湯治とは、端的に言って、温泉に入って傷の治療をすることである。
そして俺は湯治のためにここにいる。しかるに、来たときよりも疲れ傷ついているのはどうしたことだろう。
げに不思議なるは甲斐の温泉、人の生気を吸い取るあやかしの湯なるか……
「……遠い目をして、湯に罪をなすりつけないでください」
心の安寧を保つため、現実から目を背けようとしていた俺を一瞬で正気に引き戻したのは、隣でのんびりと茶をすすっていた黒髪の剣聖殿であった。
件の信玄の「兄上」発言の後である。
信玄から親しげに言葉をかけられながらとった食事の味は、正直全然おぼえていない。理由は……察してほしい。
ともかく、信玄が退出した後、俺は当然のようにその場にいた全員(幸村含む)から質問の嵐を――もとい、詰問の嵐を受け、それはつい先刻まで続いていた。
ようやく解放され、俺が自分に与えられた部屋で突っ伏していると、そこに秀綱が茶をもってきてくれたのである。
その気遣いに涙しそうになったのは内緒だ。もっとも、気遣いだけで訪ってくれたわけではないだろう。どのみち、後でこちらか出向かねば、と思っていたからちょうど良かった。
四国同盟。信玄の口から語られ、俺が心ひそかに暖めていたその策は、秀綱にとって看過できないものであったろう。
上杉、武田、北条、松平の同盟。それはすなわち、北条家に逐われた関東管領上杉憲政と、上野国箕輪城の長野業正殿をはじめとした関東管領麾下の諸領主の存在を蔑ろにすることだからである――否、もっとはっきりと『裏切り』と称するべきであろう。
上杉家と北条家が盟約を結ぶためには、関東管領の存在が邪魔になるのは自明の理。
その上で北条家との締盟を考えていたということは、俺がいずれ関東管領と手を切ることを考えていたことを意味するからである。
率直に言えば。
そのこと自体は誤解でもなんでもなく、ただの事実である。俺はこれまで、上杉憲政の存在は邪魔者以外の何者でもないと考えていたし、おそらくは今後もその考えは変わらないだろう。
権威はあれど柔弱な関東管領山内上杉家と。
精強にして内治に優れた北条家と。
いずれと手を組むのが得策であるかなど考えるまでもないだろう。
だが、それはあくまで俺の考えであって、天道を往く上杉家にとっての答えは異なった。
天道を奉じず、天道に復るとは幻庵の言葉であったが、それは主家の意向に逆らって好き勝手するという意味ではない。この場合、俺が考えるべきは輝虎様のように誠意をもって関東管領を援けることではなく、どのようにその存在を利用して、関東に上杉の覇権をうち立てるべきかであった。それは結果として、関東における憲政の権威を高めることに繋がるであろう。
そう考える一方で、やはり憲政さえいなければ、との夢想が件の四国同盟に結実されていたのである。
とはいえ、俺がひそかに考えているだけならば何の問題もなかったのだが、それが信玄の口から実際に起こりえる未来であると口にされたのは、予想外もいいところであった。
このことが他国に知られれば、上杉家の信義に関わる問題となってしまう。特に秀綱は、上杉家に協力してくれているとはいえ、長野業正殿の家臣――すなわち関東管領を主君と仰ぐ立場なのだから、心穏やかでいられるはずもないに違いない。
秀綱のことだから事をわけて説明すれば、四国同盟があくまで俺個人の考えであり、春日山上杉家が憲政に対し、二心をもっていたわけではないことはわかってもらえると思う。
しかし、事をわけて説明するとなると、俺が関東管領を敵視さえしていることも告げねばならない。俺の本心を秘して弁明したところで、あの澄んだ双眸はたやすく俺の内心を見抜くだろう。
そうなれば、弁明が弁明でなくなってしまい、より厄介な問題になりかねない。
ゆえに秀綱との良好な関係に終止符がうたれる可能性が高いとわかっていても、俺は本心を吐露せざるを得なかったのである。
(……まったく、我が妹君は厄介な楔を打ち込んでくれたものだ)
胸中でため息を吐く俺。
それゆえに。
「……本当に、羨ましい」
ぽつりと。
秀綱がそんな言葉を口にしたのが、俺には意外であった。
◆◆
「羨ましい、ですか?」
非難か詰問、そのいずれかを予期していた俺は、羨望の言葉を聞いて首を傾げた。
対して、秀綱はこくりと頷く。腰まで伸びた黒髪が、波打つように揺れた。
「はい。もとより、越後に来てからずっとその思いはあったのですが。先刻の様子を見て、心よりそう思いました」
「先刻の……?」
俺が信玄に名を授けるに到った詳細を、謙信様と弥太郎、段蔵に問い詰められて白状させられていた。それを見て羨ましいと感じるとは、また面妖な。
なんとか湯殿での一件はごまかそうとしたのだが、輝虎様相手に嘘いつわりは言えないし、言ったところで見抜かれるに決まっていた。段蔵が傍らにいるのだから尚更だ。
従って、結局湯殿での一件も一部を除いて白状させられてしまったのである。
弥太郎は顔を真っ赤にし、幸村は別の意味で顔を真っ赤にし、段蔵は深々とため息を吐き、謙信様は経緯を聞いた後は、なにやら考え込むように無言。
その後も、何やら空想を逞しくしていた弥太郎が真っ赤になって倒れたり、幸村に果し合いを挑まれたり、段蔵が放つ皮肉の矢を必死になって避けたりと大騒ぎであった。中でも一番怖かったのが、口をへの字に結び、無言で腕組みする謙信様だったりする。秀綱の後は、謙信様に平身低頭しなければならん。
それはさておき。
確かにあの時、秀綱は特に何も口にせず、俺たちの様子をじっと見つめていただけだったが、しかしまさか俺を羨んでいるとは思わなかった。
しかし……どのあたりに羨望する要素があるのか。秀綱も信玄に身体を洗ってもらいたかったのだろうか?
「違います」
違うようだ。
「――って、別に何も言っていませんが?」
「目は心の鏡といいます。特に天城殿はわかりやすいですし」
「う……」
俺は咄嗟に秀綱から目をそらしてしまう。いや、決して秀綱と信玄の混浴姿を想像していたわけではないのです、はい。
そんな俺の様子を見て、くすくすと笑う秀綱。
俺はますます項垂れるしかない。何と言うか、やはりこの人は苦手――というよりも、敵わないという気にさせられてしまう。
そんな俺の困惑を見て取ったのか、秀綱は話を先に進める。
段蔵であれば、ほぼ確実に追撃をかけてくるだろう。このあたりの余裕(?)もまた、俺が秀綱に敵わないと思わせられる理由の一つであった。
再び口を開いた時、秀綱の表情に微笑はなかったが、その声はどこか優しげに俺の耳に響いた。
「家臣が心から主君に忠節を尽くし、主君は疑うことなくその忠節を受け入れる。それは君臣の在り方として当然であるべきこと。ですが、この戦乱の世にあって、実際にそう在れる君臣はほんの一握りに過ぎません」
下克上。
その一字が象徴する、今は戦乱の世。臣が君を弑し、君が臣を逐う時代。
君臣を問わず、忠節という言葉の上に胡坐をかいていては、自分のみならず、自らの家さえも滅ぼされかねないこの時代、秀綱の言うような君臣の関係は、現実を知らぬ理想であると切り捨てられてもおかしくはなかった。
だが、秀綱は言う。
その理想が、目の前にある、と。
「他家の主に名を与え、兄として敬われるあなたを見て、皆、憮然としていましたが……」
再びくすくすと笑いながら、秀綱は先刻のことを口にする。
俺が閉口して視線をそらせると、秀綱はなんでもないことのように、次の言葉を口にした。
「――それでも、上杉を去るのかという問いかけは、一度として為されませんでした」
俺は思わず視線を戻し、秀綱の顔を見つめる。凪いだ湖面のように穏やかで、深みのある眼差しが俺に向けられていた。
秀綱はゆっくりと言葉を続ける。
「他家の臣を一族扱いするなど、戯れにしても行き過ぎています。まして信玄殿は甲斐源氏の棟梁――その立場の重みを誰よりも理解し、そして誇りとされている御方です。その信玄殿が、天城殿を兄と呼び、あまつさえその意見を等閑(なおざり)にせぬとまで口にされた」
これは信玄が俺に対し、武田家に相応の席を用意すると言明したに等しく、立派な誘降である――そう考える者は少なくないでしょう。秀綱はそう言うのである。
「にも関わらず、誰一人としてその心配をされていませんでした。段蔵殿はずいぶんと立腹され、きつい物言いになっていましたが、それでもその一事は決して口にはされなかった。疑うとか、信じるとか、そんな言葉さえ使う必要はないくらいに、皆、わかっておられたのですね」
――天城颯馬が、上杉を離れるなどありえない。そのことを。
そう言って俺をみつめる秀綱の眼差しは、本当に優しげで、そしてどこか焦がれるような光があった。
「天城殿たちにとって、それは当然のことなのかもしれません。いえ、当然のことなのでしょう。けれど、他国から見れば、それは羨むしかない君臣の在りようなのです。奇跡に等しいと、私などは思いますよ」
浮かんだ笑みは、さきほどまでのものとは違い、どこか寂しげに映る。
報われぬ忠節の念を痛むその顔に、俺は自分がどれだけ恵まれているのか、初めて実感をともなって理解することが出来たように思う。
おそらく、自分自身のことであれば、秀綱はここまで表情に出すことはなかったであろう。
落日の関東管領家を支える長野家にあって、随一の武勇を誇る秀綱が誰のために表情を曇らせているのか。あえて確かめる必要を、俺は認めなかった……
◆◆
その後。
俺は秀綱に対して四国同盟はあくまで個人の考えであり、これまで一言たりと口外したことはない旨は伝えておいた。
憲政に関しても、あの御仁を実権から遠ざけられないかを考えたことはあるが、それは関東管領家ならびに長野家を裏切る意図によるものではなく、関東の安寧を保つためにはその方が良いと考えたからだ、とも。
我ながら言い訳じみた言い方になってしまったと頭を抱える俺に対し、しかし秀綱はあっさりと頷いただけで、追求一つ口にせず、お茶を飲み終えると静かに出て行ってしまったのである。
そのあまりの呆気なさに、俺は首を傾げることしきりだった。というか何しに来たのだろう、てっきり俺を詰問しに来たのだとばかり思っていたのだが。
そんなことを考えていると、その夜のこと。
俺が湯からあがって、部屋で書き物をしているところに、弥太郎と段蔵がやってきた。二人も湯上りらしく、頬は上気したように赤らみ、髪は艶を帯びて灯火を反射している。
その二人に何気なく昼間のことを訊いてみると、弥太郎はあっさりとこう言った。
「それは大胡様が颯馬様のことを心配していらっしゃったに決まってるじゃないですか」
何を当然のことを、という感じできょとんと返されてしまった。
「そ、そうなのか?」
「はい。あ、その、でもそれは、すこし私たちのせいでもあるんですけども……」
もじもじとしながら、弥太郎は申し訳なさそうにこちらを見る。
件の発言から半日以上、さすがに冷静さを取り戻してくれたようだった。それは大変結構なことなのだが、秀綱がただ俺を心配して来てくれたというのはさすがに違うだろう。
四国同盟のことに関して、春日山上杉家の真意を質しに来たのは間違いないはず――
「それは主様が勝手に考えていたことだと、大胡様はとうに気づいていらっしゃったのでしょう」
段蔵が俺の困惑を一蹴する。
俺は段蔵の言葉を吟味し、考えつつも簡単な言葉に直してみた。
「つまり、真意なんて質す必要もなかったわけか?」
「はい。春日山上杉家の主は輝虎様です。大胡様は輝虎様の為人は良くご存知でいらっしゃる。主様のように他家を蔑ろにするような策謀を秘めるような方ではないと、童子でもわかること。大胡様が察せぬはずがありましょうや」
「……いや、別に蔑ろにしたわけでは」
「おや。関東管領は言うにおよばず、そもそも此度の戦で援けるべき今川家を排除したような案を暖めている方が、どの口でそのような詭弁を弄するのでしょう?」
「……むぐ」
刃の切っ先を突きつけるにも似た鋭い段蔵の詰問に、俺は一言もなく押し黙る。
四国同盟に今川家の名前がないこと、すなわちそれは俺が今川家滅亡を既定のこととして考えていたことではないか、と段蔵は言っているのである。
……正直なところ。
今川氏真を助けることと、今川家を援けることは、俺の中で別のこととして認識されている。
氏真の命を助けることに関しては、松平元康はもちろんのこと、北条氏康も、そして武田信玄も同意している。
しかし、それは三家が、今川家を存続させることを承知したというわけではなかった。
ことに実際に侵攻を受けた信玄は、今川家に対して容赦はするまい。それは昨日、信玄自身の口から聞いたことだった。
信虎の暗躍があったにせよ、今川家が武田家に攻め込んだのは事実であり、その責任は今川家に跳ね返ってくる。すべては信虎の、ひいては武田家のせいだ、などという弁明が通るほど信玄も諸国も甘くない。
そもそも、信虎の身柄を受け入れたことは、今川家の判断なのである。おそらく義元は、甲斐武田氏との外交の切り札を握るつもりだったのだろう。
ともあれ、今川家存続の目があるとしたら、他国が駿河を押さえる前に氏真が家中の実権を取り戻す必要があるが、元康の話を聞いたかぎり、氏真が自分の意思を持っているかどうかさえ危うく映るのである。
だが、実のところそういった状況は四国同盟の件とは関わりがない。
単純に、俺の知る歴史で今川家が滅びていたから、数に入れていなかっただけである。迂闊なように聞こえるかもしれないが、そこはそれ、はじめから言っているように俺の中では四国同盟はまだ夢想の状態であって、実現に向けて動いているわけではなかった。それゆえ、齟齬が生じるのは当然だったのである。
ただ、信玄の構想が俺の夢想と一致したということは、信玄が今川家をこのままにしておくつもりはないと考えていることの証左になるであろう。
だが、まさか段蔵にそこまで言うわけにはいかない。
そんなわけで、俺は段蔵の物言いに反論することが出来なかったのである。
俺の逡巡に段蔵がかすかに眉をひそめ、何事か口にしようとした時。
それに先んじて、なにやら腕組みしていた弥太郎がしみじみと呟いた。
「……わたし、颯馬様にお仕えできて、とても幸せです」
――ぐしゃり、と大きな黒い斑点が紙上に刻まれる。ここまで書き連ねていた文章がすべて水泡に帰してしまったのだが、それは些細なことだった。
目を瞬かせながら、俺は突然の弥太郎の言葉に問いを投げかける。
「どうしたんだ、突然?」
「えと、今までもそう感じてはいたんですけど、大胡様のことを聞いたら、私がとっても恵まれているんだって、急に実感しちゃって」
「ふむ?」
「それで、この気持ちを今のうちに颯馬様にお伝えしないとって思ってッ」
頬どころか首筋まで真っ赤にそめた弥太郎のあまりに率直な物言いに、俺は弥太郎のように照れることも出来ず、むやみに頭を掻くしかなかった。
そんな俺たちを見て、横合いから声を発する者がいた。
「確かに、颯馬様に仕え、ひいては輝虎様にお仕えすることが出来るのですから、大胡様のような苦悩とは無縁でいられます。これは幸せなことでしょう」
何を思ったか、段蔵までがこんなことを言い出す始末。しかし、段蔵の言葉には弥太郎と違って続きがあった。
「しかし、死にたがりの上に、約定は守らない、考えることは非道、おまけに他家の当主に甘えられて鼻の下を伸ばすような方に仕える苦労を大胡様は知りませんから。その意味では大胡様の方が私たちより幸せであるかもしれません」
「だ、段蔵、それはちょっと……」
「言いすぎだと思うのですか、弥太郎?」
「……あう」
段蔵に先回りされ、弥太郎は困ったように俯く。それだけで答えを聞いたも同然であった。
俺は冷や汗をかきながら、ひたすら聞こえない振りをするしかなかった。
そんな俺を、きつい眼差しで見据えていた段蔵だったが、不意に表情を緩め、小さく嘆息した。
「……まあ、このあたりにしておきましょうか。颯馬様も十分に反省したでしょうし」
「……ええ、それはもう」
満腔の同意を込めて、俺は深く頷く。
俺の神妙な顔を見て、段蔵は最後の確認、とばかりに口を開く。
「よいですか。敵将に一騎打ちを挑むなど、将にあるまじきこと。日の本の戦は、唐の戦とは違うのです。その程度のことはわきまえておられると思っていたのですが」
「いや、しかし、あの場ではそうするより他に――」
俺は反論を口にしようとしたが、段蔵はその隙を与えてくれなかった。というより、下手に反論を口にしたことで、再び段蔵の何かに火をつけてしまったようだ。
しまった、と思った時には、段蔵の顔が間近にあった。
湯上りの良い匂いがする、とか考える余裕は一秒の万分の一くらいで脳裏から消え去り、後は朝からの繰り返しが怒涛となって押し寄せてきた。
「そうするより他にない状況を避けるために、私たちが残っていたはずなのですが? その私たちを別の場所に据えたのはどなたでしたでしょうか?」
「……わたくしめにございます」
畏まってこたえる俺。
しかし、段蔵の言葉はまだまだ続く。
「真田殿が手傷を負わせてくれていたから、かろうじて命を奪われずに済んだのです。まさか、自分が真っ向から甲斐の狂虎を退けた、などと自惚れてはいらっしゃいませんよね?」
「無論でございます」
「そのお陰で甲斐の主の信を得たとはいえ、これは怪我の功名も良いところ。くわえて見目良い乙女とはいえ、他国の主に甘えられて浮かれるなど言語道断。以後は厳に慎んでいただきます」
「承知仕りましたッ」
「今後、戦の際は必ず私か弥太郎がお傍に控えます。主様に拒否する権利はないと思し召されませ」
「……質問をお許し願いたく」
「なんでしょうか?」
「戦の趨勢によって、どうしても将の数が足りない時はどうすれば?」
「そうならないよう存分に謀って下さいませ。我が主にして、越後の軍師たる方の采配の揮いどころでございましょう」
「……御意」
もう頷く以外に何一つ出来ない。
傍らの弥太郎の気遣う視線が一際、胸に染みる俺であった。
「そ、そういえば、颯馬様。今、何を書いていらしたんですかッ?!」
弥太郎がややわざとらしく声をあげたのは、多分、俺を気遣ってのことなのだろう。しかし、その目には少なからず興味の色がたゆたっていた。
最近、段蔵じきじきの手習いのお陰で、書の方も上達を見せている弥太郎だけに、俺が何を書いていたのか余計に気になったのかもしれない。段蔵も机上の紙に視線を送る。
もっとも、そこにはさきほど墨をぶちまけてしまった前衛芸術があるだけで、俺が何を書いていたかは、さすがの段蔵でも読み取れないだろう。
別に隠す必要もなかったので、俺は正直に答えた。
「今後の上杉家が採るべき方策ってところかな」
「方策、ですか?」
「ああ。武田との同盟は、本気で考えるべきだと思うし――って、段蔵、これは昨日の件とは関わりなくだぞ?!」
「わかっています。何を慌てているのですか」
「……いや、あれだけ責められたら、慌てちゃうんじゃないかな……」
「……弥太郎、何かいいましたか?」
「いえいえ、なんにもッ」
両手をぶんぶんと振る弥太郎であった。
段蔵が嘆息する。
「話が進みませんね。それで、颯馬様は武田との同盟を皆に諮るつもりなのですか? 信濃の諸将から猛反発を受けるのは確実ですが」
「当然だな。とはいえ、いつまでも武田と矛を交えているわけにもいかないだろう。そろそろ本格的に越後内部のことにも手を着けるべき時期だしな」
俺の言葉を聞き、弥太郎は首をかしげ、段蔵はかすかに目を見開いた。
そんな二人に、俺は胸中の方策を語って聞かせる。
「これまでは輝虎様の武威に皆が従うという形で越後はまとまってきた。長尾家であった頃から家政はほとんど変化がない。このまま、今の状況が続くのであれば問題はないんだが、諸国がそれぞれに動き出している今、越後も旧態のままでは遅れをとることになる」
「確かに、北条領内の統治は見事でしたし、武田にしても海を手にいれれば、今以上に国力を伸ばすことは必定。一年、二年はともかく、五年、十年と経てば、国力に大きな差が出ることになるでしょう」
段蔵の感想に、俺は頷いてみせる。
「だから、動くならば早い方が良い。国づくりは、一朝一夕で出来るものでもないしな」
国づくりといっても、楽市楽座とか、刀狩りとか、そういった革新的な改革を行おうというのではない。実際に行おうとしても不可能だろう。実力的にという意味ではなく、輝虎様が許可しないだろうからである。
輝虎様は乱世の平定を志してはいるが、それは織田信長のように旧来の秩序を否定したものではない。
足利幕府に往時の権勢を取り戻し、尊氏以来の秩序を取り戻すことによって、天下に安寧をもたらす。輝虎様と上杉家は、その考えの下で戦っている。これまでの仕組みを壊すようなやり方を、おそらく輝虎様は受け入れまい。
俺もまた、そこまでやる必要はないと考えている。
旧来の形を壊すということは、当然、これまで利益を得ていた者たちを敵にまわすということだ。ただでさえ安定しているとは言い難い越後国内である。国人衆のみならず、民や商人の有力者まで敵にまわすような、動乱の火種をまく必要はないだろう。
「簡単に言えば、北条家の政策の猿真似になるか。あれは良い手本だった」
俺が言うと、段蔵と、そして弥太郎も深々と頷いた。
二人とも千代さん改め北条氏康から説明を訊いているのである。
先刻まで、俺は北条家の諸制度を思い返しつつ、越後にどのように当てはめるかを考え、それを一つ一つ紙に記していた。
まったく同じことを実施したところで上手くいくはずがない。いつかも考えたように、越後と相模では内治に費やした時と手間が桁違いなのである。
まずは今の越後で出来ることから始めなければならず、そのためには――などと考えていたところに弥太郎たちがやってきたわけである。
納得したように弥太郎は何度も頷いていたが、ふと気付いたようにこんな問いを発した。
「でも、なんで紙に書くんですか? 直接お話になれば良いのに」
「……いや、今の状況でそれを言うか、弥太郎?」
「あ……」
朝からのことを思い出したのか、慌てたように両手で口を塞ぐ弥太郎。
それを見て、俺は苦笑しつつも別の理由を答えた。
「まあ、直接申し上げられるほどには、まだまとまってなくてな。かといって頭の中で腐らせるのももったいないから、今のうちに記せるところまで記しておこうと思ったんだ。それに、こうしとけば、俺が直接会わなくても、輝虎様に俺の考えを伝えることは出来るだろう」
「な、なるほど、そうですねッ、さすがは颯馬様ッ」
「……いや、そんなおおげさに褒められることではないと思うんだが」
「失言を取り繕うために必死なのです。察してあげなくては」
「段蔵、言っちゃだめッ」
顔を真っ赤にした弥太郎と、澄ましてそれをからかう段蔵。
いつか、部屋の空気はいつもと同じ和やかなものに戻っており、形式上は部下である二人の言い合いが、奇妙に耳に心地良い。
その時。
不意に、シャリン、と音がした。
短く、一度。
まるで何事かを急かすように。
だが、弥太郎と段蔵の様子に変化はない。
俺もまた、変化を悟らせるようなことはしない。
結局この日、俺の部屋の火は夜遅くまで灯り続けることになる。
◆◆◆
小島弥太郎と、加藤段蔵の二人が、この日のことを思い出すのは、これより数月後。
天城颯馬の姿が、越後から消え、その部屋から彼女らに宛てた手紙を見つけた日のことであった。