俺が手を差し出すと、おそらくは無意識なのだろう、晴貞が身を強張らせたのがわかった。
それを見て、俺は胸の奥に鋭い痛みをおぼえる。無論、晴貞に怒りを覚えたわけではない。俺の――というよりも、男性の、というべきか――何気ない仕草一つで、身体が竦んでしまうような日々を、この女性が送っていたことに対する遣る瀬無さと、それを与え続けた者たちへの怒りのためであった。
家臣たちの態度を見れば、晴貞が常日頃から軽んじられていたことは明らかであった。晴貞の怯えぶりを見れば、多分、それ以外にも辛いことが多々あったことも察せられる。
そして、そんな毎日を送っていれば、周囲の家臣のみならず男性そのものに対する警戒や嫌悪が育まれることは必然であったのだろう。
そう思った俺は、晴貞に差し出した手を中途で引き戻したのである。
俺の行動を見て、晴貞は自分が咄嗟に俺を避けたことにようやく気付いたのだろう。慌てたように弁明を口にする。
「……あ、す、すみません。せっかく、助けていただいたのに、失礼なことを……」
「いえ、御気になさらずに。ご無事であることを確認したかっただけですので」
俺はそう言うと、わずかにあとずさった格好の晴貞に笑貌を見せると、それと悟られないように距離を開けた。
晴貞が戸惑うような顔をしているのは、そんな俺の動きに気付いたわけではなく、状況を説明するべきかどうかを考えているためだろう。
確かに順序としてはそれが一番であろう。俺たちがとった行動が間違いないことを確かめる意味でも、事情を聞くことは必要なことであった。
とはいえ、何も根掘り葉掘り問いただす必要はないし、たとえ必要があったとしても、するつもりは俺にはない。
「一つだけ、確認させていただきたいのですが」
晴貞はわずかに濡れた眼差しで、俺の顔を見上げる。どこか不安げな色が見えるのは、俺の問いが核心に触れることを恐れているためだろうか。
「――加賀守護職、冨樫晴貞様であらせられますか?」
「は、はい、私が、冨樫晴貞です」
「さようでございますか」
頷いた俺が口を閉ざすのを見て、晴貞は不思議そうな顔で首を傾げる。
「あの、お聞きになりたいことはそれだけなのですか?」
「はい。それだけは確かめなければならなかったので。あなたが冨樫様御本人だとわかれば、問題のほとんどは解決します。ともあれ、ここでは場所が悪いですね。我らが陣までお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
なるべく晴貞に負担を与えないように、胸中の怒りを抑えながら申し出た俺の言葉に、晴貞はぽかんと口を開ける。
多分、俺が事細かに事情を問いただすとでも思っていたのだろう。
だが――俺は周囲を見渡す。段蔵からの知らせを受けた兵たちが、晴貞の家臣たちを縛り上げ、引き立てている最中である。要らぬことを言わないように、その口はしっかりと猿轡をかませてあった。
この状況で人の心の傷に塩水を塗り込めるような趣味は俺にはない。それに、晴貞が本人であることを確認できれば、後はこれから晴貞がどう動くかを確認すれば事は済む。しかし、その決断を、今してもらう必要はないのであった。
晴貞は思わぬ俺の提案に驚いていた様子だが、すぐにこくこくと頷き――そして、すぐに表情を曇らせる。
「……あ、でも、城に戻らないと、皆様にご迷惑が……」
「かかりません。それでは春日殿、晴貞様を陣営までお連れいただけますか。私は景虎様に知らせて参りますので」
晴貞の異論を一蹴すると、俺は虎綱に声をかける。
今の晴貞の心境を考えれば、多分、傍に誰かいた方が良いであろうし、それなら男性より女性の方が良いに決まっていた。
その役割は、虎綱でなくとも、弥太郎や段蔵であれば問題ないと思う。思うが、この二人だと、一国の守護を相手にするには一抹の不安が残る。弥太郎は緊張的な意味で、段蔵は性格的な意味で。
「……え?」
思わぬ俺の返答に、つかの間、晴貞は呆気にとられたように固まってしまう。
一方の虎綱は、こちらも戸惑いを残しながらも、しっかりと頷いてみせた。
「お任せください。武田の陣にお連れしてよろしいのですね?」
「はい。多分、その方が色々と良いと思いますから」
その言葉に、虎綱は不思議そうな表情を浮かべたが、俺が弥太郎と段蔵の方――より正確に言うと、段蔵に視線を向けたのを見て、何事かに気付いたように慌てて頷いた。
段蔵の性格では、晴貞のような受身の人はあまり好かないだろう。そして多分、そういった態度に、晴貞は聡い筈であった。
「わ、わかりました。晴貞様が落ち着かれるまで、責任をもって私がお守りいたします」
「お願いいたします。晴貞様、また後ほど――っと、そうそう、もう一つだけ、お訊ねいたしますが」
「……は、はい、なんでしょうか?」
「京への旅に、興味はおありですか?」
◆◆
上杉軍本陣。小松城に赴く準備をしていた景虎様に時間をもらい、俺は先刻の一件を報告した。
全てを聞き終えた景虎様の顔に、あからさまではないにせよ、怒りの色が浮かんでいる。憶測を交えず、事実だけを申し上げたのだが、聡い景虎様は晴貞の境遇に気付いてしまったようだった。
「颯馬の話はわかった――で、どうするつもりだ?」
景虎様の問いに、俺は困惑して問いを投げ返す。
「どうする、とは?」
「颯馬のことだ、報告して私の指示を仰ぐ――など悠長なことはすまい。どう動けば良いか、すでに考えてあるのだろう」
俺は景虎様の指摘に、ついと視線をそらせてしまう。
「えーと……わかりますか?」
「わからいでか」
景虎様がくすりと笑うと、えもいわれぬ香気が俺の鼻先をくすぐった。
「颯馬は、自分がいつもとかわらないつもりのようだが、言葉の端々に怒りが滲み出ていたからな。無論、私とてそのような悪辣な輩を許すつもりはない。しかし――」
わずかに言いよどむ様子を見せた景虎様に対し、俺は心得たように頷いた。
「承知しております。上洛に支障をきたすような真似はいたしません。上洛軍の兵力を損じることもないでしょう。ただ、陣中に山と積まれた黄金の一部を、使わせていただきたいのです」
俺の案を聞いた景虎様は、迷う様子もなく、あっさりと首を縦に振る。
「わかった。すぐに伝えておこう。必要な分だけ使うがいい」
ただし、と景虎様は続ける。
「兼続と、それから定満にはきちんと話を通しておいてくれ。特に兼続だな。黙って策を進めると、また私が怒られる。『景虎様は颯馬に甘い』とな」
それを聞き、うぐ、と思わず変な声が俺の口から出てしまった。きっとその後で兼続は俺のところに来て、上杉家の臣下の心構えを、懇々と説き聞かせてくれるに違いない――あれはもう、二度と御免である。
「……か、かしこまりました」
そう答える俺の声は、我ながら固かった。
まずは定満から、と定満の部隊に赴いた俺だったが、たまさかそこには兼続の姿もあった。越後からこちら、強行軍が続き、将兵にも疲労の色が目立つようになっている。そのことについて話し合っていたらしい。
ちょうど良いので、俺は二人に時間をもらい、晴貞のことについて説明し、それに関わることで黄金が必要となることを説明し、持ち出しの許可を求めた。
定満にせよ、兼続にせよ、景虎様が許したと言えば首を横に振る筈はない。それがわかっていたから、俺は景虎様の許可を得ていることは口にしなかった。虎の威を借る狐のように思われるのは御免である。とくに、この二人からは。
「――む、まあ話はわかった。だが」
俺の話を聞いた兼続は、やや表情を厳しくした。
「そこまでして、加賀の事情に口を差し挟む必要はあるのか? 無論、晴貞様の境遇は哀れと思うし、お力になりたいとも感じるが、今、我らは将軍家の命により上洛をしている最中だ。下手をすれば加賀を敵にまわすような行動は慎むべきだろう」
それに、と兼続は言葉を続ける。
「仮にお前の策が図に当たったとしても、晴貞様の権威が戻るわけではない。上洛軍に加わるという名目で一時、加賀から逃げられたとしても、京より戻れば、また虜囚の日々が続くことになろう。晴貞様の立場を変えるためには、誰よりも晴貞様御自身が変わらなければならない。私たちが余計な手出しをすれば、かえって事態を悪化させることになりかねんぞ」
兼続の言葉は厳しくはあるが、正論であった。
不遇から脱するために、何よりも必要なのはその本人の強い意志。周囲がどれだけ騒ごうと、本人が動かなければ、何一つ変わらないままに終わってしまうだろう。
苦難を凌ぎ、試練を越える。晴貞の、その意思があって、はじめて状況は変化するのだと兼続は言う。それはその通りであった。
だが――
「……颯馬は、優しいね」
『は?』
次の瞬間、その場で発された声は、俺のものでも、兼続のものでもなかった。定満が唐突に口を開いたのである。俺と兼続の口から同じ言葉がもれ、訝しげな視線が定満に向けられた。
俺たちの視線を受け止めながら、定満は小さく笑う。結上げられた艶やかな黒髪が、篝火の炎を照らして一際映える。
相変わらず、と俺は思う。
綺麗な方だな、と。
その経歴を考えれば、優に四十代を越えていると思われる定満だったが、見た目は三十代の、それも前半と言っても、異論は出ないのではないか。そう思わせる若々しさだった。
しかも、定満の場合、どれだけ激しい戦の後でも、あるいは春日山城の執務室に積み重なった、山のような政務を終わらせた後でも、いささかも容貌に変化が出ないのである。激しい戦の後などでは、時に兼続の方が年上に見えることもないわけでは――
などと考えていたら、尋常でない視線を感じ、おそるおそるそちらを向く。
そこには、刃の如き鋭い視線を俺に浴びせる兼続の姿があった。背筋に冷たいものが這い登るのを感じた俺は、慌てて内心の不穏な考えを心中から追い払う。
それはさておき、定満が口にしたのは、何のことだろう。問いを口にしかけると、先んじて定満がゆったりとした様子で続きを口にした。
「日の光を浴びて咲く花もあれば、日陰でひっそりと咲く花もある。私はまだお目にかかっていないけど、多分、晴貞様は後者?」
「そう、ですね。俺も、いえ、私もそれほど親しく話をさせてもらったわけではないのですが、おそらく」
憂愁と、どこか諦観の漂った晴貞の姿を思い起こし、俺はためらいながらも、定満の言葉に頷いてみせた。
「ん。上杉は景虎様や政景様、それに兼続たちもみんな日の光を浴びるお花だから。晴貞様にとっては、ちょっと居辛い場所だろうね。だから、春日殿に託したのでしょう」
「や、そこまで考えていたわけではないんです。ただ……」
「ただ?」
「――そうですね、景虎様や兼続殿と共にいるよりは、春日殿の陣にいた方が良いと、何となく思ったんです。あの二人、どこか似ているような気がして」
別に景虎様や兼続が、晴貞に悪意を持つとか思ったわけではない。ただ二人の廉直な為人は、時に傍らにいる人に重圧を与えてしまうことがある。本人たちが意識するしないに関わらず、である。
俺はその胸中の不安をはっきりと言葉に出来なかったのだが、定満の言は剴切であった。
日向で咲く花と、日陰で咲く花。その違いは花の良し悪しではなく、ただ性質の違いである。並べて飾ることに意味はなく、そして多分、両方の花にとっても良くないことなのではないだろうか。俺が感じた違和感は、そういうことだったのだろう。
まあ、虎綱や晴貞が本当に日陰の花かどうかは定かではない。まだ日の光に慣れていないだけかもしれないが、それでも今の時点で、景虎様や兼続の鋭気に触れるのは、晴貞にはかえって負担だろうとは思うのである。
そんな風に俺と定満が話をしていると、兼続が、どこか憮然とした顔で口をはさんできた。
「……何やらお二人の話を聞いていると、私が気遣いの一つも出来ない無作法な女に聞こえるのですが。先の言葉とて、本心から言ったわけではありませんよ」
「ん、私は兼続が優しい子なのは知ってる。颯馬も知ってる。さっきの兼続が、上杉の立場を代弁することで注意を促したこともわかってる。ね、颯馬」
「もちろんですよ。ただ……」
「……ただ、何なのだ、颯馬?」
「い、いえ、何でもありません、はい」
兼続の優しさは無論知っている。だが、同時に俺は、その秘める激しさも良く知っていた。
晴貞を上杉陣内につれてこなかった理由の一つにそれがある。
だが、それを兼続に言えるわけがなかった。兼続が、晴貞の身体の傷に気付こうものなら、問答無用で小松城に攻めかかりかねないと危惧したのだ、などと。
それに、兼続がそう行動しようとした時、俺には止められる自信がなかったのだ――兼続を、ではない。その兼続に追随したくなる自分の気持ちを、である。
ともあれ、兼続と定満の許可を得た俺は、武田の陣営に赴き、そこで虎綱と話し合って、小松城での対応について打ち合わせを行った。上杉と武田、両軍の許可を得た上でないと、説得力がなくなってしまう。
晴貞は疲労が溜まっていたのか、虎綱に陣営に誘われるや、すぐに眠ってしまったらしい。緊張の糸が解けてしまったのかもしれない、と虎綱は呟いていた。
「――天城殿の策に異存はないのですが」
虎綱は真摯な眼差しで俺を見つめる。そこには晴貞を案じる気持ちがはっきりと現れていた。
「京に晴貞様をお連れすることを重臣たちが肯うでしょうか?」
「そこを頷かせるのが私の役目です。お任せください」
自信ありげな俺の声に、虎綱はほっと安堵したように息を吐いた。そして、めずらしく、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふふ、御館様が恐れるほどの智者がそう言って下さるなら、安心できます」
「……誰が、誰を、何ですって?」
「御館様が、天城様を、恐れている、ですよ?」
「ありえん」
つい素で返してしまい、慌てて言いつくろう。
「あ、いや、それはありえないでしょう。あの晴信様が俺ごときを。景虎様を恐れるというのなら、わかりますが」
「ん、そうですね。正確に言えば、景虎様の下にいる天城様を、ということでしょうか。ですが、御館様が、越後の蛟竜が、雲を得てしまったのかもしれない、とそう仰っておられたのは確かなことですよ」
「竜に雲……雲は竜に従い、風は虎に従う、でしたか」
「はい、易経の一節です。やはり、天城殿はご存知でしたか」
「……む? もしや試されていましたか、今?」
「い、いえ、たた試すなんてそんなことしてませんッ」
否定しながらも、虎綱の白皙の頬が紅く染まっていく。別に試されたのはかまわないのだが、動揺がこんなに表情に出るようで、これから先、虎綱はやっていけるのだろうか、とそちらの方が心配になってしまう。
「あ、と、ところでですね」
頬を染めたまま、虎綱はいささかわざとらしく話をかえようとする。
俺は内心で苦笑しながら、頷いて先をうながした。
「やはり、晴貞様は城へ行っていただくべきでしょうか。ご気分が優れない様子だったので……」
「……無理もないことですね」
おそらくは恐縮しながら床に伏せているであろう晴貞を、たとえ一時的であるにせよ、あの城に帰すのは避けたかった。
「晴貞様自身がおられずとも、問題はないでしょう。ただ、晴貞様に近しい人たちを城内に置き去りにするわけにもいきません。そこだけ確認しないと――」
俺が言いかけると、虎綱が目を伏せながら、首を横に振った。
「……ここに来るまでに確認したのですが、そういった方は一人もおられないそうで……ご親族の方や、親しかった方々は、皆、晴貞様の兄君が亡くなられた時に連座させられたそうです」
「……そうですか」
俺と虎綱の顔に浮かんでいた表情は、とてもよく似通っていたであろう。
将軍家の御為に、上洛軍に加わる。その大義名分をもって加賀から逃げることは、すでに晴貞に伝えてある。その道中に連れて行きたい人がいない、ということは、文字通りの意味で、晴貞が小松城内で孤立無援であったことを意味する。
聞けば、晴貞様は俺より二つ、年下らしい。加賀で守護の冨樫泰俊が死んだのは三年前というから、それこそ俺の感覚で言えば、中学生の女の子が、誰一人助けてくれる者もいない城中で、兄を殺した者と、その配下に囲まれて暮らしてきたことになる――三年間も。
いったい、どれほどの苦しみや辛さを味わってきたのか。それを思えば、胸を細刃で切り裂かれるような痛みを覚えてしまう。
しかし、それとて実際に晴貞が受けたものにくらべれば、万分の一にも満たないものであるに違いなく、俺はいつの間にか両の拳をきつく握り締めている自分に気付いた。
「――ともあれ、それならば遠慮する必要はない、ということでもあります。晴貞様は武田の陣で休んでいてもらって結構です。私はこれから小松城に赴きます。春日殿にもついてきてもらうつもりだったのですが、晴貞様が目覚められた時に春日殿がおられないと、晴貞様も不安に思われるでしょう。城内での折衝については、お任せいただけましょうか?」
「もちろんです。どうか、晴貞様の悪夢を、終わらせて差し上げてください。私からも、お願いいたします」
そういう虎綱の顔にも、声にも真情が溢れており、この女性が短い間に晴貞に深い思い入れを抱いたであろうことが、はっきりと伝わってきた。
当然、返す言葉など一つしかない。俺はしっかりと虎綱に頷いてみせたのである。
◆◆
加賀小松城。
城では、晴貞と件の家臣たちの行方がわからず、大騒ぎであったらしい。将軍家先導の上洛軍を迎え入れるに際し、かりそめにも守護職である身が不在とあっては鼎の軽重を問われるというものだから、彼らが慌てふためいたのは当然といえた。
そんなところに、上杉の使者である俺が姿を現し、さらには小松城の家臣を縄目にかけて連れてきたことものだから、城内の混乱はさらに深まってしまったようだった。
当然の如く、家臣たちを解放するようにと求められたが、俺は頑としてそれを拒否した。
解放するとしても、それは使者としての役割を果たした後のことであると主張し、城内に入れるよう要求したのである。
俺の要求に、城側が良い顔をしなかったのは当然であったろう。
だが、こちらの背後には上杉、武田両軍と、将軍家の威光がちらついている。彼らは歯軋りしつつも、俺たちを迎え入れるしかなかったのである。
そうして、小松城の広間に招じ入れられた俺と弥太郎らを出迎えたのは、憤懣やるかたないといった様子の、城の重臣たちであった。
彼らの同僚が、俺たちに引きずられるように連れてこられたのだから、その怒りが冷めよう筈もない。
その後ろに一際大きな荷物が運びこまれていることにも、ほとんどの者たちは気付かなかったであろう。
こちらが座るのを待つのももどかしく、居丈高な声が彼らの口から飛び出してきた。
「使者殿、これ以上の無体は、いかな将軍家の口ぞえあれど看過できませぬぞ。早急にその者たちを解放していただきたいッ!」
居並ぶ冨樫の家臣たちの面上から殺気が立ち上る。中には刀の柄に手をかけている者さえいる様子であった。
――だが。
「まず、ご報告申し上げる。貴殿らの主である冨樫晴貞様は、無事に我らが陣におられます」
「な、なに?」
「晴貞様はお一人で城を出られ、ここに居並ぶ下郎どもに理不尽な目に遭わされる寸前でありましたが、不幸中の幸い、たまさか我らがそこに通りがかり、晴貞様をお助け申し上げ、陣中にお連れした次第にござる」
怒号など聞かなかったかのように語りだした俺に、相手は戸惑ったように視線をかわしあっている。中には苛立たしげに口を開こうとしている者もいたが、俺は先んじてそれを制する。
「ここにいる者どもは――」
そういって、後ろで傷の痛みにあえぐ者たちを指し示す。
「その際、あろうことか自分たちは小松城の家臣であるなどと偽りを申しました。無論、そんなことがあろう筈はございません。忠義に篤く、勇猛名高い加賀侍に、かような下衆どもがいる筈はありませんから。ただ、我らはこの加賀の地を通らせてもらう身でありますゆえ、万一にも間違いがあってはなりません。それゆえ、見苦しいとは存じましたが、この者どもを城中に入れさせてもらったのでござる」
さて、と俺はややあざとい仕草で、周囲を見渡した。
「列座の方の中で、この野盗どもに見覚えのある方はおられようか? 恥を知る者なら、か弱い少女一人を、よってたかって傷つけようとするなどありえない。誇りを持つ者なら、それを黙って見過ごすなどありえない。この場に、この下衆めらと関わりを持つ者は、まさかおりますまいな?」
一息ついてから、すぐにまた口を開く。向こうに反論の隙は与えない。
「無論、わかっております。このような問いを、貴殿らに向けることさえ失礼なことなのだということは。しかし、先ほども申しましたとおり、上洛の一行が、加賀の侍と名乗った者を処刑したなどと知られれば、要らぬ争乱の種になりかねませぬ。それゆえ、このような無礼な問いを行わせてもらった次第。どうか我らが無礼、寛大な心をもってお許しください」
立て板に水。
そう形容できる勢いでまくしたてる俺に対し、ようやくその意図を察した城側の連中の顔が大きく歪む。
だが、俺の後ろにいる者たちを城の家臣だと認めれば、男たちの罪科もまとめて引き受けなければならない。
野盗が城主を襲ったというのなら、縛り首にすれば済む。だが、家臣が城主を襲ったとなれば、それだけでは済まされない。より正確に言えば、外部の人間にそれを知られてしまった以上、そのままにはしておけない。残る手段は、目撃した者を消してしまうか、知らぬ存ぜぬで突っぱねるか。
前者は、上洛軍八千と将軍家を敵にまわすことになるため、よほどの覚悟がなければ不可能である。
とはいえやむなく後者を選ぼうとしても、すんなりとはいかない。それは言うまでもなく同輩を見捨てることになるし、城には彼らの一族も少なくないだろう。仮に、他の重臣連中がやむなしとして彼らを見捨てようとしても、必ず一族の者たちが反対し、混乱が起きてしまうに違いない。
ただ、あまり連中を追い詰め、自暴自棄に走られても面倒である。
最悪、本願寺を恃んでこちらに敵対してくる可能性もあるからだ。それゆえ、俺はここであえて妥協する。より正確に言えば、妥協と見せた、今後の布石を打つ。
すなわち、押し黙る彼らにむけて、俺は次のように述べ立てたのである。
「――やはり、こやつら、冨樫家には関わりない匪賊でありましたか」
納得したように頷くと、後方からくぐもった抗議の声があがる。もっとも、猿轡から発されるそれは、意味をなして聞こえてくることはない。
「往生際が悪い輩でござるな。ところで――こやつらの処分はこちらで行いましょうか?」
その俺の問いに、飛びつくように重臣の一人が答えた。
「た、他国の方にわが国の罪人を裁いてもらう必要はござらぬ。聞けば、確かに万死に値するけしからぬ輩のようでござる。我らの手で処断いたすゆえ、お引渡しいただきたい」
その言葉に、はっとその男の意図に気づいた者たちが同意するように大きく頷く。おそらくは、こちらが捕らえた者たちの一族なり、親族なのだろう。確認する必要もないことであった。
俺はもったいつけるように腕組みをしてみせる。
「確かに貴殿らに引き渡すが道理にもかなっておりますな――おお、そういえば、申し忘れておりましたが」
「な、なんでござる?」
「保護した晴貞様の件でございます。こちらをまず最初に申し上げるべきでござったな。失礼いたした」
実は、と俺はわずかに声を高めた。
「晴貞様は、此度の上洛令と、それに従った上杉家と武田家の忠義に深い感銘を受けられ、自らもその一員になりたいと仰せになられております。無論、私どもは一度、城にお戻りになられ、配下の方々と相談の上で決めていただくように申し上げたのですが――」
――主君思いの臣たちであるゆえ、京に上ることなど許してはもらえない、と晴貞様は案じていらっしゃいましてな。
――確かに我らも守護である定実様や晴信様が直接上洛軍に加わっているわけではござらぬゆえ、貴殿らの心配は理解できまする。
――しかし。
――晴貞様のお話を聞くかぎり、京へ上って将軍家のお役に立ちたいという心はまことに見上げたもの。また、加賀を離れ、広く世情を知って見聞を広めたいという願いもまことに真摯なものとお見受けいたしました。
――ここは、ぜひとも小松城の方々のご理解、ご協力を賜りたいものと考え、晴貞様の代わりにお願いをさせていただく次第にございます。
一節を終えるごとに声を強める。
一節を終えるごとに声を高める。
最後には、最早、大喝しているに等しい語調になっていたことだろう。
言外に告げている。頷かないのならば、後ろの者どもは渡さない、と。このためだけに、生かしておいてやったのだから、と。
しんと静まりかえった室内には、しわぶきの音一つ聞こえない。
彼らは迷っているのだろう。
傀儡であった晴貞を上洛軍に引き渡したところで、彼らの心は痛まないし、権勢が失われるわけでもない。晴貞自身に忠誠を誓っているわけではないのだから、それが当然である。
だが、晴貞の存在は加賀にとって――というより、この城にとって危険なものとなりえた。
これまで晴貞を食い物にしてきた者たちにしてみれば、いつ晴貞がそれを理由として報復に来るかわからないという恐怖がある。無論、晴貞一人ならば一笑に付せるが、上杉、武田、あるいは将軍家がその後ろにつけば、厄介なことになってしまうだろう。
晴貞自身がそれを望まなかったとしても、晴貞を擁する勢力にはそれが可能なのである。さらに言えば、傀儡とはいえ正式な加賀守護職である晴貞のこと、小松城だけでなく、加賀の国そのものを得るための名分にもなりえるのである。
そんな人物を他国に去らせば、本願寺から処罰をされる可能性さえ考えられた。
重臣たちも、それぞれに立場が異なる。晴貞を手放し、同輩を救うべきと考える者もいれば、同輩など見捨てて晴貞を取り返すべきと考える者もいる。
また、同じ考えを持っている者同士でも、そこに至った理由は様々に異なる。理である者もいれば、利である者もいようし、考えたくはないが色欲である者さえいるのだろう。
いずれにせよ、彼らが統一した見解を出すには無理がある。所詮は本願寺の後援を背景に、好き勝手に我が世の春を謳歌していた者たちばかり、咄嗟の判断力など期待は出来ない。そして、時がかかれば、彼らの誰かが暴走する可能性が高く、一度暴走すれば、もう理性的な判断が出来る余地などなくなるだろう。加賀の大地に、血潮が降り注ぐ事態になりかねぬ。
それゆえ――
「無論、守護職が他国に去ってしまえば、皆様の苦難は筆舌につくしがたいものになるでしょう。その苦難を軽くし、また労う意味で、このような贈り物を用意しております」
それゆえ、俺は万人に共通する利を提示する。
捕らえられた男たちの後ろに置いてある荷を指し示すと、はじめてその存在に気付いた者たちが、訝しげな顔を見合わせた。
俺が弥太郎に頷いてみせると、心得た弥太郎は四つならんだ荷物、その内の一つにかけられていた布を取り払う。
すると。
「おおッ?!」
「な、なん……と」
押し殺した驚愕の声が、どよめきとなって室内を埋め尽くす。
それほどまでに、山と積まれた黄金は、見る者の目を惹きつけずにはおかなかった。
「こ、これは、一体?」
「上洛軍より、貴殿らへの贈り物、というところでござる。越後は佐渡の鉱山より採掘された黄金を延べ棒にしたものです」
「む、む。これを我らに下さると申すか? そちらの荷も、もしや同じものでござるか?」
「左様です。この程度では、守護不在の不自由を償うに足るかどうかはわかりませぬが、少なくとも何かの足しにはなりましょう」
だが、その俺の言葉を聞いている者はほとんどいないようだった。
皆、目は黄金に釘付けになり、唾を飲み込むばかりであったから。
(これでは、答えを聞くまでもない、か)
そんな彼らの様子を見て、俺は内心でため息を吐く。
思ったとおりに事が進みそうなのは良いのだが、内心、忸怩たるものがある。
何故だろう、と考えてみれば、答えは明らかであった。
こんなやり方が、景虎様の天道に沿うものである筈がない。人の欲につけこむということは、要するにそういう欲目が自分にもあるからこそ出来ること。景虎様や兼続であれば、もっと別のやり方があったのだろう。
そう考えると、目の前の冨樫家の家臣たちと自分とが、同列の人間であるように思えて、遣る瀬無く感じてしまう俺であった――