冬の一日。めずらしく波穏やかな日本海。
遠くに佐渡島の島影を見晴かしながら、俺は政景様と共に舟に乗っていた。
舟といっても、俺一人が手で漕げる小舟で、乗っているのは三人しかいない。
舳先から順に長尾政景、俺、宇佐美定満の順である。
政景様に命じられるがままに、舟はずいぶんと沖まで達していた。泳ぎが得手ではない俺にとって、すでに泳いで陸に戻るのは難しい距離となっている。まあ、水練に長じていようとも、冬の日本海を服を着て泳ぐなど、自殺行為以外のなにものでもないだろう……が……
「あの、何か殺気を感じるのは気のせいですか?」
おそるおそる俺が問いかけると、正面に座っていた政景様が口を開き、そして――
「おほほ、いやですわ、兄上♪ どうして私が兄上に害意を持つなどとお思いですの?」
「………………ぉぇ」
「って、ちょっと待ちなさい! なに、その反応は?! せっかく人が可愛い妹その二を演じてあげたっていうのにッ」
「い、いや、その、ですね。やはり人には向き不向きというものがあるのではないかと思うのですよ……ぅぅ」
「……本気で気持ち悪がってるところが、余計腹立たしいわね、あんた……」
あまりの違和感にめまいどころか吐き気まで覚えた俺に向かい、政景様がぼそりと呟く。
いや、だって仕方ないでしょうが。
あの政景様が『兄上♪』って。
あの政景様が『兄上♪』って。
一瞬で全身に鳥肌が立ちましたよッ?!
「……気持ち悪い……」
「って、なんで定満までッ?!」
俺の後ろから聞こえてくるのは、俺と同じ症状に陥ったと思われる定満の声だった。
政景様の不満げな叫びは、遠く佐渡まで届くかと思われた。
しばし後。
「と、まあ冗談はさておき」
平静を装って政景様が俺に向き直る。口の端がひくひく震えているところからも、結構本気で気にしていることが伺えるが、あの悪魔の声を再び耳にしないためにも、俺は全力で政景様から目をそらす。
気配だけだが、後ろの定満も同様なのだろう。けっこう緊迫した雰囲気が伝わってくるから、多分間違いないと思われる。
そもそも、どうして俺が政景様たちと舟に乗っているのかというと。
敵国であった甲斐との交渉、さらには北条家への使い、ひいては今川氏真を傀儡とした武田信虎の排除。
幾つもの達成困難な目的をもって春日山城を発った俺たちは、しかし、無事に勤めを果たしたと言える。
無論、まだすべてが終わったわけではない。
信虎を退けたとはいえ、今川軍はいまだ甲斐侵攻を止めておらず、武田軍と対峙を続けている。三河では松平家が破竹の進撃を続け、三河統一を目前に控えていたが、今川家に従う国人衆らは三河野田城に集結し、決死の抵抗を試みているらしい。同じく今川に従う遠江国人衆が曳馬城からこれを援護しているため、元康も攻めあぐねているとのことだった。
だが、甲斐南部の戦線へは当初の予定どおり、春日虎綱、北条綱成の軍勢が援軍として向かっている。これに加え、北条軍主力を率いた氏康が相模から駿河に兵を入れれば、今川家は本国を守るために兵を退かざるを得なくなるだろう。
この報を受ければ、西方の三河、遠江の戦況も好転するものと思われた。
それゆえ、唯一の不安要素は武田信虎の動向である。輝虎様に片腕を斬り落とされて以後、信虎の行方は杳として知れない。聞けば、武田の陰将山本勘助が動いているとのことだが、この件に関しては信玄も多くを口にしようとはしなかった。
ただ一言――「彼の者が今川家に戻ることは、もはやないでしょう」と言うにとどまったのである。
その真意がどこにあるのかはわからない。だが、この期に及んで信玄があの男をかばう理由は見当たらない。信虎という不安要素を排除すれば、今後、戦況が好転していくのはまず間違いない。戦の決着は着いたと見てかまわないだろう。
それゆえ、俺たちは越後へと帰還することにしたのである。
――正直なところ、駿府攻めまでは同道したかったのだが、さすがにこれ以上越後を留守にすることは出来なかった。
輝虎様や秀綱は言うにおよばず、俺や弥太郎、段蔵も、いまや春日山上杉家にその人ありと知られた将の一。やるべきことはいくらでもあった。それらを肩代わりしているであろうとある人物からの呪詛が、幻聴として聞こえはじめるにいたり、あれ以上武田家に留まり続けるのはいろんな意味で難しかったのである。
越後に戻るや、俺は春日山城で今回の一件の報告を行い(澄ました顔の輝虎様が神妙に聞き入っているところが微笑ましかった)、南の情勢を事細かに伝えた。すでに書状で一応の報告はしてあったため、さほど長い時はかからずに済んだ。
一方、俺たちの留守中については、政景様、兼続、定満がうまく立ち回って大した問題は起こらなかったらしい――と思っていたら、上座の方々からこんな言葉が飛んできた。
「まあ、誰かさんたちのお陰で政務を一手に引き受ける羽目になって、あんまりにも量が多いから目の下にくままでつくって頑張ったんだけど、うんうん、そんなことは颯馬たちにしてみれば大した問題とは言えないわよね」
「政景様の仰るとおり。輝虎様不在に乗じようとする不届き者たちに対処するため、夜も昼も緊張を解けずにいた我らの苦労など、敵国に使いした颯馬の苦労とは比べるべくもないのだろう。本当に良くやってくれたな、颯馬」
「……この二人をなだめるのは大変だった」
にこやかに笑いながら、しかし目に刃の煌きを宿す鬼姫二人。その横に座る定満の顔に、めずらしく疲れが見えた。
きっと政務を押し付けられて荒れる政景様を必死になだめ、輝虎様不在で寂しさが募りまくっていたであろう兼続を必死に慰めていたのだろう……俺ならきっと倒れているな、うん。
――俺は畳に額をこすりつけるように、深く深く頭を下げるのであった。
◆◆
俺は舟の上で波に揺られながら、政景様に詳細を報告する。
といっても、公のことはすでに城で話している。政景様が知りたがったのは、それ以外の部分に関してであった。
たとえば、数日前までいた湯治場での出来事などである。
「――それで、秀綱殿には四国同盟のこと、どう弁明したわけ?」
「弁明といいますか、正直に構想をお話ししました。問題は関東管領という役職ではなく、上杉憲政という人物がその役職にあること。逆に言えば、憲政殿が関東管領職を降りれば、問題のいくつかは解決します。たとえば、嫡子に家督を譲るなどすれば……」
「北条家が遺恨を持っているのは憲政様。その憲政様が当主の座から退けば、話の落とし所は見つけやすいってわけね。もちろん問題はあるにしても」
「御意」
俺はゆっくりと頷いた。
俺の知る歴史では、憲政は輝虎様に関東管領職を譲られたわけだが、この地ではどうなるか。憲政の幼い嫡子は存命だし、憲政もまだ老年というほどではない。関東の情勢も随分と異なる。
里見家は、誰もその姿を知らずと噂されるなぞめいた当主義尭の下、『槍大膳』こと正木時茂らが勇戦して勢力を広げているらしい。他にも佐竹の当主がすでに鬼義重であったりと、俺が知る歴史とは随分と異なっている。まあ、伊達政宗がすでに伊達家の当主であることから、不思議というほどではないのだが。
ともあれ、越後で安寧をむさぼっている今の憲政の体たらくを見れば、今後、関東管領の威権を復活させんと君子豹変する可能性は皆無(偏見あり)なので、憲政を家督譲渡の方向へ誘導することは不可能ではないだろう。
当主が代われば政策も変わる。関東管領と北条家が提携する方策も探れるし、そうなれば上杉は関東管領と北条家と、いずれとも手を結べるのである。
「もちろん、そこまではっきりとは申しませんでしたが――」
秀綱であれば俺の考えはお見通しだろう。困ったように首を傾げていたし。
それを聞いて、政景様はめずらしく嘆息する。
「業正殿といい、秀綱殿といい、あたら優れた武将だけに、仕え甲斐のない主君をもってしまったことが悔やまれるわね」
しみじみとした政景様の述懐に、俺はつい頷きそうになる。
だが。
「同感です、と申し上げたいところですが……」
かぶりを振った俺を、政景様が怪訝そうに見やる。
その政景様に向かって、俺は自分の意見を述べた。
「仕え甲斐があるか否かは、その当人しかわからないことです。ただ私見ですが、秀綱殿も、そして多分業正殿も、憲政殿に克目してほしいと思いはしても、憲政殿に仕えたことを悔いてはおられないと思うのです」
俺のその言葉に、政景様は目を瞬かせる。
が、不意に何事かに気づいたように、かすかに笑みを浮かべた。
「――なるほど」
晴景に仕えたかつてのあんたもそうだったわけね。
政景様の目が優しげにそう問いかけ――俺は深く頭を下げることで、それに応えるのだった。
しばしの沈黙の後、政景様は気分を切り替えるように、一度、強く手を叩いた。
「さて、じゃあこの話はここまで。次に晴信、じゃない、信玄だっけ。信玄はどう動くつもりなの? 信玄が駿河と氏真をどう扱うか。それ次第で、もう一戦起こる可能性も低くないわよ」
「確かに、仰るとおりです」
山国である甲斐にとって、豊かな他領を得ることは長年の宿願である。ことに港、海を手に入れることは武田家の悲願といってよい。
しかし、南の駿河を今川家が、東の相模を北条家が押さえている以上、南と東の海を奪うことは容易ではない。ゆえに武田は両家と同盟を結び、北進を続けた。理由の一つに、越後の海があったことは疑いないだろう。
だが、信玄は武田、上杉、北条、松平の四国同盟のことを口にした。つまり、わざわざ北の越後を取るまでもなく、南の海を手に入れる目算が立ったのである。上杉との同盟に踏み切れる下地も、そこで形成されたのだろう。
すなわち、信玄が駿河征服を既定のこととして考えているのは明らかであると政景様は言う。そして俺は、信玄の口からそれが事実であることを聞かされている。
しかし、これまで傀儡の身であった今川氏真が信玄の駿河制服に抗おうとした場合、問題が生じる。そのことを政景様は指摘しているのである。
「氏真殿が今、どのような状況にあるかは定かではありません。しかし、信虎が姿を消せば、傀儡の立場から解放されることは確かです。そこにいたって、氏真殿が武田と矛を交えようとすれば、状況は予断を許さなくなります」
もし、氏真が今川家を存続させるために動いた場合、松平元康は今川の側に付く。これは確実である。そして北条氏康も同様だろう。おそらく今川家は河東の地を北条家に割譲することになるだろうが、逆に言えば、その条件さえつければ、北条家は間違いなく今川の側に付く。
その状況で武田が今川家を滅ぼそうと欲すれば、政景様の言うとおり、新たな戦の呼び水となることは確実であった。
「しかし、その心配は杞憂でしょう」
あっさりと言い切る俺を見て、政景様は首を傾げた。
「いやに自信たっぷりね。あの晴信――じゃない、信玄が念願の海を前に簡単に思いとどまるとは思えないんだけど」
「……その通りです。しかし、仮に駿河が今川のものとして残ろうと、武田は海を手に入れるのですよ」
俺の言葉に、政景様の顔に疑問符が浮かぶが、すぐにはっとした顔になる。
「――なるほど、遠州か」
「御意」
政景様の呟きに、俺ははっきりと頷いてみせた。
「信濃で叛乱が起きて、すでにかなりの時が経っています。信濃に赴いたのは内藤昌秀殿。かつて輝虎様の鋭鋒をかわしきった彼の将であれば、信濃国人衆の叛乱程度、苦もなく鎮めているはずです。しかし、その軍が甲斐に取って返した形跡はありません」
それは何故か。
内藤勢が赴くべきは、別の場所であったからだ。
その場所とは、政景様の口にした通り、遠州――遠江。
「風と謳われた御仁です。躑躅ヶ崎の詳報が伝わった時点で動いていたはず。おそらく、すでに遠江に入っていることでしょう。遠江の今川勢は、西の松平と東の武田、北条の情勢に目を奪われている。北からの急襲に対応できるとは思えません」
俺の言葉に、政景様が腕組みをしながら、その続きを口にする。
「武田が遠州に入れば、三河の後詰をしている曳馬城の部隊はそちらに向かわざるを得ないわね。そうなれば、後詰がいなくなった三河の今川勢は松平の下に降る、か」
「御意。そして、勝利した元康様は遠江に侵入し、遠江の今川勢は北と西からの挟撃を受けることになります。ただ、おそらく元康様が遠江に入る頃には、戦は終わっていると思いますが」
先の『遠州錯乱』の影響で、遠江では今川家の支配に否定的な者たちが多い。彼らは、格下であった三河衆の一城主である元康の下につくことに抵抗はあるだろうが、甲斐源氏の棟梁である武田家の侵攻を受ければ、長く抗おうとはしないだろう。
内治に優れた手腕を発揮する昌秀がそれに気付かないはずはない。おそらく、遠江は瞬く間に武田勢力に飲み込まれることになるであろう。
遠江は、駿河ほどではないにしても十分に肥沃な土地であり、良港も多い。曳馬城などは西に浜名湖を、東に天竜川を有する水の恵みが豊かな城で、統治者次第で駿府に優る活況を呈することも可能であろう。
氏真にしても駿河を安堵されれば、それ以上のことは言えまい。松平は三河を。北条は富士川以東の地を得るであろうから、これも同様である。すなわち、武田の遠江支配を否定する勢力はいないということであった。
そもそも今回の戦の発端が信虎の暗躍にあるとはいえ、戦の責任、その全てを武田家が負わねばならない理由にはならない。
くわえて言えば、先の乱で信虎が駿河に逃げた折、義元がそれを受け入れた理由の中に、甲斐との外交の切り札を握る思惑があったことは間違いないと思われる。
その結果として信虎の跳梁を許し、桶狭間の敗北を喫したこと。新たな当主が傀儡とされ、家中の実権を握られたこと。さらにはその命じるがままに、甲斐へと侵攻してきたこと。今川家がこれらの責任を、武田家にありと主張するならば、それは戦乱の世にあって甘ったるいとさえ評し得る見当違いの非難と言える。
そんなことを考えながら、なおも俺は言葉を続けた。
「無論、遠江を得たからといって、駿河が要らぬというわけではありますまい。しかし海が手に入れば、松平と北条に挟撃を受けかねない危険な賭けをする必要はなくなります。そのような事態になれば、北から我らの侵攻を受ける可能性も低くはありませんし、信玄様はそのことを承知しておられるかと存じます」
俺がそう言うと、政景様が不意に表情を変えた。
にやりと(にこりと、ではない)笑って、こう言いやがったのである。
「あら~、さすがに妹のこととなると必死だわね――兄上?」
ぐふ、と変な声が俺の口からもれた。
それでも、先刻からいかにもわざとらしく『信玄』の名を強調していたことから、いずれはこう来ると読んでいた俺は、平静を装って応えた。
「……冷静にして偏りのない情報の分析と、それをもとにした見解でござる。他意はござらん」
「はいはい、まあそれはそれとして」
自分から水を向けておきながら、あっさりと流す政景様。じゃあ言うな、と思ってしまった俺は、きっと悪くない。
政景様の表情がかすかに翳る。
「問題は、氏真がどんな状況にあるのか、ということね」
「……はい。氏真殿が信虎の傀儡となってから今日まで――」
正気を保っているのなら。そう言おうとして、俺は咄嗟に口をつぐんだ。
「いえ、信虎がいなくなったことで、ご自分を取り戻されていれば、今川の名跡は保たれましょうが……」
元々、元康は氏真を救うべく越後までやってきたのだし、上杉家が動いたのも、その元康の請いに応じてのことだった。戦に勝っても、氏真が死んでしまえば俺たちの奔走も意味をなさなくなってしまう。
元康はもちろん、氏康も、そして信玄も、今、今川家と戦っている者たちの中で、積極的に氏真の身命を縮めようとする者は存在しない。ゆえに注意を払うべきは信虎の残党と、それ以上に信虎の頸木から解き放たれた今川家中の暴走である。
これを未然に防ぐためには、可能なかぎり速やかに駿府城を制圧するしかないのだが、越後にいる俺たちに出来ることはほとんどない。信玄や元康、氏康らの武運と、氏真の無事を願うことくらいであろう。
不意に、羽音と共に一羽の海鳥が舳先に舞い降りてきた。
逃げるでもなく、きょろきょろと海面と、俺たちを交互に見て、しばらくすると、また羽を羽ばたかせて空に舞い上がっていった。向かっていく先には海鳥の群れがいる。どうやら短い迷子であったらしい。
この闖入者によって、舟上の沈黙が終わりを告げた。
政景様は、海鳥が飛び去った方向に視線を注ぎながら、小さく呟いた。
「――駿河は遠い。あんたの妹を信じるしかないわね」
「御意。手紙でも書いて送った方が良いですかね」
暗い空気を嫌った俺が、そう言ってややわざとらしく笑うと、政景様は小さく肩をすくめてみせたのだった。
◆◆
「――さて」
そろそろ良いか、と考えた俺は、政景様と、そして先刻から黙って俺たちの会話に耳を傾けている定満に向けて問いかけた。
「このようなことを聞くために、わざわざ舟を出したわけではないのでしょう。本題をお聞きしてもよろしいですか、お二方?」
「あら、なんのことか――」
「『なんのことかしら兄上♪』とか言うつもりなら、舟ひっくりかえします」
ち、と短い舌打ちの音がする。ほんとに言うつもりだったんか、あんた。
「……政景様?」
俺が押し殺した声で名前を呼ぶと、政景様は降参とでも言うように軽く両手を挙げ――肝心の『本題』を口にした。
それを聞いた俺は、思わず目を瞬かせ、首を傾げる。
「……冗談、というわけではないんですよね」
「あいにくと、舟を出して、海まで来て冗談を言うほど暇じゃないのよね」
そう言う政景様の顔は、俺の戸惑いを見て取って、少し愉しげではあったが、虚偽を口にしているようには見えなかった。
俺は確認の意味も兼ねて、政景様の口から出た一つの単語を口にする。
「……筑前守?」
俺の言葉を、政景様はあっさりと首肯し、もう一度本題を口にした。
すなわち――
「そ。それがあんたが授かる官職ってわけ。ついでに言えば、京の許可もある正式なものよ、天城筑前守颯馬殿」
俺はいっそ静かに口を開く。
「……たしか、筑前守って従五位下にあたると思ったんですが」
京都で兼続に叩き込まれた知識の中から、官位と官職の関係を思い出しつつ、俺が問うと、政景はあっさりと頷いた。
「ええ、そのとおりね」
「……その任官を朝廷が認めたと仰いましたか?」
「ええ、そう言ったわ」
「……政景様にではなく、俺に、ですよね?」
くどいくらいの問いかけであったが、三度政景様の首が縦に振られた。
政景様の様子を見て、それが嘘偽りのない事実であることを悟った俺は、ぽかんと口を開ける。
それはそうだろう。現在、輝虎様の官位が正五位下、官職が弾正少弼である。従五位下といえば、そのわずか二つ下である。
しかも、五位以上の官位を持つ者は昇殿を許される、いわゆる貴族に相当する。俺のように若く、門地もなく、しかも氏素性の知れない人間が任官を許されるなど本来なら決してありえないことであった。
ただ、一つだけそれを可能にする手立てがないわけではないのだが、いや、しかし……
「……いくら朝廷に献金したら、こんな奏上が認められるんです?」
献金で官位を得るのは決してめずらしくはないが、ここまで異例なことを押し通すとあらば、尋常でない金額が必要になるのではないか。
おそるおそる問うた俺に、政景様はあっさりと答えた。
「上杉の金蔵が半分くらい空になったわね」
「ちょっと待てィッ?!」
思わず叫ぶ俺。
「――というのは冗談だけど」
澄ましてこたえる政景様。
「おいこらッ?!」
「まあ、話半分だと思っておけば良いわよ」
「それでも十分おかしいんですけどッ?!」
遠く春日山城に届けとばかりに、俺は大きく叫んだ。
叫ばざるを得なかった。
これから、越後国内を整備していく上で金がいくらあっても足りないこの時期に、よりによって献金で官位を得るとは。それも輝虎様や政景様ならばともかく、俺のためとか、本気で意味がわからん。
おそらく先の上洛で上杉家が培った人脈を駆使し、佐渡の黄金を惜しげもなく注ぎ込んだのだろう。そうでもなければ、こんな無茶な奏上が通るはずもない。
京での細工も含めて、一日二日で出来ることではない。おそらく、俺たちが甲斐に赴いた時から――否、それよりも前から動いていたのではないか。
それ自体はありがたいことではある。俺の功績に報いるという意味もあるのだろう。だが、官位を得たところで権威や箔付けにはなっても、実質的な益は無いに等しい。
この人事に費やした金があれば、どれだけ国づくりが進んだことか。それを考え、俺が声を荒げかけた時だった。
「……これはご褒美だけど、ご褒美じゃない」
その声は、後方から聞こえてきた。
定満の落ち着いた声音は、混乱しかけていた俺の心を、すっと軽くしてくれた。まあ、それでもまだ落ち着くには程遠いのだが、他人の話に耳を傾ける程度の余裕は出来た。
その俺に対し、定満はのんびりと話を続ける。
「颯馬も、そろそろ腰を落ち着けてもらわないといけないから」
「そのための官位ですか? けど、越後を出るつもりなんて俺には微塵もありません」
あるいは、武田家へ赴くと疑われているのだろうか。
そんな俺の心中を読み取ったのだろう。政景様はあっさりと否定した。
「んなわけないでしょう。あんたが上杉から……というか、輝虎から離れようとするはずないんだから」
「う、ま、まあそのとおりなんですが。けど、じゃあなんで今この時に官位なんて授かったんですか。これから内政の基盤を整えていく上で、金はいくらあっても足りないというのに」
心底不思議に思って問いかける。すると、政景様は思いのほか真剣な顔で答えを口にした。
「単刀直入に言って、あんたに恩を着せるためよ」
「は? あ、いや、それは俺などのためにここまでしてくださったことは、ありがたいと思ってますが」
「しかも、それをしたのは上杉の金。あんたが考えたとおり、内政に使えばたくさんの実りをもたらしたはずの金よ。つまりは、あんたのために、越後の人たちの大切な金が使われたわけ。あんた一人のために、ね」
その言葉には、さすがに俺も憮然としてしまった。
「……そうしてくれと頼んだ覚えはないんですが」
「そう。考えたのはあたし、実行したのは定満。正直、輝虎も事後承諾よ。あんたが責任を感じる理由なんてどこにもないけれど――」
でも、あんたは恩に着る。
あたしではなく、越後の国と、民に対して。
政景様は苦笑ともとれる笑みを浮かべつつ、そう俺に告げた。
「ついでに言えば、重荷に思うでしょ。いつか返さないといけない借りが出来たってね。こうしておけば、義理堅いあんたのことだもの、越後を離れることは出来ないでしょ。ううん、たとえ、離れざるを得なくなったとしても、いつかは帰って来る――少なくとも、そう努めるでしょ。これは、そのための楔よ」
そういうと越後守護代長尾政景は、さあ、反論があったら言ってごらん、と言わんばかりに胸をそらして俺を見据えるのだった。
◆◆
政景様が何を目的として、今回の任官を画策したかはわかった。だが、やはりわからない。何故――
「何故、俺のためにここまでしたんですか」
確かに、大きな楔である。ちょっとやそっとでは引き抜くことは出来ないほどに。それは認めるが、しかしこれは明らかにやりすぎである。俺の輝虎様への忠誠は措くにしても、俺という人材にここまでして引きとめるほどの価値があるとは到底――
と、そこまで考えたとき、不意に定満が囃し歌の一節を口ずさんだ。
「今正成に股肱あり、鬼の小島に飛び加藤」
「瑞雲たなびく春日山、越後の竜が飛ぶは今」
定満に続いて、政景様も同じような一節を口にする。
そうして、俺を見る政景様の目は、こちらが怯んでしまいそうなほど真摯な光に満ちたものであった。
「その智勇をもって上杉輝虎、武田晴信と伍し、小島貞興と加藤段蔵という忠勇無双の臣下を得て、国民が主君と並び称するほどの衆望を得た。その智勇、その人望、その名声、いずれもただものではありえない。自覚しなさい、天城颯馬。あなたの身に備わった力は、もはや一臣下としては大きすぎるほどなのだ、と」
政景様の言葉に、俺はただ聞き入ることしか出来ぬ。
「そんな人間を、今のままにしておくわけにはいかない。輝虎ならば、信の一字で済ませてしまうでしょうけど、越後守護代として、あたしはそれでは済まさない。今回の晴信の話は、まあ悪戯で済ますことが出来るとしても、これから先、あんたが越後を出ていかざるを得ない時が来ないとは限らないわ。あんた自身が望まないとしても、周囲があんたを除こうとするかもしれない。あるいはあんたの存在が、輝虎のためにならない状況が訪れるかもしれない」
『もし、そんな時が来たとしたら』
政景様は笑いもせずにあっさりという。
『あんたは、越後を出ていこうとするでしょう』と。
「繰り返すけど、越後守護代として、あたしはそんなことを許すわけにはいかない。許すには、あんたは少し大きくなりすぎてしまったわ。他国に渡れば越後を覆してしまいかねない、そんな奴に楔を打っておくのは当然のことでしょう」
この際、俺の心情は関係ない、と政景様は言う。
問題なのは、するかしないかではなく、出来るか出来ないかなのだと。
それでもなお、俺がこの国を出ていこうとするのなら――
意味ありげに言葉を切った政景様に向け、俺は恐る恐る問いかける。
「出て行こうとするのなら……?」
「ずんばらりん、よ」
そう言うや、いつのまにか俺の近くまでにじり寄っていた政景様の手刀が、俺の額を柔らかく叩いてきた。
思わず目を瞑ってしまった俺の耳に、すぐ近くから政景様の笑い声が響いてくる。
知らずため息が出た。
「ずんばらりん、ですか」
「そ、ずんばらりん」
澄ました顔で繰り返す政景様に、俺は苦笑しつつ言った。
「なら、意地でもこの国に留まらないといけませんね」
「そ、意地でも留まりなさい」
そう言った後、付け加えるように政景様が口にした言葉は、おそらく何気なく口にしただけのものだったのだろう。
しかし、はからずもその言葉は、それから数年にわたって、俺の胸をたゆたうことになる。
――それでも、もしどうしても、この国を離れなければいけなくなったのなら。
――その時は、意地でも、帰ってきなさい。