従五位下、天城筑前守颯馬。
俺がこの名乗りを許されたことを知った人たちの多くは、俺のことを心底羨ましがった。幕府や朝廷の権威が低下しているとはいえ、それでもその存在は、いまだ人々の心に根付いているのである。
そして新たな官位、官職を得た俺の上杉家中での立場はがらりと変化した。
これまでの俺は、先代晴景様の忠臣にして輝虎様の軍師、というように周囲から目されていたが、具体的な地位や領地を授けられたわけではなく、上杉家中の序列の外に佇む、ある意味で気楽な立場であったといえる。
だが、従五位下といえば、筆頭家老の兼続と同等の官位である。その身にかかる重責は並大抵のものではない。どのくらい大変かといえば――
「つまり、私と同程度の働きくらいは期待しても良いということだな、筑前殿?」
そう言ってにこにこと笑う兼続に、朝から晩までこき使われるくらいには、大変な地位職責であったのだ――俺に嫉視や反感の視線を向ける人たちよ、代わりたいなら代わってやるぞ、いや本気で。
床について二刻も経たないうちに日が昇るという生活を、何十日も過ごしてみるが良いッ。
「で、気付けば春の足音が聞こえてくる季節になっているわけで」
「なんだ、やぶからぼうに?」
俺の呟きに、兼続が怪訝そうな視線を向けてくる。俺は小さくかぶりをふってなんでもない旨を告げ、春日山城の軍議の間に広げられた地図に視線を落とした。
もっとも軍議はつい先刻終わり、今、この場にいるのは俺と兼続だけである。あたりには先ほどまでの軍議の熱気が、まだたゆたっているように感じられる。今回の軍議の内容は、文字通り、今後の上杉家を左右する内容であったから、それも当然といえば当然であった。
「武田家との盟約、か。まさか、春が来る前にここまで具体的に話を詰めるとは思っていなかったぞ」
兼続が半ば呆れたように俺に言う。
俺は肩をすくめて、兼続に返答した。
「のんびりしていられるほど、諸国の情勢は穏やかではないでしょう。やれることは、やっておかなければ」
そう言う俺の頬は、冬の間に、幾度も甲斐と越後を往復した無茶な旅程によって幾分やつれて見えたかもしれない。弥太郎と段蔵からは「傷もなおりきっていないのに」としばしばお説教されてしまった。
そういえば、甲斐で再会した虎綱や晴貞にも心配をかけてしまったなあ。
とはいえ、これは致し方ないことである。なにせ、甲斐と越後――というより、信玄と輝虎様をを橋渡しできる者など、そこらにいるわけがないのだから。俺がその一人である、と自称するのも相当に気恥ずかしいのだが、武田の六将のみならず当主とも面識があるというのは、十分な利点といえる。
まあ、行けば行ったで、信玄にからかわれ、幸村からはきつくあたられ、疲労困憊になったところを虎綱や晴貞に慰められるという――あれ、あんまり大変じゃないような?
それはともかく、幸いにも官位という箔付けが出来たので、俺のような若造が使者にたっても、他の武田家の重臣たちに侮られるようなことはなかった。まあ、一部からは呪いじみた殺意を向けられたりしたが。主に晴貞の後ろの方とかから。しかしまあ、気にしなければ、気にならない。精神論万歳、である。
武田は武田で先の動乱の後始末で大変な状況であった。
結局、駿河は富士川以東を北条が、以西を武田が治めることになった。
無論、そこに到るまでには幾つもの問題が存在した。今川家当主氏真は、命こそ助かったものの、他者を拒絶し、信玄や氏康はもとより、駿府に駆けつけた元康にも逢おうとはしなかったそうだ。
駿府城に入った信玄と氏康の命により、刃物の類は一切周囲から取り除かれていたため、自害は出来ずにいたが、身心ともに深く傷つけられていた氏真は、家臣も近づけず、食をも断ってしまった。
長きに渡る陵辱で弱りきった身体で、食を断ってしまえば死は手の届くところにやってくる。これまで、氏真が生き抜いてこられたのは、信虎には屈すまいとする意地であったのかもしれない。あるいは、今川家当主としての誇りか。
だが、その相手が消え、今川家が存立しえなくなった今、氏真は死をもって忌まわしい記憶を葬り去ろうとしたのだろう。事実、そのままの状況が続けば、氏真の死はたやすく現実のものとなっていたであろう。
だが、現実はそうならなかった。死神の手が氏真の身命に向けて伸ばされようとした時、その手を毅然と払いのけた者がいたのである。
傷つき、壊れかけていた氏真の身体と心をすくいあげた人物。その名を冨樫晴貞といった。
武田家の静林の将、春日虎綱は甲斐南部において山県、馬場らと共に今川軍を国外にたたき出した時点で、ひそかに晴貞を陣中に招き入れていた。
と、言うよりも、晴貞の方から陣中に出向いたという方が正解らしい。今川氏真の境遇を聞き知っていた晴貞が、何かの役に立てればと従軍を志願したのだ。
言うに忍びないことだが、晴貞もまた、かつては氏真と似たような境遇にあった身である。あるいは日の本すべてを見回しても、これ以上の適任はいなかったかもしれない。
俺は、知らずため息を吐いていた。
「――奇妙な縁ですね。加賀の国主であった方が、甲斐の国で掛人(かかりゅうど)となり、駿河の国主を死の淵からすくいあげるとは」
俺の呟きに、兼続が頷いてみせる。もっとも、こちらは若干苦笑気味だったが。
「ああ、そうだな。だが、それ以前に一国の主が国を抜け出し、あまつさえそのまま出奔して他国の世話になる方がよほどありえないことなんだぞ。どこかの誰かさんが謀らなければ、晴貞様が甲斐にいるということ自体、決してなかっただろうさ」
「う、ま、まあ、言われてみればその通りですね」
確かに、本人の了承を得た上でのこととはいえ、俺が画策しなければ、晴貞が国を出ることはなかったであろう。知らないうちに、俺は奇妙な縁の一端を担っていたようであった。
兼続が続けて言葉を発する。
「とはいえ、その後の晴貞様の成長は晴貞様ご自身の練磨の賜物。間違っても自分のお陰だなどと自惚れるなよ、筑前殿?」
「言われるまでもありません」
俺は肩をすくめてそう言った。そんなこと、かけらも思うわけはないのである。
晴貞の介護の下、少しずつ回復の兆しを見せ始めた氏真であったが、駿河国内にいては、またいつ陰謀の贄に供されるか知れたものではない。そのため、信玄は氏康や元康とはかった上で、氏真を甲斐の国内に招き入れた。甲斐の山野と秘湯が、氏真の傷ついた心身を癒してくれることを願ってのことであった。
実のところ、その場所がどこなのかは、俺も知らない。甲斐に赴いた時も、氏真の姿は一度として見かけなかったし、虎綱や晴貞、信玄もその話題をあえて口にしようとはしなかった。
それに、氏真にあったところでかけるべき言葉を、俺は見つけられない。今の氏真に、命が失わずに済んだことを寿ぐことほど残酷なことはないだろう。
いつか時が氏真の傷を癒し、そして俺との縁が巡り来る日を待つことくらいしか、俺に出来ることはなかったのである。
◆◆
上洛を志し、京にまで名を轟かせた東海地方の覇者、今川家。
その滅亡は、瞬く間に東国の諸国に伝えられ、人々は驚愕に声を失うことになる。
その旧領は武田、北条、松平に分割される結果となり、これによって東国の勢力図は大きく様変わりする。ことに武田家の躍進と、松平家の台頭は特筆に価するもので、今後の諸国の情勢にも少なからぬ影響を及ぼすであろうと思われ、各国は対応と情報の収集に躍起になることとなる。
当然、それは上杉家も同様であった。
武田、北条、松平とは協力関係にあったとはいえ、それがあくまで一時的なものであったことは誰もが理解している。武田家、あるいは北条家を敵視する者の中には、むしろ一時的なものにしてしまおうと画策する者さえおり、彼らを抑えるために、俺と兼続は奔走を余儀なくされた。
ただ、そこまでいかずとも、境を接する他国が強大化していく昨今の情勢を見て、上杉家もそれにならうべきだと考える者たちは決して少なくなかったのである。
越中侵攻が考案されたのは、そういった情勢を受けてのことであった。
かつて、越中が長尾家の領土であったこと、そして輝虎様の父が、彼の地での戦傷がもとで他界されたことは事実である。これを討つことは、決して不義にはあたらない。くわえて、北陸は、上杉家が上洛するために押さえておかなければならない土地でもあった。
こういったことを述べ立てて越中侵攻を唱える者たちと、俺は先刻の軍議で盛大にやりあった。
越中へ踏み込むのは時期尚早。少なくとも――
「少なくとも二年、出来れば三年は内政に専念すべき、か」
兼続の言葉は、先の軍議で俺が主張したものであった。
「はい。今回は兵を動かさずに済みましたが、その以前は越後の兵は、京、信濃、関東と遠征続きです。その上、国主が幾度も代わり、国内も安定しているとは言い難い今の情勢で、他国に手を出すなど無謀というものでしょう」
上杉家は、北条家、武田家と比べて国力の蓄積が少ない――これは晴景様時代の負の遺産でもあるから、俺も他人事のように論評できないのだが、ともあれ国力の蓄積なくして戦を起こせば、たとえ戦に勝てたとしても、勝ち取った領土を長く治めることはできないだろう。
北条家については幾度も述べてきた。躑躅ヶ崎の乱で大打撃を被った武田家にしても、信玄が国主となって以後、信濃に兵を出す一方で着実に国力を高め、内政の基盤を整えていったのである。
武田家が内政と外征を平行して行うことが出来たのは、皮肉にも躑躅ヶ崎の乱によって甲斐国内の国人衆の力が激減し、結果として信玄の威光が良く行き届いたからであった。
当然、今の越後国内は、当時の甲斐のような状況ではない。
今この時、上杉家が時と金を費やすべきは外に対してではなく、内に向けてである。それは数年の後、かならず上杉家にとって大いなる益となるであろう。
「それに今の段階で越中に踏み込めば、まずまちがいなく一向宗、本願寺との戦になります。これは、正直なところ避けたい」
この部分は軍議では言わなかったことなので、兼続は怪訝そうな顔を見せた。
「今の段階で、というが、越中に限らず北陸は元々一向宗の勢力が強いところだ。いつ何時、攻め込もうと、彼らとの対立は避けられないと思うが」
「そのとおりです。彼らの厄介なところは、国人衆のみならず、領民の深いところまで宗教が浸透しているということ。たとえ戦で勝ちを収めても、遠からず一揆を起こされて、また兵を出すことを余儀なくされる。ならば、はじめから手に入れようとしなければ良い。持たざることは、時に持つことに優るのです」
無論、それではいつまで経っても上洛路がふさがれたままになってしまう。
北陸を制するにおいて、肝要なことは本願寺の有力者と、末端の信徒、すなわち領民とを分断することである。
そのためにどうするべきか。
俺の理解では、一向宗とは念仏を唱えることで極楽浄土に往けるという教え(あくまで俺の理解では、である)であり、事実、一向一揆の軍勢は「進者往生極楽 退者無間地獄」「南無阿弥陀仏」の旗を掲げながら、死を恐れずに突き進んでくると聞く。たとえ戦で死んだとて、その後に極楽にいけるのならば、死を恐れる理由など何もない、ということなのだろう。
また、極楽に行くためにはただ念仏を唱えればよいとする一向宗の教えは、土地の支配者にとっては厄介なものであった。指導者たちは領主の権力を恐れず、信徒らは領主に収める年貢を削っても、寺社への進物は欠かさない。それをとがめれば一揆の軍勢が死を恐れずに向かって来るのだ。これを厄介と言わずして、何と言えば良いのだろう。
晴景様の先代である為景が一向宗と対立した背景には、こういった事情も存在したのであろう。
輝虎様が父の轍を踏む必要はない。
宗教と民衆を切り離すのは、ここまで教えが広がった今、ほぼ不可能であろうし、切り離す必要もない。
そもそも、念仏を唱えれば極楽に往けるという教えが広く深く受け入れられた理由の一端は、現世における生が、苦しく、辛いものであるからであろう。
飢饉に疫病、重税に戦、関所に遮られて他国に赴くこともままならず、ただ貧しい土地を耕して生きていくしかない。そんな一生であれば、来世に望みを託したくなるのは当然といえる。
ならば、その生をより良いものとすることが出来れば――今の世を平穏に生きる場所があるのならば、生に窮して一揆へとはしる者たちの数は減じるであろう。
無論、それで全てが解決するわけではないが、宗教家ならざる俺が、宗教勢力と矛を交えるためにとれる策は、このくらいしかなかった。
「そのためにも、今は内治に務めるべきかと。最終的には、北条の年貢率である四公六民を、越後でも実現させたい。その政策が、確かな成果として越中へと伝われば、貧困にあえぐ者たちは招かずとも越後へやってくるでしょう――その時が、越中侵攻の機。これに先んじての侵攻は、かえって多くの損耗を招きかねません」
俺の話を黙って聞いていた兼続が、不意に小さく笑った。
怪訝に思って眉をひそめると、兼続は「すまない」と言ってから、どこか穏やかな視線を俺に向けてくる。
「指摘すべきところは幾つもあるが、言わんとするところは理解できるな」
「むう……及第点ぎりぎりというところですか?」
「目的に到るための施策が付記されていれば、さらに評価はあがったのだがな」
「それは部屋に置いてきてしまいました」
それを聞いた兼続が驚いたように目を丸くした。
「ずいぶんと用意がいいな?」
「政務に関しては生きた見本が目の前にいらっしゃいますので。その方を真似てみました」
「おだてても評価はあがらんぞ」
「それは残念」
そんな言葉をかわしながら、俺たちは軍議の間を出る。
春日山城の通路を、兼続と並んで歩く。北国の寒気はいまだ厳しいが、それでも外の景色を見れば、近づく春の息吹がそこかしこに感じ取れる。
曲がり角に突き当たり、俺と兼続はそこで別れる。兼続は輝虎様のもとに。俺は、この後、村上義清のところに行く予定である。信濃の諸将を抑えるために、義清には何かと協力してもらっているのだ。
そして、俺が兼続に頭を下げ、背を向けて少し後。
俺の背に向け、兼続の声が聞こえてきた。
「颯馬」
「は?」
久々に筑前殿ではなく、颯馬と呼ばれたことに驚きながらも、俺が後ろを振り返ると、兼続が感慨深げな眼差しで俺を見つめていた。
「柿崎討死の報を聞き、晴景様の臣としてお前の名を知って、もうじき二年になるか。与坂城で相対したときは、まさかここまでの長い付き合いになるとは考えてもいなかったが……」
兼続の言葉に、俺は我が事ながら驚きを禁じ得なかった。もう、そんなに時が経ったのか、と。
兼続はさらに言葉を続けた。
「今の春日山上杉家があるは、無論、輝虎様の勲が第一だ。だが、輝虎様がお前の力を必要とされてきたこと、そしてお前がその期待に応え続けてきたことも、否定できない事実なんだ。腹立たしいことではあるが、それはこれからもかわらないだろう。輝虎様の期待にそむくような真似はしてくれるなよ」
俺はいささか芝居がかった仕草で深々と頭を下げた。
「――御意にございます。輝虎様と、そして兼続殿の期待に背かぬよう、懸命に努めることを、ここにお誓いいたしましょう」
予期せぬ俺の反応に、兼続は目を丸くした後、すぐに烈火のごとき形相で食って掛かってきた。
「い、いつ私がお前に期待しているなどと言ったか! 輝虎様の期待にそむくなといっただけだ。私個人としては、貴様に期待などしていない。自惚れるな、馬鹿者!」
その兼続の激昂を俺はあっさりと受け流す――決して、筑前殿と呼ばれ続けてきた意趣返しではない。
「はっは、照れ屋の筆頭家老様のために、そういうことにしておきましょうか」
「……なるほど。要するにそのそっ首、この場で引き抜いてくれという申し出だと解釈してかまわんな?」
「と、言いつつ頬の赤さを隠し切れない兼続殿であった」
「――きさ、まッ! そこに直れ、颯馬ッ!!」
「承知。しかし、そろそろ輝虎様が待ちくたびれておられるのでは?」
繰り返すが、決してこれまでの報復などではないのであしからず。
「ぐ、ぬッ……よし、ではこの話は後日、決着をつけるぞ。それで良いな!」
そう言うや、兼続は俺の返答も待たずに足音荒く、背を向けて立ち去ってしまう。
俺はその背に向けて、もう一度、頭を下げた。さきほどよりも深く。
◆◆◆
それから、さらに少しの時が経つ。
春日山の山中に足を踏み入れた俺は、視界の開けた高台の上に立っていた。
視界に映るのは、春日山城と府内の街並み、その先にある透き通るような青さを湛える日本海。遠く、佐渡島の島影らしきものも見て取れた。
城や街並みはまったく異なるにも関わらず、眼前の景色は、俺がやってきた時代のそれと酷似してるように思えた。
まだ日も出ていない早朝から、険しい山路を登ってきたのだが、息は乱れておらず、疲れもほとんど感じていない。この地にやってきてからこちら、ずいぶんと体力がついたものだ、と俺は小さく肩をすくめ、ほっとため息を吐く。
――そろそろ、限界だった。
今なお、遠くに聞こえる鈴の音が何を意味するのか。それを知りつつも『意地でも』留まり続けてきたのだが、さすがにこれ以上の猶予は許されないようだ。
いや、誰に許されないのかは、正直、よくわからんのだが。
しかし、そもそもどうしてこの地に来たのかもよくわからんのだから、今さらそれを不思議に思っても詮無いことなのかもしれない。最近ではそう考えることにしていた。
手に持った酒を杯に満たす。といっても、自分で飲むためではない。
晴景様の祥月命日まで、あと一月。今日は月忌――月こそ違え、晴景様が亡くなられた日と同じ日である。
これは、今は亡き主君に捧げる弔いの杯であった。
そして――しばしの別れを告げる惜別の杯でもあった。
「颯馬」
その声が背後から聞こえてきた時、俺は不思議と驚かなかった。
必要なとき、必要な場所に居ることが出来る才は、戦場に限った話ではない。その程度のことを知らずにいるような、浅い仕え方をしてきたわけではなかったから。
「輝虎様」
振り返ると、そこには思ったとおり、黒髪を靡かせた主君の姿があった。
最近、またとみに綺麗になられたような気がする。おかげで、向かい合うと非常に落ち着かない気持ちになってしまって困ったもんである。頬を赤くして主君と対する俺は、周りの目にどう映っているのやら。
俺がそんなことを考えていると、輝虎様はどこか辛そうな顔で、ゆっくりと口を開く。
「――すまぬ。今日まで越後のために尽くしてくれたそなたに、私はその半分も報いてやることが出来ていない」
その言葉を聞けば、輝虎様が核心を察しているのは明らかだった。
言うまでも無いが、俺は輝虎様に何一つ告げていない。自分が消えるかもしれないなどと言えるはずもない。
だが、輝虎様は俺の仕草やら素振りやらで何かを察してしまったらしい。余人なら知らず、輝虎様であればそれも不思議ではない、と何故か納得してしまう俺であった。
俺はかぶりを振って主君にこたえる。
「そのお言葉だけで、十分、報われたと思えます。元々、労苦と思っていたわけでもありませんし、それに――」
とくに意図していたわけではなかったが、俺は自然と笑みを浮かべていたらしい。
輝虎様が虚を衝かれたように視線をそらせた。東から登る陽光のせいか、その頬がかすかに赤らんで見える。
「本来、決して逢うことの出来なかった人と出会い、言葉をかわし、共に歩くことが出来たのです。これ以上を望めば、罰があたるというものですよ」
だから、お気になさらずに。
そういって、俺は輝虎様の憂いを払うために、今度は意識して微笑んでみせるのだった。
その後、しばらくの間、俺も輝虎様も口を閉ざした。輝虎様と同じ場所にいることに、照れはあっても気詰まりを感じることはない。
聞こえてくるのは鳥の鳴き声と、さらさらと風にゆれる木立の音。緑の息吹を含む春日山の風の心地良さを総身に感じ、俺は知らず嘆声をもらす。
だが、そんな俺の感傷を殺ぐかのように、一際強く、別種の音が響き渡る。もう最近では耳に馴染んだ感すらある鈴の音であった。
同時に、その場に倒れ込んでしまいそうなほどの虚脱感に襲われた俺は、咄嗟に下肢に力を込めることで、かろうじてこらえる。
「――颯馬」
「……は、何でしょうか」
輝虎様の呼びかけに、俺は平静を装ってこたえた。多分、輝虎様には通じないだろうけれども。
「いつか、聞かせてくれたな。不可思議な音に導かれて、この地に来たのだと」
「御意」
高野山でのことか、と俺はやや俯く。
あの場所での出来事は、思い出すだけで恥ずかしい。決して不快な記憶ではなく、むしろその逆なのだが、それでも恥ずかしさは消せるものではなかった。
「あの時も言った。神仏に姿形はなく、その訪れを音によって示すことがある、と。鈴は古来より祭器として用いられるもの。すなわち、その音はなにがしかの神意の顕れかもしれない。ならば、そなたがこの地に来たことは、神仏のお導きであったということ、そして――」
言葉を押し留めた輝虎様の代わりに、俺は小さく、しかしはっきりと言葉を引きついだ。
「この地を去ることもまた、神意の顕れである。そういうことなのでしょうか」
「……正直、わからん。唐ならばともかく、日の本でそのような話を聞いたことはない。書物にも記されていない」
その言葉に、俺は小さな引っ掛かりを覚えた。
それを口に出して確かめる。
「唐ならともかく、と仰いましたか? それは初耳なのですが」
「む、そうだったか。たしか、高野山で口にしたと思ったが……ああ、あの時、颯馬は疲れ果てていたから、私の言葉は届いていなかったのかもしれぬ。そうだ、唐には颯馬と似た境遇の者たちの話が伝わっている。戦乱の時代に現れ、その類まれなる智勇をもって、戦乱の終結に尽力した者。将として、相として、あるいは皇として乱世を終わらせた彼らのことを、彼の地では『御遣い』と呼ぶそうだ。『天の御遣い』と」
輝虎様の言葉に、俺は思わず目を瞠る。
まさか、俺と似たような者たちが日本ではなく、他国にいるとは思わなかった。
さらに輝虎様は言葉を続ける。
「もっとも、いずれも昔日の話。今代の大陸に御遣いが降りてきたとは聞かぬ。その詳しい話を知りようもないのだ」
その言葉は、単なる推測以上の何かを俺に感じさせた。おそらく輝虎様は、密かに手をまわして調べてくれていたのだろう。これまで、それを口にしなかったのは俺への気遣いゆえか。
天の御遣いとは、また大仰な名前だが、しかし俺が彼らと源を同じくするか否か、確かめる術がない以上、何を言っても推論にしかならない。
それに、正直、その答えはどちらでもかまわないと思うのだ。
俺をこの地に導いたのが神仏だろうが、天だろうが、あるいは単なる偶然だろうが、その何かに感謝する気持ちが薄らぐことはないだろう。
俺は輝虎様に向かって、一語一語、区切るようにはっきりとそのことを伝えた。
「――感謝しています。本当に心から、感謝しています。俺をこの地に導いてくれた何かに。御身と出会わせてくれた何かに。おかげで、素敵なものを手に入れることが出来ました」
普段ならば気恥ずかしくて言えたものではない――素敵なんて言葉は。
が、今なら言える。というか、今、言わなければならない。
多分、俺の顔は真っ赤になっているとおもうが、輝虎様に妙な自責の念を植えて立ち去るわけにはいかない。ここは気合で突破すべし。
「好きな人のために、命を懸けて戦った。そして、守ることが出来た。その人の命も、志も。ならば、これ以上望むものはありません」
これは正直なところ嘘である。この戦国の世が終わるのを見届けたかったという思いはあった。というより、戦乱を終わらせてから輝虎様に言いたかった言葉があった。だが、さすがにそれを今言うわけにはいかない。それは輝虎様の心に迷いを植えつけるだけに終わるだろうからである。
高野の山中で自らに誓った言葉を、自らで破ることはできない。
ただ、輝虎様は俺のかすかな逡巡に気付いてしまったらしい。
「……颯馬?」
俺を見る輝虎様の顔は穏やかで、その声音は優しかった。
隠し事などしてくれるな、とそう言ってくれていた。
だから、俺はこれから起こるであろう出来事を、あえて楽観と希望と、そして少なからぬ確信をもって包み込む。
「それに、思うのです。いまだ戦乱は終わらず、にも関わらず私がこの地を去らねばならないのならば、それはその必要があるからではないか、と。私が一時、越後を離れることが、日の本の未来のためには必要なことで、それは結果として輝虎様の助けとなることなのではないか、と」
兼続あたりに聞かれた日には、自惚れにもほどがあると怒られそうな言い草である。あるいは鼻で笑われるだろうか。
だが、不思議なほどに、そう確信している自分がいるのもまた事実。
それゆえ――
「どうか私が戻り来るその日まで、ご健勝であらせられますよう。御身と上杉家に危難が迫ることのないよう、今後のこと、かなう限りのことは書き記しておきました。御身に宿る神仏の加護を疑うつもりもございません。されど、御身が人の身であることもまた確かなことでございます。報いを望まぬと言った舌の根も乾かぬうちに、このようなことを口にするのは我ながら情けない限りですが――御身がご無事であることが、私にとって何よりの報いであると、どうかお心に留めておいて下さいませ」
そう言って、俺は深々と頭を下げた。
言い切ったという安堵と、言ってしまったという羞恥が混ざりあって、動悸が高まる一方である。
頭を下げたのは、これ以上、輝虎様に、俺の真っ赤な顔を見られたくなかったからだ。
それゆえ、俺も輝虎様の顔を見ることが出来ず、この時、輝虎様がどのような顔をしていたのかを知ることは出来なかった。
知ることが出来たのは、俺の手を柔らかく包み込んだ輝虎様の手の暖かさと、そして――
「心得た。毘沙門天と、我が名にかけて誓おう。また相逢うその日まで、必ずや息災でいよう。颯馬も、誓ってくれるな?」
「――御意。我が名にかけてお誓いいたします」
輝虎様の言葉と、自身の返答。
そして、その直後、再び吹き付けてきた春日山の清風。
――シャリン、と。
――鈴の音が鳴った。
◆◆
吹き寄せる風を感じ取り、輝虎は目を閉ざす。
耳元を通り過ぎていく風と、周囲の木立のざわめき。
――不意に失われる、掌の暖かさ。
――正面の人物に遮られていたはずの風が、そのまま輝虎の身体に吹き寄せてくる。
風が通り過ぎた後も、しばらくの間、輝虎はその目を開けようとはしなかった……
◆◆
◆◆◆
大和国、興福寺。
藤原鎌足、その子不比等ゆかりの寺院であり、藤原氏と深いつながりを持つ。
寺と銘打たれてはいたが、鎌倉時代以降、興福寺は事実上の大和国守護であり、固有の武力を有し、応仁の大乱後もその地位が揺らぐことはなかった。
その勢力の強大さは比叡山延暦寺と並び『南都北嶺』とも称されただけあって、興福寺領内はそこらの国人、大名などとは比較にならぬ大きさと堅固さを有していたのである。
その興福寺の奥、中枢に近い一画にある室内で、今、一人の男がうずくまるように座っていた。
灯火に記された影には、片腕が映っていない。男の片腕は、ほとんど根元から斬りおとされていたのだ。そして影からではわからなかったが、男は片目をも失っていた。
だが、男はそれを苦にする様子を見せない。
そして、男の前にひっそりと座る尼僧もまた、傷の心配をしようとはしなかった。
「――で、覚慶殿。わしはいつまで待てばよい? 傷もほとんど癒えた。出来ればすぐにでも東に戻りたいのじゃが」
覚慶、と呼ばれた尼僧は、薄暗い灯火の中、深い夜闇の瞳を細め、嫣然と微笑む。 だが、口を開こうとはしなかった。
信虎はさらに口を開き、呪詛めいた言葉を吐き出し続ける。
「信玄などと名を改めおって、あの愚か者めが。いずれ近いうちに、わしが与えた名を捨てた無礼を、その身におしえこんでやらずばなるまい」
それを聞いて、覚慶は小さく哂った。だが、やはり、言葉を発しようとはしなかった。
「これ以上は待てぬ。明日までじゃ。明日になっても動きがなければ、わしはひとりで東に戻り、東国を斬り従え、娘と、小癪な軍神めを我が物としてくれよう。よろしいなッ」
威迫を込めた信虎の言葉に、しかし覚慶は動じた風もなくゆっくりと首を縦に振る。
信虎は不快げな顔つきで、酒盃をあおった。
先刻より、幾度も同じような問答をかわしているため、すでに酒杯は空に近い。
ふと、信虎の眼差しが邪欲を孕んで、覚慶に注がれる。僧籍にあるというのに、その姿は艶を帯び、その動作の端々に蕩けるような色を感じさせる。信虎の目が、心なしか上気したように赤らんできていた。
甲斐で敗れてからこちら、色欲に浸る暇がなかったこともある。
相手が将軍家の血筋であろうと、遠慮をするような信虎ではない。それに――これが初めてというわけでもなかった。
不意に信虎が無事な方の腕を伸ばし、覚慶の身体をかき抱く。
信虎が持っていた酒杯から酒が飛び散り、あたりに酒精の匂いが満ちていく。
「わしの性情はとうに承知しておろう。くく、晴信を相手にするほどではないが、将軍の血筋を組み敷くは、なかなかに甘美な心地……」
ぞくり、と。
信虎の背に悪寒がはしる。
視界の隅に刃の煌きを見るやいなや、信虎は咄嗟に覚慶を突き飛ばし、距離を置こうとする。
――だが、遅い。
「ぐぬッ?!」
鈍い音は、ただ一つ残った腕が落ちた音。
失われた片腕と片目が、信虎の動作を著しく妨げたのは事実である。だが、仮に信虎の五体が満足であったとしても、避けることはできなかったであろう。それほど容易ならざる領域に達していたのだ――覚慶の、足利義秋の力量は。
「おの、れッ、わしを、欺きおったかッ!」
「道化を見るも飽いた。それ以上の理由が必要かえ」
それが理由だ、と冷たい眼差しが告げていた。そこには、人を斬る痛みも、呵責も、ただの一片もない。その力量と同じほどに、あるいはそれすら越えて、尼僧の性情もまた、容易ならぬ領域に達していたのである。
「わらわの手にかかって果てられるのじゃ、果報というべきぞ」
絶鳴は、ごく短かった。
最後に誰の名を口にしたのかも、本人以外、知ることは出来なかった。
◆◆
「……また殺しちゃったの? 生かしておけば使い道なんていくらでもあるのに」
覚慶が秘めていた小刀を鞘にしまってしばし後。
部屋に姿を現した一人の少女は、室内の惨状を見て、呆れたようにそう言った。
血臭のこもった空気に怖じることもなく、半身に返り血を浴びた覚慶を見て眉をひそめるでもない。明らかにこの状況を予想していたと思われた。
覚慶はその少女を見て、小さく、咽喉を鳴らすように哂った。
「欲しかったのかえ、久秀」
「ううん、久秀はああいうのはいらないわ。思い通りに動かないなんて、駒にもなりはしないもの」
そう言って、松永久秀は冷やかすように目を細めて、覚慶を見やった。
「で、どうするの? 東国を乱すどころか、なんだかまとまっちゃったみたいだけど」
「構わぬ。道化は十分以上に役割を果たしたゆえ」
「負け惜しみ、というわけじゃあないみたいね。でも、放って置くと、東の勢力が思ったより早く上洛してくるわよ?」
久秀の言葉に、はじめて覚慶の目に愉しげな光が揺れた。
「上杉と武田の盟約、か。たしかに、あれは少々予想の外であったな。久秀お気に入りの軍師は、まだ健在なのか」
「そのようね。というより、どうも立役者みたい」
久秀の言葉に、覚慶はほの昏い笑みを浮かべる。
「久秀が気に入るだけあって、中々に面白い若者のようじゃな。だが――今、東国にいるようでは、もう間に合わぬ」
その言葉に、久秀は覚慶にさえ気付かれないほど、かすかに目を細めた。
覚慶の言わんとしていることを悟ったのである。
「九国の要に打ち込んだ楔によって、彼の地の三国が融和する術はなくなった。西方より襲い来る海嘯を阻むことは、もはや誰にもできぬ。く、ふふ、九国を飲み込んだ後は、中国、四国、そしてこの京。日の本を日の本たらしめる全てを飲み込むのじゃ。十年もかからぬ。五年も要らぬ。東国より、この波、受け止めることは出来まいよ」
心底愉しげな哂いは、見る者がぞっとするほどの狂喜に彩られていた。覚慶の容貌が秀麗なだけに、より鮮明に、それは映し出されてしまうのである。
久秀は内心の思いを綺麗に拭った顔で、小さく肩をすくめてみせた。
「まあ、その方が久秀にとって都合が良いから、いいんだけどね。みんな壊れちゃった方が、つくり直すのも楽だもの」
「たしかにそなたなら、どこでも生きることが出来ようよ」
覚慶の言葉に、久秀がくすりと笑った。
「ふふ、お褒めいただき光栄に存じますわ、足利義秋様」
「この身は僧籍、俗名で呼ばれる覚えはないのじゃが」
「あら、失礼。久秀、少し気が早かったかしら?」
いささかならず、わざとらしい久秀のとぼけぶりであったが、対する覚慶の反応は思った以上に激烈であった。
覚慶の眼差しが、鋭さをまして久秀の顔に突き刺さる。常人ならば、その昏い瞳に飲み込まれかねないほどの鋭気に満ちた視線であった。
だが、久秀は髪一筋ほどの動揺も示さず、優雅にこうべを垂れて無礼を詫びると、怯む色も見せずに覚慶の部屋から退出したのである。
その背に、覚慶の声はかからなかった。
興福寺からの帰途。
松永久秀は、馬上、夜空を見上げる。
天文にも通じる久秀であったが、別に星の動きを見ようとしたわけではない。
その脳裏にあるのは、先刻の覚慶との会話。そして、覚慶には告げなかった一つの報告であった。
それは東国よりもたらされたもの。
「上杉家臣天城颯馬、その行方、知れず、ね」
詳細はわからない。というより、上杉家でも掴んではいないらしい。
久秀の送り込んだ密偵も、取り急ぎ情報を送ってきただけで、出奔なのか、暗殺なのか、それとも何かの策略によるものなのか、何一つわかっていなかった。
「越後の上杉輝虎、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、あとは尾張の織田、三河の松平、あの朝倉の頑固者に、奥州の伊達、最上」
久秀は指折り、東国の諸将を数え上げていく。
「茶器を見るのも良いけれど、人を観るのはそれに優る楽しみだもの。今川が滅びた今、東国はどうなっていくのかしら」
そして、その中でも、久秀が特に注視していた人物が、姿を消した。これは少なくとも久秀にとって座視できることではなかった。
「京の動きを、颯馬が知っているはずはない。ましてや、西国の動きなんてなおさら。だから、この時期に姿を消したといっても単なる偶然に過ぎない」
――そのはず、なんだけど。
久秀は小さく笑う。
状況を見れば、西の動きと東の事件が重なりあっているはずはない。にも関わらず、何故だか笑いがこぼれ出る。
それは決して不快なものではなかった。少なくとも、先刻のものより、ずっと快い。
結局、久秀は、その後、一度も口を開くことはなかった。
その脳裏に日の本すべてを映し出しながら、これから来るさらなる乱世を思い描く。
幼さの滲む容貌に苛烈なまでの意思を漲らせながら、松永久秀はゆっくりと駒を進めるのであった。