赤泊城、陥落。
本間軍と上杉軍は数の上では互角であるが、あちらは城にたてこもっている。正面から戦えば、苦戦は免れないと思われていたが、協力者である藍原正弦と軒猿の手引きによって、夜襲を敢行した上杉軍が目にしたものは、幽鬼でも見るような驚愕の眼差しと、予期せぬ敵襲に慌てふためく赤泊本間軍の姿であった。
「手応えなさすぎね」
「まったくこちらの軍の動きに気づいていませんでしたから。藍原殿と、軒猿の手柄ですね」
政景様の呆れまじりの言葉に、ようやく船酔いから復活した俺が言葉を添える。
「うん、こっちの被害は?」
「死者三人、重傷八人、軽傷は二十人ばかり、といったところです。さすがは上田長尾の精鋭ですね、城攻めをしたとは思えない被害の少なさです」
「当然よ、私が手塩にかけて育てた兵たちですからね」
もっと褒めろ、とばかりに無い胸を張る政景様であった。
実際、政景様の軍は強かった。
敵が不意をつかれて混乱していたことを差し引いても、政景様以外でこれほど速やかに赤泊城を陥とすことが出来る武将は、越後でも一握りだろう。
元々、上田坂戸城の長尾房長は、為景の一族の中でも出色の豪将であった。当然、その配下の将兵も精鋭として知られている。
そして、その房長の娘である政景様は、ただしく父の血を受け継ぐ驍将であった。
刀をとっては敵兵を寄せ付けず、兵を指揮しては付け入る隙を見せず、逆に的確に敵の防備の弱いところを見抜いて敵陣を切り裂いていく。
襲撃あるをまったく予期していなかった赤泊の兵は、政景様の武威に一矢報いることさえ出来ず、城を捨てて逃げ出そうとしたが、そこを待ち構えていた俺と軒猿たちに一網打尽にされた。城主をはじめ、主だった重臣たちはことごとく上杉軍の捕虜となっている。
政景様の率いる軍勢は、景虎様ほどではないにせよ、それに迫る武威であるといって良いだろう。もう一つ付け加えるならば、政景様は相手が強ければ強いほど、兵の数が多ければ多いほど、その実力をより高く発揮していく型なのかもしれない。
敵のもろさに不満げな顔をしている政景様を見ていると、そう思えてしまう。いずれにせよ、今回の敵が、政景様の相手をつとめるには役者不足であったことは否めない事実であるようだった。
――『今回の敵』とは、赤泊城の敵だけではない。赤泊城を含む、佐渡島を統べる勢力すべてを指す言葉である。
赤泊城を陥落させれば、佐渡の事実上の支配者である本間貞兼と、左馬助が動き出す。わずか二百の上杉勢では苦戦は免れない――おそらく、今回の戦の協力者である藍原正弦などはそんな風に考えているのだろう。勝利したというのに、彼の表情は硬い。
だが、しかし。
赤泊城を陥とされた時点で、否、俺たちが妨害なく佐渡に上陸できた時点で、すでに今回の戦の勝敗は決していた。その事実に、間もなく正弦は気づくだろう。
「赤田城(越後領、斎藤朝信の居城)に使者を出す……というか、もう出してるわよね?」
政景様の言葉には、俺ではなく段蔵がこたえた。
「はい。夜襲がはじまって、すぐに」
言葉少なにこたえる段蔵。緒戦ですでに勝利を確信したということであろう。
「良い判断ね。朝信であれば、佐渡上陸まで時間はかけないでしょう。朝信の上陸を待って、佐渡制圧にとりかかり――」
言いかけた政景様が、言葉を止めた。俺が挙手したからである。
「颯馬、何か考えがあるの?」
「はい」
俺は頷いて、地図上の一点を指差した。周囲の視線が、俺の指先に注がれる。
羽茂城。本間貞兼と並ぶ実力者、本間左馬助の居城である。
俺はその城を指して、口を開いた。
「斎藤殿を待っていては勝機を逸します。このまま全軍をもって羽茂城を陥落させるべきかと」
「……お待ちくだされ」
唐突にも思える俺の提案に、慌てたように口を開いたのは藍原正弦であった。
一見すると三十路の半ばを過ぎたようにも見える正弦の実際の年齢は、実のところ三十をわずかに過ぎた程度。老け込んで見えるのは、赤泊の領民や佐渡の今後を憂えてきた心労によるものである。
今や表情の一部にもなってしまった眉間のしわを深くしながら、正弦は俺にむかって口を開いた。
「羽茂城の城兵はおおよそ八百。現在の上杉軍では、城を陥落させることは難しいでしょう。上田の殿の仰るとおり、援軍を待つべきかと存ずる。羽茂本間家は、当家ほど甘くはございませんぞ」
その言葉に、俺はあっさりと頷いてみせる。
そして言った。
「だからこそ、早目に潰しておく必要があるのです。羽茂が赤泊の落城を知らない今こそ、その好機と考えます。この城からの使者と偽って城内に入ることは、さほど難しくはござるまい」
この城の庫の金の半分ももって、ご機嫌伺いに来たとでも言えば羽茂城は喜んで城門を開いてこちらを迎え入れるだろう。
正弦は俺の言葉を吟味するように、しばしの間、目を閉じる。
「……確かに。当家は羽茂城にしたがっておりましたゆえ、不自然ではありませんな。しかし、この城はいかがなさるおつもりか?」
「放棄します」
またしてもあっさりと言う俺に、正弦は目を丸くした。
「放棄……捨てるということでござるか。しかし、それでは……」
「より正確に言えば、しばらく放っておく、ということです。何も城を手にいれたら、必ずそこに兵を入れて持ち城にしなければならないというわけではありません」
賊や落ち武者に悪用されないように焼き払おうかとも考えたが、火を放てばその煙から羽茂家に情報が伝わってしまう可能性もある。
城の金の残り半分と、兵糧のすべては赤泊の民に配り、怪我人の面倒を見てもらう。ついでに捕虜たちの面倒もお願いしてしまおうか。
城は四方の城門、すべてを開け放っておいておこう。平然と門を開けておけば、逆に入りにくいと感じるだろう。それも長い間ではない。斎藤勢が来るまでのわずかな間である。
その間に組織だった軍が赤泊城を占領するような事態は、まず起こらないだろう。唯一考えられるとすれば、逃げ散った兵士たちが取って返してくることだが、金も兵糧もない城に敗兵がたてこもったところで脅威になる筈がない。
俺の説明を聞き、正弦は小さく唸った。そして、それ以上反論しようとはしなかった。
政景様も、その計画に頷いて賛意を示す。
「よし、颯馬の策でいこう」
「御意。将兵には無理を強いることになってしまいますが……」
「ふふん、私の麾下に、この程度で根を上げるような軟弱な奴はいないわ。で、この地は誰に任せる?」
「それは当然、藍原殿にお願いしたいと……」
そう口にしかけた俺に、正弦は首を横に振ってみせた。
「藍原殿?」
意外におもって問いかけると、正弦はまっすぐにこちらを見た。
「拙者は羽茂城の者たちにも、それなりに名を知られております。城内に入るにはうってつけでしょう。他の者を使えば、城門で遮られる恐れもございますゆえ」
「その申し出はありがたいですが、赤泊のことはどうなさるおつもりですか」
「殿のまつりごとに不満と不安を抱いていたのは拙者だけではござらんでな。此度も幾人もの同志が協力してくれたのです。彼らにこの地の差配を任せて問題はないと心得る」
「なるほど……」
自信に満ちた正弦の言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
だが、特に問題はないと判断し、決断を仰ぐために政景様に視線を向ける。
すると、政景様も俺と同じ判断をしたのだろう。即座に正弦の進言を受けいれた。
「さて、じゃあ使者は正弦と、颯馬、あんたにやってもらいましょう。貞興と段蔵がいれば、滅多なことはないでしょう」
「御意」
政景様の言葉に頷き、頭を下げる。
段蔵も無言でそれにならったが、ただ一人、ここまで無言で座っていただけの弥太郎は、政景様の口から唐突に自分の名前が出たことに驚いてしまったらしい。
「が、がんばりますッ!」
と大声をあげ、驚いたような呆れたような周囲の視線に気づき、今度は顔を真っ赤にして深々と頭を下げ――下げすぎて、がつんと、やたら良い音がした。
「……大丈夫か、弥太郎?」
あまりに良い音だったので、俺がおそるおそる尋ねると「だ、大丈夫です……うう、いたいよう」と弥太郎の湿った声が返ってきた。
場違いな(と当人は思っている)軍議に出され、ずっと緊張しっぱなしだったのだろう。ようやく終わると思った途端の呼びかけに、なんとか保ち続けていた緊張の糸が切れてしまったようだった。
政景様はそんな弥太郎を、しばし無言で見ていたが、やがて耐えかねたようにぷっと吹き出すと、その口からは押さえきれない笑い声がこぼれだした。
「く、くく、や、やっぱり貞興は面白いわね。元々そうだったのか、颯馬に仕えたからそうなったのか、どっちだと思う、段蔵?」
「朱に交われば、と申します、守護代様」
「つまり、原因は颯馬ということね」
「御意」
あっさり頷く段蔵。多少はかばってもらいたいもんである。
そんな俺の内心を読んだのか、段蔵はぼそっと呟いた。
「否定できない事実ですから」
「そんなことは……」
「ない、と断言できますか?」
「――できません」
しゅんと俯く俺の隣で、政景様がころころと笑いながら、段蔵にこんなことを口走る。
「つまり、あんたもいずれは赤くなるということね」
「ありえません」
間髪いれずとはこのことか。
そう驚愕するくらい、一瞬の間すら置かず、段蔵が政景様に反駁した。
だが、政景様はそ知らぬ顔で続ける。
「それはそれで見てみたい気もするわ」
「断じてありえません」
「こう、頬をあからめる段蔵とか」
政景様の言葉に、思わずその姿を想像してしまった俺は、怖気で背筋がふるえるのを感じた。
見れば、弥太郎や正弦も似たような顔をしている。
「天地がひっくりかえろうとありえません――それはそれとして、そこで妙な顔をしている三人。お話がありますので、軍議が終わっても帰らぬように」
段蔵の言葉に、俺は手で顔を覆い、弥太郎は小さく悲鳴をあげ、正弦は渋柿を口にしたような渋面になる。
そして、その状況をつくりだした政景様は、そんな俺たちの様子を見て、さらに笑い声を高めるのだった。
◆◆
信濃飯山城。
旭山城の北東に位置するこの城は、険阻な山中に建設された山城である。城の東側は断崖で遮られているため、城を攻めるためには北、西、南の三方しかなく、そのいずれも険しい山道を走破する必要があった。
道はほぼ一本道――つまりは城からの見晴らしが良く、城兵は用意していた丸太や巨石を落として城攻めの兵士たちを追い払うことが出来るようになっている。
飯山城は城としての規模こそ小さいが、これを陥落させるためには数倍の兵力を要する難攻の拠点であった。他の信濃の城の多くがそうであるように。この天険ゆえに、長年、信濃を統一する勢力はうまれることはなかったのである。
村上義清率いる北信濃勢五百が、この難攻の飯山城を陥落させることが出来たのは、地理に精通していたこともさることながら、武田側の守備軍がきわめて少なかったからであった。
しかも、そのほとんどが、先の信濃制圧戦で、善戦の末に降伏した信濃の国人たちであった。彼らは致し方なく武田家に降伏したものの、心底から武田に従っていたわけではない。時至らば、との思いは彼らの胸中にずっとたゆたっていたのである。
その為、忽然とあらわれた義清の軍旗を見るや、彼らは抵抗のための武器をとるより早く、歓呼の声をあげ、城門を開いて義清を迎え入れたのである。
武田側の指揮官は、いつのまにかその姿を消していた。
こうして義清の手に落ちた飯山城は、遠からず来襲するであろう武田軍に対抗するため、防戦の準備に追われることになった。
武田軍の脅威は、全員が骨身に染みている。城の天険に頼るだけのこれまでの戦い方では、再び敗北の恥辱を舐めることになってしまうだろう。武田家は独自の城攻め方法を持っており、もっとも信濃勢に恐れられたのは、甲州金山などの鉱山事業において優れた掘削技術を実践している金堀衆を、山城の水を絶つために用いる手法であった。
いかに武勇に優れた将兵が、防備の固い山城に篭ろうとも、水が無ければ抵抗のしようがない。
時には何里も離れた場所から地中を掘り進んでくる金堀衆に対抗する術はない。水が絶たれてしまえば、あとは城を離れて野戦で勝敗を決するしかないのだが、そうすれば満を持して待ちかまえる武田の騎馬隊に一蹴されてしまうという寸法である。
そのため、特に水の確保は絶対に欠かせない。過去の経験からそれを知悉していた義清は、越後から百を越える樽を城内に運びこみ、これを土蔵に保管した。無論、そのすべてに満々と水を湛えた上でのことである。
さらには臨時に貯水池をつくり、そこに水を貯えるなど、長期の篭城に備えるための作業を大急ぎで進めていった。
一方で義清は、北信濃各地に潜伏している旧臣に向けて書状を出し、飯山城奪還の成功を知らせ、士気高揚をはかった。
長尾景虎、直江兼続の後詰があるとはいえ、景虎は箕冠城以南には進んでこない。これは今回の出兵計画に沿ったもので、間もなく動くであろう武田軍の第一波を支えるのは、義清の役割なのである。
義清が飯山城に武田軍をひきつけ、景虎はその武田軍の動きを見た上で、旭山城を襲撃する。これで城を陥とせれば良し。仮に陥とせなかったとしても、飯山城に攻め寄せた部隊は後背を絶たれることで動揺し、退却するであろう。そうすれば義清はその後背を追い討ち、景虎と挟撃して武田軍を撃滅する。
もし、このとき旭山城が陥ちていなかったとしても、主力が潰え去れば、守備兵もそれ以上の抵抗は無益であると悟るであろう。
すなわち、義清が飯山城を保持することが、今回の作戦計画の要となるのである。そのためにも、兵力は多ければ多いほど良いし、可能であれば北信濃各地で国人衆が蜂起し、甲斐から発する武田の本隊の到着を遅らせてくれれば言うことはない。
無論、そこまでうまく事が運ぶことは万に一つであろうが、旧領奪回の好機を知らせておけば、武田に降った者たちを揺さぶることも出来るだろうと義清は考えたのである。
だが、と義清はその類まれな美貌を曇らせる。腰にながれた黒髪が陽光を照らして、一際映える。
周囲の兵士たちが憧憬の眼差しを注ぐ中、義清は一人、今回の戦に思いをおよばせていた。
すでに計画通り、飯山城の防備は着々と固められつつある。諜者の報告によれば、旭山の春日、葛尾の内藤の二将の動きも慌しくなっており、まもなく飯山城奪還の兵が押し寄せてくるであろうということであった。
今頃は佐渡の地でも、甲越開戦の報は広められ、長尾政景、天城颯馬の二将による佐渡平定戦が始まっているだろう。
全ては作戦通り。義清は胸中でそう呟いた。
後は春日、内藤の二将を飯山城にひき付け、箕冠の長尾景虎と挟撃して殲滅し、旭山城を奪回する。
旭山城を陥とせば、景虎と兼続、そして義清はそこに立てこもり、間もなく甲斐の大軍を引き連れてくるであろう武田晴信と対峙する。
この頃になれば、越後での収穫はほぼ終わっているだろう。収穫後の動員については、守護職である定実と宇佐美定満の二人に任せているので問題はない。
動員を終えた後、定満と、そして佐渡の平定を終えていれば、政景と颯馬らが越後の大軍を率いて信越国境を越える。
武田晴信との決戦は、旭山城近郊になるであろう。
全ては作戦通り。
義清は再び胸中で呟く。
そう、作戦通りなのだ。
「あまりにも、うまく運びすぎている」
そう思ってしまうのは、武田に敗れ続けた我が身をかばうためなのだろうか。
根が真面目な義清は、そんな風にも考え、腕組みしながら首を傾げてしまう。
あの天城なる若者が考案した作戦は、対武田というには、あまりに作戦領域が広い。信越国境だけでなく、北の佐渡や西の越中、そして東の蘆名家にまで視野が及んでいた。にも関わらず、それぞれの作戦には無理がなく、堅実とさえいえる内容なのである。
東西の敵には当地の国人衆を充てて防備を固め、南北の敵には春日山の主力を差し向ける。それぞれの軍を孤立させることなく連動させ、かりにいずれかの一軍が敗れても、その後ろには必ず後詰がいるのである。
それは飯山城の義清であれば、箕冠城の景虎、兼続であり、佐渡の政景、颯馬であれば赤田の斎藤朝信であり、西の国境であれば春日山の定満であった。東の蘆名に関しても、すでに坂戸城の長尾房長が新発田城の後詰に動いている。
作戦といえば、どこに軍を進め、どこで戦い、どこの城を攻めるのか。そういった事だと考えていた義清にとっては、天城のそれは作戦というにはいささか範囲が広すぎるように思われた。逆にいえば、それぞれの戦場においてどのように勝利を得るのか、といった視点が欠けているのである。天城の立場でいえば、対武田戦をどのように勝利に導くのか。飯山城をどう守り、旭山城をどう陥とすのかという計画は不可欠のものだろう。
だが、天城は義清がそれを控えめに指摘すると、あっさりと笑って言ったものだった。
「信濃の驍将、村上義清様がおられるのです、私程度の浅知恵で邪魔をするのは憚られますよ。義清様が今の計画に沿って戦術を考えてくだされば、それで結構です。景虎様といかに呼吸をあわせて軍を進退させるかが鍵になるでしょうから、互いの連絡だけは欠かさないようにしてください。私が言えることはそれだけです」
そう言った天城は、その言葉どおり、本来は天城の権限であった権利を丸ごと義清に投げ渡し、自身はその補佐にまわった。水を保管する樽を集めたのも、天城の仕事の一つである。
「不思議な人だ」
義清はそう思う。そもそも、戦に甲冑もまとわず、刀も差さずに出るという一事だけでも奇矯極まりない。だが、ただの変人だというわけでもないらしい。かつて長尾晴景に仕えていた頃、越後内乱の一方を指揮して、長尾景虎と渡り合った話は、越後ではつとに有名である。
机上で作戦を弄ぶ類の人物は、あまり好きになれない義清であるが、天城は春日山城において、自身もろとも景虎を葬り去ろうとしたというから、ただの軍配者きどりの臆病者ではないことだけは確かである。
しかし、平常の天城を見ていると、我が身を賭して主君の敵を葬り去ろうとした苛烈な人物とは到底思えなかった。天城が部下に叱咤される姿を見たのも一再ではない。今度のように、亡命の将である自分の下で進んで働こうとする行動も、天城の地位と越後における立場を考えれば十分に奇異なものと言える。
それゆえ、義清の天城への評価は「不思議な人」の一語に尽きたのである。
義清は思考がそれかけていることに気づき、頭を振った。
義清は思う。自分があれほど苦戦した武田家が、こうも簡単に天城の掌で踊らされることがありえるのだろうか、と。
天城の軍略の才を否定しているわけではない。だが、義清はそれ以上に武田晴信の軍略の冴えを警戒していたのだ。否、恐れていた、と言い換えた方が良いかもしれない。あの甲斐の虎は、それだけ巨大な敵将であった。
収穫期前の攻勢は、甲斐の虚を衝いたと信じている者は多いだろう。だが、義清は、あの武田晴信がこうも簡単に虚を衝かれるとは信じられないでいた。虚実陰陽の使い分けに長じること、晴信以上の者はいない。それゆえにこそ、甲斐はこの短期間であれほど巨大な勢力に成長したのである。
奇妙なまでの確信が、義清の胸中に育まれつつあった。
武田晴信は必ず来る、と。
越後の先制を許し、慌てて甲斐で兵士を徴募し、こちらが旭山城を陥としてからようやく姿を現す。そんな無様を晒す人間では断じてない。
それは、幾度も晴信と手ずから矛を交えた義清の、偽らざる本音であった。
――そして、その義清の考えは、数日を経ずして現実のものとなる。
ただし、飯山城に現れたのは、春日虎綱、内藤昌秀らの北信濃を治める二人であった。その兵力はおおよそ五千。これは上杉側の予測を大きく越える数字であったが、飯山城への敵襲は作戦通りのこと。こちらに大兵を投じたからには、旭山城の防備はそれだけ薄くなっていることだろう。
後は彼らの後背を景虎、兼続の精鋭が襲う。その筈であった。
だが、そうはならなかった。
箕冠城を発し、電撃的に信越国境を突破して旭山城を目指す景虎たちの前に、重厚な布陣を布いた甲州武田騎馬軍団が立ちはだかったからである。
その陣頭に掲げられる旗印は『四つ割菱』と『孫子四如』、そしてその陣頭で上杉軍を睥睨するは、小柄な体躯から、上杉全軍を包み込まんばかりの覇気を奔騰させる一人の少女。
「――どれほどの策を講じようと、全ては私の手の中です」
嫣然一笑、高々と軍配を掲げた武田晴信は、すでに動員を完了した甲州軍団八千に対し、突撃の命令を下す。
対する景虎の軍勢は、三千あまり。農民兵を含まない分、質的には上杉側が優っていたかもしれないが、不意を衝こうとしたにも関わらず、不意を衝かれたことで、兵のみならず、それを率いる将たちの胸にも動揺は及んでいた。
数に劣り、士気に劣る。武田晴信と、長尾景虎の二度目の対峙、そして初めて矛を交える戦は、景虎にとってあまりに不利な状況で始まったのである。