「あ、天城様。いらっしゃいませ」
武田の陣中を訪れた俺を出迎えてくれた晴貞の顔からは、出会った時に張り付いていた憂いの色が綺麗に剥がれ落ちていた。
にこりと微笑むその顔を見て、俺はほっと安堵の息を吐く。晴貞の状況を知るだけに、安易に様子を見に来られなったのだが、どうやら虎綱はとてもうまくやってくれたようであった。
くわえていうと、武田の将兵にも歓迎されているらしく、その証拠に、さっきから俺の首筋にちりちりと視線を感じて仕方ない。こう「俺たちの姫様に何しにきやがったこんちくしょう」的な怨念がありありと感じられる視線が。
上洛中、虎綱を訊ねて来た時も似たようなものだったが、確実に圧力を増しつつある。どこのファンクラブだ、貴様ら。
「天城様、どうかなさいました?」
「あ、すみません、ちょっと考え事を……ところで、虎……ではない、春日殿はいらっしゃいますか?」
「さきほど、陣中の見回りに行かれましたが、おそらくじきに戻ってこられると思います。あ、今、飲み物を持ってきますので」
そういってそそくさと立ち去る晴貞。
一応、加賀守護で、つまり上洛軍で一番偉い人なのだが……まあ、晴貞自身、すすんでやっているようなのでよしとしよう。
晴貞は、一兵も引き連れていない身で公方様にお目通りするのははばかりがある、と言って義輝には謁見していない。当然、宮中での行事も不参加である。加賀守護としてそういった場へ出れば、相応の義務を果たさなければならず、今の自分にそれは無理であることがわかっているのだろう。底意地の悪い公家(少し偏見あり)への抵抗もあるのかもしれない。
かくて、虎綱が戻るまでの間、俺は晴貞とのんびりお茶なんぞ飲んですごした。
俺も晴貞も口数が多い方ではないので、賑やかで話題が絶えない席、というわけにはいかなかったのだが、話が途切れても、双方、お茶をすすってほっと一息つき、互いに顔を見合わせて微笑をかわし、そして再びどちらかが口を開く、という感じで、気詰まりさを感じることはなかった。
虎綱から様子を聞いてはいたし、時々は会っていたのだから、晴貞が元気を取り戻しつつあったのは知っていたが、こうしてきちんと差し向かいで話すのは久しぶりである。眼前の晴貞に、加賀の地で感じた憂愁は見受けられず、上洛行に半ば強引に連れてきたのは間違いではなかった、と俺は内心で安堵した。
もっとも。
(この短期間で、何もかも忘れるなんて無理だろうけどな)
俺は胸中に浮かんだ苦い思いを、お茶を飲んで、もう一度奥底に押し戻す。心の傷を癒す方法なぞ、時間が解決するのを待つことくらいしか、俺は知らなかったから。
しばらくすると虎綱が戻ってきたので、俺は先日、久秀から聞いた鶴屋のことを話そうとして。
はたと言葉を止めた。
「――天城殿、どうなさいました?」
突然黙り込んだ俺を見て、虎綱が不思議そうに首を傾げる。
当初は遠慮がちで、俺に対する警戒、というよりも緊張を隠せずにいた虎綱だったが、上洛行を共にしたことが功を奏したのだろう、いつの間にか気兼ねなく話が出来るようになっていた。
特に加賀を過ぎてから、だろうか。虎綱の背がしゃっきりと伸びたように感じ始めたのは。
晴貞が虎綱に守られ、かわっていっているように。
虎綱も晴貞を守ることで、これまでは気付き得なかった何かを、感得することが出来たのかもしれない。
あるいは、それほど難しい話ではないのかもしれぬ。
二人とも控えめな性格で、他人への気遣いをしすぎるくらいにしてしまう人たちだから、苦労性の女性同士、話が合っただけかもしれない。話の合う友達がいるかいないかは、結構、その人の為人に大きな影響を及ぼすであろうから。
(そして俺は、そんな二人を前に、遊女がどうこうとか言い出そうとしているわけか)
ありえん。なんだ、その空気読めなさは。無神経ってレベルじゃねーぞ、俺。
絶句してしまった俺を、案じるように見つめる二対の視線が余計に焦りを加速する。
久秀紹介の鶴屋さんとの話し合い、上杉だけで勝手にするわけにもいかないのでここまでやってきたわけだが、冷静に考えるまでもなく、そんな話を虎綱にするとか恥ずかしすぎる。
まあ、虎綱もれっきとした武田の武将なのだから、そういった方面も承知しているとは思う。それよりも、こんな話を晴貞の前でする方が問題だ。もはや人間失格レベルである。
「どう切り出したものだろう?」
『?』
呆然と呟く俺に、虎綱と晴貞は顔を見合わせ、同時に首を傾げるのであった。
――結果だけ記すと、何とかなった。
晴貞にお茶のお代わりを頼み、晴貞が席をはずしているわずかの間に虎綱にざっと状況を説明したのである。
案の定、頬を染める虎綱にいたく羞恥心を刺激されるも、そこは気合で気にしないように務めた。
そうして、虎綱に命じられた武田の将の一人と連れ立って鶴屋に行った俺は、この問題に一応のケリをつけたのである。
だが、本当の問題はこの後にやってきた。
この日、京では強い風が吹き荒れていた。
すでに季節は冬。鶴屋からの帰路、身を突き刺すような寒風にたえながら、俺は自陣に向かっていた。場所が場所なだけに、弥太郎たちには別の用件を頼んで遠ざけている。
不意に、俺は踏み出しかけた足を急停止させた。
異様な臭気を感じたのだ。
はじめて、というわけではなかった。確か、京に入った日、同じような臭気を感じはしなかったか。そういえば、あれも風が強い日であったような気がする。
「……なんだ、この臭いは」
顔をしかめながら呟いた俺に、たまたま傍らを通りかかった職人風の男が声をかけてくる。
「おや、京は初めてですかな、旦那」
「はあ、そうですが。どうしておわかりに?」
「なに、京で暮らす者が、この臭いを知らないなんてことはありえませんので」
なるほど、と頷いた俺はついでに尋ねてみる。
「この臭い、一体何なんですか。何かが腐ったような、妙に気分の悪くなる臭いですが」
「それは、しかたありませんでしょう」
俺の感想に、男は苦笑もせずに頷き。
そして、言った。
「人間の屍が腐れ落ちる臭いですからな。腐った臭いがするのも、気分が悪くなるのも、当然のことですよ」
「……何?」
「ですから、屍が腐る臭いなのですよ、これは」
思わず低声で問い返した俺に、男はあっさりと答えた。あっさりと答えられるくらいには、京の町では当然の認識となっているのだと思われた。
さらに男は話を続ける。
「このあたりは三好様のお陰で大分ましになりましたが、少し洛外に行けば、死体の散乱していた一昔前の京の姿がそのまま残っておりますよ。ことに今日のように風が強い日は、遠方からも空気が流れ込んできますのでな。京を知らぬ人たちは、戸惑ってしまいましょう――おっと、それでは私はこれで。お侍様、もし鎧刀の研ぎが必要であれば、表通りにある私の店をご利用くださいまし」
そういって、その男は妙に足早に立ち去ってしまった。何か約束でもあったのだろう。
だが、俺は後半の方はほとんど聞いていなかった。
応仁の乱以降、京は権力の中心地として幾度も戦火にさらされてきた。それは今の時代でも変わらない。当然、死者の数も、地方とは比べ物にならない数なのだろう。それは想像するに難くない。
――では、その死者はどのように葬られているのだろうか?
◆◆
「そんなもん、放り捨てられてるに決まってるだろ。あんた、東から来たとかっていうお侍か? ちょっと町外れの林とか藪とか見てみろよ。腐りかけから、完全に骨になった奴らまで、いくらでも揃ってるから」
まあ、今から行くところに比べたら、町はずれだって天国みたいなもんだけどね。
道案内に雇ったその子供は吐き捨てるようにそう言うのだった。
すでに日は稜線の彼方に沈み、西の空がかすかに茜色に染まっているのみで、京の上空は夜の闇に包まれつつあった。
その闇の中を、俺が松明を掲げながら歩いている理由は、昼間の男の話を、この目で確認するためだった。
本当なら日が出ている間に行きたかったのだが、兵同士の諍いやら陳情やらで時間をとられてしまい、こんな遅くなってしまったのである。
京の町は、中心部から離れるにつれ、その荒廃の色を濃くしていった。それに比例して、治安も悪くなっているようだ。そこかしこの物陰から、物騒な視線が注がれているのが、はっきりと感じ取れる。
時折、すれ違う人々も、剣呑な眼差しを向けてくるだけなら良いほうで、時には刃物をちらつかせながら、凄まれることもあった。
治安が悪いことは予想していたので、浮かないようになるべく粗末な服を着てきたのだが、やはりそれでもこのあたりの住民との違いは歴然としているようだった。
弥太郎や段蔵がいれば、この手の輩を恐れる必要はないのだが、あいにく二人は勉強中なので、今は俺一人しかいない。というか、わざわざそれを見計らって出てきたのだが。言えば反対されるに決まっていたし。
(思いっきり裏目に出たな、これは)
荒事になれば面倒なことになるだろうし、かといって金を出せば、おそらくこの先、ずっと同じことをして通っていかねばならなくなる。さすがにそんな無駄な出費はできん。
さて、どうしよう、と俺が考えていた時、突然、物陰から幾つもの石つぶてが放たれ、目の前の男たちの顔に襲いかかった。
男たちが両手で顔をかばってうろたえている隙に、俺の手を引っ張って、その場から逃げさせてくれたのが、今、俺の前を不機嫌そうに歩いている少年だった。
聞けば、少年はこのあたりの親なし子たちの親分格の一人だそうで、あの石つぶては子分たちのものだったらしい。礼を言いたいところだったが、子分たちはすでに隠れ家に戻っているそうだ。
「あんたがひどい奴じゃないって保証はないしな」
とは少年の言である。金を持ってそうな人間に恩を売れる好機だと思って手を出しはしたものの、当の本人が恩を恩と感じる人間かどうかはわからない。だから、自分一人で交渉したのだと少年は言った。
「なるほど、もっともだ」
窮地を救ってもらったのは確かだし、と俺は懐から何枚かの銀子を取り出す。ぶっちゃけ、今持っている全財産だったりする。
俺は金がなくても食う物や寝る場所に困るわけではないが、目の前の少年の服は見るからにぼろぼろで、身体も痩せ細って見える。おそらく、さきほど助けてくれた子分たちも似たような境遇なのだろう。
であれば、どちらに金が必要かなど比べるまでもない。
少年は俺の手からむしりとるように金をもぎ取ったが、その金額を確認して声を失っていた。
だが、すぐに睨むように俺を見据えて口を開く。
「おい、あんた。何か用があってこんなところまで来たんだろ?」
「ああ、そうだが」
「じゃあ、おれが案内してやる。あんたみたいな田舎者丸出しの奴がこの辺をうろうろしてたら、あっというまに穴の毛までむしりとられるぞ」
「――一応いっておくが、追加の謝礼は出せないぞ。それで全部だから」
「わかってらあ。もらった金の分の働きくらいはしてやるって意味だ。察しろ、馬鹿」
何故か怒られた。
とはいえ、相手の好意は十分に感じ取れたので、俺はその少年の言葉に甘えることにしたのである。
やがて、町外れを抜けると、いよいよあたりは暗闇に包まれていった。
すでに人家はなく、聞こえるのは俺と少年――岩鶴と名乗った――の足音と、時折吹く風に、草木がさびしげに揺れる音だけである。
いつか、上空は雲に覆われ、星月の光は遮られて地上に届かない。手に持った松明に照らされ、地面に移った俺の影も、心細げに揺れていた。
だが、何よりも異様なのは――
「――もうじきだよ」
岩鶴が低く押し殺した声で告げる。口と鼻に薄汚れた手ぬぐいを当てているからだ。
その理由は、もはや物理的な圧迫感さえ伴って、あたり一面を覆う悪臭にあった。悪臭と言っても色々あるが、これは正直例えようもない。
見れば、治安の悪い洛外を、俺を連れて恐れ気も無く歩いてきた岩鶴でさえ、薄ら寒い表情を隠しきれていなかった。
いつか、俺たちは互いに足を止めていた。そして、それを見計らったかのように風が止む。
そうして訪れる、耳が痛くなるような静寂。
その静寂の中、俺は――
「……なんだ、これは……?」
何かの物音を聞いた。彼方の暗闇から、地面を震わせて伝わってくる、これは――無音の悲鳴。
「……怨念だって、寺の坊さんは言ってた。亡者になった人たちが、苦しんでる声なんだって」
何を馬鹿な、と笑うことは出来なかった。
この耐え難い悪臭をさえ意識の彼方に追いやってしまいそうな、底知れぬ静寂。
ただ立っているだけで、全身の力を振り絞らなければならない、命無きがゆえの静謐。
黙りこんでしまった俺の姿を見て、岩鶴はやや急かすように促してきた。
「ほら、満足しただろ。来る途中でも言ったけど、ここは生きてる奴が来て良い場所じゃないんだよ。東国の侍なら、ここに家族が眠ってるってわけでもないんだろ?」
「……そうだな。ここは、やはりそういう場所なのか?」
「そういうって……あ、ああ、そうだよ。家族や親しい人が死んだら、墓くらいつくるだろ。ここにいるのは、疫病で全滅した家族とか、戦で死んだ遠国の兵士たちとか、そういった人たちばかりだよ――って、おい、あんたッ?!」
岩鶴の声を背中ごしに聞きながら、俺はゆっくりと歩を進めた。
最早瘴気の息に達した腐臭の中を歩き続けること、しばし。
上空を覆っていた雲が割れ、月明かりが暗闇を割いて、俺の眼前を照らし出す。
そこにあるは、命を失った人の果て。文字通りの屍山にして、血ではなく腐肉が流れる末世の具現。
百や二百では遥かに足らず。
千や二千ですら届かない。
幾重にも連なるその山嶺を織り成すは、万をも越える数の死屍。
そう。この全てが。
(土ではなく、骸で出来ているのか……)
声もなく眼前の光景に魅入りながら、俺は胸中でそう呟くのだった。
◆◆
古来より、京に上った遠国の軍隊は少なくない。勝利して京に残った者もいれば、敗れて京を去った者もいる。そして、敗れた者の敗因のほとんどは、略奪と暴行で人心を失い、軍の統制を失った末の自滅に近いものであった。
旭将軍木曽義仲の例をあげるまでもなく、京に上った軍隊がもっとも気をつけなければならないことは、軍紀を保ち、人心を得ることにある。
その点、上杉、武田両軍はさすがというべき統制を発揮し、京に入って数日、略奪も暴行も起こすことはなかった。
都の人々は安堵の息を吐き、自然、両軍を好意的に見ることになり、そういった人々の態度が将兵の気持ちを高め、また奮い立たせ――といったように、良い循環が兵士と民の間に出来つつあったのである。
とはいえ、入京してまだ半月も経っていない。何かの拍子で、評価が逆転しないものでもなかった。
それゆえ、両軍の指揮官は、ここが節所と、将兵に引き続き軍紀を厳正に保つよう指示を下していた。
そんなある日、上杉と武田の両軍が大きく動いた。
この時期、京の内外の防備は三好家の軍勢が行っているため、上洛軍はいまだ役目もなく、日々の訓練や、あるいは仮設の陣所を立てることに専念していた。
その上洛軍が突然動いたのだ。三好軍の指揮官たちは、慌てて警戒態勢をとるように命じた。彼らがついに強攻策に出たのかと考えたのである。
もっとも、この三好軍の動きは、松永久秀の命令によってただちに押さえられ、上洛軍に武器を向けた将兵は処罰を受けることになる。
そうして、三好軍と、京の人々が不安げに見守る中、両軍が何を始めたのかといえば、洛外で放置されている死屍の葬送であった。
兵士たちが林や藪の中に入り、散乱した死屍を地に埋め、僧侶たちが念仏を唱えて冥福を祈るに至って、上洛軍の真意に気付いた人々の口から歓声があがったのは当然のことであったろう。
応仁の乱よりこの方、京を治めた勢力は幾つもあるが、放置された死者の葬送から始めた軍など、一つとしてなかった。現在、京を支配するのは将軍家であり、それを傀儡とする三好家であったが、この両家も同様である。
しかるに、遠国から来た田舎侍たちが、寒風吹きすさぶ洛外で、盛大に篝火を焚きながら、死者たちを弔ってくれているのである。両軍の人気が爆発的に高まるのは必然のことであった。
上洛軍はこの時、京中の寺社に少なからぬ金銭を献じていた。また、屍毒に対処するための医薬品や、あるいは体調を崩した者のために洛中の医者にも協力を依頼していた。当然、篝火を焚くのも無料ではない。それらに費やした資金はかなりの額にのぼった。
どれくらいかというと、余裕をもって用意していた上洛のための軍資の余剰分を、ほぼ全て使い果たす計算になるくらいである。
この凄まじいまでの出費にためらい、反対の声を挙げた者は少なくない。だが、上杉軍長尾景虎、武田軍春日虎綱の両将は迷うことなく諾を与える。
後にそのことを知った人々は、この二将軍の仁慈の心に、惜しみなき賛辞を送ることになるのである。
長年の戦乱で荒廃していた京の都の暗部である。八千の軍勢が総出であたったところで、半月や一月で祓うことはできない。それでも、京で初雪が降った年の瀬までに、都の大分部から死臭が消えたことは、疑いなく両軍と、そしてそれに協力した京の人々の努力の成果であったろう。
もっとも、洛外のさらに遠方にある死屍の山に関しては、ほとんど手付かずのままであったから、風が強い日には、これまでのように死臭が流れ込んでくることもあった。
しかし、それも以前に比べればほとんど意識にのぼらない程度であり、上洛軍への都の人々の感謝の心にいささかの影響を与えるものでもなかったのである。
新年を迎えるにあたり、上洛軍はそれぞれの陣屋でくつろいでいた。
買い求めたり、あるいは京の人々から寄せられた酒の樽を開けては飲み干し、開けては飲み干し、連日のように宴は続く。
気の滅入る仕事を数十日に渡って続けてきたのだ、その程度のことは当然であると将兵は考えていたし、事実その通りでもあったろう。
指揮官たちも、町の人々に迷惑をかけない限りは、多少羽目をはずしたところで大目に見るよう、暗黙裡に了解していたのである。
当然、三好軍の動向に関しては注意を払っていたが、洛中の松永久秀も、また畿内の三好軍も動く様子はなく、どうやら穏やかな新年を迎えられそうであると、多くの人々は安堵していた。
だが、その中に、天城颯馬の姿はなかった。
◆◆
「そういえば、兼続」
「は、何でしょう、景虎様」
「最近、颯馬の姿を見ないが、何か知っているか?」
主君の問いを受け、兼続は同輩の姿を思い浮かべた。確かに、ここ最近、その姿を見ていない。
ただ、それは別に不思議なことではなかった。
景虎や兼続はその立場上、将軍の傍近くに近侍しており、ほとんどを二条御所の中ですごしている。
一方の天城は、洛中の上杉軍内部での諸事を引き受けているため、自然、両者が顔をあわせる機会は限られる。つけくわえていえば、天城は明らかに御所を――というよりも、礼儀作法にうるさい場所を避けているから、余計に機会は少ないのだ。
「件の葬送のことで顔をあわせて以来ですから、かれこれ半月近くになりますね。おそらくそちらにかかりきりなのではありませんか?」
「そうか。死者を送るは大切な役目とはいえ、颯馬たちの役割は辛く厳しいものだろう。私も手助けが出来れば良かったのだが」
表情を翳らせる景虎に、兼続は自身も似たような表情になりながら、口惜しそうに言う。
「仕方のないことでしょう。疫病を御所に持ち込まれては困るとの公家の言い分、たしかに一理ありますから。それに、将軍殿下の御身をお守りするためにも、景虎様はここにいて頂かねばなりません。颯馬たちも、そのことは理解してくれているでしょう」
「……うむ。将兵にも厚く報いてやらずばなるまい」
「そちらも颯馬は承知しているでしょう。なんでも、松永殿から助言を得たとか言っていましたから」
そういった後、兼続はやや意地悪く笑う。
「まあ、具体的に何の助言を受けていたのかは言っていませんでしたけどね。後でそのあたりも追求してやります」
「ふふ、相変わらず兼続は颯馬に厳しいな。多分、颯馬のことだ。松永殿に遊女の世話でもしてもらったのだろう。兵にとっては重大な問題だし、颯馬はそういう点に聡いからな」
ぶふ、と兼続の口から妙な声がもれた。
「ちょ、か、景虎様?!」
「な、なんだ、兼続、いきなり大声を出してはびっくりするではないか」
「ゆ、遊女とか、いきなり仰るからですッ! 一体どこでそんなことをお聞きになったんですか! はッ?! まさか颯馬の奴ですかッ、おのれ颯馬!」
「ま、待て、兼続。いきなり太刀に手を伸ばすな。颯馬ではない。栃尾で軍略を学んでいた時、定満や実乃に言われたのだ。長期の遠征の時に注意すべき事柄の一つとしてな」
「あ、そう、でしたか」
景虎の言葉に、兼続は納得して太刀から手を放した。
定満にせよ、栃尾城主の本庄実乃にせよ、兼続から見れば大のつく先達である。また、その教えも的確なものであろうから、文句を言うことはできないのだが、景虎の口から遊女がどうこうとか出ると、どうしても違和感が消せない。景虎にはそういった面を知らずに、綺麗なままでいてほしいと願うのは、自分の勝手な感情である、と承知してはいるのだが。
そんな風に上杉家の主従が語らっていた時である。
従者の声がかかり、目どおりを願っている者がいる、と告げてきた。
兼続が名を問うと、従者はこう言った。
「天城様配下の小島貞興殿と、加藤段蔵殿のお二人です」
「すぐ通せ」
「はい」
景虎が命じると、兼続が小さく笑った。
「噂をすれば影、ですか」
「うむ。だが、あの二人だけで颯馬がいないというのが気になる」
「大方、まだ御所嫌いが直っていないだけでは?」
だが、兼続の言葉にも、景虎は表情を緩めない。何事か感じ取っているのか。
こういう時の景虎の神がかった鋭さを知っている兼続は、やや浮ついていた気持ちを慌てて引き締める。
そして、兼続は現れた二人の様子を見て、景虎の危惧が的を射ていたことを悟った。
「と、と……突然の、ほ、訪も……んぐ、う、うう」
「弥太郎、私が申し上げます」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、景虎に挨拶をしようとする弥太郎に、段蔵が短く告げる。
弥太郎は頷いて、わずかに膝を戻したが、その涙が止まる様子はなかった。
景虎にせよ、兼続にせよ、弥太郎のことは良く知っているし、言葉をかわしたことも幾度もある。
少女とは思えぬ膂力と、優れた武芸と、そして愚直なまでの忠誠心を併せ持った天城颯馬の側近。兼続などは、当初は天城同様、弥太郎にもあまり良い感情を持っていなかったが、その為人を知るにつれ好意を篤くしていき、今ではどうしてこの少女が颯馬に仕えているのか、と冗談まじりに惜しむ声を放っているほどであった。
その少女が、ここまで人目をはばからずに涙を流すなど、どう考えても吉報ではない。
その隣に座す加藤段蔵は、弥太郎と違って冷静に見えるが、それでも景虎の目は、段蔵の手のかすかな震えをとらえていた。
「――突然の訪問、まことに申し訳ありません。実は景虎様にお願いしたき儀があり、参りました次第」
「願い、とは?」
「京の町の外れに、死屍が折り重なって積まれている場所がございます。ご存知でいらっしゃいますか」
「うむ。葬りきれない死者たちを集めている場所があることは、殿下より伺っている」
「その場所の一つに、お出でいただきたいのでございます。このようなことを、景虎様にお願いするは万死に値すると承知しておりますが、何卒、何卒お聞き届けくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
そういって深々と頭を下げる段蔵。後ろに下がった弥太郎も、泣き顔のままそれに追随した。
死体が山と積もれた不浄の場所に来てくれなどという願いを、景虎はともかく、兼続が肯う筈がない。
だが、この時、兼続は口をはさまなかった。景虎の真摯な表情が、それを許さなかったと言っても良い。
「一つ聞く」
景虎の鋭い声に、段蔵は平伏したまま応える。
「は」
「それは颯馬の願いか。それとも、そちら二人の願いか」
「私ども二人の願いにございます。ただ、天城様に関わることであるのは確かでございます」
その言葉を聞いて、景虎はすっくと立ち上がった。
「出よう――兼続」
「御意。すぐに馬をひいてまいります」
御所を叩き出されてもおかしくない願いを、迷う素振りも見せずに頷いてくれた景虎たちの姿に、弥太郎は畳に額を打ち付けるように何度も頭を下げる。
「あ、ありがとう、ございます。ありがとうございますッ!」
「泣くことはない。弥太郎も、段蔵も、そして颯馬も、私にとっては大切な臣だ。そなたらの願いをはねつける理由なぞ、日ノ本のどこを探してもあろう筈もない」
「……感謝いたします、景虎様。兼続様」
段蔵の声に、立ち去りかけていた兼続が笑みを含んだ声で応じた。
「別に私に感謝する必要はないのだがな。景虎様がいかれるところ、お供するのが私の任だ。そんなことより、二人も急げよ。私と景虎様の先導をするのは大変だぞ」
「御意――弥太郎、戻ります」
「あ、は、はいッ!」
この日、京の都を歩いていた人々は幸運であったかもしれない。
大地を蹴りつける馬蹄の音。文字通りの疾風となって駆け抜ける四つの騎影は、越後上杉軍において最精鋭と称するべき者たちであったから。
その神技ともいえる馬術の一端なりと目にすることが出来たことは、末代までの語り草となるであろう。
――もっとも。
「……なんじゃ、ありゃあ」
呆然と騎馬が駆け去った方角を見送る者たちは、自分たちが目にしたのが誰であるかさえ気付くことが出来なかったのだが。
そうして、景虎たちがたどり着いたところは、段蔵の話していたとおり、京に幾つもある死屍の野の一つであった。場所が場所だけに、誰一人いないと思われたのだが、景虎たちの馬蹄の音を聞き、幾人かの子供たちが駆け寄ってくるではないか。
「どうしてこのようなところに童がいるのだ?」
景虎の訝しげな問いに、弥太郎が慌てて答える。
「す、すみません、近づかないように言っているのですが、その……」
「天城様に恩があるとかで、こうしていつも様子を見てくれているのですが――岩鶴、弟妹たちは連れてくるなと言ったでしょう」
段蔵は、後半を駆け寄ってきた子供たちの中で一番年上とおぼしき少年に向けていた。
「仕方ねえだろ。皆、あいつのことが心配でしょうがねえんだよ。おれだって、こんなところで野垂れ死にされたら、寝覚めが悪くて仕方ねえよ」
少年はそう言いつつ、景虎と兼続に胡乱げな視線を向ける。
「この人たちが、あいつの殿様かい?」
「そうだ。だが、紹介している暇はない、天城様は?」
「……いつもんとこで、いつもどおりにしてるよ」
その時、少年の顔に浮かび上がった表情を、景虎ははっきりと見た。
恐怖という名の、感情を。
そうして。
「あ、あれ、か、景虎様ッ?! うわ、兼続殿まで?! ど、どうしてこんなところにッ?!」
景虎たちは、天城のいるところにやってくる。
見たかぎりでは、別に怪我をした様子もなく、健康を害した風にも見えぬ。
弥太郎たちの様子から、よほど差し迫った危難に見舞われたものと思い込んでいた兼続は、呆れたように口を開きかけるが、その隙をぬって口腔内に入り込んでくる死臭を感じ取り、慌てて口元をおさえた。
あまりに濃度の濃い死臭は、舌に感覚を感じさせるほどであったのだ。
そんな中、天城は一人、地を掘り、積み重なった死屍の山から手近な死屍を抱え、掘った穴に埋葬し、そしてまた土を掘る。その作業を繰り返していた。
それは上洛軍が京周辺で行っていたことと全く同じこと。何一つ特別なことではない。
完全に白骨化した死体もあれば、腐乱した屍もある。あるいは、ここ最近うち捨てられたのであろう真新しい骸も少なくない。
そういった屍を、一つ一つ丁寧に埋葬していく。さすがに一人一つの墓をつくるだけの余力はないので、大きめの穴に幾人もの屍を埋めるようにしていたが、それでも出来る限り丁重に扱うようにしていた。
ある程度、片付いたら、今度は僧を呼んで念仏を唱えてもらわねばなりませんね、と。
景虎に何をしているのかを問われた天城は、景虎たちが見慣れた顔でそう答えたのである。
景虎も、そして兼続も、言葉を失っていた。
弥太郎のすすり泣く声と、そして幼い子供たちの押し殺した泣き声だけがあたりに響く。
彼女らに目を向けた天城は、困ったように頬をかこうとして――その手についた蛆虫に気付き、服の裾で拭い去る――汚らしい染みで覆われた、死臭の染みこんだ服の裾で。
「だから弥太郎、ここには来るなと言ってるだろうが。それに岩鶴も、子供たち連れてくるな。怖がってるじゃないか」
「だ、だって、こ、こんな颯馬様、ほ、放っておけるわけ、ないじゃ、ないですか……」
「む、無理やり連れてきてるわけじゃねえ。こいつらが来るってきかないんだよ。俺たちが心配なら、あんたがさっさとその作業をやめれば良いじゃねえか」
二人の反応に、天城は小さくため息を吐いた。おそらく、ずっと同じ言葉の繰り返しなのだろう。
「だから、別に俺は無理はしてないって。ここにいる人たちを全部、俺一人で何とかしようと思ってるわけでもない。放っておけないから、俺が出来る範囲で、出来ることをしてるだけだ。そんな泣くほど心配することじゃない」
「――そう思っているのは、主様だけです。屍の山に埋もれ、腐肉の中で動き、死臭を吸って過ごし、それが何でもないことだと、そう言えることが――それを、本当に当たり前だと思っていることが……」
段蔵の語尾がかすれた。弥太郎のように、涙を流しているわけではなかったが、その言葉に込められた感情は、弥太郎のそれに劣るものではなかっただろう。
景虎は、その一部始終を聞き、全ての事情を察した。
弥太郎たちが、どうして自身をここに連れてきたのか、その理由も。
もはやそうする以外、天城を引き戻す術がなかったのだ。
「――颯馬」
「はい。景虎様にまで迷惑をかけてすみません。ですが、仕事に支障はないようにしてますので……」
「そうか。そこまで気を配っていてくれたのだな。だが、それならお前を思う配下の心にも、気を配ってやるべきではないか」
一歩、景虎が歩を進めた。
それを見て、天城は慌てて両手を振る。何かが――あまり口にしたくない何かが、その手から飛び散った。
「あ、景虎様、近づかない方が良いです。言うまでもないと思いますが、すごい臭いになっちゃってるでしょうから」
「で、あろうな。この場にいるだけで、さすがの私も怯んでしまいそうだ。命を懸けて戦場を駆けることには恐れはないが、この場の瘴気は耐え難い。もうここは、冥府の底に繋がっているのやもしれぬな」
さらに一歩、歩を進める。
「そうかもしれませんね。けれど、だからといってこのままにはしておけません」
「その心根、主として誇りに思う。いつからやっている? 幾人弔った?」
景虎は、その歩みを止めない。
「そうですね、半月前くらいからです。町の方が一段落ついてからですから。数は、三百人くらいでしょうか。骨ばかりの人もいたから、正確にはわかりませんが」
「……そうか」
少しずつ。少しずつ、景虎の足が早まっていく。
「まあ、一万が九千七百になったところで、大した違いはないのかもしれませんけどね」
寂しげに屍の山を見上げ、どこか照れたように呟くその姿は、景虎の良く知る天城颯馬の姿であった。
春日山城でも、戦場でも、この京の都でも、見慣れた姿。ここにいる天城は、何一つ普段と変わらない。
山と積まれた死者を前に、心を凍らせて作業をしているわけではない。
ただ当たり前のように、自分が出来る最善のことをやろうとしているだけだった。
かつて、晴景に勝利をもたらすために、春日山城ごと、自らを焼き尽くそうとしたように。
かつて、佐渡の地で、上杉軍に勝利をもたらすために、甲冑をまとわず敵陣に攻め入ったように。
――この大馬鹿者は、当たり前のように、目的の達成に『自分自身』を含めていないだけだったのだ。
「って、景虎様、だから近づかない方が良いと申し上げ――」
天城が慌てて退こうとしたときには、景虎の手は天城の身体に届いていた。
その手に感じるぬめりが何なのかなど、今の景虎にとっては考えるに値しない些事であった。
両の手を天城の頬に当て、景虎はまじまじと天城の顔を覗き込む。
突然の景虎の行動に、天城は目を丸くするばかりであった。
そんな天城に向かって、景虎は哀しげに囁いた。
「違うな」
「は、はい?」
「そなたは『自分自身』を勘定に入れていないわけではない。ただ――」
ただ――呆れるほどに、自分自身の価値が低いだけなのだ。大切な目的のためならば、いつうち捨てても構わぬと、本気でそう考えるくらいに。
景虎の言葉に、天城はかすかに息をのみ、そして面差しを伏せた。
それだけで、景虎にはわかった。目の前の青年が、そのことを自覚しているのだと。自覚した上で、それでも改めずに行動しているのだと。
そのことが――何故だか、むしょうに腹立たしかった。
「兼続ッ!!」
景虎の口から、滅多に聞けない本気の怒号が迸る。
「は、ははッ!」
「急ぎ、陣に戻って湯を沸かしておけ! 三百人分の穢れを払い落とせるだけの量をだッ!」
「しょ、承知!」
あの兼続が、反論すらなしえなかった。景虎の鋭気に背中を押されるように、兼続は来た時に優るすばらしい勢いで、この場を後にする。
「段蔵ッ!!」
「ははッ」
平静を装ってはいたが、段蔵の内心は驚きに満ちていた。景虎がここまで感情をあらわにしているところを、段蔵は話に聞いたことさえなかったからだ。
「京で一番の名医を陣にお連れするのだ、礼金は言い値で良い! ありったけの薬を持参するように伝えよッ!!」
「御意ッ!」
その命令に否やを唱える理由はない。段蔵はすぐさま馬上の人となり、京の町に馳せ戻る。これで、ここ最近感じていた、胸をしめつけるような心労からようやく解放されると確信して。
「弥太郎!」
「は、はは、はひッ!」
「この大馬鹿者を連れ帰る。手を貸せ」
「かか、かしこまりましたァッ!」
景虎の鋭気を真っ向から受け、背筋をぴんと伸ばした格好のまま、弥太郎は飛ぶような勢いで天城と景虎の元に駆け寄っていく。死臭も、怨念も、もう何も感じられなかった。
弥太郎は思う。
そういった不浄のものは、景虎の天地を震わせる怒気で消し飛んでしまったのかもしれない、と。
そうして、景虎と弥太郎に引きずられるように戻ってきた天城を迎えたのは、居残っていた子供たちであった。
皆、景虎の怒号を聞き、雷神でも仰ぎ見るような尊敬と、そしてほんの少しの畏怖をこめて景虎たちを見つめている。
年長の岩鶴と名乗った少年も同様で、直立不動の姿勢で固まっていた。
そんな彼らに、景虎はうってかわって穏やかな声をかける。
「皆々、心配をかけてすまなかったな。この者はもう大丈夫だ。ここにやってこようとしても、力づくで引き止めるゆえな」
その言葉を聞き、子供たちの間から小さな歓声があがる。
「岩鶴、と申したか?」
「はは、はい、岩鶴です。え、えっと、か、景虎様」
「ふ、そう硬くなるな――といっても、無理かな。すまぬ、君や弟妹たちを怖がらせてしまった」
「い、いえ、そんな……」
うつむく少年に、景虎は優しい眼差しを向け、少年たちにとって思わぬ提案をする。
「もし良ければ上杉の陣に来ないか。我が臣を気遣い、見守ってくれた恩人たちに礼を言いたい。君たちさえ良ければ、ずっと居てくれても構わない」
「あ、え、あの、それって……は、はい、あの、お世話になります! お前たちも良いよな?」
「うんッ!」
「わー、颯馬の兄ちゃんと一緒に遊べるの?」
「ご飯たくさん食べれるー」
わーい、と天城や景虎たちに群がる子供たち。
「こ、こらお前たち、お行儀よくしなさい!」
「構わない。子供は元気なのが一番だからな」
そういって、微笑みかける景虎の姿を見て、岩鶴は真っ赤な顔でうつむいた。
大分風向きが変わったと判断したのだろう。
それまで、景虎の怒号に完全に肝を潰していた天城がおそるおそる口を開く。
「……あの、ところでどうして景虎様は怒っていたのですか?」
「それは正確ではないな、颯馬」
「は?」
「怒っていた、ではない。怒っているのだ。今もまだ」
そう言う景虎の横顔は、怒っているといいつつ、どこか哀しげに見え、天城はそれ以上の問いを口にすることが出来なかったのである。