イッソスの戦いに敗れたとはいえまだまだ余力のあったペルシャ王国がテュロスという天然の要塞を相手に苦闘するマケドニア軍を放置していたことは長年戦史上の謎とされてきた。
東征記にはアンティゴノスが散発的なペルシャの小競り合いに勝利して地盤を固めたことが短く記されているのみである。
しかしペルシャに勝機があるとするならば、それはガウガメラの戦いを待つまでもなくこのテュロス、あるいはエジプトへの遠征中にアンティゴノスが陣を敷くダマスカスを奪回してマケドニア軍の連絡線を断つことにあったはずであった。
息も絶え絶えな伝令の叫びにマケドニア軍の本営は騒然となった。
ペルシャ軍の実数が本当に6万であるとすれば(イッソスの戦いでの戦死者数は少なくこの時点でペルシャにはこの程度の動員の余裕は十分にあった)アンティゴノス率いるダマスカス方面軍が勝利する可能性は限りなく低いものと
思われたからである。
いかにパルメニオンとならぶ歴戦の宿将といえど彼が保有する兵力はわずか五千程度のマケドニア兵と、忠誠心に疑いの残る現地の旧ペルシャ軍五千の計一万では戦力に差がありすぎた。
かといってここで全軍がテュロスから反転すればようやくにして攻略に成功しようとしているテュロスが息を吹き返してしまうのも確かなことであった。
大規模土木工事によって海岸から島に向かって延びた突堤が破壊されてしまえば、基本的に陸上戦力であるマケドニア軍はこの半年の犠牲と労力を無駄にして一からやりなおすことを免れない。
何にもまして問題なのはマケドニア軍の無敗という実情を超える風評が、テュロスの攻略失敗によって覆されてしまうということだ。
フェニキア人たちがペルシャからマケドニアに寝返ったのは彼らがマケドニアの勝利に賭けたからにほかならない。
ひとたび常勝の化けの皮がはがされれば、まだまだ国力において隔絶した力をもつ大ペルシャに彼らが再び寝返る可能性は高かった。
しかしここでアンティゴノスが敗北し、ダマスカスを奪回されてしまうのはさらに危険であった。
というよりも、もしそんなことになればもはやマケドニア王国は滅亡の運命を免れることはできないだろう。
戦略策源地であるダマスカスを失うということは、ようやく解決したマケドニアの戦争財政が破綻するということであり、帰国する陸路が断たれるということでもある。
そんな状態のマケドニア軍に、降伏した旧ペルシャ貴族やフェニキア人たちが従うはずもなかった。
退路を断たれ、海上を封鎖され、潜在的な敵対者を味方に抱え込んだマケドニアが無惨に敗れるのは誰の目にも明らかだった。
ゆえにこそ、テュロスで苦戦中のアレクサンドロスの背後をペルシャが脅かさなかったのは長く謎とされていたのである。
(…………記録に残っていなかっただけで、やはりペルシャもやることはやっていた、というわけか………)
一瞬神のいたずらを呪いたくなったが帰還のスイッチに反応がないところをみるとまだ歴史は変わってはいないらしい。
大きく息を吐いて安堵とともに冷や汗を拭うと、幕僚たちが思い思いに声を張り上げて論争を開始していた。
「一刻も早くテュロスを落とすべきです!テュロスさえ落ちればペルシャ軍も我らに怖れをなして退くことでしょう!」
声高々と主戦論を主張するのはヘファイスティオンである。
まあ、なんというか……ぶれない男だ。
ペルディッカスやクラテロスもこの考えに同調しているらしく、しきりに攻撃の続行を求めていた。
「退くという根拠がどこにある!それにテュロスが強攻では落ちぬことはこれまでの戦いが証明しているではないか!」
理路整然と反対するのはプトレマイオスだ。
素人ながらもこちらのほうが理にかなっているとは思う。
ただ問題なのは………
「それではここまで追い詰めたテュロスを放棄しろというのか!?」
そうだ、そうなるよな。
ぶっちゃけこのテュロス攻防はアレクサンドロスのプライドのためだけに発生した本来戦わなくてよかったはずの戦いなのである。
テュロスからの撤退も影響は大きいが、もっとも大きな打撃を受けるのが王のプライドだということが大問題だった。
ヘファイスティオンたちがテュロスを優先するのも基本的には国王第一という考えに沿ったものなのだ。
いったいここからどうやってダマスカスを守ったんだろう?
アンティゴノスの親父なら力技でなんとかしそうな気もするが、さすがに寡兵で6万を撃退すれば歴史に功績が残らぬのはおかしい。
「……………レオンナトス、お前に兵5千を預ける。アンティゴノスと協力してダマスカスを死守しろ」
「はっ????」
不覚にも間抜けな声で問い返してしまうようなどうか空耳と思いたい言葉を確かにこの耳が捉えた。
―――――――な、なんですとおおおおおおおおおおおおおお!!??
アレクサンドロスは困難な決断を強いられていた。
撤退か、それとも自爆覚悟の特攻か。祖神であるヘラクレスを祭った要塞都市テュロスを陥落させることは自分に託された神意であるとアレクサンドロスは根拠もなく確信していた。
つまりテュロスを落とす、という方針は変わらない。変えようがない。
かといっていかにアレクサンドロスの直感は、アンティゴノスでも後背定かならぬ足手まといを含めてようやく1万程度の軍勢でペルシャ軍6万を相手にするのは難しいであろうと感じている。
確かにアンティゴノスはマケドニアを代表する良将だが、彼の持ち味は政治力を含めた戦略家としての手腕であって、戦術的な前線指揮官としてはパルメニオンよりは見劣りすると言わざるをえなかった。
さすがに彼が撃ち破られダマスカスを奪還されてはたとえテュロスの攻防がマケドニアの勝利に終わろうとも結果的にマケドニア軍の敗北は避けられないだろう。
――――――それもまたよし、か。
アレクサンドロスの内心は望みの少ない投機的な賭けに出る方向に傾きつつあった。
幼いころから培われた英雄願望によって、難局に直面したときにはむしろ成功確率が低い行動に賭ける傾向がアレクサンドロスには拭いがたく存在する。
それを常軌を逸した幸運がまるでそれが英雄の運命であるかのように補完していた。
アンティゴノスが持ちこたえているうちにテュロスを落とす。
そしてとってかえしてペルシャ軍を撃滅する。
そんな決断をしかけたアレクサンドロスの視界になんとはなしに映り込んだ奇妙な光景があった。
レオンナトスが顔面を蒼白にして喧々諤々の論争を繰り広げている僚友を尻目に、まるでペルシャ軍が6万程度の人数でよかった、とでも言いたげに安堵のため息を漏らしていたのである。
血筋がいいボンボンの割にはエウメネスやネアルコスのような異国人とも親しく、陽気で野心家のような毒の少ないレオンナトスはアレクサンドロスにとっても安心して会話のできる数少ない友人の一人だった。
ヘファイスティオンはアレクサンドロスを神聖視する傾向が強すぎ、ペルディッカスなどは言葉の裏にちらほら見え隠れする野心が鼻についてしまうのだ。
フィロータスやプトレマイオスは年が離れすぎており、レオンナトスはそういう意味でも心理的にアレクサンドロスに近い存在であった。
しかしながら戦場でのレオンナトスは残念ながらいたってごく平凡な将であり、遠征が始まって以来この気の置けない友人と接する機会はめっきりと減っていた。
――――――おもしろい。
アレクサンドロスの直感が告げていた。
この男は化ける。
絶望的にも思えるマケドニア軍に救いをもたらしてくれる何かを、レオンナトスは間違いなく所有している。
これまでの人生でしばしばそうしてきたように、アレクサンドロスは理性ではなく直感によってレオンナトスに命令を下した――――――。
「頼むぞ。アンティゴノスを犬死させるな」
たった5千の兵でこの凡人を絵に描いたようなオレが6万のペルシャ軍相手に何をしろと?何それ?馬鹿なの?死ぬの?
顔をひきつらせて固まったままオレは絶賛硬直中であった。
ありえないありえないありえないありえないありえないありえなったらありえない!
援軍に送るならヘファイスティオンとかペルディッカスとかいくらでももっとましな候補がいるだろう。
どうして今更なんの戦功もないオレが絶体絶命の死地に赴かなきゃならんのよ?それとも何か?オレなら失っても惜しくないとか…………うわっありえそうで怖い………鬱だ、死のう……………。
「確かに5千ならなんとか攻城戦には差し支えなく済むでしょうが………しかし………レオンナトスでよろしいのですか?」
あからさまに人選に難あり、と困惑の色を隠さずにアレクサンドロスに問うたのは誰あろう我らがヘファイスティオンくんである。
頭つきの恨みを今でも忘れない粘着質のいやな男だ。
お前がエクバタナで病気になってもオレは全力で見捨てるからな!
「ヘファイスティオンの申すとおりレオンナトスではいささか心もとないと存じます…………陛下、よろしければ騎兵2百をエウメネスにつけてはもらえませぬか?」
「なっ……文官の書記官に兵を預けるなど……正気か?プトレマイオス!?」
自分と同じ意見かと思えば憎き異国人であるエウメネスを騎兵指揮官として登用しようとするプトレマイオスの言葉にヘファイスティオンは目を剥いて吠えかかった。
あんな卑怯な異国人とともに軍を指揮するなどヘファイスティオンにとっては侮辱以外の何物でもなかったからである。
「書記官殿の武勇と識見は私もよく知るところだ。彼ならレオンナトスをよく補佐するだろう」
正直同数の軍を率いればエウメネスに自分は及ばないかもしれないという予感がプトレマイオスにはある。
レオンナトスには百回やって一度たりとも負けないであろうが。
はたから見れば死んでこいと言われるがごとき過酷な任務にペルディッカスやクラテロス、クレイトスたちも先を争うようにプトレマイオスの主張を支持した。
自分たちにお鉢が回ってきてはたまらないからだ。
生還の難しい防衛線より勝利を目前にしたテュロス攻防戦のほうが誰だっていいに決まっているのである。
―――――心理的にはエウメネスに軍を預けることに拭いがたい抵抗がある。
しかしアレクサンドロスはどこまでも直感の人であった。
彼の直感はレオンナトスの起用と………エウメネスが非常に優れた戦術指揮官であることを告げていた。
ここで直感に従わないのはアレクサンドロスの主義に反することであった。
「エウメネスに騎兵2百を与える………以後は書記官の任と兼務せよ」
「御意」
アレクサンドロス大王の東征記において、いつのまにかエウメネスが書記官という文官から騎兵指揮官として前線で戦ったという記述が現れる。
ペルシャ征服以降の後半で姿を現すことの多くなる優秀な騎兵指揮官としてのエウメネスであるが、いつどこで彼が武官に起用されたのかは謎とされていた。
どうやら彼が武官に起用されたのはこのテュロス攻防戦を端緒とするらしい。
(これは死ぬ………未来に帰るとかいう以前に死んでしまう………というか死んだら帰れなくなる………死ぬのはいやあああああああああ!!)
口から白いエクトプラズムを吐きだしたまま呆然と臨死するオレの肩を、どこかふっきれたように爽快に笑ったエウメネスが容赦なくガクガクと揺らした。
「そんなわけでよろしく頼むよ、レオンナトス」
オレはよろしくしたくねえええええええええええええええええ!!