日はすでに没し、常であれば内城の内外は暗闇に包まれている頃合である。
しかし、今宵ばかりは夜の闇といえど、その勢力を拡げることは出来ずにいた。
盛んに焚かれた篝火は闇を払い、将兵が掲げる松明の灯りは、城門から続々とあふれ出て街道を埋め尽くす勢いである。
その数は千にも達し、彼らが気勢を上げながら城門から出陣していく様は勇壮の一語に尽きた。
その喊声を聞き、意気盛んな様を遠望すれば、島津家の士気の高さを疑う者はいないであろう。
――それは、この光景をいずこかで見ているであろう敵の斥候も同様である。俺はそう考えていた。
「問題は、そいつがきちんと闇夜の中で、松明の灯りから兵数を読み取れる程度に物見に慣れているかどうかだな」
「まあ、それは大丈夫じゃないかな。敵だって馬鹿じゃないんだし、こっちの本拠地を探るのに手は抜かないでしょ」
「そう期待するとしようか」
傍らのキクゴローと会話を交わしつつ、俺が足を向けたのは、今まさに出陣していく軍勢とはまったく反対の方向であった。
臆病風に吹かれて逃げ出した――わけでは、もちろんない。
その証拠に、俺が進む先には二人の姫が待っている。
「ばか颯馬、遅いですよ」
「お兄ちゃん、早く早く」
歳久と家久が、それぞれ異なる表現で俺を急かす。すでに二人は馬上の人となっており、その身を委ねるは島津家の厩舎から厳選された駿馬である。
出立の時をいまや遅しと待ち構えている人と馬に、俺は頭を下げると、地を蹴って馬の背に跨った。
たちまち馬上の人となった俺は改めて周囲を見渡す。
この場にいるのは俺と歳久、家久の二人のみ。俺たち以外の人影はない。その事実を確かめてから、俺は改めて危惧の念をあらわした。島津宗家の二人の姫が、護衛もなしに城外に出るというのは、やはりまずいのではなかろうか。
そんな俺に、歳久は嘆息して口を開く。
「まだ言っているのですか。そもそも、私と家久以上に腕の立つ護衛など、島津の家臣にも数えるほどしかいないでしょう。その一人は弘ねえですし、他の者も将としての役目があります。護衛などと役不足も甚だしいというものです」
「そうそう。私と歳ねえがいれば、曲者なんて恐るるに足らずだよ、お兄ちゃん。いざという時は、ちゃんとお兄ちゃんも守ってあげるから安心してね」
にこにこと微笑む家久に、俺は素直に頭を下げる。何せ、武芸において俺が二人に及ばないのは衆知の事実なのだ。意地を張ろうにも、この二人が相手では意味がない。
なので、素直にその言葉に甘えておこう。
「ありがと、家ちゃん、その時はよろしく」
「うん、まかせて♪」
頼もしい妹をもって、俺は幸せだ――などと感慨に耽っていると。
「……妹に守ってあげると言われて、なんで礼を言うのですか。少しは恥じなさい。そもそも、家久の言葉はあなたが私たちに言うべき台詞ではないのですか?」
苦々しさもあらわに苦言する歳久。
言われてみれば、なるほど、それも道理。ここは年長者として、良いところを見せるべきか。
俺は拳を振りかざして、きっぱりと宣言する。
「任せとけ、歳ちゃんと家ちゃんは、俺が我が身にかえても守ってみせるッ!」
反応は素早かった。ほとんど間髪いれずに歳久が俺の言葉を遮るように声を高めたのだ。
「歳ちゃん言うな! あと、前言は撤回します。あなたほど、今の台詞が似合わない人はいませんでした。私としたことが」
いつものごとく辛辣な歳久評だった。
自分で言ったくせに、などと俺がぶちぶち言おうとすると、それを察したのだろう、家久が一足先に口を開いた。
「ほら、歳ねえもお兄ちゃんも、これ以上のんびりしてると皆を待たせちゃうよ。それに、兄妹喧嘩で戦機を逃したなんて知ったら、お爺様が目を三角にして怒りだしちゃう」
家久が口にした、お爺様、の一言で無意識のうちに背筋を伸ばす俺と歳久。
「……そ、それもそうですね。家久、ついでにばか颯馬、早く行きますよ」
「……かしこまった。重ね重ねありがと、家ちゃん」
「どういたしまして。あたしもお爺様のお説教は遠慮したいからねー」
あはは、と笑う島津の末姫の言葉に、思わず同意してしまう俺と歳久であった。
◆◆
そのしばし後。
俺たちは当初の予定どおり南へと馬首を向けた。
言うまでもなく、大隈国との国境は正反対である。ついでに言えば、南へ向かったのは俺たちばかりではなかった。
今回の戦いで島津が用いたのは、策としてはさほど独創的なものではない。
敵の狙いどおり、北東の国境に大兵を繰り出したように見せかけることで、その実、南で蠢動する敵をおびき出して叩こうというのだ。
闇夜の中を出陣した兵士たちは、本来、一人につき一本もっている松明を両手に持っている。遠くから見れば、五百の兵が千にも見えることだろう。
これが小細工に過ぎないことは承知の上だ。闇に紛れてこそ敵の目を誤魔化せるのであり、夜が明ければ島津の兵力はたちまち敵に見破られてしまうだろう。
だが、それは別にかまわない。元々、敵にこちらの動きを知られるのを、わずかなりとも先に延ばすためだけの細工である。明日の朝まで隠しおおせれば、大成功と言ってよい。わざわざ募兵を手間取らせ、出陣を夜とした甲斐があったというものである。
これで敵の目を大隈との国境に逸らし、残りの五百は密かに南へ向かう。無論、南部で妄動する連中を制するためである。
とはいえ、ここで堂々と隊伍を組んで進軍しては、間違いなく敵に気付かれる。折角、敵の目を欺いたのだ。俺たちの動きを知られるのは、遅ければ遅いほど良い。
それゆえ、南へ向かった部隊は隊列を組んで南下したわけではなく、三々五々、将兵を城から送り出し、所定の地に集うように伝えただけであった。その他にはろくな決め事もなかったが、剛毅朴訥な薩摩の兵にとって、細かな指図はかえってその行動を妨げる原因となることが多いから、これで十分なのだ。
事実、集合を定めた地には、薩摩島津家の誇る五百の軍勢が勢ぞろいしていた。
将来、島津が勢力を拡げていけば、指揮系統を整備する必要も出てくるだろうが、それは後の課題である。
「物見によれば、頴娃勢はすでに城を出て内城に向かっているとのことです。私たちとぶつかるのは、おそらくこのあたりになるでしょう」
そういって歳久が地図の一点を指し示す。南薩摩に広がる峻険な山の一つ、内城と敵の居城からはほぼ等距離にある。
「うん、そうだね。敵の数は八百かー、思ったより多いね」
「それだけ、あちらも本気ということでしょう。幸い、まだこちらの動きは気付かれていない。予定どおり奇襲をかけますが、異論はありますか?」
歳久の問いかけに、家久が首を横に振った。
「家久は承知ということですね。ばか颯馬、あなたは?」
「ぬ、俺か?」
思わぬ問いかけに、俺は目を瞬いた。あの歳久が作戦行動に関して、俺の意見を聞いてくるとはめずらしいこともあるものである。
「問題ないと思うぞ。こっちの動きが掴まれていない以上、機先を制することが出来るのは確実だからな」
俺の言葉に、歳久はこくりと頷く。
「二人とも、承知ということですね。では、家久は半数を率いて山腹に潜んでください。敵の主力は素通りさせ、後方の荷駄隊が通ったところでこれを襲撃してもらいます。火を放って敵を撹乱してください」
「うん、了解だよ」
家久が元気良く頷く。
「私は同じく半数を率い、家久が放った火の手を合図に、敵の主力に奇襲をかけます。家久は荷駄隊を蹴散らしたら、そのまま山道を封鎖し、落ちてくる敵を足止めしてください。私は敵の本隊を打ち破った後、追撃をかけて、敵の残存部隊を家久と共に前後から挟撃します」
山道は狭く、兵を広く展開させることは難しい。敵の兵力はこちらのほぼ倍だが、山間ではその隊列も間延びせざるを得ず、そこを奇襲すれば勝利は容易いだろう。とはいえ、そんなことは敵もわかっているから、こちらが近くにいるとわかれば用心は欠かさないであろうが――
「そもそも、こっちの動きに気付いていないからな。この時点で七割くらい勝ってるようなもんだ」
「そうだねえ。で、颯馬は何をするの?」
「城で歳久が話しただろ……って、そうか、あの時、お前いなかったな」
軍議が退屈になったのか、気がついた時にはキクゴローの姿が消えていたことを思い出した。
「そういうこと。で、兵は歳久と家久が率いちゃうんでしょ。颯馬は一人で何するの?」
「近くの農民を集めて偽兵を仕立てろってさ。山の中で何十もの旗を立てれば、敵の動揺はいや増すだろ?」
「なるほど、だれでも出来る楽な仕事だね」
「うん、その通り。はっはっは」
俺が乾いた笑みを浮かべると、刺々しい声が耳を刺す。
「はっはっは、ではありません。万一、敵に私たちの奇襲が気付かれた場合には、偽兵の存在は敵の士気を挫く一手にもなるのです。油断しないように、かつ完璧にこなすのですよ、ばか颯馬」
「了解だ。まあ大舟に乗ったつもりでお任せあれ」
「泥舟でさえなければ、それ以上の期待はしてませんので安心してください。では家久、私たちは行きますよ」
「りょうかーい。じゃあお兄ちゃん、気をつけて。無事でまた逢おうねッ」
「おう、家ちゃんも気をつけてなー。歳久も怪我しないように」
「ばか颯馬に気遣われるほど堕ちてはいません。余計なお世話ですッ」
「はいはい、わかったわかった」
相変わらずの歳久に、俺が苦笑しながら答えると、あしらわれた、とでも思ったのか、歳久が頬を紅潮させてぷいっと顔を背けた。
「――ッ! ばか颯馬、戦が終わったらおぼえてなさい」
「承知。首を洗って待っていよう。だから、死ぬなよ?」
「当然です。私を誰だと思っているのですか。この程度の小競り合いで倒れる島津歳久ではありません」
そう言うと、歳久は馬首を巡らし、麾下の兵と共に山中に消えていった。それにわずかに遅れて家久とその部隊も姿を消す。
それを見送り、あたりを見回すと、残っているのはキクゴローのほか、二、三の兵のみ。皆、数少ない俺直属の臣である。
そのことを確認するや、俺は表情を改める。
さきほどまで緩んでいた頬を引き締め、口元を引き結ぶ。こうすると、キクゴロー曰く「びっくりするほど真面目に見える」らしい。
しかし、ただこれだけで真面目に見えるとか、歳久らと一緒にいるときの俺は他者にどんな風に見られてるんだろうか。いや、聞くまでもないんだけどな。
俺が埒もないことを考えてると。
「頭(かしら)、準備は整えてありますぜ。あたりの農民はすでに俺たちに協力を約しています。ただ、頂いた金子は使いきってしまいましたが……」
恐縮したような配下の言葉に、俺は頷いてみせる。
「構わない。そのために与えた金だ。お前たちは彼らと共に島津の旗を持って山中に隠れていてくれ。火の手を見たら、旗指物を掲げて気勢をあげるように」
それは要するに、俺が歳久から命じられた任務であった。
「承知しました。しかし、お前たちは、と仰いましたか。頭はどうするおつもりで?」
「あの二人に任せていても問題はないだろうけど、念には念を、だ。敵の様子を探ってくる」
「護衛は――っと、要らぬ問いでしたな」
そう言うと、男は懐から何やら取り出した。
「これは、このあたりの地形を記したものです。簡略なものですが、なにがしかの役には立つかと」
そういって渡された地図を俺は一瞥する。
言葉とは裏腹に、周囲の地形が詳細に記された精緻なものだ。おそらく周囲の農民を靡かせる間にも、自らの足で調べまわってくれたのだろう。
地の利を得ることこそ勝利の要諦。父の代から天城家に仕えているだけあって、このあたりの周到さは実にありがたい。
「助かる。では、後は任せた」
「ははッ」
配下の返答を聞くよりも早く、俺はすでに馬を駆けさせていた。歳久や家久の後に続けば、すぐに気付かれてしまう。二人と、二人の部隊に見咎められることなく、敵を指呼の間に捉えなければならない。
難儀なことではあるが、地図さえあれば不可能なことではあるまい。すでに先ほど地図を見たとき、ここと思しき場所には見当をつけている。
「万一ということもある。こんなところで、島津宗家の血を流すわけにはいかないからな」
「そんなことになれば、日新斎や先代に申し訳が立たないってわけ? その心がけを見せてあげれば、あの子たちも喜ぶだろうにねえ」
あの子たち、というのが島津の姉妹のことであることは明らかであった。
キクゴローの口から、この手の言葉を聞くのは何度目になることか。俺は肩をすくめて聞き流した。
「出来ないとわかってることを言うな、キクゴロー。天城は島津の臣にして影、その身命を懸けてただただ主家を守るべし。家訓に背くわけにはいかないし、俺自身、背こうとも思わないさ」
「別に颯馬が表に出たって、あの子たちを守ることはできるでしょ?」
「そうだな。けど、影であればこそ、出来ることはある。島津には敵も多いが、忠義に優れた家臣もたくさんいる。人、各々領分あり、だ」
俺がそう言うと、背中のキクゴローはそれ以上は口にせず、鼻をならして黙り込む。
苦笑してかぶりを振ってから、さらに馬の足を速める。
馬が地を蹴る音だけが周囲に響きわたる中、俺は一路、目的の場所を目指すのだった。