「御館様、お話いただき、ありがとうございました」
語るべきことを語り終えた晴信に対し、幸村が改めて頭を下げる。
幸村からすれば、目新しい事実が聞けたわけではない。しかし、晴信がわざわざ人の少ないこの場所まで出向いたことの意味と、その思いやりに気付かない幸村ではなかった。
「礼を言われることではありません。時が至れば、真田の当主には話さねばならないことだったのです」
そう言って、晴信はゆっくりと茶をすする。
実のところ、まだすべてが明らかになったわけではない。たとえば、あの時、晴信の命を狙った者は誰なのか。
信虎配下の忍であろうとは思う。だが、それにしては、信虎が逃亡した後もあの場に居残っていたことに不審が残る。あるいは、偶然あの場に出くわした兵、という可能性もないことはないが、しかし偶然晴信の姿を見つけた兵が、都合よく毒矢を携えているというのは出来すぎではなかろうか。
そしてもう一つ。晴信がひそかな危惧を抱いている事柄がある。あの乱の後に病を得て亡くなった信之。あれは本当に病死であったのか。
毒害の可能性は極めて薄いという報告を受けてはいるが、信之の年齢を考えれば、疑いを完全に払拭することが出来ない晴信であった。
今回の件は、そういった諸々のことを確認する機会でもある。
すでに勘助が動いており、答えは遠からず出るだろう。あるいは思いもよらない名前が出てくるかもしれない。
眉根を寄せ、考えにふける晴信。
その晴信に、幸村が奇妙な質問を放ってきた。
「御館様、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「かまいません。何か気になることがありましたか?」
躑躅ヶ崎の乱に関してだろう。そう考えた晴信の予想は、しかし、めずらしく外れた。それも予想外の方向に。
すなわち、幸村はこう問うてきたのである。
「しんげん、とは何を指す言葉なのでしょう?」
ぱちぱちと瞬きをする晴信、という実にめずらしい光景を幸村は目の当たりにする。
「……『しんげん』ですか。意見を具申する『進言』、厳しくおごそかな様をあらわす『森厳』、格言を意味する『箴言』と、思い浮かぶものは幾つかありますが。それはどのようなときに使われた言葉なのです?」
「は。実は、越後の者たちをこの湯治場に連れてきた時のことなのですが。天城が口にしていたのです。『これがしんげんの隠し湯か』と」
幸村の言葉を聞き、晴信は「ほう」ともらして、かすかに目を細めた。
「――その言葉だけを聞けば、今、私が挙げたものはいずれも当てはまりませんね。隠し湯、というからには、何者かが意図をもって、この湯治場を隠しているということです。それを考えれば、『しんげん』とはその何者かの名、つまりこの場合でいえば私の事をさすと考えるのが妥当ですが……」
無論、晴信の名は違う。これまで、そのように名乗ったこともない。
「当人は何と申しているのです?」
晴信の問いはもっともなものであったが、幸村は慌てたように、視線を左右に揺らした。
「あ、その、それが、本当に呟くような声だったもので。おそらく他の者たちの耳にも届いていないかと思います。問い返そうにも、間違いであったり、当たり前に使われている言葉かも、と考えると……」
しどろもどろにこたえる幸村を見て、晴信はひそかに頷く。
なるほど、万一にも道化になってしまうような事態は避けたかった、ということらしい。疑問をほうっておくことを嫌う幸村にしてはめずらしいこと、と晴信は内心おかしかった。
不意に。
晴信の目に悪童じみた光が煌いた。幸か不幸か、幸村はそれに気付かず、その後の晴信の台詞も当然のことと受け止めた。
「ふむ。機会があればそれとなく聞いてみることにしましょうか」
ともあれ、と晴信は続けた。
「せっかくここまで来たのです。今宵くらいはゆっくり湯に浸かりたいものですね」
「はッ。あ、しかし……」
「どうしました?」
「はい。上杉に知らせないとなると、天城をどういたしましょうか。指示された通り、御館様の湯殿を使わせているのですが」
下手をすると鉢合わせすることになりかねない、と幸村は危惧を示す。
だが、晴信はあっさりと問題を解決してみせた。
「私が使っているときは、掃除をしているとでも言っておけば良いでしょう。幸村も私に余計な気は遣わず、傷の養生に専念しなさい。あなたの傷とて、決して浅いものではないのですから」
晴信の気遣いに、幸村は深々と頭を垂れた。
◆◆◆
「月夜の下の露天風呂というのも、また一興」
湯殿に身を沈めながら、俺は空を見上げる。
季節は冬。驚くほど澄み渡った星空に浮かぶ黄金色の満月の下、手足を伸ばして温泉に浸かる。こんなに贅沢なことはあるまい。おもわず嘆息がもれてしまう。
「こんなとき、一首詠めれば様になるんだけど……」
風流を解さない無粋者には無理な話でした。
冬の山中、時刻は夜である。当然気温は低く、立ち上る湯気は視界を淡く塞ぎとめる。
ただ、空を眺めることに支障はない。降るような星空と、どこか優しげに煌く月の光に、いつまでも飽くことなく見入っていた俺の耳に。
コトン、と。
脱衣場の方から音が聞こえてきた。
当然といえば当然だが、この湯治場には、少数ではあるが建物の管理をする人たちがいる。
先刻食した質素な山菜料理も彼らがつくってくれたものだ。洗練とはほど遠い素朴な料理だったが、だからこそ疲れた身体に染みた。
ちなみに何故か狸の肉が出た。不思議に思って聞いたら幸村の猟果だという。怪我人が何をやってるのか、と呆れ驚いたが、それを調理したのも幸村だと聞いてさらに驚いた。そして、口にしてみて三度驚いた。滅茶苦茶美味かったのだ。
聞けば狸は随分と調理が難しいとのこと。幸村が食事の場に姿を現さなかったのは、そのためもあったらしい。無論、こちらへの気遣いもあったのだろうが。
幸村の意外な特技を知った俺は舌鼓をうった後、幸村を探して美味しかったと礼を言ったのだが、何故か怒られた。なにゆえ。
まあ、それはともかく、誰かが湯殿の掃除にでも来たのだろう。こんな時間に、と思わないでもないが、深く気にすることもあるまい。この湯殿に浸かっていると、浮世のことすべてに楽観をもって臨めそうな気がする俺であった。
だからこそ。
「失礼いたします。お背中、お流しいたしましょうか、お侍様」
その声が聞こえてきた時も、あまり慌てずに済んだ。
ただ、明らかに女性――というか少女の声だったので、少しだけ驚いた。まさか隠し湯に垢かき女がいるとは思わなかったし、それになんとなく声に聞き覚えがあるような気もするのだが。
だが、確かめようにも湯気が篭った湯殿では、近づかないことには相手の顔もろくに見えない。まあ、それは向こうも同様だろうから、恥ずかしがる必要がないというのも、俺が冷静さを保てた理由の一つではあった。
「いえ、お気遣いなく。このような夜分に、手間をとらせるのも申し訳ないです」
「手間などと、とんでもない。それに、これが私の務めですし、その務めを果たせないとなれば、御館様にお暇を出されてしまいます。お侍様は、二親のない私に、寒風ふきすさぶ山国で独り生きろと仰せになるのでしょうか?」
「――是非背中を流していただきたいと思います、はい」
さりげない口調で、さらりと辛辣なことを言われた俺は、あっさりと前言を翻す羽目になった。
そんなわけで湯殿から上がり、少女に背を委ねる。
温泉で女性に背を流してもらうという状況は想像をたくましくするものではあるが、向こうは仕事でやっているのだから、妙なことを考えてはいけません。
泡とは違うのだよ、泡とは――などと自分でもよくわからんことを胸中で呟く。
実際、この人、やたらと垢すりが上手い。先刻、湯に入ったときは、諸々の事情で慌てて逃げ出したから身体をしっかりと洗っていないのだが、それを差し引いても、俺の身体からはおどろくほど垢が出た。
越後を発って以来、ろくに身体を洗う暇がなかったのは確かだが、さすがにこれはまずい。内心で冷や汗をかきながら、今日からもうすこし気をつけようと心ひそかに誓う俺だった――謙信様に、不潔な男だ、とか忌避の目で見られることだけは避けねばならぬ。
「武士であれば致し方ないことではありますが、もう少し気を配られるべきですね」
「――返す言葉もございません」
少女の言いたいことを察した俺はがくりとうなだれる。何故か敬語だった。
とはいえ、手遅れにならないうちに気付かせてくれたこの子には感謝せねば、などと思っていると。
「では、次はこちらを向いてください」
しごく当然のようにそう言われ、さすがに俺は慌てた。
いくらなんでも正面から向かい合うのは恥ずかしすぎる。向こうはともかく、俺は手ぬぐいのみの全裸なのだし。
そんな俺のためらいを予期していたのか、少女の口から「ではそのままでいてください」と言う言葉が出たので、俺はほっと安堵の息を吐き――
「ぬあ?!」
次の瞬間、背中に柔らかい感触を感じて、全身を硬直させてしまう。
少女が俺の背中に抱きつく形で、胸に手を伸ばしてきたからである。
「な、な、なにを……」
「こちらを向くのを厭うのであれば、こうするしかないでしょう。是非もない」
「あ、いや、ですが、これは……わあッ?! そこはまずッ」
「じっとしていなさい。大の男がこの程度のことで騒ぐなど見苦しい」
「いや、これは騒いでも仕方ないのではッ?!」
などという遣り取りをしながらも、俺は背中どころか全身で感じる柔らかい感触に慌てまくっていた。いつか、少女の口調が変わっていることにも気付かないほどに。
そして、しばらく後。
「……洗われてしまった」
呆然と呟く俺。
奇妙な虚脱感に襲われ、ちょっと立つことさえ出来そうにない。
その俺の隣で、少女がどことなく満足げに頷いている。
「雑作もない……先の戦の礼としては十分でしょう」
「……は?」
なんだか場にそぐわない台詞を耳にした気がして、俺ははじめてまともに少女の顔を見る。それまでは気恥ずかしさも手伝って、視界の隅に入れるだけにとどめていたのだ。
そして。
「はッ?! は、はる……のぶ、さま……?」
何故かそこに、武田晴信の姿を見つけた俺は、絶句することになる。
◆◆
この時の俺の反応速度は、おそらく歴戦の武人に優るとも劣らなかったであろう。手ぬぐいを掴みとるや、神速をもって湯殿に逃げ込み、晴信の視界から身体を隠すと同時に、視線をあさっての方角に向けて、俺の視界からも晴信を追放した。
「…………」
ぱくぱくと口を開くが、何の言葉も出てこない。問うべき事柄が多すぎて、何から口にすべきかもわからなかった。
一方の晴信は、俺の万分の一も動じていなかった。
それまで身体に纏っていた薄布をとりはらうと(衣擦れの音で想像)、ためらう様子もなく湯殿に近づき、湯を身体に馴染ませてから、湯殿に足を入れ、ゆっくりと全身を浸していったのである――俺のすぐ隣に(間近で聞こえた湯音で想像)。
「……ふう」
晴信の口から、ため息にも似た声が聞こえる。つまり、そんなかすかな息遣いが聞こえるくらい近くに、晴信は居るのだ。
晴信の意図が微塵もわからず、俺は身体を強張らせることしか出来ない。自分から離れる、という選択肢は何故か浮かばなかった。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
というか、いつまでもこうしていたら、間違いなく俺が倒れる。いろんな意味で。
ここは一つ、毅然とした態度で晴信の真意を問うべし。
俺はそう決意し、ばくばくと鳴る心臓をなだめつつ、口を開きかける。
一国の守護が、他国からの使者に対し、垢かき女の真似事をした挙句、同じ湯船に身体を浸らせるなど有り得ることではない。
何か意図があってのことなのは確かだが、その意図がさっぱりわからん。
だが、俺が口を開こうとした矢先、晴信が口を開いた。
「『しんげん』とは……誰のことなのです?」
「は、はい?」
一瞬、俺は晴信が何を言っているのかわからず、首を傾げてしまった。
「この湯治場に来たとき、言ったそうですね。『これがしんげんの隠し湯か』と」
げ、と内心でうめく俺。
たしかに、そんなことを口走った記憶があった。誰にも聞かれていないと思っていたが……どうやら幸村の耳には届いてしまったようだった。
俺は内心の焦りを声に出さないように注意しつつ、口を開く。
「さて、真田殿の聞き違いではありませんか。さようなことを申し上げたことは――」
「幸村の名前を出したおぼえはないのですが?」
「あ」
……不覚。
「隠す、と言うからには、何者かの意図がなければなりません。この場合、それはこの湯治場を秘している私を指すと考えざるをえませんが、私は『しんげん』などではない」
「……は」
「しかるに、あなたは武田の隠し湯でもなく、晴信の隠し湯でもなく、『しんげん』の隠し湯と口にした――さて、越後の軍師殿」
すぐ隣で、なにやら楽しげな声が聞こえてくる。
「その真意は奈辺におありなのか、お聞かせいただけますか?」
「……真意といっても、その」
口がすべっただけです、とは言えない。口からでまかせを言おうにも、相手が晴信とあっては、弥太郎のようにあっさりと誤魔化されてはくれないだろう。まあ、最近は弥太郎も、同僚の影響か、すいぶんと俺に対して手厳しくなりつつあるのだが。
「答えぬとあらば、それでもかまいませんが――」
「は、よろしい、のですか?」
思わず横を向きそうになり、慌てて視線を元の位置で固定する。
そんな俺に、晴信は澄ました声で答える。
「ええ。あなたの従者に、いま少し主の清潔さに注意を払うよう助言するにとどめておきましょう」
ふむ。それはつまり、俺が隣国の国主に身体の垢を拭わせたのだと、皆に知られるということですね。はっはっは。
「――それだけは何卒お許しを」
湯に顔をつける勢いで、俺は頭を下げる。
依然、晴信の方を見ることが出来ない俺の耳に、晴信が湯を手で弾く音が響いた。
「さて、私が先ほどのことをついうっかり忘れてしまったとして――しかし、『しんげん』の意味を教えることは出来ぬと、そなたはそう言うつもりなのでしょう?」
「う、それは、あの……」
それとこれとは話が別、と言いたいところなのだが、晴信はそんなことは百も承知の上で言ってきているのだ。理不尽な脅迫者を前に、道理を説いても無駄であろう。
どうしたものか、と途方にくれかけた俺だったが、次に晴信が口にした台詞は、俺にとって予想外のものであった。
すなわち、晴信はこう言ったのだ。
その名をください、と。
「名を?」
俺の訝しげな声に、晴信は落ち着いた様子で言葉を紡いでいく。
「そうです。此度、そなたらの助力もあって、躑躅ヶ崎の乱はようやく終わったといえます。まだ、いくつか気になる点はありますが、それも間もなく答えが出るでしょう」
近くの木立から、草が揺れる音がした。夜行性の動物が餌を求めて動いているのだろうか。
晴信は気にする素振りを見せずに続ける。
「始まりの終わりか、終わりの始まりか。そのいずれにせよ、武田の家が一つの節目を迎えたことは間違いありません。それは、当主たる私にとっても同様。我が父の縛めから抜け出した今、その父から与えられた名を過去のものとする良い機会でもあるのです」
晴信は呟くように再び口を開く。
「武田しんげん……不思議と、耳によく馴染む。そなたが何処から引っ張り出してきたかは知りませんが、甲斐源氏、武田家の当主としての威厳を備えた佳良なる名ではありませんか」
「そ、そうでしょう、か?」
「ええ、そうなのです」
戸惑いをあらわにする俺に、晴信は澄まし顔で返答する。
「それに、宿敵であった越後上杉家、その軍師から名を授かるというのも、また一興。どうです、天城颯馬。私に名を授けるという名誉、その身に担ってはみませんか?」
問いかけの形をとってはいたが、すでに俺は逃げ道を塞がれている。否と言えようはずがないのである。
ずるい人だ、と思いつつ、しかし嫌悪や反感を抱けないのは、晴信の声がいかにも楽しげであるからだった。多分、今、晴信の顔には悪戯っぽい微笑みが浮かんでいるのだろう。見ることは出来ないが、何故か俺はそう確信できた。
別に『しんげん』という名の響きが気に入ったのなら、俺の許可などとらずに名乗れば良いと思うのだが、甲斐の御館様は妙なところで律儀というか、子供っぽいところがある方らしい。
俺は晴信改め信玄に頷いてみせながら、そんなことを考えていた。
――甘かった。無茶苦茶甘かった。あの武田信玄が、そんな浅い思惑で動くはずがなかったのだ。
武田信玄の深慮遠謀を俺が思い知ったのは、翌日のこと。
◆◆◆
「おはようございます、兄上」
『はい?』
唐突な呼びかけに、俺はもちろん、その場にいた謙信様、秀綱、弥太郎、段蔵は無論、幸村までが声を揃えた。
無論、というべきか、問題の呼びかけを行ったのは最後の一人、武田信玄だったのだが……
「あの、兄、とは?」
「無論、あなたのことに決まっているではありませんか、我が兄、天城颯馬殿?」
「へ?」
本気で意味がわからず、俺は目を点にする。
そんな俺に向けて――というより、多分、この場にいる他の者たちへの説明も兼ねたのだろうが、信玄は昨夜のことを口にした。
「武田家が新たな節目を迎え、それにともなって兄上は私に新しい名乗りを授けてくださった。『武田信玄』という。それは無論おぼえておいででしょう」
「は、はい、それは確かに覚えていますが……」
幸村が何か変な顔をしていたが、今はそれを確かめている暇はない。
信玄はさらに言葉を続けた。
「虎綱から聞きました。兄上は大陸の書にも通じていると。では、彼の地の理もご存知のはず。名を授かるということは、すなわち命を授かるも同じこと。ゆえに私は兄上に対し、親に対する子のごとく、君に仕える臣のごとく、身命を懸けなければなりません。さりながら、この身は一国の守護にして、武田の主。常に共にあることも、また臣として兄上に仕えることもかないません」
だからこそ、と信玄は言う。
「家族をことごとく失った我が身です。せめて御身を兄としてお慕いしたいと願うことは、それほど驚かれるようなことなのでしょうか。兄上は、はや信玄への想いをなくしてしまわれたのでしょうか。それはあまりにひどい仕打ちと申せましょう……」
顔を伏せた信玄の嘆きが室内にこだまする。
他の誰一人として動くことが出来なかった。誰もが凍りついたように微動だにしない。
俺がいちはやく我に返ったのは、何もこの中で一番胆力に優れていたからではない。昨夜の信玄のくだりを知っていた分、他の皆より早く現実に回帰できただけである。
そして、我に返って真っ先に思ったことは。
(――やられた)
の一語だった。
何故、信玄が俺から名を授かるという形に固執したのか、その理由がわかったからだ。
しかし、その目的がわからない。俺を兄と呼んだところで、別に何の利益もないのだが。強いていえば、俺を窮地に陥れることが出来るが、まさかそんなことのために、ここまで手間を割くほどに信玄は暇ではあるまい。
「それに」
戸惑いを消せない俺の耳に、信玄の声が響く。
悲しげに伏せていた顔には、当然だが涙の跡などありゃしねえ。腹立たしいほどに艶々の頬があるだけである。
「私を妹とすることは、御身にとっても少なからぬ益があるのですよ」
「益、とは、何のことで?」
言葉がぶつ切りなのは、単にまだ冷静さを回復してないせいである。決して、周りの視線に怯えているわけではない。
「今、申しましたとおり、この身が御身に仕えることは出来ません。ですが、兄上の言葉とあれば、耳を傾けることくらいは出来るのです。たとえば、そうですね――」
晴信はおとがいに手をあて、小さく微笑んだ。
「兄上が心ひそかに志向されておられる、越後と甲斐の同盟。それをわずかなりと、実現に近づけることもかなうかもしれません」
「――ッ」
思わず、息をのむ。
俺を見る信玄の眼差しに、真摯な光が浮かんだ。
「越後の上杉と甲斐の武田。この両家がぶつかるは、地理を見ても、また互いの当主の在り方からみても不可避と思われていますし、事実その通りでもあります。これを結びつけることは並大抵のことではない。しかし、逆にそれを為しえれば、東国の勢力図は大きく様変わりするでしょう」
信玄の言葉に、知らず、その場の者たちは頷いていた。
「越後と甲斐が手を携えれば、北条もそれに加わるは必定。さすれば、北陸、関東、甲信に跨る大勢力がうまれます。上杉は北陸を進み、北条は関東を押さえる。武田は飛騨から美濃へ。そして、此度の戦で勢力を飛躍的に拡大させた東海の松平家を加え、かつての三国同盟ならぬ四国同盟を締結する。これが成れば、他の中小の勢力はいずれかの家に与せざるを得ず、東国に新たな秩序を打ち立てることがかなうでしょう」
四国同盟。もしそれが実現の日を迎えれば、東国のみならず、日の本の勢力図さえ書き換えることが可能となる。
北陸路を上杉、美濃路を武田、東海路を松平がそれぞれ進み、その後背を北条家が守る。桶狭間以後、凄まじい勢いで勢力を広げている織田家や、あるいは近畿で猛威を揮う三好家といえど、この進撃を阻止することは出来ないだろう。
無論、今はすべて絵に描いた餅に過ぎぬ。甲斐と越後の盟約もそうだが、仮に両家が同盟を結んだとしても、上杉家と北条家との間には関東管領の問題が残っているし、武田家と松平家は、これから今川家の処遇や、東海の地を巡って一悶着起きる可能性が捨てきれない。
そうそう簡単に事は進まないだろう。それは明らかすぎるほどに明らかだった。
しかし、と俺は思う。
それを承知してなお挑むだけの価値がある難事であろう、と。
「――ならば、その一歩を踏み込むのは今、この時を措いてないでしょう、兄上」
にこり、と蕩けるような笑顔を向けられ、俺は進退きわまってしまった。
晴信に、俺の胸奥の秘策――というか夢想を見抜かれたのは、まあさして驚くことではない。俺のこれまでの言動を見れば、武田家憎しで凝り固まっているわけではないことは瞭然としているだろう。虎綱と晴貞の縁も、この夢想を宿したことと無関係ではない。
しかし、自分で言うのもなんだが、まだ本当に夢想の域を出ない戦略なのだ。
はっきりいって、上杉家内部の意見統一も一年や二年では済むまいし、何より輝虎様が肯うかどうかさえわからない。
実現に移せるのは、五年先か、十年先か。そんな風に考えていた戦略が、信玄の一語でいきなり現実味を帯びてきたことに、俺は戸惑いを覚えた。
そして、それ以上に、心密かに興奮を覚えていたのである……