ダマスカスに入城したマケドニア軍は次の戦いをテュロスに定めた。
テュロスはそれでもなおアレクサンドロスとの間に妥協点を探ろうとしたが、アレクサンドロスにとって必要なのはテュロスの服従なのであって決して対等の交渉相手として
認めることはありえなかったことに、いまだテュロスの高官は気づいていない。
地中海上でもっとも巨大な力を誇るフェニキア人――――太古の昔から海上に覇をなしてきた彼らを陸の覇王は陸の理をもって屈服させること心に誓っていた。
しかしこのテュロスへの侵攻に対する戦略的評価はそれほど高いものではない。
そもそもテュロスは中立、それもマケドニアに対して友好的な中立を表明していたのであり、無理に攻略する必然性は低かった。
ペルシャの影響力が低下すれば戦に訴えなくとも自ずと軍門に下ることは明らかであったのである。
後世にアレクサンドロスが戦略家として評価の低い所以であろう。
だがテュロスを中心とした地中海東岸の制海権を確保しつつ、併合から間がなくペルシャに対する忠誠心に欠けるエジプトの豊富な食糧資源を手に入れる。
マケドニア軍の戦略構想はそうした戦争経済の反映としてみるならば実に妥当なものと言えた。
問題なのは裁定者である王がプライドと見栄と好奇心によってそれを為そうとしている点にあるのであった。
しかしどんなに壮大な戦略構想であれ、ただの思いつきであれ、現実にそれを実行するためには様々な環境の整備が絶対に必要である。
わけても重要なのはハリカルナッソスやダマスカスという新たに王国領土に加えられた後方策源地をいまだ膨大な余力を残しているペルシャから防衛することであった。
精鋭の大部分をエジプト遠征に振り向ける以上、戦力としての信用に乏しい傭兵や絶対的に少数のマケドニア兵をもって粘り強く地道な防衛戦を戦わねばならないことは
誰の目にも明らかである。
エジプトという熟した甘い果実を貪ろうとする遠征軍とは違い、劣勢下で防衛線を戦う兵が士気を維持することは困難を極めるであろうことを予測することは容易かった。
こんな貧乏くじを引きたがる将のいるはずもない。
あえていえばパルメニオンにその任を任せることも考えられたがイッソスで見せた宿将の手腕を欠くのはあまりにリスクの高い選択であった。
アレクサンドロスもほとほと人選に悩んだすえ、結局マケドニア本国から切り札を招聘することを選択した。
戦略的柔軟性ではマケドニア王国内でも右に出るものはいないと言う。
すなわちパルメニオンと並ぶマケドニア王国軍の柱石、老将アンティゴノスをもって防衛の任にあてたのであった。
「………まあ、わしにとっては願ったり叶ったりというところじゃがな」
達成困難な任を当てられたにもかかわらずアンティゴノスは意気軒昂である。
すでに60歳を超える年齢からは想像もつかぬほど若々しい美丈夫ぶりは健在だった。
現在のマケドニア軍で美丈夫と謳われるのはまずもってヘファイスティオンであろうが、もう二十年前であればその地位がアンティゴノスのものであったことは疑いない。
重厚な威厳と子供のような闊達さが同居したアンティゴノスの見事な美貌は長くフィリッポスとの同性愛関係さえ噂されたほどなのだ。
隻眼を光らせてアンティゴノスは遥か南方にいるであろうマケドニア軍を一瞥する。
己の夢見るサーガにしか興味のないアレクサンドロスには理解できないのかもしれないが、駐留防衛指揮官の地位はアンティゴノスに言わせれば宝の山であった。
戦争に勝つことは確かに偉大ではあるが、勝った結果手に入るものにこそ戦争の本当の意味がある。
アンティゴノスはそう考えていた。
ダマスカスでは莫大な財宝を手にしたようだが、その財は大陸間貿易と地中海の海洋貿易こそが源泉であり、源泉を手中に治めた者こそが莫大な財の真の支配者になれるのだ。
目先の財宝に目が眩んでそんな自明の理にさえ気づけないマケドニアの将帥たちは愚かというほかはなかった。
戦って奪った土地は的確な占領行政なしには、決して自国のものとして戦力化することはできない。
土豪を掌握し、行政組織を整え、原住民との利害を調整してこの地をマケドニアではなくアンティゴノス・モノフタルモスにこそ心服させてみせる。
アレクサンドロスの人事は実のところ野心に満ちた虎を野に放ったに等しい行為であったのである。
「兵糧と武具の輜重隊のようです。おそらくはレオンナトス殿の差配かと」
副官のマキレオスが砂漠を渡ってくる一隊の集団を見つけて言った。
資材と兵糧あるかぎりいかようにもペルシャ兵などあしらってくれる、とレオンナトスに書簡を送ってからそれほどの時間は経っていない。
おそらくは言われる前から準備していたに違いなかった。
「…………相変わらず底を見せぬ男よ」
レオンナトスは少々計数に長けただけの凡才にしか見えぬ男ではあるがこういうところが実に如才ない。
エウメネスと並んでアンティゴノスが警戒する数少ない男でもある。
もっとも軍才のほうはからきしのようではあるが、エウメネスの才はそれを補ってあまりあるものだ。
あの二人に手を組まれた場合厄介極まる相手になることは確実だった。
あるいは最後に自分の前に立ち塞がる敵というのはあんなとぼけた取るに足らなそうな男なのかもしれなかった。
「…………なんと言われました?」
自分の声が苦渋にひび割れていることをエウメネスは正しく自覚していた。
その事実にエウメネス自身が誰よりも驚きを隠せずにいる。
パルメニオンはエウメネスの動揺を正確に洞察してはいたがあえて口には出さずに言を繰り返すにとどめた。
「皇女バルシネーを王の御前に召しだすことになったゆえ差配を頼む」
エウメネスとバルシネーがそれが男女の感情かは別にしても、深く繋がりあっていたことをパルメニオンはよく承知していた。
しかしそれがどんな理由があろうとも受け入れられる類のものでないことも、歴戦の宿将は知っていたのである。
ことはパルメニオンの配下にあったヘラオネスからアレクサンドロスへ進言があったことに始まる。
しかしもともと女性にさしたる興味のないアレクサンドロスはテュロス攻略のための準備に没頭して彼の言葉を思い出す余裕はなかった。
もしもテュロスに対する武力侵攻が始まれば、それは戦術レベルで見ればランドパワーによるシーパワーの蹂躙という世界史的にも珍しい戦いになるはずであった。
テュロスはそもそもメソポタミアと地中海を結ぶ結節点に建設された中近東で最も古い歴史を持つ交易都市である。
しかも彼らの都市はハリカルナッソスのような沿岸都市ではなく、海上の要塞化した小島に存在していた。
島は高いところでは海抜50mを超える高い城壁に囲まれており、大陸からはおよそ750mに及ぶ海峡によって隔絶されていたのである。
さらに島内には80隻ものガレー船が海上に睨みを利かせており、これを陥落させることが出来るのは同じ海上勢力だけであると長く信じられていた。
難攻不落をもって知られるこの都市をいったいどうやって陥落させるべきか、アレクサンドロスは寝ても覚めてもそのことを考えぬ日はなかったと言っていい。
「こらっ!猫は神の使いとも言われているのよ!」
鈴が鳴るような声が原住民の悪童を叱っていた。
剣幕に驚いたのか悪童たちはくもの子を散らすように逃げ去っていく。
一塵の風とともに美しい黒髪が風にたなびき小柄な肢体と意思の強そうな聡明な美貌が明らかとなった。
誰もいなくなった池の前で、呆れた様子で腰に手をやりながら女は首をかしげた。
どうやら悪童にいたずらされていた猫が池に放り込まれ中州で立ち往生しているらしかった。
すでに二十も半ばになるだろうか。
稀に見る佳人であることはアレクサンドロスも認めざるをえない。
何より生気がそのまま美しさになって溢れるようなたたずまいにアレクサンドロスは瞠目した。
彼女もまた、自分と同じく天によって選ばれた存在ではないか、という埒もない考えに人知れずアレクサンドロスは苦笑する。
「………待ってなさい。今助けてあげるからね」
見かけによらず力持ちであったらしい女は、池の中洲へ向かって石を投げ入れたかと思うと器用に石の上を辿って艶のある白と黒の毛並みの綺麗な子猫を救いだした。
甘えるように子猫が女の胸に額を摺り寄せる光景にアレクサンドロスは思わず微笑を零すが、その瞬間アレクサンドロスの脳裏に天啓が走る。
――――――彼女はいったい何をした?
もしもこれが拡大できるものならば………いや、マケドニアの誇る投石器や工兵部隊であればきっと…………そう、それは不可能ではない!
アレクサンドロスは自分がまさに神話の冒険のなかで、英雄の導き手たる女神に出会った場面を幻視した。
「……………失礼だが美しい貴女の名を聞かせてもらえぬだろうか…………」
驚いたようにアレクサンドロスを見つめた美女はいたずらっぽく瞳を笑わせて恥ずかしそうに頭を下げた。
「これはお恥ずかしいところを見られてしまいました。私の名はバルシネー、アルダバゾスの娘にしてメムノンの妻であった女にございますアレクサンドロス陛下…………」