柿崎城へ侵攻を開始した日から、まださほど時が経ったわけではない。
だが、俺は眼前の春日山の光景を、懐かしく感じている自分に気づき、小さく笑った。
梅雨が去って間もないこの時期、存分に水分を吸収した草木の成長は目を瞠るほどで、萌え出る芳醇な自然の息吹が、春日山の内外に満ち満ちているように感じられる。
そんな包み込むような暖かい空気の中、俺は春日山城に帰還した。
従うのは、弥太郎のほか、十名ばかり。いずれも、今回の戦から、俺の直属の部下となった者たちである。俺が春日山に帰還したことを知るのは、彼らをのぞけば、ほんの数名だけであった。ほとんどの晴景様方の諸将は、俺が北条城にいると思っているだろうし、当然、それは敵である景虎様陣営も同様であろう。
前触れもなく帰城した俺の姿を見て、留守居の者たちは、驚きのあまり、口をぽかんと開けてみせた。中には、慌てて逃げ支度を始める者もいる。前線で敵軍と戦っている大将が、ほとんど単身で駆け戻ってきたのだ。なにやら不測の事態が生じたと思われても仕方のないことであった。
俺は彼らに落ち着くように言い諭してから、晴景様の下に伺候しようと歩を進めかけた。
だが、その矢先、俺の帰還の報告を聞いた晴景様が、奥から姿を現し、開口一番、こうのたまったのである。
「退却の命令を下した覚えはないが――颯馬、ぬし、ここで何をしておるのじゃ。景虎めの首、持ち帰れと命じた筈じゃぞ」
近づく晴景様から、伽羅香の匂いが漂ってくる。晴景様の青白い顔とあいまって、おれは、城内の清新な初夏の空気が、たちまちのうちに物憂いものに染め替えられていく錯覚を覚えた。
そんな晴景様に、俺は跪いて独断で帰還したことの許しを請うた。
だが、決して目的もなく帰って来たわけではないことも申し添える。むしろ、これは俺の中では最後の仕上げに等しい。
春日山城への帰還は、景虎様を討ち、晴景様に勝利を捧げるための、最終幕なのである。
俺がそう言うと、晴景様は、目を瞠って、跪く俺の姿にじっと視線を注いできた。
やがて。
「無論、詳しく聞かせてくれるのであろうな?」
「御意にございます。しかし、この策は秘中の秘。できますれば、お人払いの上で、お話したいと存じます」
「……ふむ、よかろう。きやれ、私の部屋で話を聞こうぞ」
「御意……って、はッ?! 晴景様のお部屋ですかッ?!」
慌てる俺を見て、晴景様の目に、どこか楽しげな光が踊ったように見えた。
そして、晴景様はにこりと笑って口を開く。
「まさか、拒否はいたすまいなあ、颯馬?」
「……か、かしこまりましてございます」
その晴景様の笑みの圧力に押されるように、俺は頭を垂れた――
晴景様の私室に入った俺は、正直なところ、意外さを禁じえなかった。
さぞや豪奢な造りをしているのだろうとの予測とは正反対に、黄金玉箔の類も、高価な調度品も置かれていない部屋――質素と言っても良いくらいの佇まいであった。
唯一とも言える贅沢は、部屋の中央にある香炉から漂う伽羅香の薫りぐらいだろう。
部屋の中央に座した晴景様は、そんな俺の様子を見て、してやったりと言わんばかりの表情で楽しげに笑う。その顔を彩るのは、相変わらずの艶麗な化粧だが、その声はどこか童女のように澄んだ響きを帯びて、俺の耳に響いた。
その笑いが一段落すると、晴景様は表情を改め、口を開く。
「さて、颯馬よ。驚いたお主の顔も堪能できたことゆえ、本題に入ろうか」
その視線に、刃のように硬質な光を宿しながら、晴景様は言葉を続ける。
「ここならば、聞き耳をたてる者はおらぬ。景虎の耳に入ることもなかろうよ。そなたの秘策とやら、開陳せよ」
「御意。では――」
俺は命令どおり、これまで自分の胸の中にしまいこんできた策を晴景様に説明していく。
それは、正直なところ、策と言えるほどに煮詰まったものではなかったかもしれない。
会ったこともない景虎様の気性に、すべての成否がかかっているのだ。もし、景虎様が、俺の予測どおりに動かなかった場合。あるいは、おれの予測の上を行かれてしまった場合。この策は呆気なく粉砕されてしまうだろう。
だが、晴景様が俺の策を採ってくれるのならば、たとえ失敗したとしても、失われるのは俺一人の命だけ。それは、成功によってもたらされる果実の旨みを思えば、賭けるに値する代償であろう。
そんなことを考えながら、俺は策の全容を晴景様に説明し終えたのである。
◆◆
俺は、春日山城の最上層、天守の間で小さく笑った。
今回の策を話し終えた時の晴景様の顔を思い出したからである。
それは驚きと疑念が幾重にも絡まりあった、なんとも珍妙な表情だった。笑いを堪えるのに、腹筋を総動員しなければならなかったくらいに。ぽかんとした晴景様の顔は、思ったよりもずっと若く見えた。無論、御本人には口が裂けてもいえないことだったが。
それが、ほんの数日前のことである。
策戦の了承をもらった俺は、晴景様に、ただちに米山ないし北条城に出向くように申し上げた。グズグズしていては、景虎様に機先を制される恐れがあったからである。
だが、晴景様はその点に関しては、俺の言うことを聞いてくれなかった。
俺は安全上の理由にはじまり、策が成功した際の効果的な立ち回りなどから考えて、晴景様は米山の陣営におられるのが最善なのだと説いたのだが、結局、首を縦に振ってもらうことは出来ず、晴景様は春日山城を離れると、越後守護の上杉定実様の邸に出向かれてしまった。
守護職とはいえ、実権がない定実様だから、当然、固有の武力を持っている筈もなく、その邸の防備はきわめて薄い。俺が連れてきた弥太郎たちと、元々の警備兵だけでは、まとまった数の敵に襲われたらひとたまりもあるまい。
だが、結局、晴景様は我を通し、定実様の邸で、俺の策戦の成否を見定めることとなった。定実様自身は、野心的な方ではなく、先代為景様の傀儡たる立場に甘んじ、今代の晴景様の失政に対しても、諌めの言葉こそ発したが、それに乗じて実権を取り戻そうという動きはしなかった。それに、その奥方は晴景様、景虎様の異腹の姉君であり、晴景様たちとも縁が深い。それゆえ、定実様たちが、この期に乗じようとする危険は少ないであろうが、今は戦国の世。不穏な動きがどこで起こるとも限らないのである。
そういって、用心を説いた俺だったが、やはり晴景様を説得することは出来なかった。
これ以上、時間をかければ策自体に差し障りが生じる可能性が出てきたため、俺はいたし方なく、晴景様に弥太郎たちを護衛につけて、上杉邸まで送らせた。弥太郎は、俺と共に春日山城に残りたいと言ったのだが、そこはきっぱりと拒絶し、晴景様を守るように厳命する。
今回ばかりは、関川の時のような命令違反は許さない、と断言する俺に、弥太郎は力なく首を縦に振るしかなかったのである――涙目の美少女に見下ろされる、というのはなかなかにない経験だった。色々な意味で胸が痛んだが、ここは心を鬼にして、追い出すように弥太郎たちを上杉邸へと向かわせた。
そうして、晴景様と、弥太郎たちが密かに春日山城を出て、ほどなく。
春日山城に急使が駆け込んできた。
動転しきった様子の兵士は、報告を聞きに俺が姿を見せるや、叫ぶように告げたのである。
「頚城平野に、忽然と『毘』の旗印があらわれた」と。
わずかに城に残った家臣の口から、驚愕の声が漏れる。その旗印が誰のものであるか、その場にいる全員が一瞬で悟ったのである。
長尾景虎。
だが、頚城平野に、彼の人物が姿を現すには、米山の守りを突破しなければならない筈。だが、いまだその知らせは来ていないし、この短時日にあの堅陣を突き崩すのは、いかに軍神といえど不可能である。一体、どこから現れたのか。
だが、春日山城に真相を求めて、思い悩んでいる暇はなかった。頚城平野に姿を現した数百騎の景虎軍は、風を切って進軍を開始。まっすぐにこの城へ向けて突進してきているからであった……
――俺は、眼下の景虎様の軍勢を見据えながら、ここに到るまでの軌跡を思い起こし、もう何度目のことか、深いため息を吐いた。
すでに城中の人は、兵であれ、誰であれ、城外へと逃がしてある。新参の俺の説得に耳を貸さず、先代様のご恩に報じるため、あくまで城に残って戦おうとする者たちもいたが、そういう連中は、すでに景虎様の鋭鋒の前に突き崩されていた。
せめて、彼らの命だけは無事であるように、と願いながら、俺は城内に戻る。
事、ここに到り、為すべきことは、ただ待つことだけ。
そして、その先、策戦が成功しようと、失敗しようと、俺自身の命運は、すでに定まっているのである。
にも関わらず。
不思議と俺は落ち着いていた。恐怖も、後悔も、ないわけではなかったが、それ以上に、為すべきことを為したという充足感がある。
それは、あるいは自己満足に類するただの錯覚なのかもしれないが――それでも、最後に自分の心に残った想いが、胸を張れるものであったことに、俺は確かな喜びを感じていた。
そして。
階下から響いてくる幾つもの足音が、耳に飛び込んできた。
無人に等しい城内の様子に、困惑の声があがっているのが、ここまで聞こえてくる。
それらが、俺のいる天守の間に向かうまで、さほど長い時はかからなかった。
ふと空に視線を向ければ、いつのまにか黒々とした雨雲が、春日山を覆うように沸き起こりつつある。陽光が遮られ、春日山城に翳が差す。
そんな天候の変化に気をとられているうちに、敵軍は随分近づいていたらしい。足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
ただ、少し意外だったのは、こちらに向かって来る足音が、思いのほか静かであったことだ。先刻まで城内を荒々しく踏みしだいていた武者たちのそれとは一線を画する、落ち着いた足取り。
「――来られたか」
そんな俺の呟きに応じるように、その人物が視界に入ってきた。
◆◆
それは、景虎軍にとって、あまりにも容易い戦いだった。
米山の南、黒姫山を突破し、頚城平野へ。
無謀ともいえる、この山越えにあたったのは、厳選した騎兵五百。そして、見事山越えを成し遂げ、頚城平野にその姿を見せたのは、当初の半分にも満たない二百騎のみであった。
だが、この二百騎は、景虎軍の精髄ともいえる、精鋭中の精鋭である。
景虎の号令一下、一路、春日山城へと疾駆する彼らの勢いは、鬼神すらその身を避けるであろう凄まじさであった。その進路を遮ろうとした者たちは、ことごとくその馬蹄に踏みにじられ、慌てふためいて逃げ出す羽目になる。
破竹の勢い。
その言葉のままに春日山城に押し寄せた景虎軍は、ここでも圧倒的な強さを見せ、堅城として名高い春日山城の大手門を、その鋭鋒で突き破る。その勢いは、二の丸、三の丸でも続いた。
だが、このあたりで、一路、本丸へと突き進む景虎軍の将兵の顔に、疑問の色が浮かびはじめた。
春日山の軍勢のほとんどは、米山の守りにまわされている筈であり、この奇襲が成功したのは当然のことである。軍神長尾景虎率いる精鋭にかかれば、春日山城とて陥落させることは出来る筈であり、事実、今、自分たちはその勝利の中途までたどり着いた。
全ては策戦通り。勝利までは、あと一押し。その筈なのだが――
「……脆すぎる。いや、脆いというより、兵士自体、ほとんどいないのか?」
軍勢の先頭を駆ける景虎の横で、兼続が呟くように言った。
春日山勢が少ないことは予測していた通りであったが、それにしても少なすぎるように思われた。これでは、ほとんど無人に等しいのではないか。
兼続は疑問を覚えつつも、先頭をひた走る景虎に遅れまいと、馬の脚をさらに速める。
だが、本丸に入るや、兼続は疑問を確信に変えた。変えざるを得なかった。
「本丸まで、ほとんど無人とは……」
兼続の隣で、定満も、小さく首を傾げる。しかし、口に出した言葉は更なる進撃である。
「罠、だとは思うけど。でも、行くしかないね」
ここまで来て、姿さえ見えない罠に恐れをなして逃げ出すなど、武人の風上にもおけない所業である。そんなことをすれば、景虎の名誉は地に落ちる。
もとより、退くつもりのなかった景虎は、ためらう様子もなく城内に足を踏み入れていった。
兼続は慌てて景虎の先に立ち、罠や伏兵を警戒し、定満は景虎の背後を固める。
そうやって、本丸を制圧していく景虎たちであったが、やはり、状況は依然として変わらない。時折、晴景方の兵とおぼしき者たちが名乗りをあげて挑みかかってくるが、それも精々十に満たぬ数である。景虎たちの手にかかれば、斬り捨てるまでもなく、取り押さえることが可能であった。
だが、捕まった彼らは、頑として口を割ろうとせず、城内の様子が謎のままであることに変わりはない。
「……答えを見出すには、上まで行くしかないみたいだね」
定満の言葉に、景虎は小さく、しかしはっきりと頷いた。
上――春日山城天守の間。この戦いにおける最後の敵が、待っている筈の場所である。
そして。
景虎たちは、天守の間で、甲冑すら身に着けず、一人佇む者のところまでたどり着く。
交錯する両者の視線。
一方は予期した相手をそこに見出し。
一方は予期せぬ相手をそこに見出した。
越後の支配権を巡る争いは、今、佳境を迎えつつある。
口を開いたのは、この状況を現出した者であった。
◆◆
俺は、景虎様を遠目に見たことがある。
それゆえ、現れたのが景虎様であることは、すぐにわかった。
だが、たとえ今まで見たことがなかったとしても、一目でそれと分かったであろう。
その眼差しから溢れる、奔流のような戦意。手に握られている刀は、あの名刀小豆長光か。
俺と景虎様の間の距離など、景虎様にしてみれば、ないも同然であろう。景虎様がその気になった次の瞬間、俺は瞬く間に切り伏せられているに違いない。
敵意でもなく、殺意でもなく、ただ圧倒的なまでの戦意。
俺が刀を持っていないのは、正直、丸腰を誇示して、少しでも時間を稼ぐための姑息な策だったのだが、たとえ刀を持っていたとしても、一合と打ち合うことはかなうまい。そう感じざるを得ないだけの力量差が、俺と目の前の相手の間には存在するのである。
後方の二人とも、似たような格の差を感じはするが、目の前の相手は別格であり、そしてそんな人物が、越後国内に二人といよう筈もない。
俺は、自然と声を出していた。
「春日山城主、長尾晴景様が臣、天城颯馬と申します。栃尾城主、長尾景虎様とお見受けいたしますが、如何?」
俺の問いに、目の前の人物は小さく頷きを返してきた。
「いかにも。私が景虎だ。天城颯馬――なるほど、噂に違わぬ人物のようだな」
そう言って、景虎様は、いきなり刀を鞘に納めた。
景虎様の後方にいた女武将が、驚きの声をあげる。彼女に負けず劣らず、俺も驚いたが。
「正直、適すべくもないとはいえ、一応、俺――いえ、私は貴方様の敵なのですが、刀を納めるとは、どのような所存なのですか?」
俺の言葉に、景虎様はわずかに怪訝そうな表情をする。
「そなたは、噂に違わぬ人物だ、と言ったであろう。であれば、ここで刀を突きつける意味もあるまい」
「そもそも、噂とは何です? いや、失礼しました。成り上がりとか、晴景様の腰巾着とかいう噂ならば良く耳にするのですが、景虎様のところにまでそんな噂が流れているのですか?」
いささか情けなくなって、俺がそう言うと、景虎様はそんな俺を見て、かすかに頬をほころばせた。
「その噂は初めて耳にしたな。私が聞いたのは、そなたが春日山随一の忠臣であるということ。その政戦両略は侮れぬということ。この二つだけだ」
「……いや、それは、なんというか、お耳汚しを……」
思わず頭を抱える俺。全身を脱力感が襲う。
よりにもよって、景虎様の口から、忠臣だの、侮れぬなど言われると、羞恥心が刺激されてならない。どう考えても、過大評価だった。
思わず頭を抱える俺の姿を見て、景虎様はさきほどよりもはっきりと、顔を笑みの形に崩した。
どこか和やかな空気が流れたようにも思われたが、それは幻想。
景虎様はどうか知らないが、俺にとって、今こそが、この戦における最重要の局面なのである。
それを知ってか知らずか――否、おそらくは知りながら、それでも景虎様の口調には焦りの色は露ほどもない。山裾から湧き出した清流のように、清らかで床しい(ゆかしい)言葉が、俺の耳朶に触れてくる。
「忠臣たるそなたが、ここにいるのだ。姉上は、最早、春日山にはおられぬのだろう?」
「はい、私から進言し、春日山を離れていただきました」
そうか、と景虎様は呟く。
そして。
「であれば、私の行動は予測されていたのだろう。そなたの策からは、最早逃れられぬということだ」
「……気がついておられたのですか?」
「いや、悟ったのは、そなたの名を聞いた時――いや、ここにきて、そなたの姿を見た時、だな。いずれにせよ、手遅れになってからだ」
景虎様の言葉は、どこか感心したような響きさえ帯びて、おれの耳に響いた。
否。それどころか。
「何故、嬉しそうな顔をなさるのですか。俺は、貴方を殺そうとしているのに」
そう。
景虎様は、俺が仕掛けた罠が容易ならぬものであるとわかっているだろうに、嬉しげに微笑んでいるのである。それは、この場面ではあまりにも似つかわしくないものだった。
激昂した景虎様が、躍りかかってくることさえ予想していた俺にとってはなおさらだ。
「確かに、今は戦の最中であったな。すまない。だが、嬉しかったのは本当だ。そなたが噂どおりの人物であってくれたことが、私には嬉しい。姉上の配下に、そなたほどの武将がいてくれたことが、喜ばしくてならないのだ」
それは、姉である晴景様が、守護代として認められていたことを意味する。
そのことを、俺を見て確信したのだと微笑む景虎様の顔に、俺は不覚にも見とれてしまった。
それも仕方ないことだろう。ここまで、自分以外の誰かのために喜べる人など、俺は見たことがなかったからだ。それも、今まさに自分の命が危険にさらされている状況で。
なんという方なのか、この人は。
俺は、深いため息を吐いた。
今さら。
本当に今さらではあるが。
もし晴景様が、景虎様と和解し、姉妹が手を携えることが出来ていたのなら、越後統一など、簡単に成し遂げられていただろうに。
長尾家の姉妹の名は、越後どころか、北陸、関東、あるいは京をはるかにこえて、遠く九州の地まで鳴り響いていただろうに。
――だが、もう遅い。
お二人の争いは、最早、決着をつけるべき段階にまで来てしまっている。
決着とは、すなわちどちらかの死。そして、俺が仕えるのは、長尾晴景様である。
ゆえに。
「長尾、景虎様」
本当は、様付けするべきではなかった。
相手は、晴景様の妹君であるとはいえ、敵には違いないのである。
だが、そんな理屈は、今の俺にとって風の前の塵に等しい。胸奥から沸き出でる敬意を止めぬままに、俺は景虎様に告げる。
「お命、頂戴いたします」
俺の、その言葉が発されるのを、まるで待っていたかのように、階下から景虎様の部下の悲鳴じみた報告が轟いた。
「火、火です。城内の各所より、火がッ?!」
同時に、もうもうとたちこめる煙が、階下より出口を求めて、天守の間に押し寄せて来る。
天守の間は、たちまち騒然とし始めた。
◆◆
「おのれ、誰が城に火を放てと命じたか、粗忽者がッ!」
「誰も火を放った者はおりません。城に残っていた者たちもことごとく捕らえております。いぶかしいことですが、自然に火が出たとしか」
「馬鹿な、そんなことがあるものかッ!?」
「詮索は後にせいッ! まずは火を消すのだッ!」
「で、ですが、火のまわりが早すぎますッ! それに、火が出たのは一箇所や二箇所ではありませんぞッ! さらに階下からも煙があがってきております」
「いかん、このままでは逃げ道を失うぞッ?! 皆、早急に城外へ逃れるのじゃ」
「だ、駄目です、すでに到るところから火と煙がッ?!」
兼続が、うめくように口を開く。
「春日山城もろとも、私たちを葬るつもりか」
その言葉を聞いた天城は、あっさりと頷いて見せた。
「いかにも。城内の燭台に仕掛けを施しておいたのですが、うまくいったようですね。こればかりは、あらかじめ試してみるというわけにもいかなかったので、少しばかり心配でした」
「――このままでは、貴様とて逃れられぬのだぞ。自らも焼け死ぬつもりか?!」
「そうならざるをえないでしょう。私の命と、景虎様はじめ、越後屈指の勇将である皆様の命とでは、引き換えになどなりませんが、それは諦めていただきたい」
そういって苦笑する天城の姿に、兼続は慄然としたものを覚え、背筋を奮わせた。
わかったのだ。
春日山城が無人に等しかった理由。
天城が、一人で城内に残っていた理由。
そして、そんな天城を前にして、景虎が刀を納めた理由。
その全てが。
言葉を失った兼続にかわるように、定満が口を開いた。
「……別に、あなたがここに残る必要はなかった筈。どうして?」
晴景と共に逃げ、春日山城もろとも景虎を葬ればよかったではないか。そう問われた天城は、小さく肩をすくめた。
「私なりのけじめ、ですかね。命の恩には、命をかけて報いる。命を奪う敵には、命をかけて立ち向かう。自分がたてた策の結果を、安全な場所で、ただ見守るようなことはしたくなかった。それに――」
天城は、少しの間、景虎や兼続、定満の顔を見渡した。
「俺がここで奪うかもしれない可能性は、あまりに大きすぎる。遠くでその結果を待つ緊張感に耐え切れるとは思えなかったんです」
それゆえ、目の前で全てを確かめるためにここに残ったのだと告げる天城に、定満はどこか感心したように頷いた。
「『武人は剣で人を刺し、軍師は舌で人を刺す。策をたてる者、まずこれを銘記すべし』」
「……それは?」
天城が不思議そうに問いかける。
「遠く唐から伝わる書物の一節。颯馬は、それをすでに知っているんだね」
「は、はあ……」
今、まさに火刑によって景虎たちを葬ろうとしている筈の天城に対し、定満の様子は普段とほとんど変わらない。
無論、天城は普段の定満の様子など知る由もないが、その茫洋とした雰囲気は、とても殺し合いの只中にいるものとは思えなかったに違いない。
◆◆
そして。
「姉上への恩義に報いるために、命を賭して戦ってくれたのか」
景虎様はゆっくりと俺に向かって歩を進ませる。
刀は納めているとはいえ、景虎様ほどの腕前であれば、抜き打ちの一撃で、俺など簡単に屠れよう。
俺は覚悟を決め、ゆっくりと頷いた。
「では、そなたに言わねばならないことがある」
気がつけば、景虎様は、俺のすぐ前にまでやってきていた。
青を基調とした衣装と甲冑。幾人もの兵を斬り捨ててきたであろうに、血糊一つ見当たらない。
凛とした佇まいと、流れるような隙のない動作。
ただ眼前に立っているだけだというのに、思わず跪いてしまいそうな気格が感じられる。格が違う、というのは、正しくこのような時に使われるべきなのかも知れぬ。
香るような清冽さを総身に纏わせながら、景虎様は俺に向かって口を開いた。
「ありがとう。妹として、あなたの忠義の心に、心からの感謝を捧げます。あなたのような人が、姉上の傍にいてくれて、本当に良かった」
――その言葉に、俺は何と返せばよかったのだろう。
栃尾城主としてではなく、長尾晴景の妹として、俺に礼を言う景虎様の言葉に、俺は言葉を失ってしまう。
迫り来る煙と炎さえ、今の俺には遠い。
まさしく、役者が違う。こんな方に、俺が勝てる筈はなかった。
何よりも。
誰よりも。
「天が、許す筈がないよな。こんな方が、こんなところで倒れることを」
その俺の言葉に応じるように。
突如、凄まじい大音響が響き渡った。
春日山を切り裂くように、巨大な落雷が天と地を一瞬で駆け抜けたのである。
時ならぬ雷鳴は、戻り梅雨を告げる兆しであったのか。
間もなく、春日山から頚城平野へ、頚城平野から越後全土へ。大粒の雨が降り始めた。
風はほとんどなく、ただ滝のような雨が降り注ぐ。
雨はたちまち春日山城を覆いつくし、あふれ出る火の手を瞬く間に遮っていく。炎も煙も、自然の力の前には、ただただ無力。
降り注ぐ雨と、彼方の空に視線を向けた俺は、もう何度目のことか、深く息を吐いた。
だが、それは先行きを憂うため息ではない。この人たちの命を奪わずに済んだという、安堵の吐息であった。