上杉弾正少弼輝虎。
景虎様がその名乗りを許されたことに、春日山城が沸き立ったのは当然のことであった。
衰えたりといえど、将軍はやはり将軍であり、朝廷は朝廷である。日ノ本を統べる者たちに景虎様改め輝虎様の行いが認められたことは、すなわち輝虎様の天道が認められたということでもあるのだ。
普段は冷静で、感情を波立たせることのない輝虎様であったが、さすがにこの知らせを受けた時は言葉を失い、その瞳はかすかに潤んでいるように見えた。
無論、兼続や定満ら、これまで輝虎様を支えてきた者たちも歓喜した。彼女らほどではないにせよ、俺にとっても、輝虎様の行いが天下に認められたことは嬉しく、また感慨深いものであった。晴景様に後事を託されてから一年あまり。まさか晴景様も、この短期間に春日山の名がこんなにも轟くことになるとは思っていなかったに違いない。俺も出来るかぎり働いたつもりだが、京での体たらくもある。さて、晴景様の目に、今の俺はどのようにうつっているのやら。
ともあれ、京を発つ時、義輝が、後で土産を届けるようなことを言っていたのはこれのことだったのだろう。
この知らせはすぐさま早馬で越後全土に届けられ、国全体が喜びに沸いた。無論、内心で舌打ちした者もいないわけではなかっただろうが。
遠方の国人たちは、この機にすこしでも輝虎様らと面識を深めようと、祝い言上のためと称して春日山にやってくる。また各地でも輝虎様の叙任祝いが行われ、羽目をはずしすぎないように、輝虎様が苦笑まじりに注意を促したほどであった。
ただ、幸いというか、今のところ越後は平穏である。天も輝虎様を祝っているのか、天候もいたって順調で、このままいけば秋の収穫に大きな期待が出来るだろう。農民たちも輝虎様の徳が豊作をもたらすのだと喜び合っていた。
輝虎様自身も、ここまでほとんど休む間もなく駆け続けてきたのだ。この際、ゆっくりと休んだ方が良いだろうと俺は考えていたのだが。
あいにくと毘沙門天は信徒に休息を許したまわぬ方のようであった。
今川家からの使者が越後を訪れたのは、ちょうどそんな折のことだったのである。
今川氏真から輝虎様に宛てられた書状は、駿河の今川、相模の北条、越後の上杉からなる甲信包囲網結成を呼びかけるものであった。
これは俺の知る歴史にはなかった出来事だったから、内心で俺はかなり驚いたが、一方で、もしこの同盟が可能ならば、武田家は三国同盟から一転、今度は窮地に追い込まれる側になることは必定であった。
もちろん、今川家の提案には、問題点が幾つもあった。最も大きな問題は、どうして氏真が三国同盟を破棄し、あまつさえ同盟相手であった武田家を滅ぼそうと考えたのかという点であった。
この問いに対し、使者は憤りを隠せない様子で、義元死後の駿河、遠江の動乱に、甲斐の武田の手が伸びていた事実を語った。
領内の叛乱を鎮めていく最中、今川軍は謀反した者たちの居城から、いくつもの書状を押収した。その中に、義元亡き後の今川家併呑を企む武田晴信からの書状が混ざっていたのである。それも一枚や二枚ではない。主君の死に動揺する今川家臣団に対し、武田が同盟の信義を破って調略を仕掛けた明らかな証拠は数十枚に及んだ。
今川の使者は、その一部を実際に持ってきており、それを見れば、確かに武田家の花押が押された書状に、謀叛を示唆する言辞が踊っている。
「すでに北条家は、これをもって武田家との断交、ならびに甲斐包囲網を承諾しております。上杉家におかれましても、なにとぞ甲斐の梟雄を打ち倒すべくご協力いただきたく」
そういって今川の使者は深々と頭を垂れたのであった。
この今川の要請に対し、輝虎様は快諾で応えた――というわけではなかった。
たしかに晴信であればやりそうなことではある。同盟の相手が、当主の死で混乱している隙に付け込むことも武略の一つではあるし、輝虎様ならば知らず、晴信ならば躊躇する理由はないだろう。
それゆえ、今川家の使者の言葉には説得力があった。
だが、輝虎様は返答を保留した。その理由について、今川の使者が退いた後で輝虎様は居並ぶ群臣に向けて一言だけ口にした。「武田晴信らしからぬゆえ」と。
その言葉に怪訝な顔を浮かべた者は少なくなかった。
だが、その言わんとするところを理解できた者たちは同時に頷き、主君の見解に賛意を示したのである。
武田の背信がらしからぬのではない。言ったとおり、晴信はそれが武略であると考えれば、約を違えることもためらわないであろうから。
そうではなく、そこに到る段階で、武田らしからぬ不手際が目立つのである。
第一に、花押まで押した極秘の書状が、こうもあっさりと見つかっていること。
晴信であれば、そのような証拠を安易に残すまい。謀叛を促すならば、密使を派遣してそそのかせば済む話である。要となる人物には、後の保証として書状の一つも渡すかもしれないが、そこまでの人物であれば城を陥とされる際、そういった物を処分する程度の分別を働かせるのではあるまいか。
第二に時期がおかしい。
桶狭間の戦いの後、上野から退却した晴信は、その帰途で村上家の奇襲を受け、それに反撃する形で北信濃を制圧した。
だが、この際の武田家の動きをみるに、晴信は明らかに村上家の襲撃を予期し、むしろそそのかした節すら感じられるのである。今川義元の敗死という凶報をもって、村上家の暴発を誘った晴信の謀略。先の戦いはそう考えて間違いないだろう。
だが、そうすれば越後が出てくるのは晴信とて承知していた筈である。実際に輝虎様は出陣している。結果として早期に撤兵したとはいえ、それも義清の英断があってこそのもの。あの時点で、信越国境の戦火が長引く可能性は十分にあったのである。
そんな時期に、わざわざ今川家の内紛をあおるような真似をすればどうなるかがわからぬ晴信ではあるまい。
元々、義元の死の直後に今川家が混乱するのは自明の理である。その混乱に油を注ぎ、大火とするのは謀略としてありえる話ではあるが、その策が漏れた場合、今川家のみならず北条家さえ敵に回す可能性が高い。もし、信越国境での戦が長引いていた場合、武田家は北と南に大敵を迎えることになり、それは滅亡の危機と称しえるほどに、武田家にとっては危険な形勢であろう。
二正面作戦などと言えば聞こえは良いが、それは外交上の敗北であり、戦略としては下の下なのである。
あの晴信がそんな愚策を行うとは、俺にはどうしても思えなかった。そして、それは輝虎様も同様だったわけである。
しかし、現実に状況は武田討伐に向けて流れ始めていた。
実際、武田を討つ好機には違いないのである。なにせ晴信は駿河、相模の両国から甲斐を守るために身動きがとれず、上杉軍が総力を挙げて信濃に攻め込めば、たとえ武田の六将が出てきたところで、輝虎様をとどめることは出来まい。
そして、信濃からの援軍がなければ、晴信は南と東南から侵入してくる今川・北条連合に対抗することは難しいだろう。
考えれば考えるほどに美味しい状況だ。実際に今川、北条の両家が動き出してから兵を動かせば、上杉家にかかる負担は最小限で済むところも魅力的である。卑劣な謀略を企てた武田家を叩くという意味でも、輝虎様の天道に沿う決断になるであろう。
それらは多少の疑念を吹き飛ばすに十分な利点であり、上杉家にとって今川家の提案は首を縦に振るにたる申し出であったのだ。
その申し出に即答を与えたなかった輝虎様の疑念は、将としての見識と、武田晴信と対峙してきた時の経験から来る違和感なのだろう。
実のところ、俺にも似たような違和感はあった。ただ俺の場合、その違和感が、今回の出来事が自分の知る歴史にはないことから来るものなのか、それとも美味い話には裏があるという使い古された考えに基づくものなのかはわからなかったが。
とはいえ、しつこいようだが好機は好機であり、上杉家の家臣の中でも武田討つべしとの声は高まる一方であった。此度の将軍家ならびに朝廷からの通達も、天のあたえたもうた時を示すものとして、彼らは宿敵である武田家を掃滅せんと輝虎様に信濃侵攻を連日願い出ているのである。
俺が弥太郎らと共に城下に出たのはそんな時だった。
最近、色々と考えることが山積みの状態であった為、たまには城のことを忘れて遊ぶべきと考えたのだ。現実逃避ともいうかもしんないが、それは気にしてはいけないのである。まあ輝虎様たちも後から出てくる予定なので、俺だけ諸々の雑事から逃げるわけではない。
それに、弥太郎の弟妹や、岩鶴たちと会うのが楽しみだ、という点には嘘偽りはなかった。
段蔵は駿河、相模の情報を集める手筈を整えるために軒猿の里に戻っており、俺は弥太郎と共に城下に向かったのである。
とはいえ、八人にも及ぶお子様軍団の指揮統率は困難をきわめ、俺と弥太郎と、そして城下で合流した岩鶴は、周囲の賑わいを見るよりも子供たちの面倒を見ることに追われる有様であった。
これはこれで楽しいから良いか、などと思っていると、弥太郎が慌てたように周囲を見渡している。妹の一人がいつのまにやらいなくなってしまったらしい。
皆で呼びかけても返事はなかった。春日山は治安が良いから滅多なことはないだろうが、それでもこれだけの人出があれば、やはり心配せずにはいられない。俺に向かっては、大丈夫ですよ、と言う弥太郎も、顔にかすかに影が差していたから、同じ気持ちなのであろう。
とりあえず二次遭難を防ぐために子供たちを一箇所に集め、弥太郎と岩鶴に面倒を見てもらうことにすると、俺は人ごみの中を引き返した。
周囲を見渡しながら、ときおり声を出して呼んでみるが、やはり反応はない。誰かについていってしまったのだろうか。しかし、弥太郎と見間違えるような者など、そうそういないと思うのだが……無論、深い意味はないんだぞ、うん、などと考えていた時、ふと遠くから、なにやら騒ぎが聞こえてきたのである。
◆◆
対峙する二人――本庄繁長と、凛々しい顔つきの少女――の間にわって入った俺に向かい、繁長が口を開いた。
「天城か。邪魔をしないでもらいたいのだがな」
「そういうわけにもいかんでしょう。というか繁長殿こそ、春日山の城下で何をやってるんですか。兼続殿あたりに知られたらただではすみませんよ?」
「む、それはまずいな……しかし、武士が己の力を否定されて黙っているわけにもいくまい」
繁長の言葉に、俺は少女の方に目を向ける。
少女は槍こそ引いていたが、突然あらわれた俺に、なにやら剣呑な眼差しを向けてくる。
いや、俺にではなく繁長に向けられた視線であるようだった。どうも相当に立腹しているように見える。
そんな俺たちの視線に気付いたのだろう。少女が口を開いた。
「武士の意地とでも言うつもりでござるか? 拙者が主君より拝領した槍を見て、女子には惜しいゆえに譲れなどと無体をふっかけてきておいて、何を口清く。この蜻蛉斬り、そなたのような礼儀知らずに扱えるものではござらぬ」
物々しい物言いで詰る少女に、繁長と、その家臣たちの顔に怒りが浮かび上がる。
揚北衆の有力者として春日山城でも礼遇されている本庄繁長である。ここまで直截に非難されるのは、滅多にあることではあるまい。まして相手は繁長よりもはるかに年下と思われる少女なのだから尚更である。
再び険悪な空気が広まりかけたが、実のところ、俺はそんな繁長たちの様子に構っていることは出来なかった。
「……蜻蛉斬り?」
少女が口にしたその名を、俺は呟いた。見れば、たしかに少女の持つ槍は素人目にも違いがわかる逸品であった。
そして、おそらくなまじの武士ならば担ぐことさえ容易ではないその槍を、片手でしっかりと扱う少女。
……まさか、とは思う。思うのだが、しかしこの地ではその思い込みこそ足枷になることを、俺はとうの昔に学んでいた。
だが。俺の思っている通りだとすると、この場でにらみ合いを続けるのは大変によろしくない。今川の使者はまだ春日山城内にいる筈だが、その従者が外に出ていないとも限らないのだ。
「繁長殿、申し訳ないが、先刻申し上げたように、この場は預からせてもらいますぞ」
「ほう。なにやら目の色が変わったな、春日山の軍師殿」
「はい。あるいは上杉の命運に関わるやも知れぬこと。ここは引いてくださいますよう」
「ならん――と言いたいところだが、まあ良かろう。輝虎様の信頼厚いそなたを敵にまわすつもりはないしな」
輝虎様のくだりを口にするとき、繁長はやや皮肉げな笑みを口元に浮かべたが、槍自体はあっさりと引いてくれた。それを見て、家臣たちが驚いたように口を開く。
「と、殿、よろしいのですか?」
「かまわん。対峙してみてわかったが、あの女子、かなりの使い手。その使い手を侮ることを申したは俺の責よ。それに冷静になってみれば、負ければ無論、勝てば勝ったで本庄繁長の武名に瑕がつこう。女子一人に大人げなく、とな」
「は、それはそうかもしれませぬが、しかし灸をすえる程度のことはいたさねば、我らの怒りが――」
「やめい。天城が預かると申したのだ。任せよ」
「ぎ、御意」
家臣たちを説き伏せると、繁長は肩をすくめつつ俺に向き直った。
「と、いうわけだ、天城。後は任せるぞ」
「は。ありがとうございます」
俺が頭を下げると、繁長は小さく口元を歪め、俺にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「礼を言うべきは俺かもしれん。あやつ、おぬしのところの鬼小島に匹敵する使い手とみたぞ。どういう関わりがあるのやらわからぬが、用心は怠らぬようにな」
「承知いたしました」
「それと、だ」
繁長は声音を元に戻し、軽く俺の胸に右の拳を当てた。
「関東でも信濃でも良い。次に大戦があれば、我ら揚北衆をそちらに充ててくれよ、軍師殿。蘆名の田夫野人どもを相手にするのは、いささか飽いた。せめて独眼竜なり、羽州の狐なりを相手に出来ればまだしもなのだがな」
独眼竜とは、奥羽で成長著しい伊達家の当主伊達政宗のことである。
そして羽州の狐とは出羽の有力大名最上義守の一族である最上義光のことだった。
いずれも、その勢力はいまだ越後に届かないが、その勇猛と才略は東北全土に鳴り響いている。和戦、いずれにしても遠からず上杉家と関わりを持つことになるであろうと思われていた。
ことに伊達はともかく、最上は越後に隣接する勢力であるだけになおさら注意が必要であった。
当主義守はまだ幼いながら、優れた政治手腕で最上家の国力を高めてきた。為人も真面目で一生懸命な娘らしく、家臣や領民たちからは深く信頼されているという。一説には親しみが高じて「もがみん」と呼ばれているとかいないとか。輝虎様を「とらちゃん」と呼ぶようなものなので、これは噂だと思うのだが。
ただ、内治に優れた義守であったが、戦に関しては並の領域を出ず、これまでは目立った勢力の伸張がなかったのである。
だが、昨今表舞台にたった最上家の一族、最上義光の登場で、出羽の状況は大きな変化を迎えつつあった。当主義守の政治の才を、すべて軍事に傾けたような義光は、最上家に敵対する勢力を次々と撃破し、最上家は旭日の勢いで出羽統一に向かっているのである。
もっとも、この義光、なにやら病でも抱えているのか、戦場に出ること自体があまり多くないという。だが、戦の指揮をとる際の様子を見る限り、とても病に侵されているとは思えないほど覇気に満ちており、出羽の人々は不思議がっているらしい。
不思議といえば、そもそも最上義光という人物が、最上家にいたことを知る者はほとんどいないという。もっともこれに関しては、当主である義守が認めているので、最上家内部の事情がからんでいるのであろう。
ともあれ、最上家、伊達家、さらに蘆名家まで含め、越後北部はいつ戦雲が発生してもおかしくはない状況なのである。そして、それらに対抗する上杉家の主力が、揚北衆。その兵力はそうそう動かすことが出来ないものなのである。
まあ、そんなことは今さら俺が口にするまでもなく、繁長とて承知しているだろう。だが、どうせ戦うなら雄敵と、と願うのは武士の性というもので、それをたしなめるような真似をすれば良い顔はされまい。
ゆえに、俺は繁長の請いに笑って頷く。
「承知しました。次は難しいかもしれませんが、その次には希望に添えるようにつとめましょう」
「うむ、頼んだ。それでは、俺はここで失礼しよう……っと、そうだ。そこな女子よ」
繁長の声がかかり、それまでどこか手持ち無沙汰だった少女がこちらに視線を向けた。
「なんでござるか」
「先刻は心無いことを口にした、許せ」
「は……あ、いや、わかってもらえれば良いのでござるが……」
唐突に己の非を認めた繁長に、少女は戸惑いながらも謝罪を受け入れる。とすれば、少女もまた言わなければならないことが出来る。
「拙者も、少々頭に血がのぼっておったでござる。無礼の段、平に許されよ」
「うむ、ではお互い様ということだな――俺は本庄繁長という、そなた、名はなんと申す?」
繁長の問いに、少女が口を開きかけた。
この時、周囲にはまだ人垣が出来たままで、繁長と少女の言葉は彼らの耳に届く。たとえこの場は収まっても、この騒ぎの噂はすぐに広まるであろう。騒ぎの中心にいた者たちの名は必ず知れ渡る。そして、それはまずい。
「拙者、ほ――」
「ああッ、そうだ、繁長殿!」
突然の俺の大声に、少女はびっくりして口を閉ざし、繁長も怪訝そうに眉根を寄せる。
「ぬ? ど、どうした天城、突然大声など出して」
「実は東北のことでお聞きしたいことがありまして。近い日、屋敷にお伺いしたいのですが、よろしいでしょうかッ?」
「あ、ああ、それはかまわぬが……」
「そうですか。では明日にでも早速。ではこの場はこれにてッ!」
しゅた、と手をあげると、俺は唖然としている繁長をその場に残し、少女の手を引っつかむようにして素早く元の場所に戻る。
そこで、俺たちをはらはらと見守っていた弥太郎の妹と、その妹と同じ格好で心配していたもう一人の少女、さらにすらりとした長身の女性を促して速やかにその場を離れたのである。
「……なんだ、あれは?」
「さ、さあ、なんでございましょう?」
後に残ったのは、顔中に疑問符を浮かべた繁長とその家臣、さらにせっかくの催しを中途で止められてしまい、すこし――否、かなり残念そうな領民たちだけであった。
◆◆
城下町の端に、ようやく人気のない場所を見つけた俺は、そこで一息をついた。
すると、困惑の声もあらわに、先の槍の少女が口を開く。
「その、すまぬがそろそろ離してもらえぬでござるか」
「うおッ、申し訳ない」
あの場から立ち去る際、少女の手をとったのだが、ずっと掴んだままだったのだ。
俺が慌てて手を離すと、その少女は俺が掴んでいたあたりをさすり、困った顔で同行者とおぼしき少女に視線を向けた。
それに応えるように、長い髪を頭の両側でまとめ、それをそのまま垂らした髪形をした少女が口を開く。
「あの、助けて頂き、感謝いたします、えっと、あまぎ、そうま様?」
「天城颯馬と申す。礼は不要ですよ、余計な差し出口をしたことは承知してます。むしろそちらの方には、私の方が謝らねばなりません」
そういって、俺は槍を持つ少女に頭を下げる。
「女子だからとて、主君より拝領した槍を譲れなどと、上杉家臣としての礼儀を知らぬこと甚だしい。貴殿としては、あの場で屈辱を晴らしたかったと思います。ただ朋輩として申し上げると、本庄殿は決して人柄は悪くはないのです。それが言い訳にもならぬことは承知しておりますが、どうかご寛恕をたまわりたい」
俺の真摯な謝罪に、少女はどこか気まずげに応じる。
「いえ、先刻も申したように、拙者も少々頭に血がのぼっていたゆえ、あの者ばかりを責めるつもりは毛頭ござらぬ。まして、貴殿には騒ぎを鎮めてもらったのです。そのような頭を下げて頂いては、こちらが恐縮してしまうでござる」
「そう言っていただけると助かります。さすがに、春日山城下で三河の武士が騒ぎを起こしたと知れ渡るのは避けたかったもので」
「たしかにそうでござるな。拙者も――」
そこまで口にし、ようやく自分が認めてはならないことを認めたことに気付いたのであろう。
少女は両手で口を覆った。
隣にいた少女は目を丸くし、やせぎすの女性はほんのわずか、目を細める。
ただ一人、弥太郎の妹だけがきょとんとしていた。
――推測が、確信に変わった瞬間であった。
少女たちの問う眼差しに、俺は短く答えだけを口にした。
「――今川家からの使者が、春日山城に来ています」
「な、まことでござるか?!」
「はい。彼らの耳に、音に聞こえた本多忠勝殿の名を知らせるわけにはいきませんでしょう」
俺の口から、名乗っていない筈の自分の名前を聞かされ、少女は心底驚いた顔でこちらを見つめた。
「な、何故拙者の名を。さきほどは名乗らなかったでござるぞ?」
「花も実も兼ね備えた勇士――知っておりますよ」
そういって小さく笑うと、俺は忠勝の隣に立つ少女に視線を向ける。
「そして、本多殿が付き従っているということは、こちらはとく……っと、今は松平、か。松平元康様でいらっしゃる?」
俺の問いかけが終わるか終わらないかという間に、疾風のごとく動いた者がいる。
「半蔵ッ、やめなさい」
「……」
主の言葉を聞いても、半蔵と呼ばれた女性は、俺の首筋に突きつけた刃を引こうとはしなかった。
「そして、こちらは服部半蔵殿か」
ほんのわずか、刃に込められた力が増すのを、視覚によらず俺は見抜いていた。
だが、それには構わず話を続ける。元康たちの名前を出したのは、別に予言者の真似事をしたかったからではない。話の主導権を握るためであった。
本来、北陸の上杉家と関わりが薄い東海地方から、時を同じくしてあらわれた二家の使者。それが全く無関係であるなどとは子供でも思うまい。
まして今川が駿相越の同盟を提案してくるという意外きわまる展開があった後のことである。義元死後の時期とあらば、松平家はそれこそてんてこ舞いの忙しさである筈。そんな大事な時に、当主みずからが本多忠勝と服部半蔵を率いて他国にやってくるなど、ただ事ではありえない。
腹の探り合いなどしている暇はないのだ。どのような話かは正直わからないが、速やかに話を聞き、速やかに行動に移らねばならない。だが、先の繁長との接触で、元康たちが上杉家によからぬ印象を持ってしまった可能性は低くない。語るに値せぬ家、などと思われてしまっては、それこそ機を逸しかねない。当主みずからが赴いてまで伝えようとしている情報が重大でない筈はないのだから。
ゆえに、上杉家への先入観を払拭する意味でも、俺はまず元康たちの度肝を抜く必要があったのである。
それに上杉家が出す結論が、松平家が望まないものになることは十分にありえること。万一にも両家が敵対する立場になってしまった場合、俺の一言は、上杉家が恐るべき相手であることを、元康たちの心中に植え付けるだろう。
――まあ、少しは持っている知識を活用(?)してみたい、と思わなかったわけではないのだが、決してそれだけではないのである。うむ。
――ただ、首筋に刃を突きつけられることまで予測したわけではないのだが。
冷静に考えてみると、たしかに警戒されるよな、と遅ればせながら気付いたが後の祭りである。まあ、元康が半蔵を押さえてくれているから大事はないだろう。
俺が冷や汗かきつつそんなことを考えていると。
「おにーちゃんをいじめちゃ、だめッ!」
「……ッ」
弥太郎の妹が、瞳に涙を浮かべながら、半蔵の足元に駆け寄り、じっと見上げてきた。ぴくりと半蔵の身体が震えたのがわかる。
それでも、なお半蔵は動こうとしなかったので、もう一度、弥太郎の妹が口を開きかける。
それを押さえたのは、ほかならぬ俺だった。
「大丈夫だから、心配しないでいいよ」
平静な、いつもの声音が出せたことに、自分で自分を褒めたい気分である。
それを敏感に悟り、顔なじみの女の子は小さく首を傾げる。
「……ほんと?」
「ああ、ほんとほんと。ですよね、元康様?」
「う、うん、そうだよ、大丈夫だから、泣かないで、ね?」
「うー」
それでも、刃を引かない半蔵の姿に不安を隠せない様子を見せる弥太郎の妹の姿に、半蔵の口から小さく吐息が漏れた。多分、俺にしか聞こえなかったと思う。
その後、しばしの逡巡の後、半蔵はようやく俺から離れ、無言で刃をしまう。俺は、我知らず、はうっと安堵の息を吐いていた。
◆◆
春日山城、城主の間。
今や輝虎様の天道の源であり、清涼の気が満ちるその空間に、今、泥のような、重くぬめった沈黙がわだかまっていた。上杉家では滅多にないことであるが――それも仕方のないことであろう。
三河からはるばる越後まで訪れた松平元康の口から語られた、駿河今川家の実情。今まさに行われている武田信虎の暗躍。それを、上杉家の君臣は知ってしまったのだから。
「下衆めが……ッ」
兼続の声が震えを帯び、その場にいた者たちの耳朶を打った。
輝虎様はしばしの間、無言であった。その輝虎様に、元康は深々と頭を垂れる。
「今は戦国の世です。将兵の血を流して城を取るも、閨房の術をもって国を盗るも、罪深さに差異はないのかもしれません。今川家からの申し出が、御国にとって有益であることも確かかと存じます。三河のような小国の、それもたかが一領主である私の言が取るにたらないであろうことも承知しています。すべて承知した上で、お願いいたします。どうか、私どもに力をお貸しください」
元康の、小さくも凛と透き通る声が、俺たちの鼓膜を震わせた。
「氏真様は英邁な武人です。海道一の弓取りの後継たるに不足なき御方なんです。こんな……こんな、惨い目に遭い、その心魂が失われれば、麻のごとく乱れた世が、さらに混迷してしまいます。堂々と弓矢をあわせた後の結果ならばともかく、これではあまりにも……」
そこまでいって、元康は一度、言葉を切った。かすかに震えを帯びてしまった語調を整えるためだろう。
すっと大きく息を吸う音が聞こえてきた。
そして、再び紡がれた言葉に、もう震えはない。ただその一事だけで、松平元康が、その小柄な体躯の内に強靭な芯を持っていることは明らかであった。
「――武田信虎なる者は、何も見ていません。この乱世も、乱世にあえぐ民も、何一つ見えていない。見ようともしていない。目の前にあるすべてを利用し、ただ奪い、ただ殺す、戦乱が産み落とした亡霊――ただ己の欲望をかなえんがために戦い続ける狂った王です。その狂王が、もし駿河だけでなく、甲斐までも併呑してしまえば、その欲望はますます燃え盛り、燎原の大火となって東国を焼き尽くそうとするでしょう。今しかないのです、武田信虎を止めるには。そしてそのためには、どうしても越後上杉家の御力が必要なのです。お願いいたします、輝虎様。どうか、御力をお貸しください」
――すべてが手遅れになってしまう、その前に。
元康はそう言って、輝虎様をじっと見つめたのであった。
輝虎様の口が、ゆっくり開かれた。
「松平、元康殿」
「は、はい」
「貴殿の誠意に、心からの感謝を捧げよう」
「は、はい?」
何のことか、と元康が目を瞬かせる。
その元康に、輝虎様はにこりと微笑んでみせた。
「貴殿がみずから春日山に赴いてくれたればこそ、こうも早くお会いすることが出来た。その言葉に嘘偽りがいささかもないことがわかった。貴殿以外の誰が来ても、ここまで素早く決断を下すことは出来なかっただろう。そして、もしかすれば、我が道に、拭えぬ汚点を刻み付ける結果になっていたやもしれませぬ」
輝虎様の言葉が進むにつれ、元康の顔が徐々に輝いてきた。その様があまりにも鮮やかで、見ているだけで笑みがこぼれそうになる。
「あ、輝虎様。それでは……」
「輝虎、で結構ですよ。さきほど、たかが一領主と仰られていたが、貴殿の乱世を憂う言葉の強さには心打たれずにいられなかった。遠からず、貴殿は我が上杉に匹敵する大家となられよう。そして、その貴殿がそこまで信頼する人物なれば、今川氏真殿もまた戦乱の終結に欠かせぬ人物であられるのでしょう」
ゆえに、請うのはこちらである、と輝虎様は告げる。
「皆、聞け。駿府の狂王を討ち果たさんとする松平家に対し、我ら上杉家はぜひとも協力せねばならぬと私は考える。異論ある者はいるか?」
「ああ、ごめん輝虎。今、どうやって晴信を口説くか考えてるんで、あたしはその返答要らないよね」と政景様。
「政景様と同じくです。答える必要などありましょうか、駿府の狂王とやらに、輝虎様の天道のなんたるかを思い知らせてやります!」と兼続。
「颯馬、とりあえずお塩たくさん」と定満。
「いや、それよりちゃんと輝虎様に応えませんと、定満殿――とりあえず蓄えていた分と、あとは商人衆にも協力を依頼しないといけませんね」と俺。
「――異論はありません……と最初に答えるのが私なのが不思議ですが」と苦笑しつつ秀綱。
ちなみに、秀綱は関東戦で共に戦った大胡秀綱のことである。
長野業正配下の秀綱が、なんで春日山城にいるかというと、これが例の上杉憲政のお陰だったりする。
つまり憲政の名代である業正の名代、という形である。なお、建前上は上杉憲政の護衛役も兼ねているのだが、実質的には春日山城に詰めっぱなしであった。
関東管領の威をかざすような秀綱ではなく、軍議の時にも慎ましく座しているだけのことが多かったが、その寡黙な性質と、美貌、さらに類まれなる剣の腕はすでに城中に知れ渡っている。秀綱がいるだけで、どのような会議でも場が引き締まると、重臣たちからの評判も良かったりする。
ちなみに、時折、輝虎様と秀綱は剣の稽古をするのだが、その様はまさに圧巻の一語。見ているだけで手に汗にぎる激闘の連続で、稽古が終わった後など、参加もしていない俺の方が汗ぐっしょりで疲れ果てているくらいだった。ちなみに、これは俺に限らず、他の政景様や兼続なども俺よりは多少ましであったが、大体は似たようなものである。唯一、定満は普段とあんまし変わらない様子だったが。
ともあれ、他の者たちからも異論は一切出ず、ここに越後上杉家は正式に松平家の差し出した手を握ることになったのである。
それは東海、甲信越、関東すべてにまたがる大戦の始まりであり――同時に、俺が上杉輝虎様の下で戦う、最初で最後の戦の始まりでもあった……