越後守護職、上杉定実様が亡くなられたのは、上洛軍が京を発つ前のことであった。
後から聞いた話によれば、最初に定実様が体調を崩されたのが昨年の初冬のこと。
つまり、上洛軍が出立してから、間もなくのことであった。気分が優れぬといって床に就いた定実様は、数日、止まぬ咳に苦しんだ。はじめはただの風邪かと思われたのだが、十日経っても直らず、半月経つ頃には高熱が発生した。やがて、その咳に血が混ざるに至って、定実様が何らかの病に犯されていると判断した政景様は、上洛軍を率いる景虎様に知らせようとした。
だが、この時点で、まだ定実様は意識があり、景虎様に使者を遣わすことを断固として許さなかったという。
「今、知らせれば、あの律義者のこと、必ず帰ってきてしまう」というのがその理由であった。
主君に強く言われては、政景様としても強いて使者を出すわけにもいかない。
それに、定実様の容態も大分回復しつつあるように見えたので、その点も思いとどまった一因であったらしい。
実際、この後ほどなくして定実様は床を払い、政務に復帰する。
だが、あるいは、この時の床払いが早すぎたのかもしれない。定実様の病は完全には癒えておらず、時折、咳き込んでは少量の血を吐くようになった。
もっとも、これは政景様も後から奥方に聞いたことで、この時、それを知っていたのは当の定実様だけであったそうだ。おおよそ二ヵ月後、偶然そのことを知った定実様の奥方も、定実様を問い詰めて聞くまで、まったく気づいていなかったそうである。
それほどまでに定実様が病に犯されたことを秘しておられたことには、無論理由がある。
越後は、ただでさえ景虎様と五千の兵が不在なのだ。この上当主が病に倒れたと知られれば、またも他勢力が妄動を始めるだろう。越後守護職として、再び国内が兵火に包まれてしまう事態を、定実様は何よりも恐れたのであろう。
しかし、無理をすれば、病魔の進行を早めてしまうのは必然であった。
ある日、春日山城で政景様ら重臣たちと政事について話し合っていた定実は、不意に咳き込み始めたと思った途端、目の前の畳が朱に染まるほどの大量の血を吐き、倒れたのである。
奥方から話を聞いた政景様は、顔面を蒼白にしつつも、素早く必要な手筈を整え、一方で京へ急使を出した。
これが、京に急使が来るまでの流れである。
血を吐いて倒れられた定実様は、意識を取り戻すことなく、二日後に亡くなられたそうだ。
つまり、急使が京に着いた段階で、もうすでに身罷られていたのである。
帰途、それを知らされた景虎様の落胆は相当に深いものであったが、それでも軍将として、気落ちした面を将兵に欠片も見せないあたりは流石と言えた。
もちろん、俺にとっても定実様は主君である。接点が少なかったので、あまり話をかわしたことはなかったが、それでも穏やかで誠実な人柄には敬愛の念を抱いていたから、寂寞の思いは拭えなかった。俺と政景様の言い合いを、苦笑しつつなだめてくれた定実様の顔を思い起こし、俺は一人、弔いの杯を掲げたのである。
しかし、嘆いてばかりはいられない。今後の越後を考える上で、定実様の存在がどれだけ重要であったかは言を俟たない(またない)。その定実様が亡くなられたのだ。越後を兵火の巷にしないためにも、行動は素早く、的確に、なおかつ慎重に行わねばならない。俺は緊張しつつ、そう考えていた。
すでに定実様の御身体は寺に葬られ、その死は越後全土に知れ渡っている。これは倒れた状況が状況であった為、秘す暇もなく瞬く間に情報が伝わってしまったからである。これはいたし方ないことであったろう。
問題は葬儀の喪主を誰が務めるかにあった。
喪主を務めること、それすなわち次代の越後政権の首座に座る者である。これはすべての人々の共通の認識であった。
政景様が野心家であれば、景虎様が越後につかないうちにさっさと葬儀を行ってしまっただろう。だが、政景様は景虎様の帰還を待って、喪主を決めることを明言し、実際そのとおりにしてしまった。おそらく、否、間違いなく配下や、政景様に近しい国人衆からは猛烈な反対があったであろうが、政景様は彼らに対し、ついに首を縦に振らなかったのである。
これを聞いた俺は、多少、安堵した。
政景様が野心にのまれ、独断で葬儀を終わらせて、強引に越後の主権を握るかもしれないという予測を、俺はわずかだが抱いていたのである。後でそう言ったら蹴られたが。
ともあれ、少なくとも政景様が景虎様ぬきで事を決しようとしていないという事実は、内乱を恐れていた俺には朗報であった。
二人が協調できるのであれば、越後守護長尾政景、守護代長尾景虎あるいはその逆でもかまわない。景虎様自身は、政景様の下につくことに不満を持つことはないだろうから、これは案外、あっさりと片がつくかも、などと俺は考えていたのである。
……甘かった。めちゃめちゃ甘かった。
帰着してすぐに行われた春日山城での喪主決定の話し合いは、大荒れに荒れたのである。まさしく竜虎相打つ。景虎様と政景様は、互いに一歩も引かず、周囲の家臣(俺含む)たちは口をはさむことも出来ず、ただおろおろするしかなかった。
結局、二刻ばかり続いた話し合いでも決着はつかず、景虎様はめずらしく憮然とした表情を隠さずに毘沙門堂に篭ってしまい、別件で会いにいった俺を歓迎してくれた政景様も、この件に関しては取り付く島もない有様。
どうしたもんかと頭を抱えていると、何故だか他の人たちが俺に仲裁を頼んでくる。無理ですと言っても聞いてくれん。ここは天城殿に出ていただくしか、などとおためごかしを言ってくるが、その内心は明らかだった。誰も今の二人の間には立ちたくないのである。当然、俺もだ。
これが一人二人なら適当にあしらっていればよかったが、なにしろひきもきらずにやってくる。さすがに俺も根を上げた。
弥太郎の家に行ったのは、もちろん俺の口から岩鶴たちのことをきちんと頼みたかったというのもあるのだが、それ以外に城内にいたくなかったという事情もあったりするのである。
◆◆
「なるほど、それで今日はこちらに逃げていらした、と?」
「否定はしませんが、上洛の間の働きに礼を言うため、というのが主な理由です」
軒猿の里を訪れた俺は、なにやら呆れたような顔の長にそう言って、持ってきた金を渡す。
ちなみに、これを城の庫から出す許可をもらうために政景様に会いに行ったのである。俺の顔を見た政景様は、ついさきほどの荒れた様子が嘘のように上洛の苦労をねぎらってくれたし、軒猿の里に持っていく金に関しては俺の裁量で、と言ってくれた。
だが、やはり先刻の話し合いに触れると、たちまち眉間に雷雲が発生してしまう。俺は慌てて逃げ出さざるをえなかったのである。
そんなことを思い出していると、長は俺が持ってきた金を確認し、軽く頭を振った。
「……また法外な。天城殿、気前が良いのは結構なことですが、人は慣れるものでござる。あまりいつもいつも大金をばらまいていると、配下はそれを当たり前と思うようになってしまいますぞ」
「軒猿の情報がなければ、事を処すことさえおぼつかなかった例はいくらもあります。それは今回の上洛に限った話ではありませんので、これは過大ではなく、至当な額だと思っていますよ」
「――ふむ」
長は俺の顔をじっと見る。一瞬、こちらが怯んでしまいそうなほどに真剣なものだった。
何事かと首を傾げたが、結局、長はそれ以上、このことでは何も口にしなかった。
「段蔵」
「は」
「……ようやってくれておるようじゃな」
長の言葉に、段蔵は深々と頭を下げる。
それを見て、長は不意に何事かに気付いたような顔をした。
「む、髪を伸ばしておるのか?」
そう言われて、俺は反射的に頭を下げている段蔵に目を向ける。
出会ったときは耳の後ろあたりでばっさりと切られていた髪は、たしかに今は首のあたりまで伸びていた。
といっても、適当に伸ばしているというわけではなく、きちんと髪先をそろえているあたり、段蔵なりに思うところがあってやっていることなのだろう。
答える前に、一拍の間を置いてから、段蔵の口が開かれる。
「……切るに足る任務がありませんでしたので」
忍として活動する場合、長い髪は邪魔になる。髪留めなり頭巾なり使うにしても、それは余分な重さとなり、一瞬の隙が死に直結しかねない忍にとっては邪魔以外の何物でもなかった。
それゆえ、これまで段蔵は基本的に髪を短くしていたのだが、俺に仕えてからこの方、そういった影で動くような任務はほとんどなかったので、わざわざ髪を切る必要がなかった、とそう段蔵は言うのである。
確かに、俺に馬術を教えてくれたり、弥太郎に文字を教えてくれたり、あるいは各地に放った軒猿の動きを統括してくれたりといったことで、髪を切る必要はあるまい。段蔵のことだから、必要もないのにわざわざ切る手間をかける時間がもったいないということなのだろう。
俺はそう納得したのだが、何故だか長は一瞬笑いをこらえる表情になった。すぐに元に戻ったが。
「さてさて、軒猿屈指の使い手に、忍働きをさせぬとは、天城殿も酔狂なことですな」
「そう、でしょうか? たしかに段蔵には忍として働いてもらうのが、本領を発揮できるという意味で段蔵にとっても良いのかもしれませんが」
俺は申し訳なく思いつつ、正直なところを言う。
「今、段蔵に傍からいなくなられると、他のことが軒並み止まってしまうんですよね。むしろそちらの方が困ってしまうので」
忍として必要だったからなのだろうが、段蔵は基本的にあらゆることに精通しているので、諸事、危うげなく片付けてしまうのである。
おまけに前述したように技量を授けてもらっている身でもある。忍として外に出すなんてもったいない、というのが本音であった。
とはいえ、それは明らかに俺に仕える主旨から外れているというのなら、やはり考え直した方が良いのだろう。これまで段蔵はそういった不満や意見を口にすることはなかったから、俺はそれに甘えていた面は確かにあるのである。
だが。
「なに、問題などありませぬよ。忍が影にいなければならぬという道理もなし。お傍でお役に立てるなら、何なりと用いてくだされ。段蔵とて、それに否やを唱えたりはいたしませぬ。のう?」
長の言葉に、段蔵は迷う様子もなく頷いてみせる。
それを見て、俺は内心ほっとした。段蔵なみに有能な側役を探すのは、多分武田家に勝つことに匹敵する難事であろうと考えていたからだった。それに、馬術の師を失うのも困るのである。
「しかし、此度の城での景虎様と政景様の騒ぎといい、忍を側役として用いる天城殿といい、やはり上杉家は珍妙な家でござるな」
その表現に、俺はつい吹き出してしまった。
「珍妙、ですか。言いえて妙な表現ですね」
城でのことを長が知っているのは不思議には思わなかった。おそらく、昨日のうちに里に戻った段蔵から聞いたか、あるいは別の情報源が城内にあるのだろう。
それに、実のところ城下でも結構話題になっているのである。
景虎様と政景様が、互いに喪主の座を『譲り合って』口論になった、という事実は。
――俺の危惧は、とことん的外れだった。その一言に尽きる。
二人の言い分を聞いている最中、俺は本気ではずかしくなって、真っ赤になって俯くことしか出来なかったものである。
実のところ、定実様は遺言を残しており、そこにはいくつかの事柄が記されていたのだが、もっとも重要な部分は、景虎様を定実様の養子とし、越後守護職を継がせる心算であった、という部分であった。
だが、と定実様は遺言で続ける。
どうやら自分はそれを為すことが出来そうもない。よって、自分が亡くなった後、跡継ぎのいない上杉家を景虎様に継がせる、と。それは当然、守護の座も継がせるということに他ならない。
定実様としては、越後の情勢がいま少し落ち着いてから、ゆっくりと根回しをした上で切り出す心算だったのだろう。だが、自身の病を知った定実様は自分にその時が来ないことを悟り、遺言という形でその意思を伝えたのである。
春日山城に戻り、そのことを政景様と遺言状から知った景虎様は、しばし呆然とし、すぐに辞退する旨を告げた。
守護無き後は、守護代がその後を継ぐべき。それが景虎様の考えであり、ここで自分が守護代である政景様を飛び越えて守護になどなれば、要らぬ混乱が起きる、と主張したのである。無論、名門である上杉家の名跡を自分が継ぐことへの遠慮もあったのだと思われた。
一方の政景様の主張は、これは簡単であった。主君である定実様の意思を継ぐことこそ臣下たる者の務め。ましてや遺言である。これを履行しないことは、天下に春日山の恥をさらすに等しい、と。
率直なところ、どちらにも理があると俺は思った。なにより、二人とも自ら引いて、相手を立てようとしている。だからこそ、どちらに意見が傾こうが、これから先の越後の混乱は最小限で済むだろう。そんな風に思っていたのだが――なんか途中から二人とも感情的になってきたのである。
「――ですから! なにも上杉の名跡を継ぐのは私でなくとも構わぬでしょう。政景殿が守護になれば、私は全力でこれを補佐いたします。さすれば越後は平穏、定実様もご安心なされる筈です」
「――だから! そうならそうと、御館様はきちんと遺言に記される筈だって言ってるでしょ。それがないってことは、つまり御館様は景虎に後のことを託したの。その意思を、あんたは私にふみにじれというの?」
「く、で、ですが、長幼の序からみても、現在の立場からいっても、次に越後を統べるべきは政景殿をおいて他におりません。守護代たる身をさしおいて私が守護になれば、また国内に不穏な動きが」
「ふん、そんなもんあたしが一言言えば吹き飛ぶわよ。越後守護代長尾政景、越後守護上杉景虎の臣として忠節を誓いますってね」
「上杉景虎などと、そのような恐れ多いッ」
「そもそも、あたしが守護代になったのはあんたが身を引いたお陰でしょう。だったら、今度はあたしが身を引くのが当然。これで貸し借りなしってことじゃない」
「貸しや借りなどということでは――これは一国の大事です、やはりここは私などより……」
「ああ、もう往生際の悪いッ!」
ここで政景様は乱暴に髪をかきむしってから、びしィッと音が出そうな勢いで景虎様を指出した。
その勢いに、明らかに怯む景虎様。なんか新鮮な光景だった。
「景虎、言っておくけど」
「は、はい」
「今度も私を守護職にまつりあげて、自分はその下で自由に戦に行こうだなんて、許さないからね!」
「??」
目を丸くする景虎様。明らかに予期しないことを言われて戸惑っている。
というか、政景様の言葉を聞いている皆が同じ状態だった。俺は、まあ、何となく政景様の言わんとしていることが理解できたので、苦笑いを浮かべるにとどめたが。
「ただでさえ守護代守護代守護代って理由つけられて身軽に動けなくて面倒だってのに、この上守護? 冗談じゃないわ。自慢じゃないけど、あたしは御館様のように春日山城でじっと後方を支えているなんて真似、やれるけどやりたくないわッ!」
何気に問題発言の政景様だった。やれるけどやりたくないって、単なるわがままだろう。
だが、勢いにおされている景虎様はそこに気付かなかったらしい。あるいは気付いていても指摘できなかったのかもしんない。
「今回の上洛だって、出来ることなら行きたかったのに! 越後の片隅であたしが蘆名の田夫野人どもと戦っている間、あんたたちは京の都で華々しく戦っていたんでしょう。公方様ともじかに話したり、朝廷の公家と連歌の会を設けたりしたのよね?」
「はい、それはいたしました、が」
「その頃、あたしは蘆名の田夫野人どもと作り笑顔うかべて和議を結び、さすがは越後守護代お綺麗ですなとかため息が出るほど陳腐な褒め言葉きかされていたわけ。さあ、あんただったらどっちをとるの、景虎ッ?!」
よっぽど蘆名が気に入らなかったらしく、田夫野人を連呼する政景様であった。
一方の景虎様は、もうおずおずと、と形容したくなるような感じで、それでも上杉継承は最後まで肯わず、結局、また後日あらためて、という話になったのである。
まあ、その後日、というのは今日の夕刻なのだが。
当初は朝から始める予定だったのだが、定実様の奥方が夕刻に到着するので、それにあわせて、ということになったのである。
「守護の座を欲して争う話は諸国に無数にあれど、守護の座を譲り合って争う話など聞いた例もありませぬ。武田などが聞けばどう思うことでしょうな」
「呆れて、その後、鼻で笑いそうですね。戦乱を治めると言いながら、守護の権力を欲さない景虎様を、晴信は理解できないでしょうから」
長はそれを聞き、わずかに目をみはる。
「――天城殿は、おわかりになられるのか?」
「出来る、といえば嘘になります。私ならば、間違いなく守護の座を得ようとしますからね。定実様と、政景様の後押しがあればなおのことです。そこで頷けない清廉さが、将相としての景虎様の弱点で、そして多分、長所でもあるのでしょう」
「ほう、長所、ですか。なにゆえ、と問うてもよろしいですかな?」
俺は小さく笑い、そして胸中で温めている景虎様の説得案を確認しながら、こう言った。
「そんな景虎様を何とかお助けせねば、と奮起する家臣がいる。それも大勢の。つまりはそういうことですよ」
◆◆◆
駿河、駿府城。
駿遠三、三カ国の太守にして「海道一の弓取り」と称えられる今川家当主義元の居城。
今、この地には各地から集められた兵と物資とが恐るべき勢いで集結しつつあった。
この地に集まった兵力は二万。だが、敵地である尾張織田領に踏み込む頃には想定される総兵力は三万五千。これに北条と武田の援軍を加えれば、四万を越える大軍となる。
これだけの大軍を支えるには尋常でない量の物資を必要とするが、東海地方の豊沃な美田と、駿河、遠江の良港を抱える今川家の府庫には兵糧も金銀も山と積まれており、四万の大軍を長期間、他国に留めておくことが可能であった。
無論、これらの準備は一朝一夕で整えられたわけではない。いずれかならず行われる今川家にとっての悲願――すなわち上洛のために、今川家の将兵が、長年、積み重ねてきた努力と精勤の結実であった。
そして今、駿府の城では上洛前の最後の軍議が行われていた。
といっても、最初にあたる尾張攻略に関しては、もうほぼすべての準備が整っている。ゆえにこの軍議は、最終確認以上の意味を持たない。
それでも、この場に集った今川家の諸将は、緊張と、そして興奮を隠せずにいた。彼らは、知らず身のうちから湧き出る戦意を抑えきれず、たえずそわそわと動き、あるいは周囲の僚将と互いの武運を祈りあったりしていた。
その中で、一際勁烈な声が軍議の間に響く。
今川家の主、今川義元である。
義元は、眼前で頭を垂れる一人の将に向かって命令を発した。
「松平元康」
「はい」
「此度の上洛、先鋒はその方ぞ。三河岡崎の精鋭を率い、尾張の国境を塞ぐ城塞を破砕せよ。我が軍が清洲へ至る道を開く重大な任である」
「重任をお授けいただき、ありがたく存じます。仰せのごとく、我ら岡崎勢、鬼神となりて織田信長の防備を打ち砕いてご覧にいれまする」
そう答える声は、しかし野太い声が響くこの場にあっては明らかに異質であった。
それも道理。松平元康は、見目麗しい少女であるのだから。
周囲に居並ぶ歴戦の今川武将たちと比べれば、一回りも二まわりも小柄な身体。整った容姿にいまだに残る幼さが、この年若い少女の可憐さを引き立てる。つぶらな瞳にじっと見つめられれば、誰もが手を差し出したくなる焦燥に駆られよう。
だがしかし。
この松平元康、決して容姿を売りとする類の将ではなかった。
その小柄な身体に詰め込まれたのは、媚びでもなく、阿諛(あゆ)でもなし。それはしなやかにして、決して折れぬ自尊の心。弱小勢力である三河岡崎城の後継として、幾度も人質として他国に出され、多くの嘲りをうけながら、決して卑下することなく前を見続けたその強き心の価値を知る者は、しかし、今川家には一握りしかいなかった。
だが、元康にとって幸運なことに、その一握りの者たちは、ことごとく今川家の枢要に携わる者たちだったのである。
今川義元もその一人。元康の強さを知る義元は、その声に誠実を込めて告げた。
「以前よりの約定、果たす時が参ったな。尾張制圧と共に、岡崎城の主はそちとなる。無論、岡崎勢は今川家にあって屈指の精鋭、すぐに帰城を許すことは出来ぬが、近江路まで達すれば、京へ入る目処もつこう。さすれば、そちを岡崎城に戻すことも出来ようぞ」
その言葉を聞き、元康は昂ぶる感情に頬を染めて、深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉です。必ずやご期待に沿う働きをいたしますことを、ここで誓わせていただきます」
「ふっふ、そなたの鋭鋒、真っ先に受ける織田のうつけが哀れになるのう。そういえば、そなたは織田家にも一時、人質として入っていたと聞くが、思うところはないのか。信長と近しい年であれば、面識の一つもあるのであろう?」
「いえ、遠目に信長殿の姿をお見かけしたことはございますが、親しく言葉をかわしたことはございません。それに、織田に人質としていたのは、ほんの数月だけでしたから」
「うむ、あの時はそちの師である雪斎が、織田の血族と引き換えにそちを解放したのであったか」
義元は、一足早く三河に発たせた雪斎の顔を思い浮かべながら、そう言った。
「御意にございます。雪斎和尚には、どれだけ感謝しても足りません。もちろん、義元様にも。私や、岡崎城の皆が今日あるは、すべて今川家のご恩あってのこと。この元康、その恩、終生忘れることはございません」
元康の言葉に、義元は破顔した。
「はっは、そういってくれるとありがたいな。氏真もそちにはぜひとも柱石になってもらいたいと言っておった。年も近く、同じ女子ということもある。そちにはながく氏真を支えていってもらいたい」
「身にあまるお言葉、恐縮です。この身がどれだけ氏真様のお役に立てるかわかりませんが、精一杯頑張らせて――」
とそこまで元康が口にしかけたときのこと。
なにやら慌しい音が響いてきたと思ったら、勢いよく軍議の間に姿を現した者がいた。
それは――
「なんじゃ、どうした氏真。そのように息をきらせて、しかも甲冑までまとうておるとは。この前買ってやた京染めの衣装、気に入らなかったのか?」
「武人たるもの、女々しき衣装などに袖を通すものではございません。幾度も申し上げているでしょう、父上」
そう言って憮然とした顔をするのは、今川家の後継者である今川氏真である。
義元の妻の美貌をそのまま受け継いだかのような端麗な容姿の持ち主で、化粧をして着飾れば、さぞやすばらしい艶姿を披露することになる、と思われているのだが。
あいにく、当の本人はそういった女性らしいことに一切興味がなく、父親が買い与えた衣装だの化粧だの髪飾りだのは、ことごとく氏真の手の上を通り抜けて、周囲の家臣や、善行をおこなった農民たちへの褒美に消えていた。
無論、義元はそれを知っているのだが、かえって物に執着しない氏真を誉めそやし、けれども娘を着飾らせたいという夢を断ち切ることもできず、相変わらず装飾品を買い与えることを繰り返す毎日であった。
もっとも、それは逆に見れば、氏真の人望を高めることに大きく寄与していることになる。物離れがよい氏真は家臣にも領民にも評判がすこぶる良く、また尚武の精神をもって鍛錬に励む姿は、将兵にとって尊敬の対象となるに十分であった。
皮肉にも、当人にとっては悩みの種である小柄な体格(当人としては父のように大柄な体躯が欲しくて仕方ない)も、彼女の人気をあおるのに一役買っているのである。
今回の上洛では、氏真は駿府の留守居役となっている。氏真本人は、父と共に征路につくことを望んでやまなかったのだが、娘を溺愛する義元がそれを肯う筈もなかった。
一時はしぶしぶ納得した氏真だったが、みずからの友である元康が先鋒を務めると聞き、たまらずこの場に現れたのである。
「父上、元康も私と同じ女子、背格好とて大きな違いはございません。その元康が先鋒という大任を授かっているのに、どうして私が駿府で留守番をしていなければならないのです?」
「む、それは、だな」
突然、家臣の前に出てきて、滔々と不満を述べ立てる氏真に、義元は困惑した顔をする。本来、このような場所での無用な差し出口は一喝して退けるべきなのだが、氏真相手に義元がそれを出来ないことは、この場にいる全ての家臣たちが了解するところであった。
自然、彼らの視線は氏真のすぐ後ろに佇む者に向けられる。
それは白髪の老人だった。より正確に言えば、老人のようにしか見えない男性だった。
その理由は、大柄な体格をすぼめるようにしていることと、目じりや頬に刻まれた深い皺、そして何より生気の薄い枯れたような眼差しが、見る者に年齢以上の老いを印象付けるからであった。
男は、困惑もあらわに、父に問いを向ける氏真に向かって口を開く。
「わ、若君、ここは軍議の間ですぞ、お父上も困ってらっしゃる」
「武田の翁、それは承知しておる。しかし、私は父上と共に戦いたいのだ。留守居なんて嫌だ!」
「留守居もまた大切なお役目。進んでばかりいて、後ろの我が家を奪われた者は、古今の歴史にたくさんおりまする。若君ならばご承知でしょう」
「武田と北条とは盟約を結んだのであろう。敵などどこにもおらんではないか」
「結んだ盟約が必ず守られるならば、このような乱世にはなっておりますまい。上洛されるお父上方が後顧の憂いなく戦えるようにすること、この大切なお役目、氏真様以外の誰に出来るのですか?」
「なら、武田の翁がおれば良い。翁も我が今川の一族であることに違いはないのであろう」
その氏真の言葉に、男――武田信虎は、気弱げな笑みをもらす。
「そのようなことをすれば、武田家の破約を招くだけのことでござる。甲斐にいる娘は、私を殺しにやってくるでしょう。盟約など関係なく」
かつての甲斐国での乱を知る氏真は、はっとした顔で、すぐに詫びの言葉を口にする。
「あ、す、すまん、翁。心無いことを申した、許せ」
「なんの、お気になさいますな。ともあれ、この場はさがりましょうぞ。皆様の邪魔になっておりまする」
そういわれ、氏真は小さくうめく。まだ言いたいことはいくらもあったのだろう。
だが、ここで信虎の言葉をはねつけることが氏真には出来なかった。先の失言が、心根の優しい氏真に、信虎の言葉に頷くという動作をとらせたのである。
それを見て、明らかにほっとした空気が軍議の間に流れた。
再開された軍議は、その後、間もなく終わり、後は上洛軍の進発を待つばかりとなる。
今川、織田、松平にとっての。武田、上杉、北条にとっての。そして、ついには日本という国にとっての。
転機となる戦いが、幕を開けたのである。