自分だけでも生き残りたい。 彼を捨てても生き残りたい。 そう思ったわけではない。 ただ、どうでもよくなっただけ。 死ぬ。 確実に死ぬ。 今死ななくても、十分後には死ぬ。 十分後に死ななくても、次の朝日を拝むことは叶うまい。 そう思った。 だから、せめて楽になりたいと。 そう思ったのだ。 この手を離せば彼は死ぬ。 呼吸するたびに空気が肺を焦がす。 そんな異界で、幼子が生き延びる術などない。 でも。 この手を繋いだままでも彼は死ぬ。 足を進めるたびに熱風が肌を焼く。 そんな地獄で、幼子達が生き残る術などない。 だから。 私はこう思った。 人は一人で生まれてくる。 ならば、 死ぬときも一人が相応しい。 そう、思ったのだ。 そして、彼はいなくなった。 今となってはわからない。 手が離れたのか、手を離したのか。 それは私の選択。 だが。 その選択は、罪ではない。 本当の罪は。 私だけが、生き残ったこと。 「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」 兄の言葉は、ほとんど聞き取ることが出来なかった。 目の前に立つ少年。 くせのある赤毛。意志の強そうな瞳。 誰が否定しても、私は確信した。 ああ、彼が生きていたのだ。 彼の存在は私の原罪。 私の罪は彼から生まれ、 私の中に沈殿し、 そして、どこにもいかない。 だから、私は恐怖した。 彼に、許されることに恐怖した。 この罪が無くなれば、私は私でなくなる。 私が、殺される。 故に、私は微笑んだ。 恐怖を隠すために、微笑んだ。 怯えを隠すために、微笑んだ。 涙を、隠すために、微笑んだ。「はじめまして、間桐 代羽です」 この出会いは、奇跡などではない。 本当の奇跡は。 私の声が、歓喜に震えなかったこと。episode47 彼の罰、彼女の罰「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」 突然、だ。 あまりに突然の、台詞。 あの夜? 一体いつのことだろう。「セイバーさんと先輩に、家まで送っていただいた、あの夜のことです」『これを録音したのは、お前んちでやった『料理合宿』から帰ってきた日だよ。あいつ、いつもはマグロみたいに何にも反応しないのに、この日は珍しく嫌がったんだ。その理由が、遠坂の服を汚されたからだってさ。健気だね、全く』 ああ、あの夜のことか。 優しい驟雨の降る、暖かい夜のことか。 俺とセイバーと代羽と、三人で人気の無い夜道を歩いた夜のことか。 お前が、慎二に、犯された、あの、夜の、ことか。「あの夜、先輩のお宅の縁側で、私が言ったこと、覚えてますか?」 お前が何を言ったか? そんなこと、忘れるほど耄碌しちゃあいないつもりだ。「…『あなたはどうして正義の味方になりたいのですか?』、確か、こう言ったよな?」「良く出来ました、大正解です」 彼女はアシカを褒めるみたいに、にっこりと笑った。「貴方はまだ、正義の味方などという、お化けみたいなものを目指しているのですか?」「…その言い方、少し気に障るけど、そのとおりだ」「では、貴方の目指す正義の味方とは、一体、どんなものなのでしょうか」 正義の味方。 それは、少なくとも俺にとっては一般名詞ではない。 固有名詞。 ただ一人の人物を差すものだ。 親父。 衛宮切嗣。 彼の目指したもの。 彼の目指した理想。 争いのない世界。 あらゆる悪のない世界。 誰も、涙を流すことのない、世界。「…泣いている人を助けるのが、正義の味方だと思う。誰もが幸せであってほしいと、そう願って、そう願い続けて―――」 それが、彼の姿ではなかったか。 義父の、そして、彼の―――。「愚答です。それでは、質問の趣旨に答えていない。その定義では、この世の大半の人間が正義の味方ということになってしまう。結局のところ、人は、人の幸せを願う者ですよ、衛宮士郎」 その視線は、その微笑みは、俺の深奥を射抜くように。「じゃあ、代羽、お前はどう思うんだ」「正義の味方の定義、ですか?」「ああ、それでもいい。お前の考えを聞かせて欲しい」 そうですねえ、と彼女は顎に手を当てた。 退けない。 何かのために、退けない。 ここで退くわけには、いかない。 しかし、己の思考を整理するように、彼女は目を閉じた。 そして、目を閉じたまま、言った。「―――他者に対する重度のペシミストで度を過ぎた努力主義者。かつ、己に対する致命的なヒロイックナルシズムと誇大妄想的な強迫性障害を併発した精神病患者」 そんなところでしょうか、と。 目を閉じ、口元に笑いを含みながら、そんなことを、言った。 口元は笑っていたが、言葉は笑っていなかった。 その言葉に、熱は無かった。 熱は無かったが、火傷しそうだった。 冷たすぎて熱い、ドライアイスみたいな言葉だった。 そして、彼女は言った。 鬱屈した思念を吐き出すように、話し続けた。「『正義の味方』という言葉には、必ず『救う』という概念が対になる。しかし、金策に困った個人を救う正義の味方など、あまりに卑小。まぁ、世間では一番ありがたがられるかもしれませんがね。ならば、救う対象は大きければ大きいほど相応しい。その最たる例が、人類とか世界とかでしょうか」「観念的に言えば、人はその内面に一つの世界を有しているといっていい。『人一人の命は地球よりも重い』、そう言ってテロリストに屈服した国がどこかにありましたが、それはある意味においては極めて正しい見解だ」「しかし、少なくとも、質量という観点で見たとき、人一人という存在は、世界という基準をもってすればあまりに小さい。小さ過ぎる。砂浜という概念は砂という粒子によって構成されているが、砂浜という単語の持つイメージの中に、厳密な意味での砂の一粒は含まれていない」「近視眼的に考えれば、砂粒が影響を与えることができるのはその周囲の砂粒だけであり、それ以外に影響を及ぼすには彼らの手は短すぎる。そして、彼我を囲む環境はあまりに苛酷だ。風も、雨も、波も、全てが砂粒にとって、人智を超越している。しかし、それはある種、救いであるかもしれない。彼はその周りの砂粒だけは確かに救うことができるのだから」「俯瞰して考えれば、九を助けるために一を切り捨てるとか、矛盾を承知の上で十を丸ごと助けるとか、一体そのどちらが正しい解答なのかとか、そういった煩悶それ自体が意味を持たない思考だということが良く分かる。砂の一粒がその身をダイヤモンドに変えたところで、あるいはその周囲の砂粒を砂金に変えたところで、それは砂浜にとって何の意味も持たない。十粒の砂金も、九粒の砂金も、砂浜にとっては同義だ」「どちらでも構わない。どちらに視点を置くかは個人の責任だ。しかし、砂粒に視点を置けば、砂浜を救うことは明らかにその器量を超えた絶事であり、砂浜に視点を置けば、あらゆる砂粒が矮小すぎて、その全てを救うのは不可能だ。砂浜と砂粒の両の視点を抱くというのは、人の身に許された領域を超えているでしょうね」「結局のところ、世界という物差しに対して人の身は矮小すぎるのです。いや、世界が重過ぎると言ったほうが正確でしょう。それが、この議論の帰結。卵が先か鶏が先か、その議論に意味が無いのと同じ。どういう過程を経ようと、結論は変わらない」「しかし、彼らは違う。彼らは、己が何かを為せると考えている。己という砂粒が砂浜に影響を与えうると。もしくは、己という砂浜が卑小な砂粒の全てを認識することが叶うと。そう、考えている。そして、その限界を知らない。弁えようとしない。まるで、それが一つの美徳みたいに。さらに、彼らは常に脅えている。自分のせいで誰かが助からなかったんじゃあないか、と。自分の掌から何かが毀れてしまったのではないか、と。それは己に対する過信であると共に、他者に対する侮蔑だ。人は自分の人生に責任さえ持てれば、それで十分。他人のそれの責任まで負おうとするのは、弱者に対する蔑視に他なりません」「良し悪しは置いておけば、世界は完成されている。それはシステムと言い換えることができるでしょう。衛宮士郎、システムというものの定義はね、『運用する個人の性質が変わろうとも、事物の結末が変わらない』、そういうことです。つまり、一個人が如何に奮戦しようとも、世界は明日も回り続けます」「その中で、たった一人の個人が何かを為せると勘違いするのは、己に対する過大評価というだけでなく、己以外の他人悉くに対する挑発だ。特に、あくせくしながら日々の糧を得るために奔走している名も無き人々、もっとも正義の味方が救うべき対象をこそ、彼らはもっとも痛烈に蔑視している。ある種の選民思想に共通する類の臭気を感じざるを得ない」「更に言うならば、この世に本当の意味の悪など、極一握りしか存在し得ない。純粋なそれが存在し得るのは、神話や御伽噺の世界だけです。この世に溢れるのは、他者と異なる正義の辞書のみ。その厚さの違い、或いはそこに書かれた言語の違いこそが、人の涙を生むのです」「世界は正義に満ち溢れていますよ、衛宮士郎。貴方は、正義の味方として、その世界で何を為したいのですか?何を為そうというのですか?どの正義に対して味方をするつもりですか?それとも、己の辞書の厚さを自慢したいですか?己の辞書の正しさを広めたいですか?それならば、私は―――」 貴方を軽蔑します、と。 彼女はそう言って、その口を休めた。 少し、風が吹いた。 冬場には珍しく、暖かい、頬が緩むような風だった。 彼女は、傍らに置いていたペットボトルを取ると、それを一口飲んで、ほう、と溜息を吐いた。 憎々しい、そうは思わなかったが、ほんの少し、疎ましかった。「お前の言いたいことは分かるけど、代羽、じゃあ、苦しんでいる人がいても、仕方ないと諦めるのか?泣いている人がいても、当然だと見捨てるのか?それがあるべき姿だと悟った振りをして、偉そうに踏ん反り返るのが正しいって言うのか?それは違う。それは、絶対に違う。そんなの、認められない」 彼女は、さも嬉しそうに頷いた。「ええ、私もそう思います。いつだって、時代を変革するのは弁舌家ではなく革命家、賢明なる求道者ではなく愚昧なる行動者です。だから、貴方の言っていることは極めて正しい。私が言っているのは、そういうことではないのですよ、衛宮士郎」 知らぬ間に、彼女は俺をフルネームで呼んでいた。「分を弁えろと、極論すればそういうことです。己に何が出来るか、そして何が出来ないか、行動する前にとことん考えろ、そういうことです。貴方は砂粒ですが、きっと優しい砂粒です。周りに助けを求める砂粒があれば、それを助けることは十分に可能なはずだ。しかし、己を砂浜であると勘違いして全ての砂粒を助けようとすれば、そこには認識の齟齬が生じる。それを理想とか、正義とか、訳のわからないイメージで誤魔化すな、そういうことです」「貴方の主義主張の出自は問いません。それを借り物だとか、偽善だとか、言いたい人間がいるならば言わせておけばいい。偽善者、その言葉を使って他者を否定する人間は、己が真なる善人だと信じて疑わない恥知らずです。自己満足、その言葉を使って他者を否定する人間は、真に自己を満足させたことの無い咎人です。そんな者の言に惑わされる必要など、一切無い」「他者を頼りなさい、衛宮士郎。己の手が短いことを自覚するべきです。貴方の手の届かないところで苦しむ砂粒は、手の届くところにいる砂粒が助ければいい。そして、己を鍛えなさい。その手を長くするように、修練を積みなさい。羽撃くこともできない雛鳥が大空を目指しても、地上で舌なめずりする蛇を喜ばせるだけですよ」「…つまり、こういうことか?『自分に出来る範囲のことだけをしろ』と」「ええ、そういうことです。己の限界を知らないのは無知ですが、それを知ろうともしないのは、もはや罪悪の域にある。貴方は、罪人ではないでしょう?」 彼女は、我が意を得たり、というふうに、にっこりと微笑んだ。 俺は、痛みと共に彼女から視線を外した。 分かっている。 彼女が言っていることがある種の正しさを持っていることくらい、分かっている。 それでも、彼女が正しいことを言っていないことくらい分かっている。 切嗣は、そんなものを目指したんじゃあない。 そんな、世界のどこにでも転がっている一般論を求めたんじゃあない。 もっと、本質的で、普遍的で、決定的なものを目指していたはずなんだ。 例えば、この世から全ての悪を根絶する、そんな夢物語みたいなことを。 それがどうなったのか、俺は知らない。 きっと失敗したんだろう。だから、あの晩、あんなにも、寂しそうだったんだ。『爺さんの夢は俺が、ちゃんと形にしてやっから』 もし成功していたら、幼い俺の、何の抵当もついていない無責任な言葉、それを聞いてあんなにも嬉しそうにするはずが、ない。 それでも、俺は助けられたんだ。 切嗣に、助けられた。 それがどんなに嬉しかったか。 あの地獄の中で、見上げた視界に彼の顔が映りこんだとき、どれほどの安堵がこの身を包んだか。 あの感情の前では、千の言葉だって役に立たない。 救われる事は、何よりも救いなんだ。 それは、俺が誰よりも知っている。 そして、救うことだって、きっと救いなんだ。 だから、あのときの切嗣は、あんなにも嬉しそうだった。 ただ、嬉しそうだった。 だから、俺は思ったんだ。 俺も、彼みたいになれば、きっと救われるんじゃないか。 誰かを救えば、きっと、あんな笑顔を浮かべることが、出来るんじゃないか―――。「それは、違いますよ」 どきり、とした。 聞いたことの無い、声だった。 針で鼓膜を貫かれたか、そう思わせる声だった。 彼女の表情を伺うこと、それをすら不可能にさせる、そんな声だった。 そこには温度なんて無い。 冷たいとか熱いとか、そういう概念が無かった。「あれは、人を救うことのできた者の浮かべる笑みではありませんよ」 あったのは、怒り。 純粋な怒りだけが、あった。 つまり、彼女は怒っていた。 決意を込めて、俺は彼女の顔を、見た。 初めて見た彼女の怒った顔は、しかし、息を呑むくらいに、美しかった。「あれは、罪人の笑みです」「代羽、何を―――」 そして、彼女は、嗤って、いた。 瞳を、圧倒的な怒りの色で焼き付かせながら、口元だけが、にんまり、と。「茨の冠を頂き、磔の十字架を背負い、ゴルゴタの丘を登る罪人が、己の犯した罪のほんの一部、それが冤罪であったことを証明できたときに浮かべる、恥知らずな笑みですよ」「はは、代羽、お前、何を言ってるんだ?」「聞こえませんでしたか?私はこう言ったのです」 衛宮切嗣は、恥知らずの、罪人だ、と。 代羽の姿が、消えた。 音が、消えた。 視界が、消えた。 俺が、消えた。 黒くなって、赤くなって、また黒くなって。 体だけがあった。 筋肉だけが、あった。 それが、嫌に熱かった。 熱くて、妙に汗ばんでいた。 手が、痛い。 何かを、握り締めていた。 それでも、考えることはただ一つ。 代羽は、間違えている。 重大な勘違いをしている。 おやじは、衛宮切嗣は、罪人なんかじゃあない。 だって、俺を助けてくれたんだ。 俺を助けてくれたってことは、一番偉いってことだ。少なくとも、俺の世界の中では、一番偉いんだ。一番偉いってことは、罪人なんかじゃあないってことだ。そんなこと、お前にだってわかるだろう? それとも、そんな簡単なことも分からないのか? だから、そんなに苦しそうな顔をしているのか? その手は誰の手だ、代羽。 お前の襟を取って、首を絞めるように捩じ上げている、その手だ。 ああ、ひょっとしたら、慎二か。 また性懲りも無く、慎二がお前を虐めているのか。 全く、しょうがない奴だな、慎二は。 あとでちゃんと懲らしめてやるから、安心しろよ、代羽。 だから、そんなに口を動かさなくてもいいぞ、代羽。 まるで陸に揚げられた魚じゃあないか。 そんなに口をパクパクさせても、酸素は喉を通らないぞ。 だって、この手がお前の喉を、こんなにも強い力で締め上げてるんだから。 この手? あれ? この手が代羽を? そういえば、なんで彼女は俺の目の前で苦しんでるんだ? これじゃあ、まるで俺が彼女の首を絞めているみたいじゃあないか。 これじゃあ、まるで俺が慎二みたいじゃあないか。 代羽、代羽。 お前を苦しめているのは、誰なんだ?『ぜ……ば…い…』 蚊の泣くような声が聞こえて。 俺が戻って。 視界が戻って。 音が戻って。 代羽が戻って。 そして、俺の手が、彼女の首を、万力みたいな力で、締め上げていた。「うわっ」 思わず、手を離した。「うわっ」 彼女が、すとんと、ベンチの上に落っこちた。「うわっ」 ごほごほと、咳き込む彼女。「うわっ」 俺の手に、生々しい彼女の体温が残っていた。「うわっ」 ぺたん、と、尻に軽い衝撃があった。どうやら、どこかに尻餅をついたらしい。「うわっ」 手が、手が。 慎二。 なんで、お前がここにいるんだ。 なんで、お前の手がここにあるんだ。 なんなんだ、これは。 なんで、こんなところに。 だめだ。 この手は、許せない。 だって、代羽を傷つけた。 俺の、■さんを、傷つけた。 こんなもの、ここにあっちゃあいけない。 この世にあっちゃあいけない。 切り離さないと。 切り離さないと。 刃物が必要だ。 刃物が必要だ。 鋸がいい。 できるだけ歪な傷口を作らないと、こいつはまた引っ付いてしまう。 そうだ、あの時、切り取られていたんだ。 あのままで、よかったんだ。 なんで引っ付けたんだ、俺の馬鹿。 いらない。 こんなもの、いらない。 刃物が欲しい。 欲しいなら、引っ張って来い。 俺の中から。「投影、開―――」「だ、ばりなざ、い、ごぼっ」 陽光が、遮られた。 何かが、俺の前に立っていた。 そして、俺はその何かに、抱きしめられていた。 何だろう。「ごぼ、ず、びばぜんでじだ…ごぼ、ごぼ」 暖かくて、心地よかった。「ごほ、あなだの、いちばん、いたいとごろに、ごほ、どそくで、あがりこみました」 なんだか、懐かしかった。「げほ、ゆる、げほ、ゆるしてください、また、あなたをみすてるところでした」 なんで、あなたがあやまっているんだ。「私も、なのです、えみやしろう」 あやまらないといけないのは、おれじゃあないか。「私も、笑ったことがあるのです」「ご…めん」「私も、己が見捨てた者の前で、恥知らずにも、笑ったことがあるのです」「ごめん、なさい」「死んだと思っていた、その者が生きていたことを知ったとき、恥知らずにも笑ったのです」「これじゃあ、しんじといっしょだ。あなたを、きずつけた」「己の罪が許されたと、そう思ったのです。ほんの一瞬だけ、神に感謝してしまったのです」「ごめん、ゆるしてください…」「許します。貴方の罪は、全て私が許します。誰が許さなくても、絶対に私だけは許します。ですから―――」 ―――どうか、しばらくのあいだ、このままで。 彼女は、立ち上がって、スカートの裾を直していた。 俺はその後姿をじっと見つめた。 何も、話せない。 俺は、彼女を傷つけた。 彼女がそれを許しても、俺が許せない。 こんなの、慎二と一緒だ。 違いがあるとすれば、そこに理性があったかどうか。 いや、もしかしたら、慎二だって最初はこうだったんじゃあないか。 何か、大事なものを汚されて、侮辱されて、自分を見失って。 彼女を、汚してしまったのでは、ないだろうか。 ならば、俺は、慎二と同類だ。 あれほど憎み、あれほど蔑んだ慎二と、同類だ。 俺は、最低、だ。「許せませんか、衛宮先輩」 彼女は振り返らずに、そんなことを、言った。 ぱんぱんと、スカートのお尻のところを両手で叩きながら、それでも振り返らずに。「自分が、許せませんか、衛宮先輩」「…ああ、許せない」「私もです。私も貴方が許せない」 冷たい声だった。 心のどこかに残っていた甘い期待を、端から端まで両断する、そんな声だった。「絶対に許しませんよ、覚悟しておいてください」「…ああ、なんでも、言ってくれ」 彼女は、振り返った。 きっと振り返ってくれないと思ったから、少し嬉しかった。「全く、女性を食事に誘っておいて、食べさせたのがあんな貧疎なハンバーガー一つですか。恥を知りなさい、衛宮士郎。私は、絶対に許せない」「…はっ?」 彼女は、ベンチに腰かけたまま項垂れ、しかし唖然とした、そんな俺を見下ろしながら、くすくすと、本当に楽しそうに微笑った。「償いはして頂きます。せいぜいバイトに励みなさい。私の胃袋は、貴方の想像するよりもずっと大きい。そうですね、とりあえずフルールのベリーベリーベリーとラフレシアアンブレラの予約は忘れないように」「…飯は、お前が勝手についてきただけだろう?勝手についてきて、勝手に食って、それで、文句言うか、普通」 彼女は、今度こそ、にっこりと、笑った。 この公園にだけ、一足先に春が来た、そんな笑みだった。「それでも、貴方は私を誘いました。ならば、後の責任は全てが男性に帰する。そうは思いませんか?」 …はっ。 こりゃあ、勝てない。 きっと、凛にだって、桜にだって、藤ねえにだって、俺は一生勝てないけど。 きっと、こいつには、輪を掛けて、勝利の女神はえこひいきをかましてくれるだろう。 それもいいさ。 えこひいき万歳。 ホームタウンデシジョン、大いに結構。 だって、この件については、アウェイ側に、全くやる気が無い。 両手を挙げて、全面降伏している。白旗だって、千切れそうなくらい振り回してやる。 審判も、勝利の女神だって、勝負の結果を変えるのは不可能だ。最初っからこっちが負けを望んでいるんだから。 それでいいさ。 それが、多分正解だ。「ああ、ほんと、そうだな。ごめん、許してくれ」「ふふ、分かっていただけたようで幸いです」 彼女は黒い外套を丁寧に畳んで、脇に抱えた。 その様子を眺めながら、決意のための深呼吸を一回。 …、よし。 正しいかどうかは分からないけど、言うべきことは言わないと。「それと、今まで、ごめん。俺は、気付いて、やれなかった」 慎二が、お前にしてきたことを。 一つも、気付いてやれなかった。 気付かずに、へらへらしてた。 もう少し愛想良くすればいいのにとか、あまりに自分勝手なことを言っていた。 だから。「許して欲しい。本当に、ごめ―――」「…貴方は、何を言っているのですか?」 彼女は、怪訝そうに、俺を見た。 顰められた眉、しかし、その容姿には、些かの曇りも無い。「慎二が、お前にしてきたことだ。俺は、あいつとお前の一番傍にいたのに、何も気付けなかった。そんなの、共犯と一緒だ」「…確かに、躁鬱の気の激しい人でしたから、殴られたり蹴られたりは日常茶飯事でしたが…そんなこと、私だって黙っていない。相応の復讐は欠かしませんでしたから、別に貴方に謝れられる筋のものではありませんが…」 えッ? でも、あいつは確かに…「それに、殴られた蹴られた程度、子供の兄妹喧嘩と一緒でしょう?誰かが責任を感じなければならないほど、重いことではないと思いますが、違いますか?」 じゃあ、あの声はなんだ? 慎二が持っていた小さな機械から聞こえた、お前の声はなんだったんだ?「じゃあ、あの晩遠坂に借りた服は…」「クリーニングに出している最中です。まさか、家の洗濯機で洗って、はいどうぞ、という訳にもいかないでしょう?」 そんな、馬鹿な…。 じゃあ、慎二は何を言っていたんだ? 慎二が嘘を吐いていたのか? それとも、代羽が嘘を吐いているのか? 何のために?「…それとも、まさか私がそれ以上に下劣なことを兄に強要されていた、そんなことは言いませんよね?」 びくり、と。 我知らず、肩が震えた。 なんて正直者だ。 吐き気が、する。「…本当ですか?…全く、貴方という人は…」 彼女はゆっくりと頭を振った。「きっと、ここは怒るべきところなのでしょうが、貴方に免じて許してあげます。一応言っておきますが、私は今だかつて男性と閨を共にしたことは一度もない。下種な言い方が許されるならば、処女、そういうことです。もし、私の純潔を疑うなら―――」 彼女の小さな顔が、妖艶に微笑んだ。 そして、その表情のまま、ゆっくりと近づいてきて。 耳元で、囁くように、こう言った。「あなたが、ためしてみますか?」 こそばゆい吐息と共に、そんな言葉が耳道に注ぎ込まれた。 頭が、真っ白になった。 何も、考えられなくなった。 血液が、沸騰しているみたいに、顔に集まっていくのが、わかった。「かわいいひと」 ちろり、と、耳道の入り口が何かに舐められた。 彼女は微笑みながら、俺を眺めたまま一歩後ろに下がった。 その表情で、俺はからかわれているのだと、悟った。「代羽、お前―――!」「ふふ、失礼はお互い様。これでおあいこ、そういうことにしておきましょう?」 そして、代羽は、公園の出口のほうにくるりと向き直って、背中を俺に向けたまま、こう言った。「フルールの件、忘れないで下さい。これでも、結構楽しみにしているのですから」「…ああ、分かったよ」「約束、しましたよ」 遠ざかっていく彼女の背中。 その時、俺は気付けなかった。 慎二を評する彼女の言葉、そこに過去形の動詞が使われていたことに。 そして、これが、間桐代羽という女性の姿を見る、最後の機会であったということに。