あれから数日。都合の良い日を見つけて私は行動に移した。
学校帰りに帰路のバス停を通り越し、商店街を通り抜け、屋敷の立ち並ぶ道を歩く。
坂をあがり、普段なら近寄らない界隈へと踏み出していた。
アポイントメントは取っていない。向かっている先の人と、私の父の仕事を考えれば下手なアポは刺激的過ぎる。訪ねる理由も個人的なものだから、学生の私は許してもらえるだろうと打算している。
坂の上はみな裕福で家の大きさもあまり変わらないが、車の高級感、いや、威圧感だけはがらっと変わっていく。
まごうことなき、そこは冬木の裏の顔役、藤村組組長の邸宅だった。
「ごめんください。」
ためらうことなく和式の玄関を開き、屋内に声をかける。
「どうも、ご用件をお聞きしやす、と。穂群原の生徒さんですかい。お嬢はまだ帰ってきてませんぜ。」
私は驚きが顔には出にくいたちだ。それに感謝する。あらかじめ予想しておくべきことだったのに、出迎えが強面(こわもて)の方だとは思わなかった。坂を上ってわずかに汗ばんでいたのが、すべて冷や汗に変わる。
「いえ、藤村先生に用があったんではないんです。」
「とんだ早合点ですいやせん。では、どのような用件で?」
「ええと、申し上げにくいんですが……。」
「はあ。」
あちらも困惑しているようだ。それはそうだろう。いきなりこんな本拠地も本拠地に女子学生が現れて、訪ねた理由を言いよどんでいるのだから。
「衛宮士郎君をご存知でしょうか?」
「はい。お嬢があの家によく出入りして、うちの組長が後見人をしてやすから。」
「彼のことをお教えしていただきたくてお伺いしました。」
「坊のことを…? どういう事でやす?」
「それは。あの、できれば雷画氏以外には伝えにくいんですが。」
「来てくだすったお客さんに失礼なことをしてまことに申し訳ないんでやすが、組長にお会いになりたいなら、あっしにご用件をお教えくだせえ。」
迎えてくれた人は、そう言って深々とお辞儀した。
やはり話さないとここから先は進めないか。
「あの火災で亡くなった知り合いかもしれないんです。それで、彼の小さい頃の話をお伺いしたくて。」
「ああ、坊は養子でやしたね。……ちょっとお待ち下せえ。組長に話を通してきやす。」
「よろしくお願いします。」
迎えてくれた人がいなくなって、ほっと息をつく。よその家での待ち時間はどちらかといえば緊張した時間だと思うのだが、この家においてはむしろ安息だった。
その安堵に紛れて、決意を鈍らせるものが湧き上がってくる。広域指定なそれと比べれば善良な組だと聞き及んでいるが、それでも堅気の人間は交わるべきではない人たちだ。父のことも考えればきっとこれは、間違った行いだろう。
ほどなくして足音が近づく。深呼吸ひとつで、無理やり鼓動を押さえつけた。もう、来るところまで来た。いまさら逃げても結果は変わらない。それに、私は真実を見届けようと決意したのだ。
目を前に向ければ、ゆったりとしたテンポで和装のご老人がこちらに歩んできていた。風格から誰なのかがはっきりわかるほど、組長というのは独特の存在感を持っていた。
「こんにちは、お嬢さん。士郎の話が聞きたいとな。」
「はい。」
「お嬢さんはどちらさんかの?」
…しまった。動転に礼儀作法も抜けていたようだ。
「名も名乗らず失礼しました。私は氷室鐘と申します。小さい頃に縁のあった、あの火災で亡くなったと思っていた方、それが衛宮君ではないかと思ったことがあったんです。それで詳しい話を聞きたくてここに参りした。」
「ふむ、まあ、とりあえず上がりなさい。ここでする話ではなさそうじゃ。」
「よろしいんですか?」
「かまわんよ。急ぎの仕事がある身分でもないしの。」
廊下を戻る雷画さんの後を追って、私は客間に入った。
ソファ、かけられた絵、テーブル、どれもが丁寧に扱われ年季を帯びたものだった。すくなくとも、ここは何十年も前から荒らされたことのない場だとわかる。その落ち着いた匂いに少しほっとした。
「さて、話を続ける前に聞いておかねばならんことがいくつかある。」
「なんでしょうか。」
コーヒーを受け取って返答した。
「お嬢さんは、士郎自身にはその疑問をぶつけてみたんかの?」
「……いえ。」
「それはまたどうしてじゃ。本人に聞くのが一番良かろう。」
「衛宮君は、その、あの頃より昔のことを覚えていないと、そう言ったんです。」
「ふむ、それはどうも事実らしいが、そこまで知っているとなるとただの酔狂ではなさそうじゃの。もうひとつ尋ねたいんじゃが。」
「なんなりと。」
「亡くなったはずの探し人は、どういう人だったんかの?」
「私と同い年の、士(もののふ)の郎(おとこ)と書いて士郎という人でした。」
「ふむ、名前が一緒、と。他には?」
「いえ、本人についてはあまり知らないんです。」
「なるほど、お嬢さんも小さい頃じゃろうしな。・・・む? いま知らない、と言ったかの?」
「はい。覚えていないのではなく、その方とはおそらく面識がありません。」
「つまり、知らない知人について尋ねたい、と。話が見えんの。お嬢さんや、その胸にしまって話そうか迷っておる事情を話してみなさい。」
柔和な笑みと声質なのに、目だけは鋭かった。いや、鋭利なのではない。心の深奥まで覗けるほど透る目線なのだ。
格が違う。もって廻った言い方で必要な情報を得るだけのやり取りはとてもじゃないが通用しなかった。
「すみません。」
まずは謝罪する。隠し事をしつつ尋ねたのは失礼だったのだから。
「その亡くなった方は、私にとって、許婚に当たる方だったそうです。父の親友のご子息だったようで、私と同い年でした。」
「……成る程、そういうことじゃったか。命を落とした五百余命のうち、同い年の士郎という子どもが他におったかは確かに怪しいの。」
「はい。私もそう思いました。それでなにか確証はないかと探していたところなんです。」
「確証、か。何とも難しいのう。」
「戸籍を調べてわかりませんか?」
「お嬢さん。」
「っ、はい。」
「あまりその辺りは話せんの。あの頃は蛇の道、というものがまかり通ったんじゃよ。」
「はい…。」
「おいそれと市長のご令嬢に伝える話ではないからの。」
「それは……。ご存知でしたか。」
「おお。職業柄お互いに無視できる存在ではないしの。で、お嬢さんや、そちらは何も情報はもっておらんのかのう?」
「その人本人については、ほとんどわかりませんでした。私の両親も亡くなったと信じているようでしたから。」
「ふうむ。」
「その方のお父上、私の父の友人の写真ならあります。」
アルバムから抜き取った写真を、そっと机に乗せた。
「くせのある赤毛じゃな。確かに確証には程遠い。じゃが無視するには大きい特徴じゃ。」
「ええ。これ以上に、はっきりしたことはご存知ありませんか。」
「知らんのう。むしろ、絶対にはっきりしない、わしはそう断言しておこう。」
「貴重なお言葉、ありがとうございます。」
「いや、何一つ力になれず申し訳ないの。」
「いえ、そんなことはありません。それでは、失礼します。」
「それじゃあな、お嬢さん。」
まだ暖かいコーヒーを飲み干し、藤村邸を後にした。
収穫はあった。
でもそれはそれ以上の収穫はないということでもあった。きっと衛宮の戸籍は真実に裏打ちされたものではない。絶対にはっきりしない、そんな風に藤村組の組長がほのめかしたのだ。間違いあるまい。
藤村邸を訪れたのもやりすぎの感が否めない。私の知己に迷惑のかからない、個人の趣味の範囲で納めるなら、調査はここでゲームオーバー。どうしたものかと嘆息してしまう。蒔の字や由紀香にはこればっかりは相談できないし助力も願えない。
家に帰るのにバスを使わなかったせいだろうか、素直に足は家に向かず、あの灰色の公園へ向かっっていた。
どこか、衛宮がいることを期待していた。
入り口に程近いベンチを通り過ぎ、広場の中ほどに進む。植えられた木の幹にもたれかかる人のもとへ進む。
「あれ、こんなところにはほとんど来ないんじゃなかったのか、氷室。」
「……そうだな。本当に最近の私はどうかしている。」
「なにかあったのか?」
「少々悩みを抱えていてね。」
「え、と。俺が聞ける話か?」
「その気持ちだけ頂いておこう。ありがとう。」
そう、衛宮にだけは話せない。
「まあ、最近氷室とは妙に縁があるし、力になれることがあれば言ってくれ。」
「あ、ああ。」
妙な縁。まったくこの言葉がふさわしい。
「そういや今まで見かけたことないような場所、それも俺の行動範囲内で氷室を見かけるんだよな。」
「確かに、ここも深山の商店街も私のテリトリーではないな。」
「最近は気まぐれが多いのか?」
「どうだろう、散歩は確かに気まぐれだったんだが。」
「ここには慰霊碑を見に来たんだっけ。今もか?」
「いや……。今日も気まぐれだ。君がいるかと思ってね。」
「はい?」
熱に浮かされたような弁舌。なんだろう、頭の片隅にあるクリアな思考と別に体が動いているような。
「おい、氷室?」
「―――え?」
衛宮は瞬間移動した。いや、もちろんそんなわけはない。私の注意が曖昧になっているのだ。
アルコールを口にしたことはないが、これが酔った感覚というヤツだろうか。
抱きかかえられる感覚。由紀香を抱きしめたときとはまったく違う匂い。甘くない。だが夏ではないからだろうか、別段匂いを不快に思うことはない。彼氏のいる友人の言が若干納得できた。
――――曰く、好きな男の匂いをかぐと落ち着く…
「氷室! ったく。この前も調子悪くしてたんだから、無理して来ちゃ駄目だろ。」
「え、みや?」
「こないだより広場の真ん中近くに来たからかな、たぶんただの貧血だと思うけど。ここにいちゃまた悪くなるし、送ってく。」
意識にさっと冷水がかかる。
「ちょ、ちょっと待った。今私は……」
ものの見事に抱えられている。私の意識がはっきりしていなかった以上背に抱えるのは無理で、だから今私は衛宮の胸元に抱きかかえられている。
「待て。早まるな衛宮。この格好はまずい。」
「う、まあ恥ずかしいのは恥ずかしいけどさ、でも調子悪い女の子に歩かせるのはだめだろ。歩けるようになればおろすから。俺にやられて氷室も嫌だろうけど、我慢しろ。」
「べ、別に嫌というわけでは……そうではなく衛宮! これはまずいんだ。第一君は今からバイトだろう。」
「別に遅れても大丈夫だし気にしなくていいぞ。で、まずいってのは彼氏がいたりするとか?」
「いや交際している相手はいないがそうではなく、その、なんだ。スキャンダラスだろう。」
「スキャンダル、ねえ。」
そうではないかっ。それこそ遠坂と衛宮が付き合っているレベルのスキャンダル、いや、ネタとしての面白みではこちらのほうがはるかに上。
「そうだ。ほ、ほらそういえば私の父は市長だし娘が男に抱きかかえられて帰るなんてよくないに決まっているだろう!」
「あ~、ご家族に迷惑かかるのはまずいか。でも氷室、もう歩けるのか?」
「問題ない! 降ろしてくれ。」
これだけ顔に血が上ったのも初めてではなかろうか。ようやくの地に足着く感触。
石畳の感触だった。公園の入り口で何とか降りることが出来た。
……っと。
「まだフラフラじゃないか。」
「君が悪いんだろう。」
「なんでさ。」
「あ、あんな風に抱きかかえられれば動揺して平衡感覚など失うに決まっている。」
「そうか、その、すまん。」
衛宮も少々落ち着いて照れてきたらしい。こちらを見ずにそっけない。もっとも、私とて恥ずかしさからそっけなくはなっているが。
「だが、気を使ってくれたことには礼を言う。」
「ん、別にたいしたことはしてないぞ。で、歩けるか?」
「…頼みがある。」
「なんだ?」
「ときどき、足取りが怪しいときは腕を掴んでも良いだろうか?」
「ああ、それくらいなら、喜んで。」
公園から15分、無機質な道を歩む。
衛宮の挙動は不審だった。いや、私も忘れていたのだが、腕を組めば体が触れるのだ。
プロポーションについては、私はかなり客観的な視線を持っているように思う。友人達を見ていれば、大きくても小さくても凡庸でも、どれにしても悩みを持っている。言ってしまえば、それが自分の身体だから悩むのだ。悩むのは乙女として自然でありながら、そこに必然性はない。
逆に言えば、数値如何で悩む必要などないのだ。そんな考えだからだろう。衛宮をからかうのにあまり抵抗がなかった。
「ふむ」
家のそばにもなれば、ほとんど眩暈はなかった。だから衛宮を頼ることはないのだが、
「ひ、氷室。」
「すまん。」
今までで一番強く腕を取ってみた。からかうつもりはなかったが、ふと衛宮の動揺を誘ってみたくなった。
「そ、その、大丈夫か?」
「ああ、すこし躓いただけだ。体調はかなりよくなったし、もうそろそろ家につく。衛宮こそ落ち着きがないが、大丈夫か?」
「いや、なんでもない。俺の修行不足なだけ。こっから先は一人で行けるか?」
「大丈夫だ。こういっては何だが、か弱き乙女として扱われたのは実に久々だった。」
「そ、そっか。氷室のイメージってちょっとそういうのと違うしな。」
「それはすまなかったな。」
私は私の性格を気に入っている。一般的な思考でないのは認めるが、人に女らしくないとまで言われるのは心外だ。
「いや、でも一緒に帰ってみたら意外と。」
「意外と?」
「まあ、氷室も女の子だなぁ、と。」
「それはどこを見ていっているのかね?」
さっと手を胸の前に持ってくる。隠すように。
「っ! べべべべつに何を見てってワケでもありませんよ??」
「そうだったかな。」
まあ、今のは私のせいでもある。公園からここまで彼はちゃんと紳士だったのだから、これ以上からかうのは悪いか。
「それではごきげんよう、衛宮。」
しかし、先ほどの言は撤回しよう。衛宮をからかうのは楽しかった。
夕食を摂り、風呂で一日を回想する。
波乱万丈、一日で多くのものを消費したようだ。湯船につかっていると意識が少し白む。
うつらうつらと湯船で舟を漕ぐのはまずいので、いつもよりくつろぐ時間が短いのを残念に思いつつ足を外に出した。
母には変なことを言われた。今日は表情が柔らかい、だそうだ。疲れで筋肉が弛緩しているのではなかろうか。しかし表情筋にもそういったことは起こるのか。
手早く身体を拭き、髪の水気をタオルに吸わせる。
コットン100%の灰色の下着に足をくぐらせ、おそろいの上も身に着ける。スポーツタイプの型で、装飾がないものだ。鏡を見れば髪をアップにして下着一枚の自分が映る。スタイルには自信があったが、どうにも自分自身が味気ない。
恋をすれば女は変わる、それは私にも適用できる話なのだろうか。
そこまで考えてはっとする。恋をして女が変わるのは自分の容姿への関心が高まるからだろう。まさに今、鏡を見ている自分そのものではないか。
落ち着け氷室鐘。衛宮に可愛いといわれて動揺しているのか。
火照った肌に浴びせた化粧水が熱と動揺を取り除く。寝巻きを着ても汗ばまない程度に体が冷めてから浴場を出た。
「風呂は開いたか。」
「はい。すぐ入りますか?」
「ああ。」
「では給湯はつけておきます。」
「ああ。」
立ち去ろうとする私をじっと見つめる父。家族にわかる機微で、その視線はただの観察のそれでなく、メッセージ性の強いものだと感じられた。
「……なにかありましたか?」
「いや、なんでもない。とんでもない相手先からとんでもない電話が舞い込んでね。少々疲れているんだ。」
「そうですか。それでは、おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
父の愚痴を聞くのはよくある話だ。だが、その『とんでもない相手』とやらとのやり取りが相当堪えたのだろうか。自分の妻でなく、娘にまでああした疲労のサインを送ることは珍しい。
ただ、私は娘。父には申し訳ないが、こちらには親の仕事を憂う余裕はない。自室のドアを開ける頃には父の悩みなど忘れていた。
あとがき
二次元キャラということで髪の色には困りますね。絵をみりゃ日本人とは思えない色の氷室さんと衛宮くんなわけで。
変わった色の髪の人がたくさんいる世界だからあの赤髪でも目立つことはない、程度に考えてください。