乱世にあって、血の繋がった親子兄弟が争い合うのは、さしてめずらしいことではない。否、むしろ血の繋がりこそが争いの火種となってしまうことの方が多いくらいであったろう。
今川義元しかり、織田信長しかり、そして輝虎様もまた、内実はどうあれ、姉である晴景様との骨肉の争いに勝利して、越後の実権を握ったことにかわりはないのである。
そして、そんな骨肉の争いが、かつて甲斐の国でも起こっていた。
いわゆる、躑躅ヶ崎の乱である。
それは甲斐武田家がどれだけ長く続いていこうとも、決して忘れられることのない激しい内紛であったとされている。
巷間で語られるこの乱の概要は、時の当主であった信虎の暴悪な振る舞いに耐えかねた重臣たちが、信虎の娘である晴信を擁して決起し、死闘の末に信虎を駿河へと追放することで決着がついたとされる。
「……それは、決して間違いではないのですが」
しかし、まったくの事実というわけではない。
相模への道中、武田家の誇る静林の将たる春日虎綱は、目を伏せつつ、俺にそう言ったのである。
現在、多くの国がそうであるように、この時代の大名とは国人衆の旗頭的存在であって、後世における主君と臣下のように、主従関係が厳格に分けられているわけではない。それは言い換えれば、家臣が主君に逆らう力を有していたということでもある。
これは信虎が当主になった甲斐の国も例外ではなく、そして武田家当主となった信虎は、その状況をよしとせず、これを革めるために行動を開始した。
強硬に権力の集中を押し進める信虎の行動は、必然的に国人衆たちとの溝を深くしていく。中央に権力を集中させるということは、地方の国人衆の既得権を収奪するということなのだから、それは当然といえば当然の流れであったろう。
国人衆の不満は一日毎に高まっていき、反信虎勢力とでも呼ぶべき陣営が出来上がるまで、さして時間はかからなかった。
ただ、信虎はそれを見越しており、むしろそれが出来上がるのを待っていた節さえあった。すべての反対勢力を一つにまとめあげてしまえば、後はそれを叩き潰すだけで、一気に甲斐の主権を手にすることが出来る。それが信虎の思惑だったのだろう。
乱の後、この時期の信虎はすでにして暴君としての姿を露にしていたとの評がたてられるのだが、実際のところ、国を揺るがすほどの悪政を布いていたわけではない。色を漁る傾向こそあったが、英雄、色を好むという言葉もある。信虎の女好きはむしろ英邁な君主としての勲章の一つと考えられ、信虎に期待する者たちは、家臣と領民とを問わず、決して少なくなかったのである。
躑躅ヶ崎の乱が勃発した当初、有力な重臣たちのほとんどすべてが信虎の敵にまわり、甲斐の半分が信虎の敵になった状態であった。
だが、一方で信虎の革新性に期待する者たちや、あるいは累代の家同士の勢力争いで没落していた者たちにとっては、信虎の台頭は巻き返しの絶好の機会に映ったのである。信虎はたくみに彼らの勢力を取り込み、たちまちのうちに巨大な勢力を形成することに成功する。
甲斐の半分が敵にまわったのは事実であった。
だが、残る半分は信虎のものとなったのである。
――そして、甲斐の国における争乱は、激化の一途を辿る。
◆◆
板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰、原虎胤、真田幸隆ら、それまでの武田家を支えていた名臣たちの多くが鬼籍に入った躑躅ヶ崎の乱当時、虎綱は晴信の傍仕えとして、まだ幼い主君を守るために懸命に戦っていた。
信虎の戦いぶりは、そのあまりの猛々しさから勇猛というより狂猛とでも例えるべきもので、その武威に裏打ちされた信虎軍との戦いは苦戦の連続であったらしい。
この時、晴信軍の事実上の指揮官は板垣信方であり、晴信はあくまで旗頭として担がれている立場であった。 これは当時の晴信の年齢を考えれば当然と言えるだろう。晴信の英明さはすでに家臣たちも承知していたが、まだ十を幾つも出ていないような少女に、父親相手の戦の総指揮が取れるとは誰も思わなかったのだ。
また、晴信自身の兵も虎綱ら傍仕えの者たちだけと言ってよく、その力は微々たるものであり、たとえ晴信が望んだとしても、重臣たちが年若い主君の号令に従うことはなかったであろう。
乱が深まるにつれ、状況は晴信方の不利に傾く一方であった。
先に挙げた重臣は、そのすべてが乱の最中に命を失うに到っている。それは言い換えれば、信虎がほとんど独力で彼らを撃破し、首級を取り、晴信側に大損害を与えていたということ。戦の勢いは圧倒的に信虎側が優勢だったのである。
そういったことを、虎綱はぽつりぽつりと語ってくれた。
流暢とは到底いえない語り口であったが、それゆえにその一語一語が重く、しっかりと俺の胸に届いてくる。
「躑躅ヶ崎の乱という名称は……」
虎綱は地面に眼差しを向けながら、言葉を続ける。
「乱における最後の戦が、躑躅ヶ崎舘で行われたことから付けられています。板垣様はそれに先立つ戦で敵に討ち取られていました。この時、健在であったのは真田幸隆様ただお一人で、その幸隆様も重傷を負われていました。それゆえ、あの戦は晴信様が総指揮をとられた初めての戦だったんです」
彼我の兵力、勢い、すべてにおいて敵が優る。躑躅ヶ崎舘はその名のごとく、城壁も櫓もないただの舘に過ぎず、防戦の拠点にすることは出来ない。
この時期、虎綱は別としても、晴信に付従う将兵の多くが、胸に諦観を抱いていたであろうことは容易に想像することが出来た。
しかし、と虎綱は言う。
ただ一人、泰然と勝利だけを見据えていた者がいた、と。
「――御館様は、私たちには何も仰りませんでした。けれど、すぐにわかりました。御館様の中に、敗北などないのだということは。御館様には勝算があったのだと思います。けれど……」
その勝算を口にすることも、晴信はなかったのである。
晴信は自軍を躑躅ヶ崎館の後背にある要害山城に集結させた。ここは晴信が生まれた城でもあり、躑躅ヶ崎館が敵に攻め込まれた際、抵抗の拠点として機能するようになっているのである。
晴信はこの城に立て篭もり、押し寄せる信虎軍に対抗しようとするかに見えた。
実際、信虎軍の猛攻に対し、晴信軍は数日、要害山城に立て篭もって防戦する。
信虎の陣頭指揮による攻勢が苛烈を極めたとすれば、晴信の直接指揮による防戦は巧妙を窮めた。共に武田の名を冠する二つの軍の激突は要害山の城壁を揺らし、城門を撓ませ、ついには両軍の将兵が疲れ果てて立つことさえ出来なくなるまで続けられたのである。
結果として、晴信軍は要害山城を守り通したが、城内の死傷者はかなりの数にのぼった。無論、敵にはそれに数倍する被害を与えてはいたが、当の信虎は、要害山の攻囲を解いた後、占領した躑躅ヶ崎館に入って将兵に休養を与えており、再度の攻勢を考えていることは明らかであった。
対する晴信軍はといえば、頼みの要害山の城壁や城門の損傷はひどく、次の攻撃には到底たえられないであろうと思われた。
だが、座して滅亡を受け入れるわけにはいかぬ。
晴信は防戦で消耗の極みに達した心身に喝をいれ、陣頭に立って修復作業にとりかかる。幼いながらに、敵の猛攻を凌ぎきった晴信の将略は、実際にその下で戦った者たちにとっては疑う余地のないところとなっていた。
晴信軍の将兵は、健気で小柄な、かつ偉大な将帥の下で戦えることに誇りを抱き、疲労に限界を訴える四肢を叱りとばして立ち働く。
晴信麾下の将兵の多くは、晴信直属ではなく、戦死した板垣や甘利、原などの重臣たちの兵であった。主をなくした彼らは、降伏もならず、逃亡もできずで、いわば選択の余地なく晴信に付き従っていたのであるが、晴信の将器に触れた彼らは、この御館様のためならば、と改めて晴信の麾下で戦うことを誓った。
それはすなわち、幼き晴信が、全軍の士心を得るに至った、ということを意味する。
ここに、反撃へ移る準備は整ったのである。
一日、麾下の主だった武将を集めた晴信は、躑躅ヶ崎館にある信虎への攻勢を指示する。
しかし、家臣たちにとって、それは無謀を通り越して自殺行為であると映った。たしかに要害山城の内部で晴信の権威は確立されたが、それでも信虎軍と晴信軍の差は二倍や三倍ではない。城壁に拠ってこそ互角に戦うことが出来るのであり、城を出てまともに戦えるとは到底思われなかったのである。
今は信虎の猛攻を凌ぎ、国内の同志や、あるいは今川、北条らと結んで信虎と対抗するべき。そう訴える家臣に対し、晴信は昂然と眼差しをあげながら口を開いた。
「劣勢の我が軍の前に、敵将がわざわざその身を晒してくれているのです。これを討たずして、どうして勝利が掴めるというのですか。古来より、城に頼って大を為した者などいはしません。頼るのならば、城ではなく『人』をこそ頼るべきなのです。そして、私は、私の麾下にいる『人』は、その数も、その質も、敵に優ることはあっても劣ることはないと考えています」
あなた方の考えは違うのですか、と軍配で口元を隠して笑う主の姿を前に、居並ぶ家臣たちは声も出ぬ。
それも道理。彼らは年端もいかぬ幼き主君から問われたのだ――お前たちの力を信じる私は、間違っているのか、と。
ああ、どうしてその信を裏切れようか。
わずかな間を置いて、要害山城に湧き上がった喊声は、天に沖する焔となり、その声は躑躅ヶ崎館の信虎の耳にまで届くかと思われた。
◆◆
かくて、躑躅ヶ崎の乱は、その最終幕へと雪崩れ込み――結果として、晴信軍は勝利した。突入部隊を指揮し、躑躅ヶ崎舘に踏み込んだ晴信軍の勇壮さを、虎綱は今なお昨日のことのように思い出せる。晴信軍の士気は沸点に達しており、その勢いは怒涛の如く――しかし、それでもなお紙一重の勝利であったと、当時のことを思い出し、薄寒そうな顔をしながら、虎綱はそう言った。
そしてもう一つ、虎綱が今日なお忘れられぬ情景。
躑躅ヶ崎館を陥とし、信虎軍を討ち破った後、家臣たちの前に現れた晴信の顔。
冷たく凍り付いて、けれど激しく燃え盛る。氷と炎、そんな矛盾を内包する、あの峻烈な眼差しが、父との争闘によってもたらされたのか、それともそれ以外の何かがあったのか。
それは虎綱にもわからなかった。晴信が黙して語らぬ以上、問い詰めるようなことも出来なかった。何かよほどのことが起きたのだと、虎綱にわかったのはその程度のことだったのである……
「……そして、今回の晴信様の様子は、あの時と酷似しているのです」
虎綱の顔にこびりつく不安の陰は、遠く躑躅ヶ崎の乱から続くものであるらしい。
であれば、俺の言葉など気休めにもなるまいが、それでも口を開いてしまったのは、虎綱の危惧と重なるものが、俺の中にもあったからなのだろう。
「敵は父であり、元守護職。甲斐国内で叛乱を起こさせたということは、その影響力はまだまだ武田家に根を張っているということなんでしょう」
生易しい敵ではない。そう思う。無論、そんなことは俺以上に虎綱は承知していることだろう。
そして、それゆえに、今回の晴信の作戦に、虎綱は不安を禁じ得ないのかもしれない。
今回の武田家の作戦の肝は、敵の戦略を逆手にとって、あえて躑躅ヶ崎館の防備を薄くすることで信虎を誘い出し、四方より包囲殲滅することである。
春日虎綱は北条家へ赴き、内藤昌秀は信濃の叛乱鎮圧へ。山本勘助は黒川金山の防衛に向かい、山県、馬場の両将は北上する今川軍を迎え撃つために南へ向かう。当初、山県は北の上杉家への押さえとなる予定であったのだが、これは上杉の行動によって無用の配慮となった為、南への軍に加わることになったのである。
躑躅ヶ崎館に残るのは、晴信の他には真田幸村ただ一人。
晴信と幸村が信虎の攻勢を食い止め、その間に四方に散った諸将が反転、信虎を包囲した後、殲滅する。
この作戦で虎綱が危惧するのは、一時的とはいえ、敵の最精鋭の攻撃を、晴信と幸村が寡兵で凌ぐ状況が現出することである。晴信と幸村であれば、問題はないだろうと考えつつも、信虎の猛威を知る虎綱は、せめて躑躅ヶ崎館ではなく、要害山城へ立て篭もるように晴信に進言した。
だが、晴信はこの進言を採り上げず、躑躅ヶ崎館から動かなかった。要害山城に篭れば、こちらの意図を察した信虎はあらわれないだろうという晴信の言葉に理を認めつつも、その透徹した眼差しに、虎綱は不安を隠せなかった。
虎綱の目には、晴信がなぜか進んで信虎の前に肢体をさらけ出しているように見えて仕方なかったのである。それは多分、晴信が口にするように作戦を成功に導くためだけのものではない。
虎綱がそう考えるに至った理由は一つ。今の晴信は、かつての晴信ではないということである。
信虎が駿河に追放されてより数年、すでに晴信が築いた勢力は信虎時代とは比較にならぬ広がりを見せており、晴信自身も、その家臣団も、かつて信虎と対峙していた時とは比べるべくもない実力を有している。いかに信虎を討つのが難しいとはいえ、晴信を囮とする必要はない筈なのだ。まして、越後の上杉家が援助を申し出てきた今、最大の懸案であった塩の問題も解決したのだから。
それでも作戦を変更しない晴信を見て、虎綱は推測を確信にかえた。
晴信自身が、今回の戦いにおいて、心に何事かを期しているのだと。そして、それはとても危険なことで、だからこそ晴信はその真意を口にしないのではないか。虎綱にはそう思えてならなかったのである。
だが、晴信が実際に何を考えているのかという肝心な点がさっぱり虎綱には見えてこなかったらしい。
それゆえに、俺に問いを向けたのだろうが、しかし、すまぬ。虎綱がわからんものが、俺にわかる筈もないではないか。
俺がそう言うと、虎綱はほろ苦い笑みを浮かべ「そうですよね」と頷いた。無茶なことを聞いているという自覚はあったらしい。だからこそ――
「――まあ、推測なら出来ますが」
そう言う俺の言葉を聞き、虎綱はぽかんと口を開ける。
「え、え?」
「元康様から、信虎のことを聞いて以来、武田家の動きが妙に鈍いというのは、私も考えていました。信虎の危険性を最もわかっているのは武田家の筈。今川の変事の陰に、その存在を疑いもせずにのうのうとしているというのは考えにくい」
もしや信虎と晴信が通じているのではないかと考えもした。もっとも、それはありえないとすぐに自分で否定したが。
その理由を問われると、少し困るのだが、なんというか、あの晴信が伝え聞く信虎のような人物と、たとえ一時的なものであれ、手を組むとは思えなかったのである。あるいは、思いたくなかった、と言いかえるべきかもしれない。輝虎様と並び立つほどの敵手が、そんな小物であってほしくはなかったからだ。
もちろん認めたくないからといって、見ないわけにはいかない。元康に言ったとおり、見たくない現実を見据えることこそ、俺がもっとも注意していることであるのだから。
それゆえ、俺は晴信と信虎が通じ合っている――それもここ最近のものではなく、ずっと昔……それこそ駿河へ追放されていた時にまで遡る昔から、という選択肢も考慮にいれていた。
まあ、晴信とじかに会ったことで、この選択肢が霧消したのは幸いであったといえるだろう。
ともあれ、俺は言葉を続ける。
「様変わりした今川家の背後に、信虎がいる。それに気付きながら、動かないのだとすれば、考えられる可能性は二つだけです」
「二つ、ですか?」
首を傾げる虎綱に、俺は頷いてみせる。
それはすなわち――
「一つは、動けないという場合。信虎を恐れ、警戒しているからこそ、迂闊に動くことが出来ないのだとすれば、武田家の動きの鈍さにも一応の説明がつけられます」
もっともその可能性は極小である。
あの武田晴信が、敵を恐れ、縮こまっているかもしれないと危惧するのは、輝虎様が信虎の凶行に乗じて領土を拡大しようとするかもしれないと危惧するくらい、説得力に欠ける。
ゆえに。
「もう一つは、動く必要がない場合です」
本命はこちらである。
晴信にとって、信虎の侵攻が必要なことであるとしたら。
討つために、ではない。それだけなら、虎綱の言うとおり、何も我が身を危険に晒す必要はないのだ。
それ以外に、信虎を躑躅ヶ崎館へ誘き寄せる目的があるのだとすれば、晴信の動きにも得心が行く。
問題は、その目的がなんであるか、という点である。
俺がそれを口にすると、虎綱は固唾をのんで俺の言葉の続きを待った。
「晴信様の目的は――」
「――御館様の目的は?」
ぐっと身を乗り出す虎綱に、俺は腕組みして、首を傾げてみせた。
「何なのでしょうね?」
――おお、真面目な虎綱がこけている。めずらしい光景だ。
「な、何なのでしょうねって、あの、天城殿?」
「いや、実はそれがさっぱりわからないんですよ。春日殿の仰るとおり、ただ勝つだけなら、ここまで危ない橋を渡る必要もなし。石橋を叩いて渡る晴信様が、あえて敵の誘いに乗るだけの価値が、今回の作戦にはあるのでしょうが……」
むむっと考え込む俺を前に、虎綱は困ったように頬に手をあてる。
「そこが一番肝心なところなのですけれど……」
「面目ない。ただ……晴信殿の傍に残ったのは、真田幸村殿でしたね」
「はい、そうですが。あの、それが何か?」
虎綱の不思議そうな眼差しに、俺は小さくかぶりを振った。
「いえ、どうして幸村殿が残ったのかな、と思っただけです」
守勢に徹するというのなら、幸村以外に適任の将がいる筈なのに。
虎綱によれば、かつて幸村の祖父の幸隆は、重傷の身をかえりみずに晴信と共に信虎を打ち破り、戦の半ばで果てたという。晴信は今回、その因縁に決着をつけようとしているのだろうか。
そう口にしながらも、俺は前方に視点を据えなおす。
彼方に見える甲相国境を越えれば、そこはつい先ごろ、矛を交えた北条家の領内である。
北条の動向次第では、今回の戦、長引くことになるかもしれない。今回の使いをしくじれば、それだけ甲斐の国と晴信にかかる負担が大きくなり、結果として今川家に――そして信虎に利することになるであろう。
後方の甲斐への憂いはもちろん消せないが、それでも今は前方の相模に集中するべき時。俺はそう考え、そして俺の視線を追った虎綱もまた、それに思い至ったのであろう。不安げな表情を押し隠し、その視線を正面へと向けるのであった。
◆◆
相模小田原城。
城のみならず、城下町までもすべて城壁で囲んだ、いわゆる総構えの構造を持つ天下屈指の堅城である。
その城を拠点とし、関東制覇を目論む北条家は、初代北条早雲以来、数十年、伊豆、相模の地を掌握し、今や武蔵の国の大半を領するに至っており、関東管領が越後に逃亡した今、その威権は関東随一といってもよい。
北条家は初代より主君の英邁さと家臣の智勇によって勢力を伸張させてきたのだが、ことに今代の氏康のそれは瞠目に値した。
初代早雲の創業、二代目氏綱の蓄積を経た北条家の勢力を、関東全域に及ぶまで雄飛させた現当主氏康の名は、今や関東のみならず東国全土に鳴り響いている。
正しく旭日昇天と呼ぶに相応しい快進撃を、北条家が成し遂げることが出来た理由の第一は、やはり当主である北条氏康の器局才幹に求められよう。
戦場にあって退くことを知らぬ勇猛さで『相模の獅子』と畏れられる氏康。しかし、氏康が武勇将略に優れるだけであれば、北条家が関東に覇を唱えるまでには至らなかったかもしれない。
北条氏康の本領は、外征よりも内治にあった。自身、領内を飛び回るほどに民政を好む氏康によって、北条家の国力は、今代になってこちら、増加というよりも飛躍と称しえる伸びを見せており、周辺の諸勢力を慄然とさせていたのである。
北条家の特色といってもよい年貢率『四公六民』は他国に比して著しく軽く、それだけで隣国には脅威となる。『五公五民』でさえ名君と呼べる時代である。北条家と境を接する国の民は、伝え聞く氏康の善政を羨み、その民となることを望んでやまなかった。
民とは、すなわち兵である。北条の施政を羨む兵を率いて北条軍と戦えば、勝敗はおのずから明らかであろう。北条家の破竹の進撃の一つの要因に、敵方の将兵の戦意の低さを挙げることが出来る。
また、北条家は単純な年貢率以外でも、臨時の労役を撤廃するなど、極力、税の不安定さをなくし、徴収の時期を明確にした。これにより、領民は不安定な税に怯えることがなくなり、結果として安定した税収を確保できるようになったのである。
それ以外にも、北条家が打ち出した政策は学ぶべきところが多い。
定期的に検地を実施し、正確な石高を把握することで、民と北条家との中間に位置する国人衆らが年貢のごまかしをすることが出来ないようにしたりもしている。
当然、国人衆の抵抗は強いが、北条家は敢然とそれを実行し、その支配をいささかも揺るがせていない。
ただこの一事をもって、北条家が大となりえた理由と言い切ることも出来るであろう。
それ以外にも、飢饉の際には大幅な減税を行ったり、時に徳政令を出すために家督交代を行うなど(氏綱が氏康に家督を譲った際がこれに当たる)、北条家の内治に傾ける労力は、はっきりと武田、上杉両家を上回る。というより、日ノ本すべてを見渡しても、北条家に伍す国を見出すことは困難であった。
さらにその家臣団の統制も北条家らしく独創的かつ効果的なものだった。
いわゆる小田原評定である。
北条家の鉄の団結を支える制度の一つであり、月に二度開かれる重臣会議のことで、これによって北条家の諸事が決せられるため、武力によらずして国政に携わることができるのである。
北条家は、初代以来、まったくといってよいほどに直臣や国人衆の叛乱が起きていない。その理由の一つが、この時代にあっては特異ともいえる小田原評定の制度にあることは疑いなかった。
後年――というか、別の時代では芳しくない意味を付与されてしまう『小田原評定』であるが、この時代にあっては北条家を関東の覇者たらしめる有意な制度の一つであるようだった。
「――これは手ごわい」
小田原城への道中、北条家の内政の充実ぶりを自分の目で見聞しながら、おれはしみじみと呟いた。
北条氏康が戦国期随一の民政家と呼ばれていることは知っていたが、その政策の詳しいことまで承知していたわけではない。
そして今回、実際にそれを目の当たりにした俺は感嘆を禁じ得なかった。俺自身はもちろん、多少の危険をおしても、虚無僧様をここまで同道してきて正解だったようだ。
年貢の軽減にはじまり、税制の安定と公平を積極的にすすめ、検地によって国人衆の勢力を削ぎ落とし、それらによって生じる家臣団の不満を吸い上げる制度を確立する――まさに上杉家がこれから押し進めていかなければならないことばかりであるからだ。実際にそれが運用されている国を、自分の目で見ることは決して無駄にはならないだろう。
もちろん、北条家のやり方を、そのまま上杉家にあてはめることは出来ない。地理も、気候も、人の気質も違う国同士なのだからそれは当然である。
また当てはめようとしたところで、出来るものでもない。北条家が三代に渡って根付かせてきた内政の制度を、輝虎様が国力の蓄積も、政策の継続性もなしに実行したところでうまく機能する筈がないからである。
年貢の軽減一つとったところで、越後では四公六民では国が成り立たない。佐渡の金山や、青苧の取引などで府庫にそれなりの余裕はあるが、それだけですべてがまかなえるわけではなかった。
また、そういった収入源を持たない越後の国人衆が年貢の軽減に同意する筈もなく、上杉の直轄領だけでそれを行えば、領民の間で騒ぎが起こるだろう。誰であっても税は安い方が良いに決まっているからだ。
無論、この時代、土地を移ることは容易ではなく、他領への羨望は、転じて自領主への不満となり、それは瞬く間に越後全土に拡大していくだろう。北条家は三代かけて、それらを解決し、根付かせていったのである。まだ始めてすらいない上杉家との差異は誰の目にも明らかであった。
ただ、内政、軍事の改革に関しては、あくまで俺が考えているだけであって、輝虎様はもちろん、政景様や兼続、定満らにも話していない。
まあ、えらそうに改革がどうこう言ったところで、具体的な骨子さえ決まっておらず、四文字熟語を書き散らした程度だったので、使者として北条家に赴くにあたり、そちらの方面の情報も得られれば、というのは、今回の戦略の絵図面を引いたあたりから考えていたことであった。
もちろん、武田家と北条家との交渉の経過次第では、そんな悠長なことを言ってられないので、あくまで可能であれば、という程度のものだったが。
なぜこんなことをくだくだしく述べているかというと――虚無僧様の参加は、あくまで俺にとって突発事であった、という一事を銘記しておかねばならないからである。主に越後に残った守護代様への釈明のために。
決して俺が虚無僧様を外に連れ出すよう企てたわけではないのである。
「あの、顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
俺が越後に置いてきぼりにした人のことを考え、額に冷や汗を滲ませていると、隣にいた女性が心配そうに話しかけてきた。
「あ、はい、大丈夫です」
「本当ですか? なにやら深刻な怯えが見て取れるのですが……」
はい、とも、いいえ、とも言えない俺であった。
俺の心配をしてくれているこの女性、北条家から出迎えのために派遣されてきた人物で、北条千代(ちよ)というらしい。名前のとおり北条の一門に連なる身とのことで、北条家の制度を詳しく教えてくれたのは、この千代さんだった。
ぬばたまの、と形容したくなる綺麗な髪を無造作に頭の後ろで束ね、慎ましやかに、しかしその実、頬がうっすらと赤くなるほどに熱を込めて語る姿が印象的である。なんというか、北条家の国づくりに関して話すだけで幸せです、という感じだった。
主家への忠誠もあるのだろうが、千代さん本人が民政を好んでいるのだと思われた。どれくらい好んでいるかというと、使者の出迎えという役目に従事していながら、先刻の休憩時「すみません、少し失礼します」と言い置き、収穫で忙しい領民に混じって農作業をしていたくらいに、である。
案内役たる身が、着物の裾を泥で派手に汚しているのはいかがなものか、と思わないでもないのだが、こちらからすれば、今回の任では最悪の場合、国境で足止めされる可能性もあったので、小田原城まで案内してくれるというのであれば、多少の服の汚れなど無視すべきであろう。
もっとも、声には出さねど、視線は裾に向いてしまっていたらしく、それに気付いた千代さんは、少し照れたように笑って裾の泥を払っていた。
そうして、小田原城に向かう途上、千代さんから北条家の制度について詳しく聞いていたわけである。
そして、聞けば聞くほどに北条家の巨大さがわかってしまい、ため息を吐きたくなる。これほどまでに国内が安定している国と戦うのは遠慮したいのだが、上杉家が関東管領を保護している限り、北条家とは敵対せざるをえない。
上野でぶつかった時から北条家の強大さはわかっているつもりであったが、こうして相模の国を見ていると、それがいかに底の浅いものであったかがはっきりと理解できてしまうのだ。
街道は整備され、道端で争う者はなく、相模の田野を彩る黄金色の稲穂は北条家の繁栄を具現化したものであるように、俺の目には映った。
「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る、か。なるほど、あの関東管領では相手にもならないわけだ」
収穫に従事する領民の誇らしげな笑みを見るともなく見ながら、俺はこらえきれずに再度ため息を吐いた。なんであんな輩のために、こんな強国を敵にしなければならんのか。輝虎様の性格からして仕方ないことではあるのだが、やはり再考してもらいたいものである。
かなり不穏な呟きだったので、聞かれないように気をつけたつもりだったが、千代さんの耳には届いてしまったらしい。
その目に驚きとも納得ともとれない、不可思議な表情が浮かんだ。
「この光景を見て、管子の教えが出るのですね。幻庵刀自の仰ったことは、やはり真であったようです」
「幻庵刀自、と仰ると、北条一門の長老と聞き及んでいますが……その方が何か?」
「はい、あなた方の先触れの使者が城に来たおりに。北よりの使いを侮るなかれ、と」
そういうと、千代は持っていた握り飯をほお張り「美味しいですね、これ」とにこにこと笑った。
どちらかといえば、上杉の使者はおまけなのだが、と思いつつも俺も持っていた握り飯をほお張る。今さらながらだが、ササニシキもコシヒカリもないこの時代、同じ米とはいえ、俺が食していた米よりも随分と味は劣る。
だが、塩のみの、この握り飯はやたらと美味い。さすがは冨樫晴貞謹製握り飯である。
慌しく甲斐を出立する際、虎綱に連れられた晴貞からもらったものである。
塩が効き過ぎで、形はでこぼこなやつを期待していた(?)のだが、あにはからんや、渡された包みから出てきたのは見事な三角形、塩の効き具合もばっちりだった。後で晴貞に謝らねばならん。
虎綱に聞いたところ、春日家に身を寄せている晴貞は、自分から望んで家の中の仕事を頑張っているのだそうだ。その成果であるらしい。
出立時の一時しか、晴貞の顔は見ることが出来なかったのだが、虎綱と同様に、晴貞も加賀ではじめて会った頃より、ずっと明るくなっており、甲斐の国の生活にも溶け込めていることは、その笑みからも明らかだった。再会を喜びつつ、俺はそのことにほっと安堵の息を吐いたものである。
――だが、その後ろで殺気を込めて俺を睨む晴貞親衛隊(命名)、お前らはいらん。俺が握り飯を渡されたからといって泣くな、呪うな、刀を抜くな。
懐の鉄扇を取り出した俺と、背後の親衛隊の間に生じた張り詰めた緊迫感の理由がわからず、晴貞はとまどったようにきょろきょろとあたりを見回すばかりであった。
……親衛隊の血の涙を思い出しつつ、俺が握り飯を食べ終え、そろそろ出発しようと考えた時。
なにやら彼方から物々しい馬蹄の響きが響いてきた。
見れば、完全武装の騎馬武者がおおよそ十騎、一目散にこちらに向かって来るではないか。
それを見た弥太郎や段蔵が俺と千代を守るために、前に出る。秀綱と虚無僧様も同様だ。
……あれ?
「い、いや、虚無僧様は出たら駄目でしょうが!」
「――護衛の身であれば、当然のこと。くわえていえば、それがしに様など不要でござる」
奇妙にこもった声で答えが返ってくるのだが、そういうわけにはいかないのである。
俺たちや虎綱らが慌しく迎撃の準備を整えている間、俺の近くにいた千代は、じっと近づいてくる武者たちを注視しつづけているようだった。間もなく先頭の武者の顔が見えてきたのだが、それを見た千代は慌てたように左右を見回し、こそこそと俺の背の後ろに隠れてしまう。
どうしたのか、と俺たちが首を傾げている間に、件の騎兵は俺たちの元までやってきていた。
その人物の顔を見た弥太郎が、驚きの声をあげる。
黄色の鉢巻を凛々しく締めたその顔は、弥太郎だけではなく、俺の記憶にも新しいものだった。
その人物が口を開く。
「上野以来、ですね。久方ぶりと申すべきでしょうか、天城殿」
「お久しぶりです、北条綱成殿」
俺の言葉に、幾人かの口から小さく驚きの声が漏れた。
北条軍の主力である五色備えの一角、地黄八幡の北条綱成を知らぬ者はいない。上野の戦で、上杉憲政を追撃してきた綱成を、伏兵で迎え撃ったのは他ならぬ俺なのだが、あの凛然とした武者ぶりは数ヶ月で忘れられるようなものではなかった。
だが、今の綱成はあの時と異なり、どこか慌てた様子で、かすかに息を荒げているようだ。いや、頬を上気させ、まなじりを吊り上げているところを見るに、慌てているというより、怒っているというべきだろうか。
やはり関東管領を間にはさんで敵対する上杉家からの使者は、歓迎されざるもののようだ、と俺が思った時。
綱成の視線が、俺から、俺の背後に隠れている人物に向けられ、それを察した千代の身体がかすかに震えた。
「もし、そこの女性よ。一つ訊ねたいことがあるのだが」
綱成は実に良い感じの笑顔で、俺の背に隠れる千代に向けて口を開く。
「な、なんでございましょうか、お侍様」
「このあたりで、人を見かけなんだか、と思ってな。お家の大事をよそに、単身、ささっと城下に抜け出してしまった我が主なのだが」
「さ、さあ、私にはわかりかねます、はい」
「ふむ、それは残念だ。まあ我が主の抜け出し癖は今に始まったものではないから、素直に名乗り出てくれれば怒りはしないのだが。ふむ、残念だ」
「……は、はい、そうですね、残念です」
一瞬、なぜか逡巡する千代であった。
綱成はなおも言葉を続ける。
「まったく、どこに行かれたのやら。まさか、上杉、武田両家からの使者の出迎えにかこつけて、領民の収穫を手伝いに来たわけでもあるまいになあ」
上杉、武田両家の出迎えにかこつけて、というと……いや、そもそも綱成の主といえば、一人しかいないと思うのだが。
俺が首を傾げていると、後ろの千代の口から声がもれる。
「はう……」
「それも供一人つれずに。お陰で私どころか、部下たちまで駆り出される始末。良い加減、ご自分のお身体の大切さをわきまえてもらいたいものだ。そうは思わぬか?」
「そ、そうですね、本当にそう思います」
千代の同意を得て、綱成の口はさらに滑らかになっていく。
「そうであろう。そうであろう。もう伊豆、相模の大名では済まぬ。関東管領を放逐し、北条家は関東すべてを斬り従える覇道を歩み始めたのだ、今までにましてご自重いただかねばならぬというに。それがいまだにこの有様、実に、実に嘆かわしい。これでは先代様に顔向けできぬ。ああ、なんといってお詫びすれば良いものか」
「あうう……」
綱成の口からあふれる言葉は滝のよう。何故だか千代は、それに打ち据えられて萎れる一方であった。
――いや、まあここまでくれば俺にも察しはついている。ついているので、巻き添えを食わぬように二人の間から身体をどかそうとするのだが、千代が俺の服の裾を掴んで離してくれないため、それもままならない。
なので逃げるに逃げられず、何故だか一緒に綱成の愚痴だか非難だかわからない言葉の雨を浴びる羽目になる俺であった。