「足捌き、体捌きで最も重要なことは死に至る一撃を回避することだ。そして次に如何に体勢を崩さずに回避することができるかということになる」
朝の澄んだ空気の中、ハーディさんの声は良く通った。
一晩道場の中にとどまっていた空気からは、ある種の神聖さすら感じられた。
「重心をぶらさず、緩急、方向転換を容易に実現するためには歩くという動作を極める必要がある。普段、何気なく行っている動作を技に昇華するには並大抵の努力では足りん。常日頃から歩法を、重心を意識しろ」
「はい」
「そして判断力も高めろ。特に相手が自分より速い場合、全ての攻撃をかわすことなど不可能だ。取捨選択を常に心がけろ」
「はい!」
「うむ、では今日も素振り千本だ」
「はい!! ……え、素振りなんですか?」
勢いの良い返事を返したものの内容に疑問を覚える。本数も昨日と変わっていない。昨日のはウォーミングアップではなかったのだろうか?
「話の流れ的に回避の修練を行うのではないですか?」
「それも並行して行う。一回素振りをするごとに五歩歩け」
そう言って木刀を手に取るハーディさん。何が行われるのか想像がついてしまった。
「まさか……全力で……とかはないですよね?」
「心配するな。今の段階では重心が動いたりしなければ何もしない」
「そう、ですか」
昨日は根性さえ続けば強くなれると思ったが、認識が甘かったらしい。間違いなく強くなれるだろう……生き残りさえすれば。瞑目し、一つ深呼吸した。
「じゃあ、行きます」
左右合わせて二千本の素振りを開始する。一つ、昨日最後に振った一撃よりも速く腕が動く。ぶれそうになる軸を、右腕を引っ張る慣性の力を、背筋が、右脚が抑える。
振りきった瞬間を狙われるかとも思ったが、ハーディさんは動かない。伸びきった左足を寄せ、そのまま一歩を踏み出す。二歩三歩進むがハーディさんは動かない。そのまま五歩目に達し、左手に持ち替えた木刀を振り抜く。二つ。
六つ目、左脚の踏ん張りが不十分だったのか、身体が左へと流れていくのが分かる。しまったと思った時には木刀が右肩にそえられていた。そのまま身体が流れる方へと押し込まれる。バランスを崩した身体は修練場の床へとダイブした。
「つっ!」
打ちつけた腹から空気がこぼれた。
「気付いているようだったが、重心が崩れたぞ」
「はい!」
返事とともに起き上がり、重心を意識する。一歩目を踏み出した瞬間、のど元に木刀が突きつけられていた。
「そして、残心が甘い。集中力の組み立て方が甘い。敵はお前が準備するまで待ちはしない。油断を見せたらやられる。実際の戦闘がそうである以上修練もそうだ」
「……っはい!」
「関節を柔らかく、一つ一つを連動させることを考えろ。一歩一歩が血に、肉に刻まれていくことを意識しろ」
「はいっ!!」
その日の修練では、合計二千回の素振りの間に二百回以上床を転がる羽目になった。
「うむ、では今日はここまで」
「あ、ありがとうございました」
正座の状態から頭を下げる。ハーディさんは立ち上がると修練場から出て行った。修練の途中にノーディが置いて行った、軟膏と薬の溶けた水を求めて端へと移動する。薬缶の水を飲む。身体にしみわたって行くようだ。
手のひらや足の裏にできるマメだけにとどまらず、木目の床を何度も転げ回ったせいで顔や肘に火傷のような擦過傷が出来ていた。ひりひりと痛むそれらの傷に軟膏を塗っていく。
一通り塗り終わり、修練場をあとにする。
修練を行うことでより一層強く感じるようになった空気に、自然と頭を下げていた。
「シュージ君、午後は何か予定があるの?」
昼食後、お茶を飲みながら食事の余韻に浸っていると、ノーディが午後の予定を尋ねてきた。
「そうですね、そろそろ大学に行ってみようかと思ってるんですが」
「大学? なんで?」
ノーディに話は届いてないのだろう。ハーディさんを一瞥するが気付いていないのか、沈黙を保っている。特に秘密にしなければならないような情報でもないと判断した。
「実は、修行と平行して大学での仕事を仰せつかってるんですよ」
「ええっ!? それは……ずいぶんと人使いが荒いね。修練だけでも耐えられなくて逃げる人が居るぐらいなのに」
ノーディは大げさなほどの驚きを見せた。
「シュージならやれると判断してのことだろう。我々が口を挟むことではない」
お茶を飲んでいたハーディさんがノーディを諌める。
「それはまぁ……そうだけどさ」
「良いんですよ。わざわざ修行用のお金まで出してもらってるんです。少しくらい仕事しないとかえって気持ち悪いですよ」
「……知っていたのかね? デイトリッヒの手紙には知らせないでくれと書いてあったが」
俺の言葉に若干驚いたような表情を見せる。そのハーディさんの表情で想像が確信に変わる。
「想像ぐらいつきますよ。三食付いて修行までしてもらってるんですから」
苦笑してしまう。どうやらハーディさんは腹の探りあいのようなことは苦手のようだ。
「……それもそうか」
「ええ」
「じゃあ、シュージ君。午後は大学に一緒にいこ?」
「ノーディも何か用事があるんですか?」
「あるよ。だって私も学生の一人だもん」
「そうなんですか?」
「信じてないの? これでも結構成績良いんだよ」
そう言ってハムスターのように頬を膨らませた。白い肌が頬の部分だけ赤く染まっていく。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……それじゃあ大学まで連れて行ってもらえますか?」
「うん。それじゃあ準備するから待ってて」
そういうと向日葵を彷彿させる笑顔を見せてくる。ころころとめまぐるしく変わる表情に思わず笑みがこぼれる。
「なに?」
「いえ、ノーディ……分かりやすいってよく言われないですか?」
「うー、よく言われます。ハイ」
「きっとそういうところはハーディさんに似てるんですね」
「……そうかも」
目の端に写っているハーディさんは、どこと無く嬉しそうにお茶をすすっていた。
玄関で待っているがノーディは中々出てこない。荷物を取ってくるだけかと思っていたがそれにしては遅すぎる。
「お待たせ!」
そう言って現れたノーディは水色のワンピースに薄手の白いカーディガンを羽織った格好で出てきた。どうやら時間がかかっていたのは着替えが原因らしい。
「学校に行くのにそんなにお洒落していくんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど……まぁ良いじゃない」
その服は彼女の持つ白い肌、赤い瞳と合わさり、幻想的な雰囲気すら感じさせる。
「確かに、似合ってるんで問題は無いと思いますが」
「……でしょ? じゃあ細かいことは気にせずに行こう!」
そういうノーディの頬が朱に染まっているように見えたのは、きっと俺の気のせいだろう。
レンガ造りの建物が密集している区画につれてこられた。赤いレンガと角度によっては緑にも見える屋根、どれも似たようなつくりをしている。
「ひょっとして、これ全部大学の建物なんですか?」
「そうだよ。基本的には学科ごとに一棟ずつ。業績の少ないとみなされたところは学部で一つとか、逆に業績の多いところは研究室で一棟とかね」
「ずいぶんと規模が大きいんですね」
「まぁこの国に二つしかない大学だからね」
「他にも大学があるんですか?」
「うん。港町ハグリブにも大学があるよ。向こうは造船とか他国との交流が盛んだから工学とか薬学、医学なんかが重視されてるかな。こっちは法学、神学、哲学、工学がよく評価されてるね」
人差し指を立てて、歌うように説明する。
「なるほど」
おそらくデイトリッヒさんのことだ、そちらにも誰か使いを出していることだろう。
「ところで、ノーディはなんの勉強をしてるんですか?」
そういうとノーディは顎に手を当て首をひねっている。
「……前から思ってたんだけど、シュージ君なんで敬語なの?」
質問に対して斜め前の返答が返ってきた。
「一応師匠の娘さんと言う体になりますので」
「名前は呼び捨てなのに?」
「それは自己紹介の印象が強くて」
「いいから敬語は禁止ね」
「……はい」
押しの強さは母譲りだろうか。
「うん。ちなみに私は教育について学んでるよ」
「そうです――」
「敬語禁止」
「……そっか」
「そういえばシュージ君は大学でなんの仕事があるの?」
仕事の内容には言及してなかったことをおもい出した。
「実はガイスでも新しい大学を建てようという動きがありまして、そのための人材獲得です。そういう話をつけるためにはどういう手続きをすればいいですかね?」
しかし返事はない.不審に思って後ろを振り向くとノーディは数歩後ろで立ち止まっていた。また、敬語で話していたことに気付く。
「ねぇ」
「ご、ごめん。次から気をつけるよ」
あわてて弁明するもノーディはとまらなかった。
「今の話本当!?」
「え?」
「今の新しい大学を作るって話、ホント!?」
「は、はい」
「そこって教育学部ある!?」
「い、いえ。学部なんかの詳しい話はまだ聞いてなくて、たぶんまだ決まってないんじゃないかなぁと。おそらく人材が集まれば作ると思うけど」
「……そう、その人材って私も立候補できるの?」
「一応、推薦はできるけど決定権を持つのはデイトリッヒさん……ガイスの領主だから」
「じゃあ私のこと推薦して!」
「研究内容を見せてもらってからでいい?」
「うん! 待ってて、今から資料取って来るから」
「いや、今度希望者を集めてまとめて話し聞くからそのときに。一応ガイスの使者としては特別扱いはできないよ」
「う……分かった」
「で、そういう話はどこに通せば良いかな? 何か取りまとめをしているような場所はあるの?」
「事務に言えば問題ないとは思うけど。あそこに見える一つだけオレンジ色の屋根の建物があるでしょ。あそこが事務のある建物だよ」
「了解。俺はあそこ行くけどノーディはどうする?」
「私の研究室この建物に入ってるんだ」
そう言ってすぐ左にある建物を指差す。よく見ると入り口に教育学部棟:3と書いてあった。
「じゃあ一通り手続きしたらここにくれば良いかな? それとも先に帰っておいたほうがいい?」
「研究室に迎えに来て。五番部屋に居るから」
「了解しました。それじゃあまた後で」
「うん。またね」
手続きは非常に簡素なものだった。どうやら上の方で既に話は着いていたようだ。事務のお姉さんは流亡の薄弱者という名前と領主秘書の肩書きを不審に思ったのか、事情を説明すると怪訝そうな顔を見せた。しかし、彼女が上司に相談すると態度を180度変えてきた。そのお姉さん曰く、各教員への通知準備はできているとのことだ。また、引き抜きの際の手続きに関してはこちらと言うよりも引き抜かれる教員が行うべきものらしく、特にこれと言って行うことはないらしい。
正直、妨害を受けるかと思っていたのだが、拍子抜けだ。俺のすることは手紙の内容を告げるだけだった。来月以降、毎月の月末に面接を行うこと、面接の一週間前に取りに来るので論文を二本提出してもらえるように通知をお願いすると、その建物を後にした。
研究室の前にたたずむ。何となく排他的な空気を感じてしり込みしてしまう。意を決してノックした。ハーイと言う返事の後、若い女性が出てきた。
「どちら様?」
なんと答えたものだろう。とっさに良い案が浮かばなかったので名前のみ伝えることにする。
「シュージといいます。ノーディ居ますか?」
女性は少し考えた後、にやりと悪そうな笑みを浮かべた。
「……告白? やめといたほうが良いよ? ノーディは軟弱な人は嫌って言ってたから見込みないと思うよ?」
まくし立てるように告げられた、いきなりのダメ出しに苦笑してしまう。
「なるほど、今後の参考にします。とりあえず今日の用事はそれではないんで、呼んでもらっても良いですかね?」
「ふぅん、良いけど。ちょっと待ってて」
「はい」
次に閉じられた扉から出てきたのはノーディだった。
「ゴメン、シュージ君、後ちょっとで終わるから中で待っといてくれない?」
「いいよ」
研究室の中には六人ほどの学生と思わしき人間が居た。先ほどの女性とノーディ、そして後の四人は全員男性だ。彼らは殺意のこもった視線を向けてくる。先ほどの会話と合わせて、ノーディの人気が伺えると言うものだ。特にノーディの席の隣に座っている短髪の男性の視線がこちらから全く離れない。その視線に気付いたノーディがこちらを向き、ゴメンねと小さくささやいてきた。
五分程度だろうか、その視線を徹底的に無視し続け、ノーディの作業を見守った。
帰り道、ノーディは憤慨しっぱなしだった。どうやらあの短髪男性は貴族の三男坊らしく、いつもノーディに色目を使ってくるとのことだ。大して研究もしないくせにやたらとちょっかいはかけてくる。いつも尊大な態度で周りを見下している。とはノーディの弁だ。
「ゴメンね、シュージ君。気分悪かったでしょう?」
「大丈夫。最近睨まれること多いんからもう慣れたよ。あの程度じゃまだまだ」
「そっか、やっぱりシュージ君結構修羅場くぐってるんだ」
「まぁほどほどにかな」
この街に来るまでは死線をくぐりすぎだったとは思うが。
「やっぱりモテるんだね」
「……いやいや!そういう修羅場じゃないよ!?」
「え~っ、ホントかなぁ? なんか間があったし」
「理解が追いつかなかったんだって。いきなり話飛んだし!」
「別に飛んでないよ? 色恋沙汰の話してたでしょ?」
「それはそうだけど!?」
「きっと会う人会う人にかわいいとかきれいだとか言ってるんでしょ?」
「くっ、口には出してない!」
多分。
「ということは思ってはいるんだ?」
そう言って下からこちらをのぞきこんでくるノーディ。盛大に墓穴を掘ったことに気付いた。
「私のことは?」
この質問は沈黙した場合には否定となるのではなかろうか?
「……言わなきゃダメ?」
「もちろん」
「秘密で」
「ダメです」
「どうしても?」
「当然」
「…………かわいいと思いましたです。ハイ」
自分の頬が赤くなっているのが分かる。あまりの羞恥にこのまま転げまわりたい衝動に駆られる。
「ふぅ~ん、そっかぁ」
そう言って勝ち誇った顔をしているノーディの頬も赤くなっていた。太陽はまだ高いところにある。夕日のせいというわけではなさそうだった。