無言でバスに揺られ、深山を目指す。
顔をあわせて一時間半、これだけ長い時間顔を合わすのは初めてだった。おかげで沈黙もそう気まずくはなくなっていた。
とはいえ、緊張感がなくなるわけではない。いやむしろ、現状はかなり逼迫(ひっぱく)していた。
週末の昼に深山に向かうバスは、予想外に混んでいた。早朝から山登りでもしたのか、そういう感じの服装をしたお年寄りがたくさん乗っていて、俺と氷室は車内で立つことになった。
「――っ。」
ガタリとバスが揺れる。この場所はマンホールが盛り上がっているせいで通るときはいつも揺れるところだった。そして、ただでさえ密着に近い氷室の体がさらに押し付けられる。
落ち着け。自分に言い聞かす。
まあ、手をつなぐことはないが遠坂や桜とバスに乗ればこれくらいの距離にはあるし、イリヤならもっとべったりくっつくかもしれないがああいやしかしこんなに抱きこまれた手が熱いとそれが頭に回っちまう。
喝、喝、喝。
向こうも間違いなく恥ずかしがっているけど、手をつないだ上で俺にもたれかかってるのをやめる気はないらしい。それでいて、揺れでお互いを支える力が強くなると身を固くしていた。
平衡感覚は養ってるし、やっぱりこういうタイミングではしっかり立っていたいと思い、背をしゃんとする。
余計なことを言えば、氷室はそう背の高いほうじゃないけど、背筋はまっすぐだから俺も背筋を正さないと身長差を維持できなかったりする。
ふと氷室の流れる髪のはじまりに目をやって氷室の背丈を確認したら、その視線を向こうも感じたらしい。
「どうか……」
したのか、と言いかけて氷室が息を呑む。
理由はこちらからも読み取れた。胸元で氷室がこちらを見上げていた。
15センチくらい先に、薄い黒が透き通った瞳がある。それが体感的には、眼鏡が間に挟まってると思えないくらいすぐ側に思えた。
そんな距離で目線がばちりとかち合ってるもんだから、言葉が続かないのも仕方ない。
「……なんでもない。」
その一言でごまかすのがやっとだった。
「そ、そうか。いや、何かを気にしているようだったのでな。」
言い訳するみたいに氷室が取り繕って、互いに示し合わせたように窓の外へと目を移す。その先ではうるさいバス道への防音にと各戸が立てた塀ばかりが流れていく。
ありがたいことに俺たちの目の前に座った人は大きめのリュックサックを胸に抱いて眠っていた。おかげで他人に観察される事はなかった。
「なあ、氷室の身長、どれくらいだ? 160ってトコか。」
途切れた話の枕にと、処理能力のだいぶ落ちた頭にポンと浮かんだ言葉を口にしてみた。
「少し届かない程度だな。およそ平均的な数値だろう。」
頭頂が俺の顎にくるくらい。うちの家にいる女性陣は特に背の高い人はいないから、ちょっと思い返せば、よく馴染んだ身長差だった。
桜は控えめな性格だし、遠坂はアクティブで、あの二人と違って氷室はこうして物静かに並んでいるときに存在感を感じさせる。そんな違いで、実際よりも身長差を少なく感じたんだろう。
もう2、3センチでいいんだけどな、と仕方のないことを考えていると、氷室はこちらと目が合わないようにしながらぼんやりとこっちを見て、再び窓のほうを向いた。
「氷室?」
少しそれが気にかかって、問いかけてみる。
「な、なんだ?」
それが不意打ちだったのだろうか。声が揺れていた。
それでなんとなく悟る。たぶん、さっきの目線で氷室は確認したんだろう。
「なんか聞きたいコトがあるんじゃないのか?」
「いや……」
否定とも取れず、ぼかしたともいえないような不明瞭な呟きを返して、氷室が黙る。
何かを言いあぐねているようなその雰囲気でわかった。氷室は察し方が鋭いほうだった。
「もしかして気を使わせたか?」
「どういうことだ?」
こちらの質問に対して、ごく自然なとぼけ方をした。つまりこっちの言わんとすることが読めているわけで、いつもの氷室らしいそれは、
「俺がタッパのこと気にしてるって思ったんじゃないのか?」
そういうことに気付いてるって事だった。
目を合わせないようにこっちも氷室のほうを向いて反応を確かめたら、俺が思っているのと氷室の表情がずいぶん違っていた。
気まずさとか申し訳なさよりは、心配と不安。窺うような目でこちらを見ていた。
「……すまない、君の、気に障るようなことを口にさせてしまっただろうか。」
と、確認するように呟いた。
予想とのギャップにわずかな戸惑いを感じながら、答えを返す。
「いや、あんまり背が高くないのは事実だし、気にするってほど気にはしてない。」
氷室がヘンに背負い込んだものを取っ払うつもりで、軽めにそう言った。
なだらかなカーブの途中で、強い光が窓から差し込む。その遠心力が災いして、また氷室との触れ方が強くなる。
「怒って、いないか?」
カーブを曲がりきるのをいっぱいに待って、弱気、いやむしろ臆病に近いような声でもう一度そう尋ねてくる。
揺れていた目も今は足元にじっと注がれて、氷室がやけに気にしていることが感じられた。
「怒ってなんてない。えっと、こういっちゃ悪いけど、俺こそ氷室にそんな怯えさせるようなことしたか?」
氷室が意を決したように顔を上げた。
「人を嫌な気持ちにさせることは、あまり言いたくないだろう。特に君にはそうだった。」
つまらない言葉で嫌われたくないんだ、とささやくように続けて、再びガラス越しの塀を眺めはじめていた。
俺に預けていた体重をわずかだけ戻した氷室の、その手をぎゅっと握ってまた少し引き寄せる。
遠坂にからかわれたときみたいな慌てて浮ついた気持ちじゃなくて、穏やかな気分で、氷室のことを可愛いと思えた。
坂がきつくなる。カーブ以上に、氷室との接し具合は強くなっていた。
「別に、嫌な気持ちになんてなってないからな。それに、もしかしたら気にしてるのかもしれないって思われたくらいで怒ったりするやつもそうはいないだろ。」
氷室が俺と目を合わせた。今度は、そんなに慌てることは無かった。
「いや、私だってそう思っているんだが、気に障ることを言ったのならどうしようかと懸念がよぎると止まらなくなったんだ。」
胸のなかに溜まったものを洗い流すようにそうこぼして、氷室はやわらかく笑った。
「まあ、正直に言っちまうともう二、三センチが俺にとっては大きいんだけどな。」
170という目安というか大台への憧憬は無いといえば嘘だった。
「別に気にするほどのことはないだろう。」
他人事だからか、氷室はあっさりとしていた。
「いやまあ、だからそんなに気にはしてないんだけど、でも時々さ、氷室よりもうちょい高い女の子とか、俺よりちょっと高い男を見たりすると、もう少しあればなーって思ったりすることがあるんだって。氷室はそういうの無いか?」
「高すぎても悩む、低すぎても悩む、平凡でも悩む、だから悩んでも仕方ない。私はそう思っているな。そもそも、身長差が問題になることなんてそうはないだろう。」
なんというか、達観しているというか。
氷室はその手の問題にはもうカタがついてます、といった風だった。
確かに問題になる、なんてことは少ない。いつだって身長差は気になる、のほうだ。
「そうだけどさ、でも氷室は歩き方とかしゃんとしてるから、こっちも背筋正さないと目線が同じになっちまうんだよな。」
いい加減ぼやくのもやめよう。バス停ももう近いし、話を締めくくるには潮時だった。
だが、氷室はまだ言葉をつなぐ。
「背筋は正したほうがいいと思うが、目線だって同じになるというのは言いすぎだ。これくらいの差であれば私がヒールを履いたとしても逆転することはない。」
充分に危機感を煽る話題だった。
「う、そっか。ヘタすると身長入れ替わるんだな、ヒールで。」
山がちな町のせいか、俺の周りにヒールの高い靴を履く知り合いは居ないが、市街住まいの氷室なら持っててもおかしくない。
「君との差がなくなるような高いヒールの靴はそう履きたいとも思わないな。」
「じゃあ問題ない、か。」
まあ、身長差が逆になったらなったで慣れるんだろうけど。
「そうだな、どうせ問題があるなら回避すればいいだけの……」
そこで氷室が言いよどむ。
「どうかしたか?」
「いや、出来れば聞かないでくれるとありがたい。」
うっすら顔が赤らんでいる。
「氷室、顔赤いぞ?」
気持ちの余裕があるからか、つい、それをからかってみたくなった。
「……っ」
とっさに言葉が出ない氷室を、こちらも黙して待つ。
あらぬ方向を見て耐えるようにじっとしていた氷室が、ちらりとこっちを見るまで数秒あった。
何をしてるんだろう、と疑問を含んだその目に答える。
「聞かないで欲しいんだろ?」
氷室が可愛いからだ、なんて言い訳をつけると自分も恥ずかしくなるが、思ったより意地の悪い声になったのはきっとそういうことだ。
かあっと頬の赤が増したのを見て取った。外を見れば降りるバス停は、もうすぐそこだった。
氷室を促しながら、財布の中の小銭をあさる。
ブレーキがかかって停車すると同時に氷室との距離が少し開いて、先に俺から下りた。
冷たい風が、涼しいくらいに感じる。
なびく髪を軽く押さえた氷室の姿を確認して、家への路を歩き始めた。
「で、話かえたほうがいいか?」
氷室は口を軽く尖らせて、
「もういい。」
軽く怒っていた。
「先ほど考えたのは、ウェディングドレスにはヒールがつき物だった、と思い出しただけだ。」
「そうだっけ?」
結婚式でドレスの足元に女性が何を履いてるのかなんて、考えたことも無かった。
ふっと頭に浮かぶのは、ガラスの靴。
いやいやあれはシンデレラだからウェディングじゃないような、なんて考えていると、
「有名な話だ。結婚式の最難関は、新郎新婦の身長差と、新郎が新婦を抱き起こせないこと、この二点らしい。」
そう注釈を付けてくれた。
「まあ、人間って米10キロどころの重さじゃないしなあ。」
かく言う俺もコペンハーゲンの1ケースを運ぶので精一杯だ。
「もうかなり前に感じるが、私を君は持ち上げていただろう。それとも、私があれから重くなったとでも君は思っているのか?」
ごくごく自然に、すっとそんな言葉が氷室の口から出る。
そのあっさりさがむしろ怖い。
「い、いやそんなわけじゃないって!」
女性と体重の話なんて、熱した油に水をかけるくらい危ない組み合わせだ。
「まあ、氷室を抱き上げる必要があるなら、そりゃできることはできるけど。」
そんなことめったに無いよな、という感じで氷室にめをやると、
「……そうだな。」
すっぱりとした先ほどの態度からまた変わって、返事に間があった。
こちらの疑念を感じ取ったんだろう、
「この先、なんて話を君がしたからだ。」
そう、拗ねたように言ってそっぽを向いた。
「どういうことだ?」
言葉少なで、いいたい事がよくわからなかった。
氷室は困惑して、仕方ないといった風に言葉を続けてくれた。
「……言わせないでくれ。その、なんだ。今の話は、この先も私が君の隣を歩いていることを前提としているだろう。」
そこまで言われてようやく気付く。
今はまだ、試用期間だった。そして明日からのことは今日の最後に聞こうと思って、その話はそれまでしないつもりだった。
「すまん。」
「いや、私は。」
その後どう続けるつもりだったのか判らないが、そこで氷室も固まってすっかりちぐはぐな空気になっていた。
信号のある道から外れ、細い道へ入る。このあたりは古いから車がすれ違うのには不十分なくらいの道が多かった。
「さっきの話だけど、氷室は結婚式とかまで想像したのか?」
「な―――」
……話を軌道修正するつもりで言った一言だった。軌道は修正されたが、よく考えてみれば、さっきの話だって先行きはダメだったのだ。
俺の一言は、氷室にとって最大級の一撃となったらしい。俺としては、すごいなあ、そんなヴィジョンまであるのかー、といった感心を口にしただけのつもりだった。
まあ、俺も動転してるってコトか。言葉にする前にちょっと考えれば今の一言は氷室の痛いところを思いっきり突いてると判ったはずだった。
「氷室、その、大丈夫か?」
「衛宮、その、すまないんだが、今しばらく落ち着く時間をくれるだろうか?」
申し訳なさそうにそう言って、氷室は自分から俺と距離をとった。
バスの中から、氷室にしてみれば緊張した状態がずっと続いていたのかもしれない。
大きく吸ったつもりの息が意外に足りないのか、深呼吸ともいえない中途半端な息で必死に自分を落ち着けながら、氷室はぽつりと、
「今日の私は、だめだな。君を前にして、ひどく動転している。」
そんな自己分析をした。
確かに、巷の評価、クールだとかミステリアスだとか、そういう風に言われてるのとはずいぶんずれていた。だが、俺は今の氷室を氷室らしくないとは思わなかった。
「おかしいだろう。君にはとんでもない醜態を晒してばかりだな。」
分析に自重めいたものが混じって、それを自分でかすかに笑っていた。
氷室は、そんな風に言ったが、醜態を晒すって言うならろくなデートコースを提案してないこっちのほうがもっと醜態を晒していた。
「そんなの、俺だって同じだ。きっと俺たち二人ってのがそういう距離感なんだ。だから、氷室だけが気にすることはない。」
ちぐはぐなのはどちらかじゃなくて、この組み合わせ。
その言葉がちゃんとフォローになったらしい。氷室の顔が少し、安心したように見えた。
「なあ衛宮。君がそういってくれるなら、聞いてしまおう。結婚のことを考えるなんて、おかしいか?」
氷室がこちらを見ていた。
「えっと、おかしくは、無いと思う。ただ俺はそういうのを考えられなかった。」
その返答には、どこかおかしさが含まれていた。氷室はそれをふっと笑って、
「考えられないんだから、私のような考えはおかしなことなんだろう。君にとっては。」
俺の考えをやんわり否定した。
聞きようによっては寂しくも取れるその一言を面白げに呟いて、どうも氷室は満足しているみたいだった。
「まだまだ結婚なんて遠いからそんなことを考えろっていわれてもなあ。」
無理というかなんというか。
「就職とか進学とかいろいろあるし。」
俺の本音といえば、これだった。
氷室もそれは同じらしく、
「ああ。学生のときからずっと付き合って結婚に漕ぎつけるは並大抵のことではなかろう。」
と賛意を示していた。
俺が言いたかったのはそういう意味じゃなかったが、氷室の言葉に疑問が湧く。
「じゃあ氷室。いま俺と付き合ってみようって話になってるのは、えっと、なんだ、結婚には届かないと思うのか?」
結婚という言葉が、やけにこそばゆく感じられた。
氷室にとってもそうだったようで、こちらの質問に落ち着かないようだった。
「一般論と私の意気込みは別だ。少なくとも私は、その、なんだ。付き合ったからには、添い遂げたいと思う。」
そう告げると、早足で俺の横に並んだ。照れたとき、氷室はこうする。多分顔を見られたくないんだと思う。
「衛宮こそ、どう思っているんだ?」
「……すまん。わからん。」
こうして手をつないだりしてデートらしいことをしているけど、約束で言えば、まだ俺たちは付き合ってるわけじゃない。
付き合っていけるかどうかを、氷室はこのデートで吟味することになっている。
そんな変則的な一日をどう乗り切るか、それ以上先のことを考える余裕なんてまったくなかった。
だから、もう一度氷室の手を握っておいた。