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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/08/30 13:48



 信越国境における武田軍との対峙が無血で終わって数日。
 国境の危険が完全に去ったことを確認した上で、景虎様率いる上杉軍は春日山城への帰途についた。無論、この地の領主たちには厳重な警戒と防備を命じた上でのことである。
 景虎様と武田晴信との舌戦が物別れで終わった以上、いずれ両軍は必ずぶつかる。問題はその時期だが、越後は内乱で、甲斐は信濃制圧で、すでに万を越える動員を行った後であることを考えれば、早期に両軍が衝突する可能性は少ないだろう。大規模な動員のためには農繁期を避ける必要もある。
 それらのことを考え合わせると、次の戦はおそらく晩秋、収穫が終わった後のこととなるであろう。


 春日山城に戻った景虎様は、甲冑を脱ぐ間も惜しんで定実様の下に赴き、国境での報告を行った。
 ――武田との戦、不可避なり。
 その報告を聞いた定実様の顔は強張り、留守居役を押し付けられて不機嫌そうな顔をしていた政景様も表情を改めた。
 越後上杉家にとって、容易ならぬ敵が出現したことを悟ったのである。



 政景様が腕を組みながら、口を開いた。
「景虎がそう言うのなら、武田の野心、疑う必要はないか。ならばこちらも、心置きなく義清殿に合力できるというもの。いや、武田の国力を考えれば、私たちが義清殿に助力するというより、正式に対武田の盟約を結ぶべきかしら」
 上杉家が越後一国を鎮めたばかりであるのに対し、武田家は代々守護職として甲斐を統治し、そして今は信濃のほぼ全土を手中に収めている。単純に国力を比較すれば、おそらく向こうに軍配があがるだろう。
 その武田家に対抗するためには、味方は一人でも多い方が良い。その為には、上杉家が村上家の上に立って助力してやる、という関係ではなく、対等の相手として盟約を結んだ方が良い、と政景は言ったのである。


 極端な話、義清が上杉家を恃むに足りずと考えれば、武田に降って、その下で村上家を再興するという選択肢もあるのである――無論、これは義清の為人(ひととなり)や、武田がそれを受け容れる可能性というものを完全に無視した仮定の話であるが、それでも互いの立場に上下を設けるよりは対等の相手として手を結ぶという案は賛同に足るものであった。
 もっとも、この案に誰より早く反対の意思表示をしたのは、当の義清であった。政景の言葉に首を横に振って、義清は口を開く。
「……私は武田に敗れ、貴家の情けにすがって、この城で起居する身。合力していただけるだけでも感謝しています。この上、上杉家と対等の立場に立って盟約を結びたいなどと考えれば、神仏も私の傲慢をお許しにならないでしょう」
 静かに、しかし確かな意思の強さを感じさせる声で、義清は淡々と言葉をつむいでいく。
「武田の精強は誰よりも知っています。信濃の所領を回復することが、どれだけの難事かも。ゆえに、今は貴家の手足となって働き、その難事に挑むことこそ私のただ一つの望みです」


 義清の申し出は、とても武田の侵攻に抗った人物とは思えない謙譲に満ちていた。それだけ村上義清という人物は、淳良なものを内に秘めているのだろう。
 当然のように、この場にいる諸将は皆、義清に好感を持った。
 そして、そんな越後側の好意は義清にも感じ取れたのだろう。春日山城に来て以来、ずっと張り詰めた表情をしていた義清の顔がかすかにほころんだ。
 越後側と義清との距離が少しだけ、だが確実に縮まる。
 時をかければ、この距離をさらに縮めることも可能だろう。その後の軍議が一層活発になったのは言うまでもないことであった。

 

 その後も軍議は続く。
 武田との衝突の時期については、晩秋と全員の予測が一致したが、武田家が裏をかいてくる可能性は低くない。なにせ相手はあの武田晴信なのである。警戒しすぎるということはないだろう。
 とはいえ、外の大敵ばかりに気を取られているわけにはいかない事情もある。
 上杉家は越後の内乱を鎮めたばかり。表立った反抗は今のところまだないが、それでも人心が一つにまとまっているとは言いがたい状況である。
 武田の侵攻が秋以降になるのであれば、それまでに国内体制を磐石なものにしておきたい。さもなければ武田家の――いや、晴信の鋭利な策謀の刃が、いつこちらの背に突き立てられるか知れたものではなかった。
 この場合、人心の安定とは要するに新しい越後の統治体制が揺ぎ無いことを民衆や国人衆に証明することである。定実様、政景様、景虎様の御三方が、心底から力を合わせていることを知れば、国内でそれに刃向かう力と気概を有する者などいる筈がないのである。
 


 無論、その間、武田側の動きを放置しておくわけにはいかない。
 また、対武田の戦略を練る必要もある。
 景虎様、政景様が国内に専念する以上、武田家に対抗出来るのは定満をおいて他になし。
 これこそ順当というべき人事であった――筈なのだが。
 越後一の智者は、俺がそれを口にする前に、のんびりとこう言い放ってくれやがったのである。


「じゃあ、武田との戦は颯馬に任せるね」と。



「……はい? あの、宇佐美殿、今なんと?」
「じゃあ、武田との戦は颯馬に任せるね」
 律儀にもう一度同じことを、同じ口調で繰り返してくれた定満。
 どうやら聞き間違いではなかったようだが、俺は首を傾げざるをえない。
「宇佐美殿、あの、冗談、ですよね?」
「至極真面目」
「はあ、そうですか――って、なんで俺ッ?! あ、いや、私がそんな大役をッ?!」
 思わず声が上ずってしまった。いかになんでも荷が勝ちすぎるだろう?!
 慌てふためく俺を見て、しかし、定満はこともなげに口を開く。
「……何事も経験だよ、颯馬」
「あ、いや、他のことならともかく、武田相手に俺が戦略を練るというのは……」
 越後の国運を賭けた武田との戦いの絵図を描く。その役を任されるということは、将としてこれ以上ない名誉であると言えたが、しかし、さすがにはいわかりましたとはいえなかった。武田晴信を間近で見た後であれば、なおのことだ。
 しかし、見る限り定満は本人が言うとおり真面目そのものである。
 俺は咄嗟に反対をしてくれるであろう兼続に視線を向けたが、なんとも微妙な表情の兼続についっと視線をそらされてしまった。その顔は、困惑する俺を楽しんでいるようにも見えたし、あるいは不満を無理やり押さえ込んで不機嫌になっているようにも見えた。
 何なんだ、この状況、と思いながらも、俺はなおも抗弁しようとする。
 ここは定満よりも、上位者である景虎様に反対してもらう方が良いと考えた俺は、視界に景虎様の表情をとらえ、その涼やかで濁りのない眼差しが自分に向けられていることに気づき、咽喉まで出掛かっていた反駁の言葉をのみこんでしまった。
 ――そこにあったのは、あまりにも明瞭な信頼の眼差しであったからである。




 ――今際の際に、晴景様から託された言葉が胸奥に甦る。
 そう。俺は越後の聖将の傍らにあらねばならない。それが今は亡き主君との約定である。
 しかし、その資格は座して得られるものではない。
 俺はそのことをわかっているつもりだった。
 だが、つもりではいけないのだ。
 そも、武田家と戦うことを拒絶して、どうして景虎様の助けになれようか。
 他の誰が知らずとも、俺だけは知っていたというのに、いざとなればこの様である。それなりにこの地で経験を積んできたつもりだったが、やはり、人格というのは一朝一夕に成長するものではないらしい。


 しかし、遅ればせながらではあっても、気づくことが出来たのは我ながら上出来である。まあ、ほとんど景虎様のお陰ではあるが、ともあれ、ここで俺がとるべき行動は一つしかない。
 正直、自信はないし、不安も尽きないが、それでもこの任から逃がれることは、今日まで積み上げてきたものを自ら捨て去ることに等しい。
(信頼には誠実で、だよな。親父にどやされるところだった)
 内心で、亡き父親の言葉を反芻しながら、俺は一同に向けて頭を下げる。
 定満の要請を受け容れることを表明するためであった。




◆◆




 武田家に勝つ。
 言葉にするのは簡単だが、実際にそれをなすのは至難の業であることは言うまでもない。
 晴信自身の力はもとより、その配下には勇将智将がずらりと並び、一朝一夕には抜くべくもない偉容を誇っているのである。
 山本勘助、山県昌景、真田幸村、内藤昌秀、馬場信春、春日虎綱と並べただけで、もう勘弁してもらいたい気分で一杯である。当然、その下にも小山田やら木曽やら聞き覚えのある名前が目白押しで、彼らが誠心誠意、武田という家に忠誠を尽くしているのだから、これを打ち破るのは容易なことではない。
 だが、そこを何とかするのが俺に課せられた役割である。武田に勝つことは簡単ではないが、武田に勝ちやすい戦況をつくることは不可能ではない。より正確に言えば、武田と互角以上に戦うことの出来る条件を整えること、まずそこから考えるべきであった。


 そのために、俺は武田に関する情報を義清から教えてもらった。武田の情報を知るに、義清以上の者はいない。
 だが、義清の口から武田家に関する情報や人名を聞いていくうちに、少なくない数の疑問が浮かんできてしまう。
 たとえば、この時期、飯富政景が山県姓を名乗っていること。真田家の当主が幸村であることなどである。
 昌景の兄である飯富虎昌や、幸村の祖父幸隆、父昌幸らはどこに言ったのか。その疑問の答えを聞き、俺は驚きを隠すことが出来なかった。



「躑躅ヶ崎の乱、か。やっぱり俺の知っている歴史とは違うんだな」
 夜半、春日山城の自室の襖を開け、縁側で月を見上げながら、俺は小さく呟いた。
 史実では、晴信は北信濃の村上家と激戦を重ね、戸石城攻めでは手痛い敗北を喫している。いわゆる『戸石崩れ』である。
 だが、この地ではその戦いはなかったらしい。義清は善戦敢闘したものの、ついに武田に対して勝利をおさめることは出来なかったと言っていた。
 その代わり、というべきか、武田家は先代信虎と晴信の代替わりに際し、多量の血を流す内乱を経験している。
 甲斐全土を巻き込んだその大乱を、人々は『躑躅ヶ崎の乱』と呼び習わしているそうだ。


 武田の誇る多くの将がこの戦いで散ったらしい。飯富虎昌や板垣信方、真田幸隆らもその中に含まれる。
 もっとも、それだけの内乱を経たにも関わらず、内乱終結後、間をおかずに攻め寄せてきた信濃勢を殲滅し、信濃進出を成し遂げた挙句、現在の精強の家臣団の原型を形成してのけた晴信こそ恐るべきといえた――この世界の晴信は、すでにして後年の信玄レベルの心身を備えているのかもしれない。


 そんな晴信と戦い、勝利しなければならないのだから、俺の責任は重大である。
 とりあえず、実際の戦場における陣立て等の戦術面は、武田を良く知る義清に全面的に委ねた。決して丸投げしたわけではないのであしからず。
 俺が考えたのは、戦場での進退ではなく、戦略的に武田家に対抗する方法である。
 具体的には、対武田の包囲網を築けないか、ということだった。
 

 甲斐、信濃の周囲の有力大名といえば相模の北条と駿河の今川、関東管領である上野の山内上杉氏、美濃の斉藤道三というところである。飛騨や三河は群小の勢力が争っている状況で、他国を攻めるような力はない。
 これらの勢力と結び、武田家を包囲すれば、いかに武田家が強大であっても勝利することは出来る。
 だが、それは難しいと言わざるを得ない。
 まず、躑躅ヶ崎の乱において晴信側に立った駿河の今川は、当然、それ以後武田家と友好関係を保っており、こちらの話に聞く耳を持つまい。
 この時代、まだ後年の三国同盟は結ばれておらず、相模の北条家に関しては、越後側に抱き込むことも不可能ではない。しかし、北条家の目はもっぱら関東に注がれている。その上、今川家と北条家は同盟を結んでおり、上洛を目論む今川家からは両家に対して積極的な働きかけがなされているらしい。
 となれば、遠く越後からの呼びかけに、北条氏康が応える可能性は極めて低いだろう。
 上野の山内上杉家に関しては、北条の執拗な攻勢に苦しめられており、他国を攻めるより先に自国を守らなければならない状況である。
 斉藤道三に関しては、特に武田家と険悪な間柄というわけではない。美濃と信濃は木曽山脈をはさんで地理的に隔絶されていることもあり、こちらが使者を出したところで色よい返事は期待できないだろう。


 つまるところ、武田家包囲網を築くことは至難の業ということである。
 たまたま四方の情勢が、武田家に対して有利に働いている――そう考えるのは無理があった。間違いなく、武田晴信は四囲の情勢を全て考慮した上で越後に刃を向けたのであろう。
 孫子の兵法は外交と情報に重きを置く。三国同盟が成立するのも、そう遠い先の話ではないと思われた。
 敵ながら見事なものと感心せざるをえなかったが、しかし感心してばかりはいられない。武田家包囲網を築くことが無理ならば、次に取り組むべきは、逆に武田側に越後包囲網を布かれないようにすることである。


 越後の周囲には越中、信濃、上野、出羽、陸奥などがあるのだが、武田家と違い、上杉家はそのいずれとも友好関係を築いていない。
 ことに先々代の為景時代、越中に攻め込んでこれを領土に組み込み、また関東管領の血筋に連なる越後守護を放逐したこともあって、この二国と越後はきわめて険悪な間柄となってしまっている。もっとも、上野に関しては、前述の理由で越後に手を出す余裕はないだろうが。
 出羽に関しても、最も有力な大名である最上家の当主が幼少であることもあって、国内がまとまりきれていないので越後に手を出すことはないと判断できる。
 だが、陸奥の蘆名氏は英明な当主盛氏を中心として良くまとまり、隙あらば越後を侵そうとしているらしい。陸奥との国境では頻繁に蘆名方の兵士の姿が見かけられるとのことだった。


 注意すべきは、越中と陸奥。武田が誘いの手を向ければ、おそらく両者は兵を動かす。
 そして、実はもう一つ注意すべき勢力がある。それは春日山の北、日本海を越えた先にある孤島、佐渡島を領地とする本間氏の存在であった。


 かつて、宇佐美定満によって越後を追い出された為景は、佐渡に逃れ、本間氏の協力のもとで勢力を回復させた。そのため、佐渡本間氏は、春日山長尾家の配下であるという意識が薄く、対等の同盟者であると考えている節がある。
 日本海という天然の防壁を有し、佐渡金山という金鉱脈を抱えた佐渡本間氏の力は、越後の国人衆の中でも際立って高い。くわえて、日本海を越えて上越、中越、下越のいずれにも兵を派遣することができるという点も、本間氏を警戒する理由の一つに挙げられるだろう。
 晴景様が城主であった頃、俺は一度として春日山城で本間氏の姿を見かけたことがない。何より、先の定実様の越後守護就任の儀に、佐渡本間氏は代人を遣わしただけだったことが、俺の中の疑念を確かなものとした。




「――しかし、こうやってみると、国内は固まっていないわ、四方は敵だらけだわ、散々な状況だな」
 越後の統一が遅れたというよりは、武田の侵攻が早すぎたせいであろうが、それにしても難儀なことに変わりはない。
 政景様の言葉ではないが、越後の内乱が終わった後で本当に良かった。もし晴景様在世中に武田が北信濃への侵攻を開始していたら、下手すると、前に景虎様、後ろに晴信とかいう洒落にならない状況になっていた可能性さえあるのだから。


 ともあれ、はっきりしたことが一つだけある。
 武田家と戦うためには、今の越後は隙だらけだということ。
 晴信はその隙を見逃すような愚将ではなく、必ず外交で越後を包囲してくるだろう。
 それを防ぐためには、どう動くべきか。



 ――俺がそのことを考えようとした時、不意に、聞きなれない音色が耳に飛び込んできた。
  
  
 

◆◆




 耳に馴染みのない音色は、しかしどこか心の琴線に触れるものだった。
 しばし、俺は考えることを止め、ただ聞こえてくる音曲に耳を澄ませる。
 時に高く、時に低く、よどみなく流れる音色。
 平成の世で、絶えず街中で流れているような騒がしさは少しも無く、人の心に染み入るように穏やかで優しい曲調。
 そよ風に頬をなぜられているような、そんな心地よさと同時に、どうしてか寂しさを――郷愁を誘われる音の連なりに、知らず、俺は聞きほれていた。


 これまで、城内で歌舞音曲の類を耳にしたことは幾度もあるが、こんな澄んだ音色は初めて聞いたように思う。さぞ名のある奏者なのだろう。俺たちが国境に出ていた間に、定実様か政景様が召抱えたのかもしれない。
 どんな人物なのか気になった俺は縁側から立ち上がる。
 演奏の邪魔をしないようにこっそりと音が聞こえてくる方向に足を向けた俺は、やがて俺と同じように縁側で、無心に琵琶を奏でる人物の姿を見つけ出す。


 だが、その人物は、俺が初めて見る人ではなかった。
 俺の気配に気づいたのか、音が途絶え、奏者がこちらを見やって口を開いた。
「どうしたのだ、天城殿?」
 不思議そうに問いかけてくる人物は、誰あろう景虎様その人であった。 






 景虎様に促され、並んで縁側に座った俺は、景虎様が抱える古びた琵琶に目を向けた。
 古びた、というのは俺の主観であり、おそらくは名のある名器なのだろう。
 そんな俺の内心を読んだように、景虎様が言葉を発した。
「朝嵐という。これを奏でていると、心気が静まるのでな――む、もしや眠りを妨げてしまったか? だとしたら済まない」
「いえ、考えに詰まっていた時でしたから、良い音色を聞かせていただけて、かえってありがたいくらいです。まさか景虎様が弾かれているとは思いませんでしたが」
 俺がそういうと、景虎様はくすりと微笑むと琵琶をかきならしてみせる。
 すると、その音に誘われるように、暖かな夜風が吹き付けてきた。薫風。春日山の緑の息吹を豊潤に含んだ風が、俺と景虎様の髪をそよがせる。
 互いに無言でありながら、決して気詰まりではない空間に浸っていると、不意に景虎様が口を開いた。


「武田、晴信」
 景虎様の口からその名がこぼれでた時、俺は驚きを覚えなかった。なんとなく、景虎様がその名を口にするような気がしていたのかもしれない。
 景虎様は言った。朝嵐を奏でると、心気が静まる、と。
 常に自分を見失わず、何事にも平常心をもって臨まれる景虎様が、心を昂ぶらせる相手は限られていた。


「率直に聞きたい。天城殿は彼の者をどう見た?」
 景虎様の問いを受け、俺は考えをまとめながら、ゆっくりと口を開いた。
「一言で言えば、大器、でしょうか。とても俺より若いとは思えませんでした」
 義清に聞いた話では、晴信は俺よりもずっと若い。政景様のように、外見だけ幼いというわけではなく、あの見た目は年相応のものだった。
 逆に言えば、あの年で、あれだけの覇気と知識と口舌の刃を持っているということになる。どれだけの才能を持ち、研鑽を積めば、それが可能になるのだろう。俺には想像もつかなかった。


「……大器、か」
 俺の言葉を聞いた景虎様が、その意味を吟味するように口の中で呟く。
「はい。乱世を終わらせる確かな覚悟と、そこに到る道筋が、おそらく晴信殿には見えているのでしょう。迷いのないあの口ぶりから、そう感じました――残念です」
「む、残念とは?」
 訝しげに問う景虎様に、俺は内心の思いを率直に吐露した。
「乱世を終わらせるという覚悟は、景虎様も晴信殿も寸毫も変わりありません。しかし、そこに到るための道が、お二人の間ではあまりに違う。景虎様の天道、晴信殿の覇道、お二人の道は天下を統べるその時まで交わることはないでしょう。それが残念に思えるのです」
 もし越後と甲斐が手を携えることが出来たならば、おそらく戦国の終結は十年、いや二十年は早まるに違いない。だが、それが現実になる可能性は、おそらくないだろう。
 戦国の偉人である二人の人物を目の当たりにした今の俺には、そのことがとても残念に思えたのである。


 そんな俺の内心を、景虎様は察したのだろう。どこか困ったような顔で、俺の顔を見つめた。
 やがて、ゆっくりとその唇が開かれる。
「確かに、晴信殿の言わんとすることはわからないではない。策謀と欲望が横行するこの乱れた世の中にあって、私の望む天道がどれだけ儚いものかもわかっているつもりだ」
 しかし、と景虎様は続けた。
「私にはこの道しか選べない。この大義を欠いて、拠るべきものを私は持っていないのだ……」
 

 景虎様の述懐は、めずらしく語尾に力が入っていなかった。あるいは晴信の論難に、景虎様なりに思うところがあったのかもしれない。
 それに対し、俺が言えることなど一つしかない。
「はい、景虎様はそれで良いのだと、私は思います」
 その言葉に、景虎様が目をまんまるにする。俺の言葉がよほど意外だったのだろうか?
 めずらしく表情をはっきりとあらわした景虎様の顔は、年相応の女性のものであった。その景虎様に向かって、俺はなおも口を開く。
「天道と言い、覇道と呼ぶ。どちらが正しいかなんてわかりませんが、どちらを選ぶかと問われれば、私は景虎様の掲げる天道を選びます。その先に、戦乱の終結があるのだと信じます。それは多分、私に限った話ではなく、直江殿や宇佐美殿、それに他のたくさんの人たちも同様でしょう」
 奇麗事とか、偽善とか、口さがない者たちは言うだろうが、言わせておけば良い。
 いみじくも景虎様自身が言われたように、景虎様の考えは万人に支持されるものではない。むしろほとんどの者に受け容れられないと考えた方が良いだろう。
 それでも――
「千里の道も一歩から。千年生きる将軍杉にも、苗木の時はあったのです。大切なのは、景虎様が胸を張って歩き続けていくことなのだと思いますよ」
 景虎様の覚悟も、積み重ねてきた研鑽も、いずれ必ず報われる時が来る。歴史を知るからこその言葉であったが、たとえその知識がなかったとしても、俺は同じことを言っただろう。
 我ながら偉そうなことを、と思わないでもないが、それが偽りのない俺の真情であった。
「――風雪に耐え、越後の、いや、天下の民が仰ぎ見るほどの大樹になるか否か、すべてはこれからと、そういうことなのだな」
 俺の言葉を聞き、景虎様は呟くように言った。






 しばしの間、沈黙があたりを包み込む。
 やがて、景虎様が俺に問う眼差しを俺に向け、口を開いた。
「天城殿はどのような拠りどころをもってこの乱世に立ち向かっているのか、聞かせてもらって良いか?」
「拠りどころ、ですか……うーん」
「む、すまない、いささかぶしつけであったか」
「いえ、別にそんなことはないのですが、ただ、あまり胸を張れる理由ではないんで……」
 そう言ってから、俺は景虎様の問いに対する答えを胸の中で整理する。
 乱世に立ち向かう理由と景虎様は言ったが、正直、そこまで確たるものは俺にはない。なにしろ望んでこの地に来たわけではないのだから。
 しかし、ただ状況に流されてここにいるわけでもない。そのあたりを言葉にするのは気恥ずかしいのだが、今も俺を見つめる景虎様の眼差しに抵抗できず、俺はゆっくりと口を開いた。


「――命の恩には命をもって報い、信頼には誠実をもって応える」
 俺の言葉に、景虎様が小さく頷く。
「良い言葉だ……それは、何かの教えなのか?」
「教えと申しますか、幼い頃、口をすっぱくした父に叩き込まれた言葉です。今の私の拠りどころは、この言葉なんです」
 視線を夜空に向け、星月の明かりに目を細めながら、俺は言葉を続けた。
「私は望んで越後に来たわけではありません。晴景様に仕えていた理由は、ひとえに命を救っていただいた恩に報いるためでした。春日山にいれば、とりあえず衣食住の心配はしないで済むという打算はありましたが、乱世を終わらせたいという強い想いを持っていたわけではないのです」
 天道を駆ける景虎様に比すれば、我ながら小さいものだとため息が出そうになる。
 だが、景虎様は特に表情をかえることなく、俺の言葉に耳を傾けてくれていた。


 以前晴景様につけられた額の傷にそっと手をあてながら、俺は話を続ける。
「晴景様の信と、弥太郎や多くの兵士たちの奮戦のお陰で、私は春日山の将として名を知られるようになりました。でも、正直、天下のことなど見てはいなかったのですよ。ただ、晴景様と春日山の皆が平和に過ごせれば良いと、俺が考えていたのはその程度のことです」
 だが、そうこうするうちに事態は最悪の方向へ――晴景様と景虎様の対決へと移ってしまった。
 結果、俺は越後の半分を指揮し、景虎様と矛を交え、そして。



『私が譲ってやれるのは、私が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい』
『颯馬の力は、そなたの望みを果たすための強き力となり、颯馬の心は、暗夜を示す灯火となりて、そなたの天道を照らすであろう。これが、そなたのために何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ』



 転機というものがあったのだとすれば、その一つは晴景様の最後の言葉を聞いたあの時だろう。
 晴景様に誘われ、景虎様と手を握り合い、そして俺の主君が長尾景虎となったあの時。
「――私は晴景様が誇る将であり続けなければなりません。そして、景虎様を支えるだけの器を持たなければならない」
 だが、晴景様に対する想いだけで景虎様に仕えているわけではない。
 無論、敗軍の将たる身を無条件で受け容れ、厚遇してくれる景虎様には報いきれない恩があるが、それだけでもない。
 俺はそのことを口にし、さらにこう言った。
「恩や信義を別にして、私自身、景虎様の力になりたいと、そう考えているのです。この身に降り積もる名声を虚名と知ればこそ、それを真のものにすべく努力し、およばずながら、その天道を駆ける一助となりたい、と」


 晴景様の恩に報いる。景虎様の信義に応える。それらは俺にとって当然のことだ。それがこれまで春日山にとどまっていた俺の拠りどころでもあった。
 だが、今の俺にはそれ以外の気持ちもある。
 長尾景虎という人の力になりたい、という気持ち。恩や信義を抜きにして、ただこの人の力になりたいという願い。
 元々、その気持ちは俺の中でたゆたっていた。しかし、はっきりと自覚したのは武田家と対峙した後のことだ。


 俺はこれまで、ある意味で晴景様の遺言にすがって春日山にいた。
 長尾景虎……上杉謙信。歴史に不滅の名を刻むような人物に、俺などの力が必要とも思えなかったからだ。晴景様に言われたから――そう言えば、俺が景虎様の傍にいる理由になったのである。
 だが、武田晴信と対峙し、言葉と心を昂ぶらせ、琵琶を奏でる景虎様を見て、俺はようやく気づいた。俺の前にいる景虎様が、俺の知る上杉謙信という英雄ではないことを。いずれはそこに辿りつくにしても、今はまだその道の途上にいる人なのだということを。
 多分、これがもう一つの転機。
 もちろん、今のままでも景虎様は凡人の遠く及ばない場所を駆け続けているわけだが、それでも、努力と研鑽次第で、俺が景虎様の力になることも可能だろう。


 歴史上の人物だからといって、なんでもかんでも出来る超人ではない。そんな当たり前のことに、ようやく俺は気づくことが出来たのである。





 ――俺の言葉を聞いた景虎様は、何やらびっくりしたようにこちらを見つめるばかり。
  我ながらこっぱずかしいことを言った自覚はあったので、俺はその視線を見返すことも出来ず、そっぽを向くしかなかった。多分、顔中、真っ赤になっていることだろう。ああ、恥ずかしい。
 だが、それでも言葉を改めようとは思わない自分が、少し嬉しかったりもした。


「……天城殿」
「は、はい」
「これを」
 そう言って、景虎様が懐から取り出したのは扇(おうぎ)だった。
 突然、扇を差し出され、俺は思わず恥ずかしさも忘れて、扇と景虎様の顔を見比べてしまった。
「あの、これは?」
「そなたの芳心への、感謝の気持ち、だな」
 この時代、扇は風をあおぐという役割のほかに、儀礼や贈答用の道具としても用いられていた。またいつも持ち歩く物であることから、それを他者に与えるということは、それだけの信頼を意味すると考えられ、扇の贈答は武士の間では格別な意味を持つ。
 そのことを思い出した俺は、口にしかけた謝絶の言葉を寸前で押しとどめた。
 主君からの贈り物をつきかえすなど非礼きわまりない。兼続あたりに知られたら、脳天を叩き割られかねん。もっとも、景虎様の扇をいただいたと知られれば、それはそれでまずいような気もするのだが、それは考えないようにしよう。 


「あ、ありがとうございます。謹んで――って、おぅわッ?!」
 畏まって扇を受け取ろうとした途端、俺の口から悲鳴じみた声がもれた。
 手に感じた重さが予想外だったのである。
 思わず床に落としてしまいそうになったが、何とかその寸前に掴み取ることに成功する。
 しかし、両手で持ってなお、ずしりと重みを感じさせるとか、一体この扇、何なんだろうか。
 その俺の疑問に、景虎様はやや慌てたように答えた。
「す、すまぬ。それは鉄扇なのだ。かなりの重さゆえ、扱いには気をつけてくれ」
「あ、なるほど、そうだったんですか」
 俺は納得して頷いた。
 鉄扇――文字通り、鉄で出来た扇である。場所をとらず、持ち運びも容易なことから、護身具として用いられることもあるという。
 鉄扇なら、この重さも頷ける。
 とはいえ、それでも重い。しばらく持っていたら、手がしびれてきてしまいそうだった。


 扇を開いてみると、その中央に長尾家の九曜巴が刻まれている。
 家紋が刻まれた扇が、そう何本もあるとは思えない。どうしてまた、急にこのようなものを景虎様は授けてくれたのだろうか。
 だが、景虎様はそれ以上説明しようとはせず、再び琵琶をかきならした。
「……今一度、奏でたい気分だな。天城殿は……」
「そうそう、景虎様、その『天城殿』というのはそろそろやめにいたしませんか」
「む、何ゆえだ?」
 訝しげな景虎様に、俺は頬をかきながら答えた。
「私は景虎様の臣下ですし、景虎様がそうおよびになると、直江殿などもそう呼ばざるをえないので、いかにもいやそうな顔をされるんですよ。天城、もしくは颯馬と呼び捨てで結構ですので」
「ふむ……姉上の下から来てもらったのだから、問題ないとは思うのだが。天城殿が気になるというのであれば、改めることにしよう」
 そう言って、景虎様は琵琶を抱えたまま、小さく首をかしげ、やがて俺の名を口にした。
「では、颯馬、と。今後はそう呼ぶことにしよう。それで良いか?」
「はい、お願いいたします」
 俺が頷くと、景虎様も小さく頷きをかえし、そしておもむろに琵琶を奏ではじめた。


 その音色に耳をくすぐらせながら、俺はゆっくり瞼を閉ざす。
 先刻までは色々と張り詰めていた心が、いつのまにか穏やかさと余裕を取り戻しつつある。
 今ならば、武田に対抗する策を考え付くことも出来そうな気がした。
 とはいえ、折角の景虎様の琵琶を聞き逃す法はない。武田のことを考えるのは、この演奏が終わった後で十分である筈だった。



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