颯馬、と静かな呼びかけに続き。
「わらわは断じてそなたと閨を共にしたりはせぬからなッ」
びしィ、と音が出そうな勢いで義光が俺に指を突きつけてくる。その眼差しは射るような鋭さを帯びて、まっすぐに俺を貫いていた。
驍将最上義光、必殺の眼光である。その威圧と恐怖は万人を竦ませるに足るものであったろう。
――ただし。
「義光様、無心に鮭をほおばりながら仰ることではありますまい」
「白寿、お行儀悪いですよ」
右手で忙しく鮭をつまみつつ、左手で俺を指差す義光に対し、俺が半眼でそれを指摘し、義守が、め、という感じで叱ると、その眼光もたちまち緩んでしまったのだが。
湯治場にたどりついてしばらく後、稜線に日が落ちて、周囲は瞬く間に暗闇に包まれていった。
あたりには家らしい家もなく、湯治場から漏れる明かりが夜の山中に建物を浮かび上がらせる。湯治場の中も決して灯火で満たされているわけではなく、最低限の明かりだけが灯されている状態であった。
……まあ率直に言って、ちょっと不気味である。管理する老夫婦への印象とあいまって、妙な想像をしてしまいそうになる。夜中に刃物を研ぐ音が聞こえてくる感じの。
もっとも、義守の部屋は中央の囲炉裏に火がくべられ、十分に暖が取れている状態になっていた。これは俺たちの到着前から準備していなければ出来ないことだから、あの夫婦が最上一族に対して心遣いをしていることは確かだろう。
一方、お供(俺)の部屋にはそういった気遣いは一切なく、掃除もおざなりな状態だった。別に障子の桟に指をすべらせたわけではないが、室内を見れば一目瞭然なのだ。
それやこれやが重なって、義光の不満が再び食事時に噴出したのであろうと思われた。
しかし、である。
「そもそも、仮にも一国の姫君である義光様と、他国の臣であるそれがしが閨を同じく出来るわけがありますまい。義守様と義光様はこの部屋で眠られればよろしいかと」
あの夫婦も、義守の言うことであれば特に文句を言ったりはしないだろう。こうして三人が一緒の部屋で食事していても、特に何も言ってこないしな。
そんな俺の説得力に満ちた台詞に、しかし、義光は嘲るような言葉を返してきた。
「ふん、そんなことを言いつつ、わらわのような化け物と同じ場所にいたくないだけではないのかえ?」
その言葉に義守が驚いたように箸を止める。そして、すぐに血相を変えて何事か口にしかけたが、その言葉が発されるより早く、俺はからからと笑い声をあげた。
義光の目がすぅっと細まった。
「何がおかしいのじゃ?」
「いや、失礼。しかし義光様と共にいたくないのでしたら、それがし、とうに越後に帰っておりますよ」
俺は昨日今日、出羽に入国したわけではない。それを知る義光は、むっと口を噤み、苛立たしげにそっぽを向く。
明らかに普段と様子の異なる義光の態度を見て、義守が不安げに口を開く。
「……白寿、さっきからどうしたの?」
「――別にどうもしていないぞえ。母者、わらわは先に湯につこうてくる。本当なら母者と共に入りたいのじゃが、この男が邪まな欲望に駆られる恐れがあるゆえ、母者が湯におる間は、わらわが見張っておらねばならぬでな」
義光はそういうと、義守の返事も待たずにさっさと席を立ってしまった。
「ご、ごめんなさい、兄様。白寿が失礼なことを言ってッ」
「お気になさらずに、あの程度の軽口はいつものことですよ。ただ、確かに義光様の様子が少しおかしいですね」
俺の言葉に、義守はこくりと頷いてみせる。
「兄様もそう思いますか?」
「はい」
先の夫婦の化け物発言で機嫌を損じた面はあるだろうが、それ以前に、そもそも今回の湯治に俺の同行を許したことからして腑に落ちなかったのだ。
義守以外の人間を嫌う義光が、家臣の随行を拒絶したのは理解できる。実際、義光の力をもってすれば、たとえ十人の賊に囲まれたところで楽に義守を守りきれるだろうし、だからこそ家臣たちは不承不承ながらも肯ったのであるが、ならば何故俺の同行は許したのか。
俺は最上家の家臣より義光と近しい位置にいる――そう思っている者は、最上家中に少なくない。実際、俺は結構義光と行動を共にしたりしているが、しかし、それは俺と義光との間に個人的な親しみが育まれているからではない。
義光からすれば、俺はよくいって召使とか下僕とか、その程度の存在でしかあるまい。主に鮭関係の。
実際、今回も俺の務めは鮭の持ち運びだったわけで、それゆえに同行を許したと考えればさして不自然ではないが、義守と二人きりでの湯治にあえて他者を同行させる必要はなかったはずなのだ。鮭など、あらかじめ運ばせておけば済む話なのだし。
正直なところ、今まではそこまで真剣に考えていたわけではなかったのだが、改めて振り返ってみると、諸事に義光らしからぬところが目につく。義守が心配するのも無理のないことだった。
だが。
俺はあえて楽観を声に包んで口を開く。
「まあ、たぶんそこまで深刻なことではないと思いますよ」
「そ、そうですか? でも、あんな白寿は初めてで……」
不安をぬぐえない様子の義守に、俺は床の一点を指し示す。
そこには綺麗に空になった膳が置かれていた。無論、立ち去った義光のものである。ちなみに料理したのは先刻の夫婦で、さすがに城で出るような夕餉には程遠かったが、持ち込んだ鮭自体が良いものであったこともあって、十分に美味かった。
「なんのかんのと言いつつ、しっかり鮭は食べているようですし」
あ、という感じで義守は目を丸くする。義光を案じるあまり、目の前の膳さえ目に入っていなかったらしい。
「好きなものを食べる元気があるのであれば、大抵のことは乗り越えられますよ。とくに義光様のような方であれば、ね」
「……そうだといいんですけど」
「義守様も、そう沈んだ顔をなされてばかりではいけませんよ。城の皆が今回のことを言い出したのは、あなた様に休んでいただくためでもあるんですから」
俺がそう口にすると、義守は困ったように首を傾げた。
「やっぱり、そうなんですか?」
「はい。定直殿などは本気で心配してらっしゃいましたよ。もちろん、義光様のことも決して口実ではありませんが」
「うー、爺から見れば、まだまだだとはわかってるつもりですけど、そんな心配されちゃうほど頼りないんでしょうか、わたし?」
不安げに此方を見上げる瞳を見て、俺は小さく肩をすくめた。
「俺から見ても、明らかに義守様は働きすぎでしたよ。まあその原因の一端を担った俺が言うのもおかしな話かもしれませんけど」
義守の過重労働は、明らかに庄内征服が原因だしなあ。
「そんなことはないです。いずれ、庄内には兵をいれる必要がありましたから。協力してくれた兄様と上杉様にはとても感謝しています」
「最上家の勢力が伸びれば、その分、越後の北部は安定します。それがしどもにも目的あってのこと、礼を仰る必要はありませんよ――と、まあ生臭い話はやめておきましょうか。せっかくの温泉ですし、義守様も入ってこられては? 義光様もお喜びになるでしょう」
「あ、そうですね。じゃあお言葉に甘えて――」
そこまでいって、義守ははたと口を噤んだ。その頬がちょっと赤らんでいる。
「どうされました?」
「……あの、兄様もご一緒に?」
「……はい?」
突然の問いに、俺はぽかんと口をあけるしかなかった。
ややあって我にかえった俺は、慌てて声を押し出す。
「もしやさきほどの義光様の言葉を真に受けてはいませんよね? こっそりのぞきに行ったりはしませんからご安心を」
「い、いえ、そういうことじゃなくて、ですね。あの、この前、髪を洗ってもらったのがとても気持ちよかったので、出来れば――」
「ぬ、そういうことなら喜んで――――と言いたいところですが、やめておきましょう」
その誘いに、劣情とは無縁に純粋に心が動きかけたが、俺はあやういところで思いとどまった。
このまま湯殿に赴けば、間違いなく今宵の湯は朱に染まる。主に俺の血で。
その旨を説明すると、義守も、ああそうか、という感じで了承した。
そして、自分がかなり大胆な提案をしたことにようやく気づいたらしい。もがみん様は首筋まで真っ赤にそめて、俺の前から駆け去ってしまわれましたとさ。
ともあれ、これでこの湯治場に来た折に感じた死亡フラグ的な嫌な予感は回避できたと見てよかろう。俺はそう思い、ほっと安堵の息を吐いた。
だが。
問題はその夜にやってきたのである。
◆◆◆
夜半。
不意に目が覚めたのは、刃物を研ぐ音が聞こえてきたから――ではなかった。
そうではなく声が聞こえてきたのだ。おいで、おいで、と。
「……大してかわらんな、おい」
思わず呟いてしまったが、事実は事実である。
俺は枕元に置いておいた刀に手をのばしかけたが、この狭い湯治場では刀はかえって邪魔になると判断し、鉄扇のみを携えて部屋を出た。
淡い月明かりだけが屋内を照らし出し、声はなおも俺を誘い続けている。
俺は特に恐れるでもなく、声がする方に歩き出す。足を踏み出すたびに床がしなる音が響き、たまーにめきめきと嫌な感触が伝わってくるので、慌てて足を引っ込めなければならなかった。
そうしてやってきたのが湯殿であった。
山奥の秘湯すなわち露天風呂である。男湯と女湯に分けられているはずもなく男女兼用であった為、先刻、義守と義光が部屋に戻った後に浸からせて貰ったが、いやあ出羽の雄大な山並みの中で風呂に入るとか贅沢すぎる。思わず長湯して倒れそうになってしまいましたよ。
朝になったら、義守たちと鉢合わせしないようにもう一度入ろう、と心に決めていたので、別にこの時間に入ったところで問題はない――ないのだが、先客がいるとなるとさすがに話はかわってくるだろう。
その女性、年の頃なら十七、八くらいだろうか。
長い睫毛に切れ長の双眸、すっと通った鼻梁、形の良い唇はわずかに開き、滴り落ちるような媚を含んで此方をうかがっている。
その身体を覆っているのはごく薄い白布のみで、息をのむほどに艶やかな女性の肢体が、立ち込める湯煙の中に浮かび上がっていた。
当然(というと怒られそうだが)義守でもなければ、義守と似ている義光でもない。
あえて俺の知己の中で、もっともこの女性に似ている人物を挙げるとするなら、松永久秀だろうか。仕草や表情から零れる気品と色気が、どこかあの人物と似通っているように思われた。
が、無論、この場にいるのは久秀ではありえない。畿内の戦乱がますます深まっている今、あの謀将がこんなところにいるわけはない。そもそも顔は全然似てないし。
女性が自分の近くに来るように手招きするので、素直に頷いた俺は服を脱いで言われるとおりにした。
一応断っておくと、進んでそうしたわけではない。体が勝手に動いたので仕方なかったのだ。
というわけでやむを得ぬ(ここ重要)理由で、見たこともない美女に背中を流してもらうことになった俺だが、そろそろ問いの一つくらいはしてみても良いだろう。
俺は相手に背を向けながら、素直に訊いてみることにした。
「――で、義光様。なにやってんですか?」
「………………ほ、ほほほ、何を仰っているのですか、お侍様。わ、わたしは藻女(みずくめ)と申すただの女子で……」
「もう一度訊きますが、なにやってんですか、義光様?」
「…………ちッ」
後ろから短い舌打ちの音が響くや、何やら怪しげな気配が渦巻き、それがおさまるや、どこかふてくされた義光の声が、俺の耳に飛び込んできた。
「……いつから気づいておったのじゃ? 耳も尾も隠しておったというに」
「いつからと言われれば、城を出る時から、と答えるしかありませんね」
「なに?」
「いや、義光様が俺を供に加えることに文句を言わなかったあたりで、多分、何かするつもりなんだろうなあ、と思っていたので」
「……ほほう。つまり颯馬、おぬしはわらわの芝居を、内心で嘲りながら見ておった、ということかえ?」
「義光様を嘲るなどとんでもない。それがしはただ、腹を抱えて笑うのを懸命に堪えていただけでござる」
「むしろそちらの方が腹立たしいわ、たわけッ!」
で、その後。
「……ふん、なるほど。母者が褒めるだけのことは……あ、あるのう」
「恐縮です」
俺は義光の髪を洗いながら、真面目くさって礼を言う。
義光の言葉からわかると思うが、義守の髪を洗った件は本人の口から義光に伝わっており、ならばわらわも、ということになったのである。自分から言い出しておきながら、当初はぶつくさ文句ばかり言っていた義光だったが、途中からは素直に俺の言うとおりに頭を傾けたりもしてくれた――いや、狐耳があるあたりを洗うコツが掴めなくて苦労したが、これでもう大丈夫。これがゲームならば『特技:狐耳の洗い方をマスターしました!』とか出たことであろう。
……これだけ汎用性に欠ける特技も珍しいなあ。
などと考えていた俺は、この際とばかりにかねてからの懸案――というか念願を口に出してみることにした。
「ところで義光様」
「……ふぅ、なんじゃ?」
「……こっちの尾の方も洗って良いですか?」
山形城にいる時から、あのふさふさ感(今は水で濡れているが)は、こう、俺の琴線に触れて仕方なかったのである。
さすがにいつもの義光に正面きって頼むことは出来なかったが、今こそ好機到来。
もっとも、義光の逆鱗に触れる可能性もあったので、少し及び腰であったことは否定しない。
すると、義光は不意に肩越しに振り返り、まじまじと俺を見つめた。
ちなみに、狐耳云々でわかるとおり、義光はとうにいつもの姿に戻っている。義守にそっくりな――それでいてどこか憂いを帯びた眼差しにじっと見つめられ、俺は口を噤まざるをえなかった。
髪を伝って、水が義光の頬をすべりおちていく。その様が、俺の目に不思議なほどになまめかしく映った。その俺の視界の中で、義光の口が小さく開かれる。
「……颯馬、おぬし、気味が悪いとは思わぬのか?」
「確かに、管理している方々といい、建物といい、この湯治場は少し不思議な場所ですね。まあ気味が悪い、というのは言い過ぎだとしても――」
「颯馬」
義光が強い口調で俺の言葉を遮った。
「――ごまかすでない。わらわのことじゃ。このような耳と尾を持った物の怪が、恐ろしゅうはないのか? 厭わしゅうはないのか?」
何かと思えば、と俺は苦笑して応じた。
「先刻も申し上げましたでしょうに。義光様が恐ろしく、厭わしいならば、とうに越後へ戻っている、と」
「それは上杉のため、母者のためであろうが」
「……ふむ。確かにそうとも申せますか」
俺は小さく頷いた。少なくとも、義光のために出羽にいるわけではない。それは確かであるが――
「ならば、証明いたしましょう。それがしが義光様をいささかも厭わしく思っておらぬことを」
そのふさふさの尻尾を洗うことでッ!
何の関係があるのじゃ、と柳眉を逆立てた義光に睨まれたが、俺はやってみればわかる、の一点張りで話を押し通した。
……いや、まあ正直に言うと、その場の勢いで突っ走ってしまっただけで、特に何か考えあって口にしたわけではない。
とはいえ、今になってそんなことを言い出した義光の内心も何となく察せられたので、ことさらごまかしを口にしたわけでもないのである。
そのあたりの心情が態度に現れたためか、義光は訝しげに俺を睨み、よくわからん奴じゃなとぶつぶつ言った後、ぷいと前を向いてしまった。好きにせよ、ということだろう。
そうして、俺は義光の尾を洗うことになったわけだが。
「――ええい、だから触るなというにッ」
「しかし、触らないと洗えませぬぞ」
「くすぐったいのじゃ、たわけ!」
「ふむ、ではこんな感じでいかがでしょう?」
「……む……ふむ、まあその力加減なら……」
「うーむ、髪に劣らぬしなやかさと艶やかさ。これは洗い甲斐がある。そういえばいつぞや尻尾が増えてましたけど、やっぱり九本くらいになるんですか?」
俺は大宝寺家を討った尾浦城の戦いを思い出して訊ねてみた。
「……ぬ? ま、まあその気になればの」
「ほほう。なんでしたら全部洗いましょうか? しまいっぱなしだと汚れますでしょう?」
「別に汚れたりしておらぬわッ! わらわの尾は洗う必要もないくらい艶々じゃッ!」
――などと義光と言い合いながらも、俺は休むことなく手を動かす。
うむ、これは髪を洗うのとはまた違う感覚。新たな世界が見えてくる――かもしれん。
「……颯馬」
「は、くすぐったかったですか?」
「九本、などというからには、とうに気づいておろう、わらわの正体に」
それは問いかけというよりは、ただの確認であった。
俺に背を向ける義光がどんな表情をしているかはわからなかったが、少なくともその声はいつもの義光のものである。
だから、俺も普通に返すことにした。
「それはまあ、見当くらいはつけていますが」
「であれば、何ゆえ動かぬ? 上杉は天道とやらを重んじておるのじゃろう。かつて一国を覆さんと欲した邪悪な妖狐を放って置く理由はなんじゃ?」
「それは確かにそのような物の怪がいれば討たずにはおかぬところですが――それがしの知己に邪悪な妖狐などおりませぬよ」
そこまで口にして、俺は小さく笑った。
「鮭が大好きな狐耳の少女なら、心当たりがないではありませんけれども、ね」
ぴく、と義光の肩が揺れる。
それを目の端でとらえながら、俺は内心で考える。
そもそも、人に恐れられたくないのならば耳も尾も隠せば良い。それが不可能でないことは、ついさっき俺がこの目で確認した。
しかし、そうした場合、何かのはずみで義守以外の最上家の人々に正体がばれてしまう可能性がある。義光はそれを恐れたのだろう。
恐れたといっても、義光に向けられる恐怖と嫌悪の目を、ではない、多分、義光はそんなものは歯牙にもかけないだろう。
恐ろしいのは義守に向けられる非難と、義光の排除を求める声である。義光をかばえばかばうほどに義守の立場は苦しくなっていく。正体が判明してから、いくら義光に害意はないと弁明しても多くの人は聞く耳をもとうとしないだろう。隠していた、という事実が説得力をなくしてしまうからである。
義守が自分の意思で義光を排除するなどありえないが、最上家の当主という立場が義守の望みを阻む可能性は少なからずあるだろう。義光は権謀術数の渦巻く宮中のことを良く知るゆえに、その可能性にも早々に思い至っていたのではないか。
これらの面倒ごとを避けるために一番良いのは、義光が義守の傍から離れることだ。しかし、そんなことは義光自身が耐えられない。
だから、義光ははじめから正体を隠さなかった。無論、それはそれで騒動の種になることは間違いないが、少なくとも隠し事をしているという弱みを握られることはない。
なによりも、過程はどうあれ、どうせ捨てられるのであれば早い方が傷は浅くて済む――義光はそう考えたのではないだろうか。
母の愛情に甘えたい。母に捨てられたくない。でも、万一の時のために心を守るものがほしい。
それらの答えが、多分、今の義光の姿なのだ、と俺には思われてならなかった。
――無論、すべては俺の勝手な推測であり、口外したことも、口外するつもりもなかったけれど。
それからしばらく後。
ただお湯の音だけが木霊する湯殿に、義光の低い声が響いた。
「……昔の話じゃ」
「は」
義光の声に、俺はしずかに相槌を打つ。
「一人の捨て子がおった。まあ捨て子といっても、実際は人間ではなく狐だったのじゃがな。その狐は人に追われておった。別に悪事を働いたわけではない。しかし、人間は自分たちに理解できぬものをやれ妖しだ、やれ鬼だと狩り立てるのが大好きじゃでな。狐はそんな人間どもに追い立てられ、死ぬ寸前じゃった。追っ手はなんとか振り切ったが、狐の姿を晒せば肉として食われるか、服として毛皮を剥がれるかのいずれかじゃ。残ったすべての力で人の姿を保っていたが、もう足は一歩も動かぬ。これでしまいか、と狐が思ったとき、その場に一組の夫婦が通りがかったのじゃ」
その夫婦は倒れている少女を見て、すぐに家につれて帰った。
懸命の手当ての末に、少女はなんとか命を拾い、少女は子供に恵まれない夫婦の子として育てられることとなった。
しかし、それから間もなく、ふとしたはずみで少女の正体が狐であることが夫婦にばれてしまう。
狐はまた追い立てられるのかと恐怖したが、夫婦はそんな狐に微笑みを向け、しっかりと抱きしめてこう言ったのだという。お前は私たちの子供だよ、と。
わずかに肩を震わせ、声をとぎらせていた義光が、不意に口を開いた。
「……颯馬、背を向けい」
「は?」
「背を向けろ、というておる。髪と尾の礼じゃ。わらわが背を流してやるぞえ。この姿となって以来、母者以外の人間にこんなことをしてやるなぞ初めてのこと、光栄に思うが良い」
そう言う義光に、俺は素直に従った。
多分、義光は今の自分の姿を後ろから観察されるのが嫌だったのだろう。そのことがわかったからである。