出羽国 山形城
庄内地方の雄 大宝寺義氏を討って領土を広げた最上義守は、しばらくは尾浦城に留まって政務を執ったが、状況が落ち着くのを見て、ほどなく山形城に引き上げた。
今回の庄内侵攻は形としては最上家の侵略に他ならないのだが、領民の抵抗が思ったより少なかったのは『悪屋形』とも称される義氏の乱脈な政治ぶりによるところが大きかったであろう。
義氏当人は決して暗愚な為人ではなかったが、四方の強敵と対等に渡り合うために、領民に重税を課し、城の改築に使役し、度重なる戦に徴発し――そういった数々の行動によって、領民の不満は蓄積していったのだろうと思われた。
一方の最上家の施政はといえば、こちらは当主最上義守、重臣氏家定直をはじめとして、徹底した富国豊民を貫いている。庄内の人々にとって、支配者が大宝寺から最上にかわったことに無論わだかまりはあるにせよ、生活の安定という一点では後者がはるかに勝る。あえて最上の支配に抗って、大宝寺を再興したところで、待っているのは塗炭の苦しみであると思えば、自然反抗の気持ちも薄らぐというものであった。
これは、これまでの義守の施政が正しく報われた一つの好例といえるだろう。
しかし、義守の施政がまったく問題がない、というわけではなかった。
愛民は煩わさるべきなり――孫子の言葉である。
兵を率いる者にとって、過度に領民を労わることは敗亡に繋がる一因となる、というような意味となるのだが、事実、かつての最上家は内治に優れた実績を積み上げながらも、防衛と外征に脆さを持ち、家職である羽州探題を勝手に他家に名乗られるほどに逼迫していた時期もあったのである。
武将として。あるいは領主として。
戦国の世にある以上、非情な決断を下さなければならない事態はいくらでもやってくる。
その時々において、最上義守はその心根の優しさゆえに、正しくも苛烈な選択肢を選ぶことが出来なかった。
それは人としては疑いようのない義守の美点であったが、戦国大名としては疑いようのない義守の欠点であったろう。
義守の愛民の心は最上家を支える確かな中心であったが、その一方で発展を妨げる一因ともなってしまっていたのである。
しかし。
ある時、そんな状況を一変させる人物が最上家に現れる。
羽州の狐、あるいは近年では出羽の驍将とも謳われる最上義光である。
この人物に関してはあまりに謎が多い。当主である義守は最上の一族であると内外に説明し、実際に二人の容姿は姉妹であるかのごとくに似ているのだが、これまでその名を知る者は最上家中にさえ一人としていなかったのである。
最上家の家臣はその素性をいぶかしんだが、当主である義守が無条件で受け容れている以上、家臣たる身が差し出口を叩くのもはばかられた。
また義光が、義守の内治の才を、すべて外征の才につぎ込んだかのように智勇に優れた武将であることが明らかになるにつれ、最上家の人々も自然とその存在を受け容れるようになっていったのである。
もっとも、当の義光は現れた当初から権高な為人を崩さず、家中の者たちなど眼中にないと言わんばかりの態度を貫いていたから、この周囲の態度の変化もどこ吹く風、という感じではあった。
その態度が当主である義守に及べば、最上家中は一丸となって、義光を追い出しにかかったであろうが、傲岸という言葉を具現化したようなこの少女、どういうものか義守に対してだけは従順であった。
「母狐を慕う子狐のよう」と義光の態度を形容したのは重臣筆頭の氏家定直であるが、事実、義守と義光の関係は姉妹ではなく母娘のそれであったろう。
そして、この母娘の存在が、最上家を更なる隆盛へと導く端緒となるのである。
◆◆◆
「――というわけで、温泉に行きましょう」
「………………は? あの、兄様、今のお話と温泉がどう繋がってるんですか??」
唖然とした様子で、顔中に疑問符を浮かべる義守に対し、俺はしごく真面目な顔で応じた。
「率直に申し上げますと、最近、義光様が不機嫌で怖いです」
「……えーと、まだちょっと温泉に繋がらないです……たしかに白寿はここのところご機嫌ななめですけど……?」
「義光様が不機嫌なのは、義守様と話す時間が少ないからです」
「……やっぱりそうですよね。わかってるんですけど、でも政(まつりごと)を滞らせるわけにはいかないし……」
うつむきつつ、はぅっと息を吐くもがみん。
庄内を征服したことで生じた種々の問題――誰に治めさせるのか、守備の兵はどうするのか、今年の年貢は免ずるべきか、といったことに対し、案を出すのは家臣や俺でも出来るが、決定を下すのは義守しかいない。
また最上家が領土を拡げたことで、国内の国人衆や隣国の動きも活発になってきている。ことに伊達家は明らかに今回の最上の行動に刺激を受けている様子で、すでに近隣に動員をかけたという噂まで流れてきていた。
もっとも、これは謀略の類だったようで、実際に伊達が兵を動かしている事実はなかったのだが、それでも奥州中の目が最上家に注がれているのは間違いない。
なまじ優れた内政の才能を持つゆえに、義守の目にはやるべきことが山積しているのがはっきりと見て取れてしまうのだろう。わずかな息抜きさえ許されない――みずからそう思い込んでしまうほどに。
「で、その煽りをくらって母君との会話がめっきり減ってしまった義光様がえらい不機嫌なので、ここはなんとかなだめて差し上げないといけません」
「だから温泉、ですか? でも、今は――」
「これは懇願でも請願でも満願でも祈願でも依願でも志願でも訴願でもなく、城中の人々の総意を受けた切願です。いえ、もうこうなったら行けという命令ととってもらっても結構。私たちの――ええい、もうおためごかしはやめましょう。私の心と身体を助けると思って、是非是非、温泉へ行ってくださいませッ」
そういって深々と頭を下げる俺。
正直、あの妖気ただよう義光をなだめつつ日々を過ごすとか、もう本気で勘弁していただきたい。というか最上家の方々、一番きつい役目を他家の俺に丸投げってどういうことよ。とくに「お主に任せるッ」とかいって仕事に逃げた重臣筆頭殿には言いたいことが山のようにある。まあ、あちらはあちらで大変だということはわかっているのだが。
越後といい、豊後といい、出羽といい、どうしてこう重臣筆頭にはいい性格をした人ばかりがそろうのか、まったく。
俺の真摯な願いにうたれたのか、単にいい年して涙を流しかねない俺の態度にドン引きしたのかは定かではなかったが、義守はなにやらあたふたしつつも、首を縦に振ってくれた。
よし、みっしょんこんぷりーと。
あとはこれを尻尾が七本くらいに増えてる義光に告げて、一刻も早く城から出ていって――もとい、旅立ってもらおう。場所は定直殿に決めてもらったし、供回りの人も選定してもらっている(これくらいはやってくれ、と強いた)。
義守、義光がいない山形城を守るのは定直殿で、俺はその下でこき使われることになるだろうが、今の義光の傍らで諸事に気を配ることに比べたら、どれだけ気楽な任務か知れない。
おれはそう思い、深々と安堵の息を吐くのだった。
◆◆◆
出羽国 高湯温泉(蔵王温泉)
「ええい、遅いわ、颯馬! はようせぬかッ」
「人にこれでもかとばかりに荷物を背負わせておいて、何を仰いますか!」
「だまりゃッ! とくにそちを選んでわらわと母者の供として連れて来てやったのじゃ、感謝して当然、文句を言うなぞなんと罰当たりな奴じゃ。荷物持ちくらい喜んで務めてみせよッ」
「それはまあ、ただの荷物持ちくらいなら文句を言ったりはしませんが、明らかに重過ぎるでしょう特に義光様の荷は?! いったい何を入れれば葛篭がこんなに重くなるんですかッ!」
「何といって、わらわの食膳に上る鮭を、これでもか、とつめこんでおいただけじゃぞ」
「……悲しいくらいに予想どおりの答えをありがとうございます……」
「ああ、それとわらわの指揮棒を二、三本、適当につめておいたわ」
「ちょっと待てぃッ?! もう完璧に嫌がらせですよね、それ?!」
「さて、なんのことかのう? 将たる者、いざという時に備えて兵糧と武具に意を用いるのは当然の心得ではないかえ? 定直もそう言うておったぞ」
俺の非難の声をどこ吹く風と聞き流し、笑い飛ばす義光。
その笑いには明らかな俺への意趣が感じられたが、その顔を見れば、先日までの不機嫌さは微塵も感じられない。温泉行きが決まるまでは、冗談抜きで前髪で表情が見えなかったからなあ……今、こちらに流し目をくれながら、口元に嘲笑をたたえる義光でも可愛く思えてしまうから困ったものだ。
険悪なんだか、じゃれているのだか、当事者たちにもよくわからない俺と義光のやりとり。
それに後ろから口を出してくる人物がいた。無論、義守のことなのだが――
「……は、白寿、に、に、兄様に、しつれいなことを、いっちゃだめ、でしょ……」
なんとも蚊の鳴くような声だった。
やたらと言葉が途切れているのは、そのつど、ぜえぜえはあはあと息継ぎをしているからである。
定直殿によれば、これから行く温泉は最上家累代の秘湯であるとのことだが、場所がかなり険しいところにあり(だからこそ他者が近寄らないのだろうが)馬が使えないのである。よって俺たちは途中から徒歩で山を登っているのだが、元々体力に乏しい義守にはかなりの苦行になっているようだった。
無論、俺も義光も手を貸そうとはしたのだが、義守は頑固に首を横に振るばかり。これを機に少しでも体力をつけたいとのことだった。みずからが武才に欠けていることは義守も十分に承知しているだろうが、それでも練磨を怠る理由にはならない、と考えているのだろう。義守は兵法の他にも弓や馬などの修練は欠かさなかった――成果のほどは別としても。
今回のことも、その延長なのだろうと思われた。
まあ、そこまでおおげなさに考える必要はないかもしれない。これまで義守は城内で政務に専念せざるを得なかった。だが、そんな生活を続けていれば、若いとはいえ身体が萎えてしまう。
こうして外に出た上は、身体を存分に使うのはむしろ望ましいことだろう。俺はそう考えて義守の奮闘を見守り、喜び浮かれる義光を適当にいなしていたのである。
……いつの間にか同行者に俺が含まれている理由については深く考えなかった。
そうして半刻あまり。
ようやっと到着した湯治場は実に玄妙なる佇まいを見せていた。
年月という名の風雪に耐え、今日まで続く歴史をしのばせる(口語的に言うとぼろっちい)建物を管理するのは一組の無口な老夫婦――だと思われる二人だった。
思われる、というのは、彼らは義守を見て一礼しただけで、俺には視線一つ向けなかったので、そこらへんが判然としなかったのである。声どころか顔すら見ていないので、あるいは兄妹なのかもしれない。
背を丸めて歩く姿から、二人ともそれなりにお年を召しておられると見受けるが、動作は機敏ではないにしても危うげがなく、義守に対しては確かな敬意を向けているのが感じられた。
「陰気な者どもじゃの」
年長者に対する敬意も何もない発言は、やはりというか義光のものであった。
義光は鼻をならし、聞こえよがしに言ったのだが、二人はぴくりとも反応しない。それを聞いて眉をつりあげたのは義守の方である。
「白寿ッ、失礼なことを言わないの! ……ごめんなさい、おじいさん、おばあさん」
義守は義光を叱った後、すぐにそう言って二人に詫びたが、当の二人はかすかに首を左右に振るのみで、義光の方を見ようともしない。それを見た義光が、相手にされていないと悟って柳眉を逆立てるが、その口が開かれるより早く部屋にたどり着いたのは幸いであった――と言いたいところなのだが、ついたらついたで別の問題が浮かび上がってしまった。
「なぜわらわが颯馬と同じ部屋で寝起きせねばならぬのじゃッ?!」
激怒する義光だが、これはまあ仕方ないだろう。義光でなくとも怒るところだ。
だがこの湯治場、客室は実質一部屋だけで、管理人が寝起きする部屋をのぞけば、後は物置同然の部屋が一つきりしかないのである。
ならば自分と母が同室になれば良い、という義光の主張は当然のものであったが、それに対してはじめて老夫婦の一人――男性の方が口を開いた。
「……この部屋は、最上様のご一族のために用意してある部屋です」
その声は低かったが、聞く者の耳に響く重みを持った声だった。耳を澄まさずとも、十分に聞き取れる。
「母者の娘たるわらわが、一族ではないとぬかすかッ」
「……最上様のご一族に物の怪がいるとは聞いておりませぬゆえ」
淡々とした指摘。
だが、それを耳にした瞬間、ふっと周囲の空気が冷えたような錯覚が俺を襲った。
「……ほう」
その冷気を発した主が、俺の傍らにいる少女であることは、誰の目にも明らかだった。
その目が、先刻、俺に向けていたものとは明らかに種類の異なる冷たい輝きに満たされる――ぞっとするような酷薄な色。
義光の手には、いつの間にか件の鉄の指揮棒がしっかと握られていた。
俺がその手を押さえるのと、義守が両者の間に割ってはいるのはほぼ同時だった。
義守は、俺が義光の手を押さえているのを確認するや、すぐに老人に向かって口を開く。
「あの、おじいさん、白寿は私の子です。れっきとした、最上の一族なんです。だから、そういう言い方はやめてください、お願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げる義守を、老人は奇妙に静かな面持ちで見つめていた。その後ろの妻も同様の眼差しである。それは侮蔑ではなかったが、納得でもない。それ以外の何かであった。
しばしの後。
老夫婦はゆっくりと頭を下げると、特に何を口にするでもなくその場を立ち去った。
後に残された俺と義守、そして今なお怒りさめやらぬ義光の間に、どこかきまずい沈黙が生じたのはいたし方のないことであったろう。
そして、俺がこの湯治に対して覚えたいやな予感も、たぶん気のせいではないに違いなかった。