本文中に残酷表現(性描写含む)があります。
そういった表現に嫌悪感を抱かれる方は、天城の関東編が終わり「しかし」と書かれた以降の本編はご覧にならないようにしてください。
一応判別しやすいように、空欄は大きくとってあります。
◆◆◆
先刻まで晴れ渡っていた空は、群がり起こる黒雲に覆われつつあった。
吹き付ける風には濃厚な湿気が含まれ、稜線の彼方には稲光さえ見て取れる。
太原雪斎は今川軍の本陣目指して馬を疾駆させながら、間もなく嵐がやってくることを確信し、かすかに頭を振る。
天は織田に味方するか。
脳裏によぎったその思いを振り払うためであった。
「――義元様」
「お、おお、雪斎、戻ったか。すまぬ、このような……」
「経緯は使者より聞いておりまする。しかし、氏真様はどうやってここまで……」
その問いを口に仕掛けた雪斎は、申し訳なさそうに地にひれ伏す男の姿に気付き、口を閉ざした。
「信虎殿か、氏真様を駿府よりお連れしたのは」
「も、申し訳ござらぬ。氏真様が、なんとしてもお父上と共に戦いたいと仰せになり、お止めすることができませんなんだ」
「そ、そうなのだ。まさかそこまで思いつめておったとはわしも思い及ばず、氏真には済まぬことをしてしもうた」
信虎の言葉に、義元は両の目を拭う。
駿府城を抜け出した氏真の行動は将帥として許せるものではないが、父である義元を思ってくれる心には感激しきり、というところなのだろう。
雪斎は一度だけ小さく頭を振ると、当の氏真の姿を探す。
だが、いつもは「師よ、師よ」と自分を慕ってくれる氏真はどこにも見えない。
雪斎の視線に気付いた信虎が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「若君であれば、義元様の天幕におられますぞ。実は先夜より体調を崩され、熱が下がらず……」
「……そのような状態の氏真様を、この戦場の只中まで連れてこられたというのか?」
「は、その、それがしもおとめはしたのですが、ならば一人で行く、と病の床から出て行こうとなされて……それに、このあたりの田舎町に腕の良い医者などそうそうおらず。であれば、義元様の陣までお連れして、典医に診てもらった方がよいと判断したのでござる」
信虎の言い分に、義元は何度も頷く。
「うむ、氏真の病を氏素性も知れぬ町医者に診せるなどとんでもないわ。典医によれば、蓄積した疲労のせいであろうとのことゆえ、数日、ゆっくりと休めばすぐにも治るであろう」
その義元に、雪斎は静かに口を開く。
「義元様、そのように悠長なことを仰っている場合ではございませぬ。ここが兵法で言う死地にあたられること、お分かりでしょう」
「う、うむ、それはわかっておるが……ようやく休めた氏真をすぐにも動かすのは忍びない。せめて今宵一晩なりと、ゆっくり休ませてやりたいのだ」
「今、申し上げました。悠長なことを仰っている場合ではござらぬ、と」
雪斎の言葉に何かを悟ったのか、義元が、親ではなく将としての顔になる。
その義元に向け、雪斎は告げた。
「尾張の織田信長、直属の精鋭を率い、清洲を出た由にございます。いずこに向かったかまではつかめませぬが、間違いなく狙いは義元様の御首級でありましょう。織田には忍、野武士の類も多いと聞きまする。我らが桶狭間にいることが敵に知られれば、間違いなく襲って参りましょう。早急に陣を動かさねば、今川の将兵、皆、敵国の土と化してしまいまするぞ」
さすがに氏真大事の義元といえど、この雪斎の言葉には反駁することが出来なかった。
それに野外の天幕よりも、大高城の中の方が良く休めるであろう。
「で、ではそれがし、若君の様子を見て参りましょう」
信虎は一言断ると、義元の天幕に歩み去る。
義元がその後に続こうとした、その矢先。
義元の頬に大粒の雨滴が弾け、それは瞬く間に周囲にも降り注いできた。
やがて、あたりはまるで夜のような暗がりに包まれ、滝のような豪雨が降り注ぐ。
急激な天候の変化に、今川軍の各処から慌てたような声が沸きおこり、しばし騒然とした空気が陣営全体を包み込んだ。
「まずいな。この豪雨の中、軍を動かすのは危なかろう」
義元の言葉に、雪斎も頷かざるをえなかった。
「そうですな。少なくともこの雨が止むまでは動かぬ方がよろしかろう。しかし、奇襲への備えはしておくべきでござる」
「この雨に、この暗さだ。織田の軍とて動くこともままなるまいし、我が軍の位置を知ることも容易ではあるまいと思うが」
「備えあれば憂いなしと申します。兵には苦労をかけますが、万に一つも間違いがあってはなりますまい。まして、ここには動けぬ氏真様がおられるのですから」
「そ、そうだな、そのとおりだ。早急に歩哨をたてて警戒にあたらせよう」
「御意。では――」
雪斎の指揮の下、突然の豪雨に混乱していた今川軍は、それでも少しずつ静まり、落ち着きを取り戻していく。
雨の中を警戒にあてられた兵士たちは愚痴を禁じ得なかったが、織田軍の奇襲の恐れがあると聞かされれば否やはない。
この雨とてそれほど長く降っているとは思われず、雨がおさまり次第、大高城へ出発することが出来るのだから、と兵士たちは自分たちを慰めつつ周囲の警戒にあたったのである。
「うあ、まるで滝じゃな、こりゃあ」
「通り雨だろうが、しっかし、こんな雨じゃあ敵も動けねえんじゃねえか。しかも相手は尾張のうつけ殿だろ?」
「そうそう。今頃、清洲で雷におびえて震えとるんでねえか」
「ばか、太原様が来る可能性があるといっとるんじゃ。んなわけねえだよ」
「んだな、太原様に従っておれば、生きて国に帰ることも出来るってもんよ」
「おお、また始まったぞ。茂介の、国に帰りたい、が。ぺっぴんの嫁さん置いてきたことが、そんなに心残りかよ」
「おお、心残りよ。悪いか」
「お、からかわれすぎて、開き直りおったぞこやつ」
一際若い男性を囲み、周囲の男たちが笑い声をあげた、その時。
「まあ、あまり騒ぐと侍に文句言われるじゃろ、きちんと――」
そこまで言いかけ、唐突にその男は跪き、地面に倒れこんだ。
「おい、どうした。こんなところで寝たら……って、おい、大丈夫かッ?!」
倒れた男を抱え起こそうとした者が、その手にぬるりとついた鮮血に気付き、声を高めた。
血はすぐに雨で拭い去られていったが、背中から胸に抜けた矢は消えようがない。
「な、て、敵しゅ――ぎあああッ!」
「お、おい、くそ、なんだ、誰だよ畜生!」
「馬鹿! 早く身を低くしろ、兜をかぶらねえか、そんでもって敵だ敵だ大声で騒げ!」
「ひ、ひい、わ、わかった」
だが、そのような暇は与えられなかった。
暗闇の中から馬蹄の轟きが聞こえてきた。そう思った途端、彼らの前にはたちまち数十、数百の軍勢が姿を現したからである。
その旗印は『五つ木瓜』。尾張織田家の家紋である。
そして、その戦闘に立って今まさに今川軍に突入していく女性こそ――
「狙うは今川義元の首一つ、他の首など褒美にはならん。ただ義元の首級だけが今日の手柄ぞ!」
これまでひたすら静粛に今川本陣に近づいていた織田軍は、今こそその枷から放たれ、暗闇を裂いて猛々しい雄たけびをあげながら、今川軍に突入していく。
そんな彼らの先頭に立った織田信長は、高々と愛刀を掲げた後、それをまっすぐに敵陣に向けて振り下ろした。
「全軍、かかれェッ!!」
天を衝く喊声が、それに応じた。
◆◆
速い。
織田軍の襲撃を知った雪斎は、小さく驚嘆した。そして疑念を確信へと高めた。
清洲から桶狭間までの距離を考えれば、雨中を裂いて現れた織田の軍勢が、この場所を知っていたのは明らかであった。
今川軍とて斥候も物見も出している。その網をことごとく潜りぬけ、進軍予定にもなかった桶狭間への滞陣を見抜き、嵐の中を迷うことなく進撃する――それはもう戦の天才などではなく、自暴自棄の暴走である。
だが、おそらく信長は、それをするに足る何かを――今川軍の動きを知る何かを得たのであろう。
だが、今はそのことに思いを及ばせている場合ではなかった。
織田の逞兵は凄まじい勢いで今川軍を蹂躙しつつあり、将が声をからして落ち着くように叫んでも、闇と雨音と織田軍の喊声におびえた兵たちは逃げ惑うばかり。中には味方同士斬り合う者さえいた。
雪斎は自身の直属の兵と、本営近くにいた兵力を何とか手元でまとめると、盛大に篝火を焚くように命じる。
無論、外はいまだ大粒の雨が尽きることなく降っている。戸惑う兵に対し、雪斎はあるだけの油を投じて火を絶やさぬように告げた。
「まずは闇を払う。兵を集めよ。しかる後、陣を組んで織田軍を迎え撃つ」
織田軍の勢いからすれば、ほどなくここまで踏み込んでくるだろう。間に合うかどうかは三分七分というところか。
「雪斎」
「義元様は氏真様を連れて後方へお退きあれ。この場は拙僧が引き受けもうそう」
「しかし、織田のうつけなどに――」
「急がれよ。たとえここで敗れようと義元様と氏真様がおられれば、いくらでも挽回できるのです。ですが、たとえ全軍が無事でも、お二人がおられねば今川家は立ち行きませぬ」
「む……」
義元が黙り込むと、その後ろからやや遠慮がちな声が割り込んできた。
氏真を背負った信虎であった。
「義元様、ここは雪斎殿の申されるとおりにするがよろしいかと存ずる。時遅れれば、織田の軍が乱入して参りましょう」
「信虎殿……」
「ご安心くだされ、雪斎殿。これ、このように氏真様はそれがしがしっかとお守りいたしておりますゆえ。心置きなく、織田軍と戦ってくだされ」
そう言うと、信虎はいつもの気弱げな顔で、小さく笑った。
「それがし、かようなことでしかお役に立てませぬでな。それとも、このような形でも今川家のご恩に報いることが出来るのは幸運と申すべきでござろうか」
雪斎の視線と、信虎の視線がつかの間、重なり合う。
不意に。
雪斎の全身を、悪寒が襲った。
目の前にいる男の眼差しの奥。気弱げな眼差しのその奥に、何かが見えた気がした。何故かそれが、脳裏の戦略図を汚していた黒い染みと一致する。
咄嗟に、雪斎は口を開こうとし――
「義元さ――」
「おお、もう織田勢の喊声がここまで響いてくる。猶予はありませぬな。義元様、若君の容態も心配でござるし、ここにこれ以上とどまれば、雪斎殿のお志を無にしてしまうことになりましょう、急ぎ退きましょうぞ。どうもまたお熱が上がっているように思われまする」
「お、おお、そうじゃな。すまぬ、雪斎、ここは任せたぞ。だが、死んではならぬ。良いな、死んではならぬぞ」
雪斎は主君に口を開きかけたが、信虎の言うとおり、すでに織田軍の喊声ははっきりと雪斎の下まで届くほど近づいている。
これ以上ここに留まれば、今川軍は指揮をする者もないままに織田軍に踏み潰され、義元や氏真たちも逃げられずに首をはねられるのは明らかだった。
義元に注意を促そうにも――雪斎の視線が、信虎に向けられる。信虎はその視線に気付くと、見慣れた微笑を浮かべ、そして背中に負った氏真を背負いなおす。ただそれだけの動作が、雪斎の口を封じ込める。
「――義元様」
「なんじゃ、末期の願いなど聞かぬぞ。まだわしにはそちの力が必要なのだから」
「御意にござる。されど一言だけ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすと申します。ご油断が禁物であることは此度のことでおわかりになられたでございましょう。その獅子とて一匹の虫で倒れることもございます。過ちを繰り返さぬように、それだけは申しておきますぞ」
「うむ、肝に銘じよう」
「御意。それではお行き下され」
鬼神の如き強さで暴れまわる織田勢の前に、寡兵で壁をつくりながら、雪斎は義元たちが去った方角に一度だけ目を向けた。
ここで雪斎が織田軍を食い止めねば、間違いなく義元たちは首を切られるだろう。
だが、食い止めたところで――もう遅いかもしれぬ。
あの狂気に、誰一人気付けなかった時点で、今川家は滅びに瀕していたのだろう。
可能性があるとしたら、ただちに織田軍を打ち破り、義元たちの後を追うことだが――迫り来る織田勢の叫喚が、そのわずかな可能性すら黒く塗りつぶす。
「この身はすでに老残、命を惜しむつもりはない。されど主家に巣食いし害虫を叩き潰すためにも、ここで散るわけにはいかぬ。上総殿、我が全てをもってお相手させていただこう」
しばし後。
「織田上総介が家臣、明智光秀。今川軍太原雪斎殿とお見受けいたす。我が主の夢をかなえるため、その首級、頂戴させていただく」
「ぐ、ぬ。見事、じゃが、すまぬがこの皺首、そうですかと差し上げるわけには参らぬでな」
「ならば降伏めされよ。その傷では、もはやこれ以上戦えますまい」
「ふふ、お心、ありがたいが、織田軍を、この先に通すわけにはいきもうさぬ」
「……ならば、やはりその首級、いただくことになります」
「それがそなたの務めであり、夢なのであろう――遠慮は要らぬ。参られよ」
そう口にしつつ、雪斎は尾張に踏み込んだままの愛弟子に、胸中で語りかけた。
届く筈はないと、思いながら。強く。
元康殿。面倒事ばかりを残して逝くは師として恥ずべきことなれど、どうか頼む。
そなたの友を、救うてやってくれ――
緋色の雨が、桶狭間の地に降った。
◆◆
「我が上杉の力、その身で確かめたいとお望みであれば、お相手いたす。お選びあれ――だって、く、ぷく、く」
「――勝手に真似して、勝手にうけないでくださいよ、政景様」
「いやいや、颯馬があんまり格好良くてね。く、くく、ああ、お腹痛い」
蹴飛ばしてやろうか、ほんとに。
俺は憮然とした表情で、さっきから一人で笑いまくっている政景様を睨む。
すると、なにやら顔を赤くして俺を見ている弥太郎に気付いた。
「どうした、弥太郎?」
「…………へ? あ、い、いえ、何でもないないでございます」
明らかに変な話し方だが、両の頬をおさえて顔をそむける弥太郎は、特にそれ以上、俺には何も言わなかった。ただ「うわー、うわー、うわー」となにやらずっと呟いている。なんかのお呪いだろうか。
俺が馬を下りると、すぐに段蔵が話しかけてくる。
「それでいかがでしたか、着込みの具合は」
「ん、やっぱり重いな。けど、それ以外に気になるところはなかったな」
「そうですか。重さは着ているうちに慣れるでしょう。戦の時だけでなく、普段からも身に付けておくべきと進言いたします」
着込みとは、簡単に言えば服の下に着る防具である。鎖帷子(くさりかたびら)と言えば想像しやすいかもしれない。
防刃に優れ、甲冑などよりもはるかに動きやすい。何より良いのが、これまでの俺と外見上はかわらずに見える点である。甲冑をまとわずに指揮をする、という俺の噂はそれなりに役に立つので、出来ればそのイメージは損ないたくなかったのだ。
これまでのように、無防備に戦場に出ることは避けなければならない。だが、積み重なった虚名は利用したい。そんな虫の良いことを考えた俺は、段蔵に相談してみたのである。
身軽に動く、となるとやはり忍の方がそういった知識は豊富だろうと考えたのだ。
すると段蔵は深く深くため息を吐き「そういったことはもっと早く言ってください」と言って席をたつや、たちまちのうちに何着もの着込みを持ってきたのである。サイズもぴったりだった。時折、段蔵の用意の良さに戦慄せざるを得ない俺である。
ともあれ、俺は今回の上野出兵に先立ち、いつもよりも入念に準備をした。
さすがにこれまでどおりの戦い方をしたら、景虎様ほか皆様に申し訳が立たん。段蔵はいつもどおりだったが、弥太郎がにこにこしてたのは、多分そういった俺の変化に気付いたからなのだろう。
長野業正からの使者によって、上野まで出てきた上杉軍であったが、正直、この出兵に俺は消極的だった。
上杉憲政を保護すれば、必然的に北条家を敵にまわさざるをえず、両軍が戦う度に関東まで出て行かなければならない。それは上杉家の軍事費を大きく圧迫することになるからである。
おまけに当の上杉憲政に関しては、悪い噂ばかりで、しかもそれがほとんど事実であるらしい。こちらが援軍を出しても、関東管領を助けるのは当然だと嘯いて、感謝一つしそうもない。
いっそ北条家と結んで攻め潰した方が世の為、人の為ではなかろうか、とさすがに口には出さなかったが、俺はそんなことを考えたほどだった。
しかし、当然といえば当然ながら、将軍家の命令で喜んで上洛した景虎様が、関東管領からの要請に応えないわけがない。
実際、要請は家老である長野業正からのもので、正式に関東管領家から出されたものではなかったが、北条勢が大軍を派遣しているのは事実であり、景虎様は上野との国境に援軍を送り込むことを決定したのである。
この指揮官に真っ先に名乗りを挙げたのが政景様であったのは予想どおりであった。
景虎様は自分が出るといったのだが、政景様はにやりと一言「あんた守護でしょ」と。
結局、この一言で軍配は政景様にあがり、上杉軍五千は上野との国境まで出てきたのである。兵数をやや抑え目にしたのは、北条家と矛を交えることで、武田家が信濃方面で三国同盟を理由に兵を動かす可能性があったからである。
一応、村上家にもその可能性は伝えておいたので、奇襲を喰らうようなことはないだろう。
たかだか五千程度では北条家の大軍とまともに戦える筈もないが、かといって越後全軍をあげて関東に踏み出せるほど、国内も落ち着いていない。
正直、景虎様の守護職就任に関する国人衆の反応さえ不分明なのである。
だが、晴景様の時もそうだったが、こうもいつもいつも国人衆の反応を気にしなければいけないあたりは、やはり今後の課題であろう。守護は越後の国主であって、国人衆の旗頭ではない。そう断言できるだけの勢威をどのように築くかを模索しなければなるまい。
そうでないと、これから先、何かと不都合が出てくるだろう。ただでさえ越後は冬は豪雪に包まれて動きがとれないという不利があるのだから。
が、まずは目の前のことを片付けるのが先である。
俺たちは上野の国境に着くや、情報を集め、山内上杉家と北条家との戦いの趨勢を把握する。業正も書状でそれとなく触れていたが、思ったとおりこてんばんにのされているらしい。
というより、もう勝負はついていたようだ。これでいっそ上杉憲政が北条家に捕らえられていれば、と期待した俺だったが、よりにもよって平井城から逃れてこちらに向かって逃げている最中だという。
しかも追っているのが北条綱成である。いきなり氏康の片腕か。
だが、逆に言えばこれは好機。ここで綱成を討ち取れば、今後の展開、かなり楽になるであろうと思われた。
もういちいち驚くつもりもないが、綱成も女の子だった。綺麗な黒髪と、額にまいた黄色い鉢巻、あと鎧越しでもわかるくらい大きい胸が特徴の。
三番目に関しては、別にじっと見たりしたわけではないのだが、ちらりと視線をはしらせたのは気付かれたらしい。
なんか真っ赤になって怒られた。戦の最中にふしだらだ、とか。
こっちは、伏兵を仕掛け、格好つけてみた後だけに、すこし呆気にとられてしまった。そんな俺に気付いたのだろう。向こうも、そんなことを言っている場合ではないと気付いたのか、顔は真っ赤にしたまま、しかしもっていた槍を構え直す。それを見た弥太郎が、俺の前に馬を立て、同じく槍を振りかぶる。
両軍の間に(やっと)緊張がはしったが、そうこうしている間に憲政たちの姿は後方の政景様の陣の中に消えており、もう追撃も困難だと悟ったか、綱成は口惜しげな顔をすると、兵に退却を命じた。
追撃しようかと思わないわけではなかったが、綱成の退き際には隙がなく、ぶつかればこちらも相応の出血を覚悟しなければならないと思われた。憲政の救出という任務は果たしたし、ついでに言えば綱成の為人にちょっと和んでしまった俺は、今日のところはこれでよしとすることにしたのである。
この後、箕輪城の救援に行くことを考えれば、今の時点で大きな損耗をするわけにもいかなかったという理由もある。
箕輪城の救援に関しては、業正の書状には一字たりとも記されていなかったが、これから関東で北条家と戦わなければいけない上杉家にとって、長野業正ならびに長野家の力は絶対に必要であった。個人的に言えば、長野業正本人にはぜひとも会ってみたい。
かくて、箕輪城を巡る諸勢力の戦いが始まる――かと思われた。
しかし。
◆◆◆
今川義元は目を開けた。
いつの間に眠りについたのか、記憶さえ定かではない。
桶狭間の戦いで織田軍から逃れ、後方の陣を目指していたのは覚えているのだが、その後、どうしたのであったか。
奇妙に濁った意識が、思考の集中を妨げる。さきほどから絶え間なく耳に飛び込んでくる呻き声は何なのか。
味方の陣地には着いたのだろうか。しかし、それにしては周囲に人の気配が少ないようだが……
「お目覚めですか、義元様」
その声に促されるように、義元は視線を上げる。
呼びかける声に聞き覚えはあったが、それが誰の声であったかすら意識に上らなかった。
しかし。
視界にその光景が飛び込んだ瞬間、義元の意識は一気に覚醒へと到る。
それも当然であったろう。
愛する娘が、半裸同然の状態で、手足を縛られ、床に転がされているのだから。
「氏真ッ?!!」
父の呼びかけに応えるように、氏真はうめき声をあげるが、その口には球状の何かが詰め込まれ、口から漏れるのは呻きとよだれだけである。
娘のあまりに無残な姿を見て、義元は弾けるように駆け寄ろうとするが、その時、ようやく自身が柱に縛り付けられている状態であることを知る。
咆哮をあげながら、その縛めを解こうと抗う義元であったが、よほどに巧妙に結んであるのか、縛めはわずかも緩まない。ただ一つ自由な口を使って、縄を噛み切ろうとするが、それもかなわない。
そんな義元の足掻きを見て、氏真のすぐ近くに座っていた男――はじめに声をかけた男は、控え目な笑い声をあげた。
「義元様、常の優雅さが台無しですぞ。海道一の弓取りともあろう御方が、いささか情けないと申し上げざるをえませぬ」
「き、貴様、どういうつもりだ!」
「はて、どういうつもり、とは。この状況で私が何を考えているのか、本気でわからないと仰る?」
「当たり前だ! これまで長く面倒を見てきた我らに何の遺恨があって、このような真似をする――」
義元は、大声で相手の名を叫んだ。
「武田信虎ッ!!」
普段ならば、義元の一喝を受け、悄然と平伏するであろう信虎は、しかし、すこし戸惑ったような顔をするだけだった。
それは、義元が見慣れた信虎の姿であったが、だからこそ、この異常な状況には似つかわしくなかった。
「困りましたな。どうも私と義元様の間には、誤解があるようで」
「誤解だとッ?! わしを縛り、娘をはずかしめ、我らに対して尚も忠誠を誓っているとでも言うつもりか?!」
「それ、そこが誤解なのですよ、義元様」
「なんだと?」
「そもそも、いつ私が義元様たちに忠誠を誓ったのですかな?」
信虎はそう言うと、近くで横たわる氏真の身体を丁寧に抱きかかえ、自分の膝の上に座らせた。幼かった頃の氏真を、そうやってあやしたように。
「やめろ、貴様ごとき下郎が、氏真に触るな!」
「ふむ、元とはいえ甲斐守護たる私を下郎とは、なかなかにきついですな。とはいえ、義元様が取り乱されるのもわかりもうす。戦で全身傷だらけの私と違って、氏真様は綺麗な肌をしておられる。奥方様もとても美しゅうござったが――」
そう言いながら、信虎は露になっている氏真の肩に舌をはわせた。
氏真の口から悲鳴のような声がもれたが、口に詰められた異物によって、それは声になることはなかった。
一方、義元はすでに半狂乱になっている。溺愛している一粒種の娘である。いずれしかるべき家から立派な婿を迎え、天下にならびなき豪奢な祝言を行うつもりであった。氏真が、どれだけ美々しい姿を披露してくれるものか、と将来に空想をたくましくしていた自慢の娘の肌が、枯れ果てた老人に蹂躙されているのだ。正気でいられるものか。
「信虎、貴様ァッ!!」
義元の狂態を楽しむように、氏真の肌を楽しんでいた信虎は、しばらく後、口元を歪めて、くつくつと低い笑い声を発した。
「ふむ、やはり女子の肌は良い。これに触れておると、ついつい昔に戻ってしまうわ」
「な、なに?」
その声に、義元は不意に気付く。
いつか、信虎の顔に不敵な笑みが浮かんでいることに。それに伴い、いつも信虎の顔を覆っていた気弱げな微笑が、跡形もなく消えている。縮こまっていた身体も、背筋は伸び、義元に劣らぬ体躯を見せ付けている。
そこにいるのは、野望や野心を捨てた枯れた老人などではなかった。旺盛な精気を漂わせ、見る者に威圧感さえ与える屈強な武将であった。
「さて、積年にわたる恨みじゃ。もう少し楽しみたいところだが、そなたらはあくまで前座でな。あまり時間もかけていられん」
そういって信虎は膝の上の氏真を、ためらいもなく突き飛ばし、立ち上がる。
手足を縛られている氏真は、顔をかばうことも出来ず、頭から床に叩きつけられる。
「氏真ッ!!」
「んー、んーーーッ!」
すぐ近くにいる父に、氏真は涙に濡れた顔を向ける。その目には、自分が何故このような目にあっているのか、あの優しい武田の翁はどこにいったのか、そんな疑念が渦巻いているようだった。
そして――助けてください、と父に訴えていた。
「ま、待っておれ、すぐにその戒めを解いてやるッ!」
吼えるように身体を無茶苦茶に動かすが、一体どのような技術なのか、相変わらず、義元を縛る戒めは微動だにしない。
信虎を怒鳴りつけようとした義元は、そこで思わず息をのむ。信虎が、まとっていた衣服を脱ぎ捨てていたからであった。
義元の口から出た言葉は、いっそ静かといってよかったかもしれない。
「……信虎、貴様、何をしておる……?」
「見てわからぬか。服を脱いでおるのだ」
「違うッ! 何をしようとしておるのだ、貴様、まさかッ!?」
狼狽して声を高める父の姿に、氏真は先刻にもまさる恐怖と不安で全身が震えるのを感じた。なんとか首を捻って、後ろの信虎の姿を見ようと試み、そしてそこに裸身の男を見つけ、甲高い呻き声をあげる。
「うるさい親娘だのう。男が女子の前で服を脱げば、することなど一つしかなかろうに」
義元は絶句し、そして狂ったようにわめきだす。
「やめろ、やめぬか、貴様、自分が何をしようとしておるのか、わかっておるのかッ?! そのような真似をすれば、今川家は永遠にそなたの敵となるのだぞ!!」
義元の絶叫にうるさげに顔をしかめていた信虎であったが、義元の最後の言葉に興味をそそられたように考え込む。
「ふむ、今川家が永遠に敵になる、か。それは嬉しくないのう」
義元はそれを聞き、がばっと顔を上げ、まくしたてる。
「そうだ、そうであろう。ならばはやくこの縄を解け、娘を自由にしろ、そなたの罪は問わずにいてやる。許しがたいところだが一度だけは許してやる。だから早くこの縄を――」
「だが、心配はあるまい」
そう言うと、信虎は再び膝の上に氏真を抱え上げた。
氏真は生々しい男の身体の感触に半狂乱となるが、信虎は手馴れた様子でその反抗を封じ込める。
「わしは甲斐にいた頃より、多くの女子を抱き、汚し、壊してきた。土臭い農民も、口うるさい武士も、抹香くさい尼も、お高くとまった公家も、そして小ざかしい実の娘もじゃ――まあ、最後は途中で邪魔されたがの。ゆえに氏真のごとき生娘を手懐けるのにさして時間はいらんわ」
「信虎…………ッ」
「最も邪魔な雪斎は死んだ。貴様はここで死ぬ。残った氏真はわしの物じゃ。ほれ、今川家がわしの敵になる理由はないじゃろう」
「信虎……ッ」
「安心せよ、貴様にはずいぶん長く世話になった。礼に娘が犯される様をたっぷりと見せ付けてやろう。それと、そうさな、この猿轡ははずしてやろうか。やはり娘の悲鳴は聞きたいであろう」
「信虎ッ!!」
「しかし心配なのは生娘がわしに耐えられるかじゃが――まあ壊れたら壊れたで、人形がわりに駿府城に置いておけばよいか。どうじゃ、安心したか、海道一の弓取りである今川義元様? 天下を娶る色男にしては、冴えない最後じゃがのう」
「――信虎アアアアアッ!!!!」
絶叫だけが、虚しく山間に消えた。
数刻後。
小屋の外に気配を感じた信虎は、布地一枚の格好のまま、外に出た。
そこには、信虎が甲斐の時代から抱えている家臣が平伏していた。
「どうであった」
「は。戦は織田軍の勝利。ですが今川義元の行方が知れぬことで、状況は今後どちらにでも傾くでしょう。織田、今川の両軍が互いに牽制し合いながら、義元の行方を捜し続けております」
「そうか。では、これを、何と申したか、あの木下とかいう奴に渡しておけ」
そういって信虎がどさりと放り投げたのは、ちょうど人の頭がすっぽり包めるほどの布であった。
「御意」
「義元の首をとったとあらば、かなりの手柄じゃ。今後、何かあったときにはまた手蔓になってくれよう」
「……御館様、あの木下なる者、此度こそ協力しましたが、主君への忠誠は確か。あまりあてにされない方がよろしいかと」
「かまわん。どのみち尾張なんぞに用はない。いずれ役に立てば良いという程度のことよ」
「かしこまりました。では、ただちにこれを木下殿へ」
「うむ。おう、そうだ、随分と汚らしいものなのでな。主君に渡す前にきちんと清めておけと言うておけ」
「……御意にございます」
家臣が立ち去ると、信虎は気だるげな顔で二度、三度と首をまわした。
その脳裏には、先刻までの狂宴が刻まれているが、信虎は眉一つ動かさない。義元に言明したように、信虎にとって、これは目的のための手段に過ぎぬ。
だが、長年の雌伏がようやく終わったのだと思えば、感慨もあった。
「ふん、休息にしては長すぎたが、まあ良かろう。この身に滾る熱は、全て余すところなく、そなたにくれてやれば良いのだから」
そう言って、信虎は東の方角に目を向ける。今は木々に邪魔されて視界に入らないが、そちらの方角には富士の山が悠然と聳え立っている筈であった。
そして、その麓の国こそ、信虎がかつて統べていた国。これから統べるべき国。
今、その国を治めている者も、国同様に信虎が支配するべき者であった。
「ふ、ふふ、くく、くあっははははッ!! 聞こえておるか、晴信! 待っておれよ、この父が、再びそなたの前に立つ日をな!! もう、すぐそこまで迫っておるぞ、備えておけよ、待ち受けておれよ、その全てを打ち砕いて貴様の前に立つ日が、わしは待ち遠しくて仕方ないぞ!!」