四方が靄に閉ざされた、夢とも現ともしれない闇の中で、俺は腕を組む。
何となく自分が寝ているということはわかるのだが、そこに至った経緯が思い出せないのだ。何やらいろいろとあったような気がするし、もう少し言えば、これからも色々とあるような気がするのだが。急いでそれに備えないと大変なことになる色々なことが。
しかし、いくら首をひねってもそれが何なのか思い出せず、ついでに言えば思い出そうとすることさえ億劫に感じてしまう。自分がとても疲れているのだと、それで自覚した。
不意に鈴の音が鳴った。
それはとても遠くから響いてきたような気もするし、とても近くで鳴ったようにも思えた。
少し間を置いて、もう一度。
時に遠く、時に近く耳朶を震わすこの音には聞き覚えがある。
あれは確か……春日山城址で――
「……ッ」
その言葉を思い浮かべた瞬間、それまで覚醒の境界線上でうろちょろしていた意識が、急速に表層に浮かび上がったことを自覚する。
そして。
目を覚ました瞬間、さきほどまでの曖昧模糊とした感覚が嘘のように意識が冴え、先刻までの――否、ここ一ヶ月近くの諸々すべてを思い出す。
自分が寝具に横たわっていることに気付き、とるものもとりあえず起き上がろうと上体を起こし――
「あいったたたッ?!」
なんか全身を鈍器で殴られたような形容しがたい痛みが襲い掛かってきた為、即座に寝具に逆戻りする俺だった。
「わ、わ、颯馬様、颯馬様ッ?! だ、だ、段蔵、颯馬様起きたよッ」
「見ればわかります。永田殿も命に別状はないと言っていたのですから、目を覚ますのは当然でしょう」
「そ、それはそうなんだけど、やっぱり心配だったし、その……」
喜びで弾んでいた弥太郎の言葉が、段蔵の冷ややかとも言える返答で尻すぼみになってしまう。
無論、段蔵の冷ややかさは弥太郎に向けられたものではない。
弥太郎の様子を見た段蔵は、聞こえよがしにかようなことを仰った。
「本当に弥太郎は心根が優しいですね。私などは、言動を違えて身の程知らずな真似をした挙句、浅からぬ傷を負って倒れた方をそこまで心配することは出来ないのですが。あまつさえ馳せ戻ってみれば、とうに気を失い、他家の典医の手当てを受け、太平楽に眠りこけているのだからなおさらです」
「う、そ、それは……そうだね」
少なからず同意できる部分があるのか、弥太郎もためらいがちにではあったが頷いていた。
段蔵の言葉を冷や汗まじりに聞きつつ、俺は状況を整理する。
意識を手放した瞬間を覚えてはいないが、どうも晴信が口を開き、信虎が退いたあたりで限界が来てしまったようだ。
その後、武田家の手当てを受けていたところに弥太郎たちが戻ってきて――そして今に至るということらしい。
で、あればまずは開口一番、言わねばならないことがある。
「……まことに申し訳ございませんでした」
謙信様や秀綱の姿は見えないが、あの二人に何かあるとは思えないし、仮にあったとしたら、弥太郎たちがここにいることはないだろう。
そうなると、取り急ぎするべきことは謝罪であった。無茶はしないから、という理由で渋る二人を祠廟に貼り付けておきながら、俺は信虎の前に道化としてのこのこと出て行ってしまったのだから。
しかし、あいにくとその程度の誠意では相手に通じないようだった。
「かりそめにも人の上に立つ身が、そのように詫びる必要はありませんでしょう。主様がそういう方であることは承知していましたので、あり得るであろう可能性の一つとして、今のような事態も想定しておりました。よって、私ども配下の心配や気苦労など気にかけていただく必要は一切ございません」
冷然と憮然を混ぜあわせ、憤然をふりかけたような言葉が投げかけられ、俺は思わず天を仰ぎたくなった。横になっているため、すでに形としては天を仰いでいるので不要だったが。
怒ってる。めちゃめちゃ怒ってる。
そして、普段ならば助け舟の一つも出してくれるであろう弥太郎も、段蔵の言葉を聞くうちに先夜来の感情が蘇ってきたのか、つんと澄ました顔でこちらを見て――もとい、睨んでいた。
助け舟なんか出してあげませんよ、と言いたいらしい。
こっちも段蔵に負けず劣らず怒っていた。
困り果てる俺だったが、二人の怒りは当然であり、正当なものでもあって、俺はひたすら寛恕を請うしかない。それどころか、二人がここまで俺を心配してくれているのは、主従という立場を越えて、俺のことを思いやってくれているからであって、俺は幾重にも頭があがらない状況なのである。
二人に誠心誠意謝るのは当然としても、先の京での一件もあり、なまなかなことでは納得してくれないだろう。
「……狂王を相手にする方がよっぽど楽だ」
俺は内心でため息を吐くしかなかった。
そう言って、ふと俺はその当人がどうなったのかを知らないことに思い至った。
誤魔化すためではなく、確認のために口を開く。
「戦況はどうなった?」
俺の表情と声音から、それが一時凌ぎのための問いではないことを悟ったのだろう。段蔵が常の顔に戻って報告する。
「……信虎は躑躅ヶ崎館を離脱、逃亡。館内に潜入した敵は殲滅され、それを受けて外の兵は散り散りになりました。南方に現われた敵勢も、真田の矢沢頼綱によって撃滅されたとのことですので、事実上、晴信殿の勝利とみてよろしいかと」
「甲府の町の様子は?」
これに答えたのは弥太郎で、どこか安堵したように胸元をおさえている。
「多少の騒擾は起こったようですが、町のみなさんや、武家屋敷に被害はないと謙信様と秀綱様は仰ってました。それと、真田様も、私たちの働きに感謝すると仰せでした」
それを聞いて、俺は小さく安堵の息を吐く。それこそ一番気になっていたことだったのだ。
続いて、俺はこの場にいない人たちについて訊ねると、これもあっさりと返答があった。
「敵が退いたとはいえ、不穏の種が消えたわけではありません。先夜の騒擾が町の人たちに知れ渡れば、難民とのいざこざもありえると、お二人とも甲府の町を見回っておられます。ああ、そうそう――」
そこまで言って、段蔵はわざと言葉を切り、俺の視線が向くのを待ってさらに続けた。
「お二人から言伝がありました。主殿が目を覚ましたら伝えてくれ、と。秀綱殿より『身の程をわきまえなさい』と」
「う……」
思わずそう言ったときの秀綱の顔が思い浮かび、俺はだらだらと冷や汗をかいた。
弥太郎と段蔵から離れた挙句、一人敵前に出た無謀を責められているのは明らかだった。
どうやら怒っているのは目の前の二人だけではないらしい。
ということは、やはり謙信様も……
俺がおどおどと段蔵の様子をうかがうと、段蔵は澄ました顔で、謙信様よりは、と前置きして、こう続けた。
「『少し、頭を冷やそ――』」
「わかった、わかりましたッ!!」
何故かそれ以上聞くことが出来ず、大声で謙信様からの言伝を遮る俺であった。
◆◆
その後も幾度か悶着があったが、とりあえず必要なことは聞くことが出来た。
信虎の行方が知れないこと以外は、大きな問題は見当たらない。幸村の怪我も命に関わるほどではないそうで、ほっと胸をなでおろした。当然、晴信はまったくの無傷である。
信虎のことに関しては……と考えを先に進めようとした俺だったが、不意に強い眠気に襲われる。
聞けば、もう昼を大きく過ぎているとのことで、昨夜から今まで、十分すぎるほど寝ていると思うのだが――
俺が首を捻ると、段蔵が先刻までとは違い、穏やかに口を開いた。
「身体が休みを欲しているのでしょう。命に別状がないとはいえ、颯馬様の怪我は決して軽くはないのです」
弥太郎も首をぶんぶんと縦に振る。
「もう敵が襲ってくる心配もありませんから、颯馬様はゆっくり休んでください。その間は、私たちがちゃんとお守りいたしますッ」
「それはどうも、と言いたいところなんだが、弥太郎も段蔵も昨夜からろくに寝てないんじゃないか」
段蔵は俺の言葉にも表情を動かさなかったが、弥太郎は露骨に慌てて、おおげさに首を横に振る。
「そ、そんなことはないです。ちゃんと寝てます、元気一杯です!」
「いや、目の下に隈が出来てるし」
「わわッ!?」
慌てて目元に手をやる弥太郎と、それを見て深々とため息をはく段蔵。
お察しのとおり、隈なんて出来ちゃいねえのである。
段蔵の様子と、俺の澄まし顔を見て、計られたことを悟ったのだろう。弥太郎は頬を真っ赤にして俯いてしまった。
とはいえ、俺とて別に弥太郎をやりこめるために言辞を弄したわけではない。二人がろくに寝てない理由もわかっている。
「二人の看病のおかげで大分楽になった、ありがとう」
何よりも先に言うべきであった言葉を今さら口にするあたり、我ながら気が利かない人間である。
「とはいえ、怪我したのは自業自得だからな。そのせいで二人にこれ以上負担をかけるのも申し訳ない。敵の心配がないなら、なおさらだ」
そう言いながらも、急速に意識が薄れていくのがわかる。どうも思っていたより傷や疲労が身体を身体を蝕んでいたらしい。甲斐や相模まで足を運んだ一連の騒動に、一応の終止符が打てたという安堵感もあったかもしれない。
「……と、いうわけで、しっかり寝ておくように」
最後にそれだけ言いのこすと、俺は二人の返答を聞かずに眠りの園へと旅立ったのである。
何やら慌てたような言葉が追いかけてきたが、聞こえない、聞こえない。
今度は妙な夢を見ることもなく、目覚めは自然に訪れた。
枕元を見ると、着替えと水瓶が置いてあったが、人の姿はなく、どうやら段蔵も弥太郎も別室で休んでいるらしい。
咽喉の渇きを覚えた俺は、水瓶から椀に水を注ぐと、それを一気に飲み干した。
すると、意識がはっきりし、身体の状態にも注意が向くようになる。
信虎に斬られた傷の痛みは未だ消えてはいないが、それでも大分薄れているように感じた。段蔵が言っていたとおり、決して浅くはない傷である。昨日の今日で痛みがここまで軽減するとは思わなかったが、そこはさすが永田徳本というところなのだろう。
顔といわず腕といわず身体といわず、膏薬が塗られ布がまきつけてあったが、刀傷がほとんどであったおかげか、身体の動きを制限するような副木はつけられておらず、傷の痛みさえ無視すれば、動き回ることに支障はないと思われた。
俺は着替えの衣服に腕を通すと、身体の調子を確かめながらゆっくりと立ち上がる。
襖を開くと、すでに日は落ち、月が中天高く輝いている時刻であることがわかった。館が静まり返っているのは、刻が刻だけに当然というべきだろう。
そう思った時、不意に寒風が外から吹き込んできたため、俺は今が冬であることを今さらながらに思い出し、慌てて部屋の中にとってかえした。おそらく小姓が定期的に暖をとってくれていたのだろうが、部屋の中はずいぶんと暖かいままであったのだ。
「さて、どうするか」
日が昇るまで大人しく寝ているべきかとも思うが、ほとんど丸一日寝た後である。目が冴えて寝られそうもなかった。
何か仕事があればと考えたが、そんなものがあるはずもない。他の人に声をかけるのも、この時間では非常識というものである――と俺が考えた途端であった。
「あ、お目覚めでしたか、失礼いたしました」
襖が開いたと思ったら、少し慌てた様子の侍女がそう言って頭を下げた。
聞けばこの侍女が火鉢の火の確認と、部屋の換気をしてくれていたそうな。俺が礼を言って頭を下げると、侍女は最初にぽかんとした後、すぐに慌てて首を左右に振った。
「い、いえ、これが務めですので、そのように頭を下げていただくには及びません」
そう言った後、侍女は慌てた口調はそのままに言葉を続ける。
「御館様より、目を覚ましたのならば、部屋に来るようにと言付かっております」
では明日の朝、と俺が答えると侍女は首を横に振って、まだ晴信が政務中である旨を告げたのである。
◆◆
子の刻、というと深夜0時を過ぎた時刻である。
草木も眠る丑三つ時、というにはまだ早いが、それでもこの時代の感覚で言えば、誰も彼も寝入っていておかしくない時刻である。にも関わらず、甲斐を治める武田の当主は、未だ政務の処理を続けているところであった。
だが、さすがにその顔には俺の目から見ても疲れのようなものが感じ取れた。どこがどう、と具体的に指摘は出来ないのだが、強いていうなら俺を見る眼差しにかすかな苛立ちめいたものが感じ取れるのだ。
「……ようやくお目覚めですか。越後の軍師殿はずいぶんと眠りが深いようですね」
「……一言もございません」
俺は頭を垂れ、晴信の前に畏まった。
先日と異なり、部屋には晴信以外誰もいない。幸村はもちろん、俺を案内してくれた侍女も晴信によって遠ざけられてしまい、部屋の中にいるのは正真正銘、俺と晴信だけであった。
「まず、礼を言わなければいけませんね。此度の影働き、ご苦労でした」
やや緊張した俺を前に、晴信はあっさりとそう言った。
「は、恐悦に存じます」
影働きを褒められるというのも奇妙なものだが、晴信としてはこちらの動きを承知していたと言外に告げているのであろう。どのみち、晴信が気付いていないと思っていたわけでもなし、褒詞は素直に頂いておこう。
「おかげで甲府の治安は保たれ、我が家の宝器も奪われずにすみました。この身に至ってはそなたの芳心に救われたといえます。さて、私は何をもってそなたたちに報いれば良いのでしょうか」
晴信の眼差しが深い思慮を込めて俺を見つめる。
甲府の町を救い、御旗楯無をはじめとした宝物を守り、武田晴信の身を護った。上杉勢が果たしたこれらの役割は、敵将の首級を百あげることに優る功績だといえる。
晴信の口ぶりからすれば、どのような褒賞が望みであれ、その望みをかなえようという意思が感じとれた。
俺はわずかに考え込むと、言質を取るように――その実、相手の真意を探るべく口を開く。
「望みはございますが、それを口にすればかなえていただけましょうか」
「甲斐源氏、武田家当主の誇りにかけて」
間髪をいれずに返ってきた晴信の答えは、俺が求めた以上の保障であり、ゆえに俺は晴信の真意を悟る。
「では、一つだけお教えください。晴信様は、ち……あの男に、その、汚されることを覚悟しておられたのでしょうか?」
「然り」
そう答える晴信の声に迷いや躊躇いはなく、俺はそれが紛れも無い本心であることを知る。
同時に、ほうっと息がもれた。ため息なのか、安堵の息なのか、自分でもよくわからなかったが、聞きたいことは聞けたので良しとしよう。
俺はそれで済んだのだが、一方の晴信は怪訝そうな顔で訊ねてきた。
「それだけ、ですか。望みというのは?」
「はい。お答えいただき、ありがとうございます」
道化と知りつつ、しゃしゃりでた甲斐があったというものである。
だが、それでもなお晴信は納得がいかない様子である。さらに言葉を続けた。
「領土であれ、盟約であれ、今ならばいかようにも上杉の望みはかなうというのに。かりに此度の乱で上杉自身が利を得るのが不本意だとしても、今川家の今後といい、松平家の扱いといい、上杉家として武田家に通したい望みはいくらでもあるのではないですか。それらをさしおいてまで望むことが、今の問い一つとは、無欲というにもほどがあるでしょう」
「確かに仰ることはごもっともです」
晴信の言葉に俺は一応頷いてみせる。
あくまで一応、だ。何故なら、それらをかなえるための前提条件が、そもそも満たされていないのだから。
「我らのみで町を救い、宝器を守り、御身を護るを得たのだとすれば、たしかにいま少し望みの数は増えたやもしれませんね」
その言葉を聞いた途端、晴信の眼が、一瞬恒星さながらに煌いたかのように、俺の目には映った。
しばし、沈黙が室内に満ち、それはどこか呆れたような晴信の声に破られるまで続いた。
「……どこまで、察していましたか?」
「躑躅ヶ崎館と甲府の町を守るのが、真田殿以外にもおられるということは、はじめてこの館に来た時から……あ、いや、あの時はまだ真田殿が抜擢されるより前ですね。正確に申し上げるなら――」
「よい。今のでおおよそわかりました。つまりはほとんど始めから、我が策はそなたに見破られていたということですか」
晴信の言葉に、俺は大きく首を横に振る。
「それはいささかならず私を買いかぶっておられます。はじめ、私はなんとはない違和感を覚えていたに過ぎません。実際に御身の策の輪郭を捉えることが出来たのは先夜になってからです」
実のところ、それに思い至っていたせいで、信虎の前に飛び出す機を逸しかけたのだから、気付いたからといって誇れるものではない。まさか、晴信が幸村を克目させるために陵辱されることまで想定しているとは、予想だにしていなかった。
俺は嘆息まじりに言葉を紡ぐ。
「――陰の将が背後に控えていることは予測していました。しかし、まさか肝心要のご自身の警護の分まで他所にまわすなど、無茶が過ぎましょう」
知らず、晴信を諌めるような言葉になってしまった。弥太郎や段蔵がこの場にいれば、お前が言うなみたいな目をされただろう。
晴信は俺の無礼を咎めることはなかった。平静を保ったまま、口を開く。
「仕方ありません。陰将配下の兵は技量こそ優れていますが、数は限られています。甲府の町と、館の抜け道。それだけで手一杯だったのですよ。それとても完璧にはほどとおく、多くの民が飢狼の前に据えられた。そして、私はそうなると知りながら、此度の策を実行に移したのです。我が身を敵の前に晒すことは無論のこと、汚辱をうける程度のこと、覚悟しておくのは当然のことです」
そう言った後、晴信はくすりと微笑むと、こう付け加えた。
「そのようなことになる前に幸村が克目してくれると考えていたことは確かですが」
簡潔に言えば。
今回の武田の布陣、当初からおかしかったのである。
晴信の戦略自体が、ではない。将の配置が、である。
南の今川家に山県と馬場を充てる。これは良い。
西北の信濃国人衆の蜂起に内藤を充てる。これも不思議ではない。信濃の各地で起こった叛乱を短期で鎮めるために、内藤の機動力は有用であろう。
東の北条に虎綱を充てるのも、外から見て不自然なことではないだろう。
俺が違和感を覚えたのは最後の一つ。すなわち、北東で起こったという武田家臣、板垣信憲の叛乱であった。
信憲は手勢を率いて柳沢峠を占拠し、黒川金山を脅かしており、ここに晴信は山本勘助を置いたわけだが――そもそも板垣信憲って誰だ、という話である。父の板垣信方であればともかく、その息子の名前などほとんどの人間が知らないだろう。
事実、これまで幾たびも武田家と矛を交えてきた上杉家であっても、信憲を知る者は皆無である。つまるところ、その程度の人物に過ぎないということであり、だからこそ故意に晴信が叛乱を見逃し、兵力分散に真実味をつけたのだろう、という推測の基にもなったのである。
とはいえ、それを考慮したとしても、信憲相手に陰将を用いるのは釣り合い以前の問題ではないかと俺には思えたのだ。
もっとも、黒川金山という重要な資金源の守り、そして柳沢峠の封鎖が甲斐国内の流通に与える影響を考えれば、ありえない人事というわけでもない。そう考え、最初に感じた違和感をそれ以上掘り下げようとはしなかったのだが、事が進み、幸村が武田軍の総帥となるに及んで、当初の違和感はある一つの推測へと俺を導いていったのである。
信虎に対するに、若い幸村ではあやうい。俺が感じた危惧を、晴信が感じないはずもない。
ではどうするか。幸村を援けることが出来るものをつければ良い。それも幸村自身がそれと気付かないくらいに静かに、そして敵手である信虎がそれと悟ることができないほどに巧妙に動ける者であれば言うことはないだろう。
そうして、晴信の深慮遠謀の輪郭を掴んだと俺は考えた。ここまで晴信の手が及んでいるのであれば、あえて上杉勢がでしゃばる必要はないとも思えたが、いざ戦となれば、どのような不確定要素が忍び寄ってくるか知れたものではない。
信虎を討つために、打てる手は全て打っておくべきである。武家屋敷には晴貞もいる。何より、民に被害が及ぶかもしれない事態を黙視できる上杉勢ではなかったのだ。
敵勢の接近を悟った際の謙信様の一言で事は決し、甲府の町は謙信様と秀綱に任せ、館には俺と弥太郎、段蔵が残ったのである。
弥太郎と段蔵の二人を祠廟に配し、俺自身が晴信の様子を見ていたのは、まさか晴信が自身を汚されることさえ覚悟しているとは思っていなかったからだ。雷将に加え、武田家の当主がいるのだから、おそらく陰将もいるであろう。ゆえに俺が出て行く必要はないと考え、渋る弥太郎と段蔵を説得したのである。
あにはからんや、俺がいたところが、一番危険なところになろうとは。
「そこまでわかっているなら、上杉がおらねば犠牲になったであろう者たちの数も予測がつくはず。一人をもって百に及ぶ暴徒を押し返すような真似、輝虎以外の誰に出来るというのです」
「さて、かりに輝と――もとい、謙信様がおらずとも五十を越える烈女烈婦を前にしては、暴徒ごとき、すごすごと引き下がらざるをえなかったのでは、と思いますが」
あやうく晴信に乗せられそうになるところをぎりぎりで堪え、俺は澄ました顔で答えた。
武家屋敷でのことは寝る前に弥太郎たちから聞いている。ちなみに謙信様の武烈もさることながら、俺が一番驚いたのは晴貞の言動だった。正直たまげた。本当にそう言ったのかと確認したら、間違いないらしいとのこと。いや、変われば変わるものである。傷が治ったら是非会いに行かずばなるまい。
その暴徒の件にしても、元々難民たちと甲府の住民の間ではいざこざが起こっており、住民たちが無警戒でいたとも思えない。住民の見張りの一人や二人いて当然であるにも関わらず、暴徒はすんなりと武家屋敷まで近づけた。これはあらかじめ町人たちを遠ざけた者がいるためではないか。当然、下手に手出しする必要がないと知る者が、である。
祠廟での争いも弥太郎から一部始終を聞いているが、襲撃してきたのが五人とかなり少ない。長らしき者の言からも、もっと多数の人数が入り込んでいたと思われる。それらの姿が見当たらなかったということは答えは一つしかない。
そのことは先の晴信の言葉からも明らかである。
まあ、つまるところ、上杉勢がいなかったところで結果は変わらなかったということである。信虎は退けられ、甲府の町が燃え落ちることはなく、躑躅ヶ崎館が陥ちるような事態もなかったに違いない。
唯一、晴信の身に危難が及んだかもしれないということはあるが、しかし、俺がいなければいないで、幸村は自力でたどり着いただろう。不思議と俺はそう確信できた。
「さて、それはどうでしょう。現に幸村は、我が父の言に動揺を隠せない様子だったではありませんか」
「先の乱で真田家で尋常ならざることが起きたことは、傍で聞いていた私にもはっきりとわかりました。真田殿が動揺したのも無理からぬこと。しかし、そのくらいの荒療治は必要と考えたからこそ、あえて危険とわかりきった人物を招きよせたのでありましょう。事実、真田殿は克目なさいました」
晴信の目論見――否、期待通りに。道化たる俺が果たした役割など、ほんのわずかなものである。それは厳然たる事実だ。
これらの状況を踏まえた上で、手柄顔で武田家に要求を突きつけるなど出来るはずがないではないか。
俺はそう考えていたのである。
◆◆
俺の考えを聞いた武田の当主は、なお呆れ顔を崩さなかったが、しばし後、何故か深々とため息を吐くと、不意に俺の方に身を乗り出した。
「は、晴信様?」
「動くでない」
「は……」
何やらわけがわからなかったが、とりあえず言われたとおり動くのを止めた。
すると、晴信の手が俺の顔に伸び、いつかと同じひやりとした感触が俺を捉えた。
違うのは一つだけ。前の時は額に置かれた手が、今は頬に置かれている、という点である。
とはいえ、別につねられるわけでもなく、たださわさわと晴信の指が頬を撫でていく感触が続くばかり。
やたらとくすぐったいのだが、晴信の顔にふざけている色はない。むしろ、その眼差しはこちらが気圧されるほどに真摯なものだった。
不意に。
晴信の口が開いた。
「――そなた、先の乱のこと、知りたいとは思わないのですか」
信虎の言葉を聞いていた俺である。ことに真田の家の動向と、躑躅ヶ崎館での決戦時、何が起きたのかということ。虎綱でさえ知らなかったこの事実に興味がないと言えば嘘になってしまうだろう。
だから、俺は正直に胸の内を吐露することにした。
「知りたいですね。そうすることで、御身が楽になるのであれば」
「――それは、どういう意味です?」
「先の乱で何が起きたにせよ、私は武田の家と関わりなき者。その事実を知ったところで、何が変わるわけでもありません。木石に語るよりは、いささか気が晴れるのでは、と」
晴信が目を瞠る。
頬に置かれていた手に、かすかに力が入ったように思われた。
しばらくすると、晴信の手が頬から離れ、俺は思わず息を吐いていた。緊張の挙句、いつのまにか息まで止めていたことに、やっと気付く。
そんな俺を尻目に、晴信は何やら納得したように頷いていた。
「――なるほど」
「晴信様、あの、何か?」
「いえ、何でもありません。夜分遅くに呼び立ててすみませんでした。もう下がって良いですよ」
「は、はい。かしこまりました」
何だかわからないが、別に機嫌を損じた風でもない。
内に溜め込むよりは吐き出した方が楽な場合もある。そう思って口にした言葉だったが、晴信にとっては大きなお世話だったのか、などと考えながら、俺が晴信の部屋を後にしようとした時だった。
「天城」
「はッ」
晴信の呼びかけに、俺はかしこまって応じる。
しかし、晴信の口から出た言葉は俺が予想もしていなかった意外なものだった。
「――温泉?」
湯治のお誘いだった。