今川義元、桶狭間にて死す。
その報は瞬く間に周辺諸国へ、次いで東国全土へ響き渡る。
駿甲相三国同盟の締結によって形作られようとしていた秩序は音を立てて崩れ落ち、東国の情勢は再び混沌に包まれていった。
今川家、武田家、北条家の当面の敵であった者たちは、この事態を歓迎するよりも先に呆然としてしまう。駿遠三の三国を領有する今川家が、そして海道一の弓取りと名高い義元が、尾張半国程度の領土しか持たない織田信長に敗れるなど誰が想像するだろう。ましてや、義元自身が戦死するなど予測できるはずがないではないか。
同盟の一角が崩れたのだ。三国同盟が正常に機能するとは考えられない。武田にせよ、北条にせよ、しばらくの間は様子を見るために兵を動かさないだろう。無論、今川家は言うまでもない。多くの者がそのように考えた。
三国同盟に敵対する者たちにとって、それは朗報であったが、それでもなお彼らは喜ぶことを忘れたように静まりかえる。
今川家が倒れたことで情勢が変化することはわかる。だが、どのように変化していくのか。その行き着く先を見据えることが、誰一人として出来なかったからである。
駿河駿府城。
今川家の居城であるこの城は、今回の上洛においておそらく最も混乱した城であったろう。その混乱はすでに桶狭間の前から始まっていた。
事の起こりは義元の息女であり、今川家の後継者である氏真が秘密裏に城を抜け出したことであった。
元々、氏真が上洛に加わることを望んでいたのは衆知の事実。それは結局、義元によって退けられ、氏真は駿府城に残ることになったのだが、しばらくは不機嫌そのものの様子で、臣下の誰もが声をかけることをためらうほどであった。
その氏真が鷹狩に出ると言い出したとき、氏真の補佐を任されていた葛山氏元らの重臣は一斉に反対した。
女性の身ながら尚武の気性を持つ氏真のこと、父義元の後を追っていくつもりであると考えたからである。
だが氏真は不機嫌そうな顔は隠さぬままに、駿府城の東――すなわち上洛とは反対の方角に向かうことを告げ、ただの気晴らし以上の意味はないとして、半ば無理やり重臣たちの了承を取り付けた。
重臣たちにしても、これ以上、氏真の機嫌を損ねることはしたくない。氏真は主君の息女であり、いずれは彼らの上に立つ身、無用な軋轢を避けようとするのは当然の処世術であった。また、駿府の留守居として氏真がやるべき政務は少なくない。このまま氏真が機嫌を損じた状態が続くと、民政にまで影響が出てしまうのである。
かくて一日。氏真の命により鷹狩が行われることとなった。当初、氏真が望んだような規模は、上洛中のために不可能となったが、それでも少なくない人数を動員したため、城内はその準備でごった返すことになる。
――その準備の隙を縫うように、一人の翁と、その孫娘と思しき二人組が、ひっそりと駿府城の西門をくぐった。そのことに重臣たちが気付いたのは、翌日のことであった。
この時、留守居のまとめ役であった葛山氏元は、すぐに氏真を引き戻すための人数を派遣したが、義元の本陣に使者を出すことはなかった。失態を糊塗する意図もあったが、氏真が城を出て一日たらず、すぐにも見つかるであろうと楽観していたことが主な理由であった。
かくて、この一件は義元の耳に入らずに終わる。
そして氏真の行方も杳として知れなかったのである。
一日が過ぎ、二日が経ち……重臣たちは一向に届かぬ氏真発見の報告に顔を青くすることになる。氏真が無事に義元の本陣に着いたならばまだ良い。いや、それとても義元の叱責は免れないが、それ以上にもし万一、道中で氏真の身に何事かあれば、義元の怒りは雷挺となって留守居の者たちを打ち据えるであろう。
そう恐れる彼らの下に届いたのは、しかし、全く予期せぬ更なる凶報であった。
嵐を抜けて現れた織田の逞兵の奇襲を受け、今川軍本陣は壊滅。今川家の柱石、太原雪斎が討死したという報告に、誰もが度肝を抜かれた。さらに主君である義元の生死は確認できず、その他の部隊も大混乱に陥っているという。
あまりの驚愕に誰もが口を閉ざす中、続けて第二報を携えた急使が息せき切って現れ、叫ぶように告げたのである。
「今川義元様、討死」と。
首級を挙げたは織田の木下某という足軽であり、その首級は綺麗に髪を撫で付けられた上で、織田軍の陣頭に掲げられながら、清洲城へ運ばれたという。
その知らせを聞き、重臣たちの口からはくぐもった声が漏れ、彼らは呆然とした顔を見合わせるしかなかった。だが、敵方の偽報、あるいは誤報の可能性もある。戦場の情報はとかく混乱しがちであり、戦死や討死の報が誤りであることはめずらしいことではない。
しかし、そのわずかな重臣たちの希望を絶つように、その後もひきもきらずやってくる使者は全て同一の報告を行い、これを聞いた家臣たちは、彼らの主が討ち取られたという事実を信じざるを得なかったのである。
本来、このような情報は秘されるべきであったのだが、すでに尾張から逃げ戻った将兵の口から、今川敗北、義元戦死の報は民百姓の口に膾炙するほどに広まってしまっており、いまさら緘口令を布いたところで、事実の隠蔽は不可能であった。
そうして、駿府城が民と兵とを問わず大混乱に陥り、重臣たちが今後の対応策について激論を交わしているとき。
駿府城に「氏真帰還」の報告が飛び込んできたのである――
◆◆
今川家の諸将の中で、駿河への帰還がもっとも遅くなったのは朝比奈泰朝と岡部元信の二人であった。
これにはれっきとした理由がある。
この二人と、さらにもう一人、松平元康は、義元戦死の報を聞いて愕然としたものの、その後は決して恐慌に陥ることなく部隊を統率し、敗兵を吸収しつつ三河国境まで引き上げたのである。
元康は丸根砦、泰朝は鷲津砦、元信は鳴海城と、三人とも最前線にいた為に、織田勢の追撃や落ち武者狩りの農民たちの妨害は激しく、退却は困難をきわめたが、彼らは兵士の動揺を静めつつ、ついに三河への退却に成功する。
ことに岡部元信は、守備していた鳴海城を無血で明け渡す条件として、信長に主君義元の首の引渡しを要求、これを織田家から譲り受けた上での退却であったから、その勇気と思慮は敵将である信長ですら賞賛の声をあげたほどであった。
いずれにせよ、この三人がいなければ、今川家の被害はさらに甚大なものとなっていたであろう。そのことに疑いの余地はなく、敗軍の中にも三名は面目をほどこすことになる。
さらに三将は、勝利に勢いづいた織田軍の三河への侵入を食い止めるために、しばしの間、三河に留まる。その間、義元の首級は丁重に駿府に送り届け、自分たちは勢いに乗って押し寄せるであろう織田軍に、せめて一矢報いんものと考えたのである。だが、信長は尾張内部の掌握を優先したのか、三河へは兵を入れようとせず、これを確認した朝比奈と岡部の両将は駿府への帰路につく。
元康が三河に残ったのは、引き続き織田家の警戒にあたるためもあったが、なにより岡崎城へ戻ることを元康自身が切望したからでもあった。
朝比奈にせよ、岡部にせよ、亡き義元と雪斎が元康と約定を交わしたことは聞き知っている。今回の戦に先立つ軍議でもその話は義元自身の口から出ていたし、元康と三河勢がどれだけ今川家のために苦闘したかも目の当たりにしている。なにより、ここで元康を無理やり駿府まで引き戻すような真似をすれば、元康自身はともかく、配下の将兵が暴発するであろうことを、彼らは察し、むしろ進んで岡崎城に戻るように薦めたのである。
これは松平家の離反を防ぐためと同時に、今後起こるであろう三河国人衆の今川家からの離反に備える意味もあった。元々、元康は雪斎の弟子であり、氏真とも良好な関係を築いている。その元康に岡崎城を委ねれば、今後も今川家のために働いてくれるであろうと彼らは考えたのである。
この時、朝比奈、岡部の両将が率いていた兵はおおよそ八千あまり。
桶狭間以後、三々五々に尾張から逃げ帰り、所領に戻った将兵は、駿河、遠江、三河をあわせておよそ一万五千ほどである。
すなわち、三万五千に及んだ今川軍のうち、実に一万以上の兵が、桶狭間の戦いで失われたことになるのである。
無論、その全員が戦死したわけではない。織田軍に降伏した者もいるだろう。今川家の圧力に屈していた各地の国人たちの中には、自城に戻っても今川家に使者を出さず、周囲の情勢を見極めようとする者も少なくなかった。無論、自立を目論んでのことである。
だが、そのいずれであれ、今川家の戦力が失われたという意味で差異はない。
今川軍は、実に全軍の三分の一を失ったのである。
この深刻な被害は、しかし、今後さらに加速していくことが予測された。桶狭間の敗戦、主君である義元と今川家の柱石であった雪斎の死は、時を経るごとに今川家の影響力を減衰させるに違いなかった。
それを最小限に抑えるためには、一刻も早く後継者である氏真を中心として、今川家がいまだ健在であることを周辺諸国に、そして領内に知らしめねばならない。
幸い、氏真は女性の身ながら文武に優れた才を示し、その気性も凛然としたものがある。群臣がこれをしっかと補佐し、盛り立てていけば、往時に迫る繁栄を築くことは不可能ではあるまい。
道中、泰朝と元信はそう語り合いながら、駿府城へと帰り着く。かなたに義元が築いた偉容が見えたとき、兵士たちの口から歓声とも悲鳴ともつかない声があふれ出た。
さすがに二人は無言を貫いたが、しかしつい数十日前には同じ道を威風堂々と西への征路についたというのに、今や敗残者として東への帰路についている自分たちの姿を思うにつけ、胸奥をこがす屈辱の炎は尽きることはなく、奥歯をかみ締める以外、二人に出来ることはなかったのである。
無論、泰朝、元信ともに「次は負けぬ」との決意があったのは言うまでもない。
今川家が名実ともに立ち直るためには、織田信長との再戦は不可避である。その時こそ、この無念を晴らしてくれよう、二人はそう考えながら、駿府城の城門をくぐったのである。
――そして、彼らは自分たちを出迎えるように立ち並ぶ生首の列を目の当たりにし、凍りつくことになる。
戦場での戦働きを生業としている両将である。生首をみて怯むほど惰弱ではない。彼らが息をのんだ理由は、並んだ首級のほとんどが、今川家の家臣、すなわち彼らの同輩だったからであった。留守居役の葛山氏元までいるではないか。
しかも首級は葛山の奥方や、あるいはまだ幼い童たちのものまで並べられている。その数は十や二十ではない。一体、何事が起こったのか。しばし呆然とした泰朝と元信は、次の瞬間、顔を見合わせて城へと馬を駆けさせたのである。
◆◆
「……あの者たちは、今川家にそむき、織田家に内通しようとした。ゆえに、これを誅したのである。得心したか?」
氏真の平坦な口調が、駿府城の広間に陰々と響き渡る。
帰還した泰朝と元信は、ただちに氏真の下まで案内された。そこには氏真とその護衛、さらにはごく少数の家臣だけが二人の帰還を待っていた。
泰朝と元信は敗軍の罪を謝し、義元らを守れなかったことを、畳に額を擦り付けるように氏真に詫びたのだが、それに対して氏真は沈黙で応えた。
だが、言葉はなくとも、その蝋のように白い顔が、氏真の傷心を如実に示しているのだろう。泰朝と元信はこの時、そう考えたのである。
そんな氏真に更なる負担をかけるのは気が進まなかったが、それでも城門付近の晒された首に関しては、問わないわけにはいかなかった。
そして、氏真の口から出たその答えに、二人は言葉を失う。あまりにも普段の氏真とかけはなれた言葉だったからだ。
二人の知る氏真は、女子ながらに凛とした気概を持つ武人であった。無論、今はまだ戦を知らぬ青二才に過ぎぬ。だが、経験を積み、その才能を開花させていけば、やがては父義元に優るとも劣らぬ名将になるであろうと、今川家の宿将たちは、皆、氏真に期待をかけていたのである――氏真を溺愛するのは、なにも義元一人だけではなかったのだ。
だが。
今、眼前にいるのは、本当にあの氏真なのか。
父や師を失った傷心はもちろんあろう。それが容易に立ち直れないものであることもわかる。だが、それにしても、この空虚な言辞は何なのか。気落ちしているとか、狼狽しているとか、そういうこととは根本的に違う。
今の氏真の言葉には、何もない――からっぽなのである。
そしてそれは、氏真に限った話ではなかった。周囲の重臣たちは、そんな氏真に不審の目を向けることもなく、ただ黙って座すばかり。その中には泰朝や元信が懇意にしている者たちもいたが、そんな彼らも、二人と目線を合わせることを避けるように視線をさまよわせるか、あるいは瞼を閉ざして黙り込んでいるばかりなのである。
「し、しかし、葛山殿らが内通したという確たる証拠があったのでござるか?」
しぼり出すような泰朝の問いに、氏真はゆっくりと頷いた。
「……あった。織田に服従を約した誓紙がな。ゆえに、一族ことごとく誅したのだ」
泰朝が小さくうめき、今度は元信が口を開く。
「なんと……しかしその書状は何処から出てきたのでしょうか。あるいは織田の反間の計である可能性も――」
「……元信。うぬも、私に刃向かうのか?」
「なッ?!」
その氏真の言葉に、元信は絶句した。
そして、自分に向けられた氏真のあまりに空虚な眼窩をまともに覗き込み、思わず膝をあげかけた。
これは断じて自分が知る氏真ではない。あの若が、こんな虚ろな目をするなど、ありえない、と。
「氏真様、一体、何が――」
だが、その元信の動きに素早く反応した兵士たちが、たちまち元信と氏真の間を槍衾で遮った。
「どかぬか、貴様ら」
「どきませぬ。お座りくだされ、元信殿。それ以上近づけば、氏真様に危害を加えると判断し、誅殺いたします」
義元の側近の一人であったその男の顔を、元信は知っていた。身分は低かったが、その武勇を買われて義元の傍仕えに上がった男である。義元の信頼も厚く、氏真の剣の相手を務めていたこともあった筈だ。
「……今の氏真様は明らかに正気ではおられぬ。それがわからぬそなたではなかろう」
「――口を慎まれよ。今川家当主たる方を指して、正気ではないなどと。いくら岡部様が義元様の首級を取り戻した功臣といえど、処罰は免れませぬぞ」
「話にならぬ。そなたといい、他の者たちといい、なぜこのように静まっていられるのだ。今、氏真様をこのままにしておけば、今川の家は滅亡よりもなおひどい末路を辿ることになるのだぞッ!!」
その声に応えたのは、その兵士ではなかった。
「然り、よな。なかなかよう物が見えておるではないか、岡部元信」
そういって悠揚迫らぬ態度で姿を表した人物を見て、声をあげたのは元信ではなく泰朝であった。
「そ、そなた武田の隠居ではないか。今は今川家の大事を決める時。どうしてこのような場におるのか」
「それはな、わしが義元様のご遺言で氏真様の後見をすることになったからよ。ついでに申せば、すでにわしの所領はそなたを越えておるのだぞ、朝比奈よ。その言葉遣いは無礼であろう」
「な、なにを馬鹿なことを。実の娘に追放され、捨扶持目当てに殿や若にへつらうことしか出来ぬ輩が。気でも狂うたか」
泰朝の悪口に、その男――信虎は、泰朝ではなく氏真に声をかけた。
「氏真」
「……はい」
「どうじゃ。わしに対してこのような雑言をぬかす家臣は、今川の家に必要かのう?」
「…………いえ」
「では、主君として、この者をどういたす?」
その言葉に応えるように、氏真がゆっくりと立ち上がる。
どこか人形めいたぎこちない動きで前に出ると、兵士たちは素早く左右に分かれ、氏真に対して道を開けた。
そうして、事の次第がわからず呆然としている泰朝の前に立った氏真は、すらりと腰から刀を抜いた。それが、義元の持っていた名刀「宗三左文字」であることを、泰朝と、隣で顔を青ざめさせていた元信の二人は気付いた。
「……泰朝」
「は、ははッ」
「……信虎は、我が忠臣。今川家の柱石なり。その言葉、我が言葉と等しく、信虎に逆らうことは、私に逆らうことと同じである」
「な、なんとッ?!」
「ゆえに……信虎に対する雑言は、私に対する雑言となる。ひれ伏し、詫びよ。しからざれば、その罪はそなたの妻子に及ぶ」
「う、氏真様……」
「な、なんという……」
泰朝と元信は氏真の言葉に呆然とし、広間にはくつくつと笑う信虎の声だけが響いていく。
「だ、そうだが。どうする、朝比奈家の主よ。それと岡部もじゃ。刃向かいたければ刃向かってかまわんぞ。貴様らの首が落ち、妻子が死に、その領土がわしのものになるだけじゃからの」
「……信虎、貴様、一体、氏真様に何をしたのだ」
元信の低く押し殺した声は、激甚な殺気をともなって信虎に突き刺さる。並の兵ならば、その眼光を受けただけで魂まで凍りつかせたであろうその視線を、しかし信虎は苦もなく受け止めてみせる。
「なに、義元様の遺言に従い、可愛がってやっただけじゃよ。のう、氏真様」
「……はい」
「偽言を吐くなッ。あの氏真様が、ここまで……」
「おう、たしかに偽りであったわ。正確に言えば、義元様と共に可愛がってやった、と言うべきであったかの」
「……どういう意味だ、それは?」
「おかしなことを言う。そなたがわざわざ織田から取り戻したのだろうに。ふふ、あの首級を見て、思いつきでやってみたのだが、案外、氏真様も興じてくれたわ。まだ泣き叫ぶ力が残っておったとは意外じゃった」
「さっきから……何を言っているのだ、お前はッ?!」
「しつこいの。そんなに気になるならば、氏真様に聞いてみよ。そなたがわざわざ織田家から取り戻した首級の前で、一体、何をされたのか、と」
信虎がそう口にした瞬間だった。
氏真が唐突に両の耳を押さえ、座り込んだのである。
そして。
「いやだ……いやだあッ! やめて、もうやめて、もう父上の前で、私をはずかしめるのはやめてええええッ!!」
狂ったように泣き喚き、目を閉ざし、耳を押さえて暴れる氏真。
世界の全てを拒絶するようなその様に、歴戦の武将たちが悪寒を抑えることが出来なかった。
信虎がすっと後退する。
すると、一瞬前まで信虎がいた空間を、空気さえ両断する勢いで白刃が切り裂いた。
元信が抜き打ちに切りかかったのである。
「ほう、それが答えか」
「――下郎めが。今川家の混乱を前に、その野心をさらけ出したか」
「ふむ、怒り狂うかと思うたに、案外と冷静じゃな。やはり、そなたは手駒とするか」
「たわけ、誰が貴様などに従うか。世迷言もほどほどにするがいい。貴様をなで斬りにして、義元様の無念と、氏真様が受けた恥辱のせめて十分の一でも晴らしてやろう――覚悟せよ」
元信の弾劾に、しかし信虎は嘲笑で応じた。
「ふん、だが所詮は武勇のみか。周りを見てみよ。そなたと同じ心根の持ち主などどこにもおらんぞ」
信虎がそう言う間にも、元信と信虎の間に護衛の兵士たちが人垣をつくっていく。泣き喚く氏真を放って。
そして、この場の重臣たちも、同じであった。誰一人、氏真を救おうとする者も、あるいは信虎に怒りをぶつける者もいなかったのである。
元信がかすかにうめき、泰朝が大声で同輩を罵った。
「そ、そなたら、何故、立たぬ! それでも今川の武士なのか!」
だが、その怒声を受けても、皆、やはり反応を示さない。正確に言えば、拳を握り締め、あるいはうなだれるという反応はしているが、信虎に刃を向ける者は皆無であった。
それを見て、元信は何事かに気付いたように、はっと息をのんだ。
「……まさか、信虎、貴様……」
元信の内心を察し、信虎は口元を歪めた。
「うむ、こやつらの妻子眷属は我が手の中よ。悪党は悪党らしく、というわけじゃ」
「……人質、というわけか」
「そうじゃよ。だが安心せよ、何も牢に閉じ込めているわけではない。皆、わしの家臣がつきっきりで守っておるわ。まあ、場所はそれぞればらばらじゃがな。わしに従っている限り、危害は加えぬ。無論、刃向かってもかまわんぞ。さすればそやつを殺し、領地を奪うだけじゃ。その場合、とらえた人質は、わしの部下に褒美でくれてやることにしておるゆえ、案外、無傷で解放されるかもしれんぞ」
自らの言葉をかけらも信じていないことを隠そうともせず、信虎はそう言って嘲るように笑った。
元信は呻き、泰朝は呆然とした。
彼らもまた、今川の臣下として義元に人質を預けている。何より、尾張から戻るまで数十日が経過している。駿府に残った一族が、今どこにいるのか、誰の下にいるのか、容易に予測がついた。ついてしまった。
信虎はにやりと、自らが言ったように、悪党らしい倣岸な笑みを浮かべて口を開いた。
「――で、そなたらはどうする?」
◆◆
三河松平家の居城、岡崎城。
城自体の規模は、今川家の駿府城とは比べ物にならぬ小ささであるが、その城を支える家臣団を眺め渡せば、あの太原雪斎をさえ感嘆させた忠実にして勇猛なる三河武士団がずらりと居並んでいる。
松平元康を頂点とする松平家の陣容は、壮観と称するに足るものであったろう。
だが今。
その松平家家臣団は、驚愕と困惑をあらわにしていた。
はるばる駿府から届けられた情報は、それほどに衝撃を与えるものだったのである。
「……葛山に、関口に、井伊。いずれも駿河、遠江に名の通った家柄、それを九族ことごとく、女子供まで刑戮するとは。氏真様は気が触れられたのか?」
「わからん。先代までの功臣が新たな代で没落する例はめずらしくない。くわえて、義元様が戦死されたことで、今川家の勢力が衰えるであろうことは誰もが考えるところだ。あるいはそのあたりを見越して先手を打ったのかもしれぬが、それにしてはろくな証拠もなく、ただ信長に通じたとて族滅するなど、これでは他の家臣が動揺するだろうに」
「ふん、義元も雪斎も死んだことで、自棄になったのではないか。構わぬではないか。所詮、今川は長年我ら松平家の主君を掠め取っていた敵に過ぎぬ。駿河で殺しあってくれるなら、むしろ好都合。我らはその間に三河を押さえてしまえば良い」
「ふむ、重次の言うこと、一理ある。だが、こうなると元康様が上洛の先手に任じられたことは不幸中の幸いであったな。元康様が人質で駿府にいたらと思うとぞっとするわ」
「おお、それはまことに。ならば、今、我らの元に主が戻ったは稀有な幸運、天の与えた機会であろう。この際、駿府の狂将殿とは縁を切る好機ではないかな」
松平家の家臣が抱く今川家への感情は複雑なものがある。
元々、松平家は東の今川と西の織田家の間で、独立を維持するために困苦を強いられてきた。この二者を同時に敵にまわせば、松平家などあっという間に滅びてしまうだろう。どれだけ勇猛な家臣団がいようとも、国力が違うのである。
それゆえ、時の松平家当主は、細心の注意を払って両家の間を渡り歩き、時に織田と結び、時に今川と手を組んで、たくみに勢力を伸ばしていった。
先代広忠が、まだ幼い元康を今川に人質に出したのも、小勢力である松平家を保つための策であり、同時にもし松平家が織田家に滅ぼされようと、元康が駿府にいれば、今川の力で再興がなるという深慮もあった。
元康にとっても、あるいは松平家にとっても不運なことに、この深慮は広忠の死をもって現実となり、岡崎城には長い冬が訪れることになるのである。
松平家にとっては、元康を扶育し、松平家の名跡を絶やさなかったことに関して、今川家には恩がある。
だがそれは逆に言えば、長年主君を人質にとられ、今川家に酷使されていたということでもある。
ことに年配の者は後者の見方をする者が多く、彼ら重臣たちの意見が幅を利かせるこの軍議の空気が、今川憎しに染まるのは、ある意味で当然のことであった。
一方、元康や、元康の側近である若者たちは、重臣たちほど今川家に対して敵対心を抱いているわけではなかった。無論、腹立たしい思いをしたことは一度や二度ではないが、京文化を吸収し、今川家の力で栄えた駿府城での暮らしは、元康たちに三河の田舎では決して得られない経験を授けてくれた。それは感謝するに足ることであった。
さらに元康は、雪斎の弟子として多くを学ばせてもらい、氏真とは友人と呼べる仲であり、さらに義元にも様々な面で便宜をはかってもらった恩がある。
それゆえ、今回の知らせで最も心を痛めたのは元康であり、同時に最も違和感を覚えたのも元康であった。
氏真の為人を知る元康にとって、今回の氏真の行動は大きな謎に包まれていた。
そう考えるに至った原因は一つ。元康は桶狭間の戦場に氏真が現れたことを知っている数少ない人間の一人なのである。もしそれを知らねば、あるいは家臣たちのように、父や師の死による狂気の一言で片付けてしまったかもしれない。
だが。
義元から命じられた留守居役を放り出し、桶狭間の戦場に現れ、結果として信長の奇襲を助け、さらにその後いつのまにか駿府城に戻り、後継者として粛清の刃を振るう。
常の氏真を知る者にとって、それは不可解どころの話ではない。明らかに異常であった。そして、そうである以上、そこにはそれを引き起こす何らかの因子が存在していると考えるべきであった。
丸根の砦で別れた時の雪斎の顔を、元康は思い起こす。
あの時、師は何かを言いかけ、その途中で口を噤んで、結局こう言った。
『元康殿。貴殿は貴殿が信じる道を歩いてゆかれよ』と。
突然の言葉に目をぱちくりさせた元康の顔を見て、雪斎はめずらしく照れたように笑っていた。
だが、あるいは師はあの時、予感していたのかもしれない。あれが、永別の言葉となることを。
雪斎の言葉を思い起こし――否、仮に雪斎が何一つ告げずに去っていたとしても、元康は同じことをしたであろう。氏真の豹変の裏にあるものを、突き止めなければならない。
「――半蔵」
「……は」
今川に叛するにせよ、あるいは当面今川に従って織田家と敵対するにせよ、いずれにせよ軍備の拡充は必須である。当面、そちらを重視し、外交に関しては今しばらく様子を見る。
軍議で決まったことはそれだけだったが、元康は直感的に駿府の真相を探るのが容易でないことを予感していた。通常の密偵を幾人出そうとも、おそらく駿府城の闇は見抜けまい。
それを見極めることが出来る者を、元康は一人しか知らなかった。
「駿府への潜入、お願いできますか?」
「……はい」
半蔵が答えたのはただ一言。
今の駿府にわだかまる闇の大きさに気付かない半蔵ではない。にも関わらず、ためらいなく主君の命令に頷いてくれた。
そして、その誠実に気付かない元康ではなかった。
この主従の間にこれ以上の言葉は必要なく。
遠くから、風が木々を揺らす音が響く。その音が消えないうちに、半蔵の姿は元康の前から消えていたのである。
◆◆
桶狭間の戦いは、関東での戦況にも影響を与えずにはおかなかった。
当初、箕輪城の救援に赴いた長尾政景率いる上杉軍五千は、城内の長野軍と連携し、武田・北条連合軍の包囲を切り崩そうと計った。
この時、城内の長野軍は二千。上杉軍と合わせて七千弱。
一方、城を取り囲む北条軍の軍勢は関東の諸将を含めて三万四千。これに武田軍六千を加えて四万。
双方の戦力差は歴然であり、正面から戦えば、上杉方の勝機はない。
それを証明するかのように、箕輪城に迫った越後上杉軍は、城を取り囲む北条勢に手を出すことが出来ず、後方で進軍を停止してしまう。
これに対応するように武田軍は攻囲を解き、箕輪城を望む小高い丘陵に陣を布いた。その丘は、箕輪城と上杉軍の中間に位置し、どちらへも対応がとれる巧妙な布陣であった。
この武田軍の展開により、上杉軍の動きは大きな制限を受けることになり、もはや箕輪城の陥落は避けようがないかに思われた。
武力によって箕輪城の包囲を打ち破ることが難しいと判断した上杉軍は、兵の損耗を嫌ったのか、一戦も交えることなく、馬首を北へ転じる。箕輪城の西を流れる榛名白川の流れにそって北の琴平山まで退き、そこに陣を布いたのである。
箕輪城攻略を目的とする北条軍は、上杉軍が去るに任せてもよかったのだが、北条綱成は一度の邂逅で越後上杉軍の容易ならざるを感じ取っており、氏康に追撃の許可をもらうと、北条綱高、笠原美作守らと共にこれを猛追した。
まさか北条軍が追ってくるとは思っていなかったのだろう。上杉軍は慌てふためき、琴平山の陣さえ放棄して、さらに北、鷹ノ巣山へと退却していく。よほど慌てていたのか、琴平山の麓には、兵糧や武器甲冑といった物資が山と積まれた状態であった。
五色備えの一角、青備えを率いる笠原美作守などは、これを機に上杉軍を撃滅すべしと唱え、更なる追撃を主張したが、赤備えの北条綱高、ならびに黄備えの綱成はこれに反対した。
今回、上杉軍の行動からは噂に聞く精強な越後兵の片鱗さえ感じとれない。兵糧や武器まで置き捨てて逃げていくその姿は、臆病というよりも、なにがしかの作為を感じさせたのである。
上杉方の伏兵にあやうく危地に落とされかけた綱成は、僚将らに自重を呼びかけた。調子にのって上杉軍を追撃すれば、手痛い反撃をくらう危険がある。ここは欲張らずに氏康の下へ引き返すべきであろう、と。
はじめから綱成に同調していた綱高はもちろん、笠原にしても、そこまで言われて、なお退却する上杉軍に不審を感じないような凡将ではない。
結局、北条軍は、上杉軍が残していった物資を残らず鹵獲し、箕輪城へと引き返す。遠征中の北条軍にとって、上杉軍の残した物資は大変ありがたいものだったのである。
そして、退却する北条軍の後方では――
三々五々、まとまりなく退却を続けていた上杉軍の各部隊は、鷹ノ巣山へ到着するや、北条軍の来襲を恐れるように、木を切り倒して柵をつくり、険阻な山の地形を利用した陣をつくりあげていく。
多くの旗指物を掲げ、北条の大軍に怖じる心を少しでも鎮めようとする様は、傍から見れば滑稽に見えたかもしれない。事実、綱成らが放った斥候や風魔衆は、上杉軍が必死に鷹ノ巣山を要塞化しようとしている姿を見て、憫笑を誘われたほどであった。
だが、その夜半。
夜襲を恐れるように、篝火を赤々と灯した陣の反対側。暗い闇夜に紛れるように集った時、上杉軍の将兵は、その表情を一変させていた。
整然と陣形を組み、迫る戦いに怖じる様子など欠片も見せぬ。音に聞こえた越後の精兵の姿がそこにあった。
北条軍が箕輪城へ退きつつあるという情報は、すでに上杉軍の下に届いている。その情報をもとに、上杉軍が向かったのは、南ではなく――東であった。
上杉軍は少数の兵士だけを鷹ノ巣山の陣に残すと、主力をもって関東平野を東へ走る。そして利根川を渡河すると、今度こそ進路を南へと向けた。
より正確に言えば、利根川の東に位置する箕輪城の支城である厩橋城へと、その矛先を向けたのである。
箕輪城の支城である厩橋城は当然、長野家の持ち城であったが、この時すでに北条方の手で陥落していた。
だが、いまだ城壁や城門はその攻防での損壊がなおっておらず、城主である多目氏総は、自身の手勢と周囲の農民たちを動員して修復している真っ最中であった。
北条家の主力である五色備えの一、黒備えを任されるだけあり、多目は油断とは縁のない慎重な武将であり、氏康の部下の中でも知略の人と目されていたのだが、その多目の眼力をもってしても、箕輪城の北に去った筈の上杉軍が、暁闇を裂いて来襲してくることは予測できなかったのである。
上杉軍、天城颯馬の考案した大規模な迂回攻撃はほぼ完璧な成果を示し、北条軍はたちまちのうちに混乱の渦に叩き込まれた。
その混乱に乗じて全軍を叩き付けた上杉軍の猛攻の前に厩橋城はあえなく落城、再びその城主が変更されることとなったのである。
厩橋城を奪取した上杉軍はここに拠点をすえると、関東管領を保護したことを大々的に宣言し、いまだ関東管領家に味方している者たちに集結を呼びかける。その一方で城の修復を急ぎつつ、二千ほどの兵力を動かし、今度は南の金山城に攻めかかったのである。
金山城主由良成繁は、北条家に従って箕輪城の攻囲に加わっていたが、この報告を受けて急遽攻囲陣から脱し、自城に逃げ帰ることになる。
これにより、関東、とくに上野の東部に所領を持つ国人衆の間には深刻な動揺が広がり、北条家から離脱する者たちが相次いだ。
直接に包囲を破らずとも、後方をかき乱せば、北条軍の本隊はともかく他の関東の国人衆は動揺するだろう。そう考えた天城の策は的を射た形となった。
無論これは、長野業正が指揮するかぎり、何万の軍が攻め寄せても箕輪城が陥落しないという前提の上での作戦であった。
上杉軍による撹乱を受けた北条氏康は、武田軍とさらに五千の自軍を残して箕輪城の攻囲を続けつつ、残余の兵力をもって、上杉軍の策源地となっている厩橋城の奪回に自ら乗り出した。
この時、北条軍は関東勢をあわせておおよそ二万三千。一方の上杉軍の総兵力は五千たらずであり、関東管領家に味方する者たちが徐々に集まりつつあるとはいえ、いまだその兵力は一千に満たない。城の修復もまだ終わってはおらず、氏康自身が指揮する北条勢とまともにぶつかれば、上杉軍の苦戦は免れないものと思われた。
だが、両軍がいよいよぶつかろうとした、まさにその時。遠く東海地方から、今川義元戦死の報告が届いたのである。
この報告を聞いた北条氏康は、ただちに全軍を停止させ、考えに沈む。
義元の死は三国同盟の根幹を揺るがすものになる。これを知った関東の諸将の向背も定かならず、下手をすれば上野の地で孤立する恐れさえあった。
そう考えた氏康は決断を下す。箕輪城の攻囲を解き、全軍を平井城に戻したのである。これにともなって武田軍も西上野の松井田城に春日虎綱を置いた後に信濃の地へと退き、ここに箕輪城の危機は去った。
武田が松井田城を確保したように、北条氏康も占領した上野のすべての地を捨てるつもりはなかった。氏康は、平井城を中心とした地域を北条家の所領とするため、太田資正に一万の兵をつけて平井城主に任命すると、残余の兵を率いて相模の小田原城へと退いたのである。
――この好機を上杉、長野の両軍が見過ごす理由はない。この二つの軍と、そして北条家が南に去ったことにより、新たに上杉方に参集した他家の軍勢を合わせ、八千を越える軍勢に膨れ上がった上杉軍は、太田資正の篭る平井城を陥落させるべく動き出したのである……