甲斐国躑躅ヶ崎館。
武田家当主・武田信濃守晴信は、上杉、松平両家の使者の口上を聞き終わると、くすりと微笑んだ。
「松平元康殿」
「は、はい」
「今川家の内情を知り、その裏に我が父が暗躍していると知り、わざわざ他国まで語らって来ていただくとは。氏真殿を助けるという目的があるとはいえ、そこまでわが国のために動いてくれたことに、まずは礼を申し上げるべきでしょうね」
晴信の言葉に、元康はちいさくかぶりを振る。
「仰るとおり、私はただ己が目的のために動いただけのこと、礼を受け取ることは出来ません。しかし、越後の方々は、その私の目的と、駿府の乱を治めんがために無償で動いてくれました」
「なるほど、謝辞であれば上杉に述べよ、というわけですか」
元康の言葉を先取りし、晴信はさも困ったように首を傾げる。
「しかし、貴殿と異なり、我らと越後は敵同士。そうそうその善意を信じることは出来ないのです。まして、領内に上杉が兵を引き入れるなど、侵略者に道を教えてやるようなもの。かつて、上洛の時、我が軍は越後を通過しましたが、その時とは状況が異なるのです。そうではありませんか――天城颯馬?」
晴信の視線が、覇気さえともなって、元康の隣に座す俺に向けられる。
今、この場にいるのは俺と元康のみ。弥太郎たちは別棟で待機させられている。
一方、武田家はというと――
晴信の右に座す壮年の男性は、山県昌景。先刻から興味深げにじっと俺たちの様子を眺めやっている。
その隣に座すは馬場信春。おそらく武田家にあって、最も先が見える武将であろう。なにしろ、戦国時代にコスプレに開眼したのだから――はい、つぎつぎ。
馬場信春の隣にいるのは風の将、内藤昌秀。俺とおなじく戦場で甲冑をまとわないそうだが、あまり親愛の情はわいてこない。ぶっちゃけ、なよっとした感じが好きになれん。
かわって晴信の左で瞑目しているのは、山本勘助。皺の深い顔に、重厚な表情を浮かべ、元康の一言一言を吟味するように時折頷いていた。
その隣にいるのは、春日虎綱である。かしこまった表情で控えているが、こちらを見る眼差しに温かみを感じる。
そして、その虎綱の隣で、険しい眼差しでこちらを見つめ――否、睨んでいるのが、真田幸村である。虎綱と並ぶ女将軍、六文銭を旗印に武田家の先駆を務める雷の将である。
その他、武田の二十将も何名か参列しているらしい。文字通り、この場には武田家の文武の精髄が集っていると言って良いであろう。
誰をとっても一国を支えうる将器である彼らが、一斉にこちらを見据えているのだ。それだけで物凄い重圧である。もし晴信の狙いが、俺を威圧することにあるのなら、その目的は十分に達せられたといってよい。
――まあ、だからといって。
「仰るとおりです。援軍の件は取り下げましょう」
――主導権を譲るつもりなど、さらさらないのだが。
俺の言葉に、一瞬、武田の家臣たちからざわめきが起こった。
一国の使者が、あっさりと要求を引っ込めるとはさすがに予想していなかったのだろう。
晴信もまた、目を細めて俺を見やる。
「随分あっさりと申しますね。主君の許しも得ずに、使者たる身がそこまで断言してよいのですか?」
「疑念はもっともと存じますが、この天城、輝虎様より、此度の案件に関しては全権を任されております。この地にて見聞したものをもとに、使命を果たすようにとの我が主のお言葉なれば、上杉軍入国の儀を取り下げることに問題はございませぬ」
「――それは、此度の件、上杉軍が出るまでもないと?」
「御意。この時期に武田家の重臣方が躑躅ヶ崎に勢ぞろいしているということは、つまりもうご存知であったのでしょう。今川家のことも、その裏に誰がいるのかも。そして、そのことを知らしめるために、わざわざ猫の手も借りたいほどに忙しいであろう方々をこの場に集めて見せた。もし私がそれに気付かなければ――その程度の人間しかよこさぬ上杉家など頼むに足らず、そう考えて越後にたたき出す心算であられたと推察いたしました。北条家を説くに、上杉がいた方が便利ですが、いなくとも不可能というわけではありませぬゆえ」
ほう、と感心したように呟いたのは昌景であったか。
そして、呟いたと思った途端、昌景はゆっくりとその場に立ち上がったのである。
晴信が訝しげに配下に視線を向ける。
「どうしました、昌景?」
「いや、こけおどしが通じる相手ではなさそうゆえ、もはやここにいる意味もないかと。天城殿が言うように、今は猫の手も借りたいほど。こうして話している時間さえ惜しい。御館様も、要らぬ芝居はほどほどになさるべきかと」
昌景の言葉に、それまで控えていた幸村の口から鋭い声が飛び出した。
「や、山県殿、いかに重臣筆頭とはいえ、御館様に対し何と無礼な。要らぬ芝居などと――」
「幸村、控えなさい」
「はッ、で、ですが……」
「控えろといっているのです。真田家は序列さえ守れぬ無礼な家柄だと、他家に思われたいのですか」
その言葉に、幸村はぐっと歯をかみ締めたように見えた。
鋭い眼差しをこちらに向けた後、しぶしぶという感じで矛を収める。
晴信の口から、小さく吐息がもれた。
「……確かに、昌景の言うとおりですね。時がないのは事実。塩が不足するであろうことも事実。北条を説くに人が足りないのも事実。少なくとも、そのうちの二つを解決してくれるとあらば、たとえ相手が上杉家であろうと、頭を下げるべきなのでしょう」
その言葉に、またも幸村が驚きもあらわに腰を上げる。
「お、御館様、それは――」
「幸村」
「は……」
晴信の一言に、悄然と俯く幸村。なにか見ていて痛々しく感じるほどだった。
ともあれ、聞かねばならないことが、こちらにも山ほどあるのである。
何より、武田家の君臣の間にたゆたう焦燥は、俺の予測を越えていた。
俺はてっきり、各方面の動きに即応できるよう、主力となる六将を躑躅ヶ崎舘へ集め、二十将を各地に配したのだと考えていた。そう考えれば、二十将が数名しかいないのも納得できる。
だが、どうもそんな状況ではないらしい。
俺の疑問に気付いたのだろう。晴信は素っ気無く、簡潔に事実だけを述べた。
「つい先刻のこと。今川軍が、駿府城を発ったとの知らせが入ったのです。先鋒は朝比奈泰朝と岡部元信。目的地はここ、甲斐の国だそうです――」
◆◆
躑躅ヶ崎館に与えられた一室に、越後から来た一同は勢ぞろいしていた。
すなわち、俺、弥太郎、段蔵、秀綱、元康、忠勝、半蔵、虚無僧の八人である。
晴信からの知らせを開陳すると、まっさきに口を開いたのは、意外にも段蔵であった。
「――はや動いた。そういうことですか」
段蔵はそう呟いてから、俺に深々と頭を下げた。駿河、相模に放った軒猿が功を奏さなかったことを詫びたのである。
とはいえ、元康が来てから、半月も経っていない。当然、軒猿といえどろくに準備も出来ていなかったわけで、段蔵を責めるつもりはない。ないのだが。
俺はあえて厳しい声を出す。
「過ぎたことはいい。本番は、むしろ、ここからだ。失態を繰り返すな」
「御意」
これが弥太郎なら、気にするな、で済ませるのだが、忍として誇り高い段蔵にそれをやると、かえって無理しかねないのである。下手をすると今川軍に忍び込むとかしかねないので、ここはきちっと締めておく。段蔵のことだから、直接自分で行こうとするだろうし、そこで信虎と出くわす可能性もないわけではない……む、もうちょっと念を押しておくか。
「――かといって、無理をするなよ。今川軍に忍び込んでも汚名返上にはならないぞ」
「……御意」
……今の間を見るに、段蔵、出るつもりでいたな。あぶないあぶない。
段蔵のことだから、一度はっきりと口にだして止めておけば、あえて出ようとはしないだろう。
段蔵の次に口を開いたのは、元康だった。
「それだけではありません。晴信様の話では、甲斐と、そして信濃の一部で叛乱が起きたとのことです」
その情報に、すでに知っている俺を除いた全員が息をのむ。もとい、例の虚無僧さんはどうかわからん。室内でも編笠かぶってるので。当たり前だが、異様に目だっており、武田家の家臣からも露骨に怪しまれているんだが――気付いていないのかしら、てると……げふげふ。
「……あの武田家から、謀反人、ですか?」
武田家がいかに統制がとれた家臣団を有しているか、幾度も対峙してきた上杉軍は骨身に染みて知っている。弥太郎の驚きは頷けるものであった。
だが、その問いに元康は首を振る。
「信濃の方は、御家来衆の謀叛ではなく、晴信様に国を奪われた信濃国人衆の蜂起らしいです。規模としてはさして大きくはないらしいですが、叛乱は広範囲にわたっており、鎮圧までにはかなりかかりそうだと」
元康の言葉に、俺が補足した。
「甲斐の方は、正真正銘、謀叛とのことだ。晴信殿の守役であった板垣信方殿の子息、信憲が手勢を率いて柳沢峠を占拠したらしい。黒川金山に近いから、こちらも早急に鎮圧する必要がある」
「南の駿河、北西の信濃、北東の柳沢峠、敵だらけでござるな。これで相模の北条まで出てきた日には、いかに武田家といえど苦しいでござろう」
忠勝の言葉に、俺が頷く。
「そう、ここで北条まで参戦されると四方を包囲されることになる。だから、そちらは春日殿と俺でいってくれとのことだ」
晴信の要求は、俺に北条家への使者となってもらい、元康は三河に帰って西から今川家に攻め上がってほしいというものだった。
北条家に対して、松平家が同行する理由は薄い。それゆえ、元々、そのつもりではあったが、実際にすでに信虎率いる今川軍が動いているとなると、ことは迅速に運ばなければならない。それこそ今すぐにでも発つべきなのである。
ただ、それは武田側から首を横に振られた。なんでも今一度話しておきたいことがあるとのことで、俺はもう一度、後で晴信の下に出向かねばならない。そう言ったとき、虚無僧さんの編笠がぴくりと揺れた気がしたが、はて、どうしたのか。
ただ、この話は上杉に対してであって、松平家に関してはその限りではない。これらの一連の謀叛が、信虎に関わりがあるのは明白であり、その手が三河に伸びていないとは限らない。元康はかなう限り早急に三河に戻って手勢をまとめるつもりであった。
つまり。
「……ここでお別れですね」
「はい」
元康の言葉に、俺は小さく頷く。
わかっていたことではあるが、やはり寂寥の感は拭えない。一緒に行動したのは半月に満たなかったが、元康の為人はとても好ましいものだったし、忠勝の忠義に厚い心と、半蔵の無言の献身には見習うべきところが多かった。
この主君と、この家臣がいる限り、これからの松平家の隆盛は約束されたようなものである。輝虎様が言っていたように、いずれは上杉に匹敵する大家として、その名はあらわれてくるであろう。
先の見えぬ乱世にあっては、次に会う時が敵か味方かは定かではなかったが、出来うるならば、共に手を携える未来を望みたい。
そう言って、俺は元康に手を差し出した。その俺の手をしっかりと握った元康は、勢いよく頷いてみせた。
「私も、そう望みます。お互いがそう思っているのであれば、きっと望んだ未来がつかめますよね」
「はい、きっと」
俺が言うと、元康は微笑んでもう一度頷いたが、不意に何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「そ、そうだ、一つ聞きたいことがあったんでした。天城殿、あの、ですね」
「は、はあ、なんでしょう?」
「その、普段、何を考えていらっしゃるのでしょう?」
「はい?」
唐突な問いに、目が丸くなった。
そんな俺の様子を見て、元康は慌てて両手を左右に振る。
「あ、その、何ていうか、天城殿って、まるでなんでもわかってるみたいに見えることがあるんです。春日山城で、今回の戦のことを話している時、そんな気が何度もしました。も、もしかして、信虎がこんなに早く出ることも、予測の一つにあったのでは?」
その問いに、俺は困惑して、頬をかく。
「なんでまたそう思われました?」
「晴信様からそのことを告げられたとき、私はすごいびっくりしたんです。でも、天城殿はあまり驚いていないように見受けました。だからです」
真摯な眼差しで、じっとこちらを見上げる元康。
その真っ直ぐな眼差しに対抗することは難しく、俺は素直に首を縦に振る。
「確かに、来るかもしれないとは思ってました。でも、証拠があってのことではないですよ。それに、俺がそう考えたのは元康様のお言葉があったからです」
その言葉に、元康はきょとんとした顔をした。
「私の?」
「仰っていたでしょう、『狂王』と。何をするかわからない者が相手なのであれば、あるいは甲斐に対する包囲網を築くように見せながら、問答無用で攻め寄せることもあるかもしれない、と思っていただけです。確たる根拠があったわけでなし、予測と言えるようなものではありません」
だからこそ、口にはしなかったのである。
そして、もう一つの問いにも答えておく。
「見たいものだけを見るのではなく、自分にとって都合の悪いことからも目をそらさない。普段から考えているのは、その程度のことです」
たいして特別なことを言ったつもりはなかったが、俺の言葉に、元康は何度も頷いていた。
「自分の策に溺れないため、ですね」
「もちろん、それもありますが、別のことでも役に立つのですよ」
俺の言葉に、元康がむむっと顔をしかめる。その言葉の意味するところを掴もうとしたようだが、掴みきれなかったようだった。少し悔しげな様子で、俺に答えを求めてきた。
「あの、それは一体?」
「これも、そんなに難しいことではないんですけどね。こちらが良かれと思ってしたことでも、相手がそう思ってくれるとは限らない。そのことを常に念頭に置いておくんです。民のため、主君のため、家臣のため……私たちの行動は様々な立脚点で成り立っていますが、それが常に相手に届くわけではありません」
むしろ、真っ直ぐに相手に届くことの方が稀である。だからこそ、相手が望むことを、自分の視点からだけでなく、相手の視点に立って考えることは無駄にはならない。自分にとって都合の悪いことから目を逸らさない、という言葉はそこまで含んでのものであった。
言うは易く、行うは難しという言葉を地で行く話であるのだが、元康はなにやら感銘を受けたように何度も頷いていた。
民を守るため、戦をなくすため、なすべきことは山ほどある。自分の行いが本当に目的に繋がるものであるのか、自己満足に類するものではないのか、そのあたりを見極めることが出来る為政者は、強い。
それが出来る為政者は、たとえ一時、自分の行動が非難を浴びようとも、断固として行動できるからである。そういった大名は、かならずその勢力を肥え太らせていくことになる。それはたとえば、武田や上杉のように。そしておそらくは、近い将来の松平のように。
元康の人徳と熱意に、周到さと決断力まで加われば怖いものなしである。
素直で、一生懸命で、行動力に溢れていて、それでいて事をなすときには緻密で周到……これから先、元康が『三河の姫狸』とか呼ばれないことを祈っておいた方が良いのかもしれん。
真剣な眼差しでこちらを見つめる少女を見て、俺はそんなことを考えていた。
◆◆
鎧甲冑を脱いだ姿の晴信は、思った以上に小さかった。幼ささえ感じられる容貌は、戦場で輝虎様と互角以上に渡り合い、舌戦においては凌いだとさえ言える武田晴信と同一人物とは思えない。
今、何歳なのかはわからないが、父の後を継いだ時は、本当に子供だったのではないか。それが瞬く間に甲斐と信濃を制してのけたというのだから、おそるべきはその才か、あるいは幼いながらにその才を開花させた晴信の練磨なのか。
「――両方に決まってるか」
「何ですか、両方、とは?」
怪訝そうにこちらを見る晴信に、俺はやや慌てて姿勢を正しながら、なんでもない旨を伝える。
いきなり晴信の私室に案内され、いささかならず動転している俺であった。
「そのように硬くなる必要はありません。ここに招いたのは、私なりの感謝の証なのですから。褒美とでも思ってもらえば良い」
「褒美、でございますか?」
武田家に感謝やら褒美やらをいただく覚えはないのだが。逆ならともかく。
首をかしげていると、晴信は「わからぬならよい」と素っ気無く言って、話題を移してしまった。
「北条へは虎綱を遣わします。今の虎綱ならば外交の任も務められるでしょうし、そなたとの縁を考えれば適任でしょう。未だ北条が兵を出したという報告は届きませんが、そなたらであれば務めを果たせる――そう考えてよろしいですね。そなたはそのためにこそ、甲斐まで参ったのでしょうから」
「御意、微力を尽くします」
俺の言葉に、晴信はかすかに唇を曲げた。
「微力、ですか。謙遜も過ぎると皮肉になりますよ。越後の内乱を収め、我が策謀を防ぎ、上洛を無血で乗り越え、関東に踏み込んで上杉の武威を輝かせ――それを微力と言われては、幾度もしてやられた身としては腹立たしい」
晴信の眼光に押されたように俺は頭を下げる。もっともその言葉をそのまま信じるほどに自惚れてはいなかったが。
「私が晴信様の策謀を防いだとしても、それは武田家にとって、やっておいても損はない程度の策でございましょう。事実、武田家の勢力は増えこそすれ、減ってはおりませんし」
北信濃を制圧し、西上野まで踏み出した今の武田の所領は、間違いなく上杉を上回る。結局のところ、武田家の進出を防ぐことが出来ていない以上、多少の謀略の芽を摘んだくらいで誇ることなど出来はしない。
だが、晴信はなおも言う。
「その代わり、越後に踏み込むことも許していないでしょうに。そなたや景虎、いえ今は輝虎でしたか、そなたらがはじめから国を拡げることを望んで兵を動かしていれば、あるいは武田家よりも大きな勢力を得ていたやもしれませんよ」
「輝虎様が利に聡い方であれば、たしかにそうであるかもしれません。しかし、その代わり、輝虎様は今も長尾景虎のままでいたことでしょう。ついでに申し上げれば、私自身は、内乱の時に首級をあげられていたに違いありませんよ」
敵対勢力の将であり、自らを焼き殺そうとした敵将をそのまま召抱える武将なぞ、日ノ本すべてを見渡しても輝虎様くらいしかいなかろう。
そう言った俺の顔を、晴信が不機嫌そうに見据える。
不機嫌というよりは、単に呆れているだけかもしれんが。
「ふん、天道を歩みたればこそ、今の上杉があり、それゆえに自分もそこにいるのだと。そういうことですか」
「御意。領土征服に血眼になる輝虎様など想像もできませんが、そんな輝虎様であれば、今の上杉の陣容は揃わなかったことは間違いございません」
その言葉を聞き、晴信はにこりと蕩けるような笑みを浮かべ、こう言った。
「なるほど。領土征服に血眼になった私がつくりあげた武田家など、天道を歩く上杉にとって、たとえ国力で上回られていても恐るるに足らぬ、とそう申すのですね」
俺も応じてにやりと笑ってみせた。
「申し上げたいことを汲み取っていただき、何よりでございます」
その刹那。
「貴様ッ!!」
雷光の如き速さで、俺の咽喉元に刀が突きつけられた。
それまでは無言でひたすら耐えていた真田幸村が、今の一言で堪忍袋の緒を切ったのである。
当然といえば当然だが、武田家の当主が上杉家の家臣と一対一で自室で会うわけはない。話のはじめから幸村はずっと晴信の傍近くに控えていたのである。口出し無用との言いつけでもあったのか、これまではこちらを睨みはしても、口をはさむことはなかったのだが、やはり今のはまずかったか。
「だ、黙って聞いていれば調子に乗りおって! 上杉の家臣づれが御館様に対してなんたる無礼か! その首級で償う覚悟は出来ているのだろうなッ?!」
女獅子だ。女獅子がおる。
幸村は、体の大きさだけを言えば、おそらく虎綱よりも小さい。しかしながら、その気迫は烈火のごとく、その眼前に立つと燃え盛る炎を前にしているような威圧感を受けてしまう。
今の抜刀も、俺程度の腕では残像さえ見えない手練の早業であり、この小柄な少女が武田の誇る雷の将であるという事実を、俺は総身で感じ取っていた。
もっとも、幸村の気迫を感じ取りはしても、あまり動じているわけではなかった。俺の肝が太い、というわけではない。単に幸村より強い人に稽古をつけてもらっているから、この手の迫力に慣れているだけである。輝虎様とか、秀綱とか。とくに秀綱は、春日山城ではあまりやることがない身なので、暇を見てはよく稽古をつけてもらっているのである。
――念のためにいっておくと、別に新陰流を学んでいるわけではない。いや、実はものすごく興味はあったのだ。こう「新陰流奥義『転(まろばし)』……」みたいに呟きつつ、戦場でばったばったと敵を切るシチュエーション、憧れない男がいるだろうか、いや、いない。
だが、俺がそこまで行きつくには秀綱曰く「……十年くらい?」とのこと。無論、十年というのは、すべての時間を剣の修行につぎ込んだ期間である。ついでに言えば、最後の疑問符に秀綱の心遣いを感じたのは気のせいではあるまい。多分、十年というのはかなり甘く判断した上での数字であろう。本当だったら、秀綱は二十年くらいは必要だと言いたかったのだと思われる。小首傾げてたし。
そんなわけで、剣豪天城颯馬の夢は無残に潰えたのである。無念。
とはいえ、せっかく秀綱が春日山城にいるのだからと稽古はつけてもらった。何の稽古かといえば、打たれ稽古である。つまりは、秀綱の剣を、俺の鉄扇で出来るだけ長く防ぎ続けるのだ。戦場で斬りかかられた際の度胸を養うためで、高野山で、輝虎様とした稽古も似たようなものだった。
秀綱にとっては退屈なことだったと思うのだが、おそるおそる申し出た俺に対し、快く応じてくれたのはありがたかった。
まあ、わかっていたことだが、輝虎様と秀綱が相手では防ぐ技量は全然あがらなかった。なにせ剣筋が見えないのである。これでどうやってかわせというのか。
そのかわり、随分打たれ強くはなったし、度胸もついた。軍神と剣聖に比べれば、そこらの将兵など恐るるに足らないのは当然であろう。
そうして積み上げた鍛錬は、武田家の雷将と対した今も、その効果を十全に発揮してくれているようであった。
無論、まったく微動だにしないというわけではない。幸村の剣勢には、輝虎様や秀綱のそれには感じなかった殺気が込められており、正直、首筋に刃を突きつけられた瞬間には冷やりとした。
今もその殺気はいささかも緩んでおらず、晴信の命令一下、俺の胴と頭を分断する気なのは明らかであった。
すぐに口を開くと、かえって慌てたように映ってしまうであろう。ゆえに、俺は刀を突きつける幸村を前に、なるべく泰然と見えるように目を瞑った。あたかも覚悟は出来ていると告げるように。
立ち込める静寂に、はじめに焦れたのは幸村であった。
おそらくは晴信の命令を請うためだろう、主君に呼びかけた。
「御館様……」
その幸村に応じるように、晴信が口を開いた。
「甲斐源氏の棟梁を侮辱したのです、その首級を差し出す覚悟くらいは出来ているのでしょう、天城? まさかとは思いますが、私が上杉の援助ほしさに、ここであなたを討つことができないと考えているのなら、その傲慢はそなた一人の命では購えませんよ」
俺はゆっくりと目を開き、晴信の問いに答えた。
「ここで私を討った方が武田家にとっては――いえ、晴信様にとっては事がうまく進む以上、私が無事でいられる保証などありますまい。それがわかっている以上、この身が安全であるなどと考えることはできませんよ。私を討って越後の動きを引き出せば、武田家は必然的に甲斐の防備を薄くせざるをえなくなる。それこそ、信濃や甲斐の叛乱を相手にするより、よほどわかりやすく兵力を分散出来るでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、晴信の目に恒星のような輝きが煌き、その激しさに、俺は一瞬息をのむ。晴信の狙いが俺の推察どおりなら、今の言葉は、武田の戦略の根元をわしづかみにしたようなもの。無言ではいられまい。
だが、晴信は激発することなく、むしろ奇妙な静けさを保ちながら、俺に問いを向けた。
「……兵力の集中は用兵の鉄則です。それを知らぬそなたではないでしょう。なのに、私があえて兵力を分散しようとしていると?」
「御意。信濃の叛乱にせよ、板垣とやらの蜂起にせよ、これまでの武田を知る者にとってはあまりに不可解。そのような動きを許す武田家ではないでしょう――故意に放置していたのでもないかぎりは」
緊張に乾いた唇を軽く舐める。ここで答えを誤れば、間違いなく晴信は幸村に俺を斬るよう命じる筈だった。
剣刃の上を、綱渡りで進むような緊迫感を、しかし少し楽しんでいる自分に、俺は気付いていた。
「時を同じくして起きた叛乱は、疑いなく駿河の謀略です。西北では、信濃国人の叛乱。北東では家臣の謀叛。東南からは北条軍を動かし、南からは今川軍の本隊が進む。四方の敵に対応するためには、武田軍は兵力を分散せざるを得ません。当然、躑躅ヶ崎舘の兵力は少なくなりますが、かといってここを動けば、四方の戦線を統括するのに支障が生じかねないので、晴信様はここに腰をすえることになるでしょう。そして、甲斐国内の地理を知り尽くした敵は、そこを衝く」
四方に兵火を起こし、敵兵力を分散させた上で、一挙に敵の中枢を衝く。
使い古された戦術であるが、それゆえに効果的である。
うまくはまれば、一朝にして国を滅ぼすことがかなうであろう。
「仮に、それが敵の策だとして――」
晴信の口から出る声は相変わらず静かであったが、先刻までと違い、どこか楽しむような響きが戻りつつあった。
「私が、何故わざわざ敵の策に乗らねばならないのですか。みすみす兵力を分散させれば敵の思う壺、この身を危険にさらしたところで、得るものは大して多くないように思いますが?」
「これが普通の敵であれば、そうでしょう。中央に強襲をかけてくるのは敵の最精鋭でしょうが、それを討つために全滅の危険を侵す必要はありますまい――普通の敵であれば、ですが」
しかし、今度の相手は間違っても普通ではない。駿府の狂王の狙いが甲斐への復権であることは明らかであり、当然、自らを追放した娘に対して心穏やかではいられまい。伝え聞く信虎の行状を見るに、間違いなく自ら来るだろう。
逆に、そこを討てば――
「今の今川は、信虎に首筋を押さえつけられ、引きずり回されているだけです。信虎を討ち取りさえすれば、脅威は去る。恐怖による統制は、その首謀者さえ消えれば、たちまち霧消し、後を継ごうとする者などおりません。だが、そのためには確実に信虎に出てきてもらわねばなりません。信濃や甲斐の叛乱だけでは、まだ足りない。こちらが信虎を知るように、信虎もこちら知っているでしょうから。ゆえに、北条の出陣は不可欠、そこに上杉が出ればさらに良い。躑躅ヶ崎の兵力を手薄にしても、信虎は不審には思わないでしょう」
無論、両家の侵攻による被害は免れないが、信虎を討ち、今川家の策動を押さえれば、和戦、いずれであれ、この両家を止めることは、晴信にとって難しいことではないだろう。
ゆえに、俺の身が安全だ、などと自惚れる理由はないのである。
とはいえ、これはあくまで支配者の見方である。民衆にとっては、謀叛であれ、敵国の侵入であれ、迷惑なことにかわりはない。ゆえに、俺は先刻、ここで上杉家を敵にまわすことは、武田家にとってではなく、晴信にとって都合が良い、と述べたのである。
最良なるは、両国が晴信の思惑を知った上で、偽兵を出してくれることに決まっていた。それを北条に説いてはじめて、晴信にとって俺がここに来た意味が出来るのである。
俺がそう自分の考えを述べると、晴信は小さく笑った。
嘲笑ではない。含む物のない、綺麗な笑みだった。
その表情のまま、晴信は幸村に命じる。
「幸村、刀を引きなさい」
「で、ですが……は、はい、かしこまりました」
晴信の顔を見て、幸村は戸惑いながらも刀をしまう。
憮然とした表情を俺に向けているのは、今の話がよくわからなかったからだろうか。
俺がそんなことを考えていると、晴信の声が耳にすべりこんできた。
「――惜しい。そなた、なぜ長尾などに仕えたのですか。甲斐に来ていれば、その才、より大きく揮うことが出来たでしょうに」
「お言葉、大変ありがたく、また嬉しく存じます。あるいは、選ぶ道が一つ違えば、晴信様にお仕えしていた未来もあったのかもしれません」
それはそれで面白そうではあるが――正直、その未来に現実感はまるでない。
「しかしながら、私自身、越後に行ったことにいささかも悔いはなく、輝虎様にお仕えしていることに誇りを持っております。国境一つを隔てて、晴信様と陣営を分かつことになったことは残念ではありますが、私は上杉家の下で歩んでいくつもりでございます」
俺の言葉に、晴信は目を瞬かせてから、やや頬を赤くして口調に険を滲ませた。
「まるで、私があなたを上杉家から引き抜こうとしているかのような物言いですね。いささか無礼であり、自惚れているように聞こえますよ?」
「あ、あの、御館様、今のは私もそう聞こえ……」
「幸村は黙っていなさいッ」
「は、ははッ、申し訳ありません!」
主君の叱咤に平伏する幸村。なんと言うか、もう少しまわりが見えるようになれば、こんなに晴信に怒られることはないだろうに。同輩であれば忠告したいところだが、上杉の家臣に言われても反発するだけだろう。気になるが、他家のことに無闇に口を挟むことは避けねばなるまい。
「ま、まあそれはともかく」
俺がそんなことを考えていると、晴信はこほんと小さく咳払いしてから、俺に向き直った。
すると、その表情はたちまちのうちに武田家当主の威厳を帯びる。
自然、俺は頭を垂れていた。
「上杉が臣、天城颯馬殿」
「はッ」
「我が家臣、春日虎綱と共に北条家へ赴き、かの国の君臣を説伏してもらいたい。そなたのもうした通り、交渉が決裂してもかまわぬが、国と民のことを考えれば協力してもらうが良いのは当然のこと。虎綱とよくはかり、吉報をもたらしてくれることを期待しています」
「承知いたしました。主輝虎になりかわり、必ずやご期待に沿う働きをご覧にいれましょう」
晴信はやや語調を緩め、言葉を続ける。
「すべてがそなたの双肩にかかっているとは言いません。ですが、そなたに委ねられているものは決して小さくない。ゆめゆめ、それを忘れぬように――頼みましたよ、天城」
「ははッ」
晴信の言葉に、俺は改めて深々と頭を下げたのであった。