「も、申し上げますッ!」
進軍を続ける栃尾城の軍勢。その先頭を駆ける長尾景虎の眼前で、一人の斥候が息せき切ってあらわれるや、驚くべき報告をもたらした。
その報告を聞くや、景虎の後ろに控えていた本庄実乃が、思わず、といった様子で声を高めた。
「か、柿崎殿が討たれたとッ?! 弟の弥三郎殿ではなく、当主の和泉守殿がか?!」
「は、はいッ! 柿崎勢は、春日山の東、関川のほとりで春日山勢と激突。渡河の最中に、春日山がほどこした水計に巻き込まれたとのこと。柿崎殿はじめ、幾人もの名のある将たちが押し流され、川辺に屍を晒したとのことでございますッ!」
「……なんと」
実乃は絶句した。時に敵として、時に味方として。幾度も戦場で見えたことのある相手である。ことさら親しい間柄ではなかったとはいえ、その死を聞けば平静ではいられなかった。
しかし、実乃の主君である景虎は、小さく頷いたのみで、それ以上、柿崎の死について問おうとはしなかった。
景虎が問うたのは、別のことである。
「して、春日山勢は、戦に勝利した後、どのように動いたのだ? 春日山へ退いたか、柿崎へ討手を遣わしたか」
「は。降伏した柿崎勢を捕虜とし、春日山へ引き返したとのことです。」
「ふむ……」
兵士の報告を聞き、景虎は考えをまとめるように、一瞬、視線を空に向けた。
やがて、景虎は側近の直江兼続に呼びかける。
「兼続」
「はッ」
「進路を、柿崎城へ。敗兵を収容しつつ、柿崎城に入る。まだ応諾したわけでないとはいえ、柿崎は正式に臣従の礼をとってきた。討たれたとあらば、その後の混乱は収めねばなるまい」
「御意にございます」
次いで、景虎は本庄実乃に命じる。
「実乃は、このまま春日山へ。姉上の勝利を寿ぐと共に、栃尾は春日山に弓引くつもりがないことを説明してさしあげてくれ。我らが柿崎城に入るのも、自分の勢力を肥え太らせるためではない。姉上のお指図があれば、いつでも栃尾に引き上げる心算である、とな」」
「はッ、承知仕りました」
そして、最後に景虎は、一人残った宇佐美に問う眼差しを向けた。
「定満」
「うん?」
「……柿崎景家を討ち取ったとあれば、春日山に心を寄せる国人衆も出てこよう。さすれば、姉上のこと、柿崎を徹底的に叩こうとすると見るが、定満はどう考える?」
「……うん、多分、そうなるね」
景虎の軍略の師である定満は、小さく頷いた。表情が気遣わしげになっているのは、景虎の言わんとしていることを、すでに察した為か。
景虎は、晴景の指図に従う。今、実乃に言ったとおりに。だが、もし晴景が、力づくで柿崎家を従えようとした場合、当然、柿崎家は景虎を頼るであろう。
晴景の軍律は、とてもほめられたものではなく、残された家臣や領民がどのような目に遭うかを想像するのは難くない。そして、そうとわかって、柿崎家を見捨てられる景虎ではなかった。
柿崎景家は、その死後もなお、長尾の姉妹の仲を裂く要因となり続ける。そのことに、定満は、あの猛将の執念にも似たものを感じた。
そして、長尾景虎がどれだけ他者に仕えるには向かない為人なのかということを、改めて実感する。より正確に言えば、他者というよりは、長尾晴景のような人物に仕えるには、というべきか。
たとえ今回の柿崎の件が決着しようと、いずれまた、こういった事態は起きてしまうだろう。その度に、景虎は苦悩することになる。そのことに、宇佐美は、やりきれない思いを抱く。
景虎の生き方は、この乱世にあって、貫くには難いもの。されど、昂然と胸を張ってしかるべき誇り高い生き方でもある。また、景虎もそうして乱世を治めることを念願としているのだが。
現状は、そんな景虎の心を嘲笑うかのように、政略が入り乱れ、人として家臣として、貫き通す義さえ定かならぬ状況が続いている。
表情にこそ出さないが、苦悩する景虎の胸中を思って、定満は気遣わしげにまなじりを下げた。
「景虎様」
「う、む。どうした、定満?」
定満は、景虎の頭に手を寄せ、優しい手つきで、漆黒の髪を撫でる。幼い景虎に、かつてそうしていたように。
「む? さ、定満?」
戸惑ったような、だが同時にどこかほっとしたような顔で、景虎が定満を見る。
「ん。こうすれば、落ち着くかな、と思って。景虎様の苦しみは、この戦乱の世にあって、とても尊いもの。姉上様とのことは、お辛いとは思うけど、それでも、きっと報われる日は来る」
頑張れ、とは言えない。景虎はもう十分すぎるくらい頑張っているのだから。
しっかり、とも言えない。景虎はこれ以上ないくらいにしっかりやっているのだから。
言葉というのは、案外、不自由なものだ。だから、宇佐美は慈しむように、景虎の髪を撫で続けたのである。少しでも、景虎の心を癒せれば、そう思って。
「――ありがとう、定満。そなたの芳心、伝わってくる。心配ばかりかけて、すまないな」
「手のかかる子ほど、可愛いもの。気にしない」
その定満の言葉に、めずらしく景虎は破顔する。
「はは、定満にかかっては、私はまだやんちゃな女童のようだな」
そういって、しばしの間、景虎は笑い続けた。
やがて、その笑いがおさまったとき、景虎の顔は、先刻よりも少しだけ、重荷を下ろしたものになっていたかもしれない。
その景虎の口から、進発の号令が発せられ、栃尾長尾勢は、整然と行軍を再開するのだった。
柿崎城主、柿崎和泉守景家、討死。
その報は、越後の朝野を瞬く間に駆け抜ける。
突然の知らせ、また猛将と言えば、真っ先に名を挙げられる柿崎の敗死は、民と兵とを問わず、越後の民人に大きな驚きを与えた。
何より人々を驚かせたのが、柿崎を討ち取ったのが、春日山の守護代長尾晴景の軍勢であった、という事実である。
守護代とはいえ、春日山長尾家が、落日の時を迎えつつあるのは周知のこと。それゆえ、今回の召集令にも、ほとんどの国人が応じなかったのである。
にも関わらず、晴景は自身の手勢だけで、柿崎景家を打ち破った。それも、音に聞こえた柿崎の黒備えが全滅の憂き目を見るほどの大敗である。
春日山に見切りをつけていた国人衆の多くが、その知らせに戦慄する。彼らは、慌てて春日山に使者を出し、勝利を祝うと共に、召集の遅参を詫びる言葉を並べ、自身が春日山に忠勤を誓う者であることを述べ立てたのである。
当然、申し開きには欠かせない金品宝物の類をこれでもか、と持参した上でのことで、連日、そんな使者たちに相次いで美辞麗句を浴びせられた越後守護代、長尾晴景の自尊心は、久方ぶりの充足を味わっているところであった。
だが。
一時は消沈の底をさまよっていた晴景の自尊心は、日々、浴びせられる甘言の数々に、急速に肥大化させられてしまったらしい。
一日、晴景の口から語られた言葉に、柿崎撃破の功臣、天城颯馬は、唖然とすることになる。
◆◆
「……な、何と仰いましたか、晴景様?」
「む、颯馬よ。主君の言葉を聞き逃すとは、臣下にあるまじき失態ぞ。二度といわぬから良くきけい――これより、我が軍の総力を挙げて、栃尾の景虎を追討するのじゃッ!」
昂然と胸を張って、そう宣言する晴景様。その目は爛々と輝き、それが酒による妄言ではないことを、はっきりと示している。
だが、だからこそ余計に性質が悪い。
はっきりと最悪の展開を明示され、思わず俺は呻き声をあげていた。
どうして、このような事態に至ってしまったのか。
その端緒となったのは、柿崎城である。
当主である景家を失った柿崎城は、自失から回復すると、すぐに次の問題につきあたった。景家の後継者を誰にするか、という問題である。
柿崎は精力の旺盛な男だったらしく、その子供は両手にあまる数であり、また弟の弥三郎を担ぐ者たちも、家内では強い力を持っていた。
景家はいまだ若く、自分が死ぬことなど考えもしていなかったのであろう。当然のように後継者について明示していなかった為、その死後、家中が混乱するのはむしろ当然であったかもしれない。
だが、この混乱は大火に発展する前に、景虎様によって押さえつけられる。
栃尾勢を率いた景虎様は、敗兵を収容しつつ柿崎城に入ると、ただちに不穏な動きを見せていた者たちを拘禁してしまう。この電光石火の行動に機先を制され、柿崎城は瞬く間に景虎様の治下に入ったのである。
時を同じくして、景虎様は側近の一人である本庄実乃を春日山に遣わして、今回の勝利を祝い、また栃尾が春日山に対して弓を引く心算がないことを繰り返し申し述べた。
はじめは疑わしげに実乃の話を聞いていた晴景様だったが、話が柿崎城のことに及び、その仕置きを晴景様に委ねることを景虎様が願っている、との言葉を聞き、満足そうに頷いて見せた。
この時まで、お二人の仲は良い方向に向かっていたのである。少なくとも俺はそう考え、安堵の息を吐いていた。
だが、つい先刻。
柿崎城の受け取りに出向いた晴景様の軍勢が、なんと景虎様の軍勢に急襲され、敗北するという事態が発生する。
この報に接した時、俺は、春日山城で、今後の越後国内の動きをどう始末するべきかを話し合っていた。ちなみに、軍議の席には、柿崎撃破後、再び晴景様の麾下に参じてきた名のある諸将が連なっていたのだが、俺は何故だか彼らの上座、晴景様の隣の席に座していたりする。
いつの間にやら、俺は春日山長尾家の懐刀という、ひっくり返ってしまいそうな評判と共に、諸将の上に立たされていたのである。
俺のような若造への処遇としては、抜擢も抜擢、大抜擢であり、常であれば猛然と反対意見が述べ立てられていたであろう。だが、この場にいる国人たちは皆、落ち目の春日山に一度は見切りをつけたという引け目がある。
いたし方なかったからとはいえ、あくまで春日山に従い、柿崎を撃破するという功績をたてた俺にけちをつければ、その声は即座に自分に返ってくることになる。それゆえ、苦々しい表情ながらも、集まった諸将は俺が上座に立つことに異議を唱えなかったのである。
もっとも、全ての国人衆に敵視されていたわけではない。晴景様には不満があっても、あくまで守護代に忠節を尽くした俺に対して好意的に接してくれる人たちは少なくなかった。
その筆頭は、赤田城主、斎藤朝信である。後に「越後の鍾馗」と呼ばれる、あの斎藤朝信である。ちなみに男性でした。
元々、朝信は長尾家の争いに関しては中立を保ち、晴景様、景虎様、いずれとも等距離を保っていた。それが何故、今になって春日山に出向いてきたのかというと。
「なに、落ち目の春日山に義理立てして、無謀な戦に従った挙句、あの景家殿を討ち取ったる天城なる者、いかなる将や、と興味を覚えてな」
そういって、呵呵大笑する朝信は、無骨な外見の下に、広い度量を備えた人物であると感じられた。
ともあれ、集まった国人衆の数を見れば、晴景様が当面の危機を脱したことは確かである。
そう思って、安堵のため息を吐いていた俺にとって、柿崎城の件は晴天の霹靂であった。
まさか、景虎様が、このような詐謀を弄するとは思えない。あるいは誤報か。誤報でないにしても、何者かの策略かもしれない。
そう考え、うろたえているであろう晴景様の顔に視線を向けた俺は。
そこに、微笑を浮かべる主君の顔を、見つけてしまった。
俺の凝然とした視線に気づいたのだろう。晴景様は即座に表情を改めた為、俺がその表情を見たのは、一瞬の半分にも満たない刹那である。
だが、晴景様の表情は、表現しがたい悪寒と共に、俺の脳裏に刻まれた。
その表情は、必然的に俺を一つの推測に導いていく。
青い顔で考え込む俺の近くでは、景虎様の奇襲に際し、春日山勢は断固として応戦すべしとして軍議の結論が出てしまっていた。
そして、冒頭の晴景様の声につながる。
そして、晴景様の命令はそれだけにとどまらなかった。
「颯馬、お主が総大将じゃ。越後一の猛将たる柿崎を討ちとりし、そなたの武威を、卑劣なる景虎めに知らしめてやるのじゃッ!!」
「――ッ、し、しかし、晴景様。まだ真に景虎様の策謀なのかも判然としておりません。柿崎家の暴走によるものやも知れませぬし、短慮は禁物かと」
「何を言いやるかッ。越後守護代たる身をたばかろうとする者に猶予を与えてなんとするッ! 元々、景虎めは柿崎と組んで、この晴景に歯向かった身。頼みにしていた景家がそちに討ち取られた為、方針をかえて詐謀を弄したに決まっておるわッ」
晴景様の言葉には一理あった。たしかに表面上だけを見れば、そういう見方も成り立とう。先に春日山を訪れた本庄実乃は、その意図を糊塗するための偽りの使者であった、と見ることも出来なくはない。
事実、晴景の言葉に同意する国人もちらほらと見受けられた。
だが。
彼らは、先の晴景様の表情を見てはいまい。
俺は、心に巣食った疑念を払うことが出来ずにいた。
あの長尾景虎と戦う、ということへの恐怖もある。だが、それ以上に――
逡巡する俺に、晴景様がそっと近づき、耳元でささやきかける。
「……颯馬よ。景虎と戦うを厭うというのであれば、それも良い。じゃが、そのような自侭な行いをする者の頼みを、私が受け容れる理由もあるまいて?」
その奇妙に甘い声と、白粉の匂いに、俺はめまいを覚えた。
晴景様の言う、俺の頼みとは、先の戦で大功を立てた弥太郎らを士分に取り立てるというものである。それを反故にしようか、と晴景様は言っているのだ。
約束していた金銭の褒美と共に、そのことを伝えた時の弥太郎たちの感激の表情を思い起こす。みなの顔を失望にかえることはしたくなかった。
何より。
「もとより、この身は晴景様に一命を救われた身です。命令とあらば、否やはありません」
「ふふ、よう言うた、颯馬。では、改めて命じる。春日山勢の采配をそなたに預ける。不遜にも、守護代に逆らおうとするおろかな妹の首級を、我が前に持ってくるが良いッ!」
晴景様の喜悦の声に、俺は奇妙に重く感じる頭を、床にこすりつけた。
「……かしこまりまして、ございます」
命令を承った俺は、顔を上げて晴景様の顔を見る。
――ふと。
違和感を覚えた。
「――?」
何故か、晴景様の顔が、奇妙に青白く見えたのだ。
化粧のせいかとも思ったが、しかし、何かが違う。
俺の怪訝そうな視線に気づいたのだろう。晴景様が睨むように俺を見て、ついと席を立ち上がってしまったため、それ以上は観察することが出来なかったのだが。
「……何なんだ、一体?」
奇妙な胸騒ぎを覚えながらも、俺はなす術なく、その場に座り込むことしか出来なかった――
◆◆
燻る疑念。見え隠れする謀略と、妄念の陰。
それらの果てに、越後国内の騒乱における最大の戦いの幕が開かれる。
矛を交えるは、越後守護代長尾晴景。その妹、栃尾城主長尾景虎。
血を分けた姉妹の死闘は、越後の大地を血と屍で覆い尽くす凄惨なものとなるであろうと思われ、民と兵とを問わず、越後の人々は恐怖に身を竦ませることになる。
だが、しかし。
ああ、誰が知ろう。
これが、後の戦乱の世に、鮮やかなる軌跡を刻みつけた『蒼き聖将』上杉謙信と、その股肱の臣たる天城颯馬が、その生涯でただ一度。ただ一度だけぶつかり合った戦となることを。
戦国乱世を風靡せしめた両者の激突の前では、いかなる妄念も色あせる。
それは、規模としては越後一国におさまる小さなものながら、はるか後代に到るまで、越後の人々が誇りを以って語り伝えた、戦絵巻の妙なる一つ。
かくて。
常夜の時代を切り開く、一筋の曙光となる戦いの火蓋は、切って落とされた。