アレクサンドロスは上機嫌であった。
自らを神話の英雄になぞらえる彼は異性に対する関心に薄かったが、それでもいつか運命上の出会いが訪れることを疑ってはいなかった。
なんとなればそれが英雄に生まれついたものの定めだからである。
自らの英雄たる運命を、アレクサンドロスは片時たりとも疑うことはなかった。
「―――――おもしろい」
正直ペルシャ王家の血筋というものをあなどっていたかもしれない。
そう思いなおすだけの気品と気高さと見るものを惹きつけずにはおかない魔力のようなものがバルシネーにはあった。
イッソスの戦いで捕虜となったダレイオスの家族が命惜しさのために恥も外聞もなく叩頭するのを見ているアレクサンドロスにとってバルシネーの纏う爽やかな空気は実に新鮮なものであった。
小柄な体格ながらまったくそれを感じさせないカリスマと奔放な闊達さにアレクサンドロスは自分に近い神から与えられた何かを見出していた。
―――――しかもこのタイミングでテュロス攻略の啓示を与えられた………これが運命でなくてなんだ?
ヘラオネスがもっとも美しくもっとも聡明でもっとも武技に秀でたと言ったときには話半分に聞いていたが、この分では手合わせしてみるのも面白いかもしれない。
女性が剣を取るなど無粋の極みだと思っていたが、自分だけが例外の対象となることをアレクサンドロスは何より好む性格であった。
――――――あるいはアテナを妻として侍らせるのも英雄の力量というものか。
姉には似ぬという美しい妹ともども、姉妹がアレクサンドロスの前に引き出されるのは明日と決まっていた。
もともとペルシャの地を支配するために王族の血をマケドニア王家に入れなければならないとは考えていた。
―――――やはり私は運命に愛されている。
絢爛な衣装を着てうやうやしく頭を垂れるバルシネーの姿を夢想してアレクサンドロスは莞爾と笑みを浮かべた。
こうしてアレクサンドロスが異性に対して執着を示すのは彼自身にも思い出すことが難しかった。
もともと異性に対する関心が薄かったこともあるが、母であるオリンピュアスが少年期のアレクサンドロスに女性が接近することを嫌ったというのがもっとも大きな原因であろう。
独占欲と虚栄心の塊である彼女はアレクサンドロスにとっての関心が自分以外に向くことを許容するつもりはなかった。
そのために実は何人かの哀れな女性は追放や処刑の憂き目を見ているのだが、その事実を知るのはオリンピュアスとその側近以外にはいない。
もしかするとこれがアレクサンドロスにとっての初恋なのかもしれなかった。
胸の奥が熱い。
知らず下腹部が隆起していることにアレクサンドロスは苦笑した。
性欲というものをどちらかといえば汚らわしいと考えていたアレクサンドロスであったが、どうやら雄としての本能は違う考えをもっているらしかった。
「お休み中まことに恐れながら、陛下に文が届いておりますが…………」
恐々と紡がれた男の声に夢想を断ち切られたアレクサンドロスは不機嫌さを隠そうともせず不幸な伝令の男を睨みつけた。
「誰からだ?」
「……………アンティゴノス様からにございます」
たとえ内心でどんな葛藤があったにせよ、バルシネーをはじめとする捕虜の保護と明日国王に引見するための差配はエウメネスの職務であった。
遠征に同行した文官の筆頭として、エウメネスはバルシネーたち姉妹をアレクサンドロスに失礼のないよう体裁を整える必要があったのである。
「しかしマケドニア風の衣装は慣れぬの…………まあ、贅沢を言える立場ではないが…………」
全くアレクサンドロスの存在を意に介していないバルシネーの様子にエウメネスは苦笑を禁じ得ない。
場合によっては処刑されてもおかしくない………あるいは奴隷に落されて男たちの慰みものにされる可能性すらある。
敵国の捕虜となるのはそういう意味のはずだ。
しかもその敵国の国王と直接会うというのにバルシネーが緊張すらしていないというのはおかしみすら感じさせる光景であった。
「陛下の前ではもう少し御控えくださいませよ」
「ん………?エウメネス殿は私をなんだと思っているのだ?いくら私でも一国の王に対する礼儀くらい心得ておる。そもそもレオンナトス殿を虐待しているエウメネス殿には
言われたくないぞ!?」
痛いところを衝かれてエウメネスは絶句した。
王族であるレオンナトスと異国人の文官にすぎぬエウメネスのやりとりを見ていれば誰もがそう思うことは明白であることは自覚していた。
もっともそれを変えることなど毛頭考えていないが、それを言うのは野暮というものであった。
「…………まあ、心配はありがたくいただいておくとしよう。しかしエウメネス殿、私は私の生き方を曲げられぬぞ」
たとえそれが王が相手であったとしても己の節は曲げられない。
そう、バルシネーはそういう人間であった。
あの日ヘラス傭兵と剣を交えていたときも、彼女はその信念のために戦っていた。
だからこそ―――――そんな彼女だからこそ陛下は―――――。
その先の結論を想像してエウメネスは軽く頭を振った。
もう考えても仕方のないことだ。
彼女はペルシャ王家ゆかりの人物であり、彼女を望んでいるのは敬愛する主君であるのだから――――。
「どうしたエウメネス殿?顔色が悪いようだが」
「いや、大したことはありません。それよりとても似合っておりますよ。ペルシャ風よりヘラス風のほうが馴染んでみえます」
まんざらでもなさそうにバルシネーは笑った。
これまで幾度となく男たちの賞賛を浴びてきたが、エウメネスの褒め言葉はそれらとはまた別の意味をもっているようであった。
いくらバルシネーでも明日王の前に引き出されるということがどんな意味を持っているのかはわかっている。
マケドニアの東方経営上から考えればバルシネーはアレクサンドロスの妃としてペルシャ占領の象徴とされる可能性が高かった。
昨日会ったあのアレクサンドロスならば夫とするのもそう悪い話ではない。
悪い話ではないのだが………。
―――――しかし直感によってこれまでの人生を生きてきたバルシネーは心密かに確信している。自分の人生にもっとも大きな影響を及ぼす男が目の前のエウメネスであろうことを。
「行かなくてよろしいのですか?」
つらそうに目を伏せて椅子に悄然と座ったアルトニスを見ているのが胸に痛い。
アルトニスの常識から言えば明日の二人に訪れる運命はペルシャの王族として処罰されるか、王の女として召しだされるかのいずれかしかない。
しかしオレはアルトニスが後年の集団結婚式においてエウメネスの妻となることを知っている。
すなわち王の愛妾となるのはバルシネー一人…………どんな理由があったのかはわからないが二人がともにアレクサンドロスに仕えるということはありえない。
―――――むしろそんなことになったらオレの命運が尽きる。
だが少なくともオレと未来を繋ぐ回路はいまだ健在であることを考えれば史実どおりに話が進む可能性は高かった。
問題なのはそれをアルトニスに伝える手段がない、ということであった。
「…………きっとアレクサンドロス陛下も姉をお気に入りになられるのでしょうね…………」
見せしめに処刑されるという可能性もないではないが、アルトニスは姉を見たアレクサンドロスがそれを選択するとは露ほどにも考えていなかった。
そしてまた一人、姉の虜になる男が生まれるのだ――――――。
この敗北感をなんと表現すればよいのだろうか。
レオンナトスは自分のほうが魅力的だと言ってくれたし、そのことに感謝もしている。
あるいはアルトニスのほうが好みという男は存外世の中には多いのかもしれない、だが…………。
―――――――意味がない、それでは何も意味がないのよ――――――
女の魅力など好きな男に通じなければなんら意味などないのだ。
エウメネスが、エウメネスさえ振り向いてくれるのなら、姉がどれほどアレクサンドロスに寵愛され権勢を極めても心から喜ぶことが出来るのに…………。
いつも妹を保護してくれた姉だった。
メムノンに嫁いだときも、姉とともに二人で夫を愛するということに何の疑いも持たなかった。
二人の人生は死ぬまで二人で共有できるものだと信じていた。
しかしそれはエウメネスに出会うまでのこと――――――。
…………姉さま、私は生まれて初めて貴女を憎みます…………
アレクサンドロスとの引見はささやかなものであった。
別にアレクサンドロスの正妃としてお披露目するわけでもない。
現在のところはただペルシャの大貴族である令嬢たちに王自ら会見する以上に意味はないのだ。
もちろん国によっては令嬢たちは王の慰み者となる場合もあるであろうが、ことアレクサンドロスにかぎってはそうなる可能性は限りなく低かった。
「バルシネー様・アルトニス様、王命により参上仕りました」
そう言って顔をあげたエウメネスは王の様子がひどく冷たいものであることに気づいた。
昨日引見の予定を報告したときには普段どおりの王であった。
いったい何があったのか知らないが、姉妹に引き合わせるにはあまりよい状態であるとも思えなかった。
「よくぞこられたご令嬢方。美しくも気高い貴女の来訪を得てこのアレクサンドロスまことに感に堪えぬ」
まるで地を這うような低い粘着質な声。
普段は明るく童顔とさえ言える顔立ちが、目を細めてあまり高いとは言えない身長で上目使いに見上げるその仕草にエウメネスは見覚えがあった。
―――――――それは嫉妬。
パルメニオンが、アンティゴノスが手柄を立てるたびにいまだ学業を修めるのに忙しかったアレクサンドロスは丁度こんな表情をして歯噛みしていた。
自分の関わりのないところで、勝利と賞賛が他人に奪われることがアレクサンドロスは何よりも嫌いであった。
偉大な勝利者にして英雄であるアレクサンドロスが誇り高く敗れた敗者を英雄として賞賛することは構わない。
しかし英雄的な勝利をあげた部下を英雄として賞賛することは許されなかった。
もっとも活躍し、もっとも偉大な英雄として賞賛されるべきは誓ってアレクサンドロスでなければならなかった。
史上もっとも偉大な英雄として生きる―――――それだけが今までもそしてこれからもアレクサンドロスの生きる意義であった。
だとすればいったい誰が…………なぜゆえにこれほどに嫉妬を揺り起こしたというのか?
不審に立ちすくむエウメネスの前で、立ち上がりバルシネーに手を差し伸べるアレクサンドロスの口から信じられぬ言葉が漏れるのをエウメネスがは驚愕とともに聞いた。
「だが――――――残念なことに余はご令嬢方にこう伝えなければならない…………貴女方の亡き夫メムノン殿を卑怯にも毒殺したマケドニアの恥さらしが、今そこにいるエウメネスであるということを」