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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/09/23 19:22


 深々と降り積もる雪が、緑深き高野の山々を白く白く染めていく。山間に湧き出した霧が、まるで雲のように眼下に広がる山並みを包み込み、まるで天上から見下ろしているかのごとき錯覚を抱かせる。
 耳が痛くなるほどの静寂は、京での出来事を彷彿とさせるものだったが、今、俺の眼前にある景色は、怨念だの恐怖だのとは全く無縁のものである。
 ただ、生命の気配が感じられない静けさは、それがどれほど明媚な光景であったとしても、人の心に寂しさを生じさせるものであるらしい。
 今、世界に自分一人しかいないのだという認識は、どうしたところで、人恋しさを呼び起こす――


「颯馬」
 そんな俺の耳に、景虎様の声が飛び込んでくる。
 その声で我に返った俺は、似合わぬ思索から解放され、ようやく現在の状況を思い起こす。
 この場所は高野の山嶺の一角。京での出来事から一月あまり。
 俺は一人の同行者と共に、仏教の聖地として知られる高野山を訪れていたのである。
「颯馬?」
 そして、ここで景虎様がいるということは――まあ、語るまでもないだろう。
 要するに二人でここまでやってきた、ということである。
「……どうしてこうなった?」
 呟いたところで、答えが返ってくるわけはないと承知してはいても、俺はそう言わずにはおれなかった。
 そして、そんな俺を、景虎様は小首を傾げて眺めるのであった。




 そもそもの原因は、やはり京での俺の勝手な行動にあるのだろう。
 確かに、傍から見れば、俺の行動はおかしくなったと思われても仕方ない面はあっただろう。俺とても、あれを何の感慨もなくやっていたわけではない。正直、他にやるべきことがあれば、そちらに傾注したかった。
 だが、京の情勢は平穏そのもので、上洛軍と京の民との間にも目立った揉め事は起きていない。例の遊女さんたちの件も特に問題はなく、将兵から深刻な陳情もあがってはいない。
 最も警戒すべき三好家の動きも、拍子抜けするほど何もなく、また京のみならず近畿一円でも戦はほとんど起きていなかった。おそらくは上洛軍を刺激することのないよう、久秀あたりが周到に動いているものと思われたが、まさかそのことで文句を言うわけにもいかない。
 結果、やるべき事は何かと考えると、手をつけられなかった範囲の葬送を済ませること、という結論に達したのである。
 

 とはいえ、元々あの光景を目の当たりにした時から、いずれやるべき事として考えてはいたから、かえってこの空白期間はちょうど良いと思ったことも事実であるが。親父なら間違いなくそうしてただろうしな。
 しかし、そのあたりのことは説明しづらいし、説明したところで納得できるものでもないだろう。
 中心部から外れていたとしても、京の町中ならば将兵を動かす理由もつくれるが、町から離れた場所ではそれも難しい。ついでにいうと、金銭的にもきつい。もっと言うと、ただでさえ気が滅入るような作業を、これ以上続けろと将兵に命じるのも気が引ける。京での疫病の発生を未然に防ぎ、町中の死臭を取り除くといった必要性と緊急性があるならばともかく、実質的に放っておいても害はない場所であればなおさらだ。
 屍毒で将兵の間に疫病が発生でもしたら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
 その点、俺一人なら、まあ最悪でも――などと、一応、俺なりに色々考えてやったことなのだが、これがかなり不評だった。
 正直なところ、弥太郎に諌められたり、段蔵に怒られるだろうな程度のことは覚悟していたのだが、まさか弥太郎に泣かれたり、景虎様に怒られたりとか、予想外すぎた。
 そして、町に戻ってからそう言ったら、今度は本当に段蔵に怒られた。しかも何故かそれに兼続まで加わった。かと思えば怒りがぶりかえしてきたらしい景虎様もやってきた。おまけになぜか岩鶴にまで文句を言われた。なんだ、このコンボは。


 ともあれ、上杉陣営に戻った俺は、あらゆる意味で二度と着られないであろう服を脱がされ(すぐに焼却処分された)、そのまま湯殿に直行を命じられた。
 ちなみにこの時代、風呂とは普通、蒸し風呂を指し、湯殿というのが湯船に水を満たす、俺の知っている風呂の方を指す。
 言うまでもないが、湯殿の方が水と薪を要する点で贅沢であり、滅多に使用されることはない。というか、そもそも湯殿がある場所の方がめずらしいくらいである。
 上杉軍の宿舎にそれがあるのは将軍家の配慮のおかげなのだろう。その湯殿を使えるとなれば、これはある意味で幸運……とか一瞬でも思ってしまった自分に、俺はすぐにため息を吐くことになる。
 湯殿で俺を待っていたのは、越後上杉軍の精鋭たち――一応誤解のないようにいっておくと、筋骨たくましい男兵士――であった。
 そこからはもう、お湯を浴びせられる→全力で身体を拭かれる→お湯を浴びせられる→全力で身体を拭かれるの繰り返し。久々の水風呂を堪能どころの話ではなかった。まあ、かなり不衛生な状態であったのは確かだから、仕方のないことではあったのだが、これは絶対に風呂ではない。食器洗い器に放り込まれた食器の気分がわかるとか、なんて斬新な体験なのだろうか。


 で、その入浴(?)が終わった後は、渋い壮年の医者に治療をしてもらった。無駄口は一切叩かず、必要なことだけを聞き取り、てきぱきと診察し、身体のあちこちに膏薬らしいものを塗りこんでもらい、あっさりと治療は終わった。
 水際立った手際で、迷う素振りも見せない様子は、さぞ名のある医者なのだろう。そう俺は感心していたのだが、名前を聞いてひっくりかえりそうになった。曲直瀬道三だった。
 さすが段蔵と言うべきなのかもしれんが、天皇陛下まで治療した名医を連れて来るとか、無茶しすぎである。礼を言って頭を下げるだけで精一杯だった。


 そうして、ようやく景虎様たちの元に戻った俺は、ここでもひっくり返りそうになった。というか、ひっくり返った。えらく綺麗な女の子がいるなと思い、名を聞いたら脛をけとばされたのである。
 で、その子は一言ぽつりと。
「岩鶴だよ」
「……誰だって?」
「おれは岩鶴だっていったんだ、馬鹿!」
 ――はっきりいって、景虎様の怒声を間近で聞いたときと同じくらいびっくりしました、はい。
 その後、景虎様に心底不思議そうに「気付いていなかったのか?」と聞かれ、地味に落ち込んだ。景虎様は一目見て気付いたらしい。兼続も同様。弥太郎や段蔵は、何回か会った後にちゃんと気付いたとか。
 知らぬは俺ばかりであったらしい。しかし、あの口調と、あの小汚い、もといあまり清潔でない格好から、どうやって女の子だと見抜けというのか。いつ会っても、顔は泥だらけだったしあ……
「あんなところで、私は女の子ですなんて格好してたら、どんな目に遭うかくらい馬鹿でもわかるだろ」
 ――返す言葉もなかった。



 この後も色々あったのだが、ともあれ、俺は通常の軍務に戻ることになった。
 もっとも、絶えず監視の目が傍らについていたが。弥太郎とか、段蔵とか、岩鶴とか。この三人がいないと、岩鶴の小さな子分たちも動員された。そこまでするか。
 まあ、この子分たちを連れて武田家の陣に行くと、虎綱や晴貞が大喜びするので、あまり問題はなかったりする。しかし、子分経由で俺の行動が伝わり、虎綱に問い詰められたり、晴貞に涙目で諌められたりしたのは参った。あと、どう誤解されたのか、俺が晴貞を泣かせたという噂が武田軍に広がり、将兵有志から詰問状が届けられた。意味わからん。 



 そんなこんなで、年末年始が過ぎ、京の町や、上杉、武田両軍にも常の落ち着きが戻った頃、景虎様が唐突に言ったのである。
「これから高野山に行って来る」
 日本仏教の聖地、高野山。
 俺は宗教にはあまり詳しくないが、景虎様が崇める毘沙門天が仏教の武神であることくらいは知っている。であれば、景虎様が高野山に行きたいと願うのも不思議ではないだろう。
 そんな風に思ったのだが。
「供は、颯馬、お前に頼む」
「承知しました…………って、私のほかには誰が?」
「今回は半ば私用だからな。あまり大勢は動かせん」
「……つまり、私だけですか?!」
「うん、そういうことになる」
 くすりと微笑むと、片目を瞑る景虎様。
 色々言いたいことはあったが、その仕草一つですべて消し飛んでしまった俺であった。



◆◆



 上杉軍を統べる立場の景虎様が京を離れるのが簡単でなかったことは言うまでもない。
 だが、思いのほかすんなりと京を出立することが出来たのは、どうも以前から――少なくとも昨年から考え、そのための準備をぬかりなく整えていたからではないかと思われた。
 実際、絶対に猛反対すると思っていた兼続も、壮絶な仏頂面ながら了承していたし、将軍家の方の許可もとっていたあたり、この推測を否定する根拠はどこにもなかった。


 京から南へ下り、久秀の所領である大和を通り、紀伊の国に入る。
 目だった事件がなかったのは、主に久秀にもらった手形のお陰であろう。くわえて、三好家の統治、ことに松永領の治安の良さは驚くべきものがあった。町を歩いてもごみ一つ落ちておらず、街道は整備され、城の近くにいたっては道の両脇に木々が植えられてあり、松永久秀という人物が、ただ陰謀に淫する類の策士とは一線を画する人物であることがまざまざと感じ取れた。
 これには景虎様も深く感嘆し、謀将と名高い久秀の評価を、一部改めたようであった。
 あるいは久秀が手形を出してくれたのは、このあたりの狙いもあったのかもしれぬ。「久秀が案内しようか?」という提案を言下に謝絶した時の、小さく唇を尖らせた久秀の姿を思い起こしながら、俺はそんな風にも考えていた。
 まあ、俺がそう思うことさえ、全て久秀の計算どおりなのかもしれないが――しかし、ここまで策謀の多い人物としての名前が広がると、本心からの行動でさえ作為ありと思われてしまうのだな、としみじみ思う。智略縦横の名が広がることは、良いことばかりではなさそうだ。
 だからといって、実は久秀がものすごく素直で誠実な為人だった、などという展開はありえんだろうけれども。




 かくて高野山に入った景虎様と俺は、すぐに高僧たちの出迎えを受けた。
 先触れの使者を遣わしていたし、多大な寄進も行っていたからだろう。高野の僧たちの対応は丁重の一語に尽きた。もっとも、彼らもまさかたった二人だけでやってくるとは思っていなかったようだが、さすがに高徳の僧が集う場所、そういった驚きを微塵も面に出さず、恭しく俺たちを迎え入れてくれたのである。


 高野山は真言宗を開いた空海が、布教の拠点を置いた場所である。厳粛な雰囲気に包まれた山門をくぐり、金剛峯寺の壮麗な社を目にすれば、宗教的感動とは無縁の俺でさえ、心洗われる思いがする。
 あたりを見回せば、いかにも修行を積んだと思われるお坊さんが、森然と祈りを捧げていたり、一方でやたらと強面、全身傷だらけなお坊さんが、薙刀もって歩いていたりした。
 これは、この時期、諸国の大名の掣肘を退けるために、高野山が僧兵という武力を蓄えていたためである。政治と宗教が密接に関わってしまうのは、一向宗の例を見るまでもなく、今の時世では当然のことであるらしい。


 俺と景虎様が案内されたのは、寺社仏閣が立ち並ぶ霊山のさらに奥、一般の巡礼者や僧侶たちが立ち入ることの出来ない区画にある部屋だった。
 おそらくは、最上級の客を迎えるための部屋なのだろう。山麓の賑やかな声はここまで届かず、深々と静まり返った高野の山々を、はるかに見晴かすことの出来る眺望は、言葉を失わせるに足る絶景であった。
 この景色を見ることが出来ただけでも、ここに来た甲斐はあった。本気でそう思ったほど、俺は目の前の景色に見入ってしまったのである。





 ――とはいえ、そろそろ本題に入らねばならないだろう。
 突然の景虎様の行動と、それにまつわる周囲の動きが、俺に関わっていることくらいは察しがつく。
 正直なところ、別に隠し立てをするつもりはなかったから、京で聞いてくれても問題はなかった。
 しかし、京でも、そして二人きりの道中でも、景虎様は俺の行動に関して何一つ言及しなかった。ならばこちらから説明すべきかとも思ったが、それもあまり気が進まなかった。


 何故といって、景虎様は俺の行動の根底にあるものを、すでに見抜いているからである。それは、あの時の言葉から明らかであった。
 俺がそこに至った理由は、俺の境遇と密接に関わることなのだが、しかし、平成の世なら知らず、この戦国の世にあって、俺の境遇など不幸というにも値しないもの。別に不幸自慢をしたいわけではないが、ただ、俺より過酷な境遇で、俺より誠実に、逞しく生きている人たちに、自分の過去にこんなことがあって、こうなってしまいました、などというのはひどく気恥ずかしいものだった。


 それに、と俺は思う。
 平和な世の中で二十年近くを生きてきた俺の感覚は、景虎様たちには理解しえないだろう。
 だからといって、あちらの人間に理解できるとも思わないが。大体、俺自身、自分の全てを把握しているわけではないのだ。
 そんなことを考えていた俺に、景虎様が静かに声をかけてきた。
 その真摯な眼差しを見て、俺は、時が来たことを悟ったのである。




◆◆



  
 まず言っておくべきは、俺の周りにいた人たちは、良い人たちばかりだった、ということである。
 親父の座右の銘は『命の恩には命をもって応え、信頼には誠実をもって報いる』というものであった。医者でも政治家でもないくせに、人助けをほとんど趣味にしていた親父らしい言葉である。
 それが高じて、結婚を前に財産ほとんど盗まれるとかいう笑えない事態になったそうだから、ある意味病気かもしれん。
 そして、青くなって詫びる親父に、にこりと笑って結婚した母さんは、そんな親父にまさる傑物だったに違いない。
 長じて聞いた話では、結婚式で親父は汗だく、母親は笑顔、そして母方の祖父母は壮絶な仏頂面であったとのことだった。まあ、それを教えてくれた祖母は、今では良い思い出だと笑っていたのだが。


 そうして、そんな両親の間に生まれた俺は、忙しい両親の下で寂しい幼年期を送った――とか言えると暗い過去が出来上がるのだが、そんなことはなかった。客観的に見ても、うちの両親は親として及第点に達していただろうし、俺自身、寂しさを感じた記憶は残っていない。
 どちらか片方が留守にしていても、どちらか片方が家にいてくれたし、どうしても両親が居られない時は、俺も一緒に連れて出かけてくれたもんである。祖父母とはあまり折り合いがよくなかったから、幼い息子に寂しい思いをさせないように、二人ともとても気を遣ってくれていたのだろう。
 そうして、そんな両親の背を見て育ったのだ。俺自身、二人に似てしまうのは避けられないことだった。
 要領こそよくなかったが、懸命に大勢の人を助け、そして慕われる父を子供心に誇りに思っていたし、そんな父を支える綺麗な母は、子供の頃の俺にとって自慢の種であった。怒らせると父親より怖かったので、恐怖の対象になる時も少なくなかったが、それは措く。


 ともあれ、誇れる両親の下で、自分で言うのもなんだが、健やかに育った俺に、転機は突然に訪れた。
 その日――暖冬が叫ばれる昨今ではめずらしく、十二月にもならないというのに雪が積もった日。
 高校からの帰り道、俺は両親との待ち合わせ場所に急いでいた。
 朝から降っていた雪は昼前に止んでいたが、降り積もった雪が陽光によって溶け出し、道路はかなりすべりやすくなっていたから、俺は慎重に一歩一歩確かめるように歩を進めていた。
 その分、いつもより大きく時間がかかってしまうだろうことはわかっていたから、約束の時間に間に合うように学校を出たのだが、それでも足りなかったようだ。
 この分だと遅刻してしまう、と俺は焦って、やや足を速めた。
 うちの両親、約束を破ることに関しては二人とも厳しかったのだ。
「待たされる人のことを考えれば、遅刻なんて出来る筈がない」というのが親父の言い分であり、母さんは、微笑みながら、夕飯のメインを取り上げてしまうのが常だった。抗議するとその他のおかずも消え、ご飯だけが残る。勘弁してください。


 だが、たかが数分といえど、遅刻は遅刻であり、約束を破ったことに違いはない。それゆえ、俺は覚悟を決めて携帯を手にとった。連絡くらいはいれておかねばと思い、母親の方の番号を選択する。
 呼び出し音がなること数回。向こうが通話ボタンを押した音がした、その途端。
 遠くから、耳をつんざくような凄まじい擦過音が響き渡り、わずかに遅れて、妙に重苦しい破砕音を、俺は聞いた。
 天候を甘く見て、チェーンもつけずにスピードを出した車がいたのだろう。
 俺はそう思った。
 遠くに見える駅前の広場から、悲鳴のような声が聞こえる。どうやらその馬鹿なドライバーは、よりにもよって駅前の広場に突っ込んだらしい。
「きゅ、救急車だ、救急車!」
「どこの馬鹿だ、ちくしょうッ!」
「いってえ、いてえよ、くそ、いてえよッ!!」
 助けを求める声、痛みを訴える声、事態を収拾しようとする声、様々な声が聞こえてくる。その声が、俺の推測を確信にかえた。
 何が起きたかはわかった。
 だが、わからないこともある。
 破砕音や、甲高い悲鳴はともかく。
 どうして、現場にいる人たちの声が、こうもはっきりと聞き取れるのか。
 その理由が、俺にはわからなかったのだ。
 耳元から携帯を離した俺は、そこから聞こえてくる事故現場の阿鼻叫喚を、どこかぼんやりとしながら聞き入っていた。
 正気にかえったのは、そこから小さく俺の名を呼ぶ声がしてからであった……





 ――結論から言えば、親父と母さんはこの事故が原因でなくなった。全身打撲、腹部臓器の損傷、出血多量、そういった説明がされたが、ほとんど覚えていない。
 だが、奇跡的というべきか、二人はなくなる直前までかろうじて意識を保っていた。両親ときちんと別れを済ませることが出来た点で、俺は他の被害者の家族よりも幸運だったのだろう。
 多分、二人とも、自分が長くないことを承知していたに違いない。余計なことはほとんど言わず、俺のこれからについてのみ、苦しげな息をはきながら話してくれた。
 そうして最後に、先に逝くことを謝り、俺のこれからの幸せを祈りながら、親父と母さんは、ほとんど同時に息を引き取った。
 最後の最後まで、誇るべき親だった二人の亡骸にすがり、俺は物心ついてからはじめて、人目をはばからずに号泣したのである。
 そして、心に決めた。
 この両親が生きていれば、助けたであろう人を助けようと。為せたであろうことを為していこうと――





 高校生ともなれば、自分の面倒くらい自分一人で見ることが出来る。
 だが、だからといって一人暮らしが許されるわけではない。俺がよくても、世間がそれを許さない。
 そして、俺を引き取ることの出来る家族は、母方の祖父母しかいなかった。親父の方は、天涯孤独であったらしい。あるいはそれだからこそ、あれだけ人との絆を大切にしていたのかもしれない、などと俺はぼんやりと考えたものだった。
 元々折り合いの悪かった祖父母だったから、俺は正直なところ、厄介者扱いされることを覚悟していた。まあ、全財産を他人にかすめとられるような男に、大事な一人娘をとられたのだ。祖父母の嘆きと、素直になれない感情もわからないではなかったから。


 だが、これは二人に対して、はなはだしい侮辱であった。否、母さんに対する侮辱でさえあったかもしれない。あの母さんを育てあげた祖父母が、そんな小さい器の持ち主である筈がなかったのだ。
 親父へのわだかまりがあったのは間違いないようだが、少なくとも、両親を失った孫に対してきつく当たるようなことは一切なかった。
 これで、引き取られた家で冷遇されたとかいうなら、グレたり、非行に走ったりと悲劇のヒーローを演じることも出来たかもしれないが、厳しくも甘い祖父と、優しく甘い祖母との暮らしは、悲劇に淫するよりもずっと楽しかった。
 二人が俺を気遣ってくれているのがわかるからこそ、両親の死の影を感じさせてはならない。何より、そんなみっともない真似をすれば、親父と母さんの価値まで引き下げてしまう。
 そう考えた俺は、意識して背筋を伸ばし、日々の生活を送り――やがて、意識しなくても背筋を伸ばせている自分に気付いたのである。


 そうして、両親の死後、つつがなく高校生活を送り、大学入学を決めた俺を見て、安心するように祖父が、そして祖母が他界した。
 これは事故などではなく、寿命によるものだったが、それで寂しさが拭えるものでもない。
 これで天城家は俺一人になってしまったのだな、と祖父母の葬式を終えてから、俺はようやくそのことに気付き、遺影に向かって落涙したのである。
 



 家を処分したのは、大学から遠いということもあったが、祖父母との会話が息づいている家の中にいるのが苦しかったという点が大きい。今思えば、祖父母が俺を家に引き取ったのも、両親との思い出が残った家で暮らすことが、あまり良い影響を及ぼさないと考えたのかもしれない。今となっては確かめようがないことだが。
 元々、たいして大きな家でもない(爺ちゃん、ごめん)し、こういうときにありがちな親類縁者がしゃしゃり出てくることもなく、俺は大学で紹介されたアパートに移り住み、新しい生活を始めることになった。
 考えてみれば、両親の死から、祖父母の死まで三年あまり。この短い間に、親族と呼べる人たちをまとめて失ってしまったわけだが、せめてもの救いは、俺がある程度の年齢に達していたということか。これが幼年期であれば、かなり深刻な影響が出てもおかしくなかっただろう。


 ともあれ、大学に入った俺は、将来のことにも目をむけなければならなかった。
 親父や母さんが生きていれば、助けられたであろう人を助け、為せたであろうことを為すという気持ちは揺らがなかったが、あいにく人間は志だけでは食っていけない。
 歴史や文学の方面で職が得られれば言うことはないが、それも簡単にはいかないだろう。そう思いながら、しかし、俺は焦らなかった。爺ちゃんがよく言っていた言葉がある。
「千里の道も一歩から。将軍杉にも苗木の時はあったのだ。焦ったところで、良いことなんぞ何もないわい」と。
 その言葉を全面的に信奉している俺は、大学生活の大半を本の渉猟に充てようと決めた。知識を蓄えることは、全ての基礎になるであろうから。



 そうして一年あまり。
 転機は――天機は訪れたのである。





◆◆



 

 日はいつか完全に没しており、あたりには風にそよぐ草木の音と、地を駆ける枯葉の音だけが木霊していた。
 ここで働いている小姓が、しずかに灯火に油を足して、一礼して去っていく。
 俺は視界の端でその姿をとらえつつ、黙して聞き入る景虎様に告げる。
「以上が、越後に来るまでの私の軌跡です、景虎様――」
 言うまでも無いが、景虎様に全てを伝えたわけではない。特に携帯とか言ったところで理解は難しいだろうし、まして異なる世界と来た日には、俺自身説明できない。
 だから、口にしたのは俺があの行動に至った理由と、そして景虎様が口にした言葉への答えだった。
 自分自身の価値が低い、というあの言葉は、否定しておかねばならない。そんな筈は、ないのだから。
 たしかに、時に命を捨てて物事に望む時はあった。春日山城で景虎様を討とうとしたときのように。
 だが、勝利を得るためにはそれしかなかったから、そうしただけである。決して、命を粗末に扱ったわけではない。


 景虎様の口が、ゆっくりと開かれる。
「颯馬」
「はい」
「颯馬は、ご両親の死に、責任を感じているのか? だから、お二人の志を継ごうとしているのか?」
 その言葉に、俺は首を横に振る。
 正直に言うと、責任を感じていないといえば嘘になる。
 あの時、遅刻しなければ。あの時、携帯を使わなければ。あるいは別の結果が出ていたのかもしれないと、そう思ってしまうから。
 だが、それはほかならぬ両親から否定された。祖父母からも否定された。二人の死に罪ある者がいるとしても、それは俺ではない、と。だから、その死に引きずられてくれるな、と。


「――子供の私が言うのもなんですが、私の両親はすごい人でした。権力だの財力だのがあるわけではなかったですが、それでもたくさんの人たちに慕われて、いつも笑顔で過ごしていました。親父は――ではない、父は、ただでさえ年がら年中七難八苦に襲われているような人でしたし、母もその後始末で大変だった筈なのに、家から笑い声が絶えたことはなかったです」
 もちろん、二人とて人間だ。落ち込むことも、あるいは意見が違って喧嘩したりもしていたのだろう。だが、そういった面を子供に見せることはなかった。ただそれだけでも、すばらしい親だと、俺は断言できる。
「今の私より何倍も経験があって、知識があって、そして心が強かった。もし、あの二人が生きていて、今の私の立場にいれば、私とはくらべものにならないくらい、景虎様のお役に立っていたことでしょう」
 無論、すばらしい親=優れた武将というわけではないが、最低でも俺と同程度以上のことは出来ただろう。
 もしかしたら、親父なら、晴景様に勝利をもたらせたかもしれないとも思う。母さんも一緒にいれば、間違いなく春日山城を焼くような状況には持ち込まなかっただろう。
 さすがにこれは口にしなかったが、それでも俺の脳裏にはそんな考えがよぎった。


 景虎様は俺の言葉を肯定も否定もせず、静かに先を促した。
「子が、親を継ぐは当然のことだと、そんな風に真面目に考えているわけではありませんが、私自身、望んでいるのです。両親が生きてあれば、救えたであろう人を救いたい。為しえたであろうことを為し遂げたいと。私が誰かを救えれば。私が何かを為しえれば。それは、俺が生きた意味はあったということの、確かな証明になるでしょう? それは、俺を生み育ててくれた両親が、生きた価値と意味をも証明することになると思うのです。そうして、祖父母のそれをも」
 俺はほっと息を吐き、そして言った。


「――それが、天城の家でただ一人生き残った私の務めだと、そう思うのです」


 時代がかった考え方だと、自分でも思う。他人に言ったところで肩をすくめられる類の考え方だし、実際、高校でも大学でも、俺と話の合う奴は少なかった。
 だが、家族のことを知るのは、もう俺一人しかいない。もちろん、両親の友人知人は覚えているだろうし、何かの拍子に話に出ることもあるだろう。だが、家族の平生を知る者は、俺しかいない。彼らが誇るに足る人生をおくったのだと証明する者も、俺しかいない。


 ――だから、示したかった。天城の家の者はみな、誇るに足る人生を歩んだのだと。歩んでいるのだと。


 そして、そんな俺に出会えてよかったと、そう思ってくれる人が、たとえ一人でもいたならば。
 それは俺を育んでくれた全ての人に対する、何にも優る餞になるのではないか。


 そんなことを考えながら、俺は景虎様に微笑みかける。
「だからこそ、死に急ぐ心算はありません。俺が命を軽んじることは、俺を育ててくれた全ての人たちへの侮辱だからです。だから、あの時、景虎様が口にしたことは――」





「――そうやって、ずっと自分を偽り続けてきたのだな、颯馬は」





 その声は、やけに大きく、俺の耳に響いた。
 笑みが凍りつく。
 俺は戸惑いながら、景虎様に問うた。
「……え? 今、なんと?」
「哀れだ、と。そう言ったのだよ、天城颯馬。そなたの生き方が。そして、そなたを育んできた者たちが」


 正直なところ。
 俺自身について、何を言われようと構わなかった。自分でも、少なからず自覚はあったからだ。
 だが、家族を哀れまれることだけは我慢ならなかった。
 たとえ、哀れみの目線を向けるのが、景虎様だったとしても。




◆◆




「そなたの話は、わからぬところも多かったが」
 景虎は、表情を消した天城に向けて、言葉を発する。こんな表情で天城に見られたことは、かつてない。それはまぎれもない怒りであった。
「それでも、そなたの故郷が、平和で豊かであったことはわかる。戦の影もなく、税で苦しめられることもない、そんなすばらしい場所だったのだろう」
「……そうですね。すばらしいかどうかは、多少疑問の余地がありますが、戦のない、平和な場所でしたよ」
 何かをこらえるような、低く押さえた天城の声。
 だが、それに怯む景虎ではない。あるいは、ここで天城と道を分かたれることになるかもしれないが、それでも、このまま放っておけば、遠からず天城は破滅するだろう。そのことがわかっていて、黙っていることなど出来る筈がなかった。


「――そんなことよりも、どういうことですか。俺の家族が、哀れだというのは」
 いかに主君とはいえ、許せぬことがある、と。景虎は天城があえて言葉にしなかった声ならぬ声を聞いた気がした。
 その声からは、景虎への敬意が失われつつあった。
「そのままの意味だ。そなたが死に囚われぬようにと、おそらくは最後の力を振り絞ったのであろうに、そなたは未だ囚われたまま。それどころか、そのことに気付きもせず、冥府への道を今も歩み続けている。これを哀れと言わず、なんと言えば良い?」
「――ッ」
 ぎり、と。天城が奥歯を噛み締める。
「だから、言ったでしょう。俺は親父たちに言われて――」
「そうだ、言われて、心に蓋をしたな。父君の志を継ぐという決意で、さらにその上に蓋をした。己が父君と母君を殺したのだという罪の意識を、胸奥に押し込めるために」


 もっと早くにこの話を聞いていたら、もっと早くに気付けただろう。
 景虎は天城の生い立ちに、何がしかの戦の影があるものと思っていた。そうでなければ、この若さであれだけの巧妙な戦略を練ることも、容赦のない指揮を揮うことも出来ないだろうからである。
 しかし、それを確認することは、天城の心を抉ることになりかねぬ。姉である晴景への無私の態度を見れば、信頼に値する人物であることは明らかだったから、それ以上を確認する必要はないとも思っていた。
 時が来れば、話をする機会もあろう。その考えに疑問を抱いたのは、佐渡での戦の詳細を聞いた時。
 甲冑もまとわぬ平服のまま、本間の軍勢に突っ込んだという天城。それを聞いたとき、危惧は形となり、このまま放っておいて良いのかと己に問うた。
 そして今回の件。
 景虎ははっきりと確信した。
 天城の胸に巣食う、底知れぬ虚ろの存在を。
 



「戦とは……」
 口を開いた景虎を、天城は訝しげに見つめる。
 だが、それに構わず、景虎は続けた。
「戦とは、殺し合いだ。己が望むものを得るために、他者が望むものを踏みにじる修羅の業。それゆえにこそ古人は兵を不祥の器とし、それを用いることに幾重にも枷を設けた。だが、それでも戦は絶えぬ。罪なき民を巻き込み、大名たちは望むままに兵を集め、他国を攻め、日ノ本は長きに渡る戦乱の雲に覆われている」


 そんな修羅の業に、何処かは知らねど、平和で豊かな遠国からやってきた者が巻き込まれた。
 奇妙な縁にて長尾晴景に仕え、その信を得て、越後随一の猛将を討ち、数千の兵を率いて景虎の前に立ちはだかる。そうして、その大軍を縦横に駆使し、真っ向から矛を交え、ついには居城と自らの命を焼き尽くしてまで、勝利を得ようとした。
 全ては、命を救われた主のために。
 それは、越後の者であれば、知らぬ者とてない天城颯馬の戦絵巻。
 だが、しかし。
「――どうして、ためらいなく戦が出来た? どうして、ためらいなく人を殺せたのだ? さきほどの言を聞けば、そなたは自らの手を血に染めたことさえなかったであろうに。殺さなければ殺されるところであったということはあろう。だが、そなたは戦のためとはいえ、刃を収めた者も討ち果たした。柿崎の弥三郎を討った時のようにだ」
「……ッ」
「いや、ためらいはしたかも知れぬ。苦しみもしたかも知れぬ。だが、そなたは刀を振るった。父君の志に従い、姉上の恩に命をかけて報いてくれたのであろう。それでも、たとえ戦うべき理由があったとしても、はじめて戦の采配をとった者が、はじめて人を殺そうという者が、あそこまで決然と振舞えるものではない。戦らしい戦をしたこともないものが、そう振舞えるのだとしたら、その者は天性の戦人(いくさにん)か、あるいは――すでに、人を殺した罪を知る者以外にないだろう」


 天城の身体が、ぐらりと揺れる。
 その目に、かすかな惑乱の色が浮かぶ。
「つまりは、そういうことだ。そなたは、父君と母君の死の責任を感じている。いや、自分が殺したと、殺したようなものなのだと思い続けていた。親殺しは大罪だ。その大罪を背負い続けてきたそなたにとって、見も知らぬ敵兵を討つ痛みなど、大したものではないだろう。まして、そなたは父君の志を背負って戦っているのだと、そう思い込んでいたから、なおさらだ」
「ち、ちが……」
「違わぬよ。無論、そなたがさきほど言った言葉が、全て偽りだなどと言うつもりはない。だが、その裏に二親の血を浴びたそなたがいるのも確かなのだ。もう一人のそなたは、今や幾千の血潮を浴びて、幾万の怨嗟の声を受けて、泣いているのではないか……もう、終わりにしたいと」


 父の志を継ぎ、天城家のために、今は亡き家族のために戦う。
 そんな輝かしい決意の裏で、全身を血泥に染めて虚ろに佇む天城の姿が、景虎には見える。
 それは多分、天城の二親が亡くなったその時に生まれた、良心に刺さる鋭い棘。親を殺したという罪の意識。
 誰かがそれに触れていれば、天城自身ももっと早くに気付けただろうが、皮肉にも、家族の優しさが、その存在を気付かせなかった。
 もしも、そのまま平穏に生きていたのならば、あるいは気付かずに一生を終えることも出来たかもしれない。
 だが、天城は戦に巻き込まれてしまった。
 そして、抜かれることのなかった棘は、人を殺すという行為に伴う心身の痛みを鈍磨させた。
 すでに親を殺したのだ。その上で他人を、しかも自分の命を狙う敵を殺したところで、何ほどのことがあるものか、と。


 そして、一度他者の血を浴びてしまえば、もう気付くことはできない。
 天城は、人を殺すことが、耐えられないほどの痛みではないと、そう判断し、己の名分のままに策を練り、采配を揮い、幾十、幾百、幾千もの血潮を浴びる。
 その奥底で虚ろに佇む自分の姿に気付かぬままに。


「だが――少しずつ、しかし確実に、それは影響を及ぼしていたのだろう。そなたは、自分自身の価値を低く見積もってなどいないと言いたいだろうが、真にそうか? 春日山城で私と対峙した時。佐渡の地で本間軍と矛を交えた時。そして京で死屍の山に埋もれていた時。そなたは本当に、自分自身の命に優る価値を、その果てに見据えていたのか? 命を賭しても為さねばならないことは、確かにあるだろう。だが、それは為すべきことを全て為した後に、はじめて選ぶことができるもの。春日山で、佐渡で、そして京で、そなたは本当に為すべきことを為したか。その上で、己が命を懸けたか。よく考えてみるが良い。答えは、そなた自身が一番良く知っている筈だ」


「う、あ……」
 今や、天城の顔は蒼白を通り越して、土気色だった。
 すぐにも倒れてしまいかねない天城の痛々しい様子に、景虎は目をそらしそうになる。言葉を止めそうになる。
 だが、すぐに丹田に力を込め、己の弱気を振り払った。
 闇は払われねばならない。
 穢れは祓われねばならない。
 それがどれだけ辛くとも。どれだけ苦しくとも。
 このためにがこそ、景虎はここまで来たのだから。宮中の政務も、軍務も、全て後顧の憂いの無いように仕上げた上で。高野山に来るまで間があいてしまったのは、そのためだった。



「か、かげ……お、おれ、は……」
 両の腕で、自分の身体を抱き抱えるように竦む天城。
 その身体は瘧(おこり)にかかったように震えがとまらなかった。
 景虎の剣勢は、天城が閉ざしていた心の蓋を、両断することに成功したのだ。
 だが、それは必然的にもう一つの事態を呼び起こす。
 すなわち、これまでは耐えられていると思っていた戦の罪業が、まとめて天城に襲い掛かろうとしているのだ。それだけではない。京の地で行っていた死者の葬送すら、常人では耐えられるものではない。半月もの間、天城が一人でさらされ続けた怨嗟と怨念が、その心を腐食させていく。
「あ、うあ、ああ…………あ?」
 その責め苦に、一人で耐え切れるほどに、人の心は強くはない。


 だから。


「……颯馬」
「……か、景虎、様?」
 穢れに飲み込まれかけていた天城は、暖かく、柔らかな感触を総身に感じて、きつく閉ざしていた目を見開き、間近に――本当にすぐ近くに、景虎の姿を見て、息をのんだ。
「な、何を……なさって?」
「今の私は颯馬の主ではない。その心を慮る一人の女だ。そのように堅苦しい言葉を使わずとも良い」
「あ、え?」
「すまぬな。心に、土足で踏み込むような真似をしてしまって。許してくれとはとても言えぬが、ただわかってはほしい。私も、京で留守を守ってくれている兼続も、定満も、そして颯馬の配下の者も。あの子供たちもそうだ。颯馬に、元気でいてほしいのだ。いなくなってほしくないのだ」
 そういって、強く抱きすくめられ、天城は小さく声をもらす。
 痛みではなく、その対極の感情ゆえに。
「ここは御仏の聖地。そなたの穢れを祓うに、ここ以上の場所はない。吐き出してくれ。そなたの胸に巣食った何もかもを。この長尾景虎、全身全霊をもって受け止めてみせよう。一日で無理ならば、二日かければ良い。二日で無理なら、三日かければ良い。幾日でも付き合おう。だから――」



 どうか、本当の颯馬に戻ってくれ。



 その言葉を最後に、天城の意識は静かに闇に落ちていった……




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