出羽国尾浦城。
庄内地方を治める大宝寺家の居城。未だ夜は明けていなかったが、東に広がる奥羽の山嶺が、彼方から昇る陽光を映して黄金色に浮かび上がっており、まもなく尾浦城からも朝陽が望めるようになるだろう。
それは万人が認める事実だ、と城の主である大宝寺義氏は考える。
しかし。
朝陽が山並みの向こうから顔を出すであろうその刻限に至った時、この城がなお大宝寺家の居城であると保証できる者は、羽州広しといえど一人としていないだろう。なにしろ、大宝寺家の主である義氏さえ、それを保証できないのだから。
どこか呆然と彼方の山並みを眺めている義氏の元に、側近の一人が駆け込んでくる。鎧兜に身を包んだ屈強な体格の若者は、右腕に血止めの布を巻き、左の頬から今なお血を流し続けている。身に付けている甲冑につけられた刀傷の数は、わずかの時間では数えることさえ出来そうにない。
その姿は誰が見ても満身創痍であり――そして、主君直属の武士がそんな状態であるという一事が、現在の戦況のすべてを物語っていた。
「と、殿、最上勢が本丸に取り付きました! 敵勢の攻勢はすさまじく、無念ではありますが、これ以上の抗戦は……!」
夜闇を裂いて襲い掛かってきた敵の軍勢の勢いは凄まじく、大宝寺勢は防戦の準備をする暇さえ与えられず、斬りたてられていくだけだった。義氏の元に敵の旗印が伝えられたのは、二の丸が陥落する直前だった。つまりは敵の確認さえまともにできないほどに、大宝寺勢は混乱の極みに達していたのである。
「……やはり、敵将は『羽州の狐』めか?」
「御意。見かけは女童としか見えませぬが、身の丈ほどもある鉄棒を縦横無尽に振り回し、御味方が近づくことも出来ぬ有様にて……また義光麾下の将兵も銀の魚鱗札で一統された具足を身につけ、一糸乱れぬ統制のもとに我が軍を押しやっており、混乱した御味方は成す術なく退却するしかなく……」
無念そうに唇をかみ締める側近に対し、義氏はいたわりの言葉を向けることも出来ずに黙り込むしかなかった。
庄内地方は水運に恵まれた奥羽でも有数の豊沃の地である。くわえて日本海有数の港である酒田を支配するこの地を狙う者は枚挙に暇がない。最上をはじめとした出羽の諸豪族はもとより、隣国越後の本庄氏などは、何代にも渡って庄内の征服をもくろんできた。
近年、越後が上杉家によって統一されてからは、それまでのように露骨に野心を見せることはなくなったものの、だからといって警戒を緩められるほど戦国の世は甘くない。また、いつ上杉が庄内への野心をあらわにするとも知れない以上、越後への警戒を怠ることは出来なかった。
国の内外に敵を抱えた大宝寺家が、それでも他家の風下に立つことなく独立を保ってこられたのは、やはり庄内地方の豊かさゆえであった。義氏もそのことは理解しており、国内の勢力、とくに最上家の動きには注意を払っていたのである。
ことに義氏が気にかけたのが『最上八楯』の動向だった。
最上八楯は天童家、延沢家、楯岡家といった最上の分家で構成される国人衆たちである。
『最上』八楯という名前から、最上家の麾下であると誤解されそうだが、実際は出羽の国人衆たちが独自に盟約を結んだ武力集団であり、最上家に臣従しているわけではない。事実、その八楯の盟主にあたる天童家は反最上の最右翼といってよいほどに、最上宗家とは険悪な仲だった。
両者のいさかいは、かつて奥羽と越後を揺るがした『天文の大乱』にまで遡り、一朝一夕の和解は不可能と思われていたのだが――
ところが近年、最上家の当主である義守は、この難敵との和解を推し進めていた。家臣の危惧や他家の嘲笑など微塵も気にせず、義氏から見れば信じがたい粘り強さをもって宿敵との講和の道を探っており、最近では天童家の当主も義守の熱意と誠意に態度を軟化させつつあるとの噂も聞こえてきていた。
最上宗家と八楯の和解がなれば、名実ともに出羽最大の勢力となる。そうなれば、現在、八楯に備えて身動きのとれない最上軍の主力は後顧の憂いなく出羽統一に邁進できるようになる。最上軍に八楯の兵力が加われば、大宝寺をはじめとした他勢力に刃向かう術などあろうはずもなかった。
当然、他家はその動きを妨害すべく使者を縦横に動かしていたし、義氏も出来るかぎりの手は打っていた。その甲斐あってかどうか、天童家はいまだ最上家への敵対の立場を翻すには至っていない。
とはいえ、いつ天童家が方針を転換するとも知れず、また天童家以外の八楯の中には、すでに最上家に歩み寄っている家もあるとの噂もあった。
それゆえ、義氏は八楯へも監視の目を付けていたのである。万一にも最上家と八楯が結べば、互いに備える必要はなくなり、兵力に動きが出てくるだろう。
逆に言えば。
最上家と八楯の兵力配備に動きがなければ、これまでの状況が続くということでもある。義氏はそう考え、それは決して間違いではないはずだった。
しかし、現実は義氏の思惑とは異なる結果をもたらしている。
最上家と八楯、双方の兵力に大きな動きがあったという報告はない。最上家が大規模な徴兵を行ったという報告も。
であれば、最上家が尾浦城を陥とすほどの兵力を催すことは不可能であるはず。ならば、今まさに攻め寄せている最上軍はどこから沸いて出たのだろうか。
――義氏は気づかなかった。
そも、どうして最上軍は奇襲を行ったのか。敵を圧倒するだけの兵力があれば、そんな小細工は必要ないのである。
それはつまり、小細工を用いなければならないほど、最上軍の兵力は少なかったことを意味する。
現在、最上家で進められている軍制改革は、国内の国人衆に頼ることのない、最上家独自の兵団をつくりだすことを主眼としている。隣国上杉家の軍制を参考に築いている新たな最上軍は、しかし今のところまだ二百にも満たない数でしかなかった。これに越後のとある武将の軍を加えた、総勢四百名が尾浦城攻めの全兵力だったのである。
もし、義氏がそのことを知ることが出来ていたら、戦は異なる結果で終わったかもしれない。単純な兵力比でいえば、大宝寺家が勝っていたのだから。
しかし、突然の奇襲と、最上・上杉連合勢の精強さに押しまくられた大宝寺勢は最後まで敵の総数に気づくことなく敗退を余儀なくされる。
尾浦城が朝陽に照らし出された時、城門に翻っていたのは、鮮やかな桜色に染められた『二つ引両』の最上家の家紋であった。
◆◆◆
「ほれ、どうしたのじゃ、まだ戦えるであろう? もっとわらわと遊んでたもれ……」
「おのれ、妖狐めが……ッ」
尾浦城の一画。すでに大宝寺勢は総退却をはじめており、勝敗は決したといってよい。
しかし、その中にあって退くを潔しとしない少数の将兵が、最上勢に対して最後の抵抗を試みていた。
その数はおおよそ十人。対して、周囲を取り囲む最上軍はその十倍に達する。結末は誰が見ても明らかだったが、残った将兵とてもとより死は覚悟の上だった。
大宝寺家の禄を食んだ身として、主君が逃げきるだけの時を稼ぎ、その後は武士の誇りをもって戦い、散っていこう。そう考えていた彼らは、しかし、今その覚悟を覆すほどの恐怖に全身を掴み取られていた。
彼らの前には一人の少女が立っていた。その口元には明らかな嘲笑が浮かんでいる。
兵士たちの決死の覚悟を嘲り、死に花を咲かせようとする行いを嬲るような、歪んだ微笑。
これが敵将である最上義光であることは兵士たちも気づいていた。『羽州の狐』最上義光の存在を知らない者が奥羽にいるはずもない。
当然、彼らは死出の旅路を飾るには好き相手、と色めきたったのだが――
「どうしたのじゃ、さきほどまでの勢いがなくなったのう? 必死になればまだまだ戦えようぞ。そなたらの命など塵芥のごときものなれど、せめてわらわの一時の余興となる程度のこともできぬのか?」
そう嘲る義光の手には軍を指揮するための棒がある。当然ながら、刀や槍のような殺傷力があるはずもないが、義光は戦場において好んで棒を用いた。
無論、ただの棒ではない。鉄で覆った指揮棒は重量だけで言えば刀の二倍。大の男でさえ振り回すのに苦労するだろうこの鉄棒を、義光は苦も無く片手で扱っていた。
何故、刀や槍を用いないのか、という問いを受けた時、義光はいかにもつまらなそうにこう答えた。
――人間ごときの血で、わが身を汚されとうないだけじゃ。
敵味方の将兵が生死を賭してぶつかりあう戦場において、そんな台詞が許されるだけの力量を最上義光は有していた。
それを示すかのように、今も義光の前には五人をこえる兵士が蹲り、立つことさえ出来ずにうめき声をあげている。いずれも義光に斬りかかり、返り討ちにされたのである。あるものは脚を折られ、ある者は胸骨を砕かれ、そしてある者は鉄棒を口の中にねじ込まれた挙句、歯をへしおられた。
周囲の最上軍は手出しをしていない。すべて義光一人がなしたことだった。
「大口を叩いておきながらこの程度とは……ふん、つまらぬ奴らじゃの。敵の将を前にかかってくる気概もないのであれば、おとなしゅう逃げておればよいものを。まあ、もっとも……」
そう言いつつ、義光は敵のみならず、味方すら竦ませるような酷薄な笑みを浮かべた。
「あのような暴言を口にしおった貴様らを、いまさら逃がしなどせぬがなあ。容易く死ぬることができるとおもうでないぞ。殺生石の毒は鳥獣を撃ち殺すが、さて、人の身であればどれだけ保つのかのう……?」
義光が激怒しているのは、今や誰の目にも明らかだった。
大宝寺軍の兵士は――そして味方である最上軍の将兵も、義光の狐耳と尻尾は『羽州の狐』という異名にちなんだ装束だと考えていた。自らの存在を明らかにするために、奇抜な衣装をまとう傾き者のようなものだ、と。
だが――あれが衣装であるのなら、どうして風もないのに自然に揺れ動いているのだろう。帯電したように逆立ち、まるでそれ自体が意思を持っているように激しくうごめく尾は、その数さえ増やしていないだろうか? 数え上げれば、それは六、七、八……九。
「化け物め……ッ」
大宝寺の兵士の一人がうめくように呟く。そう口にすることが、最後の抵抗であるかのように。
事実、もはや兵士たちは傷の有無に関わらず、その場を一歩も動くことが出来なかった。ただ居竦んで、ゆっくりと近づいてくる死の化生を待つことしか彼らには出来なかったのである。
義光は血で染まったような紅い眼差しを倒れている兵士に向ける。すでに鉄棒の一撃をくらって脚をへし折られている兵士は、逃げることも、また目をそむけることも出来ない。いっそ気絶することが出来ればよかったのかもしれないが、兵士にはそんな逃避さえ許されなかった。
無造作に振り上げられた鉄棒は、一瞬の後には無造作に振り下ろされ、自分の身体を打ち据えるのだろう、と兵士は他人事のように考えていた。死に至る殴打は、決してすぐには終わらない。それは眼前の妖狐がはっきりと口にしたことである。
嬲り殺し。
おおよそ考え得る中で最悪の死が、自分の頭上に降りかかろうとした、まさにその寸前。
大宝寺の兵士は耳をつんざくような甲高い叫びを耳にする。
それは義光と瓜二つの容姿を持った少女の口から発された叫びだった。
◆◆
顔を真っ赤にして、めずらしく本気で怒っている様子の義守。
その義守を前に、これもめずらしく拗ねたようにそっぽを向いている義光。
どうしたもんかとその二人を遠巻きに取り囲む最上勢。
何が起こったのかと呆然と佇む(もしくは地面に転がっている)大宝寺の兵士たち。
その情景を前にして、俺は目を瞬かせて、こう呟いた。
「……何事だ、これ?」
なにやら妙に焦った様子の最上兵に「至急お越しくださいませッ!!」と言われ、戦後処理を周囲に押し付け――もとい、任せて駆けつけて見れば、母娘喧嘩の真っ最中。それも、めずらしく双方が険悪な様子を見せている。
いや、珍しいというより、ほとんどはじめて見る光景だった。
ほとんど、と付けたのは過去に一度だけ似たようなところを見たことがあったからだ。はじめて義守と逢ったとき「お兄ちゃんと呼んで」発言をした俺にむかって、義光が鉄棒を振りかざして襲い掛かってきたことがあった。その時にも、たしかこんな空気になったなあ。
「おう、天城殿。なにやら妙なことになっておるなあ」
横合いからやけにのんびりした声がかけられた。
そちらを向くと、いかにも好々爺といった感じの初老の男性が立っていた。
「これは氏家様。それがしも今参ったところなのですが、一体何事でしょうか」
「さて、もがみん様があれほどお怒りをあらわにされるのは実にめずらしい。よほどのことがあったのじゃろうが……」
最上家宿老、氏家定直殿はそう言いつつ、怪訝そうにもう一方の人物に目を向ける。
その心を察して、俺も疑問を口に出した。
「義光様が、義守様の言うことを素直に聞き入れないのも珍しいですね」
「うむ。そなたを成敗しようとした時以来ではないか」
「……ははは、あの時は無礼を申しました」
「いやなに、もがみん様の魅力にまいる者など珍しくもないでな。まあもっとも、いきなりお兄ちゃんと呼べ、などと口にした剛の者は貴殿くらいじゃが」
そう言ってからからと定直殿は哄笑した。いかにも人が好さそうな外見に笑い声。そして、実際に定直殿は外見に違わない為人であった。
無論、ただ人が好いだけの人物ではない。
定直殿は最上家の宿老であり、義守にとっては親代わりといって良い人物である。幼くして当主の座についた義守を影に日向に守り続け、現在の最上家の基を築き上げた功績は比類が無い。
当然、最上家における定直殿の信用は絶大であり、発言力もある。もっとも定直殿はよほどのことがない限り、政事や軍議で発言はしない。義守を立て、その発言と決定を忠実に実行することが自分の役割であると考えているのだろう。
同時に下手に自分が発言して、義守の影響力を殺ぐことを定直殿は危惧しているのだろうと思われた。
もっとも、何もかもを義守に委ねているというわけではない。必要とあれば、義守の考えに異議を差し挟むこともあった。
敵味方の将兵の前で、義守と義光が不和を示す今の状況は、どう控えめにみても良い影響をもたらさない。定直殿であれば、この場の収拾をつけることも出来ると思われるのだが、定直殿は当然のように俺にその役割を振ってきた。
「わしは義光様に嫌われておるでな」
「それはそれがしも同様です」
基本的に義光は人間嫌いなのだが、とくに義守の近くにいる人物を毛嫌いする傾向があるのだ。老若男女を問わず、である。
「老骨に争いごとは堪えるのじゃよ」
「ついさきほどまで、勇ましく先陣で指揮をとっておられたではありませんか」
長く続く出羽の動乱を生き抜いてきた宿将である定直殿は、実はけっこう熱血老人だった。
「これからはお前たちの時代だ」
「いきなり格好良い台詞を言って誤魔化そうとしても無駄です」
そんなことを言い合っている間にも、母娘の言い合いはとどまるところを知らなかった。
どうやら義光が過度に示した残忍さを、義守がとがめだてしているようだが……
「――これは、そろそろ止めた方が良さそうですね」
「うむ。将兵の方はわしがまとめておこう」
「お願いします」
短く相談をまとめると、俺と定直殿はそれぞれ違う方向に向けて歩きだす。
騒乱の渦中に足を踏み入れた俺の姿に、当然のように周囲が気づいた。いつもは敵愾心まじりの視線が、今に限ってはすがるように感じられるのは、多分気のせいではあるまい。
そんな俺の姿に、当の二人が気づくまで時間はかからなかった。
◆◆
「あ、に、兄様……」
目じりに今にもこぼれそうな雫を浮かべた義守の涙声を聞いた瞬間、背筋に電流はしる――が、今はそんな場合ではないので、鋼の意思でそれをねじふせ、二人の間に割り込んだ。
「……なんじゃ、朴念仁か」
「白寿! また兄様をそんな風に呼んで……!」
「ふん、母者はいつもそやつの味方じゃ。わらわが邪魔なら言うてくれい。すぐにここから立ち去るわ。それともわらわなぞ永久にいなくなった方が母者も安心できるかのう?」
「白寿ッ!!」
義守の本気の怒声。
しかし、いつもならば一も二もなく従う義光は、ふん、とばかりにそっぽを向く。
そんな義光に、義守は悲しげな視線を向けている。どうしてわかってくれないのだろう、という内心の嘆きが目に見えるようだった。
そんな二人を目の当たりにした俺は、知らず笑みを浮かべていた。
愛想笑いではない。無論、嘲ったわけでも、窮したわけでもない。自然にこぼれでた笑みだった。
そして、そんな俺を見咎めたのは、他者に笑われることが大嫌いな義光だった。
「……何をわろうておる、人間」
義光の背から、ゆらりと殺気が立ち上った――そんな光景を幻視した。それほどに、義光の声には濃厚な殺気が漂っており、返答次第では本気で俺の命を奪いに来るだろうと確信する。
この地に来たばかりの頃なら――と、一瞬夢想する。一言もなく震え上がり、それどころかこの場から逃げ去っていたかもしれない。
しかし、今の俺にしてみれば義光の殺気は可愛いものだった。なんとなれば、すねた子供の癇癪に以外の何物でもないと思えたから。
とはいえ、それをそのまま口にすれば本気で殺されかねん。さすがに最上義光と正面からやりあって勝てるとは考えていない。負けないように粘ることくらいは出来るかもしれんが、そんな必要もないだろう。
「いや、これは失礼しました。義光様があまりにも羨ましかったもので」
「……なに?」
俺の言葉に、義光が眉をひそめる。どんな言葉を予測していたにせよ、俺の言葉はその外にあったらしい。
義守の方も、俺の言葉の意味がわからずきょとんとしている。
「本気で怒れるのは、本気で想っているからこそ。母を亡くした私は、もう母を想うことも、仲違いして喧嘩することも出来ません。それが出来る義光殿が、本当に羨ましいです」
俺の言葉を聴いた義光は一瞬戸惑ったように眼差しを揺らしたが、こじれた感情はすぐに冷然とした感情を面に浮かび上がらせた。
俺に向けて、侮蔑まじりに何かを口にしようとした義光。
その機先を制して、俺はさらに言葉を続ける。
「最上家に参って、まださほどの時が経ったわけではありません。それでも、気づいたことはあります。たとえば、義光様は義守様以外になんら関心を持たれていないこととか」
「……ふん、何を当然のことを。母者以外の人間なぞどうなろうと知ったことか。最上の家だとて、母者にとって大切だから戦っているだけのこと、愛着など微塵もないわ」
その義光の言葉に、義守が悲しげな顔で口を開きかけたが、俺は目顔でそれを制する。幸い、義守は気づいてくれたようで、開きかけた口をとざした。
「そんな義光様が、実にめずらしく本気で怒っておられる。さきほども申し上げた。本気で怒るは、本気で想うゆえ、と。であれば、義光様が何ゆえにかような振る舞いをなされたのかも推測が出来まする――義守様のことを、悪く言われたのでしょう」
疑問符を付ける必要もない。推測、という言葉を使ったが、他に可能性はないと断言できる。
俺の言葉に、義光が言葉を詰まらせる。妖艶さを漂わせていても、このあたり、義光は結構子供っぽくてわかりやすい。そんなことを言ったら例の鉄棒のフルスイングを食らいそうなので、決して口にはしないけれども。
「では、そんな母親想いの義光様にお説教その一です」
「……なんじゃと?」
「出会って数月のそれがしごときが気づくのです。義守様が気づかぬとお考えか?」
「……ぬ?」
その指摘が予想外だったのか、義光の視線が義守に向けられる。
幼さの残る顔に浮かんだ表情は、俺の言葉の正否を義光に教えてくれるだろう。
多分、義光は母を想っての行動を母に制されたゆえにへそを曲げたのだろう。
しかし、実際は義守は義光の怒りにも、その理由にも気づいていたはずだ。
問題なのは人間嫌いの義光にとって至極まっとうな行動だったそれが、義守にとっては酷薄に過ぎたことであろう。
自分を想っての行動だとしても――否、そうであればなおさらに、義光にそんな酷いことをしてほしくなかった。だから、義守は声を高めて咎めたに違いない。
もっと言えば。
義光の着物を仕立てる時などもそうだが、義守が義光にもっと普通の女の子らしく過ごしてほしいと願っているのは明らかだった。だから、いくら母と呼んでくれる自分のためとはいえ、今回のように酷薄な考えが浮かんでしまう義光の為人を、義守は糺しかったのではないか。
最上義光は最上家の武威の源泉である。そうでなくとも、この戦国の世で、一国の将である義光に普通の女の子のようになってほしいという願いには無理がある。その程度のことは義守とてわかっていないはずはない。それでも、それを承知してなお義守がそう行動した理由は、ひとえに娘への愛情ゆえだろう。
その直ぐな愛情を向けられている当人が、それに気づかないはずはない。
事実、義光はいつの間にか常の義光に戻りつつある。さきほどまでは何故か複数に見えた尻尾も、元の数に戻っているところを見るに、義守の行動の理由に義光はようやく思い至ったようであった。
頭を冷やした義光は、急に落ちつかなげに身動ぎしはじめる。自分が母に対してとった態度を今更ながらに思い返し、うろたえている様子であった。
すると、それを見てとった定直殿らがこれ幸いと大宝寺軍の将兵を引き起こし、連れ出していった。機を見るに敏な最上軍である。
そんな周囲の様子など気にも留めず、義光は母の機嫌を窺うようにちらちらと視線を向けつつ、おそるおそる口を開く。
「は、母者……その……じゃな」
「……白寿」
対照的に義守は落ち着いた声だった。いや、落ち着いたというよりは感情を感じさせない凪のような声音だった。
普段怒らない人ほど本気で怒ったときは怖いというが、今の義守がそんな感じなのだろうか。
不穏な気配を感じ取った義光が、ほとんど涙目になって身体を縮こまらせている。
さすがに哀れに思った俺は助け舟を出そうと試みる。なに、義光ならともかく義守ならなだめることも出来るだろう――
「義守様、ここは――」
「兄様は黙っていてください」
「失礼いたしましたッ」
ごめんなさい、無理でした。というか、さっきの乱心義光に優るとも劣らない迫力である。さすがは最上家当主、その威厳は俺ごときが太刀打ちできるものではなかった。
「白寿」
一人でがくがくと震えている俺をよそに、ゆっくりと歩を進める義守。
義光は母の迫力に威圧されたのか、今や正座して叱責を待ち受けている。
そして、そんな義光の前に立った義守は、小さな右の拳を握り締め、
――義光の額をこつん、と打った。
打った、というよりはほとんど触れたような感じで、義光は何が起きたのかわからない様子で、目を瞬かせている。
そんな義光に対し、義守は両手に腰をあてて胸をそらせる。母親の威厳というやつを示したいのだと思われたが……いや、これ以上は言うまい。
「白寿、反省した?」
「う、うむ。反省したぞ、母者」
「じゃあ母様の言いたいことはわかったよね?」
「む、無論じゃ」
ならばよし、という感じで頷く義守。それを見て、目に見えてほっとする義光。
「なら、お説教その二はここで終わりにします。それと……」
「なな、なんじゃ、母者」
まだ何か叱責されることをしたか、と慌てる義光を、義守はふわりと両手を広げて包み込んだ。
「母様のために怒ってくれて、ありがとう。白寿は優しい子だね」
「……母者」
義守に抱きしめられた義光が、その胸の中でおずおずと母を見上げ、ぐすりと鼻をすする。
その光景に周囲からは感極まったような泣き声があがった。無論、それは一部始終を固唾を呑んで見守っていた最上家の皆さんのものである。
ふむ、これで――
「一件落着、じゃな」
その声は、いつのまにか俺の傍らに戻ってきていた定直殿のものだった。
「……まあいろいろと言いたいことはありますがね」
他家の臣に危険だけ押し付けて、まとめに顔を出す宿将ってどうなのよ、とか。
「でもまあ義守様と義光様の仲がこじれずに済んで良かったです」
この二人ならありえないとは思うが、天正最上の乱なんぞ起こしてはならないのだ。隣国の安定という意味でも、それ以外の意味でも。
尾浦城は陥ち、庄内地方に大きな楔を打つことは出来た。あとは大宝寺城などの支城を陥として、庄内の支配権を固めるだけだ。今回は他の国人衆を動かしていないので、基本的にすべて最上宗家の直轄領に出来るのである。
「しかし、半ばは天城殿の手勢、すなわち上杉の兵なのじゃが、本当に見返りは必要ないのか?」
「隣国の政情が安定することは上杉にとっても重要なのですよ。まして信頼のおける盟友を得られるならば、これ以上のものはございません。見返りというなら、領土や城などより、そちらの方がはるかに大きな見返りと申せましょう」
無論、上杉は単純な親切心だけで兵を出したのではない。
近畿、北陸における政情が混迷を極めている現在、上杉家は全力でそちらに対処しなければならない。そんな状況で最上という盟友を得ることの利益は口にするまでもないだろう。
そして最上家の存在は、近年、急激に勢力を広げている奥州の伊達政宗に対する備えにも繋がるのである。
露骨にいえば、最上家の存在は上杉の北の楯なのだ。
――まあ定直殿ほどの方であれば察しはついているだろう。あるいは先の伊達家の山形侵攻に際し、上杉家に援軍を求める使者を出したのは、そのあたりも計算に入れた上で上杉は断らないと判断したからかもしれない。
「――ともあれ、最上家が庄内を制したと知られれば、出羽の内外で大きな動きが起こるでしょう。羽州統一に向けて、いよいよ正念場というところでございましょう」
「うむ。まあ、もがみん様を当主に仰ぐことを定めた日から今日まで、わしにとっては毎日が正念場であったゆえ、さして何がかわるというわけでもないがのう」
俺と定直殿が、そんなことを小声で言い合っていると、不意に義守が不思議そうな声で義光に問いを向けた。
いわく、なんであれほどまでに激怒していたのか、と。
確かに戦場で敵将を嘲るなどめずらしくもないことである。義光自身はもちろん、義守に関する悪口を浴びせられたのが初めてであるとは思えない。
しかし、義光があそこまで深甚な怒りを示したのはかつてない。よほどひどいことを言われたのか、と義守は考えたのだろう。
義光は言いづらそうにしていたが、義守の無言の懇願に負けて結局口を開くことになった。
「……はじめはの、連中を皆殺しにしようと思っておったのじゃ。じゃが母者が以前、敵でも味方でも、人死には少ない方が良いと言っておったゆえ……降伏せよというてみた。するとあやつら、身の程知らずにもわらわを嘲り、わらわのような妖しも、それを操る売女の末路も知れたものじゃと。今日、勝っても明日には身ぐるみはがされ、母娘ともども磔にされるが関の山、精々一夜の勝利を寿いでいるが良いなどとぬかしおって……!」
――なるほど、それでか。
まあ大宝寺の兵にしてみれば、奇襲をくらって成す術もなく敗れた挙句、居丈高に降伏しろと呼びかけられれば、雑言の一つも吐きたくなるだろう。それはわからないでもない。
……わからないでもないのだが。やはりもう少し言葉を選ぶべきではあったかもしれない。特に可憐で可愛く、純朴で健気なもがみんに対して売女はないだろう、売女は。
俺はぽつりと呟いた。
「……こちらは数が少ないこともあって、追撃は控えようかと思っていましたが……ふむ。今後のことを考えれば、ここは徹底的に大宝寺軍を撃滅しておくべきかもしれません」
俺の呟きに、傍らの定直殿も頷いてみせる。
「うむ、ここは念には念を入れて殲滅しておくべき局面じゃろう」
「ですね。ここは必滅を期して、一気にたたみかけましょう」
「さようさよう、滅殺あるのみじゃ」
俺と定直殿、そしていつのまにか周囲に集まっていた最上の将兵は同時に踵を返すと、城の外に向かって歩き出す。
一糸乱れぬその行軍を、義守は戸惑いもあらわに見送っていた。
「あ、あれ……? 爺、兄様、それに皆さんもどこに?」
「母者が気にすることはなかろう、ほうっておけばそのうち帰ってこようぞ」
「そ、そうなの、白寿?」
「うむ、放っておけば良い。それより母者、もう少しこのままでいさせてたもれ……」
◆◆◆
この後、最上・上杉連合軍は大宝寺軍に対して猛追を行い多大なる戦果をあげる。一連の追撃戦で、大宝寺軍が失った兵力は、総兵力の七割に達する。
大宝寺家には、大宝寺城をはじめとした幾つかの支城が残されており、それぞれの城には留守居の将兵が残されていたが、何故だか猛り来るって攻め寄せてくる最上・上杉連合軍に対しては抗戦する術も気力もなく、次々に降伏を余儀なくされていく。
最上軍が庄内の大宝寺領全域を制圧するのは、尾浦城が陥落した、わずか十日後のことであった……