信虎は後ろを振り返りもせず、片手で刀を弄びながら、現われた黒装束の男に短く問いかけた。
「盛清、報告せよ」
「……は。御旗楯無、いずれも奪うことあたわず――」
男が言い終えるよりも早く。
信虎が持っていた刀を閃かせる。
童子が戯れに笛を吹いたような、奇妙な音が男の口から漏れたが、それも一瞬。
直後、重く湿った音と共に地面に何かが落ちた。
「二度は許さぬ。そう言ったはずじゃな」
そういって、足元に転がってきたそれを、信虎は鞠のように蹴飛ばした。
粘着質な不快な音と共に転がるそれには、もう目もくれず、信虎は嘯くように声を高めた。
「これだけ主を待たせた挙句、手ぶらとは。まったく、今も昔もわしにはろくな臣がおらん。幸隆くらいかの、惜しいと思える者は」
言いながら、信虎は立ち上がる。その顔の半面は白布で覆われていたが、足の運びにはいささかの乱れもない。そして、ことごとく策謀が封じられたとはいえ、信虎の滾る精気に翳りはなかった。
「謀略で敗れたならば、あとは力で押し通るのみじゃが、ふむ。上杉まで出張っているとなると、あるいは北条も晴信についているか。いささか厄介なことになったのう」
そう口にしながら、無事である方の目を爛々と光らせている。この不利な戦況をどう覆すか。それを考えるのが楽しくて仕方ないと言わんばかりであった。
「今川がまだ健在である以上、手の打ちようはある。駿遠の地を焦土と化して抵抗する間に、しゃしゃりでてきた道化どもの後背の敵を動かせば、連中は退かざるを得まい。わしのことが知られた以上、これまで通りというわけにもいかぬじゃろうが――あるいは再び京に詣でる必要があるかもしれぬの」
考えをまとめつつ、歩を進めていた信虎だったが、あるところまで来た時、ぴたりとその足を止めた。
甲斐の山間を縫うように南へと続く道の半ば。信虎の視線の先には、その道の脇にある切り株に腰掛けた一人の人物が映し出されていた。
向こうも信虎が来たことに気付いたのだろう。ゆっくりと、それでいて隙のない動作で信虎の方へ歩み寄ってくる。
その手はすでに、刀の柄に据えられていた。
「――先の甲斐守護職、武田信虎殿とお見受けする」
長く伸びた黒髪が、山間を駆け抜ける寒風にたなびいた。
その眼差しは鋭く、深く、いかなる偽りも虚勢も、この眼光の前では意味をなすまいと見る者に思わせる。
「越後守護職、上杉輝虎である。その首級、東国の安寧のために頂戴いたす。お覚悟あれ」
鞘から抜き放たれた刃が、陽光を反射して信虎の目を烈しく灼いた。
自身、刀を抜き放ちながら、信虎は嘲笑を発した。相手の刃の煌きに、得体の知れない怖気を感じた――その事実を拭うために、ことさら毒々しい表情を形作る。
「――道化の主か。くれと言われてくれてやるほど、わしの首は安うないわ。小細工ご苦労なことよな、痴れ者め」
「貴殿と語るべき言葉は持ち合わせておりませぬ。異存あらば、刃もて返されよ」
対する輝虎は、信虎の言葉に耳を傾けることなく、一気に間合いに踏み込んでくる。
普段は通る者も少ない間道に、甲高い刃鳴りの音が鳴り響く。
だが、刃鳴りの音は連鎖しなかった。
「ぐッ?!」
輝虎の初太刀を受けた信虎が、思わず呻きにも似た声をあげる。
信虎をして、こらえきれぬほどに重い剣勢であった。
真田幸村とも互角以上に渡り合った信虎である。先夜来の傷や疲労を差し引いても、凡百の討手に遅れをとるつもりはなかったのだが――
「ちィッ」
信虎は舌打ちしつつ、咄嗟に後方に大きく飛んだ。初太刀の後、翻った相手の刀が一瞬前まで信虎がいた空間を切り裂いていった。
「ふん、軍神、か。あながち偽りというわけでもないようじゃな」
皮肉げに口元を歪ませる信虎であったが、輝虎は応える素振りさえ見せず、ただ無心に信虎の首を見据えていた。
かすかに首筋がざわつくのを自覚しつつ、信虎は内心で、再度舌打ちする。
万全の体調ならば知らず、今の状態で目の前の相手と斬りあうことは避けたい。だが、言辞で絡めとろうにも、相手がそれに乗ってくる様子はない。武田家に関わる家であればいざ知らず、遠く越後の人間を動揺させる密事を知っているはずもなかった。
となれば、採れる手段は限られてくる。
そして、それを採ることをためらう理由は信虎にはなかった。
信虎の手が、霞むように動いたのは、次の瞬間だった。
それと気付いたときには、懐剣が抜かれ、そしてつづけざまに輝虎に向かって投じられていた。
わずかに残っていた手持ちの懐剣を全て投じると、信虎はその結果を見ることなく、身を翻した。道をそれ、山の中に入ってしまえば逃げるのは容易い。仮に輝虎が追ってきても、隙を衝いて逆撃することは難しくない。幼少の頃から甲斐の野山に親しんできた信虎にとって、山の中は我が庭も同様であった。
だが、あと数歩、というところで、後背から殺到してくる気配に気付く。それが誰のものか、考えるまでもなく明らかだった。
投じた懐剣を素直に喰らうと考えていたわけではないが、しかし懐剣を弾いた音さえしないとはどういうことか。まさかとは思うが、あの間合いで投じた懐剣、そのことごとくを避けたというのか。
ありえないはずの事態に舌打ちしつつ、信虎は首をかばって咄嗟に右の腕を掲げた。
直後。
右肘のあたりから、焼けた鉄串を押し付けられるかのような激痛と灼熱感が同時に腕を伝って、信虎の脳髄を焼いた。
並の人間なら、痛みに耐え切れず足を止めたか、少なくとも苦痛の声をもらしただろう。だが、信虎はほとんどそのままの速度を保ち、甲斐の山中に身を投じようとしていた。
それでもあと一歩足りない。
輝虎の刃は、今度こそ自分の頸部を断ち切るであろう。信虎は他人事のようにそう判断した。
しかし。
結局、信虎はそれ以上、太刀を浴びせられることなく、山中に逃げ込むことに成功する。
疑問に思ったとしても、それを確かめる暇はなかった。それに、何があったにしても、信虎の命が助かったことに違いはない。
草木をかきわけ、山野を踏破しながら、信虎は西へと向かった。
この場に輝虎がいるということは、おそらく南への道はことごとく塞がれているだろう。
それを避けて駿府に行き着くのは難しい。くわえて、行き着いたところで事態が大きく好転するわけでもない。
まさか、輝虎が一人、風の導くままに待っていたのだ、などとは考えもしない信虎は、一度態勢を立て直すべきと判断した。
態勢を立て直し、そして此度、信虎の前に現れた者たち、そのことごとくを踏みにじってくれよう。晴信は無論、越後の輩も同様だ。ことに、あの軍神とやらは、晴信に匹敵する……
「く、くく、駿河を捨てるは少々惜しいが、晴信にせよ軍神にせよ、少なくとも氏真よりは抱き心地も良かろうでな。後の楽しみが増えた、と思っておこうぞ」
そう言って、くつくつと笑いながら。
狂える王は、ひたすら西を目指し続けるのであった。
信虎が去った後。
輝虎は、自らが斬り捨てた相手の右腕と、そしてもう一つ、両断された胡桃の実に視線を落とす。不意に目の前に投じられたこの木の実がなければ、信虎の逃亡を許すことはなかった。
輝虎の視線は、この胡桃を投じた人物に向けられる。
深い皺の刻まれた相貌は、この人物が戦国乱世を長く生き抜いてきたことを物語り、その思慮深き双眸は、今の行いがただの感傷ではないことを告げていた。
武田家の誇る六将の一。その名は――
「説明願えるのか、山本勘助殿」
「……御意にござる、上杉、輝虎様」
そう言って、勘助はゆっくりと頭を垂れるのだった。
◆◆◆
翌日。
甲斐某所。
「………………」
あまりの心地良さに言葉が出ません。
しばらくお待ちください。
そんなわけで湯治中な俺だった。
武田信玄が温泉に凝っていたのはつとに有名だが、どうやらこちらの晴信も同様であるらしい。
聞けば晴信直轄の温泉は、甲斐信濃を含めて三桁に達するらしい。もうほとんど独占状態である。
将兵の傷病治療や、鉱山で働いている者たちの健康維持など目的は様々であるらしいが、これは多分本人の趣味なんだろう。
幸村によれば『虎の穴』なる温泉施設も各地で建設中だとか。完成したら入浴料をとって他国にも開放するらしい。何事も無駄にしない晴信の目端の鋭さには脱帽である。
ちなみに俺たちが案内されたのは、そういった賑やかなところではなく、本当に山間にひっそりと建てられた湯治場だった。
思わず「信玄の隠し湯」という言葉が口をついてしまうくらい閑静な温泉は、驚くほどに居心地が良く、武田側の対応も至れりつくせりであった。
どうも本当の意味で晴信専用の場所であるらしく、室内の調度や、湯治場の佇まいなどは見事の一語に尽きる。それでいて存在感を主張することなく、くつろげる空間を形作っているのであるから、ここをつくった人はさぞや名の知れた建築家なのだろう、などと思っていたら、なんと差配をしたのは晴信本人だとのことだった。
「さすが、というしかないな……」
俺は湯船に身体を浮かべつつ、夢心地で呟く。
この時代、水を張る風呂に入る機会なぞ滅多にない。湯船に浸るこの快感を、言い表す言葉は何かないものだろうか。
ちなみにここの湯は硫黄臭はなく、こっそりと舐めてみたが味もない。感覚としては普通の風呂に入っているのと変わらないが、それでも俺にとっては十分すぎるほどありがたい饗応と言えた。
もっとも、そう思っているのは俺だけではないだろう。
湯治の件を聞いた上杉の皆様、一様に顔をほころばせていらっしゃったし。おかげで俺の行動に対する皆の怒りがかなり緩んだように思われた。
傷の治療だけでなく、このことまで計算に入れていたのだとしたら、俺はしばらく躑躅ヶ崎館の晴信に足を向けて寝ることが出来そうになかった。
そう。当の晴信は俺たちに同道しておらず、俺たちを案内してくれたのは真田幸村であった。晴信は躑躅ヶ崎館で事後処理の真っ最中である――というより、対今川の戦はまさにこれからが正念場と言えた。
信虎の行方は未だに知れないが、間違いなく今川勢と合流するであろうし、そうなれば今度こそあの暴君は今川家の総力を挙げて甲斐に押し寄せてくるだろう。今侵攻中の一万五千だけではなく、おそらく、駿河の氏真を総大将として、駿遠の残存戦力すべてを投入してくるに違いない。
狂王を追い払ったと喜んでいる暇はないのだが、何故かこの点に関して、晴信の反応は鈍かった。いや、鈍いというよりは、もう見向きもしていないというべきか。あたかも勝負の決した後の碁盤を見るような態度なのである。
そんな晴信に俺は違和感を禁じ得なかったのだが、それに一応の答えをくれたのは謙信様だった――だった、のだが。
「…………」
言葉が出ないのは、今度は心地良さゆえではなかった。温泉に浸かっているはずなのに、なんだか寒気をおぼえてしまう。それは自責の念から来ることを俺は知っていた。
俺が目を覚ました翌朝、俺の行動に釘を刺す謙信様は、その、何と言うかとてもとても――寂しげだったのだ。
大声で怒鳴られたわけではない。
呆れたり、あるいは皮肉げに責められたわけでもない。
俺の行動と、それに至った経緯はすでに幸村あたりから聞いていたのだろう。ただ己の力量をわきまえ、無謀を戒めることに終始する話し方であり、その内容は一も二もなく承伏するしかないものだった。
だから、問題だったのはその内容ではなく、それを語る謙信様の眼差しで――
「――颯馬」
「……は、はいィッ?!」
ちょうど謙信様のことを考えていた時、謙信様の声が聞こえてきたので、声が裏返ってしまった。
少し戸惑ったような声が返ってくる。
「ど、どうかしたのか?」
「は、あの、いえ、少し寝ぼけていたようで、失礼しました」
「そうか。心地良さのあまり長湯しすぎるなよ」
「は、承知いたしましたッ」
下方から聞こえてくる声に、俺は畏まって応えた。
別に誰が見ているわけでもないのだが。
一応述べておくと、謙信様たちと俺の湯殿は隣り合っているわけではない。
間に木立が挟まっており、そのため会話するとなると、やや声を張り上げねばならないのである。
これは男湯と女湯を分けているため、ではもちろんない。半ば以上晴信専用の湯治場に、そんな区分は必要あるまい。
ではまさか混浴か、と俺は一瞬、期た――ごほん、心配したのだが、その心配は無用だった。
男湯と女湯の区分はなくても、晴信の湯と、他の人たちが使う湯は当然分けられており、この際、それを利用しなさいと晴信が指示があったらしい。
そんなわけで、俺は恐れ多くも晴信用にあつらわれた湯殿を拝借している次第であった。
立地としては、こちらの湯が上に位置し、木立を経た下方に謙信様たちが入っている湯があることになる。
無論、最初は固辞した。
謙信様たちが上の湯を使い、俺が下の湯を、と申し出たのだが、幸村は首を横に振ったのである。
仮にも武田の差配する湯治場である。上下の関係を無視したような行いは慎んでもらおう、という言葉に俺は反論できなかった。上杉家当主である輝虎様ならば良いのだが、表向き、今は上杉の協力者である謙信様だから、立場は俺の方が上になってしまうのだ。
結局、謙信様もさして気になさらなかったので、上の湯は俺が、下の湯は謙信様たちが使うことで落ち着いた。これが他の客でもいれば、意地でも認めなかったが、幸い今利用しているのは俺たちだけなので、謙信様たちの柔肌を他の男に見られるおそれもない――って、俺は何を考えているのだッ?!
俺は脳裏に浮かびかけた光景を慌てて振り払う。
これも念のために述べておく。
上の湯と下の湯。立地的に覗き放題じゃないかと考えることを煩悩といい、実際に確かめることを男のサガという。そして、桃源郷を遮る木立に失望してとぼとぼと湯に浸かること、これをお約束という――はずだった、のだが。
「――何で見えるかな」
俺は下に聞こえないように、本当に低声で呟いた。
いや、だってまさか、普通に見える――覗く、とかいうレベルじゃなく――なんて誰も思わんだろう。
先刻、冗談まじりに下の湯の様子を窺ってみた俺は、視界に映った鮮麗な肌とか、腰に張り付いた艶やかな黒髪とか、健康そうな四肢とか、形の良い――とか、そういったものを数瞬、呆然として見つめた後、転がるように湯船に逆戻りした。冗談ぬきで心臓の鼓動が下まで響き、今の行いがばれてしまうと確信した。それくらい、俺の胸はばくばくと音高く鳴り響いていたのである。
木立が遮っていたことは確かだった。だが、なんというか絶妙の枝葉の張り具合で、えらく視界が良かったのだ。多分、あれは下から見上げた場合、視界はほとんど遮られているのではなかろうか。でなければ、俺が呆然と見下ろしていたことは、下の方々に確実に気付かれたことだろう。
なんですか、この湯治場。もしや晴信は湯治場に入っている人たちを見下ろす特殊な趣味でもあるのだろうか。
「颯馬さまー。さっきおっきな水音がしましたけど、大丈夫ですか?」
弥太郎の声に、俺は平静を保ったまま答える。
「うむ、大丈夫で御座候ふ(ござそうろう)」
全然保てていなかった。
「は、はい、それなら良かったですけど?」
弥太郎は少し不思議そうだったが、さすがに今の一言から事の全容を察することは出来なかったようだ。
ふう、やれやれ。
「天城殿」
「は、はいッ?」
今度は秀綱ですか?!
「そちらの湯加減はいかがですか?」
「はい、大変に結構です、けど」
やましいところがあるせいか、秀綱の何気ない問いかけさえ、何か意趣があるのではないかと勘繰ってしまう。これぞ正しく下衆の勘繰り――
「それはよろしゅうございました。刀傷とはいえ、病魔が忍び込めば命に関わることも少なくありません。良く養生なさいますよう」
「はッ、ありがとうございます」
秀綱の心遣いと、己の小ささに泣きたくなる俺であった。
……信虎のことを考えていたはずなのに、なんでこんなみっともないことになっているのだろう。
俺は自身に喝を入れ、湯殿から離れた。ここにいると、落ち着いて考え事をすることが出来そうもないからだったが、耳ざとくその音を聞きつけた者がいたらしい。
「主様」
「――なんでしょう?」
段蔵の声と、その呼び方でほぼ内容を察した俺だったが、まさか無視するわけにもいかない。我ながら死にそうな声だった。
「仏の顔も三度、という言葉はご存知ですか?」
「……存じております、はい」
「しかし、仏ならざる俗人は、三度どころか二度も厳しいと思うのです」
「……つまり?」
「次は許しません」
「御意」
あまぎそうまは にげだした!