壁に背を預けたまま、ぼんやりと、天井を見上げた。 直接廊下に座っているからだろうか、いつもよりもそれが遠くに感じる。 それを、ぼんやりと、見つめる。 薄汚れたタイル。1対2の長方形。それに描かれた、意味不明の模様。まるでアメーバの群れみたいだ。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 あれは、全て同じ模様なのだろうか。一つ、特徴的な模様を見つけて、他のタイルと照らし合わせてみよう。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 …どうやら、同じものらしい。つまり、あれは何かの芸術的な意味があるのではないということだ。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 なら、始めから白一色の素直なものにすれば良いのに。そうすれば、純粋で、綺麗だ。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 でも、白一色だったら、汚れたら一発で分かる。そうしたら、いちいち掃除しなけりゃいけない。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 そんなの、手間だもんな。ならいっそ、最初から汚れてる方がマシだ。なるほど、よく出来てる。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 純粋なものは、排除される。純粋なものは、傷つき汚れる。誰が言ったんだ、そんな当たり前のこと。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 ああ、そうか。彼女だ。きっと、誰よりも、純粋な彼女だ。 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 なら、彼女は、今まで。 一体、どれくらい。 傷ついて、きたのだろう。 そんなことを考えながら、薄汚れた天井を、ぼんやりと、見つめていた。episode39 静かな廊下の柱の影から どのくらいそうしていたんだろうか。 天使が針の上でダンスを踊る、その一曲分くらいは呆けていたのかもしれない。 穏やかな時間だった。 さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。 時折、ずしん、と音が響く。 きっと、屋上では凄惨な戦いが繰り広げられているのだろう。 まるで、遠い世界の出来事みたいだ。 いやいや、俺は何を言ってるんだ。 セイバーが、アーチャーが戦っているんだぞ。 なら、俺も行かないと。 多分、何の役にも立てないけれど。 それでも、行かないと。 なのに、この腰は。 どうして、こんなに。 こんなにも、重いのか。「坊や、私は行くわ。あなたはどうするの?」 声が、聞こえる。 痴呆みたいに上を向けたままの顔を、少しだけ下に傾ける。 分厚いローブ。 端整な唇。 キャスター。 ああ、こんにちは。 ご機嫌麗しゅう、大魔術師さん。「このままここで桜達を待つ?それとも、私と一緒に来る?」 あなたと一緒に? そんなことをして、何になる? だって俺、何の役にも立たないぜ? 見てくれよ、こんなにぼろぼろだ。 手足の骨だって砕けてるし、頭だってがんがんする。 重病人だ。 それを戦場に連れて行こうってのかい? あんた、酷い奴だな。 旧日本軍だって、怪我人や病人は徴兵しなかったんだぜ。 だから、見逃してよ、ほんと。「…そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」 そう、ぼくは賢くなりまちた。 だから、褒めて褒めて。 笑って頭をなでてちょーだいな。 だからさ。 お願い、だからさ。 そんなに、嫌そうな顔、しないでよ。「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」 勝手なこと、言わないで。 無茶をしたら怒ってさ。 賢くなったら怒ってさ。 一体俺はどうすりゃいいのよ。 これでも一応頑張ったんだぜ? そりゃあ、何の成果も残せなかったけどさ。 誰も、救えなかったけどさ。 それでも、一応は頑張ったんだ。 頑張っただけだけどさ。 それでも、頑張ったつもりなんだ。 やっぱり、そんなの、なんの意味もないのかな?「念のために言っとくわ。貴方の傷、もう完治してるのよ」 そう言って、彼女は駆けて行った。 ことさらゆっくり。 まるで、誰かが追いかけてくるのを期待するみたいに。 悪いね、俺は期待に添えないぜ。 だって、こんなにも足が痛い。 だって、こんなにも腕が苦しい。 だって、こんなにも頭が重くて。 なにより、むねが、からっぽだ。 もう、何も残っちゃいない。 もう、何も残っちゃいない。 もう、何も残っちゃいない。 なのに。 どうして、こんなに、苦しい? 苦しい。 苦しいんだ。 空っぽなのに。 空っぽの、はずなのに。 空っぽなら、軽いだろう? 空っぽなら、爽快だろう? なのに、重たいんだ。 ちっとも、爽快じゃない。 そして、苦しいんだ。 何がこんなに苦しいのか、分からない。 でも、でも、でも。 苦しくて、堪らない。 ほら、身体だって、こんなに震えてる。 校舎ごと震えているんじゃないか、そう錯覚するくらいに、震えている。 抱きしめてくれないか。 誰でもいい。 誰でも。 でも、そうだ、あの人がいいな。 優しくて、暖かくて、朗らかで。 誰だったかな。 最近、よく夢で見るんだ。 顔だって、思い出せる。 赤い髪。 錆び色の瞳 よく笑う、その唇。 その唇で、歌を歌って欲しい。 童謡がいい。 最近、聞いたんだ。 何だったかな。 懐かしいリズム。 Clip,clip,clip~♪ …だったかな。 何だったかな。 よく、思い出せないなあ。「いい様ね、衛宮君」 ふっと顔を上げる。 ぼんやりと滲む視界、そこに凛がいた。 頬の辺りにむず痒さを感じる。 ひょっとしたら、眠りながら泣いていたのかもしれない。「凛、キャスターは」「もう戦場に向かったわ。あなたを置いて、ね」「しまった、俺も行かないと―――」 とっさに腰を上げようとする。 刹那、とんでもない激痛が全身を駆け巡った。「ギ、ギ、ギ―――」 声にならない苦悶の声。 脂汗が噴出す。「グ、ハァー、ハァー、ハァー…」 なかなか収まらない苦痛。 指一本、動かせない。「そうそう、キャスターからの伝言。『あなたの傷はまだ完治していない。特に、私の魔術薬の後遺症が致命的。絶対安静、指一本動かさないこと』、だってさ」 痛みでぐるぐるの頭の中に響く、凛の声。 傷が完治してない? じゃあ、あの会話は、夢、だったのだろうか。 そんなことを考えていたら、キシシ、という、凛のチェシャ猫笑いが聞こえてきた。「たっぷり痛かった?とりあえず、今ので今回の無茶は勘弁してあげる。反省しなさい、この子、さっきまで泣き出す寸前だったんだから」 ギシギシ鳴る首の関節を、無理矢理上に向ける。 そこには、如何にも不機嫌な桜がいた。「…桜」「私、怒ってます」「ごめん」「許しません」「…悪かった。本当に、御免なさい」「…嘘吐き。もう心配させないって言ったのに」 彼女の大きな瞳から、なお大きな涙の雫が零れ落ちる。 無限の罪悪感が襲って来る。 なるほど、俺の命は俺だけのものじゃないってことか。『貴様が死ねば、悲しむものがいるだろう。ならば、貴様は生き残ったことでそれらの人間を救ったのだ。』 これは、アーチャーの台詞だったかな。 なるほど、先達の意見はそれなりに耳を傾ける必要があるということか。「で、どうするの、衛宮君。あなた、私と一緒に来る?それともここで待ってる?」 凛の問い。 どこかで聞いた。 そんなの、答えは決まってる。 俺は―――。「ギ、イアァ」 答えようと瞬間、やはり弾けるような激痛が俺を襲った。「姉さん!先輩がどういう状態か、キャスターに聞いたでしょう?なのに、なのに…!」 桜の声が、聞こえる。 でも、凛の声は聞こえない。 感じるのは、視線だけ。 刺すように冷たい、凛の、視線だけ。「…そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」 その台詞は。 その台詞は。「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」「姉さん、ひどい………」 その言葉を残して、凛は俺に背中を向けた。 桜は、そっと俺の背中を摩ってくれた。 そして、俺は。 俺は、凛を、黙って、見送った。 苛々する。 誰が、誰に対して苛々しているのか。 そんなの、はっきりしている。 私だ。 両方、私だ。 私が、私に対して苛々しているのだ。 心も体もぼろぼろになるまで戦って、やっとのことで生き残った士郎。 彼に対して暴言を吐いてしまった、自分に対して苛々しているのだ。 しょうがなかった。 全く、押さえが利かなかった。 ただ、我慢ならなかった。 へたり込んでいる彼が。 疲れた表情を浮かべている彼が。 歩みを止めてしまった、彼が。 どうしても、我慢できなかったのだ。 士郎じゃあ、ない。 こんなの、衛宮士郎じゃあない。 そう、思ってしまった。 これで、わかった。 私は、駄目だ。 私は、彼と一緒にいてはいけない。 私は、土壇場で、彼の背中を後押ししてしまう。 彼が何よりブレーキを欲している、その瞬間に、私は彼の背中を後押ししてしまうだろう。 唯でさえ、彼のブレーキは効きが悪い。 なら、それを後押しするような人間は、彼に乗っちゃあいけない。 桜が、相応しいだろう。 あの子は、臆病で、この上なく傷つきやすい。 だから、彼女のブレーキは、私の知る誰のものよりも強烈だ。 彼女なら、彼を止められるだろう。 底なしの崖に向かって突撃する彼の背中を、それこそ死に物狂いで引き止めるだろう。 だから、彼の隣には、誰よりも桜が相応しい。 祝福しよう。 彼らは、お似合いだ。 彼らは、お互いの足りないところを補い合える。 本当の意味で、伴侶として相応しい。 だから、私は諦めよう。 ほんの少し、辛いけど。 ほんの少し、苦いけど。 でも、諦めよう。 悪いことばかりじゃあない。 きっと、彼らをちくちく苛めるのは楽しいだろう。 きっと、彼らと一緒に歩くのは楽しいだろう。 でも、それ以上に、辛いだろう。 駆ける足。 弾む鼓動。 滲む汗。 僅かに乱れる呼吸。 そして。 そして、そして。 ほんの少しだけ、流れた、涙。 それを力ずくで拭って、私は階段を駆け上がる。 終着点が見えた。 屋上への入り口。 長方形の青空。 そこに、私は飛び込む。 その瞬間。 私は、聞いた。 かつんと、何か硬いものが、コンクリートの地面を叩く音を。 そして、見た。 仮面の下に隠されていた、奴の顔を。 それは。 その顔は。 泣き顔の仮面、その下にあったのは。 見るも無残な焼け爛れた顔でもなく。 この世のものとも思えぬ醜男でもない。 端正な顔立ち。 鷹のように鋭い目つき。 すっきりと通った鼻筋。 形の整った唇。 そこには紛れもない美が存在した。 しかし。 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。 睨目上げるその視線は肌に纏わりつくようで酷く不快だ。 そして、何より不快なのは、その顔が私の知っている奴によく似ていたからだ。 私は思わず呟いた。