それは長きに渡る一人の少女の記憶だった。 本来受け継がれるはずの無い記憶、生前の記憶、死後の記憶、それは魂の記憶。 しかし、それは確かに私の中に存在し、自分という一人の人間の中を実年齢以上の経験と記憶が駆け巡っていた。 そしてその者は再び運命と出会い、数奇な因果の果てに三度彼の地を踏む。 思い出していた、それは私の運命。 其れは私の求めた半身、とても尊く美しい夢。赤紫がかった朝日の陽光を浴びた朝靄の中の告白。 其れこそが私の歩む道を指し示した一条の光であり…… そしてこの身に宿る願いの原点でもあった。「私は貴方に救われた。でもそこに貴方がいなくては……。待っていて。今度は私が、必ず貴方を救ってみせる。貴方が“答え”を見つけられるように」第一話「兵士は戦場に降り立った」 ――そして舞台は冬木の街へと舞い戻る―― 真っ暗な深海の闇の中から突如引きずりこまれ、眼前に迫る眩い空白の中に放り出されるような感覚――。 とっさに眩暈を覚えながら、次に観えたのは、眼下に広がる静けさを孕んだ淡い街火の夜景だった。 ――はは、随分と手の込んだ冗談を披露してくれる。 私は、ともすればパニックに陥りそうな我が身の状況に、何故か冷静に受け止められる余裕があった。 つまり、今の私は街並から遥かに離れた上空に居る。 ようするに真っ逆さまに堕ちている。「……むぅ」と眉を顰めて呻く。 何故にこんな理不尽な状況で冷静になれるというのか? きっと、私の内に在る“彼”が一度経験していたことなのだろう。 私に落ち着けと語りかけてくる。 自由落下は堕ちている最中は全く重力を感じない。その代わり地上から吹き付けられる風が次第に強く、早くなってゆく。 風を掻き分けて滑り込んでゆく様はまるで、水の中を泳いでいるかのような感覚。 目の前には静かな街並み、近くには山々の峰が、反対側には海が見える。 ――この景色は懐かしい。 ……否、死して英霊となる前まで、自分は同じ景色の世界に居たのだ。 よく判らない既視感と共に体は万有引力の法則に則って秒毎に加速度を増している。 このまま目の前に迫る洋館の屋根に激突したのでは、幾らこの身が生身でないとは言え、拙い処の話ではない。「まともに突っ込めば流石に痛いだけじゃ済まないでしょうね……」 私は直ちに全身に魔力を纏い、迫り来る屋根の方へ瞬間的に魔力放出を行おうと、身体を捻り体勢を整える。 全身から目に見えぬ魔力の猛りがその密度を高められて陽炎のように立ち上り、その力の渦を可視化させてゆく。そしてそれを、放つ。 勢い良く放出された魔力の逆噴射は、屋根に激突する身体への衝撃を可能な限り相殺、緩和させるが、上空数十メートルから墜落してきた五十キログラム程の体を止めるには些か力不足。 寝静まった真夜中の街並に、一際盛大な轟音が響き渡った。************************************************* あまりにも途轍もない轟音だった為、彼女は地下室に居たにも係わらず、大きな音に驚かされ、“何か”が屋敷に墜落(おち)てきた事を知った。「何!? ああもうなんだってこんな時にっ……。途中までは成功していたっていうのに、急に制御が出来なくなるわ、魔力はごっそり持ってかれるわ、一体なんだってのよぉ!!」 これじゃ大損じゃないっ!! とばかりに魔力の大半を失ってもまだ毅然と、否。 憤然と怒りを顕わにしながら、赤い長袖の衣服に黒のミニスカートという目立つ格好をした彼女は、まるで赤いオーラでも立ち上っているのではないかと思うほど怒っている。 この屋敷の主である“遠坂凛”は轟音の聞こえた方向、自分の屋敷にある居間へと急いでいた。************************************************* ガラリと瓦礫の一つが崩れ、床に落ちる音が耳に届く。私はその瓦礫の真上に横たわったまま呻きを漏らした。「ぃっ痛たたたた……。全く、なんというデタラメな召喚ですか」 幸い、何処にも怪我をすることは無かったようだ。仮にもこの身は英霊、サーヴァント。 改めて、サーヴァントというモノが、如何に物理法則外れな存在か理解させられる。 だが幾らサーヴァントといえど、仮初めの肉体は痛みまでは流石に無視してはくれないらしい。 ズキズキと鈍く痛む頭を懸命に働かせ、暗がりに目を凝らし、辺りの様子を捜索する。 ――寸前まで見えていた洋館の、此処は居間か? と、すると此処は、あの第五次聖杯戦争。それもこの景色……これは凛の家? 私は過去に、二度の人生を経験している。もう一つの過去で、この屋敷の中に入った事は無かった。だが、この身に代わった過去において、私はこの屋敷を訪れている。 確かに、此処は凛の屋敷だ。記憶の底から引っ張り出した光景と照合し、認識する。 少々不正確さを覚えたのは、目に映るこの景色が、自分が堕ちてきたことによって破壊され、元の姿を留めていなかった為だ。 ……彼女がこの惨状を見て、逆上しないことを切に願うのだが。「ふう、全く凛ときたら。やっぱりこの世界の貴女も『うっかり持ち』ですか……」 頭上には自分が堕ちてきた痕跡が一つ。天井にボッカリと穿たれた大きな穴から、星が瞬く夜空の淡い光が漏れてくる。 まだ冬も厳しい一月の終わり頃だ。雪が降るほどでは無いが、冷やされた夜風が、己が開けた天井の大穴から屋内へ吹き込んでくる。 私は少しの間、瓦礫の上に落ちた格好のまま仰向けに瓦礫の上に背を預け、天井の穴から覗く星をなんとなく惚けたように、ぼうっと眺めていた。 ――全く。彼女は何故か昔から、ここ一番という時に限って拙いミスをする。その悪癖はやっぱり、何処の世界の貴女も変わらないみたいですね。 そう言葉には出さず、胸中で呟く。一つ苦笑を漏らしつつ瓦礫に背を預けたまま、私は彼女の持つ最大の欠点に半ば呆れながら、不意にむず痒くなった頭を撫でるように掻いた。 無造作に下ろされた金砂の長い髪が、指の動きに絡みつき揺れる。 エメラルドのような、透き通った青緑の光を湛える双眸は苦笑めいた色を見せ、小さな溜息を吐いた。「きっと今頃は地下室から慌てて飛び出して、駆けつけてくる最中でしょうね」 何に達観してしまったというのか自分でも良く判らないが、何処か達観したような口調で、自らのマスターであろう少女のことを思い出し一人ごちる。 少しすると、ドタドタとけたたましい足音と共に、屋敷の主と思しき女性の声。 居間の扉の直ぐ向こうでそれが止まる。 ――来ましたか。 なにやら慌てふためくように、扉のノブをガチャガチャと弄っている。どうやら墜落の衝撃で建て付けが悪くなり、開かなくなってしまったのだろう。 痺れを切らした彼女はやはり――。「ええい邪魔だこのおっ!!」 バキンと音を立てて、ドアの鍵が壊れて弾け飛ぶ。渾身の力で蹴り飛ばされた居間の扉は蝶番まで外れて宙に舞い、私の頭上を掠めるように飛び去って行った。 ――凛、相変わらずちょっと粗暴すぎますよ……。 哀れな扉は対面の壁に直撃して更にバラバラ、扉だった面影は見る影も無い。ううむ、忘れていた訳ではないが、彼女はやっぱり多少おっかない。 その凶暴さに、実は内心怯み気味になるが口には出さず、表情にも極力出さないようにして見かけは冷静を保つ。 だが『何故貴方が彼女に怯えていたか判る気がします』と、私は思わず胸中で漏らしてしまった。 私の魂が持つ一つの神秘、その中から“彼”が少し励ましの声をかけてくれる。だが、それも少し情けない話だ。 彼、それは私がかつて失った聖剣の鞘。その半身となった、私のかけがえの無い存在。 どんなに丈夫な鋼で出来ていようと、風雨の前には脆い抜き身の剣を護ってくれる物、それが鞘。 私にとって彼は、そんな鞘の様な存在だった。 いけない、この程度で顔を赤くしてどうするのだアルトリア。しっかりしろ自分。 そんなことを思っているうちに、彼女はズカズカと瓦礫の上を大股で歩き寄り――。「それで、貴女は何?」 その口から私に投げ掛けられた第一声は、それだった。 赤い悪魔が瞳に魔術師の光を携えて、視線で此方を射抜き、聞いてくる。 それはすなわち、――貴様は私のサーヴァントか否か? ただの泥棒か浮浪者か? 自分の従者ならばその名を名乗れと、青い瞳で訴えていた。 私は瓦礫から立ち上がって埃を払い、居住まいを正す。「サーヴァント“Soldier(ソルジャー)”召喚に応じ参上しました。では問いましょう。貴女が私のマスターですか?」「……!? ソルジャー……兵士?」 凛が一瞬硬直し見定めるように私を凝視する。 無理も無い。本来“ソルジャー”等というクラスはこの聖杯戦争には存在しない。 その上、私の服装は現代の物と然程代わりは無い。何処にでもありそうなブラウスとタイトパンツ。上はベストを内に着込み、トレンチ型のロングコートを羽織っている。 ただし靴は少々頑丈そうな軍用ブーツ。 きっと彼女から見れば、それはどこかの軍隊の制服もどきをシャレて着込んだ、観光か何かの外人さんといった風情にしか見えないだろう。 ――本当、昔のあの格好からすればあまりにも“普通”過ぎますからね。……今の私の格好は。 それは当然、本来在り得ない筈の“イレギュラー”。 自分が召喚されたこの“聖杯戦争”。 此処で言う聖杯とは、決して某一大宗教に出てくる、聖者の血を受けたとされる杯の事ではない。 あくまでも“魔術師”にとってこの“聖杯”とは、この世界の“根源”に繋がる為の神秘。 甚大すぎる魔力によって、不可能も可能に出来る『魔法の釜』だと謂われている。 そしてそれを手にするため、魔術師達は数十年に一度行われる、この地の“聖杯戦争”に参加せんと、遠く海を越えて世界各地から集まってくる。 聖杯を現世に“降臨”させるための儀式として、この戦争の為に聖杯の機能から用意された人外の超自然力、“サーヴァント”を使役して最後の一人になるまで殺し合う。 そう、それはたった七組だけで繰り広げられる文字通りのバトル・ロワイヤル。 その戦争の駒として召喚される“世界”に記録された“英霊”の魂を降霊させ、使役させてしまうというふざけた神業。 それが“サーヴァントシステム”。 聖杯の持つ無尽蔵とも例えられる膨大な魔力を以て、初めて可能となるそのシステム。 英霊をそのまま“降臨(おろ)す”には負担が掛かりすぎる為、仮初めの“拠り代”として用意されたモノ、それが七騎の“クラス”と呼ばれるカテゴリー。 すなわち―― 剣の英霊「Saber(セイバー)」 弓の英霊「Archer(アーチャー)」 槍の英霊「Lancer(ランサー)」 怪力を誇る狂戦士の英霊「Berserker(バーサーカー)」 暗殺者の英霊「Assassin(アサシン)」 魔術師の英霊「Caster(キャスター)」 騎乗兵の英霊「Rider(ライダー)」 の計7クラス。 私は過去、二度それに係わった。最優のサーヴァント“セイバー”のクラスとして。 だが、『現在の私』はそれには成り得ない。 何故なら、この身は既に王でも騎士でも無く、また純然たる正英雄でもないからだ。 むしろ、存在としては反英雄に近い。 それでも、この身は既に英霊。 再び“世界”と契約を交わし、奇跡の対価として“アラヤの守護者”となった人間。 そう。――ただの人間だ。この身には生まれながらに特別な『何か』が宿っていたりはしていない。 唯一つの特別な神秘、前世から受け継いだ“鞘”と、それに護られた記憶を除いては。 魔術は簡単なものくらいは使えるが、得てして秀でたものでもない。 生身の頃には一時期、軍隊に在籍していた事も在った。だから剣でも、弓でも、槍でも、魔術でもない。 ましてや騎乗能力や暗殺術に秀でている訳でもない。 ――否。暗殺も不可能ではないが、生前から私の性格がそれを善しとはしなかった。 怪力など、元が一介の人間でしかない『あの時代の私』にあるはずも無い。 この身は只、『彼が私にそうあって欲しいと願った』ごく普通の幸せを攫める星の巡りの元に生まれた、唯の平凡な少女だった。 例えその身に、かつてどれほどの神秘を行使していた魂が宿ろうが、その肉体が驚異的な能力を手に入れるほどの事は無い。 だが、それでも彼に会いたくて、彼を助けたくてその手に武器を取った。 あの頃の……幼かった私には、前世の記憶はまだ鮮明に蘇ってはいなかった。 それでも何かに囚われるように、“人を護れる強さ”を欲した。 あの頃、それが何故かは理解出来なくても……それだけが、記憶の霞の向こうに垣間見える彼へ追い付く為の、たった一つの手掛りに思えてならなかった。 そうして『人を護りたい』という意志からか、自然と私は軍属の道を選び、己を鍛え、高める為、祖国の空挺部隊に志願した。 過酷な訓練も乗り越え、人として誰よりも強く、優しく在りたいと願った。 この腕に、かつて持った神懸り的な力こそ無いけれど……前世から受け継いだこの魂の在り方だけは、決して無くなりはしない。 私は既に王では無い。忠誠を誓った騎士でも無い。 しかしその心に刻まれた剣士の記憶と経験は消えない、無くなりはしない。 事実、刀剣やナイフを主とした近接戦闘(CQC)ではまず負けることは無かった。 指導者として振るった軍裁、統率の経験も、思い出すきっかけさえあれば、自然と脳裏に蘇った。事実、一個中隊を率いて議事堂奪還を成功させた事も在った。 ただ忘れているだけ。直ぐには思い出せなくとも、無くなりはしなかった。 そんな私の採れる道は皮肉なことだが、やはり軍隊へと向くのは当然の理だったのかもしれない。 武器は軍属である以上、前世と同じという訳には行かなかった。刀剣はおろか銃、火器、爆薬、トラップ。 およそ戦闘能力に係わるモノは全て、それなりに扱いこなせる事が必要だった。 武術も当然扱う。空手、柔道、居合、そしてCQCにとって必須である合気柔術など。 誰に言われたかは忘れたが、器用貧乏とはよく言ったものだ。 だから今の私は“Saber(剣士)”ではなく“Soldier(兵士)”。それ以外のどのクラスにも、今の私は当てはまらない。 だがそれでも、どんなにこの戦争で不利な立場に居ようと、まだ私には、成さねばならない事がある。成し遂げたい願いがある! そのために再びこの地、この時代へと舞い戻ってきたのだから……。