『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。『私はよく人から』多くのものを奪う。『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。『私の失敗』はあの時死ななかったこと。『家の人は私を』必要としてくれる。『死』という言葉は私に無関係だ。『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。『自殺』は不可能だ。『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。『罪』には相応の罰が必要である。『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。episode11 閑話自転 まず不思議に思ったのは、自分が何か柔らかいものの上で寝ていること。 昨日は確か土蔵で修行をしていたはずだ。 だが、修行を始めた記憶はあるが終了した記憶がない。つまり、何らかの原因で失敗したのだろう。そして、死にかけて意識を失った。そんなこと、日常茶飯事だった。 しかし、そう考えると妙なのだ。 背中に感じる地面の感触が、不思議なほどに柔らかい。 どうやら、俺は布団の上に寝ているようだ。 これはどうしたことだろう。 ひょっとすると、桜が俺を運んでくれたのか。 そんなことを考えながら目を開けると、そこには朝日に煌く金砂の髪があった。「起きましたか、シロウ」 見上げる俺。 覗き込む彼女。 太陽の光に照らされた彼女の瞳は、世界中のどんな宝石なんかよりも美しく見えた。 混乱した俺は、とりあえずお決まりの挨拶で返す。「…おはよう、セイバー」 俺がそう言うと、彼女は優しく微笑んでくれた。「おはようございます」 ああ、今日もいい一日でありますように。「驚いた、もう動けるんだ」 聞きようによってはひどく酷薄にも聞こえる姉の発言。 しかし、姉や私も、スイッチを作った次の日は満足に動けなかった。 それを考えれば、少し前まで素人同然だったのに、スイッチを作った昨日の今日でけろりとしている先輩はすごいと思う。 食卓を彩る数々の料理。 先輩と私の合作のそれらは、小鉢に盛られた浅漬けにいたるまでが珠玉の自信作だ。 衛宮家の居間を支配する巨大な机。 そこに座るのは、昨日よりも多い7人。「へえ、アーチャーさんはセイバーちゃんのお兄さんで、キャスターさんはお姉さんなんだ」 もぐもぐ。「ええ、旅券の予約ミスがありまして妹だけが先にお邪魔することになってしまいました。ご迷惑をおかけしてすみません」 かちゃかちゃ。「結局、あなた達と切嗣さんってどういう関係だったの?」 こりこり。「我々は戦災孤児です。親と家を失い、路頭に迷っていたとき、切嗣氏に拾われました。今我々が生きているのは偏に彼のおかげなのです」「桜、おかわりをお願いします」「あ、はい」 ぺたぺた。「はい、セイバーさん」「ありがとう。感謝を」「ふうん、切嗣さんって世界中を回ってそんなことばかりしてたんだ。何か正義の味方みたいだね」「少なくとも我々にとっての彼はそうでした」「桜、ごめん、お茶をくれないか」「あ、はい!」 とぽとぽ。「どうぞ、先輩」「ありがとう」「それにしても変わった名前よね、アーチャーさんにセイバーちゃん、キャスターさんか。なんか意味でもあるの?」「そういう風習のある地域で生まれたのです。古い記憶なので定かではありませんが、確か魔よけの意味が込められているとか何とか」「ごちそうさま」「あれ、凛、もういいのか?」「私、もともと朝は食べないほうだから。十分に満足よ。ちょっと部屋で準備することがあるから、失礼だけどお先に」「そっか。ではお粗末様でした」 すーっ、すーっ、ぱたん。「ひょっとしてアーチャーさんって弓が上手いの?」「はっ?」「だって、セイバーちゃん、とっても剣道が強いのよう。士郎、私が鍛えてるから結構な腕前のはずなのに、せいばーちゃんにかかったらずたずたなんだもん。 だったらアーチャーさんも弓が上手いのかなって」「まあ、こんな名前ですから、弓に興味を引かれた時期もありました。でも、私の弓は戦いのための弓なので、あなたの言う弓とよべるかどうか」「ねえねえ、アーチャーさん、今日暇?」「はぁ、まあ、特に予定は入っていませんが」「なら、放課後にウチの学校に来ない?外国の人から見れば結構珍しいものだと思うし、できれば弓道とは違う弓を部の皆に見せてあげたいの」「いや、それは」「いいじゃない、減るもんじゃなし。それに、あなた達はこの家に間借りしてるんだから、少しくらいは家主のお願いを聞いてくれてもいいと思うなあ」「藤ねえ、家主は俺」「ごちそうさまでした、シロウ、桜。昨日もそうでしたが、あなた達の料理は非常に好ましい」「ええ、そうね。食事がここまでの娯楽だと思ったのは初めてよ」「ありがとう、セイバー、キャスター。そこまで言ってくれると料理人冥利につきるよ。 あ、そうだ、ちょっと珍しいお茶請けがあるんだけど、食べるか?」「是非!」「私は遠慮しておくわ。いくら美味しいものでも、さすがにお腹いっぱい」「そっか、ちょっと待ってくれ、セイバー。ちゃっちゃと片付けちゃうから。藤ねえ、もう片付けちゃうぞ」「先輩、私も手伝います」「ああ、ありがとう、桜」 かちゃかちゃ。「…約束はできませんが、考えておきましょう」「やったー、これで今日は楽ができるぞぅ!溜まりに溜まった事務仕事め、今日こそ成敗してくれるから覚悟はいいか?俺はできてる!」「…藤ねえ、まさか部外者に指導をまかせるつもりか?」 ふきふき。「はい、これがサーダアンダギー、沖縄ってところのお菓子なんだ」「ほうほう、これは変わったかたちですね」 ぱくぱく。「どうだ、美味しいか、セイバー」 こくこく。「それはよかった。どうだ、桜も」「えっ!い、いえ、私は遠慮しておきます」「?、そっか、じゃあ俺がもらうよ」「ぅー、ど、どうぞ」「じゃあ、四時に学校の弓道場で待ってるからね!」「いや、行くと決めたわけではないのだが…」「おいしそうね、せっかくだから、私もいただくわ」「ああ、どうぞ、キャスター」「…くすん」「うん、なかなか美味い。お茶ともよく合う」「ほんと、この時代の食べ物はどれも美味しいわね」 ずずーっ。「ああ、堪能しました、シロウ」「ご馳走様、坊や」「お粗末様。さあ、俺達も準備しようか、桜。ところで藤ねえ、時間は大丈夫か?」「えっ?あっ、もうこんな時間?」「いい加減、遅刻はやめてくれ。もう立派な社会人なんだから」「そんなことしませんよーだ、私のドライビングテクニックなら、ドアトゥドアで、十分もあれば十分よ!…そういえば、士郎、私のご飯は?」「はっ?いつまでも話し込んでたからもう片付けちゃったぞ」「えっ、だって私まだ食べてないよ?」「片付けるぞ、って言ったぞ、ちゃんと。それに今から食べてたらほんとに遅刻するぞ」 ふるふる。「うえーーーん、私のご飯がーーーーー!」「…ねえ、士郎。あなた、何者?」 朝食の時の雰囲気とはうってかわって、真剣な、というよりも物々しい雰囲気を纏った姉の言葉。「確かにスイッチができてる。それはいいわ。でも、この魔術回路の数は何?」「え?俺の魔術回路なんて、精々一本か二本だけだろ?」 のんびりとした先輩の声。「そうね、昨日まではそうだったわ。でも、今ちゃんと調べてみたら合計27本も魔術回路が存在してる。正常に起動してるのは数本みたいだけどね」「27?」 27本の魔術回路。 その数自体は特に異常というものではない。自慢するわけではないが、私も姉もそれ以上の数の魔術回路を備えている。 しかし、それは魔術師の、200年以上もその時間を魔道に捧げた一族の後継者だからいえることで、何の歴史も持たない家系の人間がそれだけの数の魔術回路を持つのはめったにあることではない。「ひょっとして、あなた魔術師の血筋なんじゃないの?」 先輩の過去を少しでも知っている人間なら、なかなか訊きにくい質問をずばずばしていく。きっと、これは信頼の表れなんだろう。「いや、衛宮の字をもらうまでの記憶がないからそこらへんは全くわからない。ごめん」「謝る必要はないわ。でも、本当に何も憶えていないの?もし、苗字だけでも覚えてたらかなりの手掛りになるんだけど」 もし、先輩が魔術師の家系の生まれで、その家系の特性が分かれば、今後の修行をしていくうえで大きな指針になる。今までの歪な修行の遅れを取り戻すためにも、最短のルートを見つけておきたい。「いや、本当、何もかも忘れたんだ。多分、これから思い出すこともないと思うよ」 そうだ、先輩はあの火事で何もかも失ったのだ。 家も、家族も、姓も、そして名前すらも。「だから、今覚えているのは、本当に断片的な映像だけなんだ。建物が燃えてるところとか、人が焼け焦げていくところとか、髪の毛が燃えてる子供とか、爺さんの笑顔とか…」「先輩、もうやめて下さいっ」「…ごめんなさい、士郎、もういいわ」 遠い目をして、崩れ落ちそうなほど儚い笑顔を浮べる先輩が、たまらなく痛々しくて、思わず声を荒げてしまった。 やはり、先輩は前回の聖杯戦争が起こした惨劇を乗り越えることができないでいる。 そして、その惨劇を引き起こした参加者のうちの一人は、私の父だった男だ。 ひょっとしたら、私にはこの家にいる資格なんてないのかも知れない。「…とりあえず、魔術回路の数は増えた。魔力の精製量もかなり上がったわ。すくなくとも戦力的にはかなり向上してる。これは望ましいことね」 場を取り繕うかのように結論を述べる姉。 私にはその強さがない。「後は、あんたの性質にあった魔術を見つけて、それを伸ばしていくだけ。簡単な検査なら今でもできるから、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」「うーん、とりあえず五大元素でもなければ虚数属性でもないか…、ということはかなり偏った魔術属性の可能性が高いわね。 となると、今ここにある計測具じゃあちょっと荷が重いわ」 首を捻りながら額に手を当てる凛。「先輩、先輩って何か酷く興味を引かれる対象とかってないですか?街中で見かけて思わず足が止まってしまうものとか、知らず知らず目がいってしまうものとか」 思わず足が止まるもの…、特売とかセールとかの文字には弱いけど、そんな魔術属性は流石に無いよなあ。あっても嫌だし。「そうだなぁ、これといって思いつくものは無いぞ」 ていうか、普通の人間にそこまで興味のあることなんて、ないと思う。「まっ、今のところはこんなもんでしょう。後は学校から帰ってきてからでも十分間に合うわ」 そう、今日は学校に行かねばならない。 そして、俺は友人を一人失う事になるかも知れないのだ。 学校は無事に終わった。 疲れた顔の生徒や、どこか無気力な教師達、普段なら起こるはずもないような小競り合いなど、幾つか日常とは言いがたい光景も見られたが、それでも平穏無事といって良いだろう。 だから、俺には理解できない。 なんで、俺達が進んで非日常を作り出さなけりゃいけないんだ?「皆、紹介するわよ、こちらがアーチャーさん、セイバーさん。二人ともすっごく強いんだから!」 ああ、弓道場に響く相も変わらず元気なあなたの声が、今は少しだけ恨めしい。「セイバー達を学校に連れて行く?何でだ?」 突然の凛の提案に、当然ながら俺は驚いた。 霊体化して連れて行くというなら俺も驚かない。むしろそれは当然だ。 しかし、今回凛が提案したのは実体化したアーチャーとセイバーを学校に連れて行くというものだった。「慎二が結界を張ったかどうかは置いておくにしても、あいつがマスターなのは間違いない。なら、不用意に警戒されちまうんじゃないのか?」 俺がそう言うと、凛は真剣な顔でこう言った。「その質問の答えは保留。 逆に聞くわ。ねえ、士郎。今の私達にとって考えられうる最悪は何?」 突然の質問。 考えられうる最悪。それは。「もちろん、結界が発動しちまうことだ」 あの紅い結界。人を喰らい、その魂を啜る外道の囲い。「ええ、それはそうね。でも、それだけならまだ対処のしようがある。今の段階で結界が発動したとしてもおそらく人死はでない。もちろん、すぐに術者を倒せれば、の話だけど」「じゃあ、凛の考える最悪の事態ってなんだ?」 やはり真剣な顔のまま、凛は話す。「結界が完成してから発動すること。 こうなってしまうと術者を倒すとかそういう話ではなくなってしまう。結界の発動と同時に、中に存在する人間のほとんどが溶解、吸収される。そうなってしまえば手の打ちようがない」 それは、あの地獄の再現。「学校っていう限られた空間で、何百という一般人が同時に失踪、あるいは死亡となれば、如何なる手段を用いても事実の隠蔽は不可能でしょうね。前回みたいに火事っていうことでごまかそうとしても今回は無理。仮に爆弾テロか何かに見せかけても、死体の一部も残らないんだもの、絶対にとんでもない騒ぎになる。そうなれば当然こんな極東の小さな島国のイベントは中止、私と桜は管理者として相応の責任を取らされることになる」「相応の責任?」「管理者としての権限剥奪、財産没収、魔術協会からの永久追放くらいで済めば御の字でしょうね。 おそらく、査問会にかけられて、死ぬまで幽閉させられるか外道な魔術の実験体にさせられるか、それくらいは覚悟しておかないと」 そこまでのことなのか。 いや、そこまでのことなのだ。 あくまで親父から聞いた話だが、魔術協会というところの閉鎖体質は偏執的といってもいいほどらしい。さらに、オカルトはその性質上隠匿されることによってその力を維持できるのだから、その漏洩には考えられないほどの厳しい罰が待っているのだろう。「あなたにとっても大切な友人、あるいは家族を失う事になる。どうかしら、これ以上の最悪はある?」 確かに、それより悪い事態は考えにくい。いや、間違いなく最悪の事態だ。「だから、あの結界が完成するまで慎二が家に隠れると、厄介この上ないの。魔術師の工房に攻め込むのは危険だし」「でも、それとセイバー達を学校に連れて行くのと何の関係があるんだ?」 普通なら、二体のサーヴァントが同盟を組んでることを知ったら、警戒して戦いを避けるようになる。そうすれば結局は本拠地で守りを固める慎二と戦う羽目になるのではないか。「実はあなたには言わなかったけど、昨日あいつ私にも同盟を提案してきたの」 はっ?それは初耳だ。「『この学校にはキャスターがとんでもない結界を張っている。僕と一緒に魔女を倒そう』とか言ってた。あいつ、キャスターが桜のサーヴァントって知らないのね。口は災いのもとって、ああいうことをいうんだって実感したわ」 凛はにやりと哂った。 ああ、慎二。なんて運の無いやつ。「とりあえず前向きに考えておくって言ったら、あいつ無茶苦茶嬉しそうな顔してたわ。どうやら、あいつまだ私に気があるみたいね」 この上なく人の悪い笑みを浮べた凛。 哀れ慎二、どうやらお前はこいつに惚れたときから避けられない運命を背負ってしまっていたようだ。「で、もしあいつが私と士郎が同盟を結んで自分がハブされたことを知ったら、どう思うかしら?」 どう思うか、か。 慎二は妙にプライドの高いところがある。それに、一度思い込んでしまうと他の事に考えが行かない。 あいつは、凛の思わせぶりな台詞に、同盟の締結は既定事項と考えてしまっているだろう。ひょっとしたら凛も自分のことを好いていてくれている、それくらいは考えているかもしれない。 それが裏切られたら…。「きっと、いや、ほぼ間違いなく激発するだろうな」 これは間違いないだろう。仮に結界があいつの仕業じゃなかったとしても、これだけは間違いない。「それが私の狙い。 怒り狂ったあいつなら釣り上げるのはさして難しくないわ。適当な隙をこっちが見せてあげれば一も二もなく食いついてくる。 万が一とち狂って結界を発動させたとしても、今の段階なら手の打ちようは幾らでもあるしね」 ぼんやりと今朝のことを考えていた俺の意識を現実に引き戻したのは、男子のざわめきと、女子の黄色い歓声だ。「なに、あの子、めちゃめちゃレベル高ぇ、クラスの女子なんかとは同じ人類とは思えねえ」「セイバーちゃんだっけ?遠坂さんと並んでるとどこのアイドルグループだよ、って感じだな」「ねえ、あの人めちゃめちゃかっこよくない?」「ちょっと困った感じなのがすごく可愛いね」 これらはセイバーとアーチャーの外見を評する声。 さもありなん、ごく少数を除けば、サーヴァントはいずれもがとんでもなく美形揃いだ。この場にはいないが、キャスターも俺が見てきたどんな女性よりも完成した色香を持っている。爪の垢を煎じて虎に飲ませてやりたいくらいだ。 なおも鳴り止まぬ人の声。 しかし、ここは本来は静寂をもって尊ばれる神聖な道場。 いたずらに騒ぎ立てるのはいただけない。「こら、なに騒いでるんだ!」 これは現部長、美綴 綾子の声。 根っからの武道の人である彼女にとって、この場を支配した空気は到底我慢のできるものではなかったらしい。「藤村先生もです、先生なら道場がどういう場所かわかっているはずでしょう!」 彼女は、間違えていると思えば、それが教師相手であっても一歩も引かない。「ごめんね、美綴さん、まさかここまでの騒ぎになるとは思ってなかったの。セイバーちゃん達、日本が初めてらしいから、日本文化に触れさせてあげようと思ったんだ」 素直に謝る藤ねえ。 自分が悪いと思えば、それを糾弾しているのが例え自分の生徒であっても素直に謝ることができるのは間違いなく彼女の美点の一つだろう。「そういうことでしたか、すみません、事情もわきまえず出すぎたことを言いました」 深々と頭を下げる美綴。 いつの間にか周囲の騒ぎも収まっていた。 そんな中、アーチャーが一歩前に出てこう言った。「すまない、我々も少し気を使うべきだった。静かにしておくから練習を見学させてもらえないだろうか」 その言葉に美綴は、ぱっと頭を上げた。「とんでもない、あんた達はちっとも悪くないよ。勝手に騒いだのはウチの馬鹿な部員どもだしね。ゆっくり見学していって頂戴」 花の咲くような笑顔でそう言った彼女は、何故だかとても眩しかった。 練習が始まった。 弓道において、倒すべき敵は自分自身である。 さっきの騒ぎに加わっていた部員達も、今は真剣な面持ちで自分と向かい合っている。 この空間のどこにも、うわっついた雰囲気は残っていない。 少し前までは自分もこの空気を形作る一員だった。それを自ら辞したことに後悔はないが、ほんの少しだけ寂寥感を憶えるのは否定できない。「どうだい、久しぶりに弓を引きたくなってきたんじゃないか?」 笑顔と共に、控えめな声で俺に話しかけてきたのは美綴。「ふう、何度同じ事を言わせるんだ、お前は。俺は二度と弓を引かない、そう決めてるの」 実は、一度くらい弓を引いてみよう、そういう気持ちが無いわけじゃない。 でも、ここまでくるとこっちも意地だ。くだらないこととは分かってるけど、負けてやるわけにはいかないじゃないか。「シロウ、あなたは弓が得意なのですか?」 俺の隣に座っていたセイバーが尋ねる。「ああ、セイバーさんは知らないんだ。凄いんだよ、こいつの弓は。まるで最初から的に当たるのが決まってたみたいに皆中するんだ。こいつが辞めてからだいぶ経つけど、代羽以外にこいつと張り合える技の持ち主はいないね」 まるで自分の事のように自慢げに話す美綴。 それを聞いたセイバーがさらに尋ねる。「ほう、代羽も弓が達者なのですか」 やはり笑顔で美綴は答える。「ああ、こいつと代羽は桁違いだね。私や慎二、あとは桜くらいか、一応そこらの大会じゃ敵無しだと思ってるけど、それでもこいつと代羽には歯が立たない」 美綴の表現は、俺については買いかぶり過ぎだ。実のところ、俺でも代羽には歯が立たない。確かに、俺も代羽もほとんど的を外したことは無い。しかし、そういう次元とは違うところで代羽には適わない。初めて彼女の射を見たとき俺はそう悟ってしまった。 俺があっさりと弓を捨てた理由はそこにもある。だって、自分より才能のある奴がいるんだし、別に自分がいる必要はないだろう、そう思ったのだ。「ああ、そういえばアーチャーさん、だっけ?あんたも弓が上手いのかい?もしよければ、どれほどのもんか見せてくれない?」 藤ねえから話を聞いているのだろう、興味津々、といった感じで美綴が尋ねる。 当の藤ねえはここにはいない。あの馬鹿、本当にふけやがった。「まあ人よりは長ずるものを持っているとは思っているが、私の弓は邪道だ。とてもこういった場所で披露できるものではない」 澄ました顔で答えるアーチャー。 こんな台詞、こいつ以外が言ったら鼻で笑ってやるのだが、弓の英霊たるアーチャーが言うと一言も返すことができない。 しかし、そんなことは全く知らない美綴は何の臆面もなく言い放つ。「へえ、できる人は言うことが違うねえ。 でも、その割には小さいことを気にするんだね。弓道に邪道なんかないよ。だいたい、今の『弓道』が形になったのだって昭和に入ってからなんだから、そこら辺は気にすることなんかないって。 それに、いつもと違ったものを見るのもいい稽古になるからさ」 ふむ、そう言って考え込むアーチャー。 確かに美綴の言うとおりかもしれない。弓道が武道として成立し、正式に認知され始めたのは明治になったからだというし、今でもその射形には流行り廃りが激しい。 ならば、自分達が行う射と違う射があることを知るのも一つの稽古にはなるのだろう。「仕方ない、一度だけだ」 そう言って腰を上げたアーチャー。 ゆっくりと射場に入っていく。 いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、射場で練習していた部員達は静かに弓を納めた。「ああ、誰か弓を貸してくれないか?」 アーチャーが部員に話しかけるが、すぐには手が上がらなかった。「私の弓でよければ」 その言葉と共に一歩前に出たのは、珍しく練習に出ていた代羽だった。 彼女は、朝錬はもちろんのこと、放課後の練習にもほとんど顔を出すことがないらしい。 いわゆる幽霊部員だ。 しかし、その弓は他の誰よりも洗練されている。自然、部の中では浮いた存在になってしまっているようだ。練習はしないのに、技術は飛びぬけている。美綴や桜みたいなごく少数の例外を除いて、嫉妬しないほうがおかしい。 アーチャーは差し出された弓を取った。「ありがとう」 そう言ったアーチャーの目に、一瞬だけ剣呑な色が湛えられた。 あいつが射場に入っただけで、周囲の空気が変わった。 ぴん、と張り詰めた。そんな言葉では到底表せないような空気。 例えるなら、真剣の上に素足で乗ったような、身じろぎすら許されないような迫力。 事実、部員の何人かは呼吸すら忘れてその姿に見入っている。 静かに、静かに弓を構えるアーチャー。 足踏み。 胴造り。 弓構え。 打起し。 引分け。 会。 離れ。 残心。 的など、見るまでも無い。 あの射で当たらないなら、それは的がおかしいか、それとも世界がおかしい。 ひりつくような空気の後に残されたのは完全な感動。 自分達の目指す理想がここにあったのだ。求めて止まない完成形を見せ付けられたのだ。「すごい…」 そう呟いて固まってしまった美綴。 あの野郎、どこが邪道だ。 あれが邪道なら、世界中に存在する弓道全てが邪に堕するだろう。「すまない、とんだお目汚しだ」 照れたような笑みを浮べたアーチャー。 にこやかな、その笑顔を見たときに、部員達の感情が爆発した。 圧倒的な感動と、それに付随した虚脱に支配されていた感情が、行き着く先を見つけたのだ。 ここに凄い男がいる。 割れんばかりの歓声。 そこには男も女も無い。 ただただ、熱せられた感情だけがあった。「凄いわね」 ぼんやりと呟いたのは、俺の隣に座っていた凛。 戦闘中ならば、アーチャーの弓技など見飽きるほど見ているであろう彼女も、射場での弓を見るのは初めてなのだろう。自らの従者の美技に酔いしれている。「ああ、全くだ。こんな凄い射は初めて見た」 かく言う俺も、あいつの射に完全に飲まれてしまっている。俺もそれなりの射手だとは思っているが、完全にレベルが違う。おそらくは俺より確実に上手い代羽のそれよりも、さらに遥か高みにいる。 あたりを見回すと、我先にとアーチャーに指導を希望する部員達とは少し離れたところで、冷ややかにその様子を見つめる代羽がいた。 彼女の口が呟くように動いた。そして、彼女は貸していた自分の弓を受け取ることもなく、袴姿のまま道場を立ち去った。 代羽の声は、俺には聞こえなかった。 ただ、凍えるような視線でアーチャーを眺めていたのが、記憶に焼きついた。 「おい、これは何の騒ぎだ?」 熱気に満ちていた弓道場に、場違いな声が響く。 声の主に名は間桐 慎二。 弓道部の副主将である。 慎二は人垣の中心にいるアーチャーを胡散臭そうな目で見ると、こう言った。「なんだ、あんたは?部外者が勝手に入っていいと思ってるのか?一体誰の許可を得てここにいるんだい?」 周囲の狂熱が冷めていく。 今、この空間においては自分こそが異物である、それを悟ったのか、彼は加速度的に不機嫌になっていった。「悪いけど出て行ってくれないかな?生憎ここは部外者立ち入り禁止なんだよ」 頬を微妙に震わせながら、慎二はそう言った。「アーチャーさんは部外者じゃないぞ、衛宮の知り合いだ」 アーチャーを庇うように言う綾子。「はっ、衛宮の知り合い?衛宮はそもそも部外者なんだぜ?部外者の知り合いなんて、どこまでいっても部外者じゃないか……アーチャー?」 今頃気付いたのか、この間抜けは。「ええ、彼の名前はアーチャー。衛宮君の知り合いで、私の大切な友人よ」「遠坂…なんで」 呆気にとられたような表情の慎二。「そして、この子が私の知り合いで、衛宮君の大切な友人のセイバー。仲良くしてあげてね」 射竦めるようなセイバーの視線にたじろぐ慎二。 一歩、二歩と後退りしながら、頬をひくつかせてこう言った。「ああ、なるほど、そういうことか」 私はその言葉に笑顔で応じる。「ええ、そういうこと。名前を聞くまでこの二人のことに気付かない間抜けなんて、お呼びじゃないわ」 あえてにこやかに、上品に、彼の自尊心を逆撫でするように。 私の言葉は効果的だったようだ。彼の顔が赤くなたり青くなったり、まるで信号みたいだ。「それにしても、選んだのが衛宮かよ。はっ、遠坂の趣味はずいぶん悪いんだな」 彼に許された精一杯の抵抗。自尊心を守るためには、求めた対象を貶めるしかないのだろう。酸っぱい林檎というやつだ。「そうかもしれないわね。でも、私としても最低限譲れないライン、ていうのはあるの。 残念ね、間桐君。あなたはそのラインにも引っかからなかったわ」 隣にいる士郎の手を取りながら私がそう言うと、怒りと屈辱に肩を震わした慎二は、踵を返しながらこう言った。「後悔するなよ」 内心、私はため息をついた。 ねえ、慎二。別にあんたに多くを求めようとは思わないけど、捨て台詞くらい、もう少し独創性があっても良いんじゃない? 日の傾きかけた放課後、道場を静かな空気が流れる。 それは、アーチャーが神技を見せた後のような緊張に満ちたものではない。どちらかというならば、突然目の前で大事故が起きたときの目撃者とか、お笑い芸人が滑ったときの観客の雰囲気とか、そういったものに近い。 隣には、俺の手を掴んだまま不敵な笑みを浮べた凛がいた。ああ、きっとこいつは自分が何をしたかちっともわかっちゃいない。「どうしたの、衛宮君。鳩が豆鉄砲くらったような顔して」 凛は不思議な顔で俺を見た。 俺は空いているほうの手で顔を覆う。 これから起きる事態を考えると頭が痛い。 後ろを見ると、そこには唖然とした顔の部員達。 その中でいち早く我を取り戻した女傑が、菩薩のような笑みを浮べた。 美綴、先鋒はお前か。「へぇえ、なるほどなるほど。お前ら、そういう仲だったんだ」 心底嬉しそうなその声に、凛は不思議そうに問い返す。「そういう仲?何のこと?」 駄目だ、こいつまだ気付いてない。「正直、衛宮を選ぶとは意外だったけど、慎二なんかよりはよっぽど芯が通ってるしね。うん、中々お似合いじゃないか、こりゃあ例の賭けは私の負けかな」 美綴を見ていた凛の視線が、美綴から俺、俺から繋がれた二人の手、二人の手から中空へと移動して、そこで固定された。 静かだった空気が、より静寂を帯びる。ただし、永久凍土の下にマグマが蓄積していくように、漲るパワーの存在を俺の第六感が感知した。 さあ、カウントダウンを始めよう。用意はいいか? 3,2,1―「なんでよぉぉぉぉぉ!!」 耳を劈く大音量。 これがこの可憐な唇から放たれたものとは思えない。「何で?何で私が士郎とそういう関係だと思われてるわけ?」 慌てふためく凛。 それを何か可愛いものでも見るかのように眺める美綴。「さっきの会話聞いてたら誰だってそう思うさ。つまり、慎二を振って衛宮とくっついたんだろ?」「違う!どこをどう聞いたらそういう会話に聞こえるのよ?」 見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに、顔を真っ赤にした凛が叫ぶ。どうやら分厚い猫の皮も、冬の空気に冬眠中らしい。「ふうん、じゃあ衛宮と遠坂はそういう関係じゃないんだな?」「当たり前でしょ!何で私が士郎なんかとくっつかなきゃいけないのよ!」 ああ、哀れ凛、今の君では絶対に美綴には勝てない。「へええ、じゃあその固く握られた手は何かな?」「っ!」「それに『士郎』か、知らない間にずいぶんと親密に呼ぶようになったんだねえ」 にやにやと哂う美綴。 真っ赤になって俯いて、プルプル震える凛。その手は相変わらず俺の手を握り締めたままだ。「まあまあ、照れなさんな、もてない女のやっかみだよ。とりあえずおめでとう、お似合いだよ、あんた達」 男前な台詞で上手に締めた美綴。 それでも、凛の絶叫が道場にこだまする。「ちっがあああああああうっ!!!!!!!!」「酷い目にあった…」「うう…今まで作り上げてきた私のイメージが…」 とぼとぼと、帰り道を歩く。 あの後はひどかった。 男子からは本気の殺意を込めた視線と罵声を浴びせかけられるし、女子からは好奇と不可思議の綯交ぜになったような質問をぶつけられるし。 隣では相変わらず完熟トマトみたいな顔色の凛と、生暖かい微笑を浮べた美綴が口論なのかじゃれ合いなのかよくわからない会話を繰り広げている。 セイバーは腰に手をあてて、ため息一つ。 アーチャーは眉を『ハ』の字型にして、冷笑を浮べる。 このままここにいたら取り返しのつかない事態に陥る、そう考えた俺は、人垣を掻き分け、凛の腕を掴んで、ほうほうの体で道場から逃げ出したのだ。「不甲斐ないな、衛宮士郎。あの程度の危地でうろたえてどうするか。 凛も凛だ。あれくらいの事態で平常心を失ってはこの戦争、到底勝ち抜くことなどできないぞ」 実体化したままのアーチャーが言う。「面目ない…」「ごめんなさい…」 本来なら一言か二言くらい言い返してやるのだが、精神的な疲れからか、憎まれ口の一つも浮かばない。今日は疲れた。早く帰って夕食の支度でストレスを発散しよう。 (あとがき) 弓道の成立とか邪道が云々とかは、作者が調べた範囲のことです。 一応間違えてはいないと思うのですが、なにぶん私の専門からは外れますので、もし事実と違って、それに不快感を覚えられた方がおられましたら、この場を借りて謝罪させていただきます。