「……語るべきことは多々あれど、まずはお礼を申し上げます。敗残の身たるこの身を受け入れてくれた越後の厚情、この義清、終生忘れはいたしません……」
そういって、その女性――村上義清は深々と頭を下げた。
信濃葛尾城主にして、北信連合を率いて精強な武田軍と戦い続けた勇将は、またしてもというべきか女性だった。
腰まで伸びた髪は青みを帯びて黒く輝き、冷たささえ感じさせる冴え冴えとした美貌は見る者の言葉を奪う。
信濃の国人衆は、武田の侵略が始まるまでは互いに争いあっていた間柄。そんな国人衆を束ね、まがりなりにも武田軍とわたりあってきた義清がただものである筈はなかったが、しかしそれにしても、こんなに美人だったとは。なんというか、人間ではなく、妖精だの精霊だのを見ているような気分になってしまう、どこか幻想的な美貌だった。
聞けば他の国人衆は男ばかりだったというし、義清の体つきは一見したところ華奢で、体力があるようには見えない。連合を維持するのは相当辛かったのではあるまいか。
(いや、そんなことはないか)
俺は自分の考えを、自分で否定する。
考えてみれば、景虎様だとて、見かけと武将としての力量が一致しているわけではない。義清もまた外見とは関わり無く、秀でた力量を有する武将なのだろう。
そんなことを考えている間にも、春日山城の軍議の間では、義清による北信濃における武田軍との戦いが語られていった。
義清はあまり喋るのが得意ではないようで、所々で言葉を止め、考え込むように口を閉ざしては、再び口を開くということを繰り返している。
多くの配下と同志を討たれたのだ。口惜しくないわけがない。だが、義清の口調からはそういった恨みや憎しみを感じなかった。
義清が薄情である、というわけではない。非凡な意思の力で、無念を押さえつけているのだということを、この場にいる者すべてが察していた。
「さて……」
義清から武田侵略のあらましを聞き終えた越後側は、義清とその配下に部屋を与えて休んでもらい、その間に今後の方針をたてることとなった。
城主の席に座るのは、無論、越後守護上杉定実である。
傀儡であったとはいえ、長い間、守護職を務めてきただけあって、その姿には人の上に立つ者の風格が漂っていた。髪にも髭にも白いものが目立ってきているが、それは定実様の威厳を高めることはあっても、落とすことはないだろう。
定実様は万事に物腰の柔らかい方であり、侍女や警備の兵士などにも丁寧に対応する。それは多分にこれまでの立場から培われたものであろうが、城中の将兵や侍女たちにはかなり好評であった。
もっとも、定実様がいかに風格ある守護であるといっても、今、この場にいる者からみれば、いささか物足りなさを覚えてしまうだろう。
それは定実様の責任ではない。単に、定実様の左右に座す二人の人物の格が違いすぎるのである。
一人は言わずとしれた景虎様。
そして、もう一人は――
「甲斐の武田晴信。信濃からの噂はよく聞いていたけど、こんなに早く来るとはね。まあ越後での争いが終わった後っていうのがせめてもの救いか」
越後坂戸城主長尾房長の長女にして、現越後守護代長尾政景。
その政景様は薄い紅茶色の髪を揺らし、気難しい顔で腕組みをした。
本人的には深刻さを示したいのかもしれないが、見た目が小娘な政景様がそれをやると、なんだか中高生くらいの子供が無理して大人ぶっているようで、ちょっと微笑ましかったりする。
聞けば、政景様は景虎様より一年早い生まれだそうだが、お二人の成長具合を見比べると、どうしても首を傾げてしまう。特に胸とか腰あたりが……
「颯馬、何か言ったッ?!」
「は、は?! 何も言ってませんが」
「……じー」
「い、いや、睨まれても困るんですが。本当に何も言ってませんって」
「じゃあ、訂正。何か心の中で思ったでしょ。あんたの視線、おもいっきりあたしと景虎の身体に向いてた気がするんだけど」
「いや、なんというか、世の不条理を嘆くといいますか、神の気紛れにため息を吐くといいますか、そんな感じです」
「どうしてそういう感想があたしたちの身体を見て出てく……」
政景様の声がぴたりと止まった。
何か思い当たる節があったようで、その唇がひくひくと揺れた。
「今、あんたに対して殺意を覚えたわ」
「いわれなき害意に対して、この天城颯馬、断固として抗議いたしたく」
「守護代権限で却下」
「横暴なッ!」
「うっさいッ! 乙女をはずかしめて、ただで済むと思うなッ!」
ぎゃあぎゃあとわめき始めたおれたちを見て、定実様がため息を吐き、景虎様はくすりと微笑んだ。
控えていた定満はこくりこくりと船をこぎ、そしてわなわなと身体を震わせていた兼続は、ついに耐えかねたのか、無言で拳を振り上げ――
「ッ痛?!」
「いいかげんにせんか、ばか者ッ! 政景様は守護代の重職にあられる御身、本来ならば貴様ごときが抗弁することはおろか、口をきくことさえ憚らねばならんのだぞッ! あまつさえ景虎様の御身体に邪欲に満ちた視線を向けるなど言語道断!」
手加減なしの兼続の拳を受けたおれは、言葉を返すことも出来ず痛みにもだえるしかなかった。
唐突に口論を中断された政景は、どこかつまらなそうに口を閉ざす。
一方の兼続は、どうやらまだまだ言い足りない様子で、さらに口を開こうとしたが、それに先んじて景虎様が穏やかに仲裁の言葉を投げかけた。
「兼続、そう憤ることもあるまい。天城殿と政景様のやり取りはいつものことだろう」
「こ、これがいつものことというのが、そもそもおかしいのですッ! 景虎様も景虎様です。天城殿の不心得な行いに対し、罰の一つもお与えにならないから、こやつが調子に乗ってしまうのでしょうッ!」
「む、今日の兼続は血気盛んだな。だが、年頃の男性が女性の身体に興味を持つのは自然なことだと定満も言っていたぞ。まあ、私のような武張った者を見ても、何の興味もわかないとは思うが」
その言葉に、政景が思わず口をはさむ。
「……いや、それあんたが言うと、あたしの立場が……」
「おや、政景様、何か?」
心底不思議そうに首を傾げる景虎様に、政景がつまらなそうに「なんでもないわよ」と口にした。
「お二人とも、ですから問題はそこではなく、ですねッ!」
兼続が拳を振り上げ、俺の非を高らかにならそうとした途端、別人の声が軍議の間に響き渡った。
「……これから越後を窺ってくるに違いない武田家への対策をどうするか、ですね」
いつのまにか。
船をこいでいた筈の定満は、おいしそうに茶をすすりながら、あっさりと軍議の方向を修正してしまったのである。
同時に頷いた俺たちを前に、兼続は一人、振り上げた拳を下ろす場所を見つけられず、身体を震わせることに――
「って、痛ッ?!」
やたら良い音がして、兼続の拳骨がもう一回ふってきて、俺はもうしばらくの間、痛みに震える羽目になってしまった。
◆◆
「――さて、颯馬の貴い犠牲の下、ようやく軍議を進められることになったのだが……」
「いや、生きてます、定実様」
「黙ってお聞きしろ、ばか者ッ!」
再びやりあいかけた俺と兼続を見て、定実様は薄く笑ってこう言った。
「――二人とも、さすがにこれ以上は控えよ」
「は、ははッ!」
その笑顔に、何か底知れない畏怖を感じた俺たちは慌てて頭を下げるのだった。
長年の傀儡の座からようやく脱した守護上杉定実。
戦に敗れ、大きな勲功なくその座についた守護代長尾政景。
そして実質上の勝者であるにも関わらず、いかなる地位も望まなかった長尾景虎。
新しい越後の統治体制において重きをなす者たちの間には、明らかな隔たりがあり、その内心には猜疑と戸惑いが渦巻いているに違いない――そんな風に考えている者の数は少なくないだろう。
そして、その者たちがこの軍議の光景を見れば、おそらく口と目で三つの〇を形作るに違いない。
かくいう俺も、なんでこんな風になってしまうのかが今ひとつわからないのだが……まあこれも皆々の人徳の賜物でもあろうか。
「武田家に対して、どのように対するべきか。定満はどう考えておる?」
定実様の言葉に、定満はゆっくりと言葉を発した。
「武田家への対応は、義清様をどのようにお迎えするかによると思う。ただ身柄を受け容れるのか、それとも信濃の地を取り戻すのか。後者であれば、武田家とは戦うしかない。そして多分、義清様は次の時にその援助を求めてくる筈」
定満の言葉に、政景様が肩をすくめた。
「そうね、義清が所領を奪われて泣き寝入りするような奴だったら、武田の侵攻に刃向かうわけもないわ。信濃の所領を取り戻すために全力を尽くすは当然。そして、越後にその援助を求めるのも当然、か。その求めを受け容れれば、越後は新羅三郎義光以来の名家である甲斐武田氏を敵にまわすことになるわけだけど――ううん、義清を受け容れた時点で、もう敵に回しているようなものね」
政景様の言葉に、おれははっと表情を改めた。
武田家は信州攻略の名分を、躑躅ヶ崎の乱において信濃勢が甲斐に攻め込んだことへの報復であるとしている。これは事実に即するもので、だからこそ名分たりえているのだが、実のところ、信虎時代には甲斐の方から信濃へ幾度も兵をむけており、非が全面的に信濃勢にあるわけではない。
無論、晴信はそのことを知った上で信濃勢の侵略を声高に非難し、自軍の侵攻に正義の飾りをつけているのだろう。その理屈に異を唱えることは出来るが、しかし武田家の武威に抗することができない以上、それは負け犬の遠吠えに等しく、他家にも民にも説得力をもたないのだ。
そんな武田晴信であれば、越後の地を欲すれば、当然また適当な理由を見繕ってくるであろう。
否、その理由は、今まさに春日山城にやってきたばかりであることに、政景様の言葉で、ようやく俺は思い至ったのである。
「義清様は、武田家からの宣戦布告というわけですか……」
俺の呟きに応じたのは景虎様だった。
「そうだな。越後が義清様の求めに応じれば、当然、信濃に兵を進めることになる。それをもって越後の侵略と位置づけ、来る戦いに名分を添えようというつもりだろう」
「なるほど。仮に越後が義清様の求めに応じなければ、武田の信州経略を邪魔する者はおらず、民心を安定させて武田の支配を根付かせることが出来る。いずれに転んでも、武田家にとって損はない、というわけですね」
俺は感心したように頷いた。
ここまで頭が働くようになったのは、先日来、内政に関しても鬼のような数の案件を処理しつづけていたおかげであろうか。
俺はこれまで、一つの物事を進める時、その道筋が成功と失敗に分かれているのは当然だと思っていたが、真の巧者はいずれにおいても利を得るように動くのである。そのことを、景虎様や兼続、定満、政景らの行動を見ていて思い知った。
無論、万事が万事、そううまくいくわけではないにせよ、そういう視点を持てたことは大きな収穫だった。
そして、その視点で今回の武田家を見た時、そこにあったのは圧倒的なまでの自負であった。
おそらく武田晴信の目に、越後上杉家はほとんど映っていないのではないか、と俺は思う。
晴信は彼我の力量、国力、情勢などを鑑みて、その上で義清を越後に追い立てたのだろう――越後がどのように動こうと、武田家はそこから利益を掴み取ることが出来ると確信して。
傲慢と紙一重の、しかしそれは確かな実力に裏付けられた自信であり自負。
自家の力、自身の力、家臣の力、それらを完璧に把握した上で、晴信は越後に向けてこう言っているのだ。
好きなように動け、と。
どのように動いてもかまわない、その全ては私の掌の上なのだから、と。
「……ふん、大した自信だこと。越後もなめられたものね」
俺と同じことを考えたのだろう。政景様が小さくはき捨てた。
だが、すぐに表情を改め、言葉を続ける。
「颯馬は、義清殿が武田家からの宣戦布告と言ったけど、そうだとすると和睦や友好の道は探るだけ無駄ね。向こうはすでにやる気だってことだし」
景虎様は何事か考えながら瞑目していたが、政景様の言葉に首を縦に振って賛同の意を示す。
「政景様の仰るとおりです。信濃での戦いを終えたばかりの武田が越後に兵を入れるとは思えませんが、しかし国境の防備が手薄と見れば、どう出るかは不分明です。義清様のお言葉を聞く限り、武田晴信の政戦両略、おそるべきものがございますゆえ」
そして、景虎様は定実様に向かって頭を下げた。
「お願いしたき儀がございます。栃尾の兵をもって国境の守備を固めるご許可をいただきたく」
定実様が驚いたように目を瞠る。
「む、景虎みずから行くと申すのか?」
「御意。武田家に対して、越後を侵さば相応の報いがあることを示すべきかと存じます。それに、かの孫子の旗印というものを、一度、この目で見てみたく思いまする」
景虎様の言葉に、政景様が口をはさむ。
「あ、それなら私も――」
「駄目です」
「即答ッ?!」
景虎様に一蹴され、愕然とする政景様。どっちが守護代なんだろうか。
「政景様が春日山城を離れてしまえば、人心が動揺してしまいましょう。今の越後はまだまだ不安定です。守護、守護代、いずれも安易に動くべきではございますまい」
「む、そう言われると返す言葉もないけど……景虎、まさか自分が好き勝手動けるように、責任の重い役目を私に押し付けたわけじゃないでしょうね?」
その言葉を受け、つっと景虎様の視線がかすかに泳ぐのが見えたのは……たぶん、気のせいだろう。うん、多分。
「……ご許可いただけましょうか、御館様」
「無視ッ?!」
「よかろう、長尾景虎、ただちに信州との国境を固め、武田の野心を掣肘せよ」
「御館様までッ!」
「承知仕りました。定満、兼続、それに天城殿も同行してもらえるか?」
「うん、わかった」
「承知いたしました」
「お供いたします」
「あんたたちもかッ?! というか、春日山の政務を私と御館様の二人で何とかしろと?! って、こら待ちなさい、無言で席を立つな、背を向けるな、あの量の仕事を二人でどうしろっていうのよッ!!」
後ろの方から何やら甲高い叫びが聞こえてくるが、気のせいだろう、うむ。
俺が頷いていると、めずらしく兼続の方から話しかけてきた。
「……天城殿、一つ問いたいのだが」
「なにか?」
「晴景様がいらした時、春日山の軍議はこのような形だったのか?」
「まさか。もっと重々しいものでしたよ」
「……やっぱりそうよね」
はぁ、と何やらしみじみとしたため息を吐く兼続。
一方の俺はというと、色々な意味で口をはさめる立場ではなかったので、苦笑を浮かべながら頬を掻くことしか出来なかった。
◆◆
信濃旭山城。
今回の遠征で新たに武田の領土となった北信濃各地の事後処理を終えた武田晴信は、旭山城の城主の間で、今、手元の書状に目を落としていた。
短くも激しかった城攻めの爪痕が各処に残る旭山城であったが、すでに武田家に刃向かう輩は城内のどこにもいない。
彼らはいずれも冥府に旅立ったか、あるいは城外に逃れ北へと向かったのである。もっとも、そのほとんどは、やはり冥府への道を辿ることになったのだが。
「御館様、先刻より熱心にその書状をご覧になられているようですが」
主君の傍近くに侍る真田幸村が訝しげに問いかけた。
前述したように、すでに城内に武田家に敵対する勢力は存在しない。
晴信は北信濃の民心がある程度落ち着くのを待って甲斐へと戻るつもりであり、諸将へも遠征の疲れを癒すように命じている。それゆえ、幸村が晴信の護衛をする必要はないのだが、幸村は、落城まもない城では何が起きるかわからない、と主張して晴信の傍から離れようとはしなかった。
「越後の内乱の詳細を記したものです。さきほど、勘助が持ってきたところを、あなたも見ていたでしょう、幸村」
「は、はい。ですが、他国の内乱などに何故御館様がさように熱心になられるのかと、それが気になりまして」
「熱心? 幸村の目には、私はそのように映ったのですか?」
「はい――も、もし誤りであったのなら、申し訳ございませんッ」
幸村はそういって頭を下げようとする。
主君である晴信は、配下であれ誰であれ、他者に己の内心に立ち入られることを極端に嫌う。そのことにようやく思い至り、己の失態に顔から血の気が引く思いだった。
だが、一方の晴信はくすりと微笑むだけで、特に気を悪くした様子は見せない。
常にない主の様子に、幸村は戸惑いを隠せなかった。
「熱心……そうなのかもしれません。あるいは良き敵手と出会えるかもしれないと思い、心浮き立つ思いがあるのは否定できませんね」
「良き敵手、でございますか。御館様とまともに戦いえる相手などいるとは思えません。まして越後などに」
迷いなく断言する幸村に、晴信はやや厳しい視線を向ける。
「幸村」
「は、はいッ」
「己の武に自信を持つのは良い。武田の強を自負するのも良い。けれど、それと他者を侮ることはまったく別のものです。侮りは慢心を生み、慢心は隙を生じさせます。隙があらば、童子でさえ大人を破ることもできましょう。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすといいます。真の武将とは獅子の如き武士を指すのです。そして、私は凡百の武士千人よりも、真の武士一人をこそ配下に得たいと思っているのです」
晴信は一度言葉を切ると、手に持っていた軍配で幸村の肩をとんと叩いた。
「私の期待、裏切らないでくださいね、真田幸村」
「は、ははッ! 浅慮を申しました、お許しくださいませ!」
「わかれば良い」
満足そうに微笑む晴信に、平伏していた幸村は思い切ったように問いを向けた。
「御館様、一つ、お聞きしたいことがございます」
「なんでしょう?」
「御館様はこの城を攻める前に山本殿に尋ねておられました。越後の長尾景虎が、越後の実権を他者に譲りわたしたのは、計算か、それとも律儀からか。もし計算の上であれば、遊戯の相手くらいは務まるかもしれない、と」
幸村の言葉に、晴信は頷いてみせる。
「ええ、確かに言いましたね」
「しかし、山本殿は律儀からだと申されておりました。であれば、此度の越後内乱における実質的な勝者である長尾景虎でさえ、御館様にとっては遊戯の相手にすらなりえぬということではないのでしょうか。一体、何者が好敵手となると仰せなのでしょう?」
晴信は幸村の問いに対し、ふむ、と頷きながら、軍配で口元を覆い隠す。
そして、おもむろに口を開いた。
「幸村、たしかに私は景虎とやらが計算づくで進退を行ったのであれば、遊戯の相手になるといいました。遊戯とは命をかけることなき童(わらべ)の遊び。すなわち、景虎がその程度の小癪な策略を用いるのならば、越後との戦い、武田の家の命運を賭す必要のないつまらぬものになるだろうということを言いたかったのです」
「そ、そうだったのですかッ?! では、景虎が心底から動いたのだとすれば――」
「ええ、清流の如き、と勘助はいったけれど、人は汚泥のごとき乱世にあって、心の内で清く正しき義を求めるもの。景虎が越後でそれを体現しているのだとすれば、越後との戦、長引くことになるかもしれません」
「し、しかし、御館様が景虎めに劣るとは思いませんッ」
幸村の真剣な眼差しを受け、晴信はすこし面映そうであった。
「その言葉は嬉しく思います。けれど私のそれは計算づくです。心から正義や道理を遵守しているわけではない。必要とあれば計略も策略も私は用います。それはこの戦乱の世にあって当然のことと思っていますし、また事実そうなのですが――」
晴信は続けてこう言った。
もし、景虎がその戦乱の理に真っ向から刃向かおうとするのであれば、私よりも景虎の方に魅力をおぼえる者は少なくないでしょう、と。
幸村は憤然と首を左右に振った。
「そ、そのようなことはッ」
「あるのですよ」
対して、晴信は冷静そのものといった様子で、言葉を続けた。
「さきほども申しましたが、人は心底では清純なものを求めます。私と景虎、人としていずれが清く正しいかなど計るまでもない。そのようなお人よし、この乱世で家を保てる筈もなく、群雄割拠する世に生き残れる筈もなしと考えていましたが、現に景虎は私の前に立ちはだかろうとしている。人として清純なものを抱えながら、乱世を風靡せしめるほどの才を内包しているのだとすれば、長尾景虎、恐るべき相手になるでしょう。この私と、武田の家の命運を賭さなければ勝利がおぼつかないほどのね」
そう言うと、しかし、晴信は落ち着きを失わぬままに微笑みを浮かべた。
「無論、負ける心算などかけらもありませんが。幸村とて同じでしょう?」
「も、もちろんですッ、景虎めがどれだけの武を誇ろうと、この真田幸村、断じて退きはいたしません」
「頼りにしていますよ。あなただけではない、山県、馬場、内藤、春日、山本らの五将、そして彼らに次ぐ二十将、さらにはその配下にいたるまで、武田の精鋭が力を合わせれば、かなわざる者などこの日ノ本のどこにもいないでしょう」
「御意にございますッ!」
幸村が退出し、一人になった晴信は手に持っていた書状にもう一度、目を向ける。
そこには、先の報告にはなかった越後内戦の詳細が綴られていた。
幸村に語ったことに偽りはない。長尾景虎への警戒は、晴信の心に確かにある。
だが、幸村に語らなかったこともあった。
それは。
「……長尾晴景が将の一人、天城颯馬。猛将柿崎を水計で葬り、長尾景虎をして春日山城に誘導せしめ、城郭と、自身もろとも焼き滅ぼさんとする、ですか」
一時は滅亡寸前にまで追い込まれていた春日山長尾家を立て直した若き将。
その出自は農民であるとも、流れの軍配者であるとも言われており、越後国内では随分と評判が高いらしい。その功績を見れば当然とも言えることだが、しかし、その派手な勲功よりも晴信が注目したのは、越後内戦における天城の戦ぶりであった。
長尾景虎の鋭鋒を避けながら、大兵力の利を活かして、真綿で首をしめるかのように栃尾勢を追い詰めていった戦ぶりは、日ノ本ではほとんど見ることのないものだ。
最終的には配下の無理解と、与えられた権限の限界が枷となって失敗に終わり、春日山城もろとも敵将を討つという博打じみた奇策にはしらざるをえなかったようだが、もしはじめから天城に戦場のみならず、戦そのものを構築する権限を委ねていれば、あるいは長尾景虎は今頃栃尾城で篭城している最中であったかもしれぬ。
「幸村にはまだその凄みはわからぬでしょうから、あえて言いませんでしたが――面白いですね。昌景も言っていましたが、まるで唐の戦でも聞くようです」
与えられた戦場で力を振るえる将は数多い。だが、自らの手で戦場を構築できる将のなんと少ないことか。武田家にあっては、晴信を除けば、山県、山本の「両山」くらいであろう。
その将が敵にいる。
しかも、長尾晴景が死んだ後は景虎に仕えているという。
長尾景虎の武威と、天城颯馬の戦略。その二つがかみ合わさった時のことを考えると、晴信は身体の震えをおさえることが出来なかった。
恐怖である筈はない。それは、かつてなき敵手があらわれたことへの歓喜に他ならぬ。
「すぐに逢えるでしょう。待っていますよ、我が宿敵となるであろう者たちよ。はや国境を固めねば我が旗が越後へ到ること、気づかぬそなたたちではないでしょう?」
誰一人いない室内で、軍配を握りながら、武田晴信は小さく笑みを浮かべた。
花咲くような少女の笑みは、同時に来るべき戦いを待ち望む戦神の微笑でもあったのである。