テュロスをめぐる攻防においてアレクサンドロスは地中海制海権の掌握を決定的なものにした、と史家は語る。
確かにテュロスの陥落はペルシャ側の海上勢力を完全に破綻させ、マケドニアの海上交通権を不動のものとした。
しかし現実はそれだけで言い表わせるほどに単純なものではなかった。
「―――――まったく、史実を知ってなければてっきり負けると思うぞ、これは」
生粋の海の民であるフェニキア人の操る火船が瞬く間にマケドニアの巨大な攻城塔をただの松明へと変えようとしていた。
もともと攻城兵器というものは海上をすばやく動き回る船を攻撃するようには出来ていない。
精鋭たるマケドニア軍も勝手の違う海上勢力との戦いにその打撃力を一向に発揮できずにいたのである。
テュロスの攻防が始まって以来、天を衝かんばかりであったマケドニア軍の士気もはかばしくない戦果にその維持が難しくなろうとしていた。
フェニキア人の城塞都市テュロスが商人らしい計算高さでマケドニアとペルシャを天秤にかけていたのはそれほど責めるべきことではない。
そうした日和見の勢力は決してテュロスばかりではなかったし、中立を保つだけでもマケドニアには十分な利点があるはずであった。
地中海最大の海上兵力が中立化してくれるなら、マケドニアの海上兵站も負担を大幅に軽減できるであろうからだ。
にもかかわらずアレクサンドロスがテュロスを完全に屈服させようと決意したのは、純粋な戦略ばかりではなく彼らの主祭神メルカルトがヘラクレスと同一視されており、
マケドニア王家の始祖とされるヘラクレスを詣でようとしたのを無碍にも断られたことにあると言う。
俗説だと思っていたレオンナトスであるが、残念なことにそれは全くの事実であった。
イッソスにおけるパルメニオンの活躍やエウメネスとバルシネーの交流がどう影響したかは想像するしかないが、このころからアレクサンドロスは自分が神によって
特別視されるということをひどく重要視するようになる。
テュロスのヘラクレス参詣はまさにその第一歩であったと言えるだろう。
だがテュロスはアレクサンドロスの想像を超えて頑強な抵抗を貫いた。
海という天然の防壁を前にさしものマケドニア軍も大苦戦を強いられることになったのである。
アレクサンドロスは海上にそびえるテュロスの島まで突堤を築くことで陸上兵力の活用を図ろうと考えていた。
しかし工兵能力の高いマケドニア軍といえども戦闘行動中に作業をすることは困難を極めた。
事実マケドニア軍は数度に渡ってテュロス側の軍船によって、せっかく築いた突堤を崩壊させられ、また攻城塔を燃やされるという無様をさらしていた。
それでも攻城を継続できたのはアレクサンドロスの高いカリスマと、エウメネスとアンティゴノスがかろうじて後方連絡線を繋ぎとめていたからだ。
もしも後方を差配する武将がアンティゴノスでなく、兵站の構築と再配分をエウメネスが適切に処理できなければそれだけでマケドニアは敗北していたことであろう。
武将としての能力以上に、政治家としての能力に長けるアンティゴノスは早くもフリギュア一帯に強固な人脈を築き始めていた。
敵地を支配下に組み込む作業は今も昔も実際の戦い以上に困難なものだ。
それをこの短期間に成し遂げようとしているアンティゴノスはやはり古今稀に見る名将であった。
そのおかげで今のところはマケドニア軍も後方を気にすることなく攻城に専念していられるが、ここで万が一アンティゴノスが裏切ったらマケドニア軍は万事休する。
レオンナトスがダレイオス王であれば一も二もなくアンティゴノスを調略するはずであった。
少なくとも自立の気配があると風聞を流すくらいはしてしかるべきである。
なんならペルシャの後押しで仮にアンティゴノスをマケドニア王に就けたとしてもペルシャにとってはなんら惜しいところはないのだ。
怒号と喧騒のなかにマケドニア兵士の幾人かが燃える柱となって海中に飛び込んでいく。
転舵して逃げにかかるテュロス軍船に散発的に矢が射掛けられるがそれほどの成果があがったとも思えなかった。
燃えつきた攻城塔を再びくみ上げるのにどれほどの時間と犠牲を必要とするだろうか。
戦況はもはや劣悪であると言ってよかった。
とりわけテュロス側の士気が一向に衰えない現状ではマケドニアが勝利するのはひどく困難なものに思われるのは当然のことであった。
「……………………これも運なのかね」
そういって皮肉気に口をゆがめるだけの余裕があるのはレオンナトスが史実を知っているからだ。
もうじきアンティゴノスの卓越した占領行政によって着実に支配の手を広げていくマケドニア軍に恐れをなしたペルシャ側の海上勢力が寝返り始める。
寝返ったキプロスを初めとしてビブロス・アラドスなどの連合軍の派遣した軍船は実に約三百隻に達した。
この時点ですでにテュロスの敗北は確定したかのように思われていたのだが、実は彼らにはもうひとつの光明が残されていた。
マケドニアとの開戦前にカルタゴの使者が明言していった援軍が現れれば形勢が逆転するのは確実であるからだ。。
今はマケドニア側に寝返った海上勢力も、形勢が逆転すれば再びマケドニアを敵とする可能性は高い。
カルタゴの援軍を一日千秋の思いで待ち焦がれながら、テュロスは抵抗を続ける。
その歴史が終わる最後の日まで……………。
ぬるまった水で喉を潤しながらレオンナトスはひとりごちた。
もしフリュギアの総督が老練な名将アンティゴノスでなければ、
もしキプロスほかの海上勢力があと1年ほど日和見を続けていたとすれば、
もしカルタゴが総力をあげて援軍に駆けつけていたら、
歴史にIFはないが、マケドニア軍は異郷の土と化す運命を免れなかったであろう。
レオンナトスがアレクサンドロスを素直に評価できない理由がそこにある。
カルタゴに使者を送り外交手段によってその出撃を封じ込めていたというのならよい。
しかしそうでない以上カルタゴが出征しなかったのはただの偶然の結果というほかはなかった。
アレクサンドロスやその部下がキプロスやビブロスに調略の手を伸ばしたという情報も聞かなかった。
テュロスの攻防はレオンナトスの見るところただアレクサンドロスの不屈の闘志と強運によって勝利したものに思われたのである。
「…………こんなところにいたのかい?レオンナトス」
「エウメネスか………」
まるで機械のように的確に物資を配分しながら縦横に活躍するエウメネスを諸将の見る目は冷たい。
エウメネス自身はそれを当然のこととして受け止めているようだが、以前の闊達な空気は失われてしまっていた。
レオンナトスですらエウメネスと親しく口を聞くことに諸将の批判の目があることを自覚していた。
「不思議だな君は……………これだけ劣勢だというのにまるで悲観する様子がない」
「あまり都合の悪いことは考えないようにしているのさ」
やはり違う――――とレオンナトスは思う。
どうしてそんな気楽にいられるのか………意地悪そうに微笑んでレオンナトスの秘密を探ろうとするのがかつてのエウメネスの反応であったはずだ。
好奇心を抑えつけて寂しげに笑うエウメネスの変わりようが胸に痛い。
先日以来バルシネーはアレクサンドロスの愛妾として陣中に侍るようになっていた。
アレクサンドロスは嫉妬しているという卑小な自分を認めたくないからエウメネスに正面から当たるようなことはなかったが、それでも対応が冷たくなることは避けられなかった。
能力だけを求められる便利屋としてエウメネスはこきつかわれ続けていたが、その功績を評価しようとするものは少なくとも表面上には存在しない。
それでも何かに憑りつかれたかのようにエウメネスは働き続けていた。
レオンナトスにはそれがまるで罪びとの贖罪のように見えて仕方がなかった。
償うべき罪をエウメネスが犯したとは認めたくはなかったが。
「……………そういえばダレイオス王から陛下に遣いが参っていたようですが……………」
エウメネスの言葉にレオンナトスの記憶の一部がよみがえる。
そういえばテュロス攻防の途中でダレイオス王から和平の提案があったはずであった。
後にして思えばこのテュロス攻防とエジプト遠征時がペルシャにとってもっとも勝機の高い期間であったように思われる。
それでもここでダレイオスが和平に舵を切ったのはペルシャの軍制がマケドニアのそれに比べてひどく劣っていることを認めないわけにはいかなかったからだ。
国力というものを正しく知るダレイオスは同質の兵力がぶつかれば多数の軍が勝つことを知り尽くしていた。
ならばペルシャ軍の質をマケドニア並みに高めればよい。
そのためにはマケドニアにしばしの時間を与えることも許されるはずであった。
しかしそれはアレクサンドロスの果断さとカリスマや謀将アンティゴノスの手腕を正しく評価したものとは言えない。
どこまでいってもダレイオスの予測は秀才の常識から踏み出すことが出来ずにいたのである。
ほとんど現状のマケドニア支配地域を無条件に譲るに等しい望外の講和条件にアレクサンドロスの幕僚たちも騒然としていた。
テュロスを下す見通しは依然としてつかない。
戦傷者は増えるばかりであり、自慢の工兵にすら事欠く有様になりつつある。
補給事情は幾分か改善しているものの、やはり本国から遠く離れていることの不安感は拭えなかった。
しかもかつての貧しいマケドニアでは考えつかぬほどの莫大な財宝を彼らはすでに手に入れている。
ここで本国に凱旋してもなんら恥じるところはない、というのが諸将の偽らざる本音であった。
せっかく富と名誉を手に入れたからには生きて故郷に戻りたいと考えるのはむしろ人間の本能のようなものであったのである。
「今一度申してみよ…………」
そんななかでポツリと一言漏らされた老将の言葉はアレクサンドロスの心臓に深い楔を打ち込むには十分であった。
地の底を這うような低い声音でもう一度アレクサンドロスは吠えた。
「余はもう一度申せと言ったぞ!パルメニオン!」
表情に深い苦渋をにじませた老将は、野太い首を持ち上げてアレクサンドロスの眼光をものともせずに決然と答えた。
「お受けなさりませ陛下。この講和、フィリッポス様であれば必ずやお受けあそばされたでしょう」