尾張国境、丸根の砦。
無数の矢が飛び交い、刀と槍が絡み合う合戦の場にあって、織田軍の守備兵は寡兵よく砦を守備していた。砦櫓の上に立ち、弓矢で次々と敵を射抜いていた兵の一人は、背おった矢筒の中から矢を抜き放ち、射抜くべき敵兵を探して眼下を見下ろす。
夜半から降り続いた雨に地面はぬかるみ、攻め寄せる敵軍の中には踏ん張りきれずに横転する者がそこかしこで見て取れた。そんな間抜けな敵兵に、弓矢の狙いをつけるが、しかしすぐにそれは無理だと悟らざるをえなかった。
まるで津波のように押し寄せる敵の大軍を前に、いちいち狙いをつけている暇などなかったのである。
射れば当たる。そう考えたその兵は無造作に弓を引き絞り、そして――次の瞬間、飛来した何かに首筋を射抜かれる。致命傷であった。
その死の間際、その兵は面をかぶった奇妙な人影を目にした気がしたのだが……すぐにその意識は闇の中に落ちていったのである。
「押すでござる! 敵は寡兵、城に篭るしかない臆病者どもに、我ら三河勢を止めることはできもうさん!」
地上では、それまでかろうじて互角の形勢を維持していた織田軍が、敵――三河勢の中からおどりでた長大な槍を縦横に振り回す女将軍によって、たちまちのうちに蹴散らされつつあった。
「三河松平家が家臣、本多平八郎忠勝、推参! 雑兵になど用はなし、この蜻蛉斬りと渡りあおうという剛の者はおらぬのでござるか!」
忠勝がそう言うや、さらに勢いを増す名槍蜻蛉斬り。刀で受ければ刀ごと弾き飛ばされ、槍で止めれば柄ごとへしおられ、鎧や兜はあたかも紙で出来た玩具のよう。
織田の将兵に、この人為的竜巻を止める術はなく、なだれをうって後退せざるをえなかった。その顔には先夜からの防戦の疲労と、忠勝の剛勇への怖れがはっきりと感じられた。
そして、攻め手の大将は、この好機を見逃すような愚者ではなかった。
「皆、忠勝に続くのです! 全軍、突撃ッ!!」
松平元康は総攻撃の命令と共に、最後の余剰兵力であった自身直属の部隊を戦場に投入、これにより三河勢はさらにその勢いを増し、織田勢を押し込んでいった。
これまで懸命に砦を支えてきた織田方の守将佐久間盛重は、三河勢の猛攻をこれ以上持ちこたえることは無理と判断し、全軍に退却の命令を下そうとする。
だが、その姿を忠勝の視界にとらえられてしまったのが、盛重の生涯最後の不運であった。
「織田家の名ある将とお見受けする。拙者、松平元康が臣、本田忠勝。その首、頂戴つかまつる!」
「ち、女子が戦場に出るなど無粋なり。着飾って城の奥で歌でも詠んでおれ!」
「あいにくそれがし、戦以外何も知らぬ無粋者でござるゆえ、ご忠告は聞きもうさぬッ!」
盛重はこの戦ではじめて、忠勝の蜻蛉斬りを五度、防いでみせた。あるいは万全の体調であれば、もっと凌ぐことも出来たであろう。
だが、その背に受けた矢は、すでに取り返しのつかぬ傷を盛重に負わせていたのである。
五度目の衝突の際、ようやくそれに気付いた忠勝が、はっと息をのむが、盛重はさして気にする様子もなく、あっさりと言った。
「見事。さあ首をとって手柄とせよ。わしは織田上総介が臣、佐久間大学盛重じゃ」
「何か言い残すことはござるか」
「おう、ならば先の言葉、信長様には言わずにおいてくれ。我が主も女子であったわ」
そういって呵呵と笑うと、盛重はしずかに目を閉じた。
「……御免」
そう言うや、忠勝の刀が一条の閃光を発し、次の瞬間、盛重の首は放物線を描いて宙を飛んだ。
織田勢を砦から追い払い、丸根砦を占拠した元康は、ただちに本陣の義元に勝利の報告を送り、砦の復旧にとりかかった。
丸根と鷲津は織田方の重要な拠点である。いつ信長の軍勢が奪還しに来るとも限らなかった。
もっとも――
「半蔵によれば、織田軍は清洲から動いていないとのことですが……篭城するつもりかな」
「う、せ、拙者には何とも……」
「……」
元康の問いに、戦はともかく考えることは苦手な忠勝は狼狽、いつも無口な半蔵はわずかに首を傾げるだけで応える。
元康もまた、今の状況では、その答えは出せない。であれば、やはり備えはしっかりしておくべきだろう。元康はそう結論づけた。
その作業の途中、ふと思い立った元康は、砦櫓の一つに駆け寄り、そこによじ登ると、彼方まで広がる尾張の大地に視線を向ける。
かつて、今川家に人質として向かう筈だった元康は、織田方の謀略によって一時この地に捕らえられていたことがある。
かといって、別に尾張の誰かに恨みを持っているわけではない。さして礼遇されたわけではないにせよ、惨く扱われたわけでもないのである。
だから、今ここにのぼって尾張の景色を見たいと思ったのは、単純な懐かしさと、そしてこれから向かうであろう土地への好奇心であった。
「こっちが岡崎、あっちが清洲。その先が美濃、近江、そして京、かあ。どんなところなのかな。どんな景色があって、どんな物があって、どんな人が住んでいるんだろう。ああ、戦なんかじゃなくて、普通に旅していけたら良いのになあ」
ぽつりと呟くように言う元康。
父が亡くなってから数年。父祖以来の城は、今は今川家の支配下に置かれている。義元や雪斎のおかげで織田家などの敵に奪われることはなかったにせよ、やはり他家の支配下にあるということは様々な重荷を領民に背負わせることになる。ことに三河勢の団結と粘り、そして勇猛さは東海地方でも名高いため、戦となれば前線に出ることが当たり前の状態になっていた。
おそらくこれは、元康が城主に復帰したところでかわりはしないだろう。それでも、元康が戻ってくることを心の支えにして頑張ってくれている岡崎の農民や将兵のためにも、元康はなんとしても今回の上洛で武功をたて、義元から岡崎城を返してもらわなくてはならなかった。
これまで散っていった多くの家臣たちのために。そして、元康自身の夢のために。
そしてしばし後。
今川軍から使者がやってきたと聞き、砦内に迎え入れた元康は、その人物の顔を見てぽかんと口を開けてしまった。
「せ、雪斎和尚?? ど、どうしてこんなところに?! 義元様の本陣にいらっしゃった筈では……」
「なに、我が愛弟子の戦果を確認しようと思うてな」
戦帷子をまとった雪斎はそう言うと、元康に促されるままに腰を下ろした。
その動きは滑らかで、年による衰えを微塵も感じさせない。雪斎は一見すると、線の細い文官のように見えるが、その実、日ごろの鍛錬を怠っておらず、老人とは思えぬ引き締まった体躯をしていることを知る者はあまり多くない。
太原雪斎といえば今川家の大軍師として名高いが、元康から見れば、雪斎は軍師ではなく、まぎれもなく武将、それも歴戦不敗の名将であった。
「上総殿は相変わらず清洲から動いておらぬ。報告では木下某という者が、戦に先立ち、このあたりでも大量の米や野菜を買い占め、篭城のためと申しておったそうだが、ちと尾張のうつけと呼ばれる者にしては動きが素直すぎる」
雪斎の言葉に、元康は背筋を伸ばして聞き入る。
その智、情報の収集から思考の展開、すべてが元康にとっての教本であった。
「地の利は敵にある。ゆえに織田軍の動きには注意が必要だが……しかし、敵を警戒するばかりで、こちらが動かぬは愚の骨頂。このような時は戦の常道に沿って兵を動かすべきであろう。元康殿、敵地に踏み込んだ際、注意すべきことは何であろう?」
「はい。兵力の分散を避けること。糧道を確保すること。情報の収集を怠らぬこと。あとは、ええと……」
懸命に考え込む弟子を、雪斎は暖かい眼差しで見守る。雪斎はこれまで多くの者たちに学問の手ほどきをし、兵法を教授してきたが、元康はその中でも出色の人材であった。
ありふれた表現だが、教えたことを吸収する早さは、砂地に水を撒くにも似て、しかもどれだけ撒いても水が溢れる様子が少しもない。駿府で雪斎の教えを受けていた当時の元康の様子は、他の子弟たちとは異なり、懸命とも必死とも言えるものだった。
それが、三河の地を取り戻し、自らの夢を叶えるための当然の努力だと、後に雪斎は元康自身の口からきかされた。
自らの夢――この戦乱の世を鎮めること。
今川家の大軍師を前に、怯むことなくそう言い切る幼子を目の当たりにした時、雪斎は落雷に撃たれたような衝撃を覚えたものであった。そして元康に教えを授ける度に、その思いが嘘偽りないものであることを悟る。
義元に松平家へ岡崎城を返還するよう願い出たのは、愛弟子に対する感情だけではない。このまま岡崎城を今川家が治め続ければ、いずれ主家である今川家に対し、元康が反感を抱く時が必ずやってくるだろう。その
時、雪斎が生きていれば良いが、もしすでに墓の下にいた場合、元康と同世代の若者たちでは相手にもならぬ。
否、正直なところ、成長した元康は、雪斎の予測を軽々と越え、雪斎に優る兵略家になっているのではないかとさえ思っていた。
そんな人物を敵に回すのは愚かなこと。こちらが誠意をもって遇すれば、元康はそれを必ず感じ取り、今川家に対して好意を抱いてくれるだろう。少なくとも敵対するような真似はしないに違いない。
そうつげる雪斎に対し、義元は「女童一人に大げさよな」と笑いつつ、しかし雪斎の言をなおざりにすることはしなかった。
元康が長じて戦に出て、相応の手柄をたてたなら必ず岡崎城を返還することを約束し、さらには娘の氏真にも引き合わせた。氏真もまた幼いながらに努力を怠らぬ傑物であり、雪斎にとっても良い教え子である。この二人が友情を通い合わせてくれれば、今川家は、たとえ雪斎と義元が亡くなっても、その勢威を翳らせることはないだろう、と雪斎は考えていたのである。
そして今。
すべては今川家にとって良い方向に進んでいる。かつて雪斎が胸に描いたとおりに。
だが、ここで元康に討ち死にでもされては、松平家は無論のこと、今川家の将来にも影が落ちる。
そう思い、義元の許可をとって、年甲斐もなく元康と同じ先陣に出てきたのだが、丸根砦を陥とした様子を見るに(直属の精鋭つれてこっそり見ていた)どうやら自分の杞憂であったらしい、と雪斎は考えていた。
同時にふと思う。
子のない雪斎にとっては、元康は孫にも等しい愛弟子である。その弟子可愛さで、いい年をして前線を駆け回っている自分は、もしかしたらかなり滑稽なのかもしれん、と。
だが、それを改めようとは、何故か少しも思わない今川家の大軍師であった。
とはいえ、もちろんただ弟子可愛さのためだけに動き続けているわけではない。
雪斎は織田信長の動きが気にかかっていたのである。
あまりにも静か過ぎる、と。
今川家と織田家の戦力差は隔絶している。篭城を選ぶことは不自然ではないし、むしろそのことに疑惑を抱く者など雪斎の他にはほとんどいない。
だが、雪斎は織田信長という人物が、常識はずれの行動をたびたび起こしていることを知っていた。領民からさえ「うつけ」などと呼ばれる奇抜な人物だが、それを伝え聞いた雪斎は、その行動の端々に信長という人物の尋常ならざる思考を感じていた。
それは一言で言えば便利の追求。因習、慣習を蹴飛ばして、ただ己が良いと思う方向に物事を押し進めていく破天荒。
凡才のそれはうつけで済むが、天才のそれは時に変革への端緒となる。
そして、雪斎の目に、信長は後者と映った。なぜならば、ただのうつけが、今川家の勢力に対抗し尾張半国を統べることなど出来はしないからである。
ゆえに、雪斎は主君義元に対しても油断を厳禁とした。
どれだけ信長が優れた才能を持っていようとも、彼我の戦力比がこれだけ離れていれば、手の打ちようはほとんどない。
今川家はあくまで堂々と、油断なく、正攻法で押し進んで行けばよい。
もっとも警戒するべきは、地の利を持つ敵の奇襲であったから、その備えは怠らず、間違っても奇襲に適した窪地などに陣を止めてはならない。雪斎は全軍にそう訓示し、義元もそれはもっともと頷いていた。
ゆえに、ここまでの今川軍の動きは実に整然と、また悠然としたものであり、鬼神の目をもってしても、付け入る隙は見出せなかったに違いない。
元康が首を傾げた。
「織田軍が動かないのは、そのためではないのですか?」
「うむ。確かにそう考えるのが妥当なのだろうが、な。どうも腑に落ちぬ。この程度でのまれる織田信長なのか、と」
「ふふ、雪斎和尚は信長殿を高く評価しておられるのですね」
元康の笑みに、雪斎は苦笑した。年をとってからというもの、世俗の権勢よりも、優れた才能に惹かれるようになったことは、雪斎自身、自覚せざるをえないところであった。
「たしかに、一度、じかに言葉をかわしてみたいものだとは思っておる。出来うれば、我が今川に従ってくれれば良いのだが……」
おそらく無理であろう、とは元康の耳ではなく、心で聞き取った雪斎の嘆きであった。
「ともあれ、上総殿の反応を見るためにも前線に出てきたのだが、主要の砦二つを陥とされても、清洲ではほとんど動きがないようだ」
信長の戦才に確信を抱いている雪斎だが、さすがにここまで攻め込まれながら、なおも静まり返っている清洲の様子には訝しさを感じていた。
居竦まっているわけではない。これは機を見計らっている静まり方であった。
だが、その機とは何なのかが雪斎にさえ見えてこない。奇襲を考えているのかとも考えたが、今川勢が奇襲に備えて進軍していることは織田軍とてわかっていよう。油断などどこにもない。
時機を見計らって出陣するにしても、丸根砦を元康が陥とし、鷲津砦が朝比奈泰朝の手に落ちた今、清洲への道を遮る要害はない。このままでは織田軍が動くよりも早く、今川の先鋒が清洲に達してしまうであろう。それがわからぬ信長ではあるまい。
では、一体、信長は何を待っているのか。
雪斎の顔にたゆたう感情を、あえて名づけるのならば不審であろう。
此度の戦の詳細を、敵味方を問わず鮮明に描き出す雪斎の脳裏の軍略図にあって、たった一つ、墨に塗りつぶされたように見えぬ箇所。そこを見極めるために、黒点を注視すればするほどに、雪斎の胸中からは何故ともしれぬ不吉な予感があふれ出る。
はたして、これは本当に織田信長がもたらすものなのか。雪斎はそのことに確信がもてずにいたのである。
そして、元康は。
滅多に見ることのない師の表情に、何故だか背筋に悪寒がはしるのを感じていた。
明けて翌日。
丸根の砦に急使がやってくる。
雪斎と元康のもとに届いた情報は二つ。
夜半、織田信長みずから率いる清洲の精鋭が一路、城を出て国境付近に向かったこと。
それは城下の家臣たちが集う暇すらなき神速の行軍で、さすがの雪斎麾下の諜者も完全に行方を見失ってしまい、やむなく織田軍出撃の報告だけをもって戻ってきたのである。
そしてもう一つ。
今川軍の本隊を率いる今川義元が、全軍を尾張桶狭間に展開。ここに陣を据えたという。桶狭間は山間に位置する窪地であり、雪斎が決して留まるなと全軍に訓示した地形でもあった。
それを聞いた雪斎は目を瞠る。
海道一の弓取りたる義元であれば、自身がどれだけの死地にいるかなど、誰に言われずとも承知していように。
「――何ゆえに義元様がその地に陣を布かれたかはわかるか? 大高城まではさほどの距離もない。にもかかわらず、義元様が桶狭間に兵をとめざるをえない理由があったのであろう?」
「御意に、ございます……」
駆けつけたばかりで、整わない息の間から押し出すように、急使は告げる。
「氏真様が……」
「なに?」
「え?」
予期せぬ人名に、雪斎だけでなく、元康の口からも驚きの声があがる。
「氏真様が、駿府城を飛び出し、この地まで……参られたために……」
急使の弱弱しい声は、しかし、雪斎たちの耳に落雷さながらの轟音をともなって響き渡ったのである。
◆◆
少し時を遡る。
悠々たる舞。朗々たる声。
尾張平野を照らす灼熱の陽光さえ、この気迫の前では木洩れ日か。
己のほかに誰一人とて見る者のない一室で、織田信長はただ無心に舞っていた。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
舞うほどに意識が研ぎ澄まされ、澄んだ意識がさらに舞を高みに押し上げる。
信長の長い髪が踊るように宙にひらめき、豊麗な肢体が熱を帯びて床を蹴る。
迫り来る今川の大軍も、眼前に迫った決戦も、今この時は些事となる。
その胸中に思い描くは、はるか彼方の天下のみ。
篭城降伏を唱える家臣たちには口にも出さぬその悲願、今川ごときに邪魔などさせぬ。
「信長様」
「む、光秀か」
「御意」
信長が敦盛を舞い終えるのを見計らったかのように、外から控えめに呼びかける声がする。
襖を開くと、そこには明智光秀の姿があった。刀術、槍術、火縄鉄砲の扱いから、軍略、政略に到るまで通じぬ物はないという英才は、端麗な顔立ちと白皙の肌をあわせもつ麗人であった。
その眼差しに浮かぶのは、信長と、信長の抱く志への絶対的な忠誠のみ。いまだ織田家に仕えて日は浅いが、信長の志を理解すること、光秀に優る者は織田家にはいない――いや、一人だけいるか、と信長は小さく笑う。
「信長様?」
「なんでもない。それより、なんぞ知らせがあったのであろう?」
「は。例の輩から、また知らせが参りました。それによれば、丸根を攻めるは松平元康、鷲津を攻めるは朝比奈泰朝。いずれも兵力は三千を越える、と」
「そうか――もたぬな」
「御意。砦に篭るは三百足らず。無理でしょう」
「で、光秀のことじゃ。知らせを鵜呑みにしたわけではあるまい。確認はしたのだろう」
「は。この知らせに間違いはございません。ですが……」
光秀の顔が、かすかに曇る。その危惧を悟った信長は、薄く笑った。
「わかっておる。正体も明かさぬ者の知らせをもとに動いたりはせんよ。しかし、こうまで正確な情報を送るとなると、今川の中枢にいる者だということになるか」
「はい。ただ、狙いが奈辺にあるのか判然といたしません。次に密使が来たおり、後をつけさせましょうか?」
「よい、放っておけ」
信長の言葉に、光秀は少し驚いた。他者に踊らされるのを何よりも嫌う信長のこと、何かしら考えがあるのだろうとは思ったが、それでもつい問いを口にしてしまう。
「よろしいのですか?」
「かまわん。この信長が相手の用意した盤面で素直に踊ると向こうが思っているのなら、いずれ思い知らせてやるだけのこと。どのみち、今のわしらにはやるべきことが山積みなのじゃ。顔も知らぬ相手の思惑を忖度するなど無益なことよ」
「承知いたしました。ですが万一にもこちらの動きがもれることがないよう、注意は払っておきます」
「うむ」
光秀の言葉に、信長は頷きでこたえ、遠く東の方角を見据える。
恐るべき勢いで殺到する今川家の大軍は、いまだ影さえ見えぬ。しかし、ほどなく尾張はその猛威に飲み込まれよう。
それはずっと以前よりわかりきっていたことだった。
そしてもう一つわかっていることがある。
その大波に耐えきって、そこで初めて始まるのである。
――自分の、織田信長の、天下布武への道が。
◆◆
山内上杉家にあって、三国同盟の締結が、北条勢の大攻勢の予兆であることを悟った者は少なくない。
長野業正もまたその一人である。
必然的に彼らは主君憲政に対し、防備の強化ならびに周辺諸国との協調を説いた。
関東管領とはいえ、昔日の勢いはすでにない。北条家の猛攻を受ければ支えきれないであろうことは、誰の目にも明らかであった。
それゆえ、諸国の援軍、ことに北の越後との友好は山内上杉家にとって焦眉の急だったのである。
かりに越後上杉家が北条方につけば、山内上杉家の命運は絶たれたも同然であった。
だが、彼らの多くが予測していたように、上杉憲政はこれを聞き入れず、北条家何するものぞと嘯くばかりだった。まして積年の仇敵である越後と手を組むなど聞き入れる筈もなく、多くの者たちは自分の家を生き残らせるために奔走するようになる。
その中にあって、長野業正はあくまで主家存続のために手を打ち続けた。粘り強く主君を説得するかたわら、密かに越後に使者を遣わし、同盟の可否を探り、さらには平井城が敵の重囲に陥った場合を想定し、主君が落ち延びる道を用意する。
最悪の場合、上野を失ったとしても、関東管領上杉氏の血脈を絶やさなければそれで良い。業正はそう考えたのである。
元来、業正は武将であって文官ではない。こういった影働きは得意とするところではなく、結局北条、武田両家に先手を打たれ「最悪の場合」は現実となってしまう。
それでも燃え落ちる平井城から、憲政がかろうじて脱出できたのも、そして越後へと落ち延びることが出来たのも、業正のお陰であるといえるだろう。
だが、憲政が人が変わったように大人しくなったことは、あるいは業正ではなく、北条家のお陰であると言えるかもしれない。
平井城が陥落してよりこちら、憲政は言葉すくなに縮こまり、家臣たちが何を言ってもただ頷くだけで、以前のように倣岸に反対を唱えたり、あるいは自身の権威をひけらかすようなことはしなかったのである。
燃え落ちる居城の姿が、よほどに憲政の心をうちのめしたのだろう。
関東管領の城が陥落する。そんなありえない筈の出来事が、現実となってしまったのである。これまではどれだけ敗れても、城に戻れば家臣たちは跪き、宴で憂さを散ずることが出来た。そうして、敗北の傷を癒すことが出来た。
だが、今やその城がないのである。憲政の放心は、ある意味で当然のことであったのかもしれない。
家臣たちはそんな憲政の急激な変化に戸惑ったが、しかし越後を頼るのであれば、今の憲政の方が良いと思ったのは確かであった。
常のような態度をとられた日には、どれだけ相手が友好的であっても怒らせずにはいないであろう。今の憲政であれば、仇敵ともいえる越後上杉家も、哀れみを抱いてくれるかもしれない。
だが、上杉憲政の脱出を知った北条勢はすぐさま追っ手をかけてきた。
憲政が逃げ込むとすれば、箕輪城か、あるいは北の越後しかない。箕輪城に逃げ込んだのならば、改めて城を陥とせば済むが、越後に逃げ込まれては後々厄介なことになる。
上杉憲政に遺恨を抱く北条綱成は、自身の黄備えを動員し、猛追を仕掛けた。憲政の側近たちは何とかこれを凌ごうとするが、北条家の最精鋭とまともにぶつかれる者などどこにもいない。ただ後ろを見ずに必死に逃げることしか出来ず、北条勢はただひたすらに追い続けた。
この分であれば、越後国境のかなり手前で追いつける。そう綱成が確信した瞬間だった。
彼方にとらえた憲政の姿が、不意に見えなくなる。
草莽から姿を現した兵士たちが、北条勢の行く手を遮ったからだった。
「何者か、貴様ら!」
問いつつ、しかし綱成は答えなど気にしていなかった。
誰であれ、関東管領の与党であろう。蹴散らす以外の選択肢がある筈はなかった。
しかし。
「越後守護上杉景虎が臣、天城颯馬」
姿を現した敵の将は甲冑すらまとわぬ姿のまま、綱成の前に姿を現し、恐怖の色すら見せずに告げた。
「主君の命により、関東管領殿をお助けいたす。北条家の方々におかれては、ただちに兵を退かれるがよろしかろう――無論」
そういって、天城と名乗った将が音高く鉄扇を広げると、まるでそれに呼応したかのように、次々と上杉軍の将兵があらわれる。
それを見て、綱成は自らが罠にはまったことを悟った。
「我が上杉の力、その身で確かめたいとお望みであれば、お相手いたす。お選びあれ」