京の目前で松永久秀と出会ってから三日。
俺たちは未だ京の町に入ることが出来ずにいた。
久秀の説明によれば、上杉、武田らの軍勢が京を焼き払うのではとの流言があり、それを恐れた一部の町人や将兵が洛内の各処で不穏な動きを見せているらしい。
万一にも、それらのせいで両軍に被害が出ては、あらぬ諍いの種になりかねないため、彼らを説得ないし排除するための時間をいただきたいというのが、久秀の言い分であった。
一応、筋は通っている。あえて偽りと決めつける理由も証拠も、こちらにはない。景虎様と虎綱は、久秀の申し出た十日の猶予を、五日に区切った上で待機を了承したのである。
そんな両軍の前で、まるで京への道を塞ぐかのように陣を構えるのが、三好軍三千の兵であった。
見たところ、鎧武者の数は極端に少なく、ほとんどは農民を駆り立てた兵士たちであると思われた。武器甲冑は貧弱なもので、軍装も統一されておらず、とてものこと畿内を制した三好の軍勢とは思えない。
中でも将兵の笑いを誘ったのが、三好軍が抱える武具のみすぼらしさであった。ことにその中でも『細い筒の形をした、棒状の鉄の武具』に関しては、目新しさこそあったが、刀にしては刃がなく、槍にしては穂先がなく、どうやら鉄を棒状にした打撃武器だと思われたが、扱う兵士たちの慎重な手つきを見ていると、耐久力はさほどでもないようで、あれでは物の役に立つまい、と将兵はおおいに笑ったものであった。
しかも、その武器を持つ者が百人近くいるとなれば、三好家の武威を疑う者が出るのは避けられなかった。
そんな周囲の声を他所に、俺は三好家の軍勢を見ながら低く呟いた。
「なるほど、まずは三好家の武力を思い知らせて、機先を制するつもりか」
「颯馬様、どうかしましたか?」
「ん、弥太郎、少し頼んで良いか」
「あ、はい、なんなりと」
ごにょごにょと弥太郎の耳元でやってほしいことを伝えると、弥太郎は不思議そうな顔をした。俺がどうしてそんなことを言うのかがわからなかったのだろう。だが、特に反問もせず、言われたことを実行するために走り去る弥太郎。その弥太郎の背を見送るのももどかしく、俺は景虎様の陣に向かった。その次は武田軍の虎綱のところにも行かねばならないので、急ぐ必要があったのである。
そうして、期限である五日目。
それまで動きのなかった三好軍に慌しい動きが起きた。
上杉、武田の両軍は何事かと緊張を高める。
すると、三好軍から久秀があらわれ、呆れた表情を隠さずに状況を説明した。
なんでも、一部の強硬派が久秀らの説得を受け入れず、武力で上洛軍を追い払おうと京都から出て、こちらに向かっている最中なのだという。数はおおよそ三百というところらしい。
「こちらに向かっている軍勢は、細川家の手勢でね。勝ち目なんて無いに決まっているのだけど、連中は将軍家に対して無礼な行いばかりしてきたものだから、あなたたちが洛中に入って公方様にお会いになると、自分たちが誅殺されると思い込んでいるみたいなの。こちらの説得にも耳を貸さなくて、処遇に困っていたんだけど、まさか真正面から突撃してくるなんてね」
身の程知らずも甚だしい、と久秀は頭を振ってみせる。
「身に降りかかる火の粉は払わねばならん。蹴散らすが、構わんな?」
景虎様が念のために確認をとる。しかし、それに対し久秀はもう一度、頭を振ってみせた。
「いいえ、長尾様。こちらが軍を配備していたのは、こういう事態に備えるためなの。こちらの不始末は、こちらの手で片付るから、手出しをせずに見ていて下さいますか。それをお願いしに、ここまで来たんです」
「ふむ。ならば我らは手を出すまい。だが、こちらに被害が及ぶと判断した場合、勝手にやらせてもらうぞ」
「御意のままに」
景虎様に向かって完璧な礼をしてみせた久秀は、すぐに部下に合図を送る。すると、その部下は三好軍に見える位置まで駆けて行き、大きく紅の旗を振ってみせた。
それが合図だったのだろう。三好軍はそれまでの混乱が嘘のように整然と展開をはじめ、瞬く間に鶴翼の陣に似た陣形をつくりあげた。
ただ、通常の鶴翼と異なるのは、中央部隊がもっとも陣容が薄いことであった。精々二百程度しかおらず、これでは敵が中央突破を図った場合、止めることが出来ないのではないかと思われた。
三好軍が突破されれば、当然、次に標的となるのはその後ろに陣を布く上杉軍である。
それと承知している景虎様が合図を送ると、たちまち上杉軍も動き出す。
上杉軍が動き出すのを見ていた久秀は、てっきり迎撃の態勢をとるだけかと思っていた。しかし、上杉軍と、そして武田軍は久秀が予想していたものとは異なる動きをする。
「……ふーん。そう来るか」
久秀がくすりと微笑んだ。
久秀の眼前で、上杉軍と、そしてやや離れたところで陣を構えている武田軍は、皆一斉に馬を下りたのである。騎馬部隊が主力である両軍が、どうして戦闘を間近に控え、馬を下りるのか。
犀利な久秀の頭脳は一瞬にして、その答えを導き出した。
それは久秀にとって、目論みの一つが崩れたことを意味していたが、もともと相手の力量を試す意味合いが強かった策なので、外れたところで問題はない。
「ま、いいでしょ。とりあえず鉄砲の威力を田舎侍たちに教えておきましょうか」
その久秀の言葉を引き金にしたように、戦闘は劇的な変化をとげる。
次の瞬間、喚声をあげて突進してくる細川の部隊に向けて、三好軍の中央部隊から、天地をつんざくような轟音が響き渡ったのである。
そのあまりの凄まじさに、遠からぬ場所で聞いていた上杉、武田軍の将兵たちは慌てて耳を塞がねばならなかった。そして、そんな人間以上に動揺を露にしたのは、突然の轟音にさらされた馬たちだった。
良く訓練された軍馬であっても、こんな轟音を耳にした経験がある筈はない。それも続けざまに何度も何度も耳朶を打たれるのだ。元は臆病な草食動物である馬が、落ち着いていられる筈はなく、各処で馬の甲高い嘶きがあがり、暴れる馬が続出した。
しかし。
景虎の合図に従い、ほとんどの武者たちが馬から下りていたことが幸いした。
彼らは叫喚する愛馬をすぐになだめにかかり、結果として混乱は思ったよりも大きくならずに済んだのである。
もし、騎乗したままであったら、幾人もの武者たちが馬から振り落とされ、暴れる馬たちで陣中は大混乱に陥っていたかもしれない。
そんな上杉陣内にあって、絶対の自信をもって馬から下りなかった者が数名いる。そのうちの一人が口を開いた。
「――なるほど、あれが噂に聞く鉄砲というものか」
「御意。私も噂でしか聞いたことがありませんでしたが、威力もさることながら、この音が厄介ですね。騎馬部隊が思うように動かせなくなってしまう」
「うむ、颯馬の進言どおり、耳には詰め物をしておいたが、馬にそれは難しいであろうしな。馬が怯えずにすむように工夫しなければならないか」
「はい、それがよろしいかと。いずれ、馬たちも慣れてくれるかもしれませんが、一朝一夕には無理でしょうから」
俺と景虎様はそんなことを話し合いながら、久秀が戻ってくるのを待つ。
ようやく、京に入る日がやってきそうであった。
そうして、景虎様の傍から離れた時、不意に。
俺は鼻に異臭を感じた。遠く洛中から吹き付けてくる風に、今まで嗅いだことのない臭いを感じたからである。
「――なんだ?」
何かが腐ったかのような生臭さ。なぜか悪寒が背筋を貫くのを感じ、俺は臭いの元となっているであろう京の町がある方角に視線を向ける。
ふと気付いてまわりを見れば、俺と同じように異臭に気付いた者たちがそこかしこで見て取れた。
となると、俺の気のせいというわけではないのだろう。
その時、俺を呼ぶ弥太郎の声が聞こえたので、俺はそちらに向けて馬首を返す。しばらくすると臭いを感じることはなくなったが、何故かこの出来事は、俺の脳裏に刻まれて、離れようとはしなかったのである。
◆◆
とりあえず、将軍の第一印象は――
「小さい……」
「可愛い……」
「こ、こら、何を言ってるのだ、二人とも。将軍殿下を前に小さいだの可愛いだのと?!」
順番に、俺、定満、兼続の発言である。
しかし、聞こえないように小さく呟いた俺や定満と違い、兼続の声は間違いなく将軍の耳に届いたであろう。その証拠に、謁見の間に座る将軍が、ひくひくと口元を歪ませているではないか。
俺と定満がじとっとした目で兼続を見ると、兼続はやや怯んだように視線をそらせた。
「わ、私のせい、なのか……?」
同時に頷く俺と定満。
向こうでは、景虎様と話をしていた将軍が、やや声をひきつらせている真っ最中だった。
「……景虎、愉快な部下を持っているのう」
「――は、その、大変、失礼をいたしまして、申し訳ございませぬ」
景虎様が困惑もあらわに頭を下げ、顔を蒼白にした兼続が慌ててそれにならう。
頭を下げる主従の姿を見ながら、将軍は言葉を続ける。
「本来ならば、余への侮辱と判断し、天誅を加えてくれるところじゃが――」
将軍はそう言うと、くるくると巻かれた髪を揺らしながら、からっとした笑い声をあげた。
「遠く越後より参ってくれたそなたらに、そのような真似をすれば、将軍たるの器量を疑われよう。此度はさし許す。感謝せいよ、はっはっは」
その言葉に、兼続はほうっと安堵の息を吐くのだった。
「長尾景虎ッ」
「ははッ!」
「春日虎綱ッ」
「はいッ!」
「此度の上洛、真に大儀! 上杉、武田両家の将軍家への忠誠と、天下を思う義心、この足利義輝、決して忘れぬぞ」
「ありがたき幸せに存じます。主君定実の名代として、殿下の刀となりて、京にて将軍家に仇なす者どもをことごとく討ち払うでありましょう」
「あ、ありがたき幸せ。我が主、武田晴信に成り代わり、京にて将軍殿下の御為に懸命に働く所存です。なにとぞご信頼あって、諸事、御命じ下さいますよう」
上杉家と武田家の代表者が深々と頭を垂れ、背後に控えていた家臣たちがそれにならう。
無論、これで終わりではない。この後、宮中における催しやら宴やらが目白押しになっており、一日二日は一連の歓迎の行事で潰れるであろうと思われた。
この行き届いた準備は久秀の手になるもので、どうやら俺たちを洛外で待たせていた時、その詰めの作業も平行して行っていたらしい。
京は越後とは違う。そういった宮中との折衝や、公家との付き合いも必要となることは理解できる。
が、そちらの方面に関しては俺は無知も良いところである。公家たちはそういった行儀作法に通じ、武家に指導して金をとったりもしているので、細かい差異を指摘してはこちらを笑いものにしようとすると聞く。
越前では、宗滴のおかげで俺の無教養は問題にされなかったが、あれから兼続にそれなりに知識や作法を詰め込まれたとはいえ、本職の公家たちに通じるとは到底思えない。そして、俺がしくじる度に、越後上杉家の格が下がっていくとなれば、取れる方法は一つしかない。
「――つまり、三十六計、逃げるが上策なり、というわけだ」
かくて、俺の姿は洛外に待機している上杉軍中に移っていたのである。
無論、ただ逃げ出したわけではない。景虎様、兼続、定満ら指揮官たちが軒並み宮中に入ってしまった為、残った軍勢を率いる者が必要なのである。もっとも、上杉にせよ武田にせよ、軍紀は厳正に保たれており、指揮官が不在だからといって、乱暴狼藉にはしるような輩は滅多にいないが、なにしろここは京の都、甲信越の田舎とは誘惑の数も質も違う。しっかりとその辺は引き締めておく必要があったのである。
問題は、俺が誘惑に負けたらどうしようか、という点なのだが――
「その時は弥太郎に力ずくで引き戻してもらいますので」
「がんばりますッ」
段蔵と弥太郎の二人がいるので、そちらの心配もなさそうであった……
「とはいえ、あれも禁止、これも禁止では兵の士気に影響するしな……」
夜半。
三好家にあてがわれた邸の一室で、俺は今後の対応を考えていた。
上杉軍、武田軍、両軍あわせて八千の大軍であるから、その全員に目配りするなど不可能である。戦らしい戦こそなかったが、越後や甲斐の地からはるばるここまで命がけでやってきたのだ。ようやくたどり着いた京の都でくつろぎたい――露骨に言えば、京の綺麗な女性を抱きたいと考えるのは、まあ当然といえば当然であるし、それを軍紀で押さえつければかならず不満は出てくるだろう。
ゆっくり眠りたい、美味いものを食いたい、良い女を抱きたいと考えるのは、男として自然の欲求である。京にとどまるのが一日二日であればともかく、これからどれだけ滞在するかも判然としていない。おそらくは数ヶ月間の長きに渡るに違いなく、その間ずっと、そういった欲望を断ち切り、誘惑を退けろなぞと将兵に言える筈がなかった。
であれば、適度に発散させる必要が出てくるのである。そして、このあたりの手配はやはり男である俺の仕事であろう。
それに、と俺は頭上を見上げる。
俺はこうやって屋根の下でゆっくりと休めるが、上洛軍の大半は外で夜営を余儀なくされている。恵まれている者でも、寺の講堂あたりで雑魚寝である。これも早急に対策を考えないと、不満の種になるだろう。
最悪の場合、不衛生で疫病が発生する可能性さえ否定できない。無論、食料や水の確保はそれ以上に不可欠である。
他国の町に、何ヶ月も滞在するとなれば、現地でやるべきことはいくらでもあった。略奪暴行が一件でも起きれば、上洛軍の美名はたちまち醜名に変じてしまうだろう。そんな事態は断じて避けなければならない。
さらに注意すべきは、そういった事態を意図的に引き起こそうとする者がいることである。
誰か、などと考える必要もないだろう。この上洛軍を邪魔に思う者など、畿内には掃いて捨てるほどいるのだから。
そういった者たちの蠢動も未然に防がなければならない。
段蔵に頼んで軒猿に動いてもらってはいるが、軒猿はこの上洛行でもっとも働いてもらっている者たちであり、当然、人数も限られているから、あまり無茶は頼めない。
そのあたりの人材に渡りをつけようにも、俺にそんな人脈があるわけがない。
「一番良いのが、京に詳しい人に協力してもらうことなんだが……」
それでいて三好家に隔意を持ち、上杉・武田に好意的な人材、とそこまで考えて、俺は苦笑する。
「そんな都合の良い人がいるわけないか――」
と、その時。
「あら、格好の人材がいるのに、もう諦めちゃうの。残念」
「なッ?!」
突然、すぐ近くから発せられた声に、俺は思わず声をあげてしまった。
襖のすぐ外から聞こえる魅惑的な声。咄嗟に懐から鉄扇を取り出し、勢いよく襖を開ける。
すると、室内の畳の上に、月明かりが小柄な人影を映し出した。
その影を作り出している人物は――
「松永、久秀殿……」
「こんばんは、上杉の軍師さん。今宵は綺麗な月よ、部屋に閉じこもって考えに耽るのはもったいないわ」
そう言って、三好家の屋台骨を支える稀代の謀将は、くすりと、童女のように無垢な笑みを浮かべた。その瞳の奥に、怜悧な意思をのぞかせながら……
「どうやってここへ……って、普通に訊ねて来られただけですか」
「そういうこと。洛中のことで早急に話があるっていったら、門衛の人、こんな時間なのにあっさり通してくれたわ。そうそう、寝不足だったのか、案内についてきてくれた人は途中の廊下で寝ちゃってるけど」
「……まあ、その程度で風邪をひくような上杉の兵ではありませんが。何用ですか、それこそこんな時間に、松永殿がお一人でお越しになるとは」
俺がそう言うと、久秀はためらう様子もなく、俺に背を向け、縁側に腰を下ろす。そうして、自分の隣の位置を二回、軽く叩いてみせた。
早くこっちに来なさいと促すように。
相手の意図が読めず、俺はとりあえず言われたとおりにすることにした。松永久秀といえば、俺の中で謀殺の代名詞だが、景虎様ならば知らず、俺のような小者を討つために自ら足を運んだりはしないだろう。
内心でそんなことを考えている俺の耳に、久秀の柔らかい声音がこだまする。
「あんまり良い月だったから、興が乗ったの。久秀の策を見抜いた男がどんな奴なのか見てみたいなって」
「策、ですか?」
俺は首をかしげ、それが昼間の鉄砲の一件だと思い至った。
「鉄砲の威力は存分に発揮されたでしょう。細川軍三百が、あんなに短時間で皆殺しにされたんですから。皆、驚いていましたよ」
「でも、あなたがいなければ、もっと両軍は混乱してたでしょ。全軍を馬から下ろして、耳に詰め物をするよう指示したのはあなたって聞いたわ。越後みたいな田舎の侍が、どうして鉄砲のことを知っていたか気になるの。ようやく堺に少量入るようになったばかりの新しい技術よ。まかりまちがっても、越後になんて行く筈がないじゃない。これから技術が普及していけばともかく、今の時点ではね」
おれは用意していた言い訳を口にする。
「それは、少し前に堺に行ったことがあって、その時に見聞したのですよ」
「ふーん、そっか。じゃあ堺を支配する会合衆は何人いる?」
「は、はい?」
「その時の会合衆の代表の名前は? 堺の町は何個の区画に分けられてる? そもそも鉄砲は堺の重要な機密で、久秀たちにさえ簡単には売らないくらいなんだけど、一体どこで見聞きしたの?」
「……む、えーとですね」
思わず言葉に詰まった俺に、しかし、久秀は手をひらひらと振ってみせる。
「でもまあ、それは良いわ。あんたが鉄砲を知っていたという事実に違いはないわけだし。それだけでどのくらいの脅威かはわかるもの」
「……は、はあ、そうですか」
唐突に追求を断念した久秀に、俺は思わず目を点にする。
だが、もちろん久秀の話はそれだけではおわらなかった。
――というより、むしろ久秀としてはこちらが本題だったのかもしんない。
すなわち、いきなり久秀はこう言い出したのである。
「そんなことよりッ!」
いきなり声を高めた久秀が、ぐいっと顔を俺に近づける。
すると、必然的に久秀の秀麗な顔が、俺の目の前までやってくることになる。かすかに薫る芳香に、一瞬、めまいに似たものを感じてしまった。
だが、久秀はこちらの動揺など知ったことかと言わんばかりに口を開く。
「あんた、あの朝倉の頑固者が持っている九十九髪茄子を見たってほんと?」
「頑固者って……ああ、宗滴殿ですか。ええ、見ましたけど、それがなにくぉわッ?!」
いきなり久秀の両手が俺の胸元に伸びたと思った途端、勢いよくしめあげられました。
「教えなさい、どんな形してた?! 色は?! 艶はッ?! 茶は何だったの、味はどうだったの、いいえそもそも九十九髪茄子がどうしてあんな奴の手にあるのッ?!!」
「ぐお、が、い、いや、そんな仔細に観察したわけではな……ぐ、ないので」
「なんですってッ?!」
切れ切れの俺の答えを聞いて、怒髪天を衝く久秀。
どうでも良いが――いや、あんまり良くないが、人格変わりすぎてないか、松永弾正殿?
「く、こんな物の価値もわからないような奴が、九十九髪茄子を見るなんて――というか、師の遺品だからといって、久秀が譲れといっても譲らず、貸すことはおろか見せることさえ拒否したくせに、なんでこんな奴らに――屈辱だわ」
「なにかえらいことを言われてるような気がするのですが……」
久秀は呟いているだけのつもりだろうが、こうもすぐそばに顔があると、当然そんな呟きも全部耳に入ってしまう。おまけに、久秀からは何ともいえない良い香りが漂ってくるわ、密着しているから、女の子の柔らかい身体の感触が感じられるわで、絶賛動揺中の俺だった。とりあえず離してほしいが、今、下手に口をさしはさむと薮蛇だと勘が告げているので、ここは我慢する。
……決して、この状態をもうすこし楽しみたいなどと思ったわけではない。
額に汗をにじませつつ、俺が身動ぎせずにいること数分。
ようやく落ち着いたのか、久秀が俺の襟元を掴んでいた手を放し、ささっと身体をどかせた。
そして、まるで何事もなかったかのように澄ました声でこんなことを仰った。
「取引しましょう、天城颯馬」
「は、はあ?」
「あの頑固者が初対面の人間に九十九髪茄子を見せるとは、よほどにあなたたちは気に入られたのでしょう。その縁で、九十九髪茄子を久秀に譲らせるの。無論、代価はいくらでも払うわ」
「い、いや、しかしそれは……」
俺は宗滴の顔を思い浮かべる。
今きけば、あの茶器は宗滴の師の遺品だという。あの義理堅い宗滴が、他者に譲ることを肯うとは到底思えなかった。
「無論、あなたにも相応の便宜をはかりましょう。上洛中の上杉、武田両軍への完璧な援助と、莫大な恩賞に栄誉。朝廷より高位の官職を授けられるよう手もうちましょう。悪い話ではないと思うけど?」
「確かに、その見返りは魅力的ですが」
「なら――」
「しかし、お断りいたします」
きっぱりと言い切る俺に、久秀は一瞬、押し黙り、しばし後、その目に胡乱(うろん)な輝きを宿しつつ、俺をじっと見据える。
「何故、と聞いても良い?」
「宗滴殿が師の遺品を、金品や地位を理由に譲るとは思えませんし、譲るように説得するのもしたくないので。成果が見込めない契約を結ぶのは、詐欺以外の何物でもないでしょう」
「……なるほど、ね。少しは話が通じるかと思ったけど、主君が主君なら、配下も配下ということ?」
「あ、それは嬉しい評価ですね」
「別に褒めてるわけじゃないわよ。よくわかんないやつね、あんた」
ふん、と言いたげに顔をそむけた久秀は、すっくと立ち上がると挨拶もなしに背を向け、立ち去ろうとする。
だが、不意に立ち止まると、久秀はこちらを見ずに言葉だけ送ってよこした。
「暇つぶしにはなったから、一つだけ土産を置いていくわ。洛中の大通りのすぐ東に鶴屋という遊女屋がある。久秀からの紹介といえば、悪いようにはしないでしょ」
「……かたじけない」
「それと、そこにいる忍に、もう少し殺気をおさえるように言っておくことね。京の闇は、越後よりもずっと深いわよ」
それだけ言うと、久秀は今度こそ俺の前から姿を消した。
正確に言えば、俺たちの前から、であるが。
「――だそうだ」
一人になった俺が声をあげると、どこからか別人の声がかえってきた。
「まだまだ修行不足のようです。申し訳ありません」
「段蔵が修行不足なら、俺はどう形容されるべきなんだろうな。それはともかく、どこまで本気だったと思う?」
俺の問いに答えが返るまで、わずかな間があった。
「……おそらく、ほとんど天城様の為人を知るための演技だと思います。ただ、九十九髪茄子への執着は、偽りには聞こえませんでしたが」
「ああ、段蔵もそう思ったか。えらい迫力だったからなあ。よっぽど茶器に目がないんだな」
「そのようです。松永弾正といえど人の子ですか。ところで――」
「ん、どうした?」
やや段蔵の声の調子が変わったので、俺は注意深く聞き取るために耳をすませた。だが。
「その茶器の話の後、いやに長い間、くっついていましたね、久秀殿と」
「……キノセイダロウ」
「次の質問に他意はないので、正直にお答えください」
「……ナンデショウ?」
「もしかして、主様は小さな女の子が趣味なのですか?」
「直球だな、おい」
「重要なことですので、確認が必要です。主君の過ちを正すのも臣下の勤めなれば」
「勝手に人を変態にしないでくれ。俺の女性の好みはいたって普通だ。一般的だ。常識の範囲内だ。わかったか?」
「主様の主張は理解しました」
「……今気付いたが、段蔵が俺のことを主様と呼ぶときは、大抵きついこと言うときだな」
「諫言は耳に痛いものです」
「証拠なき疑いは諫言とは言わん」
「といっても、主様に仕えてからこちら、身辺に女性の気配を感じたことが一度もないのですから、疑いが生じるのもやむないことかと」
などと言い合っているうちに、いつか京都の夜は更けていく。
俺はふと大事なことに気付いた。
「そういえば、弥太郎はどうしたんだ?」
「……あ」
おそらくは久秀に香薬でもかがされたのだろう。すぴー、と健康そうな寝息をたてながら、弥太郎は俺の部屋の近くの廊下でぐっすりと寝こけていたのである。