松平元康の訪問から数日。
春日山城下には数十にもわたる荷駄が連なり、出立の時を今や遅しと待っていた。
これすべて塩、塩、塩ばかりである。
言うまでもなく塩は人間に欠かせぬものであり、国の財政にも深く関わってくる品物であった。多くの国では基本的に専売制をとり、塩の利益を財源としている。
ゆえに無能な領主は財源に困ると安易に値を吊り上げ、庶民は生きるために必要であるからこれを買わざるを得ない。その国の塩の値段一つで、大方の政情が予測できるほどに、塩は政治と密接に関わっているのである。
越後は無限の塩水に接する国であるから、塩不足という事態はよほどのことがない限り起こらない。それでもこれだけの量の塩は、決して安易に手放して良いものではなかった。
「しかし、此度は必要なのです。武田家が閉ざした門の閂を外すために」
輝虎様たちを前に、俺はそう説明した。
何のことか、と怪訝そうな顔をする者たちから説明を求められ、俺は視線を定満に向けた。そもそも、最初に塩発言をしたのは定満なのである。ならば説明は定満がするのが筋というもの、と思ったが、定満は目を閉ざしてぴくりとも動かない。
まるで、それは俺の役割なのだと、無言で叱咤するように――
「すー……」
『寝るなッ!』
俺と兼続の声が同時に発された。
だが、定満は相変わらず気持ちよさそうに寝息をたてるばかりであった。
「――大分無理をしたようだからな。すまないが、そのままにしてやってくれ」
輝虎様の声に、俺たちは慌てて頭を下げた。たしかに定満の尽力なくして、ここまで速やかに塩を集めることは出来なかったであろう。無粋な突っ込みはしてはいけない。もうしてしまったが。
そう考えていると、輝虎様は少しだけ困ったように首を傾げた。
「もっとも、定満がそちらに尽力していたので、私も詳しい話は聞いていないのだ。我らと武田家は犬猿の間柄、たしかに甲信は山国、塩は貴重品であろうが、それだけで晴信がこちらの言い分を聞いてくれるとは思えぬ」
「御意。塩はあくまで閂を外すためのもの。門を開き、晴信殿とまみえ、こちらの言い分を通すはまた別の手が必要になりましょう」
もっとも、それらはすでに揃っているので、問題はない。
ただ、どれだけ口を酸っぱくして説いても、上杉全軍の領内通過を晴信が認めるとは思えなかった。
「三千、が限度です。それも状況次第ですが」
「良い。騎馬兵のみをもって編成すれば、信虎追討の一翼は担えよう。だが、具体的にどのように晴信殿を説得するのだ?」
「は、では順を追ってご説明いたします」
卓上の絵図を指差すと、周囲の諸将の視線が一斉に注がれた。
詳細といえる地図ではない。大雑把に関東、甲信越、東海の各国の名前が記してあるだけの簡易なものである。
俺はまず駿河を指差した。
「駿河を押さえた信虎が、相模の北条を抱き込もうとしているのは、おそらく海を断つ為です。輝虎様が仰ったように甲信は山国、塩は他国からの輸入に頼らざるをえません。北の我らと断交している現在、駿河、相模からの塩を断たれれば、甲斐はそれだけで窮地に立たされます」
俺の言葉に、周囲の諸将が一斉にうなずいた。
「無論、そのようなことは晴信殿とて承知していましょう。それなりに備蓄はあるでしょうし、それに公塩の交易が断たれようと、私塩の交易は続けられる筈。すべての塩をせき止めるというわけにはいきません」
私塩とは要するに、闇のルート、というやつである。
――ならば、今、越後が塩を運んだとて武田に益はないことになりはすまいか。
無論、そんなことはない。
「平時ならば知らず、海を断たれた甲斐では、私塩の値段は常の何倍もつりあがるでしょう。輸入していた時ほどの量も望めない。塩の供給量が減り、値があがれば、自然、備蓄を吐き出さなくてはならなくなる。さすれば、いかに晴信殿とて塩の値段を上げざるをえず、それは容易に民の不満を招きます。そして、塩が不足すれば将兵の士気も上げようがなくなる。塩なくば戦えぬ、それは甲州騎馬軍団とてかわりありません」
暴れる囚人の食事から、塩を少なくして大人しくさせるというのはよく聞く手段である。
あるいは、戦の最中に食す戦陣食には塩分が多く含まれる。それもまた塩の有用性を知悉する先人の智恵なのであろう。塩梅、という言葉もあることだし。
ともあれ、塩を遮断することは、敵国を動揺させ、将兵の力を大きく引き下げることになるのである。それも時が経てば経つほどに、じわじわと相手を蝕んでいくことになる、なんともいやらしい、しかし有効な策であった。
そして、それゆえに、定満の言う「お塩たくさん」もまた有効な手段となりえるのである。
元康の提案だけでは、おそらく晴信は動かない。勢力が小さいから、というわけではない。晴信とて三河武士の勇猛さは知っているだろうし、今川が北へ動いたとき、その横腹を衝かせれば大きな効果を得られよう。
ゆえに問題はそこではない。松平家が今川家の傘下にあったことが問題なのである。その松平家からの使者に、上杉が口添えしても、これまでの経緯を考えれば晴信は容易に信用は出来まい。むしろ、これも信虎の謀略と捉えられかねないのである。
ゆえに、塩。
武田家にとって咽喉から手が出るほど欲するものであり、そして上杉家にとっても決して欠かせぬものを差し出す。それも大量に。
『敵に塩を送る』というのは美談であるが、定満は知らず、俺のそれは、徹頭徹尾、思惑満載であった。
「塩をもって、元康様の言葉と、それを信用する上杉家の行動が偽りでないことを証明します。これがうまく運べば、信虎の狙いが甲斐である以上、晴信殿は元康様の話に乗ってくるでしょう。信虎が北へ進出した際、三河から、たとえ少数であっても横腹を衝くのは効果的です。まして音に聞こえた三河武士とあればなおさらに。さらに越後が動かずにいれば、武田家は主力を南に向けられる。おそらく、ここまでは晴信殿は肯う筈。残る問題は――」
「上杉軍の領内通過をいかにして認めさせるか、ね」
政景様の言葉に、俺は頷いてみせる。
「甲斐と駿河がぶつかれば、十中七、八まで甲斐の勝ちです。恐怖による統制は脅威ですが、それゆえに脆い側面もある。おそらく晴信殿はそこを衝くでしょう。つまり、わざわざ上杉軍を領内に招く必要がないと判断すると思われます」
「まあ、武田の強さが本物なことは、私たちが一番良くわかってるしね。でもさっきあんた、三千なら武田を説得できるっていってたわよね?」
「御意」
「いやに具体的な数字だとは思ったけど、それはやっぱり上洛の時のことを持ち出すの?」
「はい。上杉は公務のために先日まで敵国であった武田軍に領内を通過させました。それと同じことが出来ないのか、と晴信殿に申します」
だが、俺の言葉に政景様は、んー、という感じで首をひねった。
「あの晴信のことだから『そうですが、それが何か? 此度のことと上洛のこと、時も違えば状況も違うでしょうに。同じ尺度ではかろうとするあなた方の提案は笑止ですね、おーほっほっほ』とかやるんじゃない?」
わざわざ晴信の真似までする政景様。ノリノリです。
だが、それは実に的確な意見であった。
「最後の高笑いはともかく、たしかに晴信殿はそう考えるでしょう。実際、将軍殿下の命令があるわけでなし、上洛時に通したんだから、今度はそちらが通せといったところで、あの甲斐の虎殿は動きますまい」
「ならば、どうする?」
一転、真剣な眼差しで俺を見る政景様。紅茶色の髪がかすかに揺れた。
それに対し、俺は短く応える。
「塩をもって武田を説き、甲越の連携をもって北条を説く。この策をもって晴信を説きます」
諸将の息をのむ音が、室内に木霊した。
俺は静かに言葉を紡いでいく。
「正直なところ、今回、北条家がどう動くかはまだわかりません。今川の使者はあたかも全面的に今川についたかのように言っていましたが、それにも確たる証拠はなし。すでに決断しているのか、いまだ逡巡しているのかもわかりません。おそらく、信虎は己が花押を押した書状を晴信殿の陰謀の証として示したのでしょうが、北条氏康ともあろう者が、私たちが気付いた疑念に気付かぬ筈もなし。北条家の動向を、今の段階で推察するには無理があります。ゆえに――」
最悪の状況を考えて、行動する。
この場合、最悪とは信虎の偽りに、北条が乗ってしまうことではない。
信虎の偽りを知った上で、北条がそれを利用することであった。
「北条には風魔と呼ばれる忍集団がいるとか。くわえて今川家とは浅からぬ間柄。元康様がしりえたことを、すでに知っている可能性がないわけではありません。そして、その上で武田家を潰そうとする可能性もまた、ないわけではありません。はっきり言えば、今の今川家は狂気にのたうちまわっているだけのこと、時期が来れば手を下さずとも勝手に自壊しますが、武田家はそうではない。晴信の将器と、家臣団の智勇を考えれば、北条にとって真の脅威がいずれなのかはおのずと明らかです。ここで武田を討ち、そして返す刀で今川を、信虎を誅する。北条家がそのように決断していた場合、元康様のお話だけでは、その動きは止められません」
兼続が、うなるように声を押し出した。
「だが、ここで我らと武田が協力したとわかれば、たとえ北条がすべてを知った上で動いていたとしても、止まらざるをえない。そういうことか」
「はい。今川は武田に任せ、上杉が全力で関東を衝くことも出来るのです。北の商路が拓けば、駿河、相模が交易を閉ざそうと大勢に影響はでません。すると、北条家はいつ崩れるかわからない今川と手を組みながら、武田、上杉とぶつかることになる。そのような危険な賭けをあえてしなければならないほど、今の北条家は追い詰められていないでしょう」
俺自身は北条家がすべてを知って動いているとは思っていない。おそらく、今は情報を集めつつ、今川と武田のどちらにつくか、あるいは中立を保つのか、その判断を下す段階であろう。
ただ、北条家には、五十を越えてなお見た目が二十代とかいう智将がいるそうだし、風魔の存在もある。この機に一挙に東国を支配しようと企てる可能性はないではない。
だからこそ、それを止められるだけの備えがあることを、こちらは示しておかねばならないのである。
「幸いというべきか、私は関東で北条家の将士と顔をあわせています。北条綱成殿とは言葉もかわしていますし、私が上杉家の人間だということは北条家も疑いますまい。その私が、武田の使者と共に小田原城を訪れれば、甲越の連携は誰の目にも明らかです。それでも北条家を説くのは簡単ではないでしょうが、少なくとも中立を約束させるくらいはしてみせましょう」
そして、北条家の動きを制すれば――
「甲斐の武田、三河の松平、相模の北条、そして越後の上杉。この四国をもって、今川家を――信虎を完全に包囲する。この戦略図の完成を以って、晴信殿に上杉入国の許可を求めます」
晴信が甲斐への入国を渋るようであれば、信濃を通って三河へ出て、元康と協力しても良いし、あるいは別途、遠江を衝いても良い。上杉軍の入国は、武田家の襟度を示し、今川家に対して、上杉家が武田家についたことをはっきりと知らしめることができる。上杉軍の存在は色々と役立つのであるる。
もっとも、そんな小細工などいらないと晴信が考えるほどに戦局が傾いてしまえば、上杉軍の出番はなくなるであろうが、それはそれで構うまい。晴信がそう判断したということは、すでに勝負がついたということなのである。
ただ、信虎を滅ぼすことは、氏真の危険につながりかねない。そこだけは注意しなければなるまい。
しんと静まり返った室内で、俺はほっと息を吐きながら、あっけらかんと続けた。
「――と、まあこれが表向きの作戦です」
『は?』
政景様、兼続、元康他数名の声が重なった。
ちなみに輝虎様は苦笑、定満はようやく寝ぼけ眼をこすってお目覚めの様子である。その仕草を見る限り、とても四十過ぎてるとは思えん。さきほど北条幻庵のことについてちらっと考えたが、越後にも立派にいましたよ、年齢不詳の智将殿が。
政景様が髪をかきまわしながら、乱暴に声を出す。
「ちょっと待ちなさい、なに、今ので終わりじゃないの?」
「表向き、と申し上げましたよ、政景様。今までお話したのは、あくまでこちらの都合のみでくみ上げた作戦です。当然、敵は敵の思惑で動くでしょう。こちらが包囲網をつくれば、それを壊そうとする。私たちは西と東に敵を抱えていますし、北条家にしたところで、佐竹や里見と抗争中です。元康様は西の大敵を無視できない。私が信虎であれば、これらの国に使者を出し、こちらが動いたところを後背から衝かせます。それだけでこちらの動きは大幅に制限される。そうすれば、戦局は駿河と甲斐の一騎打ちで決せられます」
その戦いは、おそらく甲斐が勝つと俺は考えている。先刻述べたように。
だが、元とはいえ甲斐守護であった信虎の影響力は武田家にも残っていよう。いかに晴信とて易々と今川軍を討ち破れるとは限らない。まして今の今川軍は死兵、何か齟齬が生ずれば、甲斐が飲み込まれる可能性は十分にあるのだ。
政景様は腕組みし、む、と表情を強張らせた。
「たしかに……で、どうやってそれに対抗するわけ?」
その問いに対し、俺は視線を宙にさまよわせた。
にも関わらず、政景様と兼続の目が同時に細くなるのが見えたのは何でなんだろう。
政景様がにこやかに問う。
「……まさかここまで思わせぶりに語っておいて、策はない、なんて言うんじゃないでしょうね、颯馬?」
「はっはっは」
『笑って誤魔化すなッ!』
政景様と兼続の怒声が見事なハーモニーを奏でた。
政景様はともかく(というと怒られそうだが)、智将である兼続に『策がないとは何事』みたいに怒られるのは若干納得がいかないのだが、上杉家における兼続は、いわゆる蕭何や諸葛亮のような内治の能吏である。無論、軍事に向かないというわけでは決してないが、軍事に関しては主に定満が受け持っている。そして、俺はその定満の下で働いている形なので、兼続の叱責も甘んじて受けなければならないのである。
いや、まあ正式に軍制でそう定められたわけではないのだが、自然とそうなっていたのである。いつからだろう、と考えて思い浮かぶのは、対武田戦で、定満に作戦計画丸投げされたことだった。もしやあのあたりから、定満にはかられていたのだろうか。おそるべし、越後の智将。ますます人外じみてきましたぞ。
まあ、それはさておき、俺が兼続に説明しようとすると、それに先んじて口を開いたのは輝虎様だった。
「兼続」
「は、はい」
「元康殿が言っていただろう。武田信虎は狂える王、戦乱が産み落とした亡霊だと。そのような者が何を考え、どう動くのかを予測するのは難しかろう。あらかじめ細かい対応を定めれば、敵が予想外の行動に出た場合に混乱しかねん。であれば、かえって策などたてぬ方がよい」
輝虎様の問う眼差しに、俺はしっかりと頷き、輝虎様の言葉に続く。
「こちらは、あくまで正攻法で相手を封じ込めます。策といえば、これが唯一の策。敵がこれに対抗しようとすれば、その都度それに対応して動きます」
兼続が小さく息を吐いた。
「む、つまりは臨機応変に対処するしかない、ということだな」
「はい。あるいは、その必要さえないのかもしれませんが……」
「……それはどういう意味だ?」
兼続の問いに、俺はかぶりを振った。
「いえ、信虎の動きに対応するのは武田家ですから、越後の我が軍があれこれ考える必要はないのでは、と思いまして」
俺の言葉に、各人の顔に苦笑が浮かぶ。武田家が認めないかぎり、今回、越後はあくまで後方援助に徹するしかないことを思い出したのであろう。
ただ、少し武田の動きが鈍いのが気にかかるのだが……
「――ともあれ、行動は急ぐべきでしょう。時をかければ、それだけ信虎の思う壺です。輝虎様、ご命令を」
俺だけでなく、政景様、兼続らが一斉に己が主君を見上げる。
その視線の先で、越後の聖将は毅然とした姿で、口を開くのであった。
◆◆
そして、甲斐への出立当日。
俺はいきなり途方に暮れていた。
「……どうなさいました、天城殿?」
そんな俺に気付いて声をかけてきたのは秀綱だった。この人も、しっかり甲斐への一行に加わっているのである。いや、俺は全然知らなかったのだが、今日になったら加わってたのだ。謎だ。
「とはいえ、秀綱殿だけならば、むしろ頼もしいくらいなんだが」
「?」
俺の独り言を耳にし、不思議そうに首を傾げる秀綱。何か他に問題があるのか、とでも問いたそうであったが、むしろ問いたいのは俺である。
そう――あなたの右斜め後方に立つ、露骨に怪しげな虚無僧は誰なのか、と。
ゆったりとした藍色の法衣は性別を隠し、深い編笠をかぶっているせいで顔は全く見えない。手には尺八、背には袈裟、立ち居振る舞いに不審な点は感じない。これが町や街道ですれ違う分には怪しくはないだろう。
だがしかし。その虚無僧が上杉軍の一行に混じり、しかも先刻から一言も喋らないとくれば、誰がみても怪しさ満点であった。
しかし、秀綱はくすりと微笑み、短く俺に保証しただけだった。
「……私たちに害をなす人でないことは確かです。お気になさらないでよろしいかと」
「そういうわけにもいきません――と、言いたいところなのですが」
俺はふかく、深くため息を吐いた。
「ここで時間をかけるわけにもいきませんし、仕方ありませんね。秀綱殿のご友人ということで説明させてもらいますが、よろしいか?」
「ええ、結構です」
「あえて名前は問いませんが、そちらの方も、よろしいですな?」
編笠が縦に揺れたのは、承諾したということなのだろう。
俺はもう一度、ため息を吐いた。
出発に多少手間取ったが、その後の道程は思ったよりもはかどった。
季節が盛夏とあって、煎るような日差しが降り注いでくるが、信濃の山嶺から吹き下りてくる風は涼気を運び、重くなりがちな足取りを軽くしてくれる。幸い天候が崩れることもなく、信越国境までは問題なく到着できそうだ。
問題は、自然よりも人為的なものになりそうであった。
こちらは先触れの使者を出しているとはいえ、あの武田家が上杉の使者と荷を素通りさせるわけはない。おそらく甲斐の晴信に許可を求めるだろうが、急使を飛ばしたところで往復に要する日数はかなりのものだ。まして、晴信が即答すると決まったわけではない。
「さて、どうなることか」
馬上、俺が呟くと、近くにいた元康が真剣な眼差しで頷いた。
「そうですね。私と輝虎殿連名の書状とはいえ、今の段階では晴信様がこちらを信じるに足る理由はあまりありませんし」
「はい。ただ駿河で今川家が急速に軍備を整えていることは知っているでしょうから、説得力がないわけではありません。しかし、それゆえに今川の謀略とからめる可能性もある……晴信殿がどう判断するか」
俺は危惧を示すためにそう言ったのだが、その俺を見る元康は、どこか意外そうな表情をしていた。
「ぬ、どうかされましたか?」
「いえ、ただ、言葉にくらべて、あまり心配なさっている顔には見えなかったもので……まるで、武田がこちらの言い分を聞かないとは思っていらっしゃらないように見受けます」
気のせいでしょうか、と元康は小首を傾げるのだった。
「――見抜かれてますね、颯馬様。上杉の軍師としては落第かと」
「ぬう。けど一城の主に見抜かれても恥ではないと思うが如何?」
段蔵の言葉に、俺が何とか言い訳を試みると、元康の傍らにいた忠勝があっさりと言った。
「拙者もそのように見受けたでござるが」
「あ、た、忠勝殿、今はそれを言っては……」
その忠勝の隣にいた弥太郎が慌てた様子で遮ろうとするが、時すでに遅し。
俺はがっくりと肩を落とし、慌てた元康に慰められてしまった。
ちなみに弥太郎と忠勝は、弥太郎の妹を保護した一件で意気投合したのか、随分と仲が良くなっていた。時折、二人は暇を見つけて槍を合わせているが、長大な槍が流麗に絡み合い、弾きあい、激しさと滑らかさが交錯するその様は、見ている者の言葉を奪うに足るものだった。
考えてみれば、本多忠勝と小島貞興の槍合わせとか、その道の人が見れば泣いて感激する光景なのかもしれん。
一方、段蔵と半蔵の二人はというと、これは別に何の接点もなく、互いの主の傍に張り付いているだけであった。まあ、段蔵と半蔵が意気投合する光景というのも、なかなか想像が出来ないのだが。
そんな俺たちの様子を、秀綱や、荷駄を運ぶ将兵たちが笑いながら見物する中、件の虚無僧は一人、尺八を吹きながら遠く信濃の山を見つめ続けているようであった。
そんなこんなで、大した障害もなく信越国境にたどり着いた上杉家の一行。
そこで俺たちを出迎えた人物を見て、俺はぽかんと口を開けてしまった。何故といって、あまりに意外な人物だったからである。
武田六将が一、春日虎綱、その人であった。
「お久しぶりです、天城殿。お元気そうで、何よりです」
「春日殿こそ、お元気そうで……あ、と。何でここに、というのは愚問なのでしょうか?」
「愚問ではないとは思いますが、私は天城殿が驚いた顔を見られて満足ではありますね」
にこにこと笑う虎綱に、かつての気弱げな面影を探すのは難しい。虎綱を知る弥太郎や段蔵も驚いている様子だった。
上洛からまだ半年もたっていないが、虎綱はよほどに充実した日々を送っているのだろう。そうでなければ、この笑顔はありえなかった。
しかも、ただ明るくなっただけではない。虎綱自身が自覚しているかどうかはわからないが、将としての深みが一段――否、二段三段と増している。
正直、上洛時の虎綱と戦って負けるとは思っていなかったが、今の虎綱と正面から対峙するのは御免被りたかった。箕輪城で武田と矛を交えずに済んだのは幸運であったのかもしれない。
ともあれ、虎綱の顔を知らない者たちに、武田家が誇る六将の一人だと伝えると、皆びっくりしていた。
当然である。
上杉との国境は、武田にとって重要な拠点であろうが、ここに六将を配置するのはさすがに人材の無駄遣いである。つまり、武田家は越後の使者がここに来ることを知っていたことになる。おそらく、誰が来るのかさえ。
でなくば、西上野にいる筈の虎綱がここで待っている理由はないだろう。
それにしても、と俺は武田の先読みの裏を推察しようとした俺だったが、その俺の思考を遮るように、虎綱は表情を改めた。
「我が主より、上杉家、ならびに松平家の御使者へのお言葉です」
そう言って、虎綱が伝えた晴信の言葉は想像していた以上に苛烈なものであった。
すなわち、晴信はこう言ったのである。
――書状に書いてあることしか言うべきことがないのであれば、ただちに引き返されたし。当家は、物につられて他国の軍を引き入れるがごとき真似はせぬ。今川が動きはすでに掴んでおり、その矛先が当家へ向けられていることも承知している。我が甲州武田家は、自国の防衛に他国の兵を欲する弱国にあらず。いらざる手出しは無用である、と。
その虎綱の言葉に、元康の顔が曇り、忠勝の眉間に雷光が生じた。半蔵は無言であったが、その眼差しは確実に鋭さを増したであろう。
一方、俺は――ほっと胸をなでおろしていた。
その表情のまま、口を開く。
「書状に書いてある以上のことがあれば、塩など運んでないで、さっさと話をしにこい。そう受け取りましたが」
その俺の言葉に、元康たちは驚き、虎綱は微笑した。
「はい。おおむね、それで間違いないかと思います。御館様より、もし皆様が進まれるのであれば、躑躅ヶ崎館までの案内をするように仰せつかっております」
「承知。話が早くて助かります」
「それはこちらも同様です。正直なところ……少々、私も戸惑っているのです。よろしければ、後で天城殿のお考えを聞かせていただきたく」
虎綱の表情に浮かんだのは、自身が口にした通り、戸惑いと、そしてかすかな不安であったかもしれない
無論、この時点でその内容までわかるわけはなかったが、どこか以前の虎綱を思わせるその表情に、俺は奇妙に胸が騒ぐのを感じていた。