もともと男にしては色の白いエウメネスの肌がほとんど血管が透けるかのように白くなっていくのがわかった。
表情を素直に表に出さないはずのエウメネスが驚愕と絶望に声もない。
そもそもここでアレクサンドロスにそんな暴露をされるということを想定できるほうがおかしいのだ。
…………否、想定はできた。
ヒエロニュモスはともかく史実を知るオレならば想定できてしかるべきだった。
しまった
しまった
しまった―――――!
頭を抱えてのたうちまわりたい衝動にかられてオレは己の迂闊さを呪った。
ヒエロニュモスからアンティゴノスの諜報活動が活発化していることは聞いていた。
そして何かしら王に吹き込んだらしいことも。
しかしまさかこんな手を打ってくるとは………!
これでようやくひとつ謎が解けたような気がする。
史実を見るかぎり、エウメネスはあまりにマケドニア将兵の人気が低すぎた。
彼の持つ軍政家と戦術指揮官としての能力はあのアンティゴノスやパルメニオンを凌駕するほどなのである。
それはディアドコイ戦争において彼が成し遂げた数々の武勲がそれを証明していた。
にもかかわらず、ネアルコスのような元異民族ですら受け入れたマケドニア軍がなぜかエウメネスにだけは頑なな嫌悪感を隠そうともしなかった。
彼の不人気は何もマケドニア軍の英雄クラテロスを戦場で討ったためのみでは決してないのである。
エウメネスは稀有な将帥であり、その才能と人格を認めていたものもいる。
アンティゴノスがその筆頭であったし、彼はエウメネスの才能を同時に敵として警戒もしていた。
事実史実のなかでエウメネスの命を奪う原因はアンティゴノスに敗れたことによるものだ。
さらにレオンナトスをはじめとしてネアルコス、ペルディッカス、プトレマイオスらもエウメネスと親交を結んでいた。
のちのディアドコイ戦争の主役たちに注目され、慕われてもいたエウエネスが異国人であるというだけの理由で排斥されるのはおかしすぎる。
マケドニアは高度な軍事国家だ。
そしてその気質は荒く、剣によって解決することを男の誇りと考えている節が見受けられる。
王権をめぐる暗殺も以前から横行していたが、それが毒殺であったことはない。
全て剣によって直接になされていることは特筆に値するであろう。
まるでそれがマケドニア人のアイデンティティーとでも言うかのようであった。
すなわちエウメネスの為したメムノンの毒殺は、マケドニア軍人にとって唾棄すべき卑怯者の行いにほかならなかった。
異国人
誇りを知らぬ卑怯者
何より大王の侮蔑を受けた者
いかにその能力を重宝されていようともエウメネスの冷遇は今この瞬間に宿命づけられたといってよい。
そしてその後の悲劇的な運命もまた――――。
すまないエウメネス。
オレは親友であるお前を助けてやれるなんの力もない…………。
「陛下がおっしゃったことは事実か?エウメネス」
吐くだけで息が凍りそうな冷たい声であった。
不可視のムチで打たれたかのようにエウメネスはビクリと肩を震わせる。
先ほどからこれまで一度たりとも見たことのないエウメネスの醜態が続いていた。
エウメネス、それほどまでにお前にとってバルシネーは大切な存在だったのか――――。
「………………事実です」
断腸の思いとともにエウメネスはバルシネーに告げる。
いつかは言わなければならないことだと思っていた。
それが言いだせなかったことこそがエウメネスの本心を何より雄弁に物語っていた。
知られたくなかった。
私が卑劣な人殺しであることを―――――。
パン、と乾いた音とともにエウメネスの頬が鳴った。
目にもとまらぬ速度でバルシネーの右手が振りぬかれていた。
瞬き一つせずにバルシネーの炯炯と輝く瞳はエウメネスを射抜いたまま動かない。
「私たちに同情でもしたか?」
「…………それもあったことは間違いありません」
そう正直に告げることがバルシネーの嚇怒を買うことはわかっている。
それでもこれ以上バルシネーに対して嘘を重ねることはエウメネスには出来なかった。
誰もがうらやむ才能を持ちながら、エウメネスの人としてもっとも根本的な部分はひどく不器用で愚直な人間なのだ。
再びエウメネスの頬が鳴った。
今度の一撃はさらに強力なものであった。
エウメネスの秀麗な唇から一筋の血が流れ落ちるほどに。
「…………………私を舐めるな!」
この気持ちをなんと表現すればよいのだろう。
失望か。
あるいは憤怒か。
メムノンは誇るべき男だった。
私にとって愛するに値する夫でもあった。
この男ならばいかなる困難をも乗り越えうる最強の称号を手にすることも可能ではないか、と思ったことさえある。
それが毒殺―――――。
いや、毒殺そのものに隔意はない。
勝ったものが強いのだ。
それが武力であれ策略であれ強いものは強いとバルシネーは考えていたし、メムノン自身もそう言ってはばからなかった。
ではなぜこれほどに狂おしく胸が痛いのだ?
当たり前ではないか、愛する夫を殺されたのだ。
――――いや、本当にそうか?
戦場で倒れるのは武人の運命だとメムノンと私は納得していたはずではなかったか?
確かにメムノンが死んでしまったのは胸がつぶれるほど哀しい。
それは間違いのないことだ。
だが、同時にやはりと思っていたのも確かであった。
メムノンは有能でバルシネーが知るなかでも最上級の男だが、功をあせり生き急いでいることをバルシネーは知っていた。
――――――私たちに同情しただと?
夫の仇に同情されて喜ぶほど私は安い女ではない!
否、
私は喜んでいたのではなかったか?
鋭い感性と未知の知識を持つエウメネスとの会話にいつのまにか心奪われていたのではなかったか?
惑乱する思考に戸惑いながらバルシネーはポツリと無意識に呟いた。
「絶対に許さぬ……………貴様は私の誇りを穢した」
無意識に呟かれた言葉だからこそ、その言葉はバルシネーの心情を何よりも雄弁に物語っていた。
すなわちメムノンを殺されたから憎いのではない。
それを自分に黙っていたこと、同情で近づかれたこと、何よりそうした男に自分の心を奪われてしまったことそのものが許せなかった。
理性ではなく感性によって、アレクサンドロスもまたそれを正しく理解していた。
それはバルシネーの美しい横顔に染みのように貼りついた不快な痕跡である。
不快だと思ってもなおアレクサンドロスはバルシネーをエウメネスから奪わずにはいられなかった。
エウメネスに譲ることなど思いもよらない。
バルシネーに対するアレクサンドロスの執着は間違いなく本物であった。
ただ、運命の女と信じた女性に消すことのできない汚点を刻まれてしまったようなそんな気持ちをアレクサンドロスはぬぐい去ることが出来ずにいた。
アレクサンドロスの事跡には多くの謎がある。
そのひとつが何故バルシネーを愛妾のままにしておいたかというものである。
後にアレクサンドロスの正妃となりアレクサンドロス4世を産むロクサネよりも、バルシネーの血統は王家に近く貴重なものだ。
しかもおそらくアレクサンドロスが初めて欲した女性はバルシネーであろうし、アレクサンドロスが初めて男になったのもバルシネーであろうということは歴史家の間では通説に近い。
にもかかわらず彼女が愛妾という不安定な立場に置かれたことは古くより謎とされてきたのである。
それはアレクサンドロスがバルシネーを真実愛したと同時に、彼女を嫌悪すべき理由が存在したことにほかならなかった。
「…………私は…………私はエウメネス様に感謝しております」
小さいながらもはっきりとした妹の声にバルシネーは耳を疑った。
この気弱な妹が姉と完全に相違する意見をいったのはこれが初めてのことであった。
そしてなじるような、憎むような妹の眼差しにバルシネーは困惑を隠せずにいた。
幼いころから共にいるのが当たり前だった。
人生をともにし、同じ価値観を共有することになんの疑いも抱いていなかった。
いつしかバルシネーは妹を自分から切り離すことのできぬ半身であると考えるようになっていた。
それなのになぜ、妹の瞳に明らかな憎悪の光があるというのか――――?
わからない
わからない
わからない
どうして、どうして私をそんな目で見るのアルトニス?
この男はあなたがあんなに慕っていたメムノンの仇なのよ?
「姉さまがエウメネス様を許せないならそれでも構わない………でもこれ以上エウメネス様にひどいことをしないで」
ようやくにしてバルシネーは妹の胸中にどんな変化があったのかを知った。
同時にバルシネーはこれまでの人生に一度たりとも感じたことの無かった暗い感情が胃の奥でドロドロととぐろを巻くのを感じた。
それがいったいなんという感情であるのか、初めての経験にバルシネーはそれを規定することが出来なかった。
わかっているのはその原因がエウメネスという青年にあるということ、ただそれだけであった。
「…………………興がそがれた」
対面したばかりの時の暗い声ではなく、心底疲れ果てたかのようなしわがれた声でアレクサンドロスは払うように右手を振った。
バルシネーとアルトニスの姉妹にとってもアレクサンドロスの言葉は救いであった。
このまま感情のままにぶつかりあえば姉妹の間に決定的な亀裂が入ったであろうことは明らかであったからだ。
それでも何かを言いたげなバルシネーにアレクサンドロスは二の句を継げることを許さなかった。
「エウメネスもアルトニス殿ももう下がってよい………………だがバルシネー殿は残られよ」
死人のように悄然とした表情のままエウメネスは静かに王の前を去った。
これまで王の寵臣であるとみなされてきた異国人の筆頭書記官が王の不興を買った。
マケドニア軍の将兵がエウメネスにとってこれまで以上に侮蔑と隔意を向けてくることは確実である。
私人としても公人としても、エウメネスの前途には越えることのできない深い渓谷が大きく口をあけて待ち構えていた。