越後春日山城は北陸、関東、信濃、さらには遠く京にまでその驍雄を轟かせる越後守護上杉景虎の居城である。
毘沙門天を篤く信仰し、その戦いぶりは軍神と渾名され、また私欲なき戦の数々から、近年では聖将とも呼ばれる上杉景虎は、しかし、その華やかな武勇伝とは裏腹に、日常での生活は質素をきわめ、内政面においても倹約を旨とし、無用な贅沢を好まなかった。
清貧に甘んじる、といえば立派に聞こえるかもしれないが、実のところ景虎のそれは半ば以上、生来の性格であったから、他者にそれを称えられても景虎は目を瞬かせるだけであったりする。
とはいえ、守護たる身でそれが過ぎれば、国の経済の流れを滞らせる原因ともなりかねぬ。景虎を支持する越後の商人たちは、そのあたりを気にかけ、様々な品や物を持ち込んで景虎の興味を惹こうと試みるのだが、それらはことごとく空振りに終わっていた。
もっとも、景虎は自身を律することにかけてはこの上なく厳しいが、その厳しさを臣や民に強要することはない。無論、理由のない奢侈や享楽は戒めるものの、その者の身代に見合う程度の贅沢を行ったところで、それをとがめだてする景虎ではなかった。
それゆえ、商人たちの心配はやや行き過ぎたものとも見えるのだが、実際、景虎麾下の者の多くは、主に心酔するあまり、その質素さまで似通ってしまい、遠く京まで名を轟かせる大家にしては、上杉家領内に落ちる金は目だって少ない。
もちろん、その分は城の府庫に詰まっており、いざ有事の際に用いられるのだから、決して今の在り方が間違っているわけではないのだが、もうすこし金を落として経済を活発にしてもらえんものか、と考えるのが商人というものであった。
ゆえに、越後商人たちは、春日山城の倹約という名の鉄壁の牙城をどう打ち崩すべきか、日夜思案顔を重ねていたりするのである。
そんな上の姿勢のせいであろうか。越後の国は、他国に轟く名声に比して、どの城も、町も、華美や豪奢とは縁が無かった。
居城である春日山城にしたところで、一見しただけでは、京はもちろんのこと、朝倉の一乗谷城や、斎藤の稲葉山城、あるいは北条の小田原城、今川の駿府城、織田の清洲城などの方がよほど発展しているように映るに違いない。春日山以外の城であればなおのことである。
しかし、慧眼の主なら気付くであろう。
越後に生きる者たち――貧しい身なりの農民。ふるぼけた甲冑と槍を携えて歩く足軽。裾の短い衣服を着た乙女は、その髪を彩る飾りも質素そのものである。衣服にせよ、武具にせよ、汚くよごれているわけではないにせよ、その古さは覆うべくもなかった。身近な物であっても、簡単に新調するなど越後の民には出来ないのである。
だが、しかし。
彼らは決して卑屈に腰を曲げてはないなかった。その眼差しはただ前を向き、その歩調はゆっくりではあっても、しっかりと大地に足をつけたものであった。
彼ら自身、意識してはいなかったかもしれないが、それは少なくとも数年前までの越後国内では見られなかった光景なのである。
戦におびえ、税に苦しみ、将来に憂いをしか見出せなかった越後の国民は、今、確かにかわりつつあった。 それは自らが仕える主君の驍雄を誇りとすればこそ。自らを治める領主の英明を信じるからこそ、彼らは戦乱の世を憂うことをやめ、その胸中から迷いは霧散する。
その迷いなき歩みをもたらすことが、どれだけの奇跡であるのか。そのことを松平元康は越後に入った当日に思い知らされていた。
否、越後だけではない。道中、信濃を通った時も元康は同じものを感じていた。
元康は考える。
武田と上杉。この両家に比すれば、今の松平家は取るに足らぬ。
家の大きさが、ではない。家が、臣民に与える誇りが、桁違いなのである。
「すごいな、すごいね、うん、すごい」
すごいを連発する元康に対して、同行の二名は戸惑いを面上にあらわしたまま、どう返答したものかと顔を見合わせる。
一人は、何がすごいのかよくわからなかったからで、もう一人は言葉を口にすることに慣れていなかったからである。
前者――表情を厳しく引き締めながら、大槍を担いで元康に従っている本多忠勝。
後者――鍛え上げられた痩身と端整な容姿の持ち主ながら、三河を出立して以来、いまだに素顔をさらす戸惑いを隠しきれないでいる服部半蔵。
身分を隠しての道中であったから、忠勝は常のように凛々しい武者姿ではなく、半蔵も普段は決してはずさない面を取っていることから、よほど親しい者でもない限り、今の三人を見て、岡崎城の主従であると見抜くことは至難であるに違いない。
ことに半蔵の素顔を知る者は片手で足りる。半蔵はいつものように影から元康たちを守るつもりでいたのだが、駿府城に忍び込んだ際の手傷がいまだ完全に癒えていなかった。そのため、元康は半蔵に対して岡崎城での留守居を命じようとしたのだが、これには半蔵が頑として頷かなかった。直接の敵国ではないとはいえ、主君みずから他領に潜入するのである。その帰りを漫然と待つことなど、忠義に篤い半蔵に出来る筈がなかったのである。
それならば、と元康が出した妥協案が、忍としてでなく、従者としてついてくるならば同行を認める、というものだった。忍としてついてこさせると、半蔵は自分の目の届かないところで無茶をするに決まっているが、従者としてなら押さえられる、と元康は考えたのである。
半蔵は元康と同行するために、仕方なしにこれを了承するのだが、そうなれば忍の面をいつまでもつけているわけにもいかない。そんな人間が供にいたら、主の境遇を詮索してくれと大声で喧伝するようなものである。
よって、素顔を晒して街道を歩くという、実に慣れない経験をしながら、半蔵は越後までの道中を潜り抜けてきたのであった。
一人は好奇心たっぷりにきょろきょろとあたりを見回し、一人は周囲の者を威圧するように長大な槍を担ぎ、一人はなにやら落ち着かなげに、それでもあたりの気配に神経を配っている。なんとも珍妙な一行であるといえた。
しかも、元康にしても、忠勝にしても、半蔵にしても、見た目だけで言えば若く、美しい乙女たちである。それぞれに印象は異なるにしても、その前提は共通している。それゆえ、この一行が行く先々で人々の注目を集めたのは致し方ないことだった。
実のところ、元康や忠勝はともかく、半蔵はそのことに気付いていたから、なるべく自分たちが目立たないように工夫しようとはしたのである。
だが、さすがの半蔵といえど、元康の好奇心を抑える術や、忠勝の持つ長大な蜻蛉斬りを隠す術は持っていなかったのだ。
もっとも、その半蔵も、自分自身が周囲の注目を集める一因になっていることには気付いていなかったりする。
実になんとも似たもの同士の松平一党であった。
信越国境を越え、越後に入った元康たちは越後の穀倉庫の一つでもある頚城平野を抜け、春日山城を目指す。
越後国内の治安は良く、大した騒動に巻き込まれることもなく、元康たちはやがて彼方に春日山城の偉容を目の当たりにすることになるのだが、その城に近づくにつれ、高歌放吟する者たちと幾人もすれ違い、元康は首を傾げた。
いまだ日は高いというのに、明らかに酔っているとわかる者たちがそこかしこにいるのである。その数は城に近づくにつれ、増えていく一方であった。
ここまでの道中から想像していた越後の人々の気性からは考えられない有様に、元康のみならず、忠勝や半蔵も訝しさを禁じえなかった。しかも、なにやら春日山の城下町からは笛や太鼓の音まで聞こえてくるではないか。
夏祭りでも行われているのだろうか。だが、それにしては人々の浮かれ騒ぐ姿が、ただ事ではないように思えるのだ。
そして、そんな疑問をいつまでも抱えておける元康ではなく、近くを通りがかった足軽風の男に声をかけ、この騒ぎの理由を訊ねてみる。
すると、その男は元康の可憐さにほだされたか、あるいは元々おしゃべりな性質であったのか、得々と事情を語りだした。
すなわち――先日、京の将軍家から上杉家に使者が訪れ、景虎が先代定実の後を継いで春日山上杉家の当主となること、および越後守護職を継承することが正式に認められたのである。
さらに朝廷からは、景虎に対し、正五位下弾正少弼に任じる旨の勅令が下された。景虎の父為景は従五位下信濃守であったし、姉晴景も弾正台に任じられていたことから、これらの知らせは景虎が越後の支配者であることを、朝廷と幕府が正式に承認したことを意味するのである。
さらに、吉報はそれだけにとどまらなかった。
将軍足利義輝は、先の上洛での勲功や、周辺諸国の秩序をまもるべく戦い続けている景虎を称え、自らの一字である『輝』の字を与えたのである。
ゆえに、今、越後守護の任に就いている者は、上杉景虎ではありえなかった。
「我らが御館様は、今や上杉弾正少弼輝虎様というわけだ。これが祝わずにいられようか、酒も踊りも、まだまだこれからよ。あんたらも旅の人なら、良いところにきなすった。なんでも今日の夕には輝虎様が町に足をお運びになるということだったから、運がよければお姿を拝見することが出来るかもしれんぞ」
男は元康にそう言うと、あぶなっかしい足取りで立ち去っていってしまった。これからの祭りに備えて、家で一眠りでもしようということなのだろう。
「上杉弾正少弼輝虎殿、でござるか。将軍家より直々に名を与えられるとは、さすがは越後の聖将殿でござる」
忠勝は感じ入ったように何度も頷く。同じ武に生きる者として、伝え聞く輝虎の驍雄を耳にし、敬意を抱かずにはいられない忠勝であった。
「……しかし、だとすると、少々……」
一方、半蔵は声に困惑を滲ませて低く呟いた。春日山城が、この輝虎の栄誉で沸き立っているのであれば、使者としての任務に支障をきたすのではないかと考えたのだ。
たしかに、道行く人々の浮かれ具合を見ていると、春日山城の賑やかさを察すことは出来る。この騒々しい空気の中、元康たちが「三河岡崎城からの使者だ」と口にしても、おそらく城兵は取り合ってくれないだろう。それどころか祭りの騒ぎに乗じ、輝虎に会おうとする悪戯扱いされかねなかった。
無論、元康は松平家の花押を押した輝虎への正式な書状を携えている。そもそも城主の元康自身が使者なのだから、それは心配のしすぎかもしれない。ただ、これまでの道中でも明らかなとおり、三人の秀麗な外見が事態をややこしくしかねないのである。
城の枢要に携わる者まで話が届いてくれれば良いのだが、おそらくその前で元康の来訪は偽りと判断されてしまうのではないか。松平家の花押の正否を、東海地方なら知らず、越後の者たちが知っているとも思えなかった。
だが、そんな半蔵の心配もどこ吹く風とばかりに、元康は春日山城へ向けて迷うことなく歩を進めていく。
彼方に見える春日山城が近づくにつれ、すれ違う人の数は目だって増えていった。
半蔵は元康を守るために慌ててその後を追う。その瞬間、半蔵の右肩に鋭い痛みが走ったが、半蔵はそれを表情にも仕草にもあらわさず、前を行く元康の背を守るために後ろに従う。
「……元康様」
「きっと大丈夫です、半蔵。だってほら見てください、越後の人たちの、この楽しそうな笑顔を」
元康が改めて指し示すまでもなく、道行く人々の顔からこぼれでる笑みは、忠勝の目にも、半蔵の目にもしっかりと映されていた。
「道とは、民をして上と意を同じくすることだと、師から教わったことがあります」
「孫子、でござるな」
少しだけ嬉しそうに忠勝が答えた。退屈な兵法の教えを我慢して受けた甲斐があったと思っているのだろう。
元康はそんな忠勝の顔を見て、小さく微笑んでから言葉を続けた。
「そうです。今回、将軍家から輝虎様に与えられたのは、言ってしまえば輝虎様と、上杉の家に与えられた栄誉であって、民の生活が豊かになるわけではなく、収める年貢が少なくなるわけでもないのです。にも関わらず、これだけの笑顔が溢れている。懸命に今日を生きる民にとって、支配者の栄誉なんて関わり無いことの筈なのに、みんな、輝虎様に与えられた栄誉を我がことのように喜び、寿いでいるのです」
――それはつまり、上杉家とその主が、どれだけ民の信望を集めているかということの、何よりの証左である。元康は考える。
「越後の民は、輝虎様の喜びを自分のものとしている。ならば、輝虎様の痛みを自分のものと感じるでしょう。輝虎様の怒りを、我が物として感じることでしょう。他国と矛を交え、敗北を知らぬ越後上杉家の神武の源泉は、きっとここにある」
すごい、と素直に思った。
元康は思い出す。岡崎城に戻った時の松平家の家臣たちと、岡崎の民の喜びの涙を。長きに渡って人質として駿河にいた元康だ、民の中にはその姿を知らない者さえいたであろうに、そんなことはかけらも感じさせない感激ぶりであった。
あの時も、自然と師の教えが頭をよぎった。そして、自分にはもったいないほどの彼らの忠烈に、決して背くまいと心密かに誓ったものだった。
あの時、元康が胸に思い描いていた未来が、寸毫たがわずに眼前に現出している。
すごい、と何度も思った。
そして、元康はこうも思うのだ。越後の国が、こんなにも強く、豊かであれるのならば。
それを三河の地にもたらすことこそ、自分の役割であるのだと。それが夢物語ではないことを、今、目の前の光景がはっきりと元康に教えてくれているではないか。
「忠勝、半蔵」
「はッ」
「……はい」
元康は二人を振り返って、にこりと笑った。
「いきましょう。私たちの国は、きっと強くなれる」
この国に、負けないくらいに。そう言う元康の眩しい笑顔と、揺らぐことなき確信に、自然、二人の配下は頭を垂れていた。
そして、三河からやってきた一行は春日山城へと入り、そして。
いきなり騒ぎに巻き込まれるのである。
◆◆
道を歩けば、隣の人の肩がぶつかるような人ごみは、戦や訓練でもなければ中々お目にかかれないもので、元康たちは三河との差異に目を瞠りながら城への道を歩いていた。
忠勝を先頭に、元康がその後ろに続き、半蔵が後列にいるのは、人ごみの中から危害を加えようとする者から、元康を守るためである。元康を岡崎城主と知る者が、越後にいるとも思えないが、今川家が元康の動きに気付かないという保証はない。くわえて、これだけの人ごみであれば、不埒者の一人二人いると考えた方が自然であった。
忠勝は先頭に立って人ごみをかきわけながら、周囲に鋭い視線を放ち、元康には指一本たりと触れさせぬとの気概をあらわにする。その忠勝の武威を感じ取ったのか、自然、元康たちの前に道は開いていた。あるいは忠勝の持つ名槍『蜻蛉斬り』を見て、驚いて道を避けているだけかもしれなかったが。
しかし、その忠勝も、害意や敵意には敏感であったが、それらを持たずに接近する者を防ぎとめることは出来なかった。
気がついた時には、いつのまにか一人の女の子が忠勝のすぐ隣を歩いていたのである。まだ精々六歳か七歳くらいであろうか。その女の子は忠勝の視線に気付き、自分も忠勝を見上げると、そこに自分の知らない人の顔を見出して急にあわて始めた。
「あ、あれ、おねえちゃんは?」
そういってきょろきょろとあたりを見回すが、目当ての人物はいないらしい。
その子供の顔に急速に暗雲が広がるのを見てとり、忠勝はおおいに慌てた。
武芸百般、体術から兵法に到るまで通じぬものはない忠勝であったが、その中に泣く子をあやす術は記されていなかったのである。であれば三十六計逃げるに――というわけにもいかぬ。
結局、忠勝は最も頼りになるであろう人に援軍を求めることにしたのだった。
「もも、も、元康様」
たとえ一千の軍勢が後背から襲い掛かってこようと、ここまでは動揺するまい、というほどに動揺した忠勝は主君に助けを求める。
だが、それは無用のことだったようだ。元康は忠勝が口を開く前から動いていたからである。
しゃがみこみ、女の子の視線と自分の視線をあわせると、元康は泣きだす寸前の子ににこりと微笑みかける。
「こんにちは。私は元康って言うんだけど、お名前はなんていうの?」
ぐす、と一度鼻をすすりあげてから、その子供は自分の名を口にした。
「そっか。おねえちゃんとはぐれちゃったんだ。でも大丈夫、私たちが一緒に探してあげるから」
「ほ、ほんと?」
「うん、ほんとほんと。じゃあ、おてて繋いで行こうか。どのあたりまでおねえちゃんと一緒だったのかおぼえてる?」
「わかんない、ひとがいっぱいで……」
俯いてしまった子供に、元康は何やら考え込んでいたが、不意にぽんと両手を叩く。
「そっか、そうだよね……よし、じゃあこっちのお姉ちゃんに肩車してもらおう。上からあなたのおねえちゃんを見つけてくれる?」
そういって忠勝を見る元康。
忠勝は元康の意を悟って露骨に狼狽したが、じっと自分を見上げる子供の視線に、あえなく屈することになる。
「わあ……ッ」
長身の忠勝の肩の上で、一変した視界に歓声をあげる女の子と、万が一にも女の子を肩から落としたりすることのないように、真剣そのものの顔で女の子の両脚をがっしりと抱える忠勝の姿は、見ていてとても微笑ましいものだった。
「おねーちゃん、ちょっといたい」
「あ、あ、申し訳ないでござる……こ、このくらいでよいでござるか??」
「うん、ありがとー」
先刻の泣きべそはどこに消えたのか、という感じで満面の笑みを浮かべる子供に、忠勝はほっと安堵の息を吐く。ちなみに、蜻蛉斬りは元康の手に渡っていた。
忠勝は、主君を太刀持ちの小姓のように扱うことに抵抗したのだが、当の元康は「いいからいいから」と気にもしない。
どのみち、半蔵にはいざという時に備えるために身軽でいてもらわねばならず、元康以外に大槍を持てる者はいなかったのである。
元康はさして長身ではないし、忠勝のように武芸で鍛えてあるわけでもない。
松平家を率いる自覚から、人並み以上に武芸の修練に励んでいたが、忠勝が軽々と振り回す蜻蛉斬りも元康にとっては抱え持つだけで精一杯の業物であった。
そして、えいや、と蜻蛉斬りを抱えて歩く元康の姿に、視線を止めた者がいた。
「これはまた、女子にはもったいない業物よな」
その声に元康たちが振り向くと、裃を着た侍と、その護衛と思われる数人の男たちが元康らに近づいてくるところであった。
いずれも人品卑しからず、ことに裃の侍は、おそらく二十を幾つも出ていない若者であったが、彫りの深い深い精悍な顔立ちに横溢な覇気を宿し、見る者にひとかどの人物であろうと確信させるに足る風格の持ち主であった。
「俺は本庄繁長という。どうだ、娘。その槍、俺に譲らぬか」
男の名乗りに、周囲の人々から歓声とも嘆声ともとれぬ声があがる。
越後北部を領する国人衆――いわゆる揚北衆(あがきたしゅう)の中にあって、若いながらに抜群の勇猛を謳われる人物である。元々、揚北衆はその歴史や土地柄から独立意識が強く、かつての長尾姉妹による越後内乱においても、容易にいずれかに与そうとはしなかった。
長尾景虎の軍師であった宇佐美定満がこれを抱き込み、彼ら揚北衆が参戦したことにより、晴景軍の天城颯馬は、戦による勝利を諦めざるをえず、春日山城へと退くことになったのである。
そういった経緯もあって、揚北衆は現在の春日山に対し、臣礼をとってこそいるが、その命令に対してつねに従順であるというわけではなかった。
ことに本庄繁長にはその節が濃厚である。自身の武勇に自信を持っているということもあるが、実のところ、繁長にはそれ以外にも春日山へ疑念を抱くれっきとした理由があった。
繁長の父は、弟と一族の裏切りで死に、父の後を継いだ繁長は、幼い頃からこの裏切り者たちの傀儡とされるという屈辱を舐め続けてきたのである。繁長から見れば裏切り者にあたる叔父たちの後ろ盾となっていたのが、春日山長尾家であった。もっとも、それは為景時代にまで遡る話であり、繁長は数年前、その叔父を切腹に追い込んで実権を取り戻している。
ゆえに晴景、定実、景虎と続く近年の越後の支配者に対して、繁長は個人的な怨恨を抱えているわけではなかった。だが、春日山城を支配する者たちに対して、虚心でいられるほど達観しているわけでもなかったのである。
叔父たちの裏切りを許した者の血を継ぐ者たちだ。再びそれを繰り返さないという保証はどこにもない。景虎や政景の気性を知ってはいても、その危惧を消すことができない繁長であった。
とはいえ、繁長とて時流を知る者。
越後の現状を見て、あえて景虎改め輝虎に対して隔意を示すなど愚劣の極みであることは承知している。また、同じ武人として、景虎の勇武は尊敬に値するものだとも思っている。
繁長自身、多少倣岸なところはあるものの、これは若くして名をあげた者にはよくあることだ。家臣の功には篤く報い、民への気配りも忘れず、その城下は良く治まっており、人として、領主として謗られる類の人物ではありなかった。
ゆえに、今も、元康が辞を低くして、それはできかねる、と一言口にするだけで、多少の悶着はあるにせよ、この場は丸く収まったであろう。
だが。
まさに元康が口を開こうとした寸前、それに先んじた者がいた。
「身の丈をわきまえることも、武に生きる者の資質でござる。それが出来ぬ貴殿に、その槍を使いこなすことは出来ぬでござろう」
「ちょ、あの、忠勝ッ?!」
当たり前のような口調で相手をこき下ろした忠勝に、元康は慌てたが、すでに時遅し、であった。
忠勝の平坦な口調と、その内容の辛辣さの落差に、一瞬、呆気に取られた繁長であったが、すぐにその意を悟り、たちまち表情を硬くした。
そして、その繁長よりもさらに憤ったのは、周囲の家臣たちであった。抜刀しかねぬ剣幕で、元康たちに詰め寄ってくる。
「貴様、今、殿になんとぬかしおったッ?!」
「下賎の分際で、しかも女子ごときがわかった風な口を利くでないわ」
「貴様ごとき、繁長様の手にかかれば一合ももたぬ。戯言も大概にせよ、たわけッ!」
男たちの怒気におびえたのか、肩の上で女の子が身を竦めたことを感じ取り、忠勝は咄嗟に判断に迷う。
それを怯んだと解釈したのだろう、本庄家の家臣たちは忠勝を無視し、元康が持つ蜻蛉斬りを手にとろうとする。
「貸してみよ。その槍が殿に相応しいかどうか、殿がそれを扱う様を見れば、貴様らとてすぐにわかるであろうよ」
そういって伸ばされた手は、だが次の瞬間、半蔵の手刀によって打ち据えられる。狼狽と苦痛の声をあげる男と元康の間に無言で割り入った半蔵に対し、繁長の臣たちは、さらに怒りを高めていった。
険悪な様子を察したのか、いつのまにか両者の周りからは人の流れが絶え、かわりに周囲を取り囲むような人の輪がつくられつつあった。
「なんだ、喧嘩か?」
「いや、なんかあの娘たちに声をかけたお侍が手ひどくはねつけられたらしいぞ」
「ば、ばか、滅多なことを言うでねえ。ありゃあ揚北衆の繁長様じゃぞ」
「つまり、繁長様がふられたっちゅうことか?」
「なんで色事にからめるんだおめえは。あの娘さんがもってる槍を所望した繁長様を、あっちの娘っ子が手ひどく断ったんだと」
「もったいないのう。繁長様なら、言い値で買い取ってくれるじゃろうに」
「いやいや、あの槍はあの娘の親の形見にちがいあるめえ。それじゃあ金で譲れるものじゃねえさ」
「なるほどなあ、そりゃあ道理じゃ」
いつの間にかあたらしい事実が付加されていたりもしたが、いずれにせよ元康らの姿はたちまちのうちに注目の的になってしまっていた。
さすがにこれ以上この場にとどまれば面倒なことになる。繁長はそう思ったが、もう少し様子を見ることにした。
娘たちの無礼に灸を据えたいという思いだけではない。今の今まで槍に目を奪われていた繁長であったが、見れば先刻の無礼な娘も、そして今、家臣に手刀を浴びせた娘も、いずれも並々ならぬ武の持ち主であることに気付いたのである。
どの程度のものか、と興味がわいたのだ。繁長が連れてきた家臣たちは本庄家中でも有数の剛の者ばかりである。彼らに対する力量を見れば、大体の実力は察しがつくだろうが――繁長はそう考えながらも、みずから歩を進めて前に出る。
周囲の人垣から、驚愕の声があがった。
一方、元康はどんどんと進行していく事態に戸惑いを隠せなかった。
忠勝の肩から下りた女の子は、元康の足にひしっとしがみつき、瞳を潤ませている。その忠勝は、元康から受け取った蜻蛉斬りを無造作に片手で持ちながら、本庄家の家臣たちを威圧するように見据えていた。
普段ならばそういった忠勝を止めてくれる半蔵も、何故か元康の前から動かない。
否、それを言うなら、元康が一言、強く忠勝を止めればすむ話ではあったのだ。だが、元康はこの事態に戸惑いながら、一方で冷静に計算を働かせている自分に気付いていた。つまり、ここでの騒ぎで本庄繁長という越後の重臣と関わりを持つことは不利にはならない、という計算である。
忠勝の武威を誰よりも知る元康である。本庄家の家臣がいかに勇猛であろうと、忠勝には及ばないことを確信していた。繁長もまた遠からず忠勝の力を思い知るであろうし、そうすればそれを手蔓にして、繁長の口利きで輝虎に会う算段をつけることが出来るかもしれない。
無論、まったく逆に繁長の恨みをかって邪魔されるという可能性もないことはないが、その時はその時だ。半蔵が動かないということは、おそらく元康と同じことを考えているのだろう。
そこまで考えた時、なんと繁長自身が前に出てきたので、さすがに元康も驚いた。
忠勝もやや意外そうな表情を見せている。そんな忠勝に、繁長は従者から受け取った槍を構えて見せた。
「我が武が、その大槍に合わぬといった言葉、証明してもらおうか、女子」
「かまわぬが、ここで良いのでござるか。衆人環視の中、城主殿を打ち据えるのは気が咎めるでござる」
「はは、たいした自信よな」
そう笑った後、繁長は短く呼気を吐き出す。
その眼差しに戦意を沸き立たせ、愛槍を忠勝に向けた。
「かまわん。女子に遅れをとる本庄繁長ではない」
一方の忠勝は、あいかわらず構える様子もなく、右手で蜻蛉斬りを地に立たせながら、猛るでもなく言葉を紡いだ。
「武士たるの資格は、ただ武あるのみ。男だの女だの、その前では些細なことでござる――参る」
周囲の人垣から、かき消すように声が消えた。
向かい合う繁長と忠勝の視線がぶつかりあい、火花を散らす様が目に見えるようで、隣の人間が唾を飲む音がいやに大きく響く。
両者はすでに互いにのみ意識を向け、その一挙手一投足に集中しており、両者の間で立ち上る闘気が風塵をまきおこした。
もう自分の制止の声も届かないであろう。元康がそう考えた瞬間、その足元から小さな歓声があがった。
「あ、そうまのおにーちゃんだッ」
「え?」
突然の声に驚いた元康が、女の子を見ると、さきほどまでかすかに震えていた女の子が、嬉しげに駆け出していき、人垣の間を抜けて姿をあらわした若者に抱きついていった。
若者は、ばふっと抱きついてくる女の子をしっかりと抱きとめると、困惑と安堵が半ばする表情で、ほっと息を吐いた。
「よかったよかった。どこにいったのかと心配したんだぞ」
「うー、ごめんなしゃい」
ぐすっと鼻をすすりあげる女の子に、若者は「ま、無事ならそれでよしだ」といって乱暴に女の子の頭を撫でた後、すっと視線をまっすぐに元康に向けた。
「あ……」
その視線を受け、一瞬、元康は何故か言葉に詰まる。
元康が声を出せずにいる間に、若者は女の子に手を引かれるように元康の近くまでやってきて、頭を下げながら礼を口にした。
「この子がお世話になったようで。ありがとうございました」
元康は、口から押し出すようにして、何とか言葉を発した。
「……あ、い、いえ。そんな大したことをしたわけじゃないですし。当然のことをしただけです……」
「そんなことはありません――っと、いや、こんなことを言っている場合ではないようですね。どういう状況かはよくわかりませんが……」
なんで繁長殿がこんなところで果し合いをしてるんだ、と首をかしげた若者は、元康に女の子を託すと、迷う素振りも見せずに歩き出した。
向かう先は、対峙する二人の間。
緊張感漂う両者対峙の場に、こともなげに分けいった若者の姿に、周囲の人垣からは不審そうな声があがる。
だが、当の忠勝と繁長は、強い集中力で相手を見据えており、近づいてくる無作法者にまで注意が届かなかった。
すると、若者は懐から取り出した扇を、二人の武人の視線が衝突する空間に差し入れ、音高く開いてみせた。
互いの顔しか見えないような集中を続けていた忠勝と繁長が、扇によって不意に視界を塞がれ、集中を乱される。
その時を見計らって、若者は口を開いた。
「双方、そこまで」
その声に我に返ったように、忠勝と繁長の視線が、若者に向かって注がれた。
その二人に、若者は続けて声をかける。
「この諍いは、上杉輝虎が臣、天城颯馬が預からせていただく。互いに槍を引かれよ」
その声を聞いた元康は、はじめて若者の名を知った。
同じく、若者の名を知った周囲の人垣から、再び声があがる。今度は不審のそれではなく、歓声に近いものであっただろう。それも道理。今や若者の名は、越後に知らぬ者とてないものなのだから。
無論、三河から来た元康はそうではない。しかし、それも今日までのことだった。
――越後の竜の傍らに、瑞雲あり。
この日、松平元康はそのことを知るのである。