血と泥が混じりあい、地面を赤黒く染め上げていく。
その上では、長尾、柿崎両軍の兵士が、自らを鼓舞する雄たけびをあげながら、相手に斬りかかり、突きかかり、組み付いていった。
敵の絶鳴と、味方の悲鳴、そして脚を斬られた馬の悲痛な嘶きが交互に耳朶を打つ戦場のただ中。
そこで、この凄惨な戦闘を演出した俺は、歯を食いしばって、眼前の光景から目を離さないように、己を叱咤しなければならなかった。
足といわず、手といわず、全身の震えがおさまらない。
指揮官として、戦場の把握に務めるべき立場の俺は、乱戦に飛び込むわけにはいかなかったが、たとえ飛び込んだとしても、何の役にも立てず、斬り伏せられてしまったであろう。
敵意と殺意のぶつかりあい。殺さなければ、殺されるという戦場の理を、総身で感じ取り、その凄まじさに、正直、怯みを覚えていた。
今、敵兵が俺に斬りかかってきたら、踵を返して逃げ出してしまうかもしれん。ここまでの戦の指揮は、正直、どこか物語の中にでもいるような心地で、既知の知識に頼りながらやってきたのだが、実際に戦場を――殺し合いを前にすると、そんな悠長なことは言っていられなかった。
むき出しの敵意と殺意が応酬される戦場。それは、字面を追うだけでは、到底理解できないものであった。
もっとも。
実際、戦場に立ちながら、そこまで考えていたわけでもない。後から思えば、こう感じていたのだろう、ということである。
この時は、死にたくない、という気持ちが何よりも優先されていたのだ。物思いにふける暇などなく、懸命に兵を指揮し、鼓舞し、何とか生き延びようと必死だった。
そんな俺の眼前で、戦況は徐々に一つの方向に向かっていく。
一時の混乱から立ち直れば、やはり柿崎勢は強かった。長尾軍の兵士たちは、俺の指示通り、一対一の状況に持ち込まれないように、連携しながら戦っていたのだが、落馬した敵兵も、ただ討たれるのを待ってはいなかった。
一箇所に集まって守りを固め、こちらの攻勢が途切れるや反撃に出る。さらに、落馬から免れた後続の騎馬武者が、集団で突っ込んでくるようになると、戦況は目に見えて、こちらの不利に傾いていった。
◆◆
「しくじった、か……」
俺は采配を握りつつ、思わず天を仰いだ。
長尾軍は、まだ何とか持ちこたえてはいたが、すでに柿崎勢は態勢を立て直してしまっている。落馬した兵士と、騎馬兵が連携を保ち、攻守をきっちり分けつつ、こちらに出血を強いてくるのだ。
これ以上の戦闘の続行は避けるべきであったが、今、踵を返したところで、敵は整然と追撃をかけてくるだろう。そうなれば、徒歩の兵士が、騎馬の足にかなうわけもなく、後背から急襲されて、殲滅されてしまうのは明らかだった。
おそらく、撤退の唯一の機会は、敵が態勢を立て直す、その寸前だったのだろう。
あの時に退却の命令を下していれば、俺たちは後方に退くことが出来ていたに違いない。だが、すでにその機は去り、再び返らぬ。
だからといって、次の機会を悠長に待つことは出来ない。俺の視線の先に、一際雄偉な体格をした敵兵の姿がある。
高々と翻るは「蕪(かぶ)」の紋――後に、上杉家の先陣に幾度となく翻り、諸国の大名たちを恐怖せしめたという柿崎景家の旗印である。
であれば、あれこそ敵将である柿崎景家、その人なのだろう。
遠めからでも明らかなほどの旺盛な精気を放ち、戦場にたって、俺の百分の一も動揺していない、毅然たる武将の姿。
越後七郡にかなう者なし、との評も頷くに足りる勇姿であった。
ただ、その心中は、外見ほど泰然としていないのではないか、と俺は考えた。
あちらにしてみれば、春日山の弱兵に痛撃された事実は、自らの武功に瑕がついたことを意味する。しかも、被害を受けたのは、自慢の黒備え三百騎である。景家は、内心、腸が怒りで煮えくり返っているのではあるまいか。というか、そうであってほしい。柿崎ほどの猛将に、冷静に追い詰められてしまえば、俺たちなぞ手もなくひねられてしまうだけだ。
その意味でも、ここで俺たちが敗れてしまうと、柿崎に落ち着きを与えてしまう。
弱兵に痛撃され、反撃もままならずに逃げられる。柿崎を挑発するためには、それしかない。
ゆえに、ここは退く。被害は甚大なものになるだろうが、それ以外に手段はなかった。
判断の機をあやまったことに歯噛みしながら、俺が命令を下そうとした時だった。
戦場に、高らかな乙女の名乗りが響き渡った。
「やあ、そこにいるは、敵将柿崎和泉殿とお見受けする。天城が臣、小島弥太郎がお相手いたします。いざ、尋常に勝負されたしッ!」
そう言うと、弥太郎は隆々と槍をしごいて、柿崎勢に突きつける。
戦場において、武功を示すために名乗りを挙げるのはめずらしいことではない。
だが、弥太郎は体格こそ優れていたが、その高い声は男性のそれと聞き違う筈もなく、柿崎勢からは、驚きと、そして女兵士の無謀さを嘲笑う声が沸き起こった。
これまで、弥太郎の膂力が戦場で目立たなかったのは、弥太郎が周囲の援護に力を割いていたからである。おそらく、戦に先立つ俺の言葉を、忠実に実行してくれていたのだろう。
周囲の戦いの様子に目を配り、不利な味方を見つければ、ただちに駆けつけて、その豪槍で救い出す。弥太郎が、自身で討ち取った兵士こそ少なかったが、彼女に救われた兵士は五人や十人ではあるまい。
そんな弥太郎の突然の示威行動に、俺は驚きを隠せなかったのだが。
「天城殿、急ぎ、撤退の下知を」
俺にそう促したのは、実質的な部隊指揮を任せていた古参の兵士である。弥太郎の武芸に太鼓判を押した人物でもあった。
しかし、と口にしかけて、俺は危うくそれを思いとどまった。
弥太郎の行動。眼前の兵士の提言。その意味するところは、俺にもわかった。ここで俺が要らぬ反論で時を費やせば、再び機を失ってしまう。過ちを繰り返す、それこそが過ちなのだ、とは誰の言葉であったか。
わずかの逡巡。短い時ながら、かつてここまで感情を滾らせた記憶は、俺にはない。
感情は、その命令を拒絶する。理性は、その命令を肯定する。決断の苦しみが、物理的な圧迫感さえともなって、俺の全身にのしかかってくる。
それでも。
「――全軍、弥太郎を殿(しんがり)として、撤退せよッ!」
しなければいけないことは、俺にもわかっていた。
◆◆
「女子を囮として、退くか。春日山の指揮官は、越後武士の誇りさえない輩のようだな」
柿崎景家は、慌しく退却していく敵兵を見やって、そうひとりごちた。
もっとも、それは景家なりの、内心の憤懣を吐き出すための言動であった。
自慢の精鋭は、予期せぬ襲撃で少なからぬ打撃を受け、馬にも大きな被害が出た。おそらく、先頭近くの五十ほどは、物の役に立つまい。
数知れぬ戦いで、勇猛の名を高めてきた景家は、蟷螂の斧に傷つけられた苦みをかみ締めているところだったのである。
こうなれば、せめて襲撃してきた敵兵を血祭りにあげ、屈辱を雪ぐしかないと思い定めたところに、あの女武者の登場である。
これが実力なき者の大言壮語であれば、蹴散らして押し通り、その身体に思い知らせてやるところなのだが――
「う、うわああッ?!」
「ひ、な、なんだ、こいつはッ!」
「ええい、ばか者ども、女子一人に、何をてこずっているのか。柿崎隊の勇名を汚すつもりかッ!」
「し、しかし……がはッ!」
また一人。馬上から、地面に叩き落される柿崎隊の兵士。
女武者――小島弥太郎、とかいったその女の持つ長槍が一閃する都度、柿崎隊は、負傷者の数を増やしていった。
通常、馬上と徒歩では、馬上の方がはるかに有利なのは言うまでもない。
刀で斬りかかるには、互いの位置関係上、無理が生じる。槍で突こうにも、下から突き上げるより、上から突き下ろす方が、威力も精度も上なのは自明である。
まして、騎馬兵の真価は、その機動力にある。人馬一体となった突進は、人間の身体を容易に蹴散らしてしまう。これまでに、刀槍を交える以前に、柿崎勢の馬蹄に蹴散らされた足軽の数は、千や二千ではきくまい。
だが、その騎馬の有利も、弥太郎の長槍と、膂力の前には意味をなさないようであった。
大の大人でも扱いに苦慮しそうな長槍を、弥太郎はまるで小枝のように軽々と扱い、馬上の武者を叩き落とし、それがかなわなければ、馬の首を強打して、馬自体を叩き伏せる。
弥太郎が名乗りをあげた当初、嘲笑を浮かべていた柿崎勢であったが、今や侮蔑の念は完全に拭い去られ、弥太郎の暴風のごとき戦いぶりに一歩二歩とあとずさる者さえいる有様であった。
だが。
「たわけッ! 戦いに怖じて、どうして柿崎の兵を名乗るつもりかッ!」
景家は、あとずさった兵士を手ずから一刀の下に斬り捨てた。
悲鳴をあげる間もなく、落馬したその兵士は、地面に落ちたとき、すでに事切れていた。甲冑ごと身体を切り裂かれたその兵士の亡骸は、弥太郎に劣らぬ景家の膂力を示してあまりあった。
「女ごときに退くような臆病者などいらぬ。一人で戦えぬなら囲んでつぶせい。槍で戦えぬなら、弓で射殺せ。さもなくば、我らが突進の馬蹄にかけてしまえばよい」
そういいながら、柿崎は刀をしまうと、今度は己が自慢の名槍を抱え込み、馬上で一閃させた。
「越後全土に、臆病者の恥を晒すことなど許さぬ。いかなる大敵が道を阻もうと、敵の喉笛食いちぎってでも、前に進め。退いて相手の勇を称える必要なぞありはせん。卑劣とのそしりを受けようと、勝利をもぎとることこそ、柿崎のあり方よッ! そのためにこそ、貴様らには高い禄を食ませているのだッ! いざ、奮い立て、柿崎が猛者たちよッ!!」
景家の檄に、周囲の兵士たちは見る見るうちに奮い立っていった。
この将あるかぎり、柿崎勢の越後最強たる地位は揺ぎ無し。
その確信が、弥太郎に対する怯みを、完全に駆逐する。彼らは次々に得物を掲げると、高らかに喊声をあげた。
柿崎勢が、完全に立ち直る様を、弥太郎は眼前で確かめる羽目になった。
懸命に押し隠してはいるが、すでにその息は、かなり荒くなっている。
他者の目には、傍若無人な活躍ぶりに見えたかもしれないが、精強な柿崎軍の兵士を相手にするのは弥太郎といえど容易ではなかったのである。
まして、弥太郎にとって、ここまでの乱戦ははじめての経験である。弥太郎の武芸に感心してくれた件の古参兵に命じられるままに、名乗りをあげて柿崎勢と対したまでは良かったが、このままではじきに力尽きてしまうだろう。
「……でも、天城様が逃げ延びられたから、よかった、かな」
見れば、すでに部隊のほとんどは戦場を離脱しつつある。
だが、恩義ある指揮官や、他の将兵が完全に戦場から逃れるまで、あともう少し、時間を稼ぎたい。
そのためには命を賭け――否、命を捨てなければならないだろう。目の前の柿崎勢を見る弥太郎には、それがわかった。
無論、弥太郎は死にたくなんかない。だが、味方が生き残るためなのだから、その死は無駄ではない。
それにたとえ死んだとしても、遺された家族には、たくさんのお金が渡る。それを思えば、未練も多少は薄くなった。
弥太郎は、出陣前に家に戻った時のことを思い起こす。
出陣に先立ってもらったお金を持って返ったら、弥太郎の父と母はひっくり返ってしまった。母などは、弥太郎が何やらいけない道に入り込んでしまったのではないかと、真顔で心配してきたほどだった。
その誤解はすぐには解けなかった。天城から渡された褒賞は、貧しい農家にとっては、それくらい、ありえない額だったのである。
結局、弥太郎以外の志願兵たちからも、同様の話を聞き、ようやく両親は納得してくれた。その両親の感激の顔と、久方ぶりに腹いっぱいのご飯を食べられると知った弟妹たちの笑顔を胸裏に描き、弥太郎は残った力を振り絞る。
「ごめんね、父ちゃん、母ちゃん、みんな」
死屍の帰還になることは、申し訳ないと思う。それでも、逃げようとは思わない自分自身の心を、弥太郎は誇りに思うことが出来た。
かくて、覚悟を定めた小島弥太郎は、柿崎勢の前に一人、立ちはだかる。
その持てる力の限りを尽くして、柿崎勢を食い止めるために。
春日山長尾家の勝利に必要な、ほんの一時の時間を稼ぐために。
だが。
「いやいや、それはわしらの任よ。お主のような小娘に任せるわけにはいかんでな」
「え、え?」
突然、背後からかけられた声に、弥太郎が驚いて振り返る。
そこには、弥太郎に指示を出した年嵩の兵士と、彼のほかに数名の兵士が居残っていた。
いずれも、顔といわず、身体といわず、無数の傷跡が残る、歴戦の兵たちである。
その彼らは、弥太郎に言った。早く逃げろ、と。
「で、でも、あの、それじゃあ、長さんたちが……」
戸惑いながらも、兵士たちの身を心配する弥太郎に、兵士は、その精神の骨太さを感じさせるおおらかな笑みを浮かべた。
「よう柿崎勢を食い止めてくれたの。だが、ここよりはわしらの出番。ろくに戦場を知らぬ娘っ子では辛かろうでな」
古参兵は、周囲の仲間たちと顔を見合わせる。皆、不思議と穏やかな顔をしていた。
それでも、まだ踏ん切りがつかない様子の弥太郎に、最後に古参兵はこう言った。
「お主はまだ若い。これからの春日山に必要なのは、お主や、あの天城殿のような若き力であろう――お主らの力で、守護代様を救うて差し上げてくれい」
短い言葉の中に、弥太郎が、思わず身体を震わせるほどの強い意思がにじみ出ていた。
この人たちは、決して退くまい。弥太郎のような少女でさえ、そう感じ取れてしまうほどに、鮮鋭な決意が、そこにはあった。
「……わ、わ、わかりましたッ。あの、ご、ご武運を、お祈りしていますッ!」
「うむ、達者でな。天城殿にも、そう伝えてくれい」
「か、必ずッ!!」
弥太郎は、しっかりと頷くと、踵を返した。
もう、後ろを振り返ることはない。一度、相手の言葉を肯った以上、未練を見せるのは、相手の決意への侮辱にほかならぬ。そのことを、わかっていたからであった。
「さてさて、先代様のご恩に、かような形で報いることが出来ようとは。なかなかに人生とは面白い」
「んだな。これで、あの世で先代様にあっても、申し開きは出来るじゃろ」
「まあ、先代様なら、かえってあちらから謝って来られるかもしれんがの。後を継いだ守護代様の出来の悪さに」
「いやいや、はっきりと申すことよ」
「もうじき世を去る身じゃ。この程度のことは、許していただきたいのう」
その場に残った兵士たちは、のんびりとそんなことを口にして、大きく笑い声をあげた。
だが、その表情も、柿崎勢が動きはじめると、瞬く間に研ぎ澄まされていく。
名にしおう越後の精兵、彼らは疑いなく、その一角を占める者たちであった。
柿崎勢の馬蹄の轟きにも、彼らは動じる様子を見せない。
「さて、今生の別れだな。酒なしとはさびしいが、戦場で散れるは本望よ」
「うむ。相手も越後最強たる柿崎勢。我らが死に花を咲かせるに、不足なき相手じゃ」
「おうとも。春日山にも、咲く花はあったのだと、先代様にお伝えしよう――では、ゆこうぞッ!!」
応、と彼らは刀を、槍を掲げて、高らかに雄たけびをあげる。
そして、彼らは、殺到してくる無傷の柿崎勢二百に、正面から挑みかかっていった――