筋を伝う『それ』は身体をつま先から脳天まで貫くような悪寒。 それはまるで、死者を連れ逝く死神に魅入られたかと思わせる程。その威光に思わず私は身を竦ませた。 まいったな、本物の“武器”ってこんなに強いプレッシャーを放つものだったっけ? そんな私の心中を知ってか知らずか、目前の英霊は朗々と語る。「そう気後れする必要はありません。これとて、仮にも英霊の武装なのですから。この銃やナイフに滲み付いた戦場の気配に起因する威圧感は、並の武器が持つ其れとは比べ物にはなりません。ですから気を落とさずに」 そう声に、此方を気遣うような穏やかな音色を重ねてくる。軽やかに、だが私には一瞬の動作のように見える速さでニ、三度ナイフを翻し構えを解く彼女。 銃はその指がまるで磁石にでもなっているかのように付き従いクルリと反転して、瞬きに目を瞑った僅かの間に、その銃身を彼女の掌に預けていた。 徐に彼女はナイフをコートの下、最初から其処に括られていたのだろうか。腰の後ろでベルトに止められた丈夫そうな皮革のシースに収めた。 次に右手に持っていた無骨な鉄の塊から金属の擦れる音を奏でさせ、細長い長方形の箱を銃把の内部から抜き出しながら説明を続ける。「これは私の魔力で編まれた私の“武装”の一部です。当然の事ですが、銃の弾薬も私の魔力から生成されますので、マスターの魔力が続く限り私は半永久的に戦えます。しかし、これらの武器は、この世に存在する“本物”と基本的に性能は同じで、あまり強い神秘性はありません。それでも人間には十分すぎるほどの威圧感でしょうが……」 そう説明を続けながら彼女は、取り出したその斜めに傾いた細長い板金で出来た箱の口から、女性の指先程の小さな塊を一つ、二つと取り出す。 最後に苦笑を交えながら、鈍く赤銅色に輝く弾丸を咥えた小さな真鍮製の筒を私に示し、此方に軽く指で弾いて寄こしてきた。 両手で受けとったその弾を、まじまじと見詰めながら考える。「つまりは、魔力がある限り弾薬は限りなく使えるけど、純粋に物理的攻撃でしかないってこと? でもそれじゃ基本的に霊体であるサーヴァントには効かないんじゃ……?」 彼ら英霊は基本的に霊体に属する。そんな彼らは、存在それ自体が高い神秘の塊であり、物理的な干渉はまず効果を成さないという非常に反則に近いもの。 そんなサーヴァントという存在の性質を思い出し、彼女の武器が果たして彼らに通用するのかと疑問を抱かずにはいられなかったが――。「それは問題有りません。私が使う兵装は全て私の魔力から作り出す物であり、言わばこの身体の一部といっても良い。よって、サーヴァントの持つ神秘性と同格の神秘は備わっています。例えるなら、この銃弾は敵にぶつける、拳の延長だと思ってください。私が言いたかったのは、呪いや因果律を操る概念武装などといった“法則を覆す”程の高い神秘は残念ながら持ち合わせない。と言うことです」 つまりはあれか。曲がりなりにも英霊が持つ武器だから、同じ英霊に対しても、存在が同質の霊体である為に物理攻撃として通用する。ただし、ソレだけである、と。 特殊な付随効果があるわけでも、それ自体がとんでもない超常現象的な『何か』を起こせるわけではない。 それは、サーヴァントにも人間と同様に、武器として通用するというだけ。 人間相手には相当に無茶苦茶な反則ワザだが、神秘の高さで因果律までねじ伏せる英霊レベルを相手にする場合それは、下手をすれば最弱と言えるかもしれない。「ですが、そう悪い事ばかりでも無いですよ。何より、私の武器は基本的に“物理攻撃属性”の物ばかりです。それはつまる所、敵サーヴァントの抗魔力には左右されないという事です」 彼女が己の利点はそこだと説明してくる。「そうか。剣、弓、槍の三大クラスの利点も、貴女にはあまり関係ないのね」 この聖杯戦争において、常に高い抗魔力を誇るクラスが三つある。それが剣、弓、槍。 だが彼女の武器は、抗魔力によって弾かれる物ではない。それはそれで、戦略の幅も増やせるというものだ。 最初はクラスも謎、何処の英霊かも不明で宝具もよく判らないわと、こんな使い魔で果たしてこの戦争を勝ち抜けるかと不安だったが、案外いけるかも知れない。「あと、簡単なトラップぐらいは扱う事もできます。敵地潜入や破壊工作も、必要ならば可能です」 ちょっと待って……それはつまり、なんだか途轍もなく凄いことのような気がする。 だがそれは、彼女とて英霊の一人なのだから、凄いのはある意味当然か。 それにしても、ひょっとして全部現代兵器ばかりですか貴女……? ピストルやマシンガン持ってる過去の伝説の英雄なんて私、見た事も聞いた事も無いんですけど? アナタ、一体何処の英雄様よ!?「うーん。近、中、縁距離と戦闘レンジは所選ばず、相手の規模も一対一から一対多数まで、対処能力はお構いなしか。それも凄すぎて、戦略の豊富さは申し分ないんだけどね。相手が英霊でさえなければなあ……。なんかこう、ズバーッといける大規模な必殺技なんて持ってないの貴女?」 その言葉に、少し彼女は無念そうに表情を曇らせ、肩を落として告げる。「申し訳ありません。残念ですがそういった派手なモノは私には余り有りません。強いて言うなら、私の宝具の使用がソレに当たります」 宝具、それは英雄を英雄足らしめる象徴となったモノ。その英霊を顕すシンボル。「それだけは今まで説明された現代兵器とは違うの?」「違います。コレだけは私の主兵装とは桁違いに強い神秘を秘めています。仮にも、私が英霊になった直接の要因となっている存在(モノ)ですから」 はっきりと、“コレ”だけは違うと口調に力を込めてくる。それはきっと彼女にとって何よりも重要な何かなのだと感じた。 少し考えてみればそれは当然の事。英霊とは皆すべからく、その身が「英霊」となるに至った原諸を持つ。 それは例外なく輪廻の輪から外され、この世の“流れ”から独立した“英霊の座”と呼ばれる領域に、その英霊の持つ“宝具”として星の終焉まで永久に記録される。 しかし、何から何まで現代の代物ばかりなのに、宝具だけは現代の物ではないのか。 まあ、少し考えてみれば現代の何であれ、宝具に昇華されるまでの神秘を宿らせるものがそうそう在るとは思えない。じゃあ、一体彼女の宝具とは何なのだろう。「そう、じゃその宝具について教えて欲しいのだけれど……教えてくれないのね?」「申し訳有りませんが、今はまだ伏せさせてもらえませんでしょうか。今明かすと後々、少しややこしい事態に陥る可能性があるのです」 理由は判らないが、何かややこしい事に成るという。これほど頑なに拒むなら、本当に何か言えない理由があるのだろう。 だがそれは私を妨げようとしての事で無いのは彼女の眼を見れば判る。 彼女は私の目を真っ直ぐに見据えて、私の答えを待っている。『信じてくれるか否か、全ては貴女の心に委ねます』 彼女の瞳はそう告げている。私を騙そうというのなら、そんな態度はとるまい。 私は少し考えを整理して、徐に口を開いた。「ん、まあ、良いでしょ。今は譲歩してあげる。貴女の戦力については、大体判ったわ。宝具の方については、今はまだ聞かないでおいてあげる」「ありがとう。感謝致します、マスター!」 私の答えを聞き入るように耳を澄ましていた彼女は私の言葉を受け取るや、今日、出会ってから見た中でも最上級の『笑顔』で感謝の意を称えてきた。 ……まったく、なんて無垢で朗らかな微笑みができるのよ彼女ってば。「でも出来るだけ早く教えなさいよね、必ずよ!!」 あの笑顔に思わず此方が照れそうに成るのを必死で堪え、照れ隠しも兼ねてそうキツく念押ししておく。「はい、判りました。明かせると判断出来た時には必ず……!」 その言葉に私は一応満足し、この件はとりあえず此処に落ち着かせた。「それじゃ、貴女の名前を教えてくれない? どうもねえ、『そるじゃー』って呼び名がなんかしっくり来ないのよね。それに、宝具は譲歩してあげたんだから名前ぐらいは教えなさい。サーヴァントがマスターに真名を明かすのは義務よ」 彼女の姿があまりに兵士っぽく見えないせいだろうか。『ソルジャー』という呼び方に妙な抵抗感が生じ、脳髄の奥のほうをチリチリと刺されむず痒い。「ええと、申し訳ありません、マスター。それも、しばらくの間、待ってもらえませんでしょうか。如何にこの時代では有名でなく、問題にならないだろうと思えても、何事にも必ず例外はある。用心に越したことは無いと思うのです」 此処に来て、まだ問題を増やしてくれるのか彼女は……。「む。ソレはまあそうだけど。何よ、此処まで来て今更言いよどむなんて。大体なんて呼べば良いか判らなくちゃ困るわよ。勿論戦闘時じゃなくて、日常での場合の話だけど」「ええ。ですから、私の真名の一部を捩って、当面の私の仮の名前として『アリア』と。実は、私の真名はすこし長いのですが、コレならとても短くて呼びやすいので」 本当の名前は中々明かさぬ困った従者に、半ば諦観を感じ始めてきた。だけどまあ、仮の名と言えども、彼女の名を聞き出せたのはまだ僥倖だろうか。 本人が仮の名とは言っているが、それ自体、彼女の真名の一部を捩った物という話だ。 少なくとも全く別の、何の関係もない名ではあるまい。 ひょっとしたら、彼女が生前呼ばれた『愛称』だったりするのかもしれないな。「そう、アリアね。うん。判ったわアリア。それじゃ、もう夜も遅いし、今日はもう寝ましょう。私も召喚で大分、魔力持っていかれたし……」 実際に今も、体は魔力を根こそぎ持って行かれた事による全身のだるさを、脳に警告し続けている。「マスター、まだ大事な交換条件が残ってますよ」「えっまだ何か忘れてたっけ?」 はたと自分が何を忘れているのか直前までの自分の言動を頭の中で逆再生してみる。 ……ダメだ、判らない。脳に糖が行き届き難くなってきているようだ。「はあ、やっぱり貴女は、私の知り合いに良く似ている。忘れていませんか? 私はまだ、貴女の名前を教えてもらっていない」 呆れた。と言わんばかりに大きくため息なんて吐きながら、やれやれといった面持ちで、彼女が私の白紙の答案に解答を示してくれた。 ああ、そうか。何か凄く不思議な感覚を覚えていたのだけれど、今それが何か判った。 英霊だからとか何だとかで、意識せずとも此方は警戒の念を緩めたりなどしていない。 だと言うのに、そんな私に対して事もあろうに、彼女は最も初歩中の初歩、簡単な低級の使い魔ぐらいにしか効力のない原始的な『名前の交換による契約』という形式を尊んできたのだ。 遥かに人間より高い次元の存在であるサーヴァントの中には、気の許せない英霊だって幾らでも存在する筈で、そんな事は召喚する人間側も当然承知の上で彼らを呼ぶ。 だから普通、英霊のほうも霊格が下の人間である此方を簡単に信用してくれるとは限らない。というよりまず信用される事の方が少ないだろう。 穿った言い方をすれば、それを手なずける為にあるのが契約の証である“令呪”だ。 それはたった三度きりの“絶対命令権”。その命令(コマンド)は彼らサーヴァントにとって絶対であり、拒否権は無い。 ……だというのに彼女ときたら、信用できるかどうかも定かじゃない筈の相手である私を、あっさりと『信用する』と宣言してきたのだ。 ――なんというか、凄く良いヒトだ彼女は……ヒトが良すぎるくらい。 ああもうっ何だってアンタはこんなに私の心を和やかにさせられるのよぉっ!?「え、ええ。そういえばまだだったっけ? でもホラ、覚えてるでしょ。貴女のご友人と一緒よ、凛。私の名前は『遠坂凛』。姓でも名でも、好きな方で呼んで頂戴」 思ったままをそう簡潔に告げる。既に他人ではないのだから、別にどちらで呼ばれようが構わない。 すると彼女は腕組みしていた手を顎に遣り、ふむと一つ頷き――。「判りました、では凛と。ああ、確かにこの名前は貴女に良く似合う良い名ですね」 なんて猛烈に恥ずかしくなる台詞を、サラッと口にしてくれやがりました。 ……まったく、何なのよこの超絶美人は!? ああもう、その整った顔で臆面もなく、そんな気恥ずかしい台詞を吐かれちゃ、思わず顔に血が昇って熱くなっちゃうじゃないのよ! うわぁ、顔が赤くなるのが判っちゃう! この感覚をどうしたら良いって言うの!?「凛、どうしました? 顔が赤いようですが」 私の体調を気遣うように尋ねてくれる元凶。全く何を言うか、どうもこうも無いわよ。 ――原因は貴女よソルジャー。まったく、怨むわよその天然な性格……。「気にしないで、何でもないから。今日はもう遅いわ。行動するのは夜が明けてからにしましょう」「了解しました、凛」 彼女に見張りを頼み居間を後にし、緊張が解けた反動からか眠気に襲われながら自分の部屋に向かう。 窓の外は既に白み始めていて、夜明け前の空には淡い朱が差していた。