九曜巴の軍旗を掲げ、春日山城を出陣する長尾勢。
その数は五百。事実上、現在の春日山長尾家が集めうる総兵力である。
そして。
「天城様、どうぞ、出陣のご命令をッ!」
俺の傍らで、力みかえって促す女武者。
名を、小島弥太郎という。後に「鬼小島」として、諸国に恐れられることになる武将である。
同時に、今は、乙女としては大柄な体躯(十五になってないのに、俺より背が高い)を気にする、年頃の女の子でもあったりする。
その弥太郎の言葉に頷きながら、俺は晴景様から預かった采配を高々と掲げ、まっすぐに振り下ろす。迫る柿崎勢の精強を考えれば、この出陣の勝算は決して高くなかったのだが、兵士たちは雄雄しい雄たけびをあげて、俺の指揮に応えたのであった。
この状況に到るまでには、無論、様々な理由が存在する。
――いや、まあ、一言で言えば、晴景様に指揮官を押し付けられただけなのだが。
人を斬ったり、斬られたり。そんな物騒なこととは無縁の俺は、軍議の席で他人事のようにのんびり座っていただけなのだが、晴景様の目には、何やら心中に秘めるものがあるように見えたらしい。
いきなり名を呼ばれた挙句。
「よし、颯馬、大将はそなたじゃ」
と言われた時には、目と口で〇を三つ、つくってしまいました。
これが、通常の軍議であれば、他の面々がこんな適当な決定を認める筈もなかったのだが、運の悪いことに、今回、春日山の軍議に出ていた人々は、元々、身分の低い者たちばかり。守護代たる晴景様の決定に、否やを唱えることが出来る者はいなかったのである。
当然、俺は抵抗した。
晴景様には命の恩がある。戦えと言われれば、拒絶は出来ない。だが、俺自身のみならともかく、俺以外の人たちの命まで背負うことなど、出来る筈がないではないか。皆、親もいれば子もいるのだから。
だが、そんな反論を受け入れる晴景様ではなかった。
「ならば、そちが勝てば良いだけのこと。そうじゃろう、颯馬」
などと笑って言うと、事は決したとばかりに、とっとと軍議を終わらせてしまったのである。
残った人たちは、呆然と顔を見合わせるばかりだった。
とはいえ、いつまでも放心してはいられない。
晴景様に再考を促す時間もない。柿崎勢は、こうしている間にも、刻一刻と、この城に迫りつつあるのだ。降伏したところで、良くて捕虜の身。悪くすれば斬首である。また、この時代、勝者の略奪暴行は黙認される――というより、当然の権利として考えられている節さえある。城に残る侍女たちや、子供たちがどんな目にあわされるか、想像することは難くなかった。
俺が、この城に起居するようになって、しばらく経つ。当然、知り合いもいるし、不慣れな俺に優しく接してくれた人もいる。もちろん、気に食わない人間はいたし、追従者と陰口を叩かれたりもしたが、総じて越後の人たちは朴訥で、誠実な好い人たちばかりであった。
彼らが蹂躙されるところを見るなど、御免こうむりたい。まして、今の俺は、晴景様から春日山防衛の任務を授けられた身。かなわずとも、全力を尽くす義務があるだろう。
俺は自らにそう言い聞かせ、晴景様から授かった采配を手に、立ち上がったのである。
そうして、まず俺がやったことは、城の府庫から、ありったけの金を引き出すことである。
晴景様の蕩尽のために、減少の一途をたどっていたが、未だ春日山城には、それなりの財貨の蓄えが残っていた。
俺は、その半ばを、集まった兵士たちに配ったのである。
皆、金銀など、見たこともないような下級の武士や、農民兵たちである。配られた財貨に、目を丸くしていた。
そんな彼らの前に立って、俺はやや緊張しながら口を開く。
「此度、晴景様より采配をお預かりした天城颯馬と申します。今、各々に配りし財貨は、この危急存亡の危機にあって、なお長尾家の下に参じてくれた皆々の忠勤に対するささやかな褒賞とお考え下され」
俺の言葉に、ようやく我に返った将兵から、ざわめきが起こりだす。
だが、俺はそれに頓着せず、さらに先を続けた。
「今、申し上げたように、お配りしたのは、ここに立っている皆々の忠義の念に対しての褒賞。これから始まる戦に関しては、新たに褒賞が与えられます」
俺は、一呼吸入れた後、再び、口を開く。
「しかし、此度の相手は勇猛名高き柿崎勢。必勝を期して策を練りますが、犠牲は避けられないでしょう。まして、我が身ははじめて采配を預かる若輩者。私などに命を預けられるか、とお考えになる方もおられましょう。それゆえ、これより始まる戦は、志願してくれた方々のみで行う所存です。我が采配に従ってくれるお心をお持ちの方は、お名前を記帳に記していただきたい」
言いながら、俺は額に冷や汗が流れるのを感じていた。本来、指揮官たる者、将兵に対して必勝の信念を植え付けることが、第一の責務である。
その意味でいえば、俺が口にしていることは言語道断であろう。
だが、実績のない人間の大言壮語もまた、みっともないものである、と俺は考える。彼らには、俺に命を預けるに足る理由は存在しない。それゆえ、俺は彼らに理と利を提示する必要があったのである。
「この記帳は、忠義と献身の心を持つ方々の名を知ると同時に、武運つたなく戦場に散ることになった際、残されたご家族への金銀の補償を行う為のものでもあります。勝利すれば、その勲によって更なる褒美を得られるでしょう。しかし、たとえ武運つたなく敗れることになろうとも、皆々の忠義の心を無為にはいたしません。このこと、守護代長尾晴景様の御名にかけて、ここでお約束するものであります」
俺は言うべきことを言い終わると、小さく息を吐いて、将兵の様子をうかがった。
ひそやかなざわめきには、信じられぬ、とでも言いたげな驚きと、そして小さな疑念が混ざっているように思えた。
忠義の心を、金で買う。正直、自分がやっていることは、ろくなものではない。越後の武人たちにとっては、侮辱された、と思われてしまうかもしれない。あるいは、今、配った金銭を手に、春日山城を去られてしまえば、万事窮してしまうだろう。
もっとも、そうなったら、おとなしく諦めるしかない。晴景様には申し訳ないが、この人選の過ちは、晴景様の最後の失策となってしまうことだろう。
俺が、そんなことを考えていた時だった。
一人の若者が、ためらいながらも、俺の前に歩み寄ってきた。
大柄な体格をした兵士だが、その顔には、まだ幼さが垣間見える。おそらく、俺よりも何歳か年下であろう。
「天城……様」
その声を聞いて、俺は驚いた。
若者とばかり思っていたが、その高い声音は、明らかに女性のものだったからである。
女性兵士は、おずおずと、言葉遣いを気にしてか、一言一言、確かめるように、ゆっくりと口を開いた。
「あの、私、家に家族が、父ちゃんと母ちゃん、あと、弟たち、妹たち、あわせて六人、いるんです。家、貧しくて、それで今回、お城の兵隊の募集に応じただけなんですが。こんなにたくさんのお金、もらっちゃって良いんですか?」
「もちろん。理由はどうあれ、君が、今、ここに立っていることは確かなのだから。遠慮することはないよ」
相手が年下(多分)の女の子とわかって、俺はやや口調をくだけたものにした。
良くみれば、重たげな甲冑を身に着けているにも関わらず、少女の様子に苦しげなものはなく、軽々と甲冑を着こなしているように見える。かなりの膂力の持ち主と思われた。
「で、では、今度の戦、頑張れば、もっとご褒美、もらえますか?」
少女を安心させるために、その問いに、力強く頷いてみせる。
今は、女の子を戦わせるということの是非はおいておく。周囲の将兵は、俺の一挙手一投足を観察しているだろう。目の前の少女一人安心させられなくて、どうして他の者たちに示しがつこうか。
俺の答えに、少女は、満面に笑みを浮かべながら、最後の問いを、俺に向けた。
「あの、もし、私が死んじゃっても、父ちゃんたちのところにお金は届くんですよね? 弟や妹が、ひもじい思いをすることは、ないんですよね?」
「約束するよ。もっとも、君が死ぬということは、春日山の軍勢が敗れるということで、その時には俺も生きてはいないだろうけど。勇敢に戦った者たちには、相応の報いがなければならない。そのこと、晴景様にきちんとお願いしてあるから」
ただ、と俺は少女の左の腕を、そっと叩いた。
「君のご家族は、死んだ君に金をもらうより、生きた君に会うことの方を喜ぶと思う。私も出来る限り、勝利のために力を尽くす。君も、勝利し、そして生き延びられるように、力を尽くしてくれ」
「……は、はいィッ!!」
俺の手が身体に触れるや、少女は電気に触れたかのように、ビクッと身体を振るわせると、直立不動の態勢をとった。
あまりの反応ぶりに、俺が小さく苦笑すると、それを見て取った少女は、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「……じゃ、じゃあ、その、名前を」
少女が言うと、俺の後ろに控えていた城の祐筆が心得たように、少女に名を問うた。
「こ、小島弥太郎といいます」
名を聞くや、祐筆は見事な達筆で、少女――小島弥太郎の名を記していく。
その傍らで、俺は目を点にしていた。
戦国時代、鬼と呼ばれる武将たちが幾名か存在する。
有名なところで、鬼島津こと島津義弘。鬼柴田こと柴田勝家。鬼道雪こと立花道雪などである。
いずれも優れた武威の持ち主であり、その存在を諸国に恐れられた武将たちである。そして、上杉家にも一人、鬼と呼ばれた武将がいた。
その者の名こそ小島弥太郎。鬼小島と呼ばれた、上杉謙信の忠臣である。
もっとも、他の鬼武将と異なり、小島弥太郎は、実在を疑う説もあるくらい、資料にとぼしい人物なのだが――何の因果か、その鬼小島さんが、目の前にいらっしゃるのですよ。しかも、純朴で好感の持てる女の子の姿で。
いや、まあ、晴景様も景虎様も女性の世の中だから、不思議というほどのことでもないのだが、やはり、驚くべきことではあった。
弥太郎の名を記入し終わると、俺と、弥太郎の会話を、固唾を呑んで聞いていた将兵たちが、弥太郎の行動に促されるように、我も我もと殺到してきた。
それを見て、俺は思わず、ほうっとため息を吐く。どうやら、最初の難関は突破できたようであった。
ちなみに、俺のため息癖は、このあたりからついていくことになるのだが、この時の俺には、さすがにそこまではわからなかったのである。
◆◆
かくて、春日山城を出た長尾軍。
放っていた斥候から、柿崎勢の現在位置を知るや、俺は越後国内の地図を睨み、一つの川に目をつける。
春日山城の東を流れる関川である。
騎馬隊を用いるの利は、その機動力にある。そして、水はその機動力を妨げるもの。俺が関川に目をつけたのは、むしろ当然のことであった。
時期は、梅雨。川の水量も大きく増加していることだろう。川辺に布陣すると同時に、川の上流を堰き止め、渡河をする柿崎勢を押し流す。
陳腐な計略といわれそうだが、陳腐とは良く使われるからであり、良く使われるということは、それだけ成功例が多いということなのである――正直に言えば、他に何の策も思い浮かばなかっただけだが。長尾軍の士気は、決して低くないが、しかし、だからといって柿崎勢と互角に戦えるわけではない。
そうして、関川にたどり着いた俺たちだったが、俺の策戦は、初手からつまずいた。
騎馬三百、足軽一千に及ぶ柿崎軍のうち、柿崎景家自ら率いる騎馬隊が、足軽を置き去りにしながら、春日山に急接近しつつあったからである。
このままでは、半刻もしないうちに、川向こうに敵の姿が現れるだろう。水計をほどこす暇もない。それに、今更ではあるが、柿崎は歴戦の将である。俺の見え透いた水計などにひっかかってくれるだろうか。
戦の素人である俺が考え付いたということは、他の誰でも考えられるということ。たとえ柿崎が気づかずとも、その配下に人がいないわけではない。
何より、このままでは堰を築く暇がない。道具類だけは、城内、城外からかき集めてきたが、致命的に時間が足りなかった。
全軍を二手に分ける。
俺はそう決断すると、一隊は堰作りに。一隊は柿崎隊への強襲にあてることにした。
無論、俺は堰作りにまわる――わけには、いかんかった。
柿崎隊への強襲は、正直、決死隊に等しい。向こうは騎馬。こっちは徒歩。向こうは精鋭。こっちは烏合の衆。勝算なんぞ立てようがない。何とか時間を稼ぎ、何とか逃げ出し、何とか敵を誘き寄せる。口に出しこそしなかったが、そんなはなはだ冴えない策戦しか胸中には浮かばなかった。
だからこそ、俺が前面に出ねば、かろうじて保たれている長尾勢の士気は潰えさってしまうだろう。
「ああ、胃が痛い……」
なるべく精鋭を、ということで兵士たちを峻別しながら、俺は腹のあたりをおさえた。この年で、胃に潰瘍とか、本気で勘弁してもらいたいものだが、このままだと洒落になりそうもない気がする今日この頃である。
「だ、大丈夫、です! 天城様は、私が、お守りしますからッ!」
俺の隣では「頑張りますッ!」と全身で叫んでいる弥太郎がいる。その目の中に、焔が踊る様さえ見えるような気がした。
弥太郎が抱え持つ槍は、俺より背が高い弥太郎、その身長よりも更に高い。2.5メートルくらいありそうな長槍だった。
弥太郎は、その長槍を、自由自在に操る。正直、俺は弥太郎を連れて行くつもりはなく、その膂力を、堰作りに活かしてもらうつもりだったのだが、あまりに弥太郎が切なげに訴えてくるので、先刻、ためしに振るってみてもらったのだ。
そして、唖然とした。その場にいた強襲部隊の実質的な指揮官である一番の古参兵さえ、感嘆の念を禁じえない様子の、見事な槍捌きだったのである。その場に居合わせた者が、皆、見とれてしまうほどであった。
かくて、小島弥太郎は自力で、自分の役割を獲得したのである。
俺としては、自分より年下の女の子に武器を振るわせるのは、気が進まないことおびただしいのだが、これはもうどうしようもないと割り切るしかなかった。それどころか、鬼小島の存在は、長尾軍にとって、かすかな勝利への灯火でさえあるのかもしれない。
隊を分け終えると、俺は強襲部隊を率いて、ただちに関川を渡った。
予想通り、先日来の雨で、川の水かさはかなり増している。川の水は濁り、その底が見えない危険な状態であった。
それでも、何とか、脱落者なしで渡河に成功したのだが、作戦通りに事が進めば、俺たちは柿崎勢を誘き寄せ、この川に戻ってくることになる。
堰作りが上手くいけば、水量は減っているだろうが、上手くいかなかった場合、今よりも水勢、水量が増した川を素早く渡らなければならなくなる。
それを恐れた俺は、十名ほどの兵士に命じて、付近から軽舟を集めさせることにした。舟同士を繋ぎ合わせ、臨時の橋にするためである。
本来なら、堰作りの部隊から人を出すべきだったのだが、渡ってから思い至ったのだから仕方ない。
俺は貴重な戦力を割いて、いざという時に備えることにした。
そして、いよいよ本番である。
付近の地理に詳しい兵士から、騎馬隊が通るであろう道筋を教えてもらい、林の近くに身を潜めて、あらかじめ、これでもか、と罠を作っておいた。落とし穴はもちろん、待ち伏せ用の縄も念入りに用意した。騎馬が通る寸前、伏せていた兵士たちが、縄を引っ張り、馬の足をからめとるのである。
そして、敵が混乱したところを見計らって、一気に襲い掛かる。それが大雑把な計画であった。
兵士たちには三人一組で、敵の騎馬一頭に当たるように言い渡した。狙うのは、主に馬である。敵を討ち果たすのではなく、機動力を奪うことに重点を置くためだ。もっとも、ろくに訓練をしていない寄せ集めの将兵であるから、計画通りには進まないだろうが、やらないよりはましであろう。
敵の首をとることは避けることも徹底させた。首級をあげたところで、手柄にはしない、といっておいたので、こちらは多分、大丈夫だろう。
それらの準備が完了するのと、遠方より馬蹄の轟きが響いてくるのは、ほぼ同時であった。
俺たちは、慌てて近くの木陰に身を隠す。
まさか、春日山の軍がここまで出ているとは思ってもいないのだろう。柿崎勢は、罠を警戒する様子も見せず、一直線にこちらへ向かってくる。
音に聞こえた柿崎の黒備え。その重厚な迫力は、こうやって身を潜めているだけでも、直接肌を刺すように感じられてならなかった。
知らず、采配を握る手が震えを帯びた。
ふと。
その手に暖かい感触があった。
柿崎勢が向かってくる方向しか見ていなかった俺は、慌てて隣に視線を向ける。
すると、そこにいた弥太郎が、俺を力づけるように、にこりと笑みを浮かべた。
弥太郎が、これまで戦場に出たことがあるかどうかは知らない。だが、弥太郎の様子を見れば、決して戦に慣れているわけではないだろうし、近づきつつある柿崎勢の脅威を感じていないわけでもないだろう。
それでも、弥太郎は笑みを浮かべたのだ。
それは、凄惨な戦場には似つかわしくない、可憐な乙女のそれであり、何より、俺を力づけるためのものであることは明々白々であった。
俺は、弥太郎に頷いてみせると、丹田に力を込めた。
女の子を戦場に駆り立てた挙句、その子に力づけられるなど、情けないにもほどがある。たとえ虚勢であろうとも、戦場に立ったからには、揺ぎ無く立っていなければなるまい。
そう考え、両眼に力を込めた俺の耳に、甲高い馬の嘶きと、悲鳴が聞こえてきた。
柿崎勢の先頭が、罠にかかったのであろう。
そして、その後続の騎馬隊もまた、突然の事態を避けようもなく、次々に落馬し、あるいは道を外れて、馬を御すことに必死になっている。
――それは、逃すことが出来ない隙。
すっくと立ち上がる俺。
もう一度、丹田に力を込めると、高々と采配を掲げ。
そして、勢い良く振り下ろす。
「全軍、かかれィッ!!」
俺の号令に応じ、弥太郎を先頭とした長尾勢が、柿崎勢にその牙を剥く。
乱戦の始まりであった。