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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/09/11 01:35

 武田家が情報収集に力をいれはじめたのは、それほど古い話ではない。
 武田晴信が甲斐守護職に就いてから――すなわち、まだほんの数年しか経っていないのである。にも関わらず、陰将山本勘助の統括する甲州忍の数は、信虎時代の五倍を越え、そう遠くないうちに十倍に達するものと思われた。
 孫子の情報戦略を高い精度で実現するため、自軍の諜報部門を強化する必要を認めた晴信は、惜しげもなく資金と人材をつぎ込んだ。その成果が「三ツ者」と呼ばれる現甲州忍たちなのである。
 三ツ者とは、相見(諜報)・見方(謀略)・目付(自軍の監視)の三つを主な任務としたゆえの呼び名であり、晴信は彼らを縦横に駆使して情報を集め、幾多の戦を勝利に導いてきたのである。また、甲斐および信濃の統治を磐石ならしめるためにも、それらの情報は存分に活用されていた。


 彼らの多くは商人や僧侶などに身をやつし、諸国を廻って種々の情報を甲斐の国にもたらした。越後内乱の詳細を掴んだのも彼らの仕事の一つである。
 そして今回、武田家が越後上杉家の早期出兵を読み切ったのは、やはり彼らが掴んできた『極秘情報』のお陰――ではなかった。


 諸国に諜者を放っているのは甲斐ばかりではない。当然、諸国は諜者を排しようとするし、その目をあざむき、情報を隠匿するために細心の注意を払っている。
 そういった種々の妨害、撹乱を見抜き、その上で真実を掴みとれるほどの忍の達者は数少ないし、真実と信じていたものが偽物であることもめずらしくはない。
 武田家は多数の忍を抱え、多くの情報をかき集めていたが、それらは玉石混交、なまじ数が多いゆえにそこから玉を見抜くことは並大抵のことではなかった。
 誤った情報を信じて策を練れば、数多の将兵の命が虚しく失われてしまう。真実を見抜いたとしても、それが偽りでないかと逡巡すれば、好機を逸してしまう。
 諜報とは、すなわち収拾と分析の果て無き繰り返しであり、それ一つで何もかもが明らかになる『極秘情報』などという便利な代物が、そうそうそこらに転がっている筈はなかったのである。


 今回もまた同じである。越後側の計略全てを記した極秘情報などというものはなく、晴信は幾十、幾百もの情報をかき集め、時に矛盾し、時に偽りを孕むそれらを丹念に分析し、越後の戦略を読み切ったのである。
 ただ、今回の戦に関して、晴信はあらかじめ一つの布石を打っており、それが越後の早期出兵を見抜く助けになったのは事実であった。
 その布石の名は村上義清。北信濃の国人連合を率いて武田家に抵抗し続けた手強い敵将。そして先の旭山城攻略戦において、晴信が故意に越後へ逃した一人の武将である。



 といっても、別に義清が武田に通じているわけではない。そもそも、越後に逃げたのが義清であったことも単なる偶然なのだから。
 晴信は、信濃の将を一人だけ逃がすように追撃部隊を率いた内藤に命じた。それがたまさか義清であったに過ぎないのである。
 晴信が北信濃の武将を逃したのは、越後の長尾景虎が旧領奪還を願うその人物の願いを聞き届けるだろうことを見越してのことであった。北信濃を取り返すためには、当然、景虎も信濃に踏み込んでこなければならない。晴信はそれをもって対越後戦の大義名分とする心算だったのである。
 そして、もう一つの狙い。
 越後に逃れた武将は、旧領奪還の戦に際し、上杉軍と歩調を合わせて兵を出す。これは当然のことである。
 そして北信濃の武将が、旧領奪還に際し、旧臣やかつての領地の者たちの協力を得ようとすること。これも当然のことであった。かつて村上家に仕えながら、主家を守ることが出来ず、心ならずも武田家に屈した者たちは少なくない。彼らは旧主の使いがやってくれば、諸手をあげて歓迎するに決まっていた。


 ――それはつまり。
 武田家は、わざわざ越後に多数の諜者を放たずとも、上杉家の動きを察知することが出来るということ。


 事実、晴信は信濃の降伏した者たちの動きから、越後側がかなり早い時期に動き出す心算であることを見抜いたのである。
 無論、彼らとて、旧主からの使いが来るや、いきなり兵を集めたり、兵糧を買い漁ったりといったわかりやすい真似はしなかった。
 義清の使者を迎えた者たちの多くは、武田家からの疑いの眼差しを避けるために職務に精励し、あるいは訓練に精を出し、忠勤に励んだ。武田の統治を受け入れたかに見せ掛け、近く行われるであろう信濃奪還作戦を悟らせまいとしたのである。
 剛毅木訥な信濃武者たちは、そうすることで武田の疑いをかわすことが出来ると信じていたのであろう。
 だが、腹の探り合いにかけて、武田晴信に優る者は信濃にいない。ある時期を境に、信濃の降将たちが従順になったという報告を受けた晴信は、影で信濃と越後を往来する義清の使者を捕らえるまでもなく、その動きを予測してのけたのである。


 村上義清が動く気配を示したのならば、越後もまたそれに続く。その前提の上で、越後の地を眺め渡せば、それまでは見えにくかった物も見えてくる。三ツ者が掴んできた越後の情報、その玉と石の区別をつけることも容易となる。
 ただ、それは例えるならば、百の中の十を見つける試みが、七十の中の十を見つける試みに変じるようなもの。難度は下がっても、難事であることに変わりはない。
 だが、それをこともなげに成し遂げてしまうことこそ、武田晴信の謀将としての凄みであった。
 武田家が、晴信の代になって未だ負け戦を知らぬ理由の一つが、この時代にあって信じがたいほどに高度な情報の運用にある。そしてそれは、ただ忍を多く抱え、情報をかき集めれば為しえるというような簡単なことではない。
 集められた数多の情報を、精確に選り出し、詳細に分析し、確実に活用する――それあってこそ、はじめて武田騎馬軍団、常勝の基は築かれるのである。


 彼を知り、己を知らば百戦してあやうからず。


 孫子の兵法にあって、あまりに有名なその一節。
 武田晴信こそは、その言葉を体現する日ノ本でも稀有の武将なのである。





 その晴信に優るとも劣らぬ才を持つ山本勘助が、常に主君に的確な助言を与えているのであるから、他国は戦慄を禁じえないであろう。
 もっとも、その真の恐ろしさを知る者は、この時、まださほど多くはなかった。戦の勝利とは、戦場の槍働きの先にあると考える者たちが、未だ大部分だったからである。
 ともあれ、武田家は無数に寄り集まった情報の山の中から、越後側が秘匿していた早期出兵計画を完璧ともいえる精度で見抜いてのけた。
 敵が奇襲をかける心算であれば、こちらはそれに乗ったふりをして、相手に痛撃を与えてやれば良い。そうすれば人的な被害はもとより、敵の士気に大きな打撃を与えられる。心をへし折ってやれば、いかな越後の精兵といえどその実力を発揮しえる筈がなかった。
 その方針の下、越後側の戦略に対抗して、武田家はひそやかに動きはじめたのである……



◆◆ 



 そして今。
 信濃へと侵攻してきた上杉軍の主力を捉えた武田晴信は、自身が率いる武田騎馬軍団の主力を叩きつける。
 馬場信春、真田幸村の二人を先鋒とする武田軍は、一路、旭山城を目指す上杉軍を待ち伏せ、これを強襲。緒戦において少なからぬ痛手を敵に与えることに成功した。


 武田軍の本陣にあって、晴信はじっと戦況を見つめていた。
 もたらされる報告は、全てが武田軍の優勢を伝えるものであり、本陣に詰めた武将たちは、戦線から伝令がやってくる都度、その勝報に歓喜の声をあげ、僚将たちと笑いあった。
 すでに勝ち戦気分の将兵は、この勝利に自身も一花添えたいと、次々に晴信に出撃の許可を請うてきた。
 ――そして、彼らは気づく。
 自分たちの主君の顔に浮かぶ表情が、自分たちのそれとは異なるものであることに。
 軍配を握る姿は開戦時と同じ。だが、その表情に浮かぶのは、開戦時と同じ笑みではない。決して、勝利を確信した余裕からくる笑みではなかった。




「昌景」
「はッ」
 晴信は臣下の首座に座る人物――山の将たる山県昌景に声をかけた。
 その声は、通り名のごとく落ち着いたもので、勝利に浮かれる周囲の者たちとは一線を画するものだった。
 その昌景に、晴信は短い問いを向ける。
「どう見ます、敵の動き」
「ふむ、一時はこちらの術中に落ちたと見えたが、思いのほか立ち直りが早いですな。まるで――」
「まるで、ここで武田が現れるのがわかっていたかのよう。そちの言いたいのはそんなところですか」
 主君の問いに、昌景はあっさりと首を縦に振った。
「御意。もっとも、完璧に見抜いていた、というわけでもなさそうですな。もしそうならば、緒戦の兵士の混乱の説明がつきませぬ。あるいは敵はよほどに訓練された精鋭で、こちらの奇襲の衝撃から、将兵ともに即座に立ち直ったとも考えられますかな」
「敵の将兵、ことごとく昌景のような胆力の持ち主であれば、それもありえるでしょう。だが、それこそありえません。であれば、少なくとも敵の将帥はこちらの奇襲を予期していたと見るべきでしょう」
 晴信はそう言いながらも、すでに緒戦の混乱から立ち直り、貝のように固く防備を固める敵陣を、鋭い眼差しで見据えた。
 すでに戦は、当初のような一方的な戦況ではない。依然、武田の優勢は続いているが、それはいつひっくり返されてもおかしくないほどの僅かな差であった。否、戦場によっては上杉軍が勢いを盛り返しているところさえあるようだった。


 戦場に毅然と翻る旗に記されるは『毘』の一文字。
 遠目にも鮮やかな蒼き将帥が疾駆するや、武田の堅陣は脆くも崩れ、左右に難敵を避けてしまう。臆病風に吹かれて逃げているわけではない。ただ敵のあたるべからざる勢いに、望まぬ後退を強いられているのである。
「……長尾、景虎」
 晴信の口から忌々しげな声が漏れた。
 その総帥の後ろに続くのは、越後の最精鋭たる景虎直属の騎馬隊である。錬度において、晴信の馬廻り衆にも匹敵する部隊の攻勢を受け、武田軍はなだれをうって後退を始めていた。
 このまま手をこまねいていれば、あの方面の部隊は遠からず潰走させられてしまうであろう。


「昌景ッ」
「御意。それがしが参りましょう」
「そちが、ではありません。そちも、ですよ」
 晴信の言葉に、昌景はめずらしく驚いたように目を見開いた。
「御館様も出られるのか。確かに長尾の兵は手強いが」
「そちであれば景虎と対等に対峙することはできるでしょう。ですが、ここまでの兵力差があって、結局、戦は五分でした、などとなれば武田の武威に傷がつきます。今日ばかりは六分、七分の勝ちで満足するわけにはいかないのです」


 晴信が率いる武田軍は八千。これは無論、農民兵まで動員した上での数である。
 もっとも、総力を挙げての動員ではない。
 現在の武田家の所領は甲斐全土と、信濃のほぼ全域に及ぶ。先ごろ、北信濃を制圧した際に晴信が動員した兵力は甲斐と南信濃を併せて一万二千。これに北信濃を加えた今、武田家の動員可能兵力は無理せず一万五、六千。多少の無理をすれば軽く二万を越える動員が可能となっている。
 今回、晴信が集めた兵力は自身の率いる八千と、飯山城に向けた五千をあわせて一万三千ほど。武田家の最大動員兵力を大きく下回ったのは、無論、収穫前の民心に配慮した為である。もっとも、配慮したとはいっても万を越える壮丁を集めたのだから、収穫に影響が出ない筈はなく、ことに占領間もない北信濃での武田家への不満は大きく高まった。
 だが、晴信は眉一つ動かさず、徴兵を決行する。
 晴信は民心に配慮はしたが、民衆の望みに振り回されることはなかった。必要と認めれば、領主の強権を発動させることにためらう武田晴信ではない。
 そのため、武田家の中にも、晴信の強引な行動に不満を抱く者がいないわけではなかったのである。


 もっとも、近臣である真田幸村などは、晴信の行動の裏には、一時、民に苦難を強いることになろうとも、長期的に見れば、それが甲信のためになると信ずればこそとの信念があると承知している。
 くどくどと言い訳がましいことを述べ立てる晴信ではなかったから、言葉にして確認したわけではなかったが、この幸村の考えに同調する者は数多い。また、そうでなくては、武田家の強固な家臣団を維持できる筈もなかった。
 実際、今期の年貢に関しては様々な利便がはかられることが決まっていた。それによる不備には、甲斐黒川鉱山からの収益が充てられることになるであろう。




 ともあれ、現段階において、武田の兵力は上杉軍を圧している。
 それは民にも家にも少なからぬ労苦を強いた上でつくりあげた優勢である。
 ここで上杉家の主力たる長尾景虎を討つ。
 景虎本人を討ち取るまでに至らずとも、その部隊を撃破しておかねば、労苦を強いた者たちに何の顔(かんばせ)あって見えよう。それでは常勝を謳われる武田軍団の武名が廃るというものであった。
 昌景はめずらしく血気に逸る主君を見て、諌めの言葉を発する。
「御館様、あえて申しあげるが、今の御館様は匹夫の勇に駆られておりますぞ。長尾を討つ、それは良い。だが、何も御館様が前面に出る必要はござるまい。こんな時のための臣下でありましょうぞ」
 主君を押しとどめながら、昌景は自らと、そしてこの場に控える他の諸将を指し示す。
 先刻まで優勢を確信して笑いあっていた彼らも、晴信と昌景の会話に耳を傾けているうちに得心するものがあったのだろう。今は表情を引き締め、昌景の言葉に賛同するように晴信に強い視線を向けていた。


 晴信が押し黙ったままでいると、さらに昌景は言葉を紡ぐ。
「多兵の利を駆使して続けざまに押し込めば、何、軍神といえど人でござる。必ず崩れましょうぞ。ご命令を、御館様」
 跪く昌景に、晴信は小さな小さなため息を吐いた。
「――重臣筆頭にそこまで言われては、自重しないわけにはいかないでしょう。山殿は意外に口が達者なのですね」
「おや、御館様はご存知ないようだ。木々の声、風のざわめき、川のせせらぎ。言葉はなくとも、山は案外と多弁なものですぞ」
「ふ、そうでしたね」
 くすり、と。
 一瞬だけ、柔和に微笑んだ晴信は、すぐにその顔に将帥としての威厳を宿らせ、厳然と命じた。
「山県昌景に命じる。本隊を率い、上杉軍を討ちなさい。自らを軍神と称する不遜な輩に、武田軍の恐ろしさを刻み付けるのです」
「お任せあれ、時はかかりませぬ」
 昌景は深々と頭を下げて命令を受領するや、次の瞬間には踵を返して天幕の外へ向かう。
 他の家臣も次々にそれにならい、間もなく、武田本陣から二千を越える騎馬武者が一斉に鬨の声をあげて上杉勢に向かって突き進んでいった。




◆◆




「景虎様、武田本陣から騎馬隊多数、接近中です。数、おおよそ二千ッ!」
 混戦の中、直江兼続は先を駆ける景虎の背に声をかける。
 武田軍の待ち伏せを受けてからこちら、戦い通しだったこともあり、そろそろ景虎の軍も限界が近いと兼続は見ていた。
 景虎の武勇に引っ張られる形で、この場では優勢を維持しているが、それとていつまでも続くものではあるまい。いくら軍神と称えられていようと、景虎は一人の女性なのだから。


 兼続の声に、景虎はすぐに反応した。無心に戦場を駆けているように見えて、敵と味方とを問わず、あらゆる場所に目が向いている景虎のこと、おそらく敵の本陣から増援が出たことも、自分より先に気づいていたのだろうと兼続は思った。
 景虎は、ついさっきまでの猛勇が嘘であるかのように穏やかな口調で言った。
「敵の本隊だな」
「はい。そろそろ潮時かと」
「うむ。晴信がいるならば、一当てしても良いかと思うが……」
 やや残念そうな景虎の声に、兼続はきっぱりと首を横に振った。
「一応言っておきますけど、駄目ですよ、景虎様」
「ああ、わかっている。これ以上は兵士たちがもたないだろう。兵をまとめて退くぞ」
「御意ッ」


 景虎と兼続は、直属の部隊を率いて殿軍を務め、猛追を仕掛けてきた山県勢との間に激戦を繰り広げながら、それでも最終的にはほぼ全軍を退却させることに成功する。
 今回の戦で景虎軍の死傷者は全軍の二割近くに及んだが、彼我の兵力、待ち伏せを受けたという条件を考慮すれば、むしろこの程度で済んで御の字というところであったかもしれない。
 ようやく敵勢を追い払った上杉軍は山を背に布陣し、負傷者の治療や、重傷者の後送などを行い、同時に後方の箕冠城に戦況を早馬で伝えた。


 そうして戦の後始末をする一方、今後の戦闘に向けての準備も進められた。
 夜半、景虎の天幕で兼続は口を開く。
「武田が出てきた以上、颯馬の策は御破算なのですから、ここからは景虎様が公言の責任をとっていただかねばなりませんね」
 今回の戦に先立つ軍議での発言を持ち出され、景虎は小さく笑った。もっとも、それは軍議の発言とは関わりない微笑だったが、兼続はそれとわからず、首を傾げて問いかけた。
「どうしたのですか、景虎様?」
「いや、兼続が颯馬のことを『颯馬』と呼ぶ日が来るとは思わなかったのでな。少し嬉しくなった」
「そ、そんなことは今はどうでもいいでしょうッ。ともかく、今後のことですッ!」
 かすかに頬を赤らめた兼続に、景虎は笑いをおさめて頷いてみせる。
「わかっている。もっと兵を連れて行けという颯馬に、三千で十分、といったのは私だからな。兼続の言うとおり、大言の責任はとる」
「わ、私は大言とは言っておりません! 景虎様であれば、この程度の兵力差、はねかえすことは出来るとわかっておりますゆえ」
「ありがとう、兼続。その信頼には是非とも応えねばならないな。この程度で音を上げては、佐渡にいる颯馬にも申し訳が立たない」
 景虎の言葉に、兼続はやや不本意そうな表情で口を開く。
「景虎様は、随分とその、そう――ではない、天城のことを気にかけるのですね?」
「無理に天城などという必要はなかろう――だが、そうだな、兼続の言うとおり、確かに私は颯馬を気にかけているのだろう」


 自身の内面に問いかけるように瞼を閉ざす景虎に対し、兼続は少なからずためらいを見せた末に口を開いた。
「それは、何故、なのでしょうか?」
 その兼続の問いに、景虎は戦場に似つかわしくない穏やかな表情で笑ってみせた。
「颯馬は、姉上から譲り受けた臣だ。颯馬に無様を晒すことは、姉上に無様を晒すに等しいこと。颯馬の前では常に誇れる自分でありたいのだ。それが一つ。後一つは、そう、兼続と同じだな。私が天道を歩く助けとなりたい……そう言ってくれた颯馬の芳心に報いたい。なればこそ、恥ずべき姿は見せられぬのだ」
「そう、ですか……」
 景虎の答えが、半ば案じ、半ば恐れていた答えではなかったことに、兼続はほっと安堵の息をもらす。
 もっとも、すぐに自身のそんな感情を恥じて、慌てて首を左右に振って邪念を払う兼続であった。


「兼続?」
 訝しげに問いかける景虎に、兼続は慌てて首を左右に振る。
「な、なんでもありません。そうですね、私としても、佐渡の颯馬に役立たずだと思われるのは心外です。ここはなんとしても颯馬に先達の力を示してみせましょう。少なくとも、国境に奴らを釘付けにする程度の働きはしてみせます」
「ほう、兼続がそこまで断言するとはめずらしい」
 目を丸くする景虎に、兼続はやや頬を赤らめた。自分らしくない広言だということは、言われずともわかっていたからである。
「頼りない軍師を助けるのも将たる者の務め。それ以上の意味はありませんッ」
「ふふ、そういうことにしておこうか」
「しておくとかではなく、事実そのとおりなんですッ」
 めずらしく主君に対し、がーと吼える兼続に、景虎は小さく噴出した。
「颯馬が来てから、兼続は随分と感情を面に出すようになったな。それだけ余計な力が抜けているということなのだろう。うむ、良いことだな」
「景虎様、良い加減に颯馬の奴を引き合いに出すのはおやめくださいッ!」


 ますます頬を紅潮させる兼続に暖かい眼差しを注ぎながら、景虎は本来ならばこの場にいた筈のもう一人の配下のことを思い起こす。
 春日山城での軍議において、今回の戦略案を披露した天城は、続けてこう述べた。
『――この策の通りに戦を進めることが出来れば、武田と五分以上の戦が出来るでしょう。しかし、晴信殿をはじめとする武田の将たちが、素直に私の掌で踊るとも考えにくいのも事実です』
 天城はそう言うと、地図上の飯山城を指し示し、自分の策が見抜かれた場合の武田の動きを予測する。
『かりに、私の策が見抜かれた場合、飯山城は武田領に孤立してしまいます。さすれば、箕冠に詰める後詰の部隊はこれを救援するために向かわざるをえません。見殺しにすれば、上杉家の武名は地に落ち、以後、当家を信頼する者はいなくなってしまうでしょうから。もしやすると、先の戦で義清殿を簡単に越後に逃がしたのは、このためかもしれませんね』
 武田軍は、上杉軍の増援を満を持して待ち構え、これを殲滅しようとするだろう。後詰部隊は武田にこちらの狙いを察知されないようにするためにも、精々数千しか動かせない。武田がそれ以上の兵力を動員すれば、苦戦は免れないだろう。


 天城は言葉を続ける。
『もし箕冠の部隊が破れれば、我らはさらに増援を出さざるをえません。それも、時をかければ飯山城が陥落してしまう恐れがある以上、越後で兵力の集中を待つ時間はなく、兵力を逐次、投入していかなければなりません』
 そして小出しにされた増援は、武田軍にことごとく潰される。それはあたかも、巣を襲うスズメ蜂に、単身で挑み続ける蜜蜂の如くであろう。
『武田家にとって、いわば飯山城はまたたび。その匂いに惹かれた上杉という名の猫を討ち果たし、越後という鯛を取ろうとする可能性は捨て切れません』
 それゆえ、今回の戦において、最も重要なのは箕冠の部隊である、と天城は言う。
 もし上杉の作戦通りに事が進んだ場合、この部隊は旭山城を強襲し、かつ間もなく現れる武田の本隊と対峙しなければならない。
 もし天城が恐れる事態になった場合も、おそらく自軍を大きく上回る敵の精鋭部隊と長期間にわたって対峙する必要が生じる。この方面の部隊が破れれば、上杉軍はなし崩し的に敗亡への道を歩みかねないのである。
   
  
 衆目の一致するところ、箕冠に駐留する部隊を率いる者は、長尾景虎しかいなかった。
 その下に直江兼続が従ったのも当然である。
 だが、自身がそう望んだにも関わらず、天城颯馬はこの部隊ではなく、佐渡の制圧を命じられた。
 上杉全軍を動かす策をたてた以上、もっとも危険な戦場に立つことを当然と考えていた天城は、この命令に驚くが、実のところ、さして意外な人事というわけではなかった。
 佐渡制圧も十分に困難が予想される戦であり、政景を補佐する人材が必要となるのは当然のこと。そして、現状、春日山城でもっとも政景と馬が合っているのは天城だったりするのである。
『さて、じゃあ思う存分、颯馬をこきつかってあげましょうか!』
『……お手柔らかにお願いします』
 からからと笑う政景と、その政景の言葉に、深いため息を吐きながら応える颯馬の顔を見て、景虎は佐渡制圧の成功に、はや確信に近い思いを抱いたものであった。




 今、戦は、天城が恐れていた事態となってしまった。
 景虎は思う。
 おそらく、颯馬はこれを半ば予期していたのだろう、と。
 だからこそ、あれほどこちらの部隊に身をおきたいと願ったのだろう。それは、颯馬の責任感のなせる業であろうが、しかし、それだけではないことに、景虎は感づいていた。
 具体的な言葉で表すことは難しいが、あの青年の別の一面――己が生死を埒外に置いているあの危うさが、景虎にかすかな危惧を抱かせたのだ。
 武田に策を見破られた場合、あの青年は我が身を犠牲としても勝利を掴もうとするのではないか。そう、かつて春日山城で自身もろとも景虎を焼き殺そうとした時のように。


 天城を佐渡に置いたのは、政景の補佐の為。それは間違いない。しかし、それが理由の全てではなく、颯馬の行動への危惧が含まれていることを、誰に指摘されるまでもなく景虎は気づいていた。
 もっとも、この時の景虎の考えは、危惧以上のものではない。言い換えれば、漠然とした不安のようなものだったのである――景虎が、佐渡の戦における詳細を知るまでは。


 後に、景虎の不安がはっきりとした形を得て、その胸に根を下ろすことになる切っ掛けとなる戦いが、今、佐渡の地で行われようとしていた。





◆◆





 佐渡島雑太城外国府川。
 上杉軍と、本間氏を中心とした佐渡の国人衆の軍は、国府川を挟んで向かい合っていた。
 この時、羽茂城を奇襲で陥落させていた上杉軍は、佐渡の南端を制圧しており、越後からの援軍を迎え入れていた。斎藤朝信を主力としたその数はおおよそ一千二百ほど。これに政景が率いてきた二百と、さらに佐渡の一部国人衆を加えた上杉軍の総兵力はおよそ千八百。
 対する本間軍の兵力は、佐渡の中部および北部の国人衆を中心としておよそ三千に達していた。これは本間氏の動員能力を越えた兵力であり、河原田城主本間貞兼は、少年や老人までも徴兵して、その数を可能としたのであった。


 今、その農民兵は最前線に置かれて上杉軍と向かい合っている。そのほとんどが、刀も槍も持たず、農具で武装している有様であったが、逃亡する気配は見せていなかった。あるいは、見せることが出来なかったといった方が正確か。
 彼らの後ろには本間氏を中心とした佐渡の国人衆たちが刀や槍、弓を連ねて陣を布いており、それが督戦の意味を持つ布陣であることは誰の目にも明らかだったからである。



 なりふり構わずに勝利を求めた本間貞兼と、その隣に座す本間左馬助の二人の顔には、常の余裕はすでにない。
 赤泊城の陥落、そして羽茂城の落城。
 惣領たる本間有泰を強引に肯わせ、上杉への叛旗を翻した、まさにその直後に続けざまに知らされた凶報への驚愕は、いまだ冷めやっていなかったのである。
 ことに居城を失った左馬助は、落ち着かない様子で目線を絶えず左右に向け、ときおり歯軋りの音をたてては、周囲の者に気味悪がられていた。だが、左馬助はその視線に気づく心の余裕はなかったし、かりに気づいたとしても、同じことをしていたであろう。それほどに今の左馬助は平常心を失っていたのだ。


 だが、それは貞兼にしても大してかわらない。
 無論、貞兼はいずれ越後側の侵入を招くことを予測はしていた。だが、それは少なくとも今回の武田との戦が終わった後の出来事であり、上杉勢の侵入に備える時間はまだまだ残っている筈だったのである。
 むしろ貞兼は、こちらからどのように侵攻するべきか、そればかりを考えていた。
 だが、上杉軍は想像を絶する速さで佐渡に踏み込んできた。まるで、本間家が上杉に叛旗を翻すことを、その時期さえもわかっていたかのように。



 だが、一度敵を前にすれば、戦う以外にない。今更、白旗を掲げても手遅れであろうし、上杉軍といっても、全軍挙げて攻め込んできたわけでもない。兵力数からいえば、こちらが圧倒的に優勢なのである。
 そう判断し、一応の落ち着きを取り戻した貞兼は、全軍に進撃を命じる。今はともかく眼前の上杉勢を蹴散らし、佐渡から上杉の旗を一掃することが先決であると判断したのである。
 かくて、農民を壁として前面に押したてた本間軍は、国府川を渡って対岸の上杉軍へと突撃を開始したのである。そこには陣形らしきものはなく、ただ農民と国人衆の部隊が大雑把に分けられているだけであった。
 国人衆はそれぞれの手勢を率いながら、しかしすぐに渡河をしようとはしなかった。前軍の農民たちが上杉勢を少しでも消耗させるのを待つつもりであると思われた。




 対する上杉軍は、この時、部隊を三つに分けていた。
 すなわち本隊八百を政景が率い、左翼に斎藤朝信の五百を配置し、右翼には天城颯馬の五百が陣取っていた。
 当初、政景は魚鱗陣を敷き、みずから先陣となって敵軍を真っ二つに分断してやるつもりであった。
 だが、敵の前軍が少年と老人の軍であると知り、あっさりと作戦を変更する。
 みずから壁となって敵の攻勢を受け止め、その間に左右の部隊で敵を押し包む鶴翼の陣を敷いたのである。
 無論、政景の狙いは敵の前軍をあしらいつつ引き寄せ、その間に斎藤、天城の二将を以って敵の後軍――佐渡の国人衆の部隊を攻めさせることにあった。
 前後の部隊を分断すれば、農民たちは死を賭してまで戦い続けようとはしないだろうとの政景の読みに、左右の二将は一も二もなく頷き、政景の作戦案を諒としたのである。




 かくて日の出と共に始まった戦は、佐渡の命運を決する一大決戦であり、容易に決着はつかないものと思われた――より正確に言えば、本間側の諸将はそう考えていた。
 彼らは自分たちが何処の軍と対峙しているのかを、この期に及んで理解していなかったと言える。
 退却すれば殺されるとわかっている農民たちは、死に物狂いで眼前の政景部隊に襲い掛かる。刀どころか木製の農具を持つ者さえいる敵部隊に対し、政景は適度にあしらいながらも徐々に陣列を下げ、河岸から離れていった。
 その進退は巧妙を極め、対岸で戦況を窺っていた本間軍は、政景の部隊が農民たちの勢いに徐々に押されていると信じ込んだ。


 農民ごときに押される軍など恐るるに足らず。奇襲ではなく、正面から対峙すれば、兵力の多い方が勝つのが戦というものである。
 そう考えた佐渡の国人衆は、喊声と共に次々と国府川に足を踏み入れ、一斉に渡河にとりかかった。
 その様子を、右翼にあって黙然と眺めていた天城颯馬は、武田軍の山県昌景を師とするようにじっと軍を動かさずにいたが、本間軍の半ば以上が渡河をはたしたことを確認するや、たちまち采配を揮って麾下の全軍に攻撃を命じた。
 時を同じくして、左軍の斎藤朝信も部隊を動かし、上杉軍の両翼は何の打ち合わせもないままに、瞬く間に挟撃態勢を築き上げ、河岸の本間軍に襲いかかっていったのである。




 
◆◆




 馬上、鎧甲冑を身に着けずに戦場の只中を進む俺の姿は、やはりというべきか、敵味方双方の注目の的であった。
 俺が手に持っているのは刀でも槍でもなく、ただの鉄の扇である。言うまでもないが、馬に跨ったままこれを振るったところで、敵兵を討ち取るどころか、傷をつけることさえ出来はしない。
 ただ配下の兵士に指示する際に指揮棒の代わりに用いているだけである。
 これが部隊の一番奥で指揮をしているだけなら、ここまで目立ちはしなかっただろう。だが、今、俺がいるのは部隊のほぼ最前線であり、周囲には敵兵が群れをなしていたりする。
 彼らは俺の姿を見つけると、一様に驚きの表情を浮かべた後、何事かに思い当たった様子で血走った目を向けてきた。


 今もまた一人、俺に気づいた敵将がいた。
「敵将、天城颯馬だ! 戦場に甲冑もなしとは気が狂うたか! 弓兵、構えッ、手柄首ぞ、討ち取れェッ!」
 絶叫と共にその武将が命令を下すと、配下の兵はそれにしたがって一斉に弓を構え、次の瞬間、片手に余る数の矢が俺に向かって射放たれる。
 討ち取った、と敵将は思っただろう。だが。


 轟、と。


 唸りをあげた豪槍が一閃するや、俺の身体に突き立つ筈だった矢は、すべて宙空でへし折られ、力なく地面に落ちていく。
 弥太郎の槍働きであった。
「天城様に手出しはさせませんッ」
「く、小癪な女めが。かまわん、続けて射よ! 天城を討ち取れば、上杉は大打撃を被る。貞兼様も喜ばれようぞッ!」
 
   
 佐渡の地にまで知れ渡っている虚名の大きさに、俺は思わず苦笑をもらす。俺を討ち取ったところで、上杉が大打撃を受ける筈がないというに、一体噂はどれだけ膨れ上がっているのやら。
 だが、俺の苦笑を、当の相手は別の意味にとったらしい。
 怒りを露にしながら、馬をあおった。どうやら部下に任せてはおけないと判断したようだ。
「本間貞兼が臣、氏家半兵衛、天城颯馬、その首、頂戴いた――ぐァッ!」
 今まさに駆け出そうとした氏家某は、突如奇怪な絶叫をあげ、咽喉をおさえながら落馬した。
 俺の視界に映った鈍い輝きは、敵将の咽喉を貫いた小刀であったのか。
 将の死に動揺しながらも、弓に矢を番えようとした兵士たちは、次の瞬間、使い慣れた弓から受ける奇妙な感触に戸惑いの声をあげ、そしていつのまにか全ての弦が断ち切られていることを知る。
 姿は見えないが、段蔵の仕業であろうと思われた。


 同じようなことが、先刻から幾度繰り返されたか、正直数えるのも面倒なほどだ。
 だが、これこそ俺の狙いでもある。敵の目を自身に惹き付け、敵の動きを誘導する。俺に注意を惹けば、その隙を衝くのは容易いことだ。そのためにこそ、弥太郎たちの反対を押し切って無防備な姿で戦場に出てきているのである。
 上杉軍の大軍師、長尾晴景股肱の忠臣、長尾景虎が三顧の礼をもって迎えた懐刀などなど、越後の国では、俺の名はいつのまにやらえらく大きく膨れ上がっていた。その理由は無論、先の越後内乱なのだが、中でも春日山城で、鎧甲冑をまとわず、丸腰で景虎様と対し、城ごと焼き払おうとしたくだりは大きな評判となっているそうな。


 逆に言えば。
 鎧甲冑まとわずに、丸腰で戦場に出れば皆が気づくのだ。
 あれこそ、天城颯馬である、と。


 そして、俺の虚名が大きいがゆえに、敵は俺の存在を無視できない。同時に、味方は俺を守るために奮起してくれるという寸法である。
 俺が前面に出るだけで、敵の注意を引き、味方の士気を高めることが出来るのだ。多少の危険など考慮するにも値しないだろう。
 とはいえ、刀も矢も、俺にだけ向けられるわけではない。当然、俺の周囲の将兵にも危険はおよんでしまう。俺個人に限定したとしても、鉄扇一本ですべての脅威を排除することが出来ない以上、今のように弥太郎たちに守ってもらう場面が出来てしまう。
 戦場でそれがどれだけの負担になるかくらい、俺にもわかる。それゆえ、弥太郎や段蔵ら俺の麾下の者たちには、甲冑を着てくれという彼らの請願を退けた際、思うところを正直に口にして、不満があれば他の将のところに移れるよう取り計らうことを約束したのだが。


「そ、そういう意味で言ったんじゃありませんッ!」
 と弥太郎には顔を真っ赤にして怒られ、正座させられ。
「……」
 と段蔵には無言で非難と呆れの視線を向けられ、素でへこんだ。
 他の者たちの反応も大体二人と大差なく、俺は改めていつのまにやら良臣を配下にしている自分の運の良さをしみじみとかみ締めたのである。



 ともあれ、俺はその存在を陣頭で誇示しつつ、麾下の兵を指揮して本間軍を押し込んでいった。
 相手も必死なのだろうが、正直、柿崎景家や長尾景虎と戦ってきた俺は、本間軍に一向に脅威をおぼえない。
 俺と斎藤朝信で左右から本間軍をもみたてている間に、農民兵たちを降伏させた政景様が満を持してあらわれ、上杉軍は三方より本間軍を押し包み、これを撃砕することに成功する。
 激戦になると思われた国府川の合戦は、日の出に始まり、日が中天に達する頃、すでに決着がついていたのである。





◆◆




 勝敗がついた戦場で、上杉軍の将たちは一堂に会し、互いの健闘を称え合うと、すぐに今後の動きに話題を移した。
 最初に口を開いたのは政景様である。
「これで終わり、というわけには行かないようね」
「御意。敵の本隊は対岸で高みの見物をしておったようですからな」
 斎藤朝信が、かすかに表情を強張らせながら口にする。本間軍の戦い方が気に入らなかったのだろう。もっとも、それは朝信に限った話ではなく、政景様にしても、俺にしても、同じ心境であった。
「報告によれば、敵は雑太城に入りました。後方の河原田城と連絡を密にしているようで、まだ抗戦するつもりなのかもしれません」
 俺の報告を聞き、政景様は鼻をならす。
「ふん、往生際の悪い連中だこと。これだけ叩かれて、まだ力の差がわからないのかしらね」
 朝信が同意するように頷いた。とはいえ、朝信には本間家への理解もある。
「長年、佐渡を支配してきた者たちですからな。そう簡単に負けを認めるわけにはいかぬのでしょう。彼奴らにとって、佐渡は父祖の地でありますゆえ」


 その朝信の台詞を聞き、俺はふと危惧を覚えた。
「颯馬、どうしたの、難しい顔して?」
「いえ、今の斎藤殿のお言葉で思い至ったことがあるのですが」
 俺の言葉に、朝信が興味深そうな視線を向けてきた。
 思えばここにいる三人は、先の内乱時、同じ陣営に立った三人である。不思議な縁であるといえるかもしれない。
 ともあれ、俺は自分の推測を口にすることにした。
「父祖の地を奪われないためにどうするか。連中が上杉家の力を見損なっているのであれば、また戦を仕掛けてくるでしょう。ですが、もしすでに奴らが自分たちに勝ち目がないと悟っているとしたら、取れる手段は――」
「降伏、ですな」
「はい。それしかありません」
 俺は朝信の言葉に頷いてみせる。
 政景様が首を傾げた。
「堂々と叛旗を翻したんだもの、今更、頭を下げたところで許されないことくらいわかっているんじゃないかしら?」
「わかっているでしょうね――だから、生贄を用意しているのかもしれません」


 一瞬。朝信と政景様の目に、紫電が走った。
「――本間の惣領、有泰は雑太城にいる。なるほど、そのための雑太城ね」
「ふむ。子供と老人を戦に連れ出すやり方を見るに、十分ありえる話ですな。これは急ぐ必要がある」
 俺の危惧を正しく察した二人は、たちまち表情に鋭気を宿した。
 政景様は鋭い視線を俺に向け、口を開いた。
「颯馬、策は?」
「主力を雑太城を迂回して河原田城へ。堂々と進軍して、敵にそのことを見せ付けてやりましょう。敵将本間貞兼、居城よりも、主筋の人物を守るような人物ではありません。おそらく、可能な限り早く兵を率いて河原田城へ戻るでしょう。それを確認した後、我が軍は雑太城を包囲します」
 俺は一つ息を吐いてから、さらに説明を続けた。
「軒猿からの報告によれば、本間有泰殿は道理を心得た人物であるとのことです。それが真であれば、雑太城ではこれ以上の血は流れないでしょう。後は有泰殿の話を聞いて、今後の対応を定めるのがよろしいかと」
 仮に有泰が敵にまわるとしても、その時は討ち取るべき首が一つ増えるだけで、こちらの作戦が大きく変わるわけではない。


 もっとも、いずれにせよ貞兼がおとなしく上杉に従うとは思えず、奴に河原田城に篭られると要らぬ時と兵を費やすことになる。出来れば佐渡平定に時間をかけたくない俺は、雑太城奪還の準備を進める一方で、退去する貞兼の軍勢を捕捉し、可能であればこれを撃滅するため、段蔵に一働きしてもらうことにした。
 その俺の案を聞いた政景様は軽やかに頷くと、勢い良く立ち上がり、部隊を指揮するために歩を進めた。
 俺と朝信はすぐさまその後ろに続く。
 佐渡平定に到る最後の一山が、目前に迫りつつあった。




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