interval3 IN THE DARK ROOM 3 闇が、身体の輪郭を暈している。 この部屋に入るときは、いつもそうだ。自分が、果たして自分という個を維持しているのかどうかが怪しい。まるで、私の中にある濁ったモノが外界と融合して、私の外殻を塗り潰しているのではないか、そんな妄想すら抱いてしまう。 周囲を見渡すが、壁らしきものは見当たらない。 暗い空間に、ぽつん、と一人。 くらい、へやだ。 その他には、いかなる形容詞も相応しくないと思える。 寒くもないし、熱くもないし、快適でも、不快でも、ない。 それでも、辛うじて探すならば、『広い』という形容は出来るかもしれない。 そう、きっと、広い部屋。 ひょっとしたら無限に広がるほど広いのかもしれないし、もしかしたら手を伸ばせば壁に触れられる程狭い部屋なのかもしれない。 しかし、それはたいした差異を持たないだろう。無限とは、人の認識を超越するものの総称である。底の無い沼など存在しないが、人を飲み込むほど深い沼ならば、それは間違いなく底無し沼と呼ばれるのだ。 故に、はっきりとした広さが分からないならば、それが分かるまでは無限に広いのと同義。そして、私自身にこの部屋を調べるつもりがない以上、そのことは永遠に変わらない。 だから、この部屋は、きっと広いのだろう。 ふ、と後ろを見る。 そこには、小さな木製の椅子があった。 暗闇に照らされたこの部屋で、唯一視認できる、唯の椅子。 何の外飾も無い、座り心地の悪そうな、木製の椅子。元はさぞ豪奢なものだったのだろう、しかし、今は時の流れの残酷さの生き証人としての価値以外は、如何なるそれも残っていないようだ。 クッションなどという、高尚なものは備え付けられていない。背もたれだって、半分以上朽ちている。四つ在る足のうち、二つの長さが不揃いで、座るたびにがたがたと、不要なストレスを与えてくれる。 足と地面の間に雑誌でも噛ませれば、幾分マシになるのだろうか。ただ、それは適わぬ願いだということは、この私が誰よりも知っている。 結局、立ちんぼが嫌になったら渋々座る、それ以上の建設的な機能は持っていない。むしろ、直接地べたに座った方がひょっとしたら楽なのかもしれない。 それでも、私は偶にあの椅子に座るのだが。 そして、今、そこには私以外の何かが座っていた。 それは、黒いもやもやしたもの。 どう見ても人に見えない、異形の影が、そこには在った。「主よ」 もやもやから、声が、した。 それの、おそらくは口にあたる部分が、風に遊ばれるように開閉する。 彼が話している、のだろうか。 一度、軽く目を擦る。 それでも、声のした方向は、やはり暗色。粘つくような黒が、声の主を、覆い隠している。 彼は椅子に座っている。 私は彼を見下ろしている。 きっと、彼から見るならば、私も黒いもやもやに見えるのだと思う。この空間では、あらゆる存在自体が曖昧であやふやで、きっと無遠慮だ。 そもそも、本当に声の主はいるのだろうか。幾度も、本当に嫌になるくらい幾度も聞いた声だというのに、私はいつも己の正気を疑うことから始めなければならない。それは、一種の儀式じみた空虚さをしか、私に与えてくれない。「お久しぶり、そう言ったほうが良いのでしょうか」「そうだな、貴方と会うのは二日ぶりか。ならば、その挨拶が相応しかろう」 きっと、彼も同じ気持ちのはずだ。 人の五感は、そのほとんどが視覚から得られる情報に頼っている。ならば、それを完全に封じられた状態で外界を認識するなど、よほど訓練された他の感覚を持たない限り、霞を喰らう様な儚さを伴わざるを得ないのだろう。 しかし、それは興味深い命題だと思う。 さて、彼は私の実在を信じているのだろうか。 私は彼を見たことが無い。 ならば、彼も私を見たことは無いはずだ。 彼と私は、交わらない。 それでも、私と彼はマキリに必要とされた。 きっと、それは幸福と呼べる領域に存在する出来事なのだと思う。少なくとも、幸福を知らぬことよりは、より幸福に近い。 だが、私と彼は、全く異なる存在として、マキリに必要とされた。 私は、後継者を孕むための胎盤として。 彼は…どうなのだろうか。 ともかく、その方向性は違えど、本質は一緒である。 だから、彼が私を主と呼ぶのは、ただ単に、私がこの部屋の先住者であったからに過ぎない。それが一体どれほどの価値を持つことなのかは彼にしか分からないだろう。一度戯れに聞いてみたが、笑ってはぐらかされてしまった。「彼女は、そろそろ完成する」 思考の海の底に沈んでいた私は、彼の穏やかな声によって浮上を余儀無くされた。 糸屑ほどの羞恥を覚えつつ、胡乱な答えを返す。「完成しますか」「ああ、完成する。今だ至らぬが、方向性は定まった。彼女の理性はそれに抗うことなど適うまい。完成に至るまでに一体幾人の命を捧げなければならないのか想像もつかないが、それでも彼女は完成するだろう。あの凡人も、それなりの役目を果たしたらしい」 凡人と呼ばれた男。 私の兄。 彼の死は、その詳細に亘るまで、私の知覚に記憶されている。 無惨な、最期だった。 彼は、それなりの罪を犯したのだろう。しかし、あれほど無惨な死を強制されるほど、罪深かったとは思えない。 きっと、私が殺したのだ。 それは、真実よりも、事実に近い。「―――結局のところ、駒は使いようだということでしょう。あらゆる局面で、飛車角が歩よりも優れるわけではない、そういうことです」「なるほど、偶像を汚すのには、何人よりも凡人こそが相応しい、そういうことか」 彼が、にんまりと笑った気配が伝わってきた。 何だかんだ言って付き合いの長い私達だ。一度も彼の顔など見たことも無いが、それでも私は間違えていないと思う。「しかし、これほどまでに事が上手く運ぶとは思わなかった。あの盆暗に貴重な戦力を貸し与える、如何にも愚考としか思えなかったが、今となっては己の蒙昧を恥じ入るのみだな。あとは怪物同士、せいぜい派手に喰らいあってもらおうではないか」 興奮しているのだろうか、いつもより饒舌な彼。 私は冷ややかにそれを見つめる。「あれさえいなくなれば、あとは未熟な小娘に率いられた有象無象の群れ。君にとって物の数ではあるまい?くふ、これも神の思し召しか」「黙りなさい」 硬い声。 己でもそれと分かるくらい、嫌悪に溢れた、声。「その単語を私の前で使うことは許可しません。私は、まだそれほどに病み疲れてはいない。それに、此度の最大の敵は、間違いなくそれの僕である彼なのだから」 そうだ。 そんなこと、事が始まる前から分かりきっていた。 彼は、強い。 あらゆる意味で。 その肉体が。 その技術が。 その覚悟が。 その精神が。 その思考が。 そして、その存在そのものが。 だから、私は勝てない。 私では、絶対に彼に勝てない。 それは、先日の邂逅にて確定した。 ならば、どうするか。 簡単なことだ。 私以外のものに、彼を倒させればいい。「ほう、ならば、主の狙いは」「ええ。早い時点において言峰神父の戦力を引き摺り出すこと。そして、その弱体化。遠坂陣営の弱体化など、二の次、三の次です。彼らを食い合わせることが叶えば、言うことはありませんが、流石にそれは高望みでしょう」 くつくつと嗤いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。 彼を包む靄が、僅かにぶれる。 その意図は何となく分かった。 彼は、休みたいのだろう。 一通りの報告を終えると、彼は言った。「些か疲れた。今日は休ませてもらう」「貴方ほどの人が、消耗させられましたか」「ああ、なるほど英雄、伊達ではなかったよ」 彼は苦笑した。 その表情には、厚い靄をもってしても隠しきれない疲労が強く滲んでいた。「勝てませんか」「勝ち得る。しかし、今だ満ちぬ。酒精の注がれぬ酒盃など、如何に贅を尽くそうが唯の置物と変わるところが無い。中身があってこそ、興も、その本質も生まれよう」 その言葉に、虚栄や恐れは無かった。 確信。 己の存在に対する確信が、あった。「ならば、安心してください。次に貴方が目覚めるときには、なみなみとした神酒を用意しておきます故」「ああ、期待しているよ」 彼はそう言って虚空に姿を消した。 空間が、再び静寂を帯びる。 針の落ちた音ですら反響するような、無限の闇。 そして、目の前には古びた椅子。 私は、きょろきょろと雑誌を探した。 いつも通り、それはどこにも見当たらなかった。